2023/05/26 - 2023/06/07
95位(同エリア482件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2023/05/26
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車での移動
自家用車で香山園駐車場へ
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車での移動
香山園から乗福寺へ移動
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乗福寺
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琳聖太子供養塔
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大内弘世公墓所
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乗福寺山門
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乗福寺本堂
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山口十境詩 南明秋興
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車での移動
大内氷上へ車で移動
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氷上山興隆寺
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北辰妙見社
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興隆寺梵鐘
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山口十境詩 氷上滌暑
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山王社跡
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この旅行記スケジュールを元に
現在の山口市を首府として最大版図は7カ国という当時としては日本一の守護大名であった大内氏。領国経営以外に朝鮮貿易や明との勘合貿易で財を成し、最も豊かな大名として当時の公家や文人に知れ渡っていた。
応仁の乱で荒廃した京都から花咲く西の都と呼ばれた山口に多くの公家や文化人が訪れて文化の花が咲き誇っていた。
そのような山口はいつの間にか西の京と呼ばれるようになった。
財力の他に特記すべきは優秀な大名が続けて現れたという事だろう。
山口の町造りをし防長二州を統一した大内弘世。倭寇討伐の功により明との勘合貿易、朝鮮貿易を許され、南北朝統一の立役者となった大内義弘。兄義弘の遺言を守り室町幕府の追討軍を撃破して領国を守り抜いた大内盛見、西軍の実質的大将軍で管領細川勝元率いる東軍を撃破して応仁の乱を収束させた大内正弘。
元将軍足利義稙を山口で庇護し中四国・九州の諸大名からなる大軍を率いて幕府軍を撃破。再び義稙を将軍に据えて京都の治安を守り続けた大内義興。
そして大内氏最後の大名。7カ国を領有し当時としては日本一の守護大名で明や朝鮮との貿易を一手に引き受け銀山も所有、財政は豊かで戦国の世に平和を求めて大内文化の華を開かせ平和の世を築こうとした大内義隆など、そうそうたるメンバーが揃っていました。
大内氏の滅亡とともに大内文化は輝きを失い、神社・仏閣は管理されないままに放置されて劣化しました。
強者どもの夢の跡とは正にこの大内氏を指して言う言葉にふさわしいのではないかと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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山口市内には国宝五重塔が立っている香山公園があるが、公園の一角に武将の騎馬像が建てられている。
この武将の名は大内弘世、大内氏24代で国府を山口市大内村から現在の山口中心部に移し、山口開府を行った人物である。
大内弘世は大内氏惣領家の基盤を確立するため北朝から南朝に鞍替えし、北朝から周防(山口県の東半分の地域)守護に任じられていた大内氏の分家鷲頭家を滅ぼして周防の国を統一、南朝から周防守護に任じられた。
次の目標は北朝方で長門(山口県の西半分の地域)守護の厚東氏(物部大連守屋の子孫で防長の名族)を打倒することであった。
大内弘世は南朝の常盤親王を奉じて厚東氏の本拠地霜降城を陥落させた。
長門守護の厚東義武は豊前国へと落ちていき、ここに周防・長門防長二州の統一をなしとげた。
山口の町づくりは市内を流れる一の坂川を鴨川に見立て、京都の町に似せて通りを造り、○○小路など京風の通り名を付けた。
京都のように町を碁盤の目状に造ることは不可能だったが、一の坂川に沿った地形に合わせた町づくりがなされた。
さらに通りの角ごとに京都から連れてきた童たちを配置して京言葉を話させ、町人に京訛りを覚えさせたりしている。
また京都の主要な神社の分霊を勧進していくつかの分社を建立している。
やがて山口は西の京と言われるよう繁栄した町に成長して行くのであるが、すべては弘世の山口移転から始まったのである。大内弘世公之像 公園・植物園
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大内氏の始祖は源氏でも、平氏でも、藤原氏でもない。
百済の第26代聖明王の第三王子である琳聖太子である。つまり朝鮮半島の渡来人で帰化人という事である。
その由来は陰徳太平記にも記されているが、推古天皇19年(611年)に百済から琳聖大使が聖徳太子に会うためにはるばるやって来た。
琳聖大使は深く仏教に帰依していて、ある時倭国にいる聖徳太子は観音菩薩様であるというお告げを夢に見た。是非有難い聖徳太子にお目にかかろうと倭国にやって来て周防の多々良浜(現在の山口県防府市)に上陸した。
琳聖太子が目指す場所は摂津国の天王寺であるため陸路を進み、無事天王寺に到着して聖徳太子に謁見することができた。
聖徳太子も信心深い太子が遥々来てくれたことを喜び、多々良姓を名乗ることと周防国大内県(おおうちあがた)に領地を与えた。
これにより大内県を領地としてここに永住し、代々の子孫が多々良姓を名乗っていった。
さてこの始祖が琳聖太子であるという話、学者の間では多分に創作であるという意見が多い。根拠となるのは琳聖太子なる人物の記録が朝鮮にも日本にも無いという事である。朝鮮や日本で記述がみられるのは室町時代になってから。それ以前の時代に存在を実証する資料が無いのだ。
では何故大内氏は百済の王子を祖先とする必要があったのだろか。
室町時代の始め頃、倭寇に悩まされていた明と朝鮮は日本国に倭寇を退治してくれるよう使者を送って来た。この要請に応えて倭寇を退治したのが大内義弘だった。
大内義弘は朝鮮国王に倭寇退治の恩賞として朝鮮国の領土の一部分割と朝鮮貿易を要求している。自分が百済の王族の子孫であることを根拠としてこの交渉を有利に導こうとした節がある。大内氏は朝鮮国の帰化人であるため百済の故地に田地を賜りたいとの意向を伝えた。この交渉の手段として琳聖太子という人物が使われたのではないかと今では考えられている。
国土の分与は家臣の反対で成就しなかったが、朝鮮との交易は大内氏が独占することになった。
さて大内氏の系譜であるが元々大内県に居住していた周防国衙(現在の山口県防府市)の在庁官人で平安時代末期には16代多々良盛房(大内盛房)が周防で最有力の実力者となり「大内介」に任じられた。その後盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲した。17代弘盛からは周防権介を称するようになった。
鎌倉時代になると大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な支配者となった。
そして鎌倉御家人として六波羅探題評定衆に任命されている。
建武の新政時には周防守護職に任じられ、新政後は北朝側について足利尊氏を支援。尊氏が京都から敗走して九州に落ち延びた時に再び北朝から周防守護職に任じられた。
その後大内一族の中で内訌が発生、大内氏当主23代大内弘幸は一時的に南朝に帰順し息子弘世とともに分家の鷲頭長弘討伐にのりだし、弘世の代に鷲頭長弘を下した。
以後は各当主ごとに旅行記を進めて行きます。
ここは山口市大内にある乗福寺の墓地の一画である。ここに琳聖太子の供養塔がある。
供養塔は約2メートルの高さである。この墓地には大内弘世の墓もあった。 -
これが大内弘世公の墓である。
宝篋印塔が多いがこのような墓は珍しい。初めてこのような形状の墓を見た。 -
大内弘世の右横には22代当主大内重弘の墓がある。
鎌倉幕府の御家人で六波羅探題の評定衆を務めていた。周防国衙在庁の軍事・警察県を独占的に支配していた多々良氏(大内氏)一門の族長的存在として在庁官人の名手的立場にあり、元寇(弘安の役)では軍を率いて元軍と戦った。 -
琳聖太子他二人の殿様の墓の説明板。
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これらの供養塔や墓があるのが臨済宗南明山乗福寺(乗福禅寺)。
この寺の創建は鎌倉時代の終わり頃、22代大内重弘によって開基されている。死後は大内重弘の菩提寺となった。だから重弘公の墓があったんだと納得。
この寺は建武元年(1334年)に勅願寺、建武5年(1338年)に諸山昇格、貞和元年(1345年)に周防国利生塔となり、後には十刹に昇格した周防国の名刹である。
入り口には大きな石碑と広い駐車場がる大きな寺と思いきや・・・・。 -
乗福寺は大内文化華やかなりし頃の三大寺院と呼ばれた寺の一つである。
一つは大内氏の氏寺興隆寺、今一つは大内時代に多くの僧房と五重塔が立っていた仁平寺。五重の塔は国宝五重塔とは異なる塔で、大内時代には五重の塔が2棟あったことが分かっている。
乗福寺もこれらと同じような規模を持つ大寺院だったが、目の前に映る寺院は小規模な寺だった。
しかも土塀は崩れかけていて、現状は余りにも酷い状態だった。
大内時代や毛利時代の寺は時の権力者の手によって保護されていたため檀家の無い寺だったのだ。
これらの寺の多くが大内氏滅亡に伴い荒廃していったが、乗福寺はある特殊事情が加わり荒廃を加速させてしまった。
その特殊事情とは関が原で西軍の総大将に収まりながらも、徳川家康に寝返っていた一族の吉川広家が南宮山の麓に布陣して毛利勢の参戦を阻止したため結果として西軍は大敗北を喫した。毛利勢は戦いには参戦しなかったものの西軍の総大将になったことをとがめられ、防長2州に減封された。その時の当主毛利輝元がある暴挙に出たのである。
それは大内氏の遺産を手当たり次第に破壊したことだった。まず25代大内義弘の菩提寺香積寺が破却されて木材は萩に持ち去られた。多分萩城建築の資材として使用されたものだと思われる。
同じ敷地にあった国宝五重塔も破壊されようとしたが、これは山口町民や近隣の百姓たちが反対して団結、一揆が起こる寸前までになったため毛利側が折れて破却を免れた。
しかし乗福寺の大部分の伽藍や寺の建物は解体され他家へ譲り渡されてしまった。譲り渡した先は福岡の黒田藩。こともあろうに徳川家康の手先として働き、豊臣恩顧の大名を東軍に寝返らせた張本人だ。一族の吉川広家はその言葉にまんまと騙されて本家の領地110万国石を39万石にまで減封されてしまった。
毛利輝元が西軍の総大将から防長2カ国の大名に転げ落ちたのは、この黒田長政のせいなのだが、何とその黒田家にただでくれてやったと言うのであるから呆れて物が言えない。
萩城の建築用材に使うならまだしも、頼まれたから他家に上げちゃったでは済まないだろうと思う。
一体この見返りは何だったのだろうか。黒田長政は豊臣恩顧の武将を徳川家康に寝返らせた張本人である。輝元が8カ国の太守から僅か2カ国に減封されたのは黒田長政のせいなのに、その黒田にわざわざ大内氏の遺産を解体してくれてやるとは何と愚かな御仁だとあきれ返ってしまう。毛利輝元のバカさ加減にはほとほとあきれ果ててしまう。
毛利輝元の愚行はこれだけではない。国清寺にあった経蔵まで徳川家康にあげてしまったような人物なので、壊すことも他人に譲ることも何のためらいも無くやってしまうお方だったのだろう。しかも文化的素養も文化遺産を見極める目も持ち合わせていない人物だったと推測できる。
国清寺には大内盛見(もりはる)が大切に保管して来た大内家のお宝、大蔵経があったがこれも惜しげも無く三井寺に毛利輝元の名で寄進している。この馬鹿大名は他家の大切なお宝なのにいとも簡単に他家にくれてやっているのだ。
大蔵経は大内義弘公が倭寇退治と、倭寇に奴隷として日本に連れ去られた朝鮮人を救い出して朝鮮国に送り返した見返りとして製作を依頼していたもので、弟の26代盛見(もりはる)公の時にやっと手にすることができた大内氏のお宝中のお宝なのだ。
毛利のお宝ではないし、他人の物なので自分は痛くも痒くもないといったところだったのだろう。
まあ、毛利輝元なる人物は優柔不断で歴代毛利家の当主としては最も出来の悪かった当主だったから、ある意味仕方が無いかもしれない。
なお乗福寺建築用材は博多の崇福寺というお寺に転用されている。 -
乗福寺の建築用材の譲り渡しにはまだ続きがある。
毛利輝元は流石に歴史と伝統ある乗福寺が無くなるのはまずいと考えたのだろう、乗福寺の塔頭だった正寿院を乗福寺としたのだ。
これにより乗福寺はかつての一塔頭の規模にまで大きく縮小されてしまった。これが現在の乗福寺である。
寺の名前は残そうとしてくれたのに、何故建物は惜しげも無く譲り渡したのかその理由が益々分からない。
このような理由があってかつての大伽藍は無いのだが、入り口の壁の荒廃は余りにも無残である。
明治の廃仏毀釈で荒廃したのかもしれないが、檀家のいない寺の経営の苦しさを思い知らされた気がした。 -
寺の入り口門と荒廃した土塀。
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こんなにも荒廃している寺も市内では珍しいのではないだろうか。
大内時代の由緒ある寺なので市の文化課か観光交流課で予算を組んで補修して貰えないものだろうか。 -
右の土塀も亀裂がはいり表面の漆喰は崩れ落ちていた。
大内氏や毛利氏から庇護を受けて寺はほとんどが檀家を持たない寺だと聞いた。
これらの寺は寺の維持費をどうやりくりしているのだろうか?現在まで維持できてきたことが不思議でならない。昼間はどこかに働きに出て兼業しているのだろうか?
明治初期の廃仏毀釈を良くしのいできたものだと感心する。 -
右土壁の下に石塔が並んでいる。新しいもののように見えるが墓だろうか?
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乗福寺には山口十境詩の碑文があった。
山口十境詩とは明国皇帝洪武帝の使節として日本に来朝した明使趙秩(ちょうちつ)が山口に滞在していた時に詠んだ10か所の景勝地の漢詩。
趙秩は日本に2度来ているが十境詩は2回目に来朝した時に詠んだものである。
趙秩は明国皇帝洪武帝から国交締結(朝貢の要請)と倭寇の禁圧の要請のために来朝した。来朝した時は時あたかも南北朝動乱の真っただ中、明国皇帝の指示は征西府(大宰府)を抑え九州に覇を唱えていた南朝の大将軍(懐良親王)に国書を渡して国交を締結することだった。
趙秩に関しては懐良親王との激烈なやり取りや感動的な物語があるのだが話が長くなるので大部分を割愛して簡潔に話を進めて行く。
訪れた時が南北朝の戦の真っただ中だったため、あろうことか明国の使節が囚われて博多の承天寺に監禁されてしまった。
この趙秩を助け出したのが大内弘世公である。趙秩の難儀を大内弘世公に知らせて救助を求めたのが博多の僧春屋妙葩(しゅんおくみょうは)。
妙葩は趙秩が1回目に日本に来朝した時から趙秩と知己の間に合った僧、大内弘世公とも親しく、この危機を救ってくれるのは大内弘世公以外には無いと思いご注進に駆け込んだ。
大内弘世公は趙秩を大内館に丁重に迎え入れ、山口古熊にあった大雄山永興寺の西庁日清軒に住まわせた。
趙秩は1372年から1373年秋まで山口に滞在し、その時に十境詩を詠んだ。この十境詩は趙秩が助けられた弘世公に恩義を感じて詠んだとも、弘世公が要望したとも言われてきたが、近年では要望したとの見解で一致している。
前置きが長かったがこの漢詩は南明山乗福寺の秋の風景を詠んだものである。。
題は南明秋興。
金玉楼台擁翠微 南山秋色両交気輝 西風落葉雲門静 暮雨欲来僧未帰 -
書き下し文
金玉の楼台翠微を擁し 南山の秋色、両つながら輝を交ふ(ふたつながらきをまじふ)
西風、葉を落として雲門静かなり 暮雨、来たらんと欲して僧未だ帰らず -
南明の秋興の由来(この詩は南明山乗福寺の秋景色を詠んだ詩である。詩の意訳は郷土史家荒巻大拙氏による。)
金銀珠玉をちりばめた高い建物は青々とした山に囲まれて、乗福禅寺の秋景色は楼台と翠微の色どりが互いに照り映えて美しい。折から一陣の秋風が吹いて、木々の葉は舞いながら境内に散り敷いて、山門のあたりはひっそり静まり返っている。
夕暮れの雨が降りそうな気配がしているのに、住持は明国に渡ったまま帰って来る気配がない。
銅板の意訳は「寺の和尚は未明になってもまだ帰って来ない」と意訳してあるが、
荒巻氏と山口大学教授田英氏の共著「明使趙秩とその山口十境詩」に載せられた訳にここでは従った。
確かにこの寺には多くの青もみじがあった。秋の紅葉のシーズンになればさぞ見事であろうことが想像できた。ここは隠れた紅葉の名所に違いなく、秋に再びここを訪れて隠れた紅葉寺の旅行記を作ろうと心に決めた。 -
乗福寺の本堂である。
寺の伽藍の大部分の建物は毛利輝元によって福岡黒田藩に譲渡されたため、今残っているこの本堂は塔頭であった正寿院の建物である。
寺の規模は往時の伽藍を想像すらできないほどの小ささではあるが、大内時代の大寺院の名残に相違はない。 -
本堂には南明山の扁額が掛けてあった。
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本堂の左横は寺の庫裏。寺の規模に応じた小さな庫裏だった。
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本堂の右周りに進んで行く本堂の後ろに墓地があった。
墓地の向かって右側にあるのが琳聖太子の供養と大内弘世公、大内重弘公の墓所。 -
墓所の入り口には神社の鳥居が・・・。
これは神仏習合の名残。山口市内の寺にはこのように神仏習合の名残が残っている寺院が多い。 -
神として祀られている訳でもないのに墓所の前に鳥居があると違和感がある。
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琳聖太子の供養塔はこうして見るとかなりの高さであることが分かる。
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次は大内氏の氏寺である興隆寺を訪ねることにした。
写真は氷上山興隆寺の参道。参道沿いに妙見社と刻まれた2基の常夜灯があるがその奥にあるのも常夜灯。
いずれも近郊の村人や分限者から寄進されたものである。 -
妙見社というとグーグルの地図では興隆寺の北に妙見社上宮跡と表示されたところがあるがこの神社の常夜灯であろうと思い歩を進めた。
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車を道なりに走らすと大きな鳥居がある所にやってきた。
ナビはここが興隆寺だと指示している。
中央に赤く見える屋根が神社のようだ。その左横にあるのはお寺の鐘楼じゃないか。
ここが興隆寺だとすれば、ここも神仏習合の名残なのか・・・。 -
駐車場に車を止めてともかく近くに行って見よう。
写真は無いのだが、この駐車場とてつもなく広い。ここまで寺の敷地だったとしたら往時の寺の境内はとても広かったに相違ない。 -
中央にある建物はまぎれもなく神社様式。
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寺の境内の入り口には氷上山興隆寺並びに北辰妙見社の補修の募金依頼の説明板があった。
これによると北辰妙見社の屋根が雨漏りしておりその修復の募金を募っているとのことだった。
氷上山興隆寺も檀家を持たないお寺のため寺の修復まで手が回らないのだろう。 -
氷上山興隆寺と北辰妙見社の説明。
この説明を呼んでいただければこの寺社が神仏習合となった経緯などが分ると思うが少し補足しておきたい
興隆寺は大内氏始祖琳聖太子が推古天皇21年(613年)に建立したと伝えられるが、琳聖太子そのものが実在した人物とは考えられていないため、あくまで伝説と捉えた方が正しいと思う。
そうするといつ誰によって建てられたかだが、これを記した記録が残されていない。
しかし寺を建立するという事は膨大な財力が無いと成しえない事業であるから、これからある程度推測することができる。
興隆寺は平安時代後期にはすでに存在していたので、その当時の権力者というと平安時代の後期に「周防介」に任じられた周防で最大の実力者16代多々良盛房が考えられる。次の17代大内弘盛も周防権介と名乗った実力者であり、この親子の時代に建立されたのではないだろうか。
次に北辰妙見社、北辰とは北極星を守星として敬う天帝思想の神と密教が集合し、真言宗では北辰妙見大菩薩と呼ばれる。
先祖伝説によれば始祖琳聖太子を守護するために妙見菩薩が降松(下松)に下りたことになっている。
物語の下りはこのように・・・。
昔鷲頭荘(現在の下松市)の鼎の松に七日七夜、星が降り輝き。神童(妙見菩薩)が下りたって「3年後に百済の王子琳聖太子が訪れる。この国の災難を取り除くためである。皆々それに従うべし」と宣言すれば、土地の者達がいたく感動しその地の桂木山に神童(妙見菩薩)の社を建てた。そうすると社が輝いて船が航行するのを悩ませたという。そのため社を近くの高鹿垣山に移すとさらに光って目が開けられない。そこで鷲頭山に移すと漸く航行できるようなった。
そこでこの場所を星が降りた松として降松(現在の下松)と名付けたそうだ。
この降松妙見社をこの地(山口市大内)に勧進したのが11代大内茂村。茂村は妙見社上宮、下宮を建立し、大内氏の氏神として厚く崇敬した。
これにより氏寺・氏神が合体した氷上山は大内氏歴代当主と家臣達にとって神聖不可侵の領域となった。 -
北辰妙見社と興隆寺本堂(中興堂)。
大内氏全盛の時代には興隆寺には本堂、東西二塔、鐘楼、護摩堂、輪蔵、経庫などの他に北辰妙見社の上宮、下宮、山王七社などの建物があり、参道脇には多くの僧房が建っていたそうである。
大内氏滅亡後は毛利氏が興隆寺や妙見社の崇敬を継承し、二月会という妙見社の大祭を大内氏に引き続いて執り行って、伽藍の再建、修復に努めた。
江戸時代には中興上人行海和尚が伽藍の修復に努め衰微した寺を復興させた。
しかし明治になると藩主の保護が無くなり、廃仏毀釈以降寺領も無くなり衰微の一途をたどることになる。
その間多くの建物が他の寺に移築されたため往時の面影は無くなってしまった。 -
興隆寺本堂(中興堂)である。
江戸時代中興上人行海和尚によって建立されたお堂で中には釈迦三尊像が安置されている。
釈迦三尊像は普段は目にすることができない。 -
内部にある釈迦如来像は屋、山口市の指定文化財に指定されており、写真はその説名文。
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中興堂を右斜め前から眺めた写真。
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北辰妙見社を横から眺めてみた。
写真左は拝殿、翼廊、本殿と続く。
北辰妙見社の社殿は江戸時代に毛利氏によって再建された。妙見社の大祭が二月会である。東大寺の修二会を擬した盛大なもので五十七部の童舞、武芸試合が行われた。
武芸試合は騎射(流鏑馬)、歩射、刀剣に分かれて覇を競った。
亀童丸と命名された当主の嫡男が元服の年には二月会で童武者行列が行われ、亀頭丸は妙見社上宮に参詣した。
童武者行列に参加できたのは言葉の通り童だけである。亀頭丸を先頭に守護代や重臣、家来の長男童だけが参加できる大内氏にとって重要な行事だった。
上宮参拝は凍てつく2月の夜である。興隆寺を発した童武者たちは松明に火を灯し行列を組んで下宮まで歩く。
それまで付き従った家臣の童たちは下宮で亀童丸を送り出し、亀童丸が上宮参拝し下山するまでここで待つのである。
大人たちは寄せない子供たちだけの世界、子供たちだけの祭り、子供たちだけの儀式がはじまるのであった。
亀童丸は笛、鐘、太鼓の音が響く中、童武者たちが焚く松明で煌々と照らし出された階段を一歩一歩踏みしめて登っていく。上宮に近づくと松明の明かりだけを頼りに上宮参詣を行うのである。一種の肝試しにも似た行事だが、嫡男は一人で雪積る谷川の水で身を清め上宮に登らなければならない。上宮に入ると亀童丸は大自然の懐に抱かれて煌々と輝く北極星に照らされ神秘の感動に包まれる。
その頃下宮の武者童らは一斉に刀の鯉口を切って鬨の声を上げ、亀童丸に忠誠を誓うのであった。大内氏の次の当主は現在の亀童丸、ここに集った武者童は亀童丸を補佐し大内軍の主力を担う部下たちなのである。こうして童の時から主君に中世を尽くすよう行事として取り入れられていたのである。
以上は29代大内正弘公以降の上宮参拝の手順。
それ以前は上宮と下宮の間に中宮があって、中宮まで武者童や大人たちが同行し、そこから亀童丸を送り出していた。武者童の忠誠の誓いも中宮で行われていたそうだ。 -
大内氏の家紋、大内菱。
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北辰妙見社の拝殿内の様子。
板間に畳の上敷きが敷かれ一見仏間の印象。
神仏集合の寺社はこんな印象なのか?
違和感を抱きつつ礼拝所の前へ。妙見大菩薩の大きな御札と御幣があったが恐れ多くて写真には写さなかった。 -
拝殿内には釈迦如来坐像が祀られている。
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天井には龍の絵。雨漏りの跡が痛々しい。
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こちらにも龍の絵。
先程は頭部、こちらは胴体、一つの絵を二つに分けて書かれた絵でした。多分二つに分けたのだろう。 -
拝殿の天井はこんな感じ。
向かい合わせに龍の絵が掛けられていて、真ん中には北辰妙見大菩薩の扁額があった。
この扁額は肉眼で見ると確かに北辰妙見大菩薩と書かれていたと記憶しているが、写真で見ると何と書かれているのか判別できない。おかしな事もあるものだ。 -
こちらは国の重要文化財の梵鐘。
第31代守護大名大内義隆公により寄進された梵鐘である。 -
梵鐘の由来、製作者は説明板の通り。
筑前葦屋の大江宣秀の作。 -
遠くから見るとこのような感じ。
近くに寄ってみよう。 -
近くに寄るとこの鐘楼、何か不自然に見えなおだろうか?鐘の上の天井部分をよく見て頂きたい。
この鐘楼は1532年建てられ寄進されたものだが、天井板が新しいことに気付いただろうか?
こに梵鐘は鐘楼ともに古いものだが、鐘楼が長い年月の末老朽化して耐えきれなくなったため、地元の大工や村人が協力して昭和32年に再建した。 -
興隆寺の梵鐘。
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この梵鐘の特徴は雲竜文様。説明板には乳の間四区の間に四天王と書かれていましたが、この四天王は分からなかった。
写真は雲竜文の部分のアップ。 -
同じく雲龍文。
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境内には明使趙父が詠んだ山口十境詩の一つ氷上滌暑
漢詩 氷上滌暑(ひかみ じょうしょ)
光凝山罅銀千畳 寒色清人絶欝蒸 異国更無河朔飲 煩襟毎憶玉稜層
書き下し分
氷上に暑を滌く(氷上にしょをさく)
光は山罅に凝れり、銀千畳 (ひかりはさんかにこれり、ぎんせんじょう)
寒色は人を清やかにして、欝蒸を絶つ(かんしょくはひとをすずやかにして、うつじょうをたつ)
異国には更に無し、河朔の飲(いこくにはさらになし、かさくのいん)
煩襟には毎に憶う、玉稜層 (はんきんにはつねにおもう、ぎょくろうそう)
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書き下し分
氷上に暑を滌く(ひかみにしょをさく)
光は山罅に凝れり、銀千畳(ひかりはさんかにこれり、ぎんせんじょう)
寒色は人を清やかにして、欝蒸を絶つ(かんしょくは、ひとをすずやかにして、うつじょうをたつ)
異国には更に無し、河朔の飲(いこくにはさらになし、かさくのいん)
煩襟には毎に憶う、玉稜層 (はんきんにはつねにおもう、ぎょくろうそう) -
詩の意味
夏、焼け付くような太陽の光が氷上の山峡の地に射し込んで、じっと動かない。
幾重にも重なる山峡が眩しい銀色一色に輝いている。見る間に寒々とした寒色が見知厚さを遮断する。
他郷に身を寄せているわが身には、酷暑の時期なのに「河朔の飲」の風習が無い。
心の中に故郷の高く聳え立つ山々遥かに思うばかりである。
「河朔の飲」とは暑気払いのため思う存分酒を飲むこと。痛飲すること。
本当に暑気が払われるかどうか分からないが、異国に身を委ねている詩人としては存分に酒を飲みたい気持ちはあるであろう。詩人の離れて久しい故郷に対する懐かしさを心底にしまっている心境が読者に伝わる詩だと解説してあった。 -
山口十境詩の碑文の設置場所と詩のタイトルの説明板。
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十境詩に詠まれた氷上山である。
この山に北辰妙見社の上宮と下宮があった。さらに27代大内持世公以前には中宮もあったそうだが、現在社殿は無く礎石が残るばかりになっているらしい。
当時下宮は氷上山山麓にあり庶民の礼拝所、中宮は丘の上にあって武者(武士)の礼拝所、上宮まで行けるのは家臣の童子(長男のみ)に限られ、本堂に上がって礼拝を許されるのは当主の嫡男で亀童丸を名乗るものと僧侶のみ。家臣の童武者達は礼拝堂の軒下や広場で参詣したそうだ。
なみに下宮は山口県下松市の妙見宮鷲頭寺(じょうとうじ)、中宮は下松市の降松神社に移されている。 -
次は氷上山中にあった山王社跡地に行ってみよう。
山王社は現在遺構公園として利用されているらしい。 -
地元民を中心にして行われているエゴノキ植樹の記念事業。
山口の伝統工芸品である大内塗の原材料であるエゴノキを植樹によって増やそうとする記念事業だ。 -
山王社跡地への入り口はこのコンクリート片を敷き詰めた山道から。
この山道を上った所に山王社跡があった。 -
コンクリート片を敷き詰めた道を通り過ぎると小石を敷き詰めた山道に。
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道を上り終えると広い敷地が広がる場所にやって来た。
この広場が山王社の跡地で現在は山王社遺跡公園だ。広場の敷地には手製の遊戯の他に、煉瓦で区分けしてある場所がある。 -
この煉瓦で囲まれた場所が大内氏時代から毛利氏時代に建っていた山王者の社殿の跡だ。
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敷地内にある山王社跡の説明板。
山王社とは日吉山王神社を祀る神社、日吉社は延暦寺の鎮守社で、興隆寺は延暦寺の直轄となって天台宗の顕密兼学の道場として栄えていた。
氷上山別当裕弁が本坊内に勧進し、後にこの地に社殿が建立された。
下って明治期に神仏分離によって山王社は氷上山から独立。氷上神社となって御堀神社と合併し廃社となったそうだ。 -
山王社の社殿見取り図。
山口県のみに見られる拝殿・幣殿・本殿が一直線に並ぶ山口県独特の建築様式で建てられていたことがこの図から分かる。 -
山王社の鳥居ですがこれは新しく作ったもの。
山王者として今もなお残っているのは御堀神社に合併された拝殿だけである。 -
鳥居をくぐると山道が山頂に向かって伸びている。
この山道を登って行きついた先にあるのが妙見社の上宮だとこの時は思い込んでいまた。
しかしこの山道も整備されているのは写真で見えている先までだった。 -
そこからは御覧のような獣道のような参道。
流石にここから先に行くのは躊躇しました。なぜならこの山はマムシがでる山で、付近の里人も夏場は山には入らないそうだ。この時は長靴を履いていなかったので冬場に再訪することにして引き返した。
実はこの時まで上宮の場所を間違っていたのだ。
旅行記を作るに当たってグーグルマップで確認すると別の場所が上宮だった。
なので冬場に再訪してまた旅行記にしたいと思う。
大内氏時代の各大名ごとに旅行記を作ろうとしている。次は山口の開府となった町造りや大内館に焦点を絞って旅行記を作っていきたい。
訪問下さり有難うございました。
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