2023/06/18 - 2023/06/18
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ポポポさん
この旅行記スケジュールを元に
大内氏の最後の大名が西国一の御屋形様とよばれた大内義隆公です。
版図は歴代最大で九州北部から中国地方の備後(広島県東部)まで、さらに四国の伊予(現在の愛媛県)に及び、位は正三位で将軍足利義晴時期の大内氏の財力が豊かだったのかはこれらの事からもうかがう事が出来ます。
そして忘れてならないのがサビルにキリスト教の布教を認めたこと。市内にある大道寺を教会としと提供しわずかな期間に500人の信者が誕生しました。
更には日本で最初にクリスマスの降誕ミサが行われたのが山口でした。
義隆公の時代は平和が続き栄華を誇った時期でしたが、家臣の文治派と武断派との間に溝ができ、武断派の陶隆房(晴賢)が謀反を起こした事で大内氏は滅亡しました。義隆公が京都の公卿を毎夜歓待して贅沢三昧、指示を疎かにした結果家臣の裏切りに遭ったとするのが今までの通説でしたが、近年大内氏の研究が進むに連れてその評価が大きく変わってきました。
写真は復元されたサビエルの井戸とサビエル像
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
大内氏歴代の当主で最大の版図は大内義隆公の時代だった。
父義興公は亡くなる直前に、中国地方で勢力を拡大した尼子経久により落城した東西条(現在の東広島市)の鏡山城を奪還、尼子氏に帰順した武田氏を撃破し、大内方から尼子氏に寝がえった毛利元就は再び大内氏に帰順し安芸・備後から尼子の勢力を追い落としたが病のため52歳で死亡した。
御屋形様死去の報に接し急去厳島に重臣が集まり今後の対応を協議した。
拡大した戦線を直ちに縮小して御屋形様の亡骸を山口に移すことに決定した。
主君の急逝により奪還した領地から撤退した大内軍は新領主大内義隆公の裁可を仰ぐことになった。
西国の覇王死すの報はたちまち中・四国、九州を駆け巡り、力でねじ伏せられていた旧勢力が好機到来とばかりに反旗をひるがした。
時に大内義隆公、22歳で家督を相続したがこの難局にどう対処したのか?
駆逐した尼子勢は大内軍が撤退すると再び備後・東安芸に進出。
一方大内義興の娘婿の大友義鑑(現在の大分県の守護大名)は好機と見て反大内同盟を画策して大内領に侵攻した。
大内氏包囲網は、尼子氏・河野氏(四国愛媛県の領主)、宇都宮氏(大分県北部の領主)能島村上氏(瀬戸内の村上水軍)、大友氏で構成された。一方九州の筑前では旧勢力の少弐氏が動きはじめた。
この内河野氏、能島村上氏は大内氏の友好国ないしは傘下の武将であった。能島村上氏は大内義弘公が倭寇討伐で海賊討伐を行っていた時に関銭の徴求を認める見返りに倭寇討伐に助力した瀬戸内海の海賊。以後大内氏との結びつきが深く大内氏が大軍を擁して上洛するときの水軍として傘下に入った。河野氏は細川勝元が河野氏討伐の軍を指し向けた時に、大内教弘公が幕命に背いて公然と反旗をひるがし、河野氏を支援して以来の友好国である。
後の世に大内義隆公は都の公卿と奢侈贅沢に耽り、政治や軍事をかまけて家臣に裏切られた愚かな当主との烙印をおされた大名であるが果たしてその実態はどうだったのか。
この時大内義隆公は自ら出陣し九州に出兵。大友氏の攻勢を凌いで反撃に転じて九州北部で転戦。筑前に攻め込んだ少弐氏等の勢力を撃破して大友氏の本拠豊後国(大分県)に侵攻した。戦況は大内氏優勢の内に進行したが将軍足利義晴の仲介で進軍を止め、1538年に和睦を結んだ。
この間後奈良天皇の即位費用を献上して財政難の朝廷を支援している。
北部九州を武力で案定させると返す刀で中国地方に進軍。大内軍主力部隊を率いて尼子氏を安芸から敗走させた。尼子の同盟勢力である武田氏を滅ぼし、敵対する厳島神主家も滅ぼして安芸を平定、備後からも尼子の勢力を駆逐した。
このように義隆公の戦ぶりは覚ましいものがある。戦国武将として覚ましい戦いを繰り広げた義隆公が内政重視に変わるのは月山富田城の戦い以降と言われている。
さて、この件については今後触れることにして、義隆公と繋がりの深いフランシスコ・サビエルのキリスト教布教から旅行記を始めようと思う。 -
フランシスコ・サビエルが大内義隆公から布教を許可されたのは京都に登り失意のうちに京都を去って再び山口を訪れた時だった。
最初訪れた時は1時間以上サビエルの説明を聞きながらも布教の許可は得られなかった。
再び訪れた時には上等な服で訪問し13の立派な贈り物をしたとルイス・フロイスの日本史に書かれている。
この訪問は義隆公に好印象で、布教の許可と「学院のような一宇の寺院」を与えられた。
この寺院こそサビエルの住まいとして使用するようにと与えられた大道寺だった。
大道寺はサビエルの居宅ばかりでは無く、トーレスら修道士の宿舎として、また布教所として使用された。
この大道寺の場所は大内氏滅亡後分からなくなったが、滅亡から3百数十年後に山口に赴任したヴィリオン神父によって山口古地図が発見され突き止められた。
古地図を見てみよう。中央にある大内御殿の右に大道寺と書かれている場所が最初の教会となった大道寺である。
大道寺は陶晴賢の乱で消失するが、義隆公の後に領主となった大内義長からキリスト教の教会として建立することが許可された。
この大道寺で日本で最初のクリスマス・ミサが行われたのは1552年の事である。
この時サビエルは日本を去っていたが、トーレス神父(司祭)とガーゴ神父、修道士らによって山口の信者と共に聖歌を歌い降誕祭のミサを行ったことと、日本では山口で初めて降誕祭の祝いが催されたとフロイスの「日本史」に書かれている。 -
では大道寺があった場所を訪ねてみよう。現在はその場所はサビエル公園となっている。
大殿大路を真っ直ぐ東に進むと公園の進入路の隙に写真のような石碑が立てられていた。
ところで、山口ではザビエルの名をサビエルと濁らずに呼ぶ。
サビエル記念公園に山口サビエル記念聖堂、学校もサビエル高等学校と言う具合。
では日本では一般的にザビルと呼ばれているのにどうし山口ではザビルと濁らずにサビエルと呼ぶのだろうか?
スペインのバスク地方ではサビエルは「javier」と綴り、ジャビエルと発音する。
また一般的に「Xavier」と綴るがバスク地方ではシャビエルと発音する。
そのためジャがシャとなり、シャはサと当時の人は聞き取ったのではないかと言われている。
そう言う訳でここではサビエルと呼ぶことにする。 -
その進入路があるのは金古曾町7。
大道寺跡の向かいは陸上自衛隊の山口駐屯所になっているので陸上自衛隊を目標に訪ねて行けば分かり易い。 -
大道寺の跡地の場所を発見したフランス人ヴィリオン神父。
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ヴィリオン神父のデスマスク、眼鏡、使用していた杖。
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ヴィリオン神父の年譜。
1889年に大道寺の遺跡を発見。さらに同年萩・津和野のキリスト教徒の殉教者の調査を行っている。
ほとんどの人には知られていないが萩市には隠れキリシタンの遺跡がかなりの数残されており、隠れキリシタンの墓が多い。 -
サビエル記念公園入り口。ここが旧大道寺跡である。
ここで簡潔にサビエルの生涯を記しておこう。
フランシスコ・サビエルはスペイン北部のナバラ王国のハビエル城(ザビエル城)で生まれたバスク人の貴族の子。幼い頃隣国のカスティーリアに侵攻されて支配されてしまった。
1525年、サビエルはフランスのパリ大学に留学し運命の人に出あう。その人こそバスク人イグナチオ・デ・ロヨラ。私が高校の時にはイグナチウス・デ・ロヨラと習った。
1534年サビエルとロヨラら7人はイエズス会を創設しローマ教皇の認可を得て布教活動を開始した。ザビ ルはポルトガル国王の要請でインドのゴアへ。
1541年にリスボンを出発し1542年にゴアに到着、その後インドネシアのマラッカでも布教を開始した。
その地で日本人アンジロウ(ヤジロー)に出合う。アンジロウはポルトガルが話せて知識欲が旺盛、サビ ルはアンジロウに出会う事で日本に行けばインドより成果が上がると確信した。
サビエルはゴアから出航、マラッカで華人海商のジャンク舟に乗り替えて1549年に鹿児島に上陸した。同行者はアンジロウと宣教師フェルナンデス、トーレスの3名。
薩摩の大名島津貴久から布教を許され信者150人を獲得。その後平戸を経由して天皇や将軍の布教許可を得たいと思いトーレスを平戸に残して東上。
途中日本で最強の領主が居ると聞いていた山口に入る。早速街頭で布教し大内義隆公と面会し信仰につい1時間以上も説明した。義隆公は注意深く聞いてくれたものの布教の許可は得られなかった。
1カ月半山口に逗留したのち京都へ到着。しかし京都は長く続いた戦乱の荒廃から復興しておらず国王(天皇)との謁見をあきらめて堺から平戸に戻った後山口での布教を決意した。
サビエルは再び山口を訪れ大内義隆公に謁見、インド総督とゴアの司教の親書や13の贈り物を差し出すと大いに喜ばれ、布教の許可や寺院を与えられた。毎日2回説法を行い、仏僧と激しい討論を重ねるうちに500人の信者を獲得した。
やがてザビエルは豊後の大友宗麟から招かれフェルナンデスやトーレスらに山口を任せ出発。府内(大分市)に着くと宗麟に歓待された。
一方山口では状況が一変。ザビエルが去って10日後に軍事クーデターが発生。義隆公は長門で自刃したのだ。
サビエルは2カ月後日本を離れてゴアに到着。中国に向けて出発したが広東の沖合にある上川島で熱病にかかって亡くなった。サビエル公園 公園・植物園
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公園中央奥にあるのは聖サビエル記念碑。
さて、サビエルや宣教師は当時の山口をどのように見たのだろうか。
トーレスはイエズス会への手紙で大内義隆公の事を「領地と家臣はカスティーリアの王よりも大きい君主」、山口については「国内でも一番大きな城下町の一つ」と報告している。
サビエルも手紙に「1万人以上の人々が住む町」と書いている。
山口カトリック教会のHPでは当時の山口の人口は5万人と書かれているが、サビエルの手紙の方が信憑性が高いと思われる。 -
サビエル記念碑は大正15年に建立されたが銅板のサビ エル像は第二次世界大戦中に供出されてしまい、現在の物は昭和24年に彫刻家河内山賢祐史によって作成されたもの。
さて、大内義隆公が喜んだ13の贈り物とは、何か?
ルイス・フロイスの「日本史」には非常に精巧に作られた時計、鉄砲、緞子、鏡、眼鏡、望遠鏡、オルゴール、非常に美しい化粧グラス(ギヤマン)、書籍、絵画、葡萄酒、絵画など。
サビエルは日本に初めて眼鏡を持ち込んだ人といわれている。サビエル公園 公園・植物園
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サビエル記念碑。
サビエルは仲間の宣教師に後事を託して山口を去ったが、残ったトーレス神父に義隆公が大道寺の建直しの許可を与え、日本最初のキリスト教会となった。日本最初のクリスマスミサもこの教会で行われている。
サビエルが山口を去って10日後の事、トーレス神父らを驚かす出来ごとが起こった。
それは家臣陶隆房(後の晴賢)による武力クーデターである。トーレスらは一旦内藤興盛の屋敷に匿われ、その後内藤殿の近しい寺院の小部屋で2日間過ごして難を逃れた。義隆公が山口から逃れた後は内藤氏の奥方の手引きで寺から再び内藤氏の屋敷に移り、数日をそこで過ごした。
こうして難を逃れたトーレス神父らは混乱が収まった山口で再び布教をおこなった。
内藤興盛は長門守護代でザビエルを大内義隆公に引き合わした重臣。キリスト教に入信することは無かったが、宣教師らの良き理解者だったと考えられている。
ここで義隆公亡きあとに当主の座に着いた大内義長について簡単に触れておきたい。
大内義長は豊後の戦国大名大友義鑑の二男で大友晴英、兄が大友宗麟である。大内義隆公の姉が大友義鑑の正室なので大内義長(大友晴英)は義隆公の甥にあたる。
出雲の月山富田城の戦いで義隆公の養嗣子晴持が死亡したため義隆公の養子として望まれたが嫡子が生まれたため養子の話は白紙になった過去がある。
陶晴賢からクーデター成功の暁には大内家の当主にと望まれると、陶氏の傀儡政権ではあるが自ら進んで当主になった。
厳島の戦いで陶晴賢が敗死した後は毛利元就に侵攻され、長府の功山寺で自刃した。
こうして大内氏は支配下の国人領主によって滅亡した。
陶晴賢も、毛利元就もともに大内義隆公の家来や配下であったためどちらも大内氏から見ると下剋上に変わりはないのだが、毛利は巧妙にも主殺しの仇陶晴賢を義隆公に変わって毛利が討つと称して大内氏の本国周防・長門国を侵略した。
この毛利元就の巧妙な喧伝に騙された歴史学者は近年まで陶晴賢は主殺しの極悪人、毛利元就はその仇を打った善人との構図を信じこまされ疑うことすらしなかった。
そのため大内氏の滅亡は大内義隆公が死亡した時と言うのが定説になっていたのである。
しかし実際には大内氏の最後の当主は大内義長であり、陶晴賢が戦死して以降も大内家は存続していた。
陶晴賢のクーデターは陶が大内氏を倒して簒奪することでは無く、当主の首をすげ替えるだけにすぎなかった。
そのため大内氏の多くの重臣や傘下の国人領主は陶側に味方したのである。毛利元就は陶晴賢が大内館や多くの寺社や民家を焼いたと吹聴したが、陶晴賢は大内館や築山御殿に火を掛けていない。いくつかの寺院が焼失したのは事実だが毛利が吹聴するほどの被害は山口では起きていなかったのだ。
近時大内氏の研究が進むにつれて、大内氏滅亡の張本人は毛利元就であり、それをはぐらかす為に毛利元就得意の謀略が行われた。大内氏の最後の領主は大内義長であるというのが定説になっている。 -
サビエル記念碑。
日本で初めてクリスマスが祝われたのは1552年(天文21年)のこと。サビエルは前年に山口を離れ大内家当主は大内義長になっていた。
この時山口にはトールス神父がおり、その年に豊後の府内に着いたカーゴ神父や修道士らも山口にやって来て降誕祭を祝った。
フロイスの「日本史」には山口の人々と聖歌を歌うなどして共に初めて降誕祭りを祝ったと書かかれている。 -
サビエル記念公園の説明。
大内義長の裁許状の写真は写していないが同じ銅板の裁許状は別の場所にもあるため、写真はそちらの物を後日の旅行記に記載したい。 -
山口サビエル記念聖堂。
教会の建物としては2代目。初代の教会は昭和27年にサビエルの山口での布教400年を記念して、サビエルの故郷にあるハビエル城(ザビエル城)を模して建てられた。
この教会の特徴は床が畳敷だったこと。聖堂の左右の壁にはサビエル誕生から山口で布教するまでの出来事を描いたステンドグラスがあった。
このステンドグラスはサビエルの故郷パンプローナ市のステンドグラスの職人によって製作され寄付されたものだ。
この教会は平成3年9月3日に全焼したが、焼けたステンドグラスを再製作すれば当時の価格で3億以上もするという高価なものだった。
失火の原因は不明、火は3日3晩燃え続けて全焼した。山口市のシンボル的な教会だったので山口市民の衝撃は大きかった。私も他県に居た時このニュースをTVで見たがシ大変ョックだった。
焼失後、焼け崩れた教会を見に行ったが、教会の焼跡は熱でひん曲がった鉄骨や黒く焼けただれたコンクリートや石の塊がゴロゴロしているだけで、教会は跡形も無く崩れ去っていて涙さえも出なかった。
教会の再建が叫ばれ、イエズス会や信者や山口市民の有志が中心になって教会再建企画がまとめられ、建築資金の募集が行われた。
今のようなクラウドファンディングがあればもっと浄財が集まったかもしれないが、その当時の浄財は復元が予定されていたステンドグラスにも満たない額だった。
私の記憶ではステンドグラスの作製だけでも3億以上した。山口市民や信者の願いはステンドグラスを復元して欲しいという事だったが、寄付金が希望額に満たないため募金期間を延長したものの結局ステンドグラスの復元は諦めるしか無かった。
教会からの寄付金はイエズス会から資金援助があったがバチカンからは無かったと記憶している。それでも他の教会関係や全国の善意の募金のお陰で教会を再建する事ができた。
ステンドグラスは復元出来なかったが、近代的な白亜の教会が建てられた。
教会が再建されたのは1998年、三角形の屋根はテントを現し、2本の尖塔は水と光を表している。
教会はイタリア人神父コンスタンチノ・ルッジェリと建築家ルイジ・レオニよって設計された。何故テントなのかと言うと、キリストの先祖は遊牧民でテントで生活していた。テントは神の家を表し、水、光とも聖書に書かかれている事を元にデザインしたそうだ。
塔には9つのカリヨンの鐘が設置され、鳴らされている。サビエル記念聖堂 美術館・博物館
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サビエル記念聖堂はカトリックの教会だが、外観も内部もプロテスタント教会のようにシンプルな教会に生まれ代わった。
旧教会とあまりに印象が違い過ぎるので市民からの評判は芳しく無く、出来上がってしばらくは見に行く人もほとんどなかったが、平成の終わり頃から令和になってやっと定着してきたような印象を受ける。
旧聖堂は石造建築の荘厳な教会だったが、新教会は現代建築のガラス貼りの教会で旧聖堂とは余りに違い過ぎて信者や市民には全く納得行かなかったそうだ。
新教会は1998年に再建された。教会の1階がキリスト教資料展示館になっているので200円の入場料が必要。資料展示館を見て教会の中に入る様になっているが、直接2階から教会内部に入ることもできる。サビエル記念聖堂 美術館・博物館
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教会の隣にある亀山公園から眺めた山口サビエル記念聖堂。
2本の尖塔を持つ白亜の聖堂は今や山口市のランドマークと言ってもいいであろう。サビエル記念聖堂 美術館・博物館
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旧サビエル記念聖堂。
サビエルが生まれたスペインナバラのハビエル城を模して造られた石造りの教会。
スペイン、ナバラのガラス工房で作られたサビエルの半生のステンドグラスは、それはそれは見事な物だった。
教会内部の床は畳敷き。当時日本の教会で畳敷きの教会はここだけだったと記憶している。
高校の合唱部の仲間と聖歌隊に所属し、毎年クリスマスに聖歌を歌っていた事が懐かしく思い出される。
私が一番印象に残っているのがサビエルのステンドグラスと主祭壇の祭壇画。
当時の学生にはとても高価だったのが一眼レフカメラ。なので私も当時は持っていなかった。
教会内の写真撮影は丿ーフラッシュだったので、一眼レフカメラでないと薄暗い教会内での撮影は難しかった。私が一眼レフカメラを手にした時には、すでに旧聖堂は消失していて跡形も無かった。
そう云う訳でサビエルのステンドグラスの写真は一枚も持っていない。 -
桜と旧サビエル記念聖堂。
私が再びサビエル記念聖堂を訪れたのは新教会が出来てからだ。
キリスト教とサビエル関係の博物館があると知ったのはこの時だった。
サビエルのステンドグラスの写真がひょっとしたらあるのではないかと思い館内隈なく探したが、残念ながら一枚も無かった。
僅かに一枚あったのは旧サビエル記念聖堂を正面から写した写真だけだった。
それから教会の外観を撮影した短いビデオ映像があるだけで、ステンドグラスの写真や映像は見る事が出来なかった。 -
私が新教会を訪れてからはや数十年、今回旅行記を作成するにあたり、何十年振りかで教会内の博物館を訪れてみた。
すると旧サビエル記念聖堂の写真とステンドグラスを含めた教会内部の写真が展示されていた。
写真での対面だったが、私には懐かしステンドグラスだった。
博物館の入場料金は200円、ノーフラッシュであれば内部の展示品の撮影は自由だ。
今回撮影した旧サビエル記念聖堂やステンドグラスの写真は全て展示品を撮影したものである。 -
旧サビエル記念聖堂の火災時の写真。
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在りし日の旧サビエル記念聖堂内部の写真。
床は畳敷きで左右の壁にはサビエルのステンドグラスがあった。
正面の主祭壇の壁にはフレスコ画の祭壇画が描かれていた。 -
焼失した聖堂の壁画。
中央にイエス・キリスト、キリストに向って左側は西欧の聖人達、右側には日本の聖人達が描かれていた。
キリストの左側、青い衣装の女性は聖母マリア、聖母マリアの後ろの男性は父親のヨセフ、次に赤い衣装を纏いひざまずいている女性がマグダラのマリア、カトリックでは認めていないがイエス・キリストの妻と言われる聖人である。ここまではイエスの家族(聖家族)が描かれていて、それに続くのが12使徒。
マグダラのマリアのすぐ後は剣を持つペテロ、その隣が天国の鍵を握るパウロ、そして12使徒の中程に描かれた女性がヤコブの母マリア。壁画には3人のマリアが描かれていたのだ。後に続く人々は聖人に列せられた人々。
次にキリストの右側に描かれた人々を見てみよう。
キリストの右に描かれているねはフランシスコ・サビエル、次が宣教師トールスと修道士フェルナンデス、その後は裃姿のキリシタン大名高山右近、武士階級の男性の内の一人が毛利家の重臣で萩で殉教した熊谷元直、その後に続くのは高山右近をキリスト教に改宗させた元琵琶法師ロレンソ、秀吉の伴天連追放令後神父の代わりに山口のキリスト教信者を導いた盲目の琵琶法師ダミアン。ダミアンは刑使の再三の改宗にも応ぜず山口市湯田近くの椹野川沿いの一本松の刑場で処刑されて殉教。
毛利の命令でダミアンの体は切り刻まれて川に投げ捨てられた。
これは毛利輝元がキリシタンの処刑を他人に知られないよう強く望んだためだった。
翌朝、事の異変に気付いた信者らによって刑場周辺が捜索され、ダミアンの衣服と首と一本の腕だけが発見された。
壁画右端は長崎で殉教した26聖人が描かれているそうだが、右端の打掛を着た女性は細川ガラシャ夫人。
この教会は観光名所では無いのでガイドはいなかった。そのため描いた画家の名前は分からない。
特に右側の絵は学生時代に教会の職員から聞いた記憶に基づいて書き起こしたものである。かなり前の記憶なので正しいかどうかあまり自信がない。 -
主祭壇の壁画。
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壁画のアップ。
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聖堂内のステンドグラス。
ステンドグラスはサビル出生の時から山口の大殿小路で辻説法する迄の半生の場面だったと記憶している。
サビルはスペイン北部のバスク地方にあったナバラ王国のハビエル城(サビル城とも言う)で生まれた。 -
ナバラ王国はカスティーリアに侵攻され、その支配下に置かれた。
サビエルは1525年、フランスのパリ大学に留学する。 -
サビエルはパリ大学でイグナチオと運命的な出会いをし、宣教師となった。
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教皇パウロ3 世から祝福を受け、布教活動を開始した。
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サビエルはポルトガル国王の要請で布教のためインドのゴアに赴く事になった。こうしてリスボンからインドへ向けて出帆した。
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サビエルは布教のためインドネシアのマラッカに赴いたが、そこで日本人アンジロウに会う。
彼はアンジロウに接する事で、日本人の優れた資質に気付き、日本に行けばインドよりも成果が上がる事を確信した。 -
サビエルは鹿児島に上陸し布教を行い150人の信者を獲得、次に平戸で信者を百人獲得したが天皇や将軍に布教許可をもらうため東上を決意した。その途上日本て最強の領主がいるという山口を訪れることにして、下関に上陸し陸路山口を目指した。
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山口で領主の大内義隆に面談、サビエルの説明を聞いたものの布教の許可は得られなかった。
そのため山口には1か月半あまりの滞在で、京都に向かった。
京都に到着したが都は戦乱で荒廃しており天皇の謁見をあきらめて平戸に戻り、山口で活動することを決意した。 -
再び山口を訪れたサビエルは大内義隆公に再び謁見、インド総督とゴアの司教の親書と13品の贈り物を差し出すと、布教の許可とサビエルらの居所と布教所とし寺(大道寺)を与えられた。
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大殿小路の井戸端で辻説法するサビエル。現在は大殿大路だが当時は大殿小路。山口古地図にも大殿小路と書かれている。
サビエルはフェルナンデスとともに大殿小路の井戸端に立って布教活動をした。
その活動の様子はローマのイエズス会にあて手紙に詳しく書かれている。
以上が旧聖堂のステンドグラスとして紹介されていたが、私の朧げな記憶ではあと数枚あったのではないかと思う。 -
焼失した火災現場から見つかったステンドグラスの破片。
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ここからはキリスト教資料展示館の展示品を幾つか紹介したい。
旧サビル記念聖堂やステンドドグラスの写真も展示館に展示されているが、内部の写真はフラッシュを焚かなければ自由に撮影できる。
内部の展示品は多数あるため写真に写したのはその極一部である。
この絵画はザビエル日本上陸。
鹿児島に上陸した場面。天(絵の上部)に山口の瑠璃光寺五重塔と旧サビル記念聖堂が書かれている。 -
聖イグナチオ・デ・ロヨラの紋章。
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フランシスコ・サビエルの紋章
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ザビエル家の紋章
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サビエルが生まれたハビエル城(ザビエル城)の模型。
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聖母マリア像。
18世紀にドイツで作製されたバロック様式の木彫りの像。
旧聖堂時代に山口教会に寄贈された物である。足の下に踏みつけている蛇は悪魔を表しているそうだ。 -
聖イグナチオとリバデネイラ像。
聖イグナチオ・デ・ロヨラは聖フランシスコ・サビエルを回心に導き、他の同士と共にイエズス会を創設した人。彼によってイエズス会に受け入れれたのがペドロ・デ・リバデネイラ。
当時13歳だったが、後にイグナチオの最初の伝記を書いた。 -
サビエルの聖腕を入れた厨子。
1999年、サビエルの渡来450周年を記念してローマからサビエルの聖腕(右腕)が日本に到着した。
聖腕は鹿児島から平戸、福岡、沖縄、小倉、岡山を経て10月21日に山口に到着、その後広島、大分、宮崎を巡ってローマに戻った。
この厨子はその時にサビエルの聖腕が安置された物である。
この右腕は1614年にイエズス会総長の命により遺体から切断されローマのジェズ教会に保管されている。
ジェズ教会内の右翼廊にある聖フランシスコ・ザビエル聖堂内にある聖遺物箱の中に保管されており、遺体はインドゴアのジェズ教会に埋葬されている。 -
この厨子は宇部市出身の日本画家馬場良治氏によって制作されたものである。
中央の写真がサビエルの右腕。写真のようにこの厨子に安置された行列が山口の中心商店街を練り歩いた。
私は運良く転勤で山口市の支店に勤務していたためサビエルの右腕を見ることが出来た。
当時は写真のような行列があったが、私が見た時は厨子の扉が開かれ、誰でも間近でザビエルの右腕を見ることができた。
ザビエルの遺体はミイラと聞いていたがその時のザビルの右腕は艷やかな琥珀色をしていて、とてもミイラには見えなかった。
今でも記憶に在るのが艶やかな右腕だが右手の指が一部なかった事だ。
写真て見ると親指と小指が無い。後で知った事だがサビルの親指はここ山口ザビエル記念聖堂にあるそうだ。
十字架の真ん中に収められているらしい。その十字架はここキリスト教資料展示館にあるとの事。展示館の内部は残さず見たつもりだったが、この十字架は見落としたようだ。 -
サビルの聖腕を安置した厨子の説明書き。
私はまだこの時は馬場良治画伯の事は知らなかったが、当時から重要文化財修復の日本画家として第一級の技術を持ち、数々の寺の内陣の壁画の復元修復を手掛けられている。
日本画家が本業なので山水画の個展を見に行った事があるが、素晴らしい出来栄えの障壁画に圧倒されて一目でファンになった。 -
大内義隆公に謁見するサビエル。
中央に献上した13品の贈り物が描かれている。 -
大殿小路の井戸端で辻説法するサビエルとフェルナンデス。
説明書きの写真を撮っていないので書かれた画伯の名前は不知。 -
スぺインナバラ州政府から寄贈されたステンドグラス。
このステンドグラスには6つの場メンが画かれているが詳しくは下の説明書きを参照のこと。 -
ステンドグラスの説明書き。
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ゴアで埋葬されたサビエルの遺体にかけられていた布。
キリスト教資料展示館は一担ここで終わります。次回はこの続きから。
キリスト教の本格的な布教が山口なら、日本で最初のクリスマスミサが行われたのも山口です。
キリスト教に興味のある人も、無い人も次の旅行記にも興味を持って頂けると嬉しいです。
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2023/05/16~
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山口歴史探訪 西国一の守護大名大内氏の足跡を訪ねて 1 西の京山口を開府した大内弘世公
2023/05/26~
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2023/05/26~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の軌跡を訪ねて3 西の京の基礎造りをした大内弘世 3
2023/05/26~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の軌跡を訪ねて4 倭寇を討伐して朝鮮との貿易を認められた大内義弘1
2023/05/27~
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2023/05/27~
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2023/05/28~
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山口歴史探訪 西国一の守護大名大内氏の足跡を訪ねて7 勘合貿易に参入し雪舟を支援した大内教弘
2023/05/29~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 9 大内正弘と雪舟
2023/06/05~
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2023/06/08~
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2023/06/10~
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2023/06/15~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 18 西国一の御屋形様 大内義隆とサビエル 1
2023/06/18~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 19 大内義隆とサビエル2
2023/06/18~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 16 大内義興 3
2023/06/26~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 17 大内義興4 大内氏の勘合貿易
2023/06/26~
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山口歴史探訪 西国一の守護大名大内氏の足跡を訪ねて 20 大内義隆公終焉の地大寧寺
2023/09/20~
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山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 12 大内正弘と雪舟 4 常徳寺庭園
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