2021/12/02 - 2023/02/09
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Decoさん
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世界遺産にも登録された三池炭鉱(明治日本の近代化産業革命遺産)。
その組織的な採炭は江戸時代半ばに遡ります。
黎明期ともいえる藩政期に一際異彩を輝く人物がいます。
その名は藤本傳吾。
採炭の請負で巨万の富を築き、炭鉱に出かけるときは籠からお金をばらまいたとか。人々は「傳吾様には及ばずとも、せめてなりたや殿様に」と謡ったそうです。
藤本傳吾は三代に渡り、その子孫の方もいらっしゃると思いますが、断片的な逸話が残るのみで詳しいことはわかりません。
今回、大牟田市史やその他書籍、ネットの情報などを収集して、私なりにその実像に迫ってみました。
それ故間違いなどもあるかも知れません。お気づきの方がいらしたら、ご指摘いただければ幸いです。
*藤本傳吾や、それに先立つ中村松次郎については、いくつかの資料があり、必ずしも一致しているわけではありませんが、この旅行記では「大牟田市史・補巻」の記述を軸に展開しています。
*藤本傳吾については当初「三池炭鉱の故郷」シリーズや、三池陣屋町を歩く旅行記で取り上げようと思っていましたが、わかりやすくまとめることが難しく、独立した旅行記にしました。私の力不足故完成度は低いと思いますが、今わかることをまとめました。また一部他の旅行記の写真と重複しております。何卒ご了承いただきたくお願い申し上げます。
★この旅行記を作成するにあたり、フォートラベラーの shushu tany さんから写真をお借りし、リンクを貼らせていただきました。ありがとうございます。
★2023年11月、大牟田市石炭産業科学館にて、藤本伝吾の木像・供養塔・拓本の写真を撮影し掲載の許可をいただきました。ありがとうございました。
(2023/9/3公開、2023/11/30大牟田市石炭産業科学館で撮影した上記の写真を追加)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
PR
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旅行記の始まりは、大牟田市の高取山の西側麓にある、稲荷神社です。
三池藩主の立花氏により、幕末に近い頃に採炭の安全を願って建てられました。稲荷神社 寺・神社・教会
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【小浦坑跡付近と中村松次郎、そして米屋傳吾】
この周囲には三井化学などのコンビナートや工場があります。
この先も道があり、また南側のコンビナートの奥も谷間が広がっています。
三池炭鉱では、柳河藩領だった高取山中央部北側の平野山エリアから柳河藩家老小野春信により、組織的採炭が始まりました(1721年)。
久留米藩の文書に記録によれば、三池藩領でも1738年頃には採炭が始まっていたようです。それはこの奥の谷間…小浦坑だった可能性が高いのです。
三池藩に住む中村松次郎というお百姓さんが土地田畑を売り払い、その資金を元に採炭を始めました。しかし、その採炭が軌道に乗ったところで、「百姓には過ぎたるもの」として三池藩により炭鉱を取り上げられました。松次郎は悲嘆の末に自殺したとも伝えられます(1766)。
松次郎から炭鉱を召し上げた後、三池藩はある人物に採炭を請け負わせることにします。
それは米屋傳吾。彼は長崎で採炭技術を習得したといわれ、困窮者を集めて採炭に従事させたそうです。
傳吾は石炭成金となり後に士族株を購入、藤本姓を名乗ります。そう、後の石炭長者・初代藤本傳吾です。
*Decoの推測ですが、藤本傳吾は元々は町人だったということでしょうか。「米屋」というのも苗字ではなく屋号のようですし。商売で長崎に通いつつ資金を貯めて、採炭技術も学んだ、ということでしょうか。長崎で学んだということは、蘭学者を通じて西洋の技術を学んでいた…のでしょうか?
*「米屋傳吾」は「米屋傅吉」であったという資料もあります。また三池藩が中村松次郎の炭鉱を没収した後、複数人に採炭を請け負わせたという資料もありますが、ここでは「大牟田市史」の記述に添います。 -
稲荷神社の南側に広がるコンビナート。このあたりも小浦坑跡につながる谷間なのかも知れません。
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【宗慶寺・中村松次郎の墓(?)と米屋傳吾】
大牟田市の八尻町にある宗慶寺というお寺です。
小浦坑があった高取山の西側から西北方面のほど近い場所、小高い丘の斜面に広がる古い住宅街の中にあります。 -
こちらの境内にはお墓があり、その中に古びた墓碑があります。
「松蔵の墓」ですが、これは先述の中村松次郎(三池藩に炭鉱を没収された)のことではないかと推測されます。 -
墓碑の側面には「炭山請負方」と刻まれ、その下には数人の名前が刻まれています。
一番右側には「米屋傳吾」。後の石炭長者・初代藤本傳吾と思われる人物の名が見えます。松次郎の炭鉱没収後、三池藩は数人の請負人に採炭をまかせましたが、やはり、米屋傳吾もその一人であり…その中でも有力な請負人だったのではないかと思われます。
この、松蔵の墓ですが、元々は小浦坑にあって、松次郎の慰霊碑だったようです(小浦坑で事故がおこり、松次郎の祟りだと、当時の人々は思ったようです)。昭和10年頃、この宗慶寺に移設されました。 -
【藤本傳吾邸跡地】
さて、舞台を移して…写真は何の変哲もない街並み。
大牟田市新町…旧陣屋町の南の方にある田町交差点付近です。
近くには彌劔神社があり、そこには夏祭りの三池藩大蛇山の格納庫もあります。
写真の中央やや右下に白い棒が見えます。 -
近づいてみると…藤本伝吾邸跡の碑。
藤本傳吾は、三池藩の陣屋の南側に広大な屋敷を構え、その威容は三池の町を訪れた旅人に、藩主の邸宅と勘違いさせるほどの威容を誇ったそうです。
この一画のみならず、現在は県道大牟田高田線となっている道路も敷地に含まれていたそうです。
【初代・藤本傳吾】
初代・藤本傳吾は石炭長者と呼ばれますが、それには一つの出来事が関わっています。
三池藩立花家は、柳河藩立花家と先祖を一つにし、藩祖は兄弟関係にありました。小藩ながらも英明な藩主が続き、一時は幕府の要職を務めますが、そのことで政争に巻き込まれ、奥州・下手渡りへ転封となります。三池の地は日田代官預かりを経て、柳河藩預かりに。
三池藩時代は石炭諸法度などが施行されて藩が厳しく管理していた採炭事業でしたが、柳河藩預かりになると緩んできます。
そんな中、初代藤本傳吾は稲荷村の塚本親子、新町の八百屋(古賀)幸次郎などを蹴落とし、採炭事業を独占したとされます。一説によれば、柳河に親戚がいて、そこを通じて取り入ったということですが、裏ではいろいろあった…のかも知れません。
かくして石炭長者になり、駕籠に乗ってはお金をばら撒き…人々は「傳吾さまには及ばずとも、せめてなりたや殿様に」と謡ったそうです。
挙句の果ては長崎・丸山で豪遊。遊女を落籍して自宅で妻妾同居を行います。そればかりか炭鉱に行く際は女たちを同伴させていたとか…
そんな初代・藤本傳吾も放蕩により親族に追放されてしまったそうです。
*「大牟田市史」によれば、初代は放蕩の末追放される→長崎丸山で遊女を身請け→三池に帰還、いったんは帰宅を拒否されるが後に迎えられる→妻妾同居(遊女との間にもうけた二人の男の子も)ということになっており、妻妾は仲良くしており(←本当でしょうか?)、最終的には妾とその子は敷地内に別宅を建てて住んだそうです。
*「籠からお金をばら撒いた」エピソードですが、初代~三代目までの誰だったかは、はっきりとはわかりませんでした。しかし、私には放蕩者だったという初代にふさわしい逸話のように思えます。もしかしたら三代目までやっていたのかも知れませんが。 -
こちらは大牟田市石炭産業科学館に展示してあった「藤本伝吾木像の写真」を撮影させていただいたものです。初代・二代・三代、誰かはわかりませんが、貴重な写真です。
*撮影及びネットでの掲載の許可をいただいています。 -
さて、旧陣屋町の新町から、旧稲荷村の熊野神社へ。
熊野神社は現在の大牟田市の鳥塚町にあります。
高取山の東部、冒頭の稲荷神社のあたりは稲荷山と呼ばれ、このあたりからその西北部、鳥塚町の周辺が稲荷村と呼ばれていました。
熊野神社はこの稲荷村の守護神とされます。
室町時代に石炭を発見した伝左衛門も、稲荷村の住人であり、後の三池藩の採炭事業の中心も稲荷山を中心として行われたことで、この熊野神社が炭鉱の守護神とされました。、熊野神社 寺・神社・教会
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立派な鳥居が見えます。
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イチオシ
近寄ってみると、鳥居の寄進者として藤本傳吾の名前が見えます。
この藤本傳吾は二代目であり、有恒とも新介とも呼ばれたそうです。
【二代目・藤本傳吾】
二代目は1787年頃の生まれで、1845年に58歳で亡くなっています。
二代目の墓は三池陣屋町南方の円福寺山墓地にありますが、天性温順篤実で困窮者を援助し世人からは親のように敬い慕われた…と墓石には記され、墓には地元三池近辺から肥後、瀬戸内の海運業者など433人の名前が墓地建立世話人として刻まれています。また市内の熊野神社には炭鉱の安全と稲荷村の繁栄を願って寄進した鳥居も残っています。
お墓に故人の悪い面は書くわけはなく、基本的に讃える言葉が記されるとは思いますが、二代目は仕事に応じて多くの人と交流があり、人当たりがよく好かれる人だったのかも知れません。 -
鳥居の左の柱には「稲荷村庄屋政五郎」とあります。二代目藤本傳吾と共に寄進したのでしょうか。
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【壱部山(三井化学コンビナート)】
続いて、三井化学の化学コンビナートです。こちらは工場内なので立ち入ることができません。
こちらの写真は宮浦石炭公園の旅行記で使用したものです。コンビナートの西側から三池炭鉱専用鉄道旭町支線(三井化学専用鉄道)ごしに見ています。工場の中に岩山のような部分が見えます。 -
大牟田川付近(旧三池炭鉱専用鉄道旭町支線跡付近)から見た写真です(コンビナートの西側から撮影)。
この岩山、壱部山と呼ばれています。稲荷神社と宮浦石炭記念公園の間に位置しています。この壱部山でも採炭が行われ、ここにも藤本傳吾が関わることになります。
壱部山では、1806年頃に壱部村の庄屋恵介親子により採炭が始まりましたが、文政年間(1818-30)に出水のために廃坑。天保(1830-44)年間に大牟田村の庄五郎他五名が排水に新たな工夫を行い再開。すぐ側を大牟田川が流れており、運炭に適していたこともあり採炭量が上がります。しかしそれは平野山の小野家、稲荷山の藤本傳吾の脅威となり、双方の苦情により採炭停止となりました。
が、藤本傳吾はこの隙を見て壱部山で盗掘(!)を始めます。庄五郎たちは、日田代官に直訴しますが、事前にばれてしまい、召捕られてしまいます。
当時は三池藩が東北に転封(1806)となり、柳河藩預かりになっていたので、柳河藩を差し置いて直訴しようとしたことが罪に問われました。壱部山には花栗坑、慶三坑の二坑がありましたが、この他狐谷坑も壱部山にあったのかも知れません。後に壱部山は廃坑になりました。 -
同じく大牟田川沿い、コンビナートの西側からの写真です。
壱部山についての藤本傳吾の盗掘のエピソード、いかにもやり手で剛腕の初代がやりそうなことではありますが…
初代の生没年は私が調べてみてわかりませんでしたが、二代目は先述のように1787年頃の生まれで、1845年に58歳で亡くなっています。盗掘が天保年間(1830-44)以降のことであることを考えると、二代目ではないかと思えます(三代目の若い頃かも知れませんが)。人格者ともいわれた二代目ですが…仕事に関しては相当のやり手だったのかも知れません。 -
こちらの写真は上記の写真とは反対側、コンビナートの東側の道路から撮影したものです。
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【円福寺山墓地】
大牟田市内の東、三池山の麓に広がる三池の町へ戻ります。
かつて陣屋町・宿場町として栄えた三池の新町の南端の方に、地元の人々もあまり知らない墓地があります。円福寺山墓地。小高い丘にあります。
ここには二代目・藤本傳吾のお墓があるそうですが…住宅街の中、細い道を上がって行きます。 -
墓地は大規模ではありませんが、丘の奥深くまで続いていました。
奥まで探してみましたが、二代目のお墓は見つけることができませんでした。
新しいお墓もあり、きれいに整えられたお墓もありましたが、墓碑を見ると江戸時代から明治あたりのものが多く、訪れる人もいないようなエリアもありました。 -
奥に進むと「小田原先生墓」とあります。藩政期、三池陣屋町に「小田原塾」という私塾がありましたが、その先生のお墓でしょうか。
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「船津先生墓」…こちらも陣屋町で「船津和算塾」を開いていた先生のお墓でしょうか。
円福寺山墓地、二代目藤本傳吾も含めて三池藩の名士のお墓があります。 -
奥の方まで行ってみましたが、二代目藤本傳吾の墓は見つけられず。多くの世話人の名前が刻まれた立派なお墓があるはずで、墓地の中でも目立つと思ったのですが…残念です。
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後日、大牟田市石炭産業科学館を再訪したら、藤本伝吾供養塔の写真と説明がありましたので、許可をいただいた上で撮影、掲載いたします。
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こちらは同じく大牟田市石炭産業科学館で撮影させていただいた、「供養塔拓本(一部)」です。許可をいただいた上で撮影、掲載いたしています。
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【安照寺】
円福寺山墓地から三池街道を北へ向かいます。
写真は安照寺の入口。左側の塀は三池陣屋のものを移設したそうです。
東北、下手渡(福島県伊達市月舘町)に転封となった三池藩ですが、幕末も近い頃になってようやく三池の地に戻ることが許されます。下手渡の半分の領地と三池の旧領が領地替えとなります。正式には下手渡が本領のままですが、1852年、藩主立花氏は三池に帰還します。
安照寺は、その際の藩主の宿舎となったそうです。 -
イチオシ
【三代目・藤本傳吾 ~栄華の終焉と没落~】
立派な門が見えますが、お寺の門というよりも、旧家の門のようにも見えます。
この門は、藤本傳吾邸から移築されたと伝えられています。
三代に渡り、石炭長者として栄えた藤本傳吾家。しかし、三池藩主の帰還は、藤本傳吾家に暗雲をもたらします。
三代目は周防国の船頭たちと1500両の献金を藩に申し出ますが拒否され、採炭から閉め出されます。これにはかつての採炭請負のライバルで藤本傳吾家により排除された、塚本・八百屋(古賀)両家が藤本傳吾家に対抗した面もあるのかも知れません。藤本傳吾家の屋敷は打ち壊し。門は安照寺に移築されました。その数年後、三代目の藤本傳吾はつけで買った味噌醤油の代金も払えず訴えられてしまったとか。
三代目は採炭権を召し上げられてしまうわけですが、旧領に復した三池藩立花氏には藩領の再建が必須の課題であり、石炭長者の富に目が付けられことと思います。また三池藩は小藩ながらも歴代英明な藩主が続き、三代目には三池藩立花氏は厳しい相手だったと思います。
その後の藤本家、どうなったのでしょうか? -
【藩校・修道館跡】
旧陣屋町の一画にあるお宅。空家となっているようですが、屋根付きの門があったりしてかつての陣屋町の面影を残しています。ここには三池藩が設けた藩校・修道館(1857年創設)があったそうです。
【藤本卓爾】
没落した藤本傳吾家の物語にはまだ続きがあります。
「大牟田市市史・下巻」によりますと、藩校修道館には藤本卓爾という教授がいたそうです。そう、石炭長者・藤本傳吾(三代目)の子です。
卓爾は明治時代の三池の田町(藤本傳吾邸跡があるあたり)の近く、三池街道沿いかその周囲に住んでいたそうです。
採炭の請負から外され、家屋敷も取り壊されて困窮したという藤本家。しかしその子が藩校で教育者になっていたのです。
藤本卓爾の生没年はわからないので、はっきりとしたことはわかりませんが、その少年時代、藤本傳吾家は採炭権を取り上げられて没落し、経済的にも非常に厳しい状況にあったかも知れません。しかしその中にあって藩校の教授が務まるだけの学識を身に着けた卓爾。三代目藤本傳吾は没落した中でも教育を受けさせたのでしょうか。
石炭長者であった藤本傳吾家は藩からは快く思われていなかったと思いますが、そんな中藩校教授になった卓爾も人柄も良く能力も高かったのかも知れません。
仮に卓爾が、藤本家没落前の裕福な頃に教育を受けて成人していたとしても、一定の能力や知識がなければ学問を教えることはできないと思います。 -
門の前には「三池藩校修道館址」と示した碑が見えます。
小藩の藩校である修道館、資料にも若干の違いはありますが、教授は一人か二人だったそうです。
藤本卓爾以外にも数名が教授を務めており、14年の間に数度教授が替わったようです。その中に向坂黙爾がいます。黙爾の父・老之介は藩の役人として、1852年に三池藩が開坑した生山(「いもうやま」、あるいは「いくやま」)を差配していました。
つまり、修道館には【没落した石炭長者・三代目藤本傳吾の子】である卓爾と、【卓爾の父(三代目傳吾)から採炭権を奪った三池藩が差配を任せた藩士の子】(向坂黙爾)が教授を務めてたことになります。修道館は小藩の藩校、教授は一人かせいぜい二人だったとのことで、二人が同時に務めていた可能性は低いと思いますが、複雑な間柄に思えます。
【向坂黙爾】
藤本傳吾家から話が逸れてしまいますが…向坂黙爾は維新の志士として活動、三条実美が大宰府に幽閉されていた頃(1865~67頃)侍衛を務め、また戊辰戦争にも出役しました。
恐らくは明治維新直後の頃でしょうか、上京して仕官しようと考えました(三条実美が取り立てる約束をしていたそうです)が、父の老之助から「藩校・修道館での教育者としての役目を果たすように」と説諭され断念…ということは、黙爾が教授を務めたのは明治維新~廃藩置県で修道館が閉鎖される明治四年の間だったのではないかと私は思います。
黙爾は後に呉服屋を経て、大牟田市内の上官町(三池集治監跡と宮浦石炭記念公園の間あたり)に農園を開きます。
その後、三池炭鉱の官営化、三井経営の初期の頃、その経営に尽力したということです。
尚、呉服屋を営んでいた頃、押し入った強盗を取り押さえ、懇々と説諭の上、若干の金を与えて放してやった…そうです。やっぱり元教育者ですね。
*ちなみに向坂黙爾は維新の志士として活動していたわけですが、同じく志士として活動した人物に塚本源吾がいます。
塚本家は藤本傳吾家と激しく採炭権を争い、一旦は蹴落とされたものの、最後には採炭権を手に入れ、藤本傳吾家は没落します。しかし、最終的には三池藩は炭鉱を直営化して塚本家も採炭から外されます。
向坂黙爾を軸に、藤本傳吾に塚本源吾。皆炭鉱に関係しており、それもかなり複雑な関係のようです。 -
【藤本塾跡?】
三池街道に面したセブンイレブン大牟田新町店の駐車場で撮影した写真です。
かつてこの場所には蔵のある白壁の立派なお屋敷がありました。
大牟田市史によれば、藤本卓爾の屋敷は田町橋の東側にあり、明治維新も近い1867年に藤本塾を開いたとあります(ということは、この頃藩校教授を辞したのでしょうか。先述のように向坂黙爾が藩校教授を務めたのは明治初年頃からと思われますので、藤本卓爾→向坂黙爾と教授を受け持ったのかも知れません)。
田町橋は写真のセブンイレブンの看板の少し先、交通標識のあたりにあります。卓爾の屋敷兼藤本塾は、セブンイレブンか、その先の建物のあたりにあったのではないかと思われます。
そういえば、セブンイレブンのお隣にも以前は白壁の商家があって、煙草屋を営まれていました。
三池炭鉱は明治6年(1873)に官営化、明治11年(1878)に大浦坑に西洋近代技術が投入、明治16年(1883)には三池集治監が開庁され囚人労働が本格化、明治21年(1888)には三井財閥が三池炭鉱を落札、三井三池炭鉱となります。明治日本の近代化の中でその姿を変え、発展していく三池の炭鉱、かつての石炭長者の長子の目にはどのように映っていたのでしょうか?
そして…三代に渡る藤本傳吾家、その三代目の子卓爾のお話は最後に大きな転換を迎えます。 -
【藤本卓爾、北海道へ】
藤本卓爾は三池の地を離れるのです。明治維新直前、卓爾は自宅で藤本塾を開いて教育にあたりますが、維新の後教育制度や教育の内容そのものも変わっていき、藩校教授を務めたほどの学識と実力があっても、新しい時代に適合するのは難しかったのかも知れません。
林洋海著「三池藩」(下手渡藩)によれば、卓爾は仲間数十人と共に北海道・根室に渡り、屯田兵となって和田村を開いたそうです。
和田村が屯田兵によって開かれたのは明治19年(1886)のことなので、その頃に卓爾は北海道に渡ったのでしょうか。
有明海沿いの温暖な三池の地から北海道へ。卓爾と仲間たちは不屈の精神で乗り越えたことと信じています。
写真はフォートラベラーの shushu tany さんが撮影された、北海道、根室市の和田村屯田兵の被服庫です。この建物は明治18年に建てられたとのこと(shushu tany さんのご厚意により掲載させていただきました)。
藤本卓爾や共に渡った三池の仲間たちもここを訪れ、この写真の風景を目にしていたのではないかと思います。
*shushu tany さんが和田屯田兵の被服庫を訪問された旅行記はこちらです↓
根室半島一周 【歴史スポット、納沙布岬など】 ~アイヌのチャシ跡、戦時中のトーチカ、北方領土関係等~ https://4travel.jp/travelogue/11787500
こちらの旅行記には和田屯田兵の被服庫のみならず、根室の歴史や地理環境を知りたい方にはとても興味深い内容になっています。和田屯田兵村被服庫 名所・史跡
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同じく shushu tany さんからお借りした和田屯田兵碑の写真です。
もしかしたら…卓爾や仲間たちの名前も刻まれているのかも知れません。
石炭長者の御曹司として生まれ、没落を経験。成人後は藩校教授や塾を開いて教育にあたり、そして開拓者として北海道へ。まことに劇的な生涯です。石炭王としての地位を確立した初代藤本傳吾の血と精神は、卓爾にも受け継がれていたのだと思います。
藤本卓爾、どんな人柄だったのでしょうか。私の個人的な想像を許していただけるならば、挫折に負けない精神力に、知性も行動力もある「快男児」だったと思いたいです。
旧和田村では今でも屯田兵の子孫の方々が酪農を営まれているそうです。もしかしたら…藤本傳吾家のご子孫もその中にいらっしゃるのかも知れません。
このあたりで藤本傳吾家の物語は終わりにしたいと思います。
快くリンクと写真の使用をお許しいただいた、 shushu tany さんに心からのお礼を申し上げます。
御覧いただきありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (4)
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- yamayuri2001さん 2023/09/12 11:23:53
- せめてなりたや、殿様に・・・
- Decoさん、こんにちは。
こちらでは、傳吾様には及びもないが、せめてなりたや殿様になんですね・・・
6月に旅行した、山形県の酒田市では
本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様にでした。
酒田市での 北前船を中心とする本間家の栄華は
本当に計り知れず、今でも残っている本間邸などを見ると、
当時が偲ばれました。
三池炭鉱では、藤本傳吾さんなんですね。
昔の日本のお金持ちというのは、
貧しい人に分け与えることを忘れなかったような気がします。
横浜の三渓園を有する原三渓さんも、やはりそうでした。
しかし、今の世界のお金持ちは、
世界の富の80%以上を有しながら、
貧しい人に分け与えることなど全く考えていずに、
税金すら納めない方法を考えているという
不道徳な人が多いようです。
いつからそんな時代になってしまったのか解りませんけれど、
資本主義の行き着く先が貧富の差の拡大ですので、
やはりこれは何とかして止めないと、と思いますね。
SDGsと言いますけれども、
恩恵に預かっていない貧しい国の人々が
一番被害を受けていると言うのは心が痛みます。
ひとりの力では何もできないけれど、
もう少し世界が変わっていかなければと、最近は危機感を感じています。
yamayuri2001
- Decoさん からの返信 2023/09/12 18:24:50
- Re: せめてなりたや、殿様に・・・
- yamayuri2001さん、こんばんは。
藤本傳吾家、柳河藩主をしのぐ富を築いたと言われていますが、採炭権を取り上げられて数年後には困窮してしまったそうです。
石炭長者としては三代に渡っていたのですが、古い旧家のお金持ちに比べれば現金以外の富の蓄積が少なく、俗な言葉でいえば「成り上がり」だったのかも知れません。採炭のみに依存した富だったのではないかと想像しています。多分、本間家と比べると富の蓄積はかなり少なかったのではないかと思います。
同じ三池の町には、恐らく平安時代から続く旧家があったそうで、いくつかの有力な家に別れ、それぞれに分家や親戚があり、一族としての繋がりが富を保持していたのかな、と思います。
傳吾が籠からお金をばら撒いた話は、いかにも石炭長者らしい派手な話ですが、経済的に苦しい人々は随分助けられたと思います。見方によっては”派手”な振る舞いですが、別の見方をすれば社会福祉的な側面もあったのかも知れません。
私は南米に滞在したことがあって、かの地は断続的に社会主義的な政権が生まれていますが、やっぱり社会主義的政策では経済的に豊かにならないように思います。ただ、社会主義的政権が誕生するにはそれだけの理由(貧富の差が激しいとか)があるのですよね…。
その一方でyamayuri2001さんがおっしゃるように世界の富の80%がごく一部の人々のものであるというのは、いびつな構造で、経済面のみならず温暖化であるとか環境面でもマイナスになっているのかもしれません。競争と一定の平等を並立させることが必要かと思いますが…このバランスを取るのが難しい、けどやっていかなければならないのでしょうね。
Deco
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- ma-yuさん 2023/09/04 10:44:45
- 栄光から没落!!
- Decoさん
こんにちは(^^)
今回は江戸時代後期で財を築いた藤本傳吾さんゆかりの場所を散策ですね!!
巨万の富を築いただけでなく困窮者を集めて採炭に従事させて地域の活性化にも貢献されたのですね!!
藤本傳吾邸跡地も今は街並みですが当時の邸宅は凄い御殿だったでしょうね!!
でも初代・藤本傳吾さんも放蕩により親族に追放、「天狗に」なったのかな?
藤本傳吾さんは三代まで続き、二代目は奢れることなく多くの人と交流があり、人当たりがよく好かれる人だった様ですね(^^)/
藤本傳吾の盗掘のエピソード、そして三代目は採炭権を召し上げられてしまいましたか!!
歴史にはあまり詳しくありませんが初代から三代目までの栄光から没落までの歴史が少し判りました。
勉強になりました。(^^♪
ma-yu
- Decoさん からの返信 2023/09/04 19:05:58
- Re: 栄光から没落!!
- ma-yuさん、こんにちは (=^・^=)
藤本傳吾は藩政期の三池炭鉱に必ずと言ってよいほど言及される人物ですが、残っているエピソードも断片的で、今回そのエピソードが三代の中の誰の話だったのか、推察してみました…が、なかなか難しかったです。
初代は剛腕というのか、やり手というのか、かなりキワドイこともやっていたようです。女性関係も派手だったようですが、その一方で追放されて戻ってきたものの、二代目から帰宅を拒否されたとか…弱い部分もあったのかも知れません。藤本傳吾の派手なエピソードは、初代のお話のように思えます。
二代目は、私が想像するに、剛腕だけどハチャメチャな父親を反面教師として手堅く経営を拡大したように思えます。社会的にもソツのない人物だったようです。ただし盗掘のエピソードからして、ここぞというときは強引ともいえる手法を取る強さもあったと思います。
三代目は採炭権を取り上げられたということ以外、エピソードは伝わっていないのですが…初代や二代目に比べると経営者としては押しが弱かったのかな~とも思います。でも、没落しても息子(卓爾)を藩校に通わせたりして
いるので、学問好きだったのかも知れません。
初代から三代、そして卓爾と、まさに波乱万丈の一族でした。
…ただ、藤本傳吾家は確かにお金持ちでしたが、当時の三池の町には石炭関係の問屋だとか、百済王の子孫にして源実朝とも関わりがあったという名家もあったりして、こちらの方が目立たないけど強い経済力を持っていたのかも知れません。
藤本家のお屋敷は広壮で立派で、旅で三池の町を訪れた人びとは、藩主の御殿と間違ったそうです。そんなことも、三池藩主の怒りを買ったのかも知れません。
マニアックな旅行記を読んでいただき、コメントもいただきまして、ありがとうございます。
Deco
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