2023/06/15 - 2023/06/15
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1494年大内義興公は父正弘公から当主の座を譲られる。
その5年後管領細川政元のクーデタ-で将軍足利義稙が追放され、義興公を頼って周防国へやってきた。8年後義興は義稙を擁し中・四国、九州の軍勢3万を率いて上洛、義稙を将軍に復帰させた。
しかし3年後に前将軍方に侵攻されて脱出。国の支配者を決する船岡山の戦いで勝利し、再び義稙を将軍に復帰させ、官僚代として京都の治安を安定させた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
1494年、大内義興公は父正弘公から家督を譲られる。この時義興公は18歳、正弘公が病気になったためだった。
その後弟高弘のお家騒動が起きるがこれを乗り越えて西国の雄となって行く。
順番は逆になるかもしれ無いがまず最初に訪れたのが義興公の菩提寺凌雲寺。
山口市吉敷中尾という場所にある。山口市内から美祢市に抜ける道から右に折れて田舎の里山にある寺だが、今は寺の跡だけが残っている。
寺の跡はとても辺鄙な場所なので、どうして屋形から遠い辺鄙な場所に寺らん建てたのかは今も謎である。
写真が凌雲寺跡の案内標識。この看板の先を右に折れる。 -
ここからは舗装はされているが田舎道路を道なりに進む。
-
寺はこの道の先のさらに奥にある。
民家もまばらで周囲は山と田圃しかない。 -
かなり進むと右手に平らな高台が見えて来る。
この場所が凌雲寺跡だが駐車場はまだ先にある。 -
寺の周囲は山ばかり。民家もこの辺りはほとんどない。
-
ここが凌雲寺の駐車場。道の側に凌雲寺駐車場と表示されてあるため、駐車場はすぐに分かる。
25年前に訪れた時はこのような駐車場は無く、道の側の空き地に駐車した。その時分は山口市民であっても歴史に詳しい者でなければこの場所を知る人はほとんどいなかったと思う。
そのくらいここは辺鄙な場所だった。 -
今はこのような説明板が建てられていた。
大内氏と凌雲寺跡と発掘調査の説明だ。 -
大内氏の説明部分をアップした。
大内氏の最大版図は義興公の嫡男義隆公の時代で中国九州北部の7カ国、さらに支配下に置いた国は肥前の半国だった。
義興公の時代は京都に在住している時に将軍から京都がある山城国の守護を命じられて7カ国だったが、山口に帰還した時に返還して6カ国となった。
大内氏は西国一の守護大名だったが大内氏の領国を狙う大名は多く、山陰地方に勢力を伸ばす尼子氏、筑前を狙う小弐氏、豊前を狙う豊後の大友氏などが領国に侵犯して来るので戦が絶えなかった。
度重なる戦費は膨大なものになったが明との勘合貿易や、朝鮮琉球との貿易で補われた。 -
大内義隆公時代の最大版図。
大内義興公が幕府の管領代に命じられて実質的に幕府の政治に関与していた時は京都は戦もなく平穏だった。
義興公が京都に滞在した期間は11年に及び、その間領国の支配が緩んできたため各地で反乱が起こる。
中国地方では尼子氏にそそのかされた武田氏と毛利氏が離反、さらに大内氏傘下の厳島神主家の内紛に乗じて神主家の後継を自称する友田氏が離反、築前では少弐氏が反旗をひるがした。豊後では大友氏が豊前を伺うなど領国に不安だ漂よう中やっと帰還が認められた。
山口に帰還した義興公は失地回復に大車輪。まず九州に出陣し少弐氏を駆逐。少弐資元の居城を包囲し降伏を迫ると少弐は降伏し和睦が成立。
豊後の大友氏とは再度同盟を結び、九州の平定が完了すると安芸国の乗り出した。
この間にすでに安芸国の抑えとして重要な拠点であった東西条の鏡山城が尼子経久の攻撃を受けて落城。
これを見た大内傘下の国人が次々に離反し尼子方に帰順した。
この余勢をかって尼子経久は備後国に侵攻した。備後守護であった山名氏から備後国を奪取し、安芸国へ攻め込む計画だった。 -
いよいよ大内義興公の反撃が始まる。
石見国の戦いは大内氏が勝利し、尼子勢を石見国から駆逐した。
東西条の鏡山城も城を包囲された尼子方の城主が降伏して開城。
いよいよ安芸国を巡る本格的な戦いが始まった。
大内軍は義興・義隆父子の本軍が厳島に陣取り桜尾城の友田氏、銀山城の武田氏攻略にむかった。
一方陶興房率いる分国軍の別働隊は安芸国の中央部の国人の城を次々に攻略して備後に転戦。
山名氏と同盟を結んで備後に侵攻していた尼子軍を撃退し、出雲に追い返す事に成功した。
この鬼神の如き陶興房の戦い振りを見て、一旦尼子側に帰順した安芸国人が再び次々と大内側に寝返り戦局が好転した。
このような情勢下毛利元就が義興公に帰順した。本隊は桜尾城を包囲し、締め上げた。
城主の友田興藤はついに抵抗をあきらめて義興公に降伏。安芸で残る有力国人は銀山城の武田光和だけとなり、武田を討てば一気に尼子領内に攻め込むところまで進展した。
ところが大内氏優位の情勢が一気にくつがる出来事が発生した。当主義興が本営の安芸国佐西郡門山城で発病し重体になったのだ。備後の国境で優勢に尼子経久久と対陣していた陶興房も直ちに厳島へ向かった。
重臣たちは厳島神社の回廊で緊急評定を行った。世に言う厳島評定である。 -
直ちに義興公の身柄を山口に移すことが決定いされた。拡大した戦線の縮小を含めて領国の境の防御強化かが話し合われたと想像される。
山口に帰還した義興公は享禄元年(1528)12月に52歳で亡くなった。
こうして尼子経久との雌雄は次の御屋形様義隆公に引き継がれることになった。
この続きは義隆公の旅行記で記述する事にします。
写真は大内氏略年表のアップ。 -
亡くなった義興公が埋葬されているのが菩提寺の凌雲寺である。
凌雲時は台地の上に建てられていたので矢印が差し示す方向に歩いt行く。
入り口は駐車場の向かい側てある。 -
民家の下の道を進むと小川に架けられた橋があるので、この橋を渡る。
-
渡り終わると目の前に緑の台地が広がっている。
この高台に凌雲寺が建てられていた。 -
再び矢印の方向に。
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目の間の階段を上がって行くとそこが凌雲寺の入り口。
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階段を上りきると史跡大内氏遺跡凌雲寺の案内表示がある。
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凌雲寺跡の平面図。
左側に凌雲寺跡の石垣と表示されている場所が入口の山門があった場所。
そこから現在地と書かれた場所までが凌雲寺の境内だったと考えられる。
実際に台地に上がってみると分かるが、寺の敷地、規模の大きさに驚く。
何故こんなに場所に広大な敷地を持つ寺が建立されたのかまだはっきりとは分からない。
その秘密を解明するため、発掘調査が何度か行われた。
今後継続的に行われる事になっている。 -
凌雲寺跡の説明板。
この説明がここに巨大な寺院が建てられた理由と思われるが、何故大内館から遠く離れたこの地が選ばれたのかはまだ解明されていない。
大内館から兵士が歩いて来るとすると3~4時間はかかると思う。 -
史跡大内氏遺跡凌雲寺跡の石碑。
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石碑の側にある大内義弘公の墓。
右の石碑には「大内義興卿墓」と刻まれている。大内義興公は三位で公卿だから公卿としての尊称が彫られていた。 -
大内義弘公の墓は宝篋印塔。
-
大内義弘公の墓の右隣りにある墓は正室「東向殿」。
東向殿は長門守護代内藤弘矩(ひろのり)の長女。内藤家は代々長門守護代を務める重臣で美人の誉高い家系。東向殿は当時防長(山口県)で最も美形の女性として名が知れていた。
その人が義興公に嫁入りしたのには理由があった。
義興公の家督相続に際し、弟の高弘の擁立を画策したとして周防守護代陶武護が義興公に讒言した。それを信じた義興公の命により内藤弘矩は殺された。これを知った嫡子の弘和は挙兵したが討伐されてしまった。
後日弘矩が無実であることが判明したので、内藤家存続のために弘矩の弟弘春に家督を相続させ、内藤弘矩の姫を側室とすることで弘矩の名誉回復と内藤家との融和を図った。こうして東向殿は義興公の側室となったがいくら御屋形様といども父と兄を殺した敵、容易には心を開かなかった。
義興公としても百戦錬磨の重臣でしかも長門守護代の弘矩を無実の罪で死に追いやった事は後悔してもしきれ無いほどの傷みであったと思われる。
東向殿の心が溶けるまでは正室を持つことも側室を置くこともしなかった。
月日の経過とともに氷が溶けるように心の傷が癒され、正室に向かえられて義隆公の生母となられた。 -
隣は側室「冬殿」の墓。
大内の殿様には浮いた話がほとんど残っていない。実際にはあったのだろうが庶民にも伝えられ残っているのがこの冬殿の話てある。
冬殿は東向殿が正室になられてから後に側室になられた武将の姫である。
義興公が将軍義稙公の前で強弓の腕前を披露した際に義隆公を見初めた姫が短歌に思いを託して侍女に届けさせたが義隆公は和歌が読めない為返歌ができなかった。
父正弘に相談すると和歌の修行に身を入れよとたしなめられて、文の礼にこれを贈れと渡来品のヒスイの首飾りを手渡された。
義興公が姫にヒスイを渡すとことのほか喜ばれたそうだ。
姫の父君は将軍足利義稙公を守護する武将だったが、管領細川政元の反逆で将軍を守るため討ち死にした。
細川勢は屋敷にも侵入し、母は細川の兵士に殺されて姫だけが脱出した。
その後白拍子になるなどしてやっとの思いで山口に来山、艱難辛苦の末に義興公に巡りあったのだった。
冬殿は義興公亡き後は髪を下ろして尼になり、義興公の墓を守って生涯を終えた。 -
大内義興卿400年祭り記年碑。
地元の人々により建立された。 -
次はいよいよ凌雲寺跡へ。
凌雲寺跡で創建当時の姿を留めているのは総門跡の石組みだけである。 -
草木がおいしげる道を進むと・・・。
-
阿弥陀如来像が祀ってあった祠。
25年前に訪れた時にはしっかりした建物だったが、現在いは今にも崩れそうに老朽化しており月日の経過をしみじみ感じた。
なお中にあった木造の阿弥陀如来像は山口市歴史民族資料館に保管されているそうだ。 -
ここは凌雲寺が建てられていた台地の上である。
広大な大地には石垣の跡と推測される石組みがあちこちに残っている。
立札の背後にも横に長い石垣が残されていた。 -
寺の敷地跡にはこの様な横に長い石垣の列が何段にも渡って伸びている。
-
令和元年度から4年度にかけて行われた発掘調査の様子が示されていた。水色で囲まれた部分が建物があったと推定される場所。
2年度から4年度の発掘で建物の礎石や礎石列が見つかった。つまりこの範囲に建物があったことが立証されたのだ。
発掘は今後も継続して行われるので、全体像が少しづつ分かってくると思う。 -
台地に上がるとそこは野草が生い茂る原野然とした風景。
一見すると草の他には何も無いだだっ広い大地だった。
何も無いように見るが通路と思しき道を歩くと所々に石垣が見えて来る。 -
台地上には雨水が流れて凹みができ、そこが少しづつ浸食されて、写真のような溝が出来ていた。
遠くに見るのが総門の石組みである。 -
見えて来た総門跡。
まだ遠くにあるので総門の規模は分からない。 -
凌雲寺跡の説明板。
凌雲寺は京都五山の重鎮了庵桂悟が開山した臨済宗の禅寺で寺の敷地面積は約3.7ヘクタール、坪数に直すと約11200坪と言う広大な広さだ。巨石を用いた総門の石垣は高さ2.6m,幅2m、長さ62.7mと豪壮雄大なものだ。
この石垣は台地の南側に東西に築かれている。 -
凌雲寺の総門に到着した。写真では分かり難いが総門は巨石で作られた豪壮な石垣だった。
-
東西に横断するように築かれた石垣の中央に開口部があり、ここに総門があったと伝えられている。
石垣の近くに寄って見ると、石垣は巨石で作られ、石と石との隙間は小型の石で埋めている。
当時の寺院建築でこのように大きな規模の石垣を持つ
寺院は余りない。
石垣の上には土壁があったはずで、この寺は高い壁と石垣に囲まれた巨大な寺だった事が推測できる。そう考えるととても普通の寺ではないだろう。 -
歴史学者や郷土史家達の共通した認識では、この寺は大内氏に万一の事が起こった時に立て籠もる城塞となるように造られた寺と考えられている。
そう考えると南にある総門は城の大手門、寺の北口は搦手となる。寺の北側にも東西に築かれた石垣がいくつかあるので、その何れかが搦手と思われる。
更に寺が建てられた高台の台地という地形が防御に適した地形だと思う。 -
ここが総門跡である。
防御の要の大手門であるから総門付近は特に大きな石が使われている。
さて、大内氏は政都山口に城は築かなかった。理由は本国周防長門の周囲が分国である為、直接本国が他国から襲われるとは考えるにくかったからである。
では何故義興公は城塞と思しき寺を建立したのであろうか?
これを立証する物は何も残っていない。凌雲寺はいつ開山されたのかも分からないし、またいつ廃寺されたのかも分からない謎多き寺である。 -
その為何故このような寺が建てられたのか想像するしかない。義興公の時代から戦国時代が始まったと言われている。
義興公の在京年数は11年だが、その時代京都周辺に台頭し始めた戦国大名に影響されたのか、それとも急速に力を付けてきた尼子経久に脅威を感じたのかもしれないが、それなら城を造ったであろうし、その意図がはっきりとは分からない。
但し次の義隆公の時代に起こった陶晴賢の乱をみると、時代を先どってこれ等の事も予想して建てた寺かと思うと義興公の先見性に舌を巻く。
陶晴賢の乱では義隆公一行は6000人の兵を率いて凌雲寺に立て籠もる予定だった。
しかし女・子供や軟弱な公家達を連れての逃避行だったため行軍は遅々として進まず、凌雲寺に到達する事ができなかった。
もし凌雲寺に立て籠もる事ができたら、義隆公の兵力が勝っていたので陶軍を撃退出来たかもしれない。
そうなれば歴史が変わっていただろう。
写真は総門跡。発掘調査の結果、ここから真っ直ぐ境内の道が北に伸びて階段を上がり、寺の中心部に向うようになっている事が分かっている。 -
総門から眺めた寺の内部の様子。
ここから石垣が2段見えるけれど、最初の石垣部分に階段があり、奥に続く道があった事が発掘調査から分かった。
寺の建物は2段目の階段のさらに奥にあったそうだ。
先程大内氏は政都山口には城を築か無かったと述べたが、山口市内を見下ろす鴻ノ峰には高嶺城と言う山城があった。
この城は大内氏最後の御屋形様大内義隆公が家臣陶晴賢の謀反により敢え無く自刃して滅亡後、陶晴賢が築城を始めたものである。
と、このように学生時代には教えられたし、小説や歴史書にもそのように書かれていたと記憶している。
しかし現在では厳島の戦いで陶晴賢が亡くなって以降、陶晴賢の傀儡政権の当主として豊後(現在の大分県)から迎えられた大内義長が1556年に築き始めたとさるている。
山口市文化財保護課の公報も大内義長が築城を始めたと書かれているのでこの説に従うことにした。
この説を取ると大内氏の滅亡は毛利氏の侵攻によるものとなり、最後の大名は大内義長となる。この何十年の間に大きく歴史の解釈が変わっていることが分かった。
これは陶晴賢、大内義隆公、大内氏を滅ぼした毛利元就もである。
このことは大内義隆公の旅行記で詳しく触れていきたい。 -
総門の石垣は時代の経過とともに劣化して崩れたとされる個所がある。
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大きく崩れているのは総門の左側部分。自然に劣化したのではなく、物理的に壊されたように思われる。
大内氏滅亡後、廃寺となった寺から近在の百姓が田畑の境や農水路などの石垣に流用したのかもしれない。 -
寺の内部から見た総門の石垣。こちらは右側部分。
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同じく内部から見た総門の石垣。こちらは左側。
総門の外から見た方が石垣は迫力がある。 -
崩れた石垣部分。巨石」がゴロゴロしている。このサイズだとしたら持ち去ろうとしても重くて持ち上がらない。
多分これよりも小振りの石が持出されたのだろう。こんな巨石で造られた頑丈な石垣が経年により簡単に崩れるとは考え難い。 -
崩れた散乱した石垣。
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総門部分の石垣は鋭角状に残っており、原形を留めていた。
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刃物で切ったかの様な鋭い切り口の石垣。
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総門の入り口部分。創建当時は階段があったのだろう、平たい石が階段状に並んでいた。
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右側の石垣で崩れているのはこの箇所のみ。左ほど大きな崩れ方ではない。
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こちらは左側の石垣。石垣の2/5程度が崩れていた。
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再び総門石垣の全景。
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左側の石垣の様子。一部崩れて石垣が物寂しい。
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総門右側の石垣の遠景。
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総門の遠景。
総門の南側に来ている。ここからは総門入り口の広場に至るその間にさらに石垣があることが分かる。
総門の北側のように総門に上がるための階段が設けられているのだろうか。それとも階段右側の通路が寺に至る道だったのか?
遠くから見た限りでは階段は無いし、近場で見た限りでも階段は見つからなかった。
この部分も発掘調査を待つしかない。 -
謎多き凌雲寺、どのような経過で廃寺になったのかも分かっていない。全貌解明にはまだまだ時間がかかりそうです。
次は前将軍足利義稙が山口に逗留中に仮御所とした場所と凌雲寺廃寺のその後の様子をお伝えしたいと思います。
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