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三池炭鉱の黎明期、藩政時代の坑跡付近を歩く旅、四回目は旧三池藩領稲荷山地区とその周辺を歩きます。<br /><br />江戸時代の採炭場は大牟田市の高取山とその周辺で行われました。北側の旧柳河藩家老小野家の採炭場の西側に、三池藩の採炭場である稲荷山(高取山の西部分)がありました。<br />その稲荷山エリアの北側は、以前別の旅行記で取り上げた龍湖瀬坑跡がある谷間、そしてその南側が小浦の谷間になります。<br />小浦の谷間は第二次大戦前頃から化学コンビナートが建設されました。<br />今回の旅行記では小浦の谷間の入口付近を歩き、続いて三池藩領で初めて組織的な採炭を始めたという中村松次郎の足跡を辿ります。<br /><br />旧柳河藩家老・小野家により代々営まれてきた平野山地区に比べて、旧三池藩領は藩の転封、請負や直営など複雑な経緯があり、歴史も坑跡もわかりにくいこと、不明な点も多くあります。<br />そんな中、現時点でわかること、できることをこの旅行記内で行いました。<br />甚だ不完全な内容ですが、ご容赦いただければ幸いです。<br /><br />*旧三池藩領にて石炭長者といわれた藤本傳吾家については別旅行記で取り上げています。<br />「傳吾様には及びもないが、せめてなりたや殿様に ~石炭長者・藤本傳吾の光と影~」 https://4travel.jp/travelogue/11790781<br />構成上、上記の旅行記と本旅行記は写真や内容が一部重複しています。<br /><br />*稲荷山にて江戸時代末期に開かれ、明治時代に西洋近代技術が投入された大浦坑は別旅行記にて紹介していますので、こちらの旅行記では割愛しています。<br />「近代化産業革命遺産の光と影 三池炭鉱(9) 大浦坑と化学コンビナート」 https://4travel.jp/travelogue/11815578<br /><br />(2023/10/15公開、2023/11/30冒頭の地図を追加)

三池炭鉱の故郷・高取山周辺を歩く(4) 旧三池藩 稲荷山周辺 ~採炭の先駆者・中村松次郎の悲劇~

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2022/01/02 - 2023/09/15

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Deco

Decoさん

この旅行記のスケジュール

2022/01/02

この旅行記スケジュールを元に

三池炭鉱の黎明期、藩政時代の坑跡付近を歩く旅、四回目は旧三池藩領稲荷山地区とその周辺を歩きます。

江戸時代の採炭場は大牟田市の高取山とその周辺で行われました。北側の旧柳河藩家老小野家の採炭場の西側に、三池藩の採炭場である稲荷山(高取山の西部分)がありました。
その稲荷山エリアの北側は、以前別の旅行記で取り上げた龍湖瀬坑跡がある谷間、そしてその南側が小浦の谷間になります。
小浦の谷間は第二次大戦前頃から化学コンビナートが建設されました。
今回の旅行記では小浦の谷間の入口付近を歩き、続いて三池藩領で初めて組織的な採炭を始めたという中村松次郎の足跡を辿ります。

旧柳河藩家老・小野家により代々営まれてきた平野山地区に比べて、旧三池藩領は藩の転封、請負や直営など複雑な経緯があり、歴史も坑跡もわかりにくいこと、不明な点も多くあります。
そんな中、現時点でわかること、できることをこの旅行記内で行いました。
甚だ不完全な内容ですが、ご容赦いただければ幸いです。

*旧三池藩領にて石炭長者といわれた藤本傳吾家については別旅行記で取り上げています。
「傳吾様には及びもないが、せめてなりたや殿様に ~石炭長者・藤本傳吾の光と影~」 https://4travel.jp/travelogue/11790781
構成上、上記の旅行記と本旅行記は写真や内容が一部重複しています。

*稲荷山にて江戸時代末期に開かれ、明治時代に西洋近代技術が投入された大浦坑は別旅行記にて紹介していますので、こちらの旅行記では割愛しています。
「近代化産業革命遺産の光と影 三池炭鉱(9) 大浦坑と化学コンビナート」 https://4travel.jp/travelogue/11815578

(2023/10/15公開、2023/11/30冒頭の地図を追加)

旅行の満足度
4.5
グルメ
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 今回歩くのは赤い線で囲まれた三か所です。<br />本来、旧三池藩領の主要な採炭場所であった稲荷山を歩きたかったのですが、化学コンビナートの敷地内のために入れませんでした。<br /><br />この地図は、大牟田市石炭産業科学館にて撮影掲載の許可をいただいています。

    今回歩くのは赤い線で囲まれた三か所です。
    本来、旧三池藩領の主要な採炭場所であった稲荷山を歩きたかったのですが、化学コンビナートの敷地内のために入れませんでした。

    この地図は、大牟田市石炭産業科学館にて撮影掲載の許可をいただいています。

  • 【稲荷(いなり)神社】<br /><br />三池藩領において採炭が行われた稲荷山(とうかやま)は高取山の西側一帯に広がります。<br />北側が以前取り上げた龍湖瀬坑があった谷間。そこから尾根一つを隔てて小浦の谷間、そしてその南に大浦の谷間があり、それぞれ採炭が行われました。<br /><br />この稲荷(いなに)神社は、小浦の谷付近にあります。周囲は三井化学などの化学コンビナートが広がります。<br /><br />化学コンビナートを貫く道路(通称大浦線)に「稲荷神社」の幟が上がっており、奥に進むと小さな神社があります。

    【稲荷(いなり)神社】

    三池藩領において採炭が行われた稲荷山(とうかやま)は高取山の西側一帯に広がります。
    北側が以前取り上げた龍湖瀬坑があった谷間。そこから尾根一つを隔てて小浦の谷間、そしてその南に大浦の谷間があり、それぞれ採炭が行われました。

    この稲荷(いなに)神社は、小浦の谷付近にあります。周囲は三井化学などの化学コンビナートが広がります。

    化学コンビナートを貫く道路(通称大浦線)に「稲荷神社」の幟が上がっており、奥に進むと小さな神社があります。

    稲荷神社 寺・神社・教会

    三池炭鉱の採炭の安全を祈願した神社です by Decoさん
  • 神社の説明です。稲荷神社と千手観音…神仏習合のようです。神社は三池藩主により採炭の安全を期して祀られ、里人から信仰を集めた、とのことです。<br />この稲荷神社、元は稲荷山(高取山の西側部分と思われる)の山頂にあったものをここに移したそうです。

    神社の説明です。稲荷神社と千手観音…神仏習合のようです。神社は三池藩主により採炭の安全を期して祀られ、里人から信仰を集めた、とのことです。
    この稲荷神社、元は稲荷山(高取山の西側部分と思われる)の山頂にあったものをここに移したそうです。

  • まずは稲荷神社から参拝。立派な狛犬が鎮座しています。

    イチオシ

    まずは稲荷神社から参拝。立派な狛犬が鎮座しています。

  • 正面から見た稲荷神社。

    正面から見た稲荷神社。

  • お隣の建物。こちらは千手観音が祀られているのでしょうか。

    お隣の建物。こちらは千手観音が祀られているのでしょうか。

  • 参拝を終えて神社を後にします。

    参拝を終えて神社を後にします。

  • 【鳥居坑付近? 及び中小浦坑・小浦坑入口付近?】<br /><br />神社の先には道が続いていますが…<br />この周辺、藩政期から幾つかの坑があったそうです。<br />稲荷神社の先には「鳥居坑」があったそうで、さらにその奥の谷間には「小浦坑」、一番奥には「中小浦坑」があったそうです。<br />この旅行記を作成するにあたり、稲荷神社から始めたのは、この周辺に三池藩領で初めて組織的採炭が行われた小浦坑があったと考えられるからです。<br /><br />【三池藩の採炭と中村松次郎】<br /><br />三池藩においては最初は藩が行ったのではなく、中村松次郎という百姓が始めたようです。昭和四十年代に編纂された「大牟田市史」上巻によると、元文年間(1736~1741)に始めたようです。久留米藩の石原家記という文書には、1738年には三池藩領稲荷山にて採炭が行われていたと記されており、これは松次郎のことと推測されます。柳河藩の小野家採炭開始(1721年)から早くも17年後には三池藩領でも採炭が行われていたのでしょうか。

    【鳥居坑付近? 及び中小浦坑・小浦坑入口付近?】

    神社の先には道が続いていますが…
    この周辺、藩政期から幾つかの坑があったそうです。
    稲荷神社の先には「鳥居坑」があったそうで、さらにその奥の谷間には「小浦坑」、一番奥には「中小浦坑」があったそうです。
    この旅行記を作成するにあたり、稲荷神社から始めたのは、この周辺に三池藩領で初めて組織的採炭が行われた小浦坑があったと考えられるからです。

    【三池藩の採炭と中村松次郎】

    三池藩においては最初は藩が行ったのではなく、中村松次郎という百姓が始めたようです。昭和四十年代に編纂された「大牟田市史」上巻によると、元文年間(1736~1741)に始めたようです。久留米藩の石原家記という文書には、1738年には三池藩領稲荷山にて採炭が行われていたと記されており、これは松次郎のことと推測されます。柳河藩の小野家採炭開始(1721年)から早くも17年後には三池藩領でも採炭が行われていたのでしょうか。

  • この先は三井化学の土地になっているようで、引き返します。<br /><br />神社の幟に「参拝者一同」「信者一同」とありました。また神社の由緒書きにも「里人の信仰を集め」という部分があります。<br />今は周囲は三井化学などのコンビナートになっていますが、昔は里があって民家もあったのでしょうね。コンビナートができる前は炭鉱に働く人の社宅があったそうです。また家族の知人の90代の方からは「昔は工場のあたりに学校があった」と聞いています。<br />恐らく、ここ一帯の土地は三井鉱山に買収され、後に三井化学を中心とするコンビナートが建設されましたが、稲荷神社は、祭祀施設であるため、買収されずに残ったのだと思います。参拝者、信者というのは、昔このあたりに住まわれていた人々の子孫の方々なのかもしれません。<br /><br />【松次郎の採炭とその顛末】<br /><br />松次郎の炭鉱は、柳河方面の瓦焼用や、長州の製塩用に販売してかなりの利益を上げていたそうです。<br />しかし1766年、三池藩は「百姓が行うには過ぎたるもの」と没収してしまいます。封建時代とはいえ酷い話です。松次郎はその年、悲嘆して悶死したとも自殺したとも伝えられています。「大牟田市史」補巻によると、三池藩は炭鉱没収の代償として現在の市内亀谷町の水田五段歩を与えたそうで、後まで中村家が所有していたそうです。<br /><br />「大牟田市史」下巻によりますと、松蔵は数千両の資金を元手に採炭を始めたとあります。また炭鉱の経営は三池藩と共同で行っていたが、採炭の権利を藩に奪われたとあります。「大牟田市史」補完の中村松次郎の記述と異なる部分がありますが、三池藩が当初から経営に絡んでいたりと、興味深い記述です。<br /><br />しかし…数千両と言えば物凄い大金です。どうやって工面したのでしょうか? 一万石の三池藩にそんなお金があったのでしょうか? それとも領内にお金持ちがいたのでしょうか? 当時の三池宿場町には富豪がいたようですが、こちらは柳河藩家老立花内膳家の領地です。それとも三池の石炭の資金や流通に深く関わった島原の問屋などから融通されたのでしょうか?<br /><br />三池藩では松次郎から炭鉱を没収した後、米屋傳吾に経営を委託しました。傳吾は長崎で採炭技術を学んだともいわれています。困窮者を集めて採炭にあたらせたということで、後の納屋制度の萌芽を見るように思います。傳吾は石炭成金となり、士族の株を買って藤本と名乗りました。そう、江戸時代の三池の石炭長者、初代藤本傳吾です。<br /><br />尚、「大牟田市史」補巻では、室町時代の伝治ェ門の石炭の発見橋について、明言は避けているものの、この小浦谷を有力候補地としてあげています。

    この先は三井化学の土地になっているようで、引き返します。

    神社の幟に「参拝者一同」「信者一同」とありました。また神社の由緒書きにも「里人の信仰を集め」という部分があります。
    今は周囲は三井化学などのコンビナートになっていますが、昔は里があって民家もあったのでしょうね。コンビナートができる前は炭鉱に働く人の社宅があったそうです。また家族の知人の90代の方からは「昔は工場のあたりに学校があった」と聞いています。
    恐らく、ここ一帯の土地は三井鉱山に買収され、後に三井化学を中心とするコンビナートが建設されましたが、稲荷神社は、祭祀施設であるため、買収されずに残ったのだと思います。参拝者、信者というのは、昔このあたりに住まわれていた人々の子孫の方々なのかもしれません。

    【松次郎の採炭とその顛末】

    松次郎の炭鉱は、柳河方面の瓦焼用や、長州の製塩用に販売してかなりの利益を上げていたそうです。
    しかし1766年、三池藩は「百姓が行うには過ぎたるもの」と没収してしまいます。封建時代とはいえ酷い話です。松次郎はその年、悲嘆して悶死したとも自殺したとも伝えられています。「大牟田市史」補巻によると、三池藩は炭鉱没収の代償として現在の市内亀谷町の水田五段歩を与えたそうで、後まで中村家が所有していたそうです。

    「大牟田市史」下巻によりますと、松蔵は数千両の資金を元手に採炭を始めたとあります。また炭鉱の経営は三池藩と共同で行っていたが、採炭の権利を藩に奪われたとあります。「大牟田市史」補完の中村松次郎の記述と異なる部分がありますが、三池藩が当初から経営に絡んでいたりと、興味深い記述です。

    しかし…数千両と言えば物凄い大金です。どうやって工面したのでしょうか? 一万石の三池藩にそんなお金があったのでしょうか? それとも領内にお金持ちがいたのでしょうか? 当時の三池宿場町には富豪がいたようですが、こちらは柳河藩家老立花内膳家の領地です。それとも三池の石炭の資金や流通に深く関わった島原の問屋などから融通されたのでしょうか?

    三池藩では松次郎から炭鉱を没収した後、米屋傳吾に経営を委託しました。傳吾は長崎で採炭技術を学んだともいわれています。困窮者を集めて採炭にあたらせたということで、後の納屋制度の萌芽を見るように思います。傳吾は石炭成金となり、士族の株を買って藤本と名乗りました。そう、江戸時代の三池の石炭長者、初代藤本傳吾です。

    尚、「大牟田市史」補巻では、室町時代の伝治ェ門の石炭の発見橋について、明言は避けているものの、この小浦谷を有力候補地としてあげています。

  • 稲荷神社からコンビナートを貫く道路へ戻ります。<br /><br />【中村松次郎の人物像】<br /><br />中村松次郎については、石炭長者・藤本傳吾以上に資料が少なく、その人物像や足跡を辿ることは困難です。唯一「大牟田市史」補巻に松次郎の人物像がうかがわれる記述があります。<br />その内容を■の箇条書きにしてまとめ、それに対して私の感想や考察を「→」で加えてみました。<br /><br />■松次郎は「松右ェ門」あるいは「松さん」とも呼ばれていた。<br />→「松さん」と呼ばれているということは、周囲の人々に親しまれる人柄だったのでしょうか。<br /><br />■元々は肥後隈府の郷士だった。<br />→隈府とは現在の菊池市の中心部、肥後の名族・菊池氏の本拠地です。松次郎、もしかしたら菊池氏の家臣で、菊池氏が滅んだ後は郷士として土着したのかも知れません。肥後北部、戦国期は争いが絶えず、また豊臣秀吉の天下統一後も内乱が起こったりしました。そんな時代背景の中、三池に移ってきたのかも知れません。<br /><br />■棒術を村の若者たちに教えていた。<br />→ある程度の武芸の心得があったのでしょうか。やはり上述のように元々は武士の家柄だったのかも知れません。また、武芸を教えるということは、それなりに人望があり、指導者・教育者的な人格だったのかも知れません。<br /><br />■明治以後も松次郎の命日には、棒踊りをする十人くらいの人がいた。<br />→もしかしたら棒術を教わった人々の子孫、あるいは松次郎の子孫や親類の方たちだったのかも知れません。松次郎が亡くなったのは1766年です。100年後の明治時代までも供養されていたということを考えると、二つの事柄が推測されます。<br />一つは余程周囲の人々に好かれいたり、感謝されたり、慕われていたこと。もう一つは、その死があまりにも非業のもので、周囲の人が霊を弔う気持ちが強かったということ。<br /><br />中村松次郎、元々は武士で、一定の財産もあったのではないでしょうか。またその人柄は、人望があって今風にいえばリーダーシップがあって、人が集まってくる人物…だったように思えます。

    稲荷神社からコンビナートを貫く道路へ戻ります。

    【中村松次郎の人物像】

    中村松次郎については、石炭長者・藤本傳吾以上に資料が少なく、その人物像や足跡を辿ることは困難です。唯一「大牟田市史」補巻に松次郎の人物像がうかがわれる記述があります。
    その内容を■の箇条書きにしてまとめ、それに対して私の感想や考察を「→」で加えてみました。

    ■松次郎は「松右ェ門」あるいは「松さん」とも呼ばれていた。
    →「松さん」と呼ばれているということは、周囲の人々に親しまれる人柄だったのでしょうか。

    ■元々は肥後隈府の郷士だった。
    →隈府とは現在の菊池市の中心部、肥後の名族・菊池氏の本拠地です。松次郎、もしかしたら菊池氏の家臣で、菊池氏が滅んだ後は郷士として土着したのかも知れません。肥後北部、戦国期は争いが絶えず、また豊臣秀吉の天下統一後も内乱が起こったりしました。そんな時代背景の中、三池に移ってきたのかも知れません。

    ■棒術を村の若者たちに教えていた。
    →ある程度の武芸の心得があったのでしょうか。やはり上述のように元々は武士の家柄だったのかも知れません。また、武芸を教えるということは、それなりに人望があり、指導者・教育者的な人格だったのかも知れません。

    ■明治以後も松次郎の命日には、棒踊りをする十人くらいの人がいた。
    →もしかしたら棒術を教わった人々の子孫、あるいは松次郎の子孫や親類の方たちだったのかも知れません。松次郎が亡くなったのは1766年です。100年後の明治時代までも供養されていたということを考えると、二つの事柄が推測されます。
    一つは余程周囲の人々に好かれいたり、感謝されたり、慕われていたこと。もう一つは、その死があまりにも非業のもので、周囲の人が霊を弔う気持ちが強かったということ。

    中村松次郎、元々は武士で、一定の財産もあったのではないでしょうか。またその人柄は、人望があって今風にいえばリーダーシップがあって、人が集まってくる人物…だったように思えます。

  • 写真は熊本県菊池市の菊池市民広場にある、菊池武光公の銅像です。<br />中村松次郎家は、元々この周辺に住んでいたのでしょうか?<br />もしかして…菊池家の家臣だったのでしょうか? もしそうなら、松次郎の先祖は菊池氏に付き従い、元寇や南北朝の戦いでも奮闘したのでしょうか?

    写真は熊本県菊池市の菊池市民広場にある、菊池武光公の銅像です。
    中村松次郎家は、元々この周辺に住んでいたのでしょうか?
    もしかして…菊池家の家臣だったのでしょうか? もしそうなら、松次郎の先祖は菊池氏に付き従い、元寇や南北朝の戦いでも奮闘したのでしょうか?

    菊池市民広場 名所・史跡

  • 稲荷神社への道から右側(南側)を見ます。神社付近から南にかけてが中村松次郎が採炭を行った小浦の谷間ではないかと思われます。

    稲荷神社への道から右側(南側)を見ます。神社付近から南にかけてが中村松次郎が採炭を行った小浦の谷間ではないかと思われます。

  • 工場の機会の先に高取山の山裾が見えます。

    工場の機会の先に高取山の山裾が見えます。

  • さらに南側。この先はかなり深い谷間になっているようです。かつての小浦坑はこの先にあったのでしょうか?<br /><br />*写真の入口付近に「工場内撮影禁止」の掲示が見えますが、三井化学(株)大牟田工場に確認したところ、「ズームで拡大するのを除いては、敷地外から風景として撮影してネットに使用する分には構わないです」という旨の回答をいただきました。

    さらに南側。この先はかなり深い谷間になっているようです。かつての小浦坑はこの先にあったのでしょうか?

    *写真の入口付近に「工場内撮影禁止」の掲示が見えますが、三井化学(株)大牟田工場に確認したところ、「ズームで拡大するのを除いては、敷地外から風景として撮影してネットに使用する分には構わないです」という旨の回答をいただきました。

  • 【宗慶寺、松蔵(=中村松次郎?)の墓】<br /><br />龍湖瀬エリアから離れて、西北方向にある八尻町へ移動します。<br />八尻町周辺は小高い丘の傾斜地に位置しています。昔はこの周辺は海か湿地だったそうですが、この周辺は土地が高いので古くから人が住み、農地などもあったのではないかと思います。<br /><br />八尻町には宗慶寺というお寺があります。<br />「松蔵」という人物のお墓があるそうですが、この松蔵は中村松次郎ではないかといわれています。

    【宗慶寺、松蔵(=中村松次郎?)の墓】

    龍湖瀬エリアから離れて、西北方向にある八尻町へ移動します。
    八尻町周辺は小高い丘の傾斜地に位置しています。昔はこの周辺は海か湿地だったそうですが、この周辺は土地が高いので古くから人が住み、農地などもあったのではないかと思います。

    八尻町には宗慶寺というお寺があります。
    「松蔵」という人物のお墓があるそうですが、この松蔵は中村松次郎ではないかといわれています。

  • 本堂の側にはお墓があります。<br />松蔵のお墓を探してみますが、簡単に見つかりそうにはありません。<br /><br />…とそのとき、本堂から年配の上品で気さくなご婦人が出てこられて、場所を教えていただきました。

    本堂の側にはお墓があります。
    松蔵のお墓を探してみますが、簡単に見つかりそうにはありません。

    …とそのとき、本堂から年配の上品で気さくなご婦人が出てこられて、場所を教えていただきました。

  • これが松蔵(=中村松次郎?)のお墓と伝えられるものですが、古くなっており、正面からは判別できません。

    これが松蔵(=中村松次郎?)のお墓と伝えられるものですが、古くなっており、正面からは判別できません。

  • しかし、横に廻ると「焚石山請負方」の文字が彫られています。<br />焚石山とは、高取山の西北部、小浦の谷間から龍湖瀬の谷間あたりではないかと思います。<br /><br />中村松次郎のお墓は二つあるとされます。<br />一つはこの旅行記でも取り上げた龍湖瀬墓地。このお墓は元々宗慶寺のある八尻町の一画に墓地があり、そこから移されたそうです。<br /><br />そしてもう一つがこの宗慶寺の「松蔵の墓」。<br />こちらは元々、中村松次郎が開いた小浦坑付近にありました。「大牟田市史」補巻によれば、三池藩が松次郎の炭鉱を没収した後、米屋傳吾(初代・藤本傳吾)が請負い、新たに坑口を開きましたが事故で多くの人が亡くなったそうです。それは松次郎の命日だったそうで、霊を鎮めるために供養塔を建てたとのこと。それが昭和十年頃に宗慶寺に移されたようです。<br />ちなみに、この「松蔵の墓」ですが、触ると祟りがあるとか…。<br /><br />【中村松次郎の生没年と、炭鉱の開始時期の矛盾について】<br /><br />中村松次郎は1766年、34歳で亡くなったとされます。ということは…<br />■中村松次郎は1732年頃に生まれたことになります。<br />そして…<br />■三池藩領で初めて組織的採炭を行ったのは中村松次郎とされます。<br />■三池藩領で初めて採炭が行われたのは1738年頃と記録が残っています。<br /><br />この三つの事柄からすると、中村松次郎は6歳頃から採炭とその経営を始めたことになります。明らかに不自然です。<br /><br />これは私の推測ですが、中村松次郎は二代(あるいはそれ以上)に渡っており、二代目(?)が「松蔵」だったのかも…と思いました。<br />三池藩が松次郎の炭鉱を取り上げた件でも、二つの話が伝わっています。<br />(1)三池藩は松次郎の死後、炭鉱を取り上げた。<br />(2)三池藩は松次郎から炭鉱を取り上げ、その後に松次郎は悶死又は自殺した。<br />これも私のまったくの想像ですが…三池藩は初代(中村松次郎)の死を契機に中村家の炭鉱を取り上げ、二代目(松蔵)は悲嘆にくれて悶死又は自殺した…のかも知れません。あるいは、松次郎より早く採炭を始めた人物がいたのでしょうか?

    イチオシ

    しかし、横に廻ると「焚石山請負方」の文字が彫られています。
    焚石山とは、高取山の西北部、小浦の谷間から龍湖瀬の谷間あたりではないかと思います。

    中村松次郎のお墓は二つあるとされます。
    一つはこの旅行記でも取り上げた龍湖瀬墓地。このお墓は元々宗慶寺のある八尻町の一画に墓地があり、そこから移されたそうです。

    そしてもう一つがこの宗慶寺の「松蔵の墓」。
    こちらは元々、中村松次郎が開いた小浦坑付近にありました。「大牟田市史」補巻によれば、三池藩が松次郎の炭鉱を没収した後、米屋傳吾(初代・藤本傳吾)が請負い、新たに坑口を開きましたが事故で多くの人が亡くなったそうです。それは松次郎の命日だったそうで、霊を鎮めるために供養塔を建てたとのこと。それが昭和十年頃に宗慶寺に移されたようです。
    ちなみに、この「松蔵の墓」ですが、触ると祟りがあるとか…。

    【中村松次郎の生没年と、炭鉱の開始時期の矛盾について】

    中村松次郎は1766年、34歳で亡くなったとされます。ということは…
    ■中村松次郎は1732年頃に生まれたことになります。
    そして…
    ■三池藩領で初めて組織的採炭を行ったのは中村松次郎とされます。
    ■三池藩領で初めて採炭が行われたのは1738年頃と記録が残っています。

    この三つの事柄からすると、中村松次郎は6歳頃から採炭とその経営を始めたことになります。明らかに不自然です。

    これは私の推測ですが、中村松次郎は二代(あるいはそれ以上)に渡っており、二代目(?)が「松蔵」だったのかも…と思いました。
    三池藩が松次郎の炭鉱を取り上げた件でも、二つの話が伝わっています。
    (1)三池藩は松次郎の死後、炭鉱を取り上げた。
    (2)三池藩は松次郎から炭鉱を取り上げ、その後に松次郎は悶死又は自殺した。
    これも私のまったくの想像ですが…三池藩は初代(中村松次郎)の死を契機に中村家の炭鉱を取り上げ、二代目(松蔵)は悲嘆にくれて悶死又は自殺した…のかも知れません。あるいは、松次郎より早く採炭を始めた人物がいたのでしょうか?

  • その下に石炭請負方(=墓を作った)人物の名が彫られています。<br /><br />数名の名前がありますが、一番右には「米屋傳吾」の名が見えます。<br />そう、後に石炭長者・初代藤本傳吾となる人物です。<br />この墓石から、中村松次郎の炭鉱が三池藩に没収された後、複数の人物が請け負ったこと、その中でも米屋傳吾(初代・藤本傳吾)が有力だったことがうかがわれると思います。<br /><br />宗慶寺のご婦人にお礼を申し上げて、お寺を後にします。

    その下に石炭請負方(=墓を作った)人物の名が彫られています。

    数名の名前がありますが、一番右には「米屋傳吾」の名が見えます。
    そう、後に石炭長者・初代藤本傳吾となる人物です。
    この墓石から、中村松次郎の炭鉱が三池藩に没収された後、複数の人物が請け負ったこと、その中でも米屋傳吾(初代・藤本傳吾)が有力だったことがうかがわれると思います。

    宗慶寺のご婦人にお礼を申し上げて、お寺を後にします。

  • 【中村松次郎の田んぼ跡(大牟田市八本町)】<br /><br />宗慶寺前の道を西方向に下っていくと、十字路があります。<br />この写真の先辺りですが、この十字路周辺は、かつて中村松次郎の田んぼがあったとのことです。先述のように松次郎は三池藩に炭鉱を没収されましたが、「大牟田市史」補巻によりますと、藩は炭鉱の代償に水田を与えたそうで、この水田は後々まで存在していたそうです。<br /><br />「大牟田市史」補巻の地図は手書きで明確な場所はわかりにくいのですが、現代の地図と照合するとこのあたり(ヘアーサロン・ウチダがある交差点付近)のようです。

    【中村松次郎の田んぼ跡(大牟田市八本町)】

    宗慶寺前の道を西方向に下っていくと、十字路があります。
    この写真の先辺りですが、この十字路周辺は、かつて中村松次郎の田んぼがあったとのことです。先述のように松次郎は三池藩に炭鉱を没収されましたが、「大牟田市史」補巻によりますと、藩は炭鉱の代償に水田を与えたそうで、この水田は後々まで存在していたそうです。

    「大牟田市史」補巻の地図は手書きで明確な場所はわかりにくいのですが、現代の地図と照合するとこのあたり(ヘアーサロン・ウチダがある交差点付近)のようです。

  • 十字路の北側から交差点方向を撮影。周辺は狭い道もあり、古くからの住宅街のようです。<br /><br />かつては中村松次郎の田んぼがあったという場所ですが、それは江戸時代のこと。明治以降は次第に住宅地になっていったのではないかと思います。古い家、新しい家、広めの道、狭い道が複雑に入り混じった場所でした。<br /><br />中村松次郎は炭鉱を取り上げられて、悲嘆のあまり自死したとも伝えられます。その子孫については私も明確にはわかりません。「大牟田市史」補巻では、明治の頃には家系は絶えていたように記述してありましたが、それまでは子孫の方が松次郎の田んぼを大事に守り伝えていたのでしょうか。<br />*大牟田市史補巻では、明治期に中村家はあったが、それは絶えていた家の名を名乗る形(徴兵を避けるために絶えていた中村家を継ぐ形)だったと読み取れました。

    十字路の北側から交差点方向を撮影。周辺は狭い道もあり、古くからの住宅街のようです。

    かつては中村松次郎の田んぼがあったという場所ですが、それは江戸時代のこと。明治以降は次第に住宅地になっていったのではないかと思います。古い家、新しい家、広めの道、狭い道が複雑に入り混じった場所でした。

    中村松次郎は炭鉱を取り上げられて、悲嘆のあまり自死したとも伝えられます。その子孫については私も明確にはわかりません。「大牟田市史」補巻では、明治の頃には家系は絶えていたように記述してありましたが、それまでは子孫の方が松次郎の田んぼを大事に守り伝えていたのでしょうか。
    *大牟田市史補巻では、明治期に中村家はあったが、それは絶えていた家の名を名乗る形(徴兵を避けるために絶えていた中村家を継ぐ形)だったと読み取れました。

  • 【塚本家があったと思われる辺り(大牟田市八尻町)】<br /><br />中村松次郎の田んぼ跡付近から、さらに西方向へ。三井化学などのコンビナートやゆめタウン(ショッピングモール)と接するこの写真の場所のあたりへ。この周辺に、かつて藤本傳吾と激しく採炭の権利を争った、塚本家があったとのことです。<br />塚本家は薬種、油商、農業などを営む富豪で大地主、千国船も所有しており、島原を拠点に長崎、薩摩、大阪、江戸に石炭を運んでいた、とのことです。<br />藤本傳吾家が恐らくは採炭に特化したお金持ちだったと思われますが、塚本家は数代(七右エ門→茂作→忠次郎→源吾)に渡り、様々な事業を営んでおり、採炭はその一つだったようです。一か月のうち、25日を藤本傳吾家が、残りの5日ほどを塚本家が採炭していたそうです。<br /><br />幕末も近い頃、三池藩主が奥州下手渡から帰還したのに伴い、藤本傳吾家は採炭から外され、塚本家は古賀家と共に採炭の権利を得ます(1852)。しかし程なく炭鉱は藩の直営となり(1860)、塚本家は採炭から離れることになりました。<br /><br />その塚本家があったあたりですが…今は往時をしのばせるものは見つけられませんでした。<br /><br />中村松次郎の田んぼやお墓(供養塔)が映された宗慶寺と、塚本家跡はすぐ近くにあります。また 明治時代に中村家を継いだというお宅もこの近くにあったようです。両家は何か関係があったのでしょうか?

    【塚本家があったと思われる辺り(大牟田市八尻町)】

    中村松次郎の田んぼ跡付近から、さらに西方向へ。三井化学などのコンビナートやゆめタウン(ショッピングモール)と接するこの写真の場所のあたりへ。この周辺に、かつて藤本傳吾と激しく採炭の権利を争った、塚本家があったとのことです。
    塚本家は薬種、油商、農業などを営む富豪で大地主、千国船も所有しており、島原を拠点に長崎、薩摩、大阪、江戸に石炭を運んでいた、とのことです。
    藤本傳吾家が恐らくは採炭に特化したお金持ちだったと思われますが、塚本家は数代(七右エ門→茂作→忠次郎→源吾)に渡り、様々な事業を営んでおり、採炭はその一つだったようです。一か月のうち、25日を藤本傳吾家が、残りの5日ほどを塚本家が採炭していたそうです。

    幕末も近い頃、三池藩主が奥州下手渡から帰還したのに伴い、藤本傳吾家は採炭から外され、塚本家は古賀家と共に採炭の権利を得ます(1852)。しかし程なく炭鉱は藩の直営となり(1860)、塚本家は採炭から離れることになりました。

    その塚本家があったあたりですが…今は往時をしのばせるものは見つけられませんでした。

    中村松次郎の田んぼやお墓(供養塔)が映された宗慶寺と、塚本家跡はすぐ近くにあります。また 明治時代に中村家を継いだというお宅もこの近くにあったようです。両家は何か関係があったのでしょうか?

  • 北側から撮影、道路を隔てて三井化学などのコンビナートが見えます。<br /><br />【維新の志士・塚本源吾(1821~1876)】<br /><br />塚本家の跡取りである源吾は藩主の三池への帰還のために活動、さらに藩主の帰還の際も様々な便宜を図ります。ここでかなり家の財産を使ったようです。<br />さらに維新の志士として活動。安政五年(1858)には江戸に上り、後に三条実美の護衛を務め、毛利慶親に拝謁。蛤門の戦いにも参加。その実績から明治政府に仕官する道もあり、推挙の話もあったようですが、辞退したそうです。<br />その後、三池藩で小さな役目に就いたりしたそうですが、廃藩置県でそれも終わります。そして明治7年には台湾征討に参加しようとしますが、出兵そのものが無くなります。<br /><br />長年の志士の活動などで莫大な資産を使い果たし、一時は知人宅に身を寄せていたそうです。三条実美は源吾を東京に呼んで仕官させようとしましたが、源吾は辞退。明治9年、病で死去します。54歳でした。<br />塚本源吾、この人も波乱の人生ですが、私はその生き方には潔さを感じるのです。

    北側から撮影、道路を隔てて三井化学などのコンビナートが見えます。

    【維新の志士・塚本源吾(1821~1876)】

    塚本家の跡取りである源吾は藩主の三池への帰還のために活動、さらに藩主の帰還の際も様々な便宜を図ります。ここでかなり家の財産を使ったようです。
    さらに維新の志士として活動。安政五年(1858)には江戸に上り、後に三条実美の護衛を務め、毛利慶親に拝謁。蛤門の戦いにも参加。その実績から明治政府に仕官する道もあり、推挙の話もあったようですが、辞退したそうです。
    その後、三池藩で小さな役目に就いたりしたそうですが、廃藩置県でそれも終わります。そして明治7年には台湾征討に参加しようとしますが、出兵そのものが無くなります。

    長年の志士の活動などで莫大な資産を使い果たし、一時は知人宅に身を寄せていたそうです。三条実美は源吾を東京に呼んで仕官させようとしましたが、源吾は辞退。明治9年、病で死去します。54歳でした。
    塚本源吾、この人も波乱の人生ですが、私はその生き方には潔さを感じるのです。

  • 宗慶寺周辺(大牟田市八尻町・亀甲町・八本町)から、さらにその北方向にある鳥塚町に向かいます。<br />この旅行記で見てきた江戸時代の三池藩領の坑は、藩政期は「稲荷村」と呼ばれる地域で、この鳥塚町も採炭地からは少し離れていますが、稲荷村でした。<br /><br />こちらは、熊野神社です。

    宗慶寺周辺(大牟田市八尻町・亀甲町・八本町)から、さらにその北方向にある鳥塚町に向かいます。
    この旅行記で見てきた江戸時代の三池藩領の坑は、藩政期は「稲荷村」と呼ばれる地域で、この鳥塚町も採炭地からは少し離れていますが、稲荷村でした。

    こちらは、熊野神社です。

    熊野神社 寺・神社・教会

    三池炭鉱の守護神 by Decoさん
  • 熊野神社の由来です。533年に土地の豪族により鎮守社として祀られたのが始まり。825年、和歌山の熊野よりご分霊が祭祀されたとあります。

    熊野神社の由来です。533年に土地の豪族により鎮守社として祀られたのが始まり。825年、和歌山の熊野よりご分霊が祭祀されたとあります。

  • 石炭発見の図の碑があります。熊野神社は稲荷村の鎮守社だったので、同じ村内にあった旧三池藩採炭の守り神でもありました。

    石炭発見の図の碑があります。熊野神社は稲荷村の鎮守社だったので、同じ村内にあった旧三池藩採炭の守り神でもありました。

  • 赤い拝殿が映えます。

    イチオシ

    赤い拝殿が映えます。

  • 手水場、神社は小高い丘の上にあります。

    手水場、神社は小高い丘の上にあります。

  • 社務所もあり、御朱印もいただけるそうです。

    社務所もあり、御朱印もいただけるそうです。

  • 熊野神社の境内です。右側の紅い建物が本殿。左手(西側)奥に見えるのは三池藩主を祀った三笠神社です。境内は続いていますが、参道も鳥居も社務所も駐車場もそれぞれあります。両社は独立した神社のようですが、公式サイトでは一緒になっているので関わりがあるようです。

    熊野神社の境内です。右側の紅い建物が本殿。左手(西側)奥に見えるのは三池藩主を祀った三笠神社です。境内は続いていますが、参道も鳥居も社務所も駐車場もそれぞれあります。両社は独立した神社のようですが、公式サイトでは一緒になっているので関わりがあるようです。

  • 鳥居に戻ります。柱に刻まれた文字…<br /><br />「天保十五 甲辰十一月吉祥日 施主 藤本傳吾」<br /><br />石炭長者、藤本傳吾が寄進した鳥居です。藤本傳吾は三代続きますが、二代目の有恒(新介)が建てたそうです。

    鳥居に戻ります。柱に刻まれた文字…

    「天保十五 甲辰十一月吉祥日 施主 藤本傳吾」

    石炭長者、藤本傳吾が寄進した鳥居です。藤本傳吾は三代続きますが、二代目の有恒(新介)が建てたそうです。

  • 【三笠神社】<br /><br />熊野神社のお隣には三笠神社があります。<br />両神社は独立しており、参道や鳥居も別ですが、敷地はほぼ連続しています。

    【三笠神社】

    熊野神社のお隣には三笠神社があります。
    両神社は独立しており、参道や鳥居も別ですが、敷地はほぼ連続しています。

  • 拝殿。

    イチオシ

    拝殿。

  • 藩政期において深く稲荷山の採炭に関わった三池藩。<br />大友氏の有力な武将であった高橋紹運、その正室・その次男で三池藩祖・立花直次(高橋統増)が祀られています。<br />*柳川藩祖の立花宗茂は、高橋紹運の長男で、立花家に入りました。<br /><br />神社は1835年に創建。立花家が東北の下手渡に移った時代のことなので、下手渡に建てられたのでしょうか。<br />明治3年、三池の郊外・今山の東山(三池山の麓付近)に遷座、そして明治19年にこの場所に遷座したとのことです。

    藩政期において深く稲荷山の採炭に関わった三池藩。
    大友氏の有力な武将であった高橋紹運、その正室・その次男で三池藩祖・立花直次(高橋統増)が祀られています。
    *柳川藩祖の立花宗茂は、高橋紹運の長男で、立花家に入りました。

    神社は1835年に創建。立花家が東北の下手渡に移った時代のことなので、下手渡に建てられたのでしょうか。
    明治3年、三池の郊外・今山の東山(三池山の麓付近)に遷座、そして明治19年にこの場所に遷座したとのことです。

  • 熊野神社の東側には鳥塚公園があります。ここからズームで高取山の稲荷山エリアを撮影。江戸時代~明治にかけて採炭が行われました。

    熊野神社の東側には鳥塚公園があります。ここからズームで高取山の稲荷山エリアを撮影。江戸時代~明治にかけて採炭が行われました。

  • この写真は2022年10月に撮影したものですが、三井化学のJ工場が解体されていました。

    この写真は2022年10月に撮影したものですが、三井化学のJ工場が解体されていました。

  • 最後に熊野神社からほど近い場所、通町にある「おたふく」へ。<br />このあたりもお店は減っているようですが、こちらは昔からある町食堂です。<br />店舗の裏手にある駐車場に車を停めて中へ。

    最後に熊野神社からほど近い場所、通町にある「おたふく」へ。
    このあたりもお店は減っているようですが、こちらは昔からある町食堂です。
    店舗の裏手にある駐車場に車を停めて中へ。

    おたふく グルメ・レストラン

    手打ちうどんと丼物の町食堂 by Decoさん
  • カウンター席にテーブル席二つ、小上がり席一つの小さなお店。年配のご夫婦で営業されているようです。<br />きつねうどんと天丼をお願いしてみました。

    カウンター席にテーブル席二つ、小上がり席一つの小さなお店。年配のご夫婦で営業されているようです。
    きつねうどんと天丼をお願いしてみました。

  • きつねうどん。シンプルながらもうどんのお出汁が美味しかったです。

    きつねうどん。シンプルながらもうどんのお出汁が美味しかったです。

  • こちらは天丼。基本つゆだくですが、好みでつゆの量は調整してもらえるそうです。

    こちらは天丼。基本つゆだくですが、好みでつゆの量は調整してもらえるそうです。

  • 店内の飾り物。お店の方が何度もお茶を入れてくださったのが印象的でした。アットホームそのもののお店です。<br />出前もされているようで、街に溶け込んで親しまれている食堂でした。<br /><br />===============================<br />「三池炭鉱の故郷 高取山周辺を歩く」シリーズは、第一回の小野家平野山から始まりましたが、今回で一区切りになります。本当は三池藩の稲荷山・壱部山をより深く歩いてみたいのですが、どちらもコンビナート内で立ち入ることができません。<br />炭鉱シリーズそのものは、もう少し公開する内容がありますので、いましばらく続けたいと思います。<br />最後まで御覧いただき、ありがとうございました。

    店内の飾り物。お店の方が何度もお茶を入れてくださったのが印象的でした。アットホームそのもののお店です。
    出前もされているようで、街に溶け込んで親しまれている食堂でした。

    ===============================
    「三池炭鉱の故郷 高取山周辺を歩く」シリーズは、第一回の小野家平野山から始まりましたが、今回で一区切りになります。本当は三池藩の稲荷山・壱部山をより深く歩いてみたいのですが、どちらもコンビナート内で立ち入ることができません。
    炭鉱シリーズそのものは、もう少し公開する内容がありますので、いましばらく続けたいと思います。
    最後まで御覧いただき、ありがとうございました。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ちちぼーさん 2023/10/22 00:29:02
    中村松次郎の無念を思うと
    Decoさん 、こんにちは。

    炭鉱というと私には明治以降のイメージがありますが、三池の歴史は江戸時代からなのですね。
    中村松次郎が苦労して採炭をして、それが利益を上げると藩が没収してしまうなんて、どれほど悔しかったことか。

    宗慶寺で、ご婦人に会われたのは奇跡ですよね。
    沢山のお墓、しかも古くて文字を読むのも大変でしょうからそこから探すのは至難の業。
    出会いが泣ければ、見つけることはできないかもしれないですよね。
    Decoさん の熱意が通じたのでしょう。

    改めて三池炭鉱(9)も拝見して、丁寧に調べられているDecoさんがすごいと思いました。

    ちちぼー

    Deco

    Decoさん からの返信 2023/10/22 06:06:51
    Re: 中村松次郎の無念を思うと
    ちちぼーさん、おはようございます。

    三池炭鉱の歴史、江戸時代の柳河藩・三池藩に遡りますが、実はその前に長い自由採炭時代(近所の人が自由に採炭)があって、応仁の乱の頃に始まったそうです。世界遺産の「三井」の三池炭鉱、実は長い歴史の一部分だったようです。

    三池藩は一万石の小藩で財政はかなり厳しかったようです。安定した収益を上げるために松次郎から没収したのでしょうね。後には藤本傳吾からも採炭権を取り上げています。ただし藩の炭鉱経営はかなり良くできていて、石炭価格のコントロールにも成功していたようです。
    また民政は優れていて、転封などもありましたが、飢饉などでも餓死者は出さなかったそうです。歴代英明な藩主が続いたそうですが、それはすぐれた政治を行わなければ、藩が成り立たなかったからかも知れません。
    領民との関係も良好だったようで、21世紀の今でも三池の大蛇山が巡行する日は、三池立花家の子孫の方が招かれています。

    …とは言っても、没収された松次郎の悲嘆は…。
    採炭を始めた経緯やその方法・運営はよくわかっていないのですが、一百姓が採炭を初めて(当初から三池藩が関わっていたとも言われますが)、どれほどの苦労があったことか。それを軌道に乗せて上手くいっていたのに。長い年月をかけて苦労しての没収。その落胆はいかほどのものだったか。

    宗慶寺でご婦人にあえたのは、本当に幸運でした。教えていただけなければわからなかったと思います。おかげで墓石に米屋(藤本)傳吾の名前も見られましたし。
    大浦坑の旅行記も御覧いただいてありがとうございました。
    両旅行記ともわかりにくい内容だったかと思いますが、丁寧に読んでいただき、ありがとうございました。
                              Deco

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