2024/04/12 - 2024/04/12
291位(同エリア2137件中)
杏仁豆腐さん
2023年の七福神巡りで川越を訪れた時、1月8日までは、喜多院客殿の見学ができませんでした。そこで、喜多院客殿の三代将軍徳川家光「誕生の間」、書院の春日局が使用していた「化粧の間」、遠州流庭園の「紅葉山庭園」を見るため、川越へ出かけました。
まだ、桜も楽しめる川越でした。
春の川越(後半)☆川越氷川神社・新河岸川の桜・川越まつり会館☆クラ カフェ☆2024/04/12
https://4travel.jp/travelogue/11897862
☆2023年の川越
小江戸川越七福神めぐり(前半)☆妙善寺~成田山☆2023/01/06
https://4travel.jp/travelogue/11802441
小江戸川越七福神めぐり(前半)☆妙善寺~成田山☆2023/01/06
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- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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東武東上線川越駅で下車。
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駅からも近い川越八幡宮。裏参道から入ります。
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水に浮かぶ花々。
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1028年(長元元年)、房総三カ国で起こった平忠常の乱を鎮圧するため出陣した源頼信は、この地で戦勝を祈願しました。
1030年(長元元年)、戦勝に感謝して創建したのが川越八幡宮なのだと伝えられています。 -
花手水
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厄除け(桃)の神様
古来より、桃は魔除けの果実として崇められており、昔話の桃太郎の鬼退治も魔を祓う桃の霊力に由来します。
日本神話『古事記』の中でも伊弉諾命(いざなぎのみこと)が魔物を追い払う際に桃を投げる様子が描かれています。
このため、桃はのちに意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という名の神様になったと記されています。 -
こころの小径
当宮創建1000年記念事業の一環として、西側の境内地を整備しました。 -
花壇の花がハートです。
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川越三峰神社
三峯神社は江戸時代後期に参拝が盛んになり、川越からも多くの人々が秩父・三峯神社を訪れました。
川越八幡宮創建一千年祭の記念事業の一環として、遥拝所を新たに整備しました。 -
ぐち聞きさま?
「ぐち聞き様」は、聖徳太子の姿をしています。
太子は「一度に十人もの訴えを聞き分けた」といわれ、苦しみ悩む多くの人の救いとなりました。 -
再会(サイカチ)の木
御祭神の母・神功皇后はサイカチの木を植え親しい人々との再会を祈念されたと伝えられます。 -
稲荷神社
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川内優輝の記念足形
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民部(みんぶ)稲荷神社
「相撲稲荷」とも称され、特に「足腰の健康」にご神徳があるとされています。
昔、八王子に住んでいた老狐が、人間に化け「民部」と名のり暮らしていたが、老層に正体を知られたため、川越の梵心山に移り住ました。この民部は、相撲が得意で、老僧に「捻挫や打ち身」の手当の仕方を教えて去っていったとの伝説があり、「まんが日本昔ばなし」でも「民部稲荷」として紹介されました。 -
夫婦イチョウ
明仁上皇陛下がお生まれになった 御年(昭和8年12月23日生)、川越八幡宮の神職によって男イチョウと女イチョウ2本を植樹しました。いつしかその2本の木は寄り添い合い一本に結ばれました。固く結ばれた2本の御神木に触れ、手を合わせると良縁に巡り逢うと言われています。 -
川越八幡神社を後にし、喜多院に向かいます。
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喜多院に到着。 どろぼう橋を渡ります。
むかし、どろぼう橋がまだ木造の細い橋だったころ、町で泥棒をはたらいた者が町奉行の捕り方(罪人を捕らえる役目の人)に追われ、この橋をわたり喜多院に逃げ込みました。喜多院寺領は、江戸幕府のご朱印地なので、捕り方は境内に入ることができません。泥棒は、喜多院の大師さまにお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になったといいます。
それ以来、この橋を「どろぼう橋」と呼ぶようになりました。 -
松平大和守家廟所
川越藩主をつとめた松平大和守家の墓所です。松平大和守家は、明和4年(1866/江戸時代)~慶応2年(1866/江戸時代)に7人が川越藩主(城主)をつとめました。 -
石の基壇の上に大きな石の亀がいます。
松平大和守家の家臣が、城主の使いで喜多院へ来ました。
正面の玄関に駕籠を横づけし、格式の高い寺に対する無礼をとがめられました。その家臣は責任を感じ、駕籠の中で切腹したそうです。
この石の亀は、純心な家臣の霊を弔ったものと言われています。 -
松平大和守家は、徳川家康の次男「結城秀康」の五男「直基」を藩祖とする御家門の家柄です。
7代100年にわたり藩主をつとめ、最大で17万石を領していました。 -
墓所内には5人が眠る五輪塔があり、正面の玉垣内に4基、門脇に1基あります。
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川越市の史跡に指定されています。
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喜多院本堂
桜の花がまだ残っています。 -
多宝塔
寛永16年(1639/江戸時代)に建造されました。
この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内政信(へいのうち まさのぶ)」が建造しました。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。 -
大黒天(小江戸川越七福神)
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庫裏・書院・客殿の3つの建物の見学が今回の川越訪問の大きな目的です。
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庫裏の前の風景もきれいです。
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慈恵堂
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客殿から慈恵堂へと続く渡り廊下。
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庫裏の一角には、玄関が設けられています。
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受付は、庫裏の中にあります。
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三代将軍・徳川家光指示の下、江戸城中・紅葉山の別殿を移築したもので、江戸初期の御殿建築の様式と、現存していない江戸城御殿の姿を偲ばせる大変貴重な建物です。
国の重要文化財に指定されています。 -
建物内は撮影禁止ですが、庭園は撮影OKです。
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江戸時代初期の川越大火で建物の多くを失った際に、徳川家光の命により江戸城紅葉山御殿の一部を移築し再興しました。
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「徳川家光誕生の間」とされる客殿前に広がる「紅葉山庭園」は、御殿を江戸城から移築した際にその庭園を再現したものだそうです。
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江戸時代初期の作庭となります。
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「春日局化粧の間」の前の枯山水書院式曲水の庭園
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大きな八角形の石を中心に、四方に伸びる飛石が配置されています。手前に大きな石、後方に小さな石を使うことにより、遠近感が強調されています。
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癒しの風景
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背景の緑とマッチしている風景
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本堂と客殿をつなぐ渡り廊下を渡ります。
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西側には紅葉山庭園が広がります。
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渡り廊下から慈恵堂に行くことができます。
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慈恵堂から見た多宝塔
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渡り廊下を戻ります。
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客殿が見えます。
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客殿の前
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五百羅漢
日本三大羅漢の一つに数えられます。
中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩。 -
川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
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538体が鎮座しています。
さまざまな表情をした羅漢像を見ることができます。 -
笑う羅漢、泣く羅漢、怒る羅漢。いろいろです。
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深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
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羅漢とは。
阿羅漢。略称して羅漢という。漢訳は応供(おうぐ)。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味です。 -
太子堂
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鐘楼門
国指定重要文化財 -
山門
国指定重要文化財 -
山門には、2体の彫刻があり、そのうちの一つが龍です。
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山門の北側袖には番所があります。
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天海大僧正像
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喜多院門前にある、寿庵 喜多院店で昼食です。
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割子そば三段をいただきました。
茶そばで、さっぱりといただけます。
ひと休みした後は、川越氷川神社に向かいます。
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