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喜多院の参拝を済ましたので、周辺をゆっくりと歩いてみましょう。<br />平安時代の天長7年(830年)、慈覚大師円仁は芳道仙人の古跡であった仙波の霊場に一寺を建立しました。これが無量寿寺の創建です。当初は仏地院(中院)のみ建立されました。<br />天慶4年(914年)の天慶の乱で堂宇を焼失し、382年後の永仁4年(1296年)の秋、武蔵国足立郡郡原市(埼玉県上尾市原市=芸人ハライチの出身地)に生まれた尊海僧正が仏地院を再建し、関東天台宗の本山となりました。関東の天台宗580余寺が仏地院に付くほどの隆盛でした。その後、この尊海僧正は仏蔵院(北院)と多聞院(南院)を建立しました。<br />再建前の建長5年(1253年)年4月28日に僧蓮長は日蓮と名を改め、日蓮宗を開宗しましたが、その後、中院において尊海僧正より恵心流の傳法灌頂を受けています。ということは、御堂はないにしても庵のようなものがあったのでしょう。その場所も現在地ではなく、現在は仙波東照宮が建っている丘のある所です。<br />その頃の無量寿寺は仏地院が中心的な役割を果たしていましたが、慶長4年(1599年)に天海僧正が仏蔵院(北院)に入り、寺名を喜多院と改めて以降、仏地院の地位は相対的に下がり、喜多院が天台宗の中心となりました。<br />寛永15年(1638年)1月の川越大火では町域の4割が焼失しました。喜多院界隈もほとんどが焼けてしまい、その後、喜多院境内にあった仙波東照宮を現在地に築山を造って移転し、かつてその場所にあった中院はさらに南側に移転を強いられました。<br />昭和51年(1976年)、宗祖伝教大師(最澄)ご出家得度千二百年慶讃大法会にあたり、中院は天台宗別格本山特別寺の称号を受けることとなり、天台宗の寺格では喜多院の上位に位置付けられています。<br />

川越大師・喜多院から中院界隈を歩きましょう

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2022/03/30 - 2022/03/30

28位(同エリア2135件中)

旅行記グループ 埼玉の旅その2

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FUKUJIRO

FUKUJIROさん

この旅行記のスケジュール

2022/03/30

この旅行記スケジュールを元に

喜多院の参拝を済ましたので、周辺をゆっくりと歩いてみましょう。
平安時代の天長7年(830年)、慈覚大師円仁は芳道仙人の古跡であった仙波の霊場に一寺を建立しました。これが無量寿寺の創建です。当初は仏地院(中院)のみ建立されました。
天慶4年(914年)の天慶の乱で堂宇を焼失し、382年後の永仁4年(1296年)の秋、武蔵国足立郡郡原市(埼玉県上尾市原市=芸人ハライチの出身地)に生まれた尊海僧正が仏地院を再建し、関東天台宗の本山となりました。関東の天台宗580余寺が仏地院に付くほどの隆盛でした。その後、この尊海僧正は仏蔵院(北院)と多聞院(南院)を建立しました。
再建前の建長5年(1253年)年4月28日に僧蓮長は日蓮と名を改め、日蓮宗を開宗しましたが、その後、中院において尊海僧正より恵心流の傳法灌頂を受けています。ということは、御堂はないにしても庵のようなものがあったのでしょう。その場所も現在地ではなく、現在は仙波東照宮が建っている丘のある所です。
その頃の無量寿寺は仏地院が中心的な役割を果たしていましたが、慶長4年(1599年)に天海僧正が仏蔵院(北院)に入り、寺名を喜多院と改めて以降、仏地院の地位は相対的に下がり、喜多院が天台宗の中心となりました。
寛永15年(1638年)1月の川越大火では町域の4割が焼失しました。喜多院界隈もほとんどが焼けてしまい、その後、喜多院境内にあった仙波東照宮を現在地に築山を造って移転し、かつてその場所にあった中院はさらに南側に移転を強いられました。
昭和51年(1976年)、宗祖伝教大師(最澄)ご出家得度千二百年慶讃大法会にあたり、中院は天台宗別格本山特別寺の称号を受けることとなり、天台宗の寺格では喜多院の上位に位置付けられています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
徒歩

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  • よろしければ喜多院の参拝を済ませた記録からご覧ください。<br />https://4travel.jp/travelogue/11745976<br />喜多院の山門を出て、日枝神社に参拝します。

    よろしければ喜多院の参拝を済ませた記録からご覧ください。
    https://4travel.jp/travelogue/11745976
    喜多院の山門を出て、日枝神社に参拝します。

  • 日枝神社古墳(多宝塔古墳)。<br />喜多院の山門を出てすぐ前に日枝神社がありますが、元々この場所には前方後円墳がありました。そこに喜多院の多宝塔が建っていました。喜多院の多宝塔が建っていたことから多宝塔古墳ともいいます。<br />明治45年の道路新設のために多宝塔を境内の本堂脇に移設、大正12年に県道工事を行った際に古墳のほとんどが失われました。

    日枝神社古墳(多宝塔古墳)。
    喜多院の山門を出てすぐ前に日枝神社がありますが、元々この場所には前方後円墳がありました。そこに喜多院の多宝塔が建っていました。喜多院の多宝塔が建っていたことから多宝塔古墳ともいいます。
    明治45年の道路新設のために多宝塔を境内の本堂脇に移設、大正12年に県道工事を行った際に古墳のほとんどが失われました。

  • 日枝神社にお参りします。<br />旧国宝保存法では国宝指定を受けていました。<br />無量寿寺の鎮守として、慈覚大師円仁が貞観2年(860年)に坂本(滋賀県)の日吉神社を勧請したものといわれます。<br />

    日枝神社にお参りします。
    旧国宝保存法では国宝指定を受けていました。
    無量寿寺の鎮守として、慈覚大師円仁が貞観2年(860年)に坂本(滋賀県)の日吉神社を勧請したものといわれます。

  • 日枝神社の額。

    日枝神社の額。

  • 老朽化していた拝殿は、平成16年(2004年)に再建されたました。<br />御祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大己貴命(おおなむちのみこと)の二柱です。<br />有名な赤坂日枝神社は、文明10年(1478年)に太田道灌公が江戸の地に城を築くに当たって、この川越日枝神社を江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまります。

    老朽化していた拝殿は、平成16年(2004年)に再建されたました。
    御祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大己貴命(おおなむちのみこと)の二柱です。
    有名な赤坂日枝神社は、文明10年(1478年)に太田道灌公が江戸の地に城を築くに当たって、この川越日枝神社を江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまります。

  • 「あんたがた何所さ 肥後さ…」という童歌の発祥地が日枝神社の古墳だとする説があります。「せんば山には狸がおってさ...」のせんば山が仙波山、つまり日枝神社古墳のことで、狸とは天海僧正を暗喩しているらしいですね。

    「あんたがた何所さ 肥後さ…」という童歌の発祥地が日枝神社の古墳だとする説があります。「せんば山には狸がおってさ...」のせんば山が仙波山、つまり日枝神社古墳のことで、狸とは天海僧正を暗喩しているらしいですね。

  • 「常燈明之碑」と「植樹記念」碑。<br />「重要文化財指定記念 日枝神社」碑。

    「常燈明之碑」と「植樹記念」碑。
    「重要文化財指定記念 日枝神社」碑。

  • 御本殿です。朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されています。<br />御祭神は神輿型厨子に納められている僧形の大山咋神(おおやまくいのかみ)と大己貴命(おおなむちのみこと)の二柱です。大己貴命は大国主命の異称とされています。

    御本殿です。朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されています。
    御祭神は神輿型厨子に納められている僧形の大山咋神(おおやまくいのかみ)と大己貴命(おおなむちのみこと)の二柱です。大己貴命は大国主命の異称とされています。

  • 底なしの穴跡。<br />拝殿のすぐ右側には、昔から「底なし穴」と呼ばれるたいへん深い穴がありました。<br />伝説では700mほど離れている双子池(弁天池または龍池)と地下で繋がっていたそうですが、現在は埋められてしまい、その真偽は謎のままです。

    底なしの穴跡。
    拝殿のすぐ右側には、昔から「底なし穴」と呼ばれるたいへん深い穴がありました。
    伝説では700mほど離れている双子池(弁天池または龍池)と地下で繋がっていたそうですが、現在は埋められてしまい、その真偽は謎のままです。

  • ということで、別日に双子池へ行ってみました。<br />龍池弁財天(たついけべんざいてん)の標柱がありました。<br />日枝神社から南東へ直線で700m、歩くと1kmちょっとの場所です。<br />近くに駐車場はありませんから、興味のある方は歩いてください。

    ということで、別日に双子池へ行ってみました。
    龍池弁財天(たついけべんざいてん)の標柱がありました。
    日枝神社から南東へ直線で700m、歩くと1kmちょっとの場所です。
    近くに駐車場はありませんから、興味のある方は歩いてください。

  • 住宅地の一角に広場があり、上の段が広場、下の段が池になっています。広場の中心には御神木と思われる大木が聳えており、その根元に小さな祠と壊れた鳥居(手前の2本の柱)がありました。

    住宅地の一角に広場があり、上の段が広場、下の段が池になっています。広場の中心には御神木と思われる大木が聳えており、その根元に小さな祠と壊れた鳥居(手前の2本の柱)がありました。

  • 龍池弁財天の祠です。<br />双子池伝説では、はるかな昔、この辺は一面の海だったと云われており(周辺に貝塚があります)、仙芳仙人がここを霊地と感じ、お寺を建てようとしたところ、この海の主で竜神の化身である老人が現れたので、仙芳仙人は「私の衣を広げただけの土地を頂きたい」と頼みました。<br />老人は承知し、仙芳仙人が衣を波の上に広げるとたちまち数十里の大きさに広がったそうです。老人は驚き「これでは私の住むところがないので、小さな池を残して欲しい」と言い、仙芳仙人は小さな池を残し、土仏を作って海に投げ入れると、たちまち海水が退き陸地になりました。そして小さな池の脇に龍神のために弁財天を祀りました。それがこの双子池(弁天池)と云われています。 現地解説版より。<br />仙芳仙人が建てた祠の跡に無量寿寺が建てられました。

    龍池弁財天の祠です。
    双子池伝説では、はるかな昔、この辺は一面の海だったと云われており(周辺に貝塚があります)、仙芳仙人がここを霊地と感じ、お寺を建てようとしたところ、この海の主で竜神の化身である老人が現れたので、仙芳仙人は「私の衣を広げただけの土地を頂きたい」と頼みました。
    老人は承知し、仙芳仙人が衣を波の上に広げるとたちまち数十里の大きさに広がったそうです。老人は驚き「これでは私の住むところがないので、小さな池を残して欲しい」と言い、仙芳仙人は小さな池を残し、土仏を作って海に投げ入れると、たちまち海水が退き陸地になりました。そして小さな池の脇に龍神のために弁財天を祀りました。それがこの双子池(弁天池)と云われています。 現地解説版より。
    仙芳仙人が建てた祠の跡に無量寿寺が建てられました。

  • 龍池弁財天の額。

    龍池弁財天の額。

  • 祠の内部。

    祠の内部。

  • 双子池(弁天池)。以前はもっと大きな池だったようですが、現在は住宅地の中に取り残された小さな池という印象で、龍神の池には小さすぎるようです。

    双子池(弁天池)。以前はもっと大きな池だったようですが、現在は住宅地の中に取り残された小さな池という印象で、龍神の池には小さすぎるようです。

  • 双子池には流れ込む川がありません。この写真の手前辺りから湧き出しているようです。地下水脈で日枝神社の「底なしの穴」と繋がっているのかもしれません。

    双子池には流れ込む川がありません。この写真の手前辺りから湧き出しているようです。地下水脈で日枝神社の「底なしの穴」と繋がっているのかもしれません。

  • 池の水は左手前の水路から流出しています。右側の水路とはつながっていません。

    池の水は左手前の水路から流出しています。右側の水路とはつながっていません。

  • 水辺には黄菖蒲が咲いていました。

    水辺には黄菖蒲が咲いていました。

  • 喜多院境内に戻りましょう。<br />慈眼堂と鐘楼門の間から、南へ抜ける道があります。<br />これを進みましょう。

    喜多院境内に戻りましょう。
    慈眼堂と鐘楼門の間から、南へ抜ける道があります。
    これを進みましょう。

  • この道は仙波東照宮へ向かう道ですが、途中で朱塗りの太鼓橋が見えました。

    この道は仙波東照宮へ向かう道ですが、途中で朱塗りの太鼓橋が見えました。

  • この辺りは葵庭園といい、5月下旬~7月上旬にかけて蛍を見ることができるそうです。

    この辺りは葵庭園といい、5月下旬~7月上旬にかけて蛍を見ることができるそうです。

  • 太鼓橋は池の小島へ渡るコンクリート橋で、その先には鳥居と小さな祠があります。

    太鼓橋は池の小島へ渡るコンクリート橋で、その先には鳥居と小さな祠があります。

  • 太鼓橋は池の小島へ渡るコンクリート橋で、その先には鳥居と小さな祠があります。

    太鼓橋は池の小島へ渡るコンクリート橋で、その先には鳥居と小さな祠があります。

  • 弁財天厳島神社です。<br />詳しいことは不明です。

    弁財天厳島神社です。
    詳しいことは不明です。

  • 池の鯉。

    池の鯉。

  • その先には仙波東照宮の参道にある団子屋さんが見えています。開運だんごが有名です。

    その先には仙波東照宮の参道にある団子屋さんが見えています。開運だんごが有名です。

  • 仙波東照宮へ登る女坂。ここは登らずに表門に行きましょう。

    仙波東照宮へ登る女坂。ここは登らずに表門に行きましょう。

  • 仙波東照宮の随身門。国指定重要文化財です。<br />この門には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が挙げられていましたが、現在は拝殿内部に掲げられています。<br />随身門に随身はいませんでした。

    仙波東照宮の随身門。国指定重要文化財です。
    この門には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が挙げられていましたが、現在は拝殿内部に掲げられています。
    随身門に随身はいませんでした。

  • 入り口にあった絵図。この絵を描いた松岡章次さんは、県立川越高校の3期生、ノーベル物理学賞受賞者の梶田隆章さんの大先輩にあたる方です。

    入り口にあった絵図。この絵を描いた松岡章次さんは、県立川越高校の3期生、ノーベル物理学賞受賞者の梶田隆章さんの大先輩にあたる方です。

  • 仙波東照宮の案内図です。弁財天厳島神社も描かれています。これを見ると、池のように見えましたが、東照宮のお濠がぐるりと囲んでいることがわかります。

    仙波東照宮の案内図です。弁財天厳島神社も描かれています。これを見ると、池のように見えましたが、東照宮のお濠がぐるりと囲んでいることがわかります。

  • 朱塗りの随身門を潜ると、本殿までの真っ直ぐな参道が伸びています。

    朱塗りの随身門を潜ると、本殿までの真っ直ぐな参道が伸びています。

  • 石鳥居。参道の途中に建っているこの石造りの鳥居は、寛永15年(1638年)9月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれています。

    石鳥居。参道の途中に建っているこの石造りの鳥居は、寛永15年(1638年)9月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれています。

  • 仙波東照宮沿革碑。元文部大臣前早稻田大學總長貴族院議員法學博士高田早苗題額<br />とあります。久能山に神葬された家康公のご遺体を日光山に遷す道中、喜多院に留まったことから、この地に東照宮を建立するに至った経緯が刻まれています。

    仙波東照宮沿革碑。元文部大臣前早稻田大學總長貴族院議員法學博士高田早苗題額
    とあります。久能山に神葬された家康公のご遺体を日光山に遷す道中、喜多院に留まったことから、この地に東照宮を建立するに至った経緯が刻まれています。

  • 修理記念碑。 仙波東照宮はその建造物全部が昭和21年(1946年)11月に重要文化財に指定されました。昭和34年(1959年)9月の台風15号で被害を受けたことから、その後の修理の経緯を刻んでいます。

    修理記念碑。 仙波東照宮はその建造物全部が昭和21年(1946年)11月に重要文化財に指定されました。昭和34年(1959年)9月の台風15号で被害を受けたことから、その後の修理の経緯を刻んでいます。

  • 男坂。東照宮の建立に当たり高さ9mの築山を造り、その上に社殿を造営しました。<br />元和3年(1617年)3月23日から26日までの4日間、徳川家康公のご遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を営みました。<br />その縁で喜多院境内に東照宮が祀られました。その場所は現在慈眼堂が建っている古墳の上でしたが、寛永15年(1639年)の川越大火で焼失後、この地に移っています。焼失前の場所が古墳の上だったことから、同じような築山を造ったようです。

    男坂。東照宮の建立に当たり高さ9mの築山を造り、その上に社殿を造営しました。
    元和3年(1617年)3月23日から26日までの4日間、徳川家康公のご遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を営みました。
    その縁で喜多院境内に東照宮が祀られました。その場所は現在慈眼堂が建っている古墳の上でしたが、寛永15年(1639年)の川越大火で焼失後、この地に移っています。焼失前の場所が古墳の上だったことから、同じような築山を造ったようです。

  • 石段上の柵には葵のご紋があります。柵が閉じられ普段は敷地内へ立ち入ることは出来ません。正月や祭事がある際に扉が開かれ、拝殿を見学することができます。

    石段上の柵には葵のご紋があります。柵が閉じられ普段は敷地内へ立ち入ることは出来ません。正月や祭事がある際に扉が開かれ、拝殿を見学することができます。

  • 仙波東照宮の拝殿。単層の入母屋造り、日本三大東照宮の一つとされています。<br />拝殿前の狛犬は江戸城から移設されたもので、埼玉最古の狛犬です。

    仙波東照宮の拝殿。単層の入母屋造り、日本三大東照宮の一つとされています。
    拝殿前の狛犬は江戸城から移設されたもので、埼玉最古の狛犬です。

  • 拝殿内部には三十六歌仙絵額が掛けられています。<br />奥の御本殿は三間社流れ造りの銅瓦葺、瑞垣は延長30間の瓦葺で中央正面には平唐門があります。

    拝殿内部には三十六歌仙絵額が掛けられています。
    奥の御本殿は三間社流れ造りの銅瓦葺、瑞垣は延長30間の瓦葺で中央正面には平唐門があります。

  • 南院跡。<br />仙波東照宮の随身門の向かい側にあります。<br />南院の塔頭跡と伝わる約20坪の敷地です。現在は住宅地の一角にあり、かつて無量寿寺の多聞院(南院)があったとは想像できません。

    南院跡。
    仙波東照宮の随身門の向かい側にあります。
    南院の塔頭跡と伝わる約20坪の敷地です。現在は住宅地の一角にあり、かつて無量寿寺の多聞院(南院)があったとは想像できません。

  • 閻魔堂記念碑。昭和4年(1929年)の造立です。<br />南院は明治維新後の廃仏毀釈の最中に廃寺となりました。

    閻魔堂記念碑。昭和4年(1929年)の造立です。
    南院は明治維新後の廃仏毀釈の最中に廃寺となりました。

  • 中院の赤門です。3つある門の一番北側の門です。

    中院の赤門です。3つある門の一番北側の門です。

  • 中院の山門です。平成12年に改築。<br />寺号標は昭和50年(1975年)、石灯籠は平成18年に建てられました。

    中院の山門です。平成12年に改築。
    寺号標は昭和50年(1975年)、石灯籠は平成18年に建てられました。

  • 天台宗別格本山の標柱。<br />永仁4年(1296年)中院中興の祖、尊海僧正は天台の顕教(法華経)、密教(真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべてが帰属する関東天台本山の勅許を得ました。<br />天台宗の寺格は、総本山・延暦寺に始まり、門跡寺院、大本山、別格本山、その他寺院となっていて、現在の中院は、別格本山11ヶ寺の一寺です。喜多院より上位に位置づけられています。<br />

    天台宗別格本山の標柱。
    永仁4年(1296年)中院中興の祖、尊海僧正は天台の顕教(法華経)、密教(真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべてが帰属する関東天台本山の勅許を得ました。
    天台宗の寺格は、総本山・延暦寺に始まり、門跡寺院、大本山、別格本山、その他寺院となっていて、現在の中院は、別格本山11ヶ寺の一寺です。喜多院より上位に位置づけられています。

  • 日蓮聖人伝法灌頂之寺の碑。<br />建長5年(1253年)日蓮が尊海僧正より恵心流の傳法灌頂を受けたことを記す碑。傳法灌頂により阿闍梨の位に就き、弟子を持つことが許されました。<br />そして今年(2022年)は日蓮聖人生誕800年です。

    日蓮聖人伝法灌頂之寺の碑。
    建長5年(1253年)日蓮が尊海僧正より恵心流の傳法灌頂を受けたことを記す碑。傳法灌頂により阿闍梨の位に就き、弟子を持つことが許されました。
    そして今年(2022年)は日蓮聖人生誕800年です。

  • 山門から見る本堂。<br />昭和51年(1976年)宗祖伝教大師(最澄)ご出家得度千二百年慶讃大法会にあたり、中院は天台宗別格本山特別寺の称号を受けました。

    山門から見る本堂。
    昭和51年(1976年)宗祖伝教大師(最澄)ご出家得度千二百年慶讃大法会にあたり、中院は天台宗別格本山特別寺の称号を受けました。

  • 中院の境内。川越市指定史跡です。

    中院の境内。川越市指定史跡です。

  • 無量寿園の石碑。

    無量寿園の石碑。

  • 中院御詠歌の碑。昭和59年に建立。<br />武蔵野の仙波之里乃<br />中ノ院弥陀能恵み仁<br />遇ふ曽嬉し記

    中院御詠歌の碑。昭和59年に建立。
    武蔵野の仙波之里乃
    中ノ院弥陀能恵み仁
    遇ふ曽嬉し記

  • 枯山水風の庭園。元々は池があったような感じですね。

    枯山水風の庭園。元々は池があったような感じですね。

  • 敷石供養塔。昭和55年に建立。

    敷石供養塔。昭和55年に建立。

  • 中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られています。<br />藤村が義母加藤みきに贈った茶室・不染亭が境内に移設されて保存されています。

    中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られています。
    藤村が義母加藤みきに贈った茶室・不染亭が境内に移設されて保存されています。

  • 茶室の前には島崎藤村の書による「不染」の碑が立っています。<br />藤村の2人目の妻静子は川越市の出身で、茶道の師匠でもあった義母加藤みきの菩提寺が中院でした。

    茶室の前には島崎藤村の書による「不染」の碑が立っています。
    藤村の2人目の妻静子は川越市の出身で、茶道の師匠でもあった義母加藤みきの菩提寺が中院でした。

  • 茶室・不染亭は川越市新富町に築かれていましたが、マンション建設のために取り壊されることになりました。平成4年11月に中院境内に移築されました。

    茶室・不染亭は川越市新富町に築かれていましたが、マンション建設のために取り壊されることになりました。平成4年11月に中院境内に移築されました。

  • 通常は非公開の不染亭ですが、コロナ禍前には、桜の頃に数日だけSakuraCafeとして開かれ、お抹茶をいただくことができました。中院には「河越茶・狭山茶発祥の地」碑も建っています。

    通常は非公開の不染亭ですが、コロナ禍前には、桜の頃に数日だけSakuraCafeとして開かれ、お抹茶をいただくことができました。中院には「河越茶・狭山茶発祥の地」碑も建っています。

  • 藤村の記念碑の隣には「大正天皇御手植松」があります。

    藤村の記念碑の隣には「大正天皇御手植松」があります。

  • 本堂大修理記念碑。その奥には十三重石塔。

    本堂大修理記念碑。その奥には十三重石塔。

  • 川越では「枝垂れ桜と言えば中院」と知られています。

    川越では「枝垂れ桜と言えば中院」と知られています。

  • 枝垂れ桜。

    枝垂れ桜。

  • 枝垂れ桜。

    枝垂れ桜。

  • 出世観音菩薩像。この観音様は源頼朝公が再起をかけて祈願した出世観音と言われ、成就・健康・商売繁盛などあらゆるご利益があると言われています。<br />なぜ、中院に残されているのかは不明です。

    出世観音菩薩像。この観音様は源頼朝公が再起をかけて祈願した出世観音と言われ、成就・健康・商売繁盛などあらゆるご利益があると言われています。
    なぜ、中院に残されているのかは不明です。

  • 星野山無量寿寺中院の本堂です。<br />寛永15年(1638年)川越大火により焼失、翌年現在地に移転し、享保18年(1733年)に本堂を再建しました。<br />かつて関東天台八ケ檀林の筆頭として栄えた中院は、2030年に開山1200年を迎えます。

    星野山無量寿寺中院の本堂です。
    寛永15年(1638年)川越大火により焼失、翌年現在地に移転し、享保18年(1733年)に本堂を再建しました。
    かつて関東天台八ケ檀林の筆頭として栄えた中院は、2030年に開山1200年を迎えます。

  • 中院本堂。ご本尊は阿弥陀如来像。

    中院本堂。ご本尊は阿弥陀如来像。

  • 無量寿の額が掛っています。<br />鎌倉時代に尊海僧正により再建され、星野山無量寿寺仏地院という称号が贈られました。

    無量寿の額が掛っています。
    鎌倉時代に尊海僧正により再建され、星野山無量寿寺仏地院という称号が贈られました。

  • 入り口は閉ざされ、ご本尊の阿弥陀如来様と思しき写真が貼られていました。

    入り口は閉ざされ、ご本尊の阿弥陀如来様と思しき写真が貼られていました。

  • 秘仏不動明王開扉御影供塔。慈覚大師円仁生誕千二百年(平成6年)に建立。

    秘仏不動明王開扉御影供塔。慈覚大師円仁生誕千二百年(平成6年)に建立。

  • 星野山無量寿寺仏地院中院 歴代先徳之墓。

    星野山無量寿寺仏地院中院 歴代先徳之墓。

  • 原田靏蔵翁銅像(霞功院大棟靏翁居士)。檀徒代表として中院の発展に尽くされた方です。昭和63年に建立。

    原田靏蔵翁銅像(霞功院大棟靏翁居士)。檀徒代表として中院の発展に尽くされた方です。昭和63年に建立。

  • 本堂の南側に位置する釈迦堂です。<br />昭和20年(1945年)に釈迦堂・薬師堂を焼失しました。

    本堂の南側に位置する釈迦堂です。
    昭和20年(1945年)に釈迦堂・薬師堂を焼失しました。

  • 釈迦堂は、昭和61年(1986年)に比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模した古い天台様式で再建されました。

    釈迦堂は、昭和61年(1986年)に比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模した古い天台様式で再建されました。

  • 釈迦堂の前には「河越茶・狭山茶発祥の地」碑が建っています。<br />この碑のことは、入間市博物館 ALITを見学して知りました。<br />そのときの記録です。よろしければご覧ください。<br />https://4travel.jp/travelogue/11739613

    釈迦堂の前には「河越茶・狭山茶発祥の地」碑が建っています。
    この碑のことは、入間市博物館 ALITを見学して知りました。
    そのときの記録です。よろしければご覧ください。
    https://4travel.jp/travelogue/11739613

  • 慈覚大師円仁が無量寿寺仏地院を中興した折に、京から携えてきた茶の実を境内に植えたことが始まりとされています。<br />当時は薬用として用いられていました。30年ほど前までは中院境内にも茶畑があったといいます。

    慈覚大師円仁が無量寿寺仏地院を中興した折に、京から携えてきた茶の実を境内に植えたことが始まりとされています。
    当時は薬用として用いられていました。30年ほど前までは中院境内にも茶畑があったといいます。

  • 副碑。河越茶 狭山茶の起源<br />夫れ茶は遠く平安の昔伝教大師最澄和尚 <br />中国天台山国清寺より伝来し京都に栽培せしより始まる<br />慈覚大師円仁和尚天長七年(830年)<br />当地仙波に星野山無量寿寺仏地院建立に際し<br />比叡山より茶の実を携え境内に薬用として栽培す <br />これが河越茶 狭山茶の起源である<br />当山茶園の茶株を此処に移植し長く伝承す

    副碑。河越茶 狭山茶の起源
    夫れ茶は遠く平安の昔伝教大師最澄和尚 
    中国天台山国清寺より伝来し京都に栽培せしより始まる
    慈覚大師円仁和尚天長七年(830年)
    当地仙波に星野山無量寿寺仏地院建立に際し
    比叡山より茶の実を携え境内に薬用として栽培す 
    これが河越茶 狭山茶の起源である
    当山茶園の茶株を此処に移植し長く伝承す

  • 墓地の奥まったところに案内がありました。<br />加藤みきは、文久3年(1863年)に川越藩蔵前目付の次女として川越に生まれ、4歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年に再び川越に戻り、昭和15年5月に73歳の生涯を閉じました。

    墓地の奥まったところに案内がありました。
    加藤みきは、文久3年(1863年)に川越藩蔵前目付の次女として川越に生まれ、4歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年に再び川越に戻り、昭和15年5月に73歳の生涯を閉じました。

  • 島崎藤村の義母加藤みきさんの墓石は中央右側のものです。<br />墓石の「蓮月不染之墓」は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれています。

    島崎藤村の義母加藤みきさんの墓石は中央右側のものです。
    墓石の「蓮月不染之墓」は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれています。

  • 桜に彩られている鐘楼門です。

    桜に彩られている鐘楼門です。

  • 桜。

    桜。

  • 六地蔵様。

    六地蔵様。

  • 釈迦堂大先達之墓。

    釈迦堂大先達之墓。

  • 太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻の墓です。<br />立札には「郷土誌 多濃武の雁著者 秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓」と記載されています。宝暦3年(1753年)に記された「多濃武の雁」は、川越藩や藩士に関すること、町の来歴や神社・寺院・古跡のことが書かれた資料です。

    太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻の墓です。
    立札には「郷土誌 多濃武の雁著者 秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓」と記載されています。宝暦3年(1753年)に記された「多濃武の雁」は、川越藩や藩士に関すること、町の来歴や神社・寺院・古跡のことが書かれた資料です。

  • 青もみぢ。

    青もみぢ。

  • 躑躅。

    躑躅。

  • 鐘楼門と桜。

    鐘楼門と桜。

  • 桜。

    桜。

  • 桜。

    桜。

  • 鐘楼門と青もみぢ。

    鐘楼門と青もみぢ。

  • 鐘楼門の鐘(真下から)。

    鐘楼門の鐘(真下から)。

  • 鐘楼門と桜と青もみぢ。

    鐘楼門と桜と青もみぢ。

  • 境内を歩いているとき、どこからともなくピアノの演奏が聞こえていました。

    境内を歩いているとき、どこからともなくピアノの演奏が聞こえていました。

  • 平成24年に建てられた薬師堂。<br />昭和20年に焼失してから67年ぶりに復興しました。堂内に十三仏を祀る永代供養墓(位牌・納骨堂)として建立しました。境内の南東角に建っています。

    平成24年に建てられた薬師堂。
    昭和20年に焼失してから67年ぶりに復興しました。堂内に十三仏を祀る永代供養墓(位牌・納骨堂)として建立しました。境内の南東角に建っています。

  • 中院を出て、もう少し南へ進みましょう。<br />光西寺(こうさいじ)は浄土真宗本願寺派の寺院です。

    中院を出て、もう少し南へ進みましょう。
    光西寺(こうさいじ)は浄土真宗本願寺派の寺院です。

  • 光西寺の山門。<br />光西寺は石州浜田(島根県浜田市)にあり、浜田藩士の菩提寺でした。「竹島」での密貿易が露見して、奥州棚倉(福島県)に転封された際に光西寺も移転、幕末の危機に際して、松平周防守康英公はその手腕を買われて老中職に任じられ川越藩主に転封となり、光西寺も川越に移転しました。

    光西寺の山門。
    光西寺は石州浜田(島根県浜田市)にあり、浜田藩士の菩提寺でした。「竹島」での密貿易が露見して、奥州棚倉(福島県)に転封された際に光西寺も移転、幕末の危機に際して、松平周防守康英公はその手腕を買われて老中職に任じられ川越藩主に転封となり、光西寺も川越に移転しました。

  • 緇川山(くろかわさん)の扁額。

    緇川山(くろかわさん)の扁額。

  • 山門には立派な脇障子がありました。<br />

    山門には立派な脇障子がありました。

  • 現代の江戸木彫を代表する彫刻師の北澤一京(きたざわいっきょう)氏の作品です。<br />北澤氏は昭和15年、栃木県生まれ。15歳のとき埼玉の彫刻屋さんに弟子入りしようと家を出たものの道に迷ってしまい、助けてくれた仏壇屋の主人によって浅草の飯島米山氏の工房に連れられたのが今に至る切っ掛けなんだとか。

    現代の江戸木彫を代表する彫刻師の北澤一京(きたざわいっきょう)氏の作品です。
    北澤氏は昭和15年、栃木県生まれ。15歳のとき埼玉の彫刻屋さんに弟子入りしようと家を出たものの道に迷ってしまい、助けてくれた仏壇屋の主人によって浅草の飯島米山氏の工房に連れられたのが今に至る切っ掛けなんだとか。

  • 緇川山浄楽院光西寺の本堂です。ご本尊は阿弥陀如来像。<br />川越に移った光西寺は、その翌年に明治維新となり、寺領もなく寺の建立もなりませんでした。大正の末に現在地に本堂を建立することができました。

    緇川山浄楽院光西寺の本堂です。ご本尊は阿弥陀如来像。
    川越に移った光西寺は、その翌年に明治維新となり、寺領もなく寺の建立もなりませんでした。大正の末に現在地に本堂を建立することができました。

  • 境内のベンチと彫刻。

    境内のベンチと彫刻。

  • 「願い」の彫刻。境内には小野寺優元氏の「願い」という彫刻が建てられています。<br />最低を表わす「下品下生(げぼんげしょう)」の手印には、一切衆生を救済する阿弥陀様の願いが込められているそうです。

    「願い」の彫刻。境内には小野寺優元氏の「願い」という彫刻が建てられています。
    最低を表わす「下品下生(げぼんげしょう)」の手印には、一切衆生を救済する阿弥陀様の願いが込められているそうです。

  • 松平周防守家廟所。川越市指定史跡。<br />光西寺の墓地(本堂の左奥)に玉垣で囲まれた一画があります。<br />慶応2年(1867年)から廃藩置県があった明治4年(1871年)の間に、康英(やすてる)、康載(やすとし)の2氏が川越藩(8万4百石)を治めていました。

    松平周防守家廟所。川越市指定史跡。
    光西寺の墓地(本堂の左奥)に玉垣で囲まれた一画があります。
    慶応2年(1867年)から廃藩置県があった明治4年(1871年)の間に、康英(やすてる)、康載(やすとし)の2氏が川越藩(8万4百石)を治めていました。

  • 墓石には「松井家累代之墓」とあり、松平周防守家の本姓は松井です。<br />このお墓には松井家累代の遺骨170余柱が合葬されています。<br />川越藩最後の藩主として、この地に眠っています。<br />また、光西寺には松平周防守家のゆかりの品々や700点を超える文書が保管されています。中でも徳川家康公の書簡等26点は埼玉県の有形文化財に指定されています。

    墓石には「松井家累代之墓」とあり、松平周防守家の本姓は松井です。
    このお墓には松井家累代の遺骨170余柱が合葬されています。
    川越藩最後の藩主として、この地に眠っています。
    また、光西寺には松平周防守家のゆかりの品々や700点を超える文書が保管されています。中でも徳川家康公の書簡等26点は埼玉県の有形文化財に指定されています。

  • 16:20に閉門しました。

    16:20に閉門しました。

  • 山門の内側です。

    山門の内側です。

  • 山門の内側をよ~く見ると、険しい顔の力士像が屋根を支えています。

    山門の内側をよ~く見ると、険しい顔の力士像が屋根を支えています。

  • さらに足下には小さなカエルがいます。踏み潰さないでくださいね。

    さらに足下には小さなカエルがいます。踏み潰さないでくださいね。

  • 閉じられた山門を外側から。扉には寺紋と宗紋の五七の桐と下り藤が彫られています。でも、閉門時刻が早すぎませんか。<br />

    閉じられた山門を外側から。扉には寺紋と宗紋の五七の桐と下り藤が彫られています。でも、閉門時刻が早すぎませんか。

  • 中院から光西寺にかけて、その向かい側には埼玉県立川越総合高等学校があります。埼玉県立川越農業高校時代を経て令和2年に創立100年を迎えました。

    中院から光西寺にかけて、その向かい側には埼玉県立川越総合高等学校があります。埼玉県立川越農業高校時代を経て令和2年に創立100年を迎えました。

  • 喜多院へ戻る途中、喜多院鐘楼門の近くに星野旅館があります。<br />星野山無量寿寺に肖って名前を付けたのかも知れません。商用・長期滞在の専門旅館で全室和室、食事2食付、駐車場完備とありました。

    喜多院へ戻る途中、喜多院鐘楼門の近くに星野旅館があります。
    星野山無量寿寺に肖って名前を付けたのかも知れません。商用・長期滞在の専門旅館で全室和室、食事2食付、駐車場完備とありました。

  • 星野旅館の外観です。<br />素泊まり 4,500円~、一泊2食付 6,000円~(団体、滞在割引き有り)となっていますが、1泊でもいいのかな。12月30日~1月3日まで休業。<br />

    星野旅館の外観です。
    素泊まり 4,500円~、一泊2食付 6,000円~(団体、滞在割引き有り)となっていますが、1泊でもいいのかな。12月30日~1月3日まで休業。

  • 喜多院 本地堂瑠璃薬師殿跡の表示。<br />その場所は住宅地の路地の奥にありました。<br />かつて鐘楼門の向かい側あった喜多院の本地堂は、明治12年に上野寛永寺に移築され、現在は寛永寺の根本中堂(本堂)となっています。

    喜多院 本地堂瑠璃薬師殿跡の表示。
    その場所は住宅地の路地の奥にありました。
    かつて鐘楼門の向かい側あった喜多院の本地堂は、明治12年に上野寛永寺に移築され、現在は寛永寺の根本中堂(本堂)となっています。

  • 本地堂瑠璃薬師殿跡。<br />元和3年(1617年)、徳川家康公の遺骨を久能山から日光山に運ぶ途中、喜多院において天海僧正が4日間の法要を執り行いましたが、その場所が本地堂瑠璃薬師殿でした。

    本地堂瑠璃薬師殿跡。
    元和3年(1617年)、徳川家康公の遺骨を久能山から日光山に運ぶ途中、喜多院において天海僧正が4日間の法要を執り行いましたが、その場所が本地堂瑠璃薬師殿でした。

  • 仙芳仙人入定塚。文化元年(1804年)建立。<br />また、この場所は、無量寿時の前身となった小庵を建てた仙芳仙人が海を干上がらせて造った土地で、後に入定(即身仏)したと伝わる場所です。

    仙芳仙人入定塚。文化元年(1804年)建立。
    また、この場所は、無量寿時の前身となった小庵を建てた仙芳仙人が海を干上がらせて造った土地で、後に入定(即身仏)したと伝わる場所です。

  • 喜多院 斎霊殿(閻魔堂)。<br />喜多院山門より東側へ70mほど離れた場所にあります。<br />斎霊殿の奥には墓地が広がります。

    喜多院 斎霊殿(閻魔堂)。
    喜多院山門より東側へ70mほど離れた場所にあります。
    斎霊殿の奥には墓地が広がります。

  • 六地蔵様。

    六地蔵様。

  • 川越大夫白井元長の墓。川越藩の家老を務めたようです。

    川越大夫白井元長の墓。川越藩の家老を務めたようです。

  • 高林謙三の墓。川越市指定史跡です。<br />斎霊殿の真横にあります。<br />高林謙三氏は天保3年(1832年)に埼玉県日高市の生まれ。医道と国学を学び川越藩主松平大和守の侍医となりました。<br />後に、私財を投じて製茶の機械を発明し、高林式製茶機は現在も全国の製茶工場で使われています。

    高林謙三の墓。川越市指定史跡です。
    斎霊殿の真横にあります。
    高林謙三氏は天保3年(1832年)に埼玉県日高市の生まれ。医道と国学を学び川越藩主松平大和守の侍医となりました。
    後に、私財を投じて製茶の機械を発明し、高林式製茶機は現在も全国の製茶工場で使われています。

  • 気骨稜々の碑。<br />岩沢虎吉氏の功績が刻まれています。岩沢氏は、高林謙三氏の研究を生涯支えた方で、廃仏毀釈で経済的に困窮していた喜多院の僧侶に茶を栽培を勧めたようです。<br />気骨稜々とは、自分の信念を曲げずに、厳正に貫こうとする態度のこと。<br />題字は、仙波東照宮沿革碑の題字を書いた元文部大臣前早稻田大學總長の高田早苗氏です。

    気骨稜々の碑。
    岩沢虎吉氏の功績が刻まれています。岩沢氏は、高林謙三氏の研究を生涯支えた方で、廃仏毀釈で経済的に困窮していた喜多院の僧侶に茶を栽培を勧めたようです。
    気骨稜々とは、自分の信念を曲げずに、厳正に貫こうとする態度のこと。
    題字は、仙波東照宮沿革碑の題字を書いた元文部大臣前早稻田大學總長の高田早苗氏です。

  • 錫杖を持つ地蔵菩薩様。

    錫杖を持つ地蔵菩薩様。

  • ほっこり。

    ほっこり。

  • 小河原家の墓。川越市指定史跡です。<br />小河原家は、川越藩主松平大和守直基の時代より代々家老職に仕えた一族です。

    小河原家の墓。川越市指定史跡です。
    小河原家は、川越藩主松平大和守直基の時代より代々家老職に仕えた一族です。

  • 小河原政治甫の墓。南から北へ6基の墓石が建てられています。南から2番目の大きな墓石は、大和守斉典(つねのり)に仕え、藩財政の建て直しに尽力し、黒船来航に際して海防警備の将となり活躍した小河原政治甫の墓です。<br />松平大和守の前橋転封に合わせ、小河原一族も移っています。

    小河原政治甫の墓。南から北へ6基の墓石が建てられています。南から2番目の大きな墓石は、大和守斉典(つねのり)に仕え、藩財政の建て直しに尽力し、黒船来航に際して海防警備の将となり活躍した小河原政治甫の墓です。
    松平大和守の前橋転封に合わせ、小河原一族も移っています。

  • 喜多院に隣接している明星駐車場の前には「小江戸めぐりバス」のバス停がありました。川越駅から歩くと20分ちょっとかかりますので、バス利用もお薦めです。<br />喜多院とその界隈を観光するだけでも丸一必要なぐらい見どころがたくさんあります。コロナが落ち着いたら是非ともお出でください。<br />最後までお読みいただきましてありがとうございました。

    喜多院に隣接している明星駐車場の前には「小江戸めぐりバス」のバス停がありました。川越駅から歩くと20分ちょっとかかりますので、バス利用もお薦めです。
    喜多院とその界隈を観光するだけでも丸一必要なぐらい見どころがたくさんあります。コロナが落ち着いたら是非ともお出でください。
    最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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埼玉の旅その2

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