2024/03/21 - 2024/03/21
121位(同エリア482件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2024/03/21
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車での移動
自家用車で鴻ノ峰登山道を上がる
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兄弟山リフレッシュパークへ向かう道路を車で進む
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鴻ノ峰登山道と兄弟山リフレッシュパークの分岐点
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鴻ノ峰登山道、山頂に高嶺城跡がある
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途中にある展望所からの眺望
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姫山伝説の姫山
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西側曲輪群の登り口
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NHKの電波塔、山口大神宮ルートとの分岐点
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主郭北側の石垣群
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主郭南側の石垣
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高嶺城跡(主郭部分にある説明板と史跡の石碑)
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この旅行記スケジュールを元に
政変で大内義隆公が長門大寧寺で自刃すると大内氏の実質的な支配者は長門の守護代陶晴賢となった。
しかし大内家を簒奪するつもりは無く、当主をすげ替えるだけのクーデターだったと最近の研究では考えられている。
次の当主は豊後国の大友氏から迎えた大内義長であった。
大内義長の体制は政治を義長が、軍事は陶晴賢ら武断派の武将が行うことになった。
一方天文の政変で陶隆房(後の晴賢)に組した安芸の毛利元就は陶隆房との密約に基づき安芸国内にある大内方の城を攻略してその勢力を拡大した。
安芸国内の盟主的存在にまでのし上がると、ついに厳島で直接陶と対決するまでになった。しかし双方の兵量の差は歴然としており、毛利元就は陶とことを構える気はなかった。
元就を陶と対決するまでに追い詰めたのは嫡子の毛利隆元だった。隆元の正室は大内義隆の養女であるため隆元は義隆公を父として慕い、義隆公も我が子のように可愛がったと言われている。
隆元は毛利の人質として山口に滞在していたのだが、義隆公は隆元を人質として扱うようなことはしなかった。
そのため義父を殺した陶晴賢は憎い仇であり、父元就をけしかけて仇を討とうとした。
元々元就は大変慎重な性格で、勝算の見込めない戦は行ったことが無い。しかしこの時は息子に背中を押されて挙兵し大きな賭けに出たのである。
結果は大正解、厳島での勝利は毛内氏が中国地方に覇を唱える重要なステップとなったのである。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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陶晴賢は大内義隆を滅ぼした逆臣として知られ、平将門や足利尊氏と共に悪名の高かった人物である。
毛利氏が防長(現在の山口県)を支配した16世紀後半以降、「大内義隆は怠け者、陶晴賢は逆臣、毛利元就は立派な人」という評価が定着し、それはほとんど信仰に近いものになった。
陶晴賢についてはあらゆる史書が「天文20年、山口に侵入した陶軍は放火略奪の限りを尽くし、西の京と謳われた山口の繁栄は一朝のうちに灰燼に帰した」と書かれ、そのように宣伝されてきた。
確かにいくつかの寺は焼失したが、国宝・重文の大部分が天文の政変では焼失を免れている。さらに大内館や築山御殿も政変時に兵火にあったとされているが、天文の政変では焼失していない。
実際は陶晴賢が厳島の戦いで自刃したのちに大内氏の家臣の内輪もめ(内藤隆世と杉重輔との対戦)で焼失しているのだ。
従来は陶晴賢は大内義隆公を自刃させた後大内家を簒奪したとされてきたがそのような事実はない。傀儡と言われているが大内義隆公の後に大内義長を当主として擁立した。クーデターに際しては多数の大内家家臣の支持を受けており、大内氏傘下の毛利元就や益田氏らの信認を得たうえで決起している。
天文の政変は大内家体制を維持したまま当主の首を挿げ替えるだけのクーデターだった。
そのため治世の中心となる町で放火や略奪を繰り返したとは考えにくく、むしろ全力で保全にあたったと考えられている。
大内義隆公と陶晴賢は意図的に評価を貶められたと考える方が自然の様である。
近年では大内氏及び臣下の資料や研究が進み、大内義隆公や陶晴賢は以前から言われてきたような人物では無く、もっとスケールの大きな人物であったとその評価が変わってきている。
最近の研究では多分に毛利元就が防長(山口県)侵攻に際し、大内義隆公と陶晴賢を貶めることで侵略しやすくしたと考えられている。
事実毛利元就は大内義隆公の敵討ちと吹聴して周防に攻め込んでいるのだ。周防長門の住民にとって伝統的な支配者は大内氏であるとの観念が強く、安芸から侵入した毛利氏は簒奪者としか映らないため、敵討ち説を捻出せざるを得なかったのだろう。
前置きが長くなったので本題に入ろう。今回は名城100選に選ばれている高嶺城を訪ねてみた。
高嶺城は山口市の鴻ノ峰の山頂に建てられた山城である。 -
高嶺城跡の説明文。
説明文では大内家最後の当主大内義長が築いたというのが現在の定説であるが、私が学生の頃には陶晴賢が城の重要性を唱え、厳島の戦い以前に築城に着手したと書籍に書かれていた。その事業を陶晴賢の死後に引き継いだのが大内義長であるが、この何十年かの間に大内義長が築いたことになっていた。
新資料が見つかって変更さてたのかもしれないので今は定説に従おう。
なお築城の発案は陶晴賢と歴史書には書かれていたが、長門守護代の内藤隆世の進言によって築城を開始したと書かれた本もある。
戦国時代に入ると山口の防御が手薄だと考えている臣下が幾人もいたというのが正しい認識ではなかろうか。
天文の政変後陶晴賢の命令で築城場所の選定や費用の見積もりが開始されたと書かれた史書もある。
多分築城場所の選定や経費の見積もり等の立案は陶が行い、厳島の戦いで陶が亡くなったため、毛利の侵攻にそなえるため義長が実行に移したと考えるの自然だろう。 -
高嶺城の立体模型。
空中撮影やレーダー測量等により作成された立体模型
山口大神宮登り口方面から見た高嶺城 -
南側から見た曲輪と主郭部分。
高嶺城の特徴は曲輪が多いこと。曲輪は大小40近くある。
城の登り口は2か所。一つは山口大神宮の側の登山道を登るルート。階段があるがかなり急な坂道のため登山中級者以上の人が登るのが望ましい。
もう一つは木戸神社の登山道から登るルート。舗装された自動車道で主郭に近い電波塔まで車で上がることができるが、道が狭いため途中で車の離合ができない。
そのため兄弟山リフレッシュパーク手前の駐車場に止めて歩いていく方が良い。
私は車で登った。幸い別の車に出会うことは無かったので割と楽に登れた。
それでも駐車したのは途中にある展望所。そこからは主郭まで歩いて登ることにした。
以前軽自動車で訪れた時には電波塔まで車で登ったが、空地は狭く軽自動車でも何度も方向転換を繰り返し苦労したことがあったからである。
自動車で登る場合は車の離合を避けるため平日のごぜんに行くのが望ましい。
なお、この登山道は市民のハイキングコースでもあるようで、大半の人が木戸神社かリフレッシュパーク手前の駐車場に駐車して歩いて登っているそうだ。 -
ともかく車で登山道を登ることにした。
木戸公園から鴻ノ峰登山道を登る。登山道は写真のように登り口の表示があるので分かりやすい。 -
この道が鴻ノ峰登山道、及び兄弟山リフレッシュロードへ至る。
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まっすぐ進むと突き当たり変えあ道は左右に分かれるので右の道へ。
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この道が鴻ノ峰登山道、高峰城址への道である。
道路は舗装されているが、道幅が狭く勾配はきつい。スピードを出さずゆっくり登っていく。 -
この道はガードレールは無い。右端に寄りすぎると谷底に落ちるので注意しながら登る。
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しばらく進むと展望所と呼ばれる景色が開けた空き地に出る。
写真は展望所から眺めた山口市内の景色。展望所は山頂に上る途中にあるが、写真を撮り忘れてしまった。
この展望所は個人の所有地であるが、その方が周囲の木を伐採されて現在のような見晴らしの良い展望台になったと高嶺城に詳しい人からお聞きした。
空き地は普通自動車なら4台程度停められるので、ここに車を停めて電波塔まで歩いて登ることにした。 -
展望台から眺めた山口市内の景色。山口市は山に囲まれた盆地だが、山口市の地形は扇状地だそうだ。
写真右中ほどにある小高い山は姫山。この山にある伝説が伝わっている。その伝説を姫山伝説と言う。
その昔、山口の城下にとても美しい娘がいた。大内のお殿様が美女を見初めて館にに招き、意に従うよう命じたが拒み続けて従わなかった。
怒った殿様は姫山の城中にある井戸に美女を投げ込み蛇攻めにして殺してしまった。
美女は今わの際に「生じっか美しく生まれたばかりにこのような苦しみを味わう。後の世の女性に二度とこのような苦しみをさせない為に、姫山から見える範囲には二度と美人が生まれないように」と言って死んだという。
これ以降山口の町には美人が生まれなくなったという。 -
写真に写した山が姫山。山頂には姫山城の遺構があるが美女が投げ込まれたという井戸は無い。
あくまでも伝説に過ぎないが、山口に美女が生まれないという話は本当かもしれない。 -
眼下の学校は山口高等学校。元はここに旧姓山口高等学校があった。
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ここから大内館跡が見える。
写真の中央にこんもりした林があり、中央にお寺が見えるが、その寺が大内義隆公の菩提寺龍福寺で大内館の跡である。
その左に同じく林が見えるが、ここは築山館(築山御殿)跡で現在は八坂神社と築山神社がある。 -
写真の舗装道路が鴻ノ峰登山道。左側に土階段があるが、この道は西側曲輪群に行く山道である。
この山道では防御施設堀切や土塁を見ることができる。道は電波塔から主郭部に至る登山道よりも険しいので登山ができる服装が望ましい。靴は登山靴が良い。 -
西側曲輪群登り口。
展望台駐車場の向かい側が登り口。高嶺城趾への登山が安全にできるよう個人の方がボランティアで登山道を切り開かれたものである。そのため手作り感が感じられる山道だ。
登山道にはピンクのテープが木の枝に結ばれていて、道に迷わないように配慮されている。
こちらの登山道は堀切や土塁残されていて、山城の醍醐味を味わうことができるそうだ。
なお、このルートからも頂上にある主郭に登れる。 -
手作感のある階段状の登山道。
私はこのルートでは無く、舗装されている道を電波塔目指して登った。
高嶺城に登ったのは今回で3回。一度目は高校生の時、友人から登ってみようと誘われて麓から歩いて電波塔まで登った。
若かったせいかその時は全く疲れは感じなかったが、行けたのは電波塔の所にある大きな曲輪までだった。
電波塔の前に高嶺城の説明板があり、曲輪の周囲は木々で覆われていたため、市内の景色は木々の間からしか見えなかった。
2回目は社会人になってから、転勤で山口市の支店に勤務した時だった。その時は電波塔まで車で登ったが、電波塔の周囲も曲輪も木々で覆われ、木の枝の隙間からわずかに町の景色が見える程度だった。以前訪れた時に見た説明板があるだけで主郭への目印もなく、わずかに見える石垣が山城の本丸跡かと思ったほどだった。 -
NHKの電波塔。山口大神宮から登るルートもここへたどり着く。
以前車で登って来た時は電波塔の前の空き地はとても狭く、車を方向転換するのに苦労したが、現在では普通乗用車でも3台程度は駐車可能なスペースに拡幅されていた。
以前あった案内板は撤去されていて、奥に広い曲輪が明るく開けていた。 -
曲輪にある城跡の説明板と高峰城址の地形図。
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高嶺城跡の説明板。
毛利氏の侵攻に備えて弘治2年(1556年)に大内義長が築いた城になっているが、毛利の侵攻が早かったため城はまだ未完成で、食料の備蓄も無かったため一旦は重臣内藤隆世と城に籠ったものの、城での防戦をあきらめて下関の長府にある勝山城に立て籠った。
勝山城は防御に優れた山城で頑強に抵抗をつづけたがついに落城寸前に追い込まれた。血路を開いて逃げたが逃げおおせぬ事が分かると現在の長福寺(長府功山寺)で自害した。
大内氏の実質的な滅亡は大内義隆公が自刃した時だと考えられるが、大内義長の死をもって西国一を誇った戦国大名大内氏の歴史は幕を閉じることになった。
大内氏滅亡後高嶺城は毛利氏の手で完成した。
この城が力を発揮したのは防長が毛利の支配下に置かれた1569年5月(永禄12年)、大内輝弘が大内氏再興戦を打って出た時だった。
大内輝弘は大内義興公の弟高弘の嫡男で大内義隆公とは従兄弟同士。父高弘が大内家の跡目相続に敗れると豊後の大友氏に身を寄せた。
輝弘は大友氏から厚遇されて育った。大内氏が滅亡すると大内家再興の動きが旧家臣の間で起こり、周防国内ではそれに呼応するように一揆が起きるようになった。
毛利元就は大友氏の支配下となった旧大内氏領の北部九州を攻め取るため軍勢を北部九州に派遣していた。その隙をつき大内輝弘は大友氏の援助を受け軍船を仕立てて山口市南部に上した。その数は大内の旧家臣を主力に3千人と伝えられている。
軍勢は直ちに北進し、山口侵攻を食い止めようとする毛利軍を撃破して山口に侵入。旧大内館があった龍福寺に入って本陣とした。旧大内家臣がその間にも続々と集結。毛利の家来となった者までもが輝弘に味方した。
次に大内軍は毛利氏の山口支配の象徴であった高嶺城を包囲。その時高嶺城を守る城主の市川経好は北部九州に出陣中で絶好の機会であったが、城を守る市川の妻に苦しめられた。
多くの曲輪を有する高嶺城は容易に落ちない。そのうち急を聞きつけた津和野の吉見勢と宮野口で交戦。さらに北部九州遠征の大軍が急遽山口に向かったとの報が入ると圧倒的兵力差では勝負にならないとみたのか撤退を決意。逃走中に毛利軍にヵ困れて自刃し大内家再興の夢は破れた。 -
大内輝弘の挙兵は毛利元就に大変な衝撃を与え、北部九州侵攻を断念せざるを得なくした。
山口に限らず防府市の防府天満宮や宮市、周南市や萩市でも戦いの火の手が上がり、遠く離れた地でもこの戦いで焼失したと伝わる寺社が数多くあり、輝弘の挙兵に呼応した人々が広範囲にいたことを教えてくれる。
毛利氏の家臣になった者までが輝弘に味方したことは毛利氏には衝撃だった。
結局勢力拡大を断念して領地の支配を固めることに方針転換している。
輝弘の挙兵はわずか10日余りでついえたが、毛利氏に軍事や政治の路線を転換させたほど大きな衝撃を与えた大内家再興の戦いであった。
写真は高嶺城の地形図。左上の端が頂頭部の郭で城の本丸にあたる部分、この部分だけが石垣で囲まれている。 -
大内氏遺跡 高嶺城跡の石碑
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東南曲輪群から中心曲輪群に至る接点となる大曲輪。
以前は木々が鬱蒼としていて、木々の間からしか眼下の景色は見れなかったが、現在は伐採されて大きく視界が開けていた。
眺望は抜群で、眼下には山口市の中心部を見下ろすことができる。 -
NHKの電波塔からKRY,TYSの電波塔の横を通り過ぎて城の主郭部に向かうのだが、以前はそのような案内表示さえ無かった。
道を塞ぐように伸びた草や伸びた木々の小枝で登山道が隠されていたのでこの先に道がある事さえ知らなかった。
高嶺城跡が名城100選に選ばれたおかげでNHKの電波塔前は拡幅され、登山道の標識も整備され、郭の木々が伐採されたのだ。
ありがたいことにそのおかげで多くの市民が登って来るようになったらしい。 -
この標識はまだ新しい。以前はこの様な標識は無かった。
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高峰城趾地形図で赤表示されている所が現在地。
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登山道は途中までコンクリート舗装されていた。
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標識に沿って岩場を上っていく。
ここの岩場は要注意。石がつるつるにすり減っている。見るからに滑りそうだ。
ここは一歩一歩踏みしめてゆっくり登る。 -
木の根を利用した階段。
階段の高さが不均等、雨降りだとここも滑りそうだ。 -
ここからは段差の少ない階段が続く。
ここを登り終えたら普通の運動靴でも無理なく登れる優しい登山道が続いていく。
きつい山道はこの先までだった。 -
この坂道も上り坂だが今までの坂道に比べるとずっと楽だ。
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登山道の真ん中に木が建っているように見えるが、登山道はきの手前で右折する。
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ここは休息所、疲れた方はここで一休み。
ここからは見晴らしの良い景色が見られる。ここでお弁当を広げる登山者もいたよ。 -
ここでも見晴らしを確保するために伐採した木の切り株がいくつもあった。
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休息所からの眺め。
今までの景色と変わり映えしないが、山口市には高い建物が少ない。山口市で高い建物はほとんどがマンションだ。
写真右の白い二つの塔はザビエル記念聖堂、その左に見える木々に囲まれた丸い地形は亀山公園。 -
左にサビエル記念聖堂、右下に見えるグラウンドは白石中学校のグラウンド。
この周辺は山口高校、白石小学校と学校が集まる文教地区。静かな住宅地で人気が高く住宅地としては地価が高い地域だ。 -
登山道を進んでいくと、主郭まであと200m地点まで近づいた。
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ここは主郭手前にある最も広大な郭。
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写真ではその広さが分かりにくいが、空中撮影などで作成した立体模型だと他の郭と比較できて広さが良くわかる。
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この付近は杉木立が多い。
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林立した杉木立の中を歩くのは気持ちが良かった。
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杉木立は広大な郭から主郭まで続いていた。
木の太さから考えて昭和前期頃に植えられたようだ。 -
主郭直前の通路(登山道)。
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主郭直前の郭。
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現在は主郭の手前の分かれ道にいる。真っ直ぐ進めば主郭の登り口へ、右に進めば主郭を取り巻く石垣に進む。
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今は地形図で赤く記された場所にいる。
先に石垣の方へ行こうと思う。 -
ここを登れば主郭部に至る。
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こちらは石垣の方に行く道筋である。
井戸もあるようだ。 -
石垣に向かう道を振り返り、主郭部に行く登り口を写真に写した。
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ここが井戸。井戸ポンプが残っていた。
ポンプは手押し式のもの。昭和40年代まで使用していた手押しポンプのようだ。
側には水が満水になっている手水鉢もあった。井戸の周囲は危険だとして紐が張られ、危険進入禁止の札が付けられていた。
山城には必要な水の確保もできた城だったことがこれで分かる。 -
主郭(山の頂頭部)を囲む石垣。
長年の風雨にさらされ、崩落していた。 -
こちらの斜面にも石垣が残っているが多くは崩落したようだ。
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残っている石垣のアップ。
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こちらは主郭北側の石垣。
先ほど見てきた東側の石垣に比べてると、崩落もせず築城当時の姿をとどめて残っている石垣。
写真では分りにくいが、ここは石垣が2段に分かれて組まれている。 -
北側の石垣。
この辺りは崩落した様子が余り無くほぼ築城当時の姿のままで残っていた。高嶺城跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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しかし石垣の周辺には崩落したとみられる石がいくつもあった。
これらの石は上段の石垣のもの。上の段の石垣は崩落していた。 -
石垣の上には樹木が根を広げていてまさに強者どもの夢の跡といった印象だった。
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主郭北側の石垣。高嶺城は主郭の部分にのみ石垣が築かれていた。
高嶺城跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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主郭北側の石垣。
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主郭の登り口に戻って来た。
主郭の下の南側の石垣は大内氏滅亡後毛利氏によって手を入れられた場所である。 -
主郭南側の石垣の説明。
南側に限らず東側や北側の石垣も2段構造になっている。その訳は当時の技術では一度に高い石垣が築けなかったためである。 -
南側の石垣。
説明の通り石垣の中に鏡石と呼ばれる大きな石が使われている。このことからこの石垣は毛利氏が作ったということが分かるそうだ。 -
主郭に上る階段。今から大手門にあたる場所から城跡に入って行く。
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ここが高嶺城の主郭跡。建物の基礎と思われる石がまだ残っていた。
主郭の周囲の木は山口市によってかなり伐採されものの、周囲がすべて見渡せる訳ではない。建てられた当初は主郭の周りの木は全て伐採されていたそうだ。
実は主郭から見渡せる周囲の山々には城が築かれていた。
例えば高嶺城跡が有る鴻ノ峰のすぐそばにある兄弟山の山頂には兄弟山城があった。高嶺城跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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主郭にもこのような木が繁茂していたようだ。
高嶺城跡の保全に努めておられる82歳の男性にお聞きしたところでは、主郭の周囲には多くの木が繁茂していたが市のほうでかなりの木が伐採され、ずいぶん見晴らしが良くなったとお聞きした。
鴻ノ峰の周囲にはいくつもの山があり、その山には山城が建てられていたそうだ。
すぐ隣の兄弟山にも兄弟山城やその北には北兄弟城があった。
そこから北に行くと古城ケ岳城、七つ尾山城、東には恋路山城、南に行くと周慶寺山城、姫山城などの山城がある。
大内弘世が山口に開府する以前はいくつもの小豪族が覇を競い合っていたと考えられている。
山口に進出した大内氏によって各勢力は討伐されたか配下に加わったのであろう。ここからはそれらの山々が見渡せるので、市に全面伐採を要望しているが遅々として進まないそうだ。 -
高嶺城跡からの眺望。
中央の白い建物は日赤病院、写真左端の運動場がる建物は学校ではなく陸上自衛隊山口駐屯所である。 -
主郭からの展望の説明板。
主郭からの眺望は良く、大内館跡(現在は大内義隆公の菩提寺龍福寺)や築山御殿跡が見える。 -
大内館跡と築山御殿跡。
説明板では築山跡と書かれているが我々が学生の頃には築山御殿と呼ばれていたので、我々の世代では今でも築山御殿と呼んでいる。 -
説明板で赤く囲まれた大内館跡と築山御殿跡がここからはっきり見える。
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高嶺城の絵図。
主郭には三層の屋根を持つ館(本丸)があったようだ。 -
主郭の様子。
高嶺城の主郭はかなり広い。写真は主郭の一部に過ぎない。城の説明板の右側には写真より広い空地が広がっている。高嶺城跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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高嶺城跡にある山口市の基準点・水準点。
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高嶺城跡の説明板と史跡大内氏遺跡高嶺城跡の石碑。
高嶺城跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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石碑の周辺には沢山の瓦の破片があることから、主郭の建物は瓦葺きだった事が分かる。
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高嶺城跡の説明。説明の文言はNHK電波塔の側にあった大きな郭にある説明板と同じだった。
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広大な主郭の跡地。相当大きな建物があったと推測される。
以上で高峰城跡の旅は終了。来た道を引き返した。
次回は大内氏に関係の深い寺社や場所、家臣の館跡などをお送りしたいと思います。
訪問下さりありがとうございました。高嶺城跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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