2022/03/16 - 2023/09/24
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Decoさん
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三池炭鉱の故郷、高取山の周辺を歩く旅、旧柳河藩領に続いて、旧三池藩領に入ります。
今回歩くのは、龍湖瀬と呼ばれる地区。高取山の北東部の一画、尾根に囲まれ深い谷間です。尾根一つ越えれば化学コンビナートということが実感できないほどの緑に囲まれています。
この地区には、龍湖瀬坑という古い坑口がありました。江戸時代に採炭が始まり、明治の官営化と三井の経営以降も一定の出炭量があった坑です。また周囲には古い坑もあったそうです。
小さな旅行記ですが、御覧いただければ幸いです。
(2023/9/24公開、2023/11/30「江戸時代の坑口と運搬経路」地図写真を追加)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
PR
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まず、江戸時代の坑口と運搬経路の地図。この中の赤線で囲んだ部分を歩きます。
この地図は大牟田市石炭産業科学館の展示を、許可をいただいて撮影掲載しています。 -
【龍湖瀬(りゅうごぜ)エリア】
旅行記は、龍湖瀬という地区から始まります。
高取山西北部の麓に奥深く伸びる谷間です。名称の通り入口付近に龍湖瀬という堤があります。東に柳河藩小野家の平野山エリア、西南に稲荷神社がある谷間(小浦)があります。
三池藩では、明治6年の官営化までに、17の坑がありました(大浦、小浦、中小浦、鳥居、狐谷、風抜、龍湖瀬、中ノ口、長谷、水除、佐野、小川、増井、芋谷、笹谷、旧鳥居、亀井谷)。
高取山の西北から東側にかけて、いくつかの尾根の谷間に設けられていたようです。
詳細は不明ではありますが、三池藩領の最初期の採炭は、小浦エリアとこの龍湖瀬エリア(現在の龍湖瀬墓地付近にあった笹谷・芋谷の二つの坑)ではないかといわれています。
さて、この写真の龍湖瀬エリアは、奥深い谷間になっており、その最奥は山が迫る狭い谷になっています。大牟田簡易ガスという会社があり、その近くに龍湖瀬坑跡があるようです。 -
【龍湖瀬坑跡】
大牟田簡易ガスの東側に龍湖瀬坑の入口のようです。
龍湖瀬坑は天明年間(1781-1788)に、三池藩用人中島直記が責任者となって藩により採炭が始まり、明治に入って官営化された当初は主力坑でした。
大浦坑など近代技術が投入された坑ができても、柳河藩小野家の梅谷坑と共に一定の出炭量があったそうです。以後、閉坑と開坑を繰り返し、大正10年頃まで採炭されました。また、昭和14頃、第二次大戦前夜にも再び採炭されていたました。三池炭鉱の歴史の中でも重要な坑ですが、西洋の近代的な技術は投入されなかったことから、あまり知られていない坑です。
今までこのシリーズでも再三取り上げてきた囚人労働ですが、その始まりはここ龍湖瀬坑です。当時の三潴県(=明治初め頃の筑後地方)の囚人が使役されましたが、この頃は採炭ではなく、石炭を大牟田川河口の積出港まで大八車で運ぶ作業だったそうです。 -
道のような、道でないような所を進むと石柱が…。人が関わっていた痕跡です。
龍湖瀬坑や旧柳河藩小野家の石炭の運搬で財をなした人がいました。
その人物は従業員のために長屋(=社宅)を建てたり、また熊本方面から魚や三池新町の旭盛(酒蔵)から酒を取り寄せたり、また博徒などが入り込まないように気を付け、従業員の福利厚生にも配慮したそうです。
そのことから、「龍湖瀬の殿さん」と呼ばれて龍湖瀬坑の末期(大正時代)の採炭も請け負ったということです。
*採炭ではなく運搬、しかも西洋近代技術が投入された主力坑(大浦・宮浦・勝立・宮原・万田)ではない龍湖瀬坑や旧小野家の坑の運搬でも大きな利益が上がっていたことがわかります。 -
さらに進むと石組みが見えてきました。写真ではわかりにくいのですが左右に組まれていて、谷底を通路か水路にしていたのだと思います。石炭の搬出路かそれとも坑道からの湧いてきた水を排水していたのか…。
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イチオシ
石組みはかなりの長さがありました。
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入口付近に戻りますが、途中石垣が左に分かれていて、進んでみました。
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石造物の残骸のようなものも見えます。
後でネットで検索すると、狛犬の跡だったのではないかというサイトもありました。このあたりにはかつてはお社もあったようですが、その跡は見つけることはできませんでした。
*龍湖瀬坑については、私は甚だ不十分な見学となってしまいましたが、NPO法人の協力などを得てもっとしっかり見学された方のブログを二つ紹介いたしますので、詳しく知りたい方は検索して御覧いただければと思います。
● 三池炭鉱 #14:龍湖瀬坑 黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)
● file51 龍湖瀬坑 弦書房 -
【龍湖瀬市営住宅=三池炭鉱・龍湖瀬社宅跡】
龍湖瀬坑跡の手前(北側)には、市営住宅があります。かつては三池炭鉱の社宅があって、その後市営住宅が建設されたようです。
この周辺には、龍湖瀬坑の他にも笹谷坑、芋谷坑、長谷坑があったそうです。その跡地を廻ってみます。 -
【笹谷坑跡?】
龍湖瀬の市営住宅の中で一棟だけ、他の棟から外れて西方向の谷間に延びています。
このあたりが笹谷坑の跡らしいです。進んでみます。
【三潴県監獄拘禁場と最初期の囚人労働】
笹谷には三潴県監獄拘禁場がありました(明治6-9年)。三潴県とは現在の福岡県の筑後地方になります。
三潴県からは50人の囚人が派遣されて、先述のように龍湖瀬坑から大牟田川河口までの大八車による石炭運搬作業に従事しました。これが三池炭鉱囚人労働の始まりです。三潴県は福岡県と明治9年に合併、囚人も久留米の本監に引き揚げました。
「三池炭鉱発生史」という本によりますと、三潴県囚人は、月二回看守同道で飲料の水汲みに行っていたそうですが…桶の片方には酒を入れて帰ることもあったそうです。また時には夜の外出も認められていたとか。後の過酷な囚人労働からすると、考えられないほど大らかな環境だったようです。 -
奥の自転車起置場の左手に石垣らしきものが見えます。
なにかの施設があったのかも…笹谷坑に関連したものでしょうか。 -
その横にも石垣の跡らしきものが。
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石垣の先には竹藪。「笹谷」の名称とあうような気がします。
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この竹藪の先に笹谷坑があったのかも知れません。
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【芋谷坑跡?】
笹谷坑跡(?)から少し南に進むと東方向に延びる坂道があります。このあたりに芋谷坑があったらしいのですが。 -
上がると閑静な住宅街。
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その奥は山の尾根の斜面。あまり坑があったようには見えませんが…
ただ、芋谷坑は三池藩の坑の中でも古い坑だそうで、閉山も恐らく明治~大正。周囲がきれいな住宅街になっているで、痕跡を残ってないのかも知れません。 -
右手に道が延びているので行ってみます。
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行き止まりですが、北側に谷間が広がっています。この谷間の方が坑がありそうな地形に見えます。
次にこちらの谷間に行ってみます。 -
このあたりからは市内の景色を見渡すことができました。
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【長谷坑跡、もしくは芋谷坑跡?】
芋谷坑跡(?)の南側の谷間へ移動します。龍湖瀬墓地の北側に接した住宅街。奥には重機置場のような土地。いかにも昔、坑があったような雰囲気です。
今回の坑の場所、大牟田囚人墓地保存会の書籍の地図に依っていますが、ここは長谷坑跡のようです。しかし、石炭産業科学館の展示地図や他の書籍では、長谷坑は別の場所になっています。もしかしたら、ここが芋谷坑跡かも知れません。「大牟田市史」においても、芋谷坑は龍湖瀬墓地に近いと書いてありましたし…どうでしょうか?
長谷坑では福岡県囚人の採炭労働があったそうです。 -
奥には尾根に上るような道も見えます。
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この奥に坑があったのでしょうか?
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【龍湖瀬墓地】
市営住宅の手前は一般の住宅や公園などがありますが、高取山から延びる丘陵地には「龍湖瀬墓地」があります。かつては芋谷山と呼ばれたらしく、この近くに芋谷坑があったと思われます。
この写真は道から撮影したごく一部ですが、山の中に広がる広大な墓地のようで、その中には三池藩領で初めて組織的採炭を行った、中村松次郎の墓もあるそうです。 -
中村松次郎の墓を探して龍湖瀬墓地の中を歩きましたが、見つけられず。山一つが墓地になっており広い面積、加えて複雑な地形。見つけるのはかなり難しいようです。
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【順照寺と合葬之碑(がっそうのひ)】
龍湖瀬墓地のすぐ近くに順照寺という大きなお寺がありました。駐車場も設けられてありました。 -
境内をたずねてみます。
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イチオシ
境内の一画には合葬之碑がありました。
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合葬之碑の由来です。
以前、勝立坑跡付近を歩いた際に、解脱塔を訪れましたが、あちらは三池集治監から出役して亡くなった囚人の人々を供養するための碑。順照寺の合葬の碑は、福岡県監獄より出役した人々を供養するために建てられ、後に勝立で見つかった遺骨(集治監より出役した人々)も納められました。
この碑は明治25年、福岡県監獄によって建てられ、以前はこの付近の民家の敷地内にあったそうですが、大牟田囚人墓地保存会の働きかけで、福岡刑務所が移設。順照寺のご厚意で境内に移されました。
囚人墓地は、三池集治監のものは勝立の解脱塔付近に埋葬されたようですが、福岡県・熊本県・長崎県・佐賀県など各県監獄の埋葬地(墓地)は、今ではわからなくなった場所もあるそうです。 -
合葬の碑を正面から見ます。お花が供えられていて、きれいにお手入れされてありました。
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【三井化学龍湖瀬社宅跡近く】
墓地の東側には龍湖瀬堤があり、その先の丘は住宅街になっています。
この奥には三井化学(当時は東洋高圧や三井東圧化学の時代でしょうか)の龍湖瀬社宅(炭鉱の社宅とは別の場所)があって、巨人軍の原監督も子供の頃お住まいになっていたとか…。 -
龍湖瀬社宅(三井化学)跡に行ってみます。
一件の空き家が見えます。 -
イチオシ
外壁には社宅の棟番号が残っています。
ここには空家ながらも社宅の家屋が残っていました。
炭鉱の社宅は今はもう残っていないはず。三井系の企業の社宅も古い木造の家屋はおそらく殆ど見られず、アパート形式の建物(鉄筋コンクリート)がわずかに残っているだけだと思います。
三井化学の龍湖瀬社宅は社員に社宅の買上を推奨したらしく、そのまま住まわれた家屋のようです。 -
あまり近寄ることができませんでしたが、庭側です。
トタン屋根の部分は増築されたのでしょうか。
社宅敷地跡には新しい家、時を経た家、アパート、様々な建物があります。
一般的に炭鉱や三井系の社宅は再開発されて、新しい住宅街として分譲されるケースが多いのですが、ここは社員買い上げが行われて、それぞれ住み続けたり建て直したりで、様々な建物が混在しています。 -
龍湖瀬社宅跡のすぐ近くから龍湖瀬墓地付近が見えました。
江戸時代には三池藩の主な採炭場であり、明治期も一定の出炭を行った龍湖瀬坑、古い坑である笹谷坑や芋谷坑。
かつては採炭で賑わったであろう龍湖瀬の谷間も今は濃い緑に包まれた静かな土地になっていました。
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最後まで御覧いただき、ありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (7)
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- mom Kさん 2023/09/29 07:01:21
- 気配の存在
- Decoさん、おはようございます。人の営みの跡は、なかなか消えるものではないと、貴旅行記を拝見して、再認識。丹念に歩かれて、目を留められていることに、私は惹きつけられました。大人の歩きの醍醐味。物を知る楽しさ。ああ、確かにこの尾根道を重い足取りで行き来する人々が見えます。
この社宅のお写真を掲載してくださってうれしいです。串本のある地区を歩いたことを思い出しました。豪壮なお屋敷保存も大事ですが、このような社会の底辺を支えた人々の暮らしが垣間見える建物こそ大切と思うのです。今の私につながっているのですから。
- Decoさん からの返信 2023/09/29 14:35:43
- Re: 気配の存在
- mom Kさん 、こんにちは。
お褒めのお言葉をいただき、恐縮です。私もmom Kさんの、自分の足で歩いて、感じ、観察し、考える旅行記に惹かれています。
藩政期に採炭された場所は、たいてい大正期に終わっており、既に百年。その痕跡を探すことは困難ですが、おっしゃるようにかつて多くの人が働き、動き、生活の場があったのです。私の旅行記をご覧いただいて、当時のことを想像していただけるのは、本当に嬉しいことです。
社宅跡は、遠景のみに留めようと思いましたが、まだ棟番号が付いた昔の建物が残っていることを知り、どうしても見てみたくなり、あまり時間がなかったのですが行きました。当時の社会を支えていた産業で働いていた人々の生活が営まれていた建物。炭鉱や他の三井系の企業の社宅が殆ど見られない今、あの建物を見られて本当に良かったです。
今からみれば質素な建物ですが、当時(1950~60年代)は普通で、社宅があることで生活も助かったと思います。
当時社宅に住んでいた人々の中には、社宅がなくなって再開発されても、同じ場所や近くの場所に家を建てて住んだりする人も少なからずいるようで、やっぱり長年暮らしていた土地に愛着があるのではないかと思います。
mom Kさんのコメントに力づけられ、また自分で意識していた以上に深く旅行記の内容を感じ取っていただいたき、ありがとうございます。
Deco
-
- 横浜臨海公園さん 2023/09/25 09:50:30
- 日本人と石炭
- Decoさま、おはようございます。
旅行記を篤と拝見させて頂きました。
日本人は幕末に至るまで石炭の利用法が全く解らず、明治初期ですら石炭の実物に接したのは鉄道か煉瓦製造関係者だけだったものが、燃料としての利用価値を知り急速に広まったものでした。
筑豊地域炭鉱は八幡製鐡所向けだったのに対し、大牟田荒尾地区の石炭最大利用は鉄道関係だった様で、大東亜戦争中は連合軍捕虜を駆使し石炭堀に明け暮れさせた事実も残っております。
戦後も、三井財閥グループ社長会で三井炭鉱は最前列席を与えられたものが段々後ろに下がる様になり閉山時には最後部列席だったそうです。
大牟田に於ける三井財閥の残滓は三井銀行の名残で三井住友銀行支店が残っている事です。
何もかも昔の面影だけになってしまいました。
横浜臨海公園
- Decoさん からの返信 2023/09/25 19:37:14
- Re: 日本人と石炭
- 横浜臨海公園さま、こんばんは。
江戸時代の石炭、瀬戸内の製塩、また瓦の製造などに使用されていたそうですが、その本当の力はおっしゃる通り、燃料としての使用で発揮されるもので、西洋近代技術の源になった力ですね。
炭鉱(三井鉱山)は、かつては銀行、物産と並ぶ三井の稼ぎ頭でしたが、1950年代末からのエネルギー革命で急激に凋落しました。既に1970年代、大牟田における三井系企業の中の存在感は三井化学(当時は三井東圧化学)の方が大きかったように感じています。
炭鉱の衰退は時代の流れの中で避けられなかったと思いますが、三池争議後の旧労と新労の対立は、労組だけでなく会社そのものの力をさらに減じてしまったように思えます。働く人同士がいがみ合うようでは、会社としての発展は考えられないのではないかと思います。
三井住友銀行の周辺の町はすっかり寂しくなりましたが、銀行は今もクラシカルな佇まいを、昔も今も変わらず見せています。
Deco
- 横浜臨海公園さん からの返信 2023/09/26 12:42:28
- 拝復
- Decoさま、こんにちは。
早速の御返事を賜りまして、誠に有難うございまいた。
兎に角、労働組合の抗争は近親憎悪に繋がり、憎しみのぶつけ合いに均しい状態が会社の業績を更にスパイラル状に悪化させたのは事実だと思います。
同じ事が国鉄末期にもあり、東日本は会社側が強い姿勢で臨んだ為に終息安定しましたが、西日本や北海道などは現在でも騒動の尾を引いていると言って過言でなない状況です。
連合軍捕虜収容所として使用されていた時代で、終戦後に当時の朝鮮人看守数名が捕虜虐待の容疑で進駐軍に逮捕され、B級裁判で絞首刑判決を受け執行されております。
横浜臨海公園
-
- ma-yuさん 2023/09/24 23:56:03
- 龍湖瀬エリア!!
- Decoさん
こんばんは(^^)
三池炭鉱は長年三井一社が独占して採掘していたのですね!
写真を拝見しますと龍湖瀬エリアも凄く奥深い谷間で藪を進んで険しく見えます!
所どころ、石組や石造物を見ますと石炭を運んでいた痕跡が見えますね。社もあったようですね!
Decoさんの三池炭鉱への歴史探索のこだわりが感じますよ(^^♪
周辺にも笹谷坑、芋谷坑、長谷坑があったのですね!
笹谷には三潴県監獄拘禁場があって過酷な囚人労働からすると、考えられないほど大らかな環境のようですね!
順照寺には合葬之碑があって囚人の人々を手厚く供養されているのを拝見しますと心が落ち着きます!
たしか巨人軍の原監督も生まれは大牟田でしたね!
龍湖瀬も静かな土地ですが石炭全盛時は賑やかだったでしょうね(^^♪
ma-yu
- Decoさん からの返信 2023/09/25 05:00:05
- Re: 龍湖瀬エリア!!
- ma-yuさん、おはようございます (=^・^=)
三池炭鉱の三井一社の独占だった…まさしくここが三池炭鉱の特徴、筑豊や他の地域と異なるところです。だからあれだけ大々的に開発され、炭鉱鉄道や三池港も建設されたのだと思います。
初期の炭鉱は人出不足で、囚人労働に依存していました。それは危険で過酷、刑務所での待遇も酷かったようです。
それから考えると笹谷の拘禁場は考えられないほど大らか。多分、労働によって罪を償うという意味あいだったのだと思います。
龍湖瀬坑跡は貴重な史跡ですが、御覧のように藪というか、木が生えていて…どんどん崩れていくのではないかと思います。見ておいて良かったです。お社は…炭鉱は危険な労働ですから、昔からの坑にも設けられていたのでしょうね。
合葬の碑は、派手な施設ではありませんが、多分順照寺の方が掃除や手入れをされているのだと思います。私もあのお花をみてほっとする思いでした。
原監督は公的には神奈川の出身ということになっていますが、大牟田のご出身。当時この地は三池争議や炭じん爆発で非常に厳しく悲しいイメージがありました。多分、ご家族がそのことを考えられてのことだったのだと思います。
龍湖瀬も、以前紹介した小野家の平野山も、今は山々に囲まれた静かな住宅街になっています。採炭が終わったのも百年前、その後社宅が建てられ、それも再開発されました。だから龍湖瀬に木造社宅が残っているのはとても貴重に思えました。
マニアックな旅行記を丁寧に読んでコメントをいただき、ありがとうございました(#^^#)
Deco
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