大牟田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
私の旅行記で度々取り上げてきた三池炭鉱。<br />世界遺産に登録された宮原坑や万田坑、三池港などが一般的なイメージで、経営においては108年に渡り携わってきた三井財閥の印象が強いと思います。<br />しかし、黎明期から調べてみると、大牟田市内の高取山にて石炭が発見されてから250年以上の自由採炭時代があり、続いて藩政期にも150年に渡る組織的な採炭が行われていました。<br /><br />「三池炭鉱の故郷」シリーズでは三池炭鉱の発祥の地である高取山周辺、藩政期~明治初期の採炭地跡などの周辺を廻ります。<br />高取山での採炭地は旧柳河藩(平野山エリア)と旧三池藩(稲荷山エリア)に分かれており、今回の旅行記では三池炭鉱で初めて組織的な採炭が行われた柳河藩家老・小野家の採炭地、平野山周辺を歩きます。<br /><br />尚、高取山の採炭地跡は、見学地として整備されていないどころか企業などの所有地で立ち入ることもできない場所が多く、その周辺を歩き撮影したものがほとんどです。資料と現況の写真を合わせてみることに重きを置いています。<br />また、一年以上の間、数度に渡って少しずつ歩いた記録なので、各写真の天候や季節もばらばらです。お見苦しい点や探索不足もありますが、ご容赦いただきたくお願い申し上げます。<br /><br />このような内容ですので、コメントはいただければもちろん嬉しいのですが、無理はなさらずお気遣いないようにと思います。<br /><br />(2023/02/25公開、2023/07/29、明治期の小野家の転出等について記述追加・修正、2023/11/30大牟田市石炭産業科学館にて撮影の地図及び、井上商店の写真とお話を追加、2024/03/09明治初期の梅谷坑の写真と説明追加)

三池炭鉱の故郷・高取山周辺を歩く(1) ~旧柳河藩小野家平野山~

90いいね!

2021/12/14 - 2022/12/28

54位(同エリア216件中)

Deco

Decoさん

この旅行記のスケジュール

2022/10/15

この旅行記スケジュールを元に

私の旅行記で度々取り上げてきた三池炭鉱。
世界遺産に登録された宮原坑や万田坑、三池港などが一般的なイメージで、経営においては108年に渡り携わってきた三井財閥の印象が強いと思います。
しかし、黎明期から調べてみると、大牟田市内の高取山にて石炭が発見されてから250年以上の自由採炭時代があり、続いて藩政期にも150年に渡る組織的な採炭が行われていました。

「三池炭鉱の故郷」シリーズでは三池炭鉱の発祥の地である高取山周辺、藩政期~明治初期の採炭地跡などの周辺を廻ります。
高取山での採炭地は旧柳河藩(平野山エリア)と旧三池藩(稲荷山エリア)に分かれており、今回の旅行記では三池炭鉱で初めて組織的な採炭が行われた柳河藩家老・小野家の採炭地、平野山周辺を歩きます。

尚、高取山の採炭地跡は、見学地として整備されていないどころか企業などの所有地で立ち入ることもできない場所が多く、その周辺を歩き撮影したものがほとんどです。資料と現況の写真を合わせてみることに重きを置いています。
また、一年以上の間、数度に渡って少しずつ歩いた記録なので、各写真の天候や季節もばらばらです。お見苦しい点や探索不足もありますが、ご容赦いただきたくお願い申し上げます。

このような内容ですので、コメントはいただければもちろん嬉しいのですが、無理はなさらずお気遣いないようにと思います。

(2023/02/25公開、2023/07/29、明治期の小野家の転出等について記述追加・修正、2023/11/30大牟田市石炭産業科学館にて撮影の地図及び、井上商店の写真とお話を追加、2024/03/09明治初期の梅谷坑の写真と説明追加)

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
徒歩
  • 【三池における石炭発見】<br /><br />三池炭鉱が歴史に登場したのは1469年、室町時代のこと。稲荷村(「とうかむら」と読みます)に住む伝治左ェ衛門という農夫が、山の中で焚火をしていたところ、燃える石を発見したという伝承があります。<br />この山というのは現在の「高取山」で三池炭鉱の故郷です。<br />石炭が見つかった「稲荷村」は高取山の西側ですが、伝治左ェ衛門が発見した場所は、現在の大牟田市龍湖瀬町~大浦町付近の可能性が高いと思われます。平野山エリアはその東側に位置しています。<br /><br />*写真は大牟田市鳥塚町の熊野神社の境内の「石炭発見の碑」の一部分です。<br /><br />*一つ疑問に思うことがあります。三池の石炭を発見したのは1469年の上記の伝承に拠るものですが、これは記録に残っているからだと思います。露頭炭が比較的容易に手に入るとしたら、もっと早くに、あるいは同時代にも伝治左ェ衛門以外に使用していたかも…と思います。単に記録に残らなかったという可能性もありますし。

    【三池における石炭発見】

    三池炭鉱が歴史に登場したのは1469年、室町時代のこと。稲荷村(「とうかむら」と読みます)に住む伝治左ェ衛門という農夫が、山の中で焚火をしていたところ、燃える石を発見したという伝承があります。
    この山というのは現在の「高取山」で三池炭鉱の故郷です。
    石炭が見つかった「稲荷村」は高取山の西側ですが、伝治左ェ衛門が発見した場所は、現在の大牟田市龍湖瀬町~大浦町付近の可能性が高いと思われます。平野山エリアはその東側に位置しています。

    *写真は大牟田市鳥塚町の熊野神社の境内の「石炭発見の碑」の一部分です。

    *一つ疑問に思うことがあります。三池の石炭を発見したのは1469年の上記の伝承に拠るものですが、これは記録に残っているからだと思います。露頭炭が比較的容易に手に入るとしたら、もっと早くに、あるいは同時代にも伝治左ェ衛門以外に使用していたかも…と思います。単に記録に残らなかったという可能性もありますし。

  • 大牟田市石炭産業科学館で撮影した江戸時代の坑口と搬出経路の地図です。<br />今回歩いたのは、赤線で囲んだあたりになります。<br /><br />*撮影・掲載の許可をいただいています。

    大牟田市石炭産業科学館で撮影した江戸時代の坑口と搬出経路の地図です。
    今回歩いたのは、赤線で囲んだあたりになります。

    *撮影・掲載の許可をいただいています。

  • 【三池炭鉱の故郷・高取山】<br /><br />高取山は大牟田市民の誰もが知っている身近な山ですが、同時によく知らない山でもあるそうです。それは山の多くの部分や周囲が三井系などの企業やごみ処理場になっており、一般市民が立ち入ることができないエリアが多いからだそうです。それでいて、山裾まで住宅街や小学校、農地や公園なども迫っている身近な山でもあります(高取小学校付近から頂上までは登れるようです。標高133m)。<br /><br />【自由採炭時代】<br /><br />さて柳河藩家老小野春信により組織的に採炭が始まるのは1721年のことですが、それまでは自由採炭時代、付近の住人(お百姓さん)が農閑期に露出した石炭(露頭炭)を掘り出し、家事用(煮炊きや風呂焚き?)に使用していました。<br />余ったものは販売していましたが、この収入は侮れないもので、産炭地のお百姓さんは農業を怠りがちで、奢侈な暮らしになっていったそうです。かなり儲かっていたのですね。<br /><br />*写真は、大牟田市の今山から撮影した高取山です。

    【三池炭鉱の故郷・高取山】

    高取山は大牟田市民の誰もが知っている身近な山ですが、同時によく知らない山でもあるそうです。それは山の多くの部分や周囲が三井系などの企業やごみ処理場になっており、一般市民が立ち入ることができないエリアが多いからだそうです。それでいて、山裾まで住宅街や小学校、農地や公園なども迫っている身近な山でもあります(高取小学校付近から頂上までは登れるようです。標高133m)。

    【自由採炭時代】

    さて柳河藩家老小野春信により組織的に採炭が始まるのは1721年のことですが、それまでは自由採炭時代、付近の住人(お百姓さん)が農閑期に露出した石炭(露頭炭)を掘り出し、家事用(煮炊きや風呂焚き?)に使用していました。
    余ったものは販売していましたが、この収入は侮れないもので、産炭地のお百姓さんは農業を怠りがちで、奢侈な暮らしになっていったそうです。かなり儲かっていたのですね。

    *写真は、大牟田市の今山から撮影した高取山です。

  • それでは三池炭鉱で初めて採炭が行われた、高取山の南側(平野山エリア)へ向かいます。道路沿いに小野堤があります。<br />この写真は小野堤を西側から撮影したものです…が、水がほとんどない状態です。かつては水量豊富で水も清らかで、釣り船も出ていたそうですが、周囲に住宅が増えて森がなくなりこの状態に。<br />写真に見える建物は堤の西側から見た大牟田中央病院。この病院ができるときに、堤の一部を埋め立てたそうです。<br />まず、小野堤を一周しながら小野家についてまとめてみます。<br /><br />【柳河藩家老・小野春信による採炭開始と小野堤】<br /><br />さて、前述のように組織的に石炭の採炭が始まるのは1721年のことです。柳河藩の家老・小野春信は平野山付近の土地を賜り、採炭を始めます。<br />小野氏は平野山にほど近い堤の一角に「餐霞亭」と名付けた炭役所を構えて炭鉱経営を行っていたということで、現在も堤は「小野堤」と呼ばれています。

    それでは三池炭鉱で初めて採炭が行われた、高取山の南側(平野山エリア)へ向かいます。道路沿いに小野堤があります。
    この写真は小野堤を西側から撮影したものです…が、水がほとんどない状態です。かつては水量豊富で水も清らかで、釣り船も出ていたそうですが、周囲に住宅が増えて森がなくなりこの状態に。
    写真に見える建物は堤の西側から見た大牟田中央病院。この病院ができるときに、堤の一部を埋め立てたそうです。
    まず、小野堤を一周しながら小野家についてまとめてみます。

    【柳河藩家老・小野春信による採炭開始と小野堤】

    さて、前述のように組織的に石炭の採炭が始まるのは1721年のことです。柳河藩の家老・小野春信は平野山付近の土地を賜り、採炭を始めます。
    小野氏は平野山にほど近い堤の一角に「餐霞亭」と名付けた炭役所を構えて炭鉱経営を行っていたということで、現在も堤は「小野堤」と呼ばれています。

  • 【小野家と小野春信】<br /><br />小野氏は藤原道長の子孫と伝えられています。元々は豊後大友氏の家臣でした。戦国の頃、大友氏から一門の名族・戸次(べっき)氏の配下に付くように命じられ、戸次氏に従い筑後へ。戸次氏は後に立花氏を名乗り、小野氏はそのまま柳河藩立花家の家臣となります。<br />尚、先祖の小野鎮幸は勇猛な武将で槍の名手として知られています。豊臣秀吉が同時代の槍の名手を「日本槍柱七本」と呼んでおり、鎮幸はその一人です(他には本多忠勝、島津忠常、直江兼続、後藤基次(又兵衛)、吉川広家など錚々たる名前が連なっています)。<br />この地を柳河藩主から賜り、採炭を始めた小野春信は、柳河藩の「立花勝兵衛家」から小野家に養子に入った人物です(立花勝兵衛家は、戦国時代に藩主立花家と枝分かれした支族です)

    【小野家と小野春信】

    小野氏は藤原道長の子孫と伝えられています。元々は豊後大友氏の家臣でした。戦国の頃、大友氏から一門の名族・戸次(べっき)氏の配下に付くように命じられ、戸次氏に従い筑後へ。戸次氏は後に立花氏を名乗り、小野氏はそのまま柳河藩立花家の家臣となります。
    尚、先祖の小野鎮幸は勇猛な武将で槍の名手として知られています。豊臣秀吉が同時代の槍の名手を「日本槍柱七本」と呼んでおり、鎮幸はその一人です(他には本多忠勝、島津忠常、直江兼続、後藤基次(又兵衛)、吉川広家など錚々たる名前が連なっています)。
    この地を柳河藩主から賜り、採炭を始めた小野春信は、柳河藩の「立花勝兵衛家」から小野家に養子に入った人物です(立花勝兵衛家は、戦国時代に藩主立花家と枝分かれした支族です)

  • 小野堤の西側から北東部分を撮影。このあたりに小野家の邸宅があったと思われますが…。<br /><br />「小野」といえば、あのオノ・ヨーコ。一般的には、小野春信の直接の子孫ではないものの、祖先を同じにする同族とも言われています。一方、ウィキペディアではオノ・ヨーコと小野春信は無関係という記載もあります。私は直接文献にあたったわけではないので何ともいえませんが、両方の説があることを記載しておきます。<br /><br />【小野家の採炭技術について】<br /><br />小野春信はこの地を拝領して、早くも八か月後には採炭を始めました。この短期間で採炭が始まったことから、小野春信が採掘の技術的な裏付けを含めて、十分に準備していたことがうかがわれます。<br />「大牟田市史」によると、春信は大阪に滞在したことがあり、採掘の技術は播磨(兵庫県)の生野銀山から学んだ可能性があるそうです。生野銀山は幕府直轄で他藩は内部を垣間見ることはできないはずですが、柳河藩立花家は仙台伊達家と姻戚関係にあり、その伝手で幕府の銀山の技術を知ったのではないかと記されています。

    小野堤の西側から北東部分を撮影。このあたりに小野家の邸宅があったと思われますが…。

    「小野」といえば、あのオノ・ヨーコ。一般的には、小野春信の直接の子孫ではないものの、祖先を同じにする同族とも言われています。一方、ウィキペディアではオノ・ヨーコと小野春信は無関係という記載もあります。私は直接文献にあたったわけではないので何ともいえませんが、両方の説があることを記載しておきます。

    【小野家の採炭技術について】

    小野春信はこの地を拝領して、早くも八か月後には採炭を始めました。この短期間で採炭が始まったことから、小野春信が採掘の技術的な裏付けを含めて、十分に準備していたことがうかがわれます。
    「大牟田市史」によると、春信は大阪に滞在したことがあり、採掘の技術は播磨(兵庫県)の生野銀山から学んだ可能性があるそうです。生野銀山は幕府直轄で他藩は内部を垣間見ることはできないはずですが、柳河藩立花家は仙台伊達家と姻戚関係にあり、その伝手で幕府の銀山の技術を知ったのではないかと記されています。

  • 堤を一周してみます。小野堤の西北隅には「万田ホルモン本店」があります。あまり焼肉屋さんに見えない建物ですが、以前は京料理の食事処だったそうです。<br />しかし…三池炭鉱発祥の地に世界遺産万田坑の万田の名を冠する焼肉屋さん。なにかの縁でしょうか…。

    堤を一周してみます。小野堤の西北隅には「万田ホルモン本店」があります。あまり焼肉屋さんに見えない建物ですが、以前は京料理の食事処だったそうです。
    しかし…三池炭鉱発祥の地に世界遺産万田坑の万田の名を冠する焼肉屋さん。なにかの縁でしょうか…。

    万田ホルモン 本店 グルメ・レストラン

  • 小野堤の北側へ進みます。大牟田中央病院とその先に見える高取山です。<br />小野春信が柳河藩から賜ったのは「平野山」という山です。私も詳しくはわかりませんが、平野山は高取山の一部(中央部付近)を指す名称のようです。大牟田中央病院も、創設時は「平野山病院」だったそうで、今でも平野山の名称は残っているようです。

    小野堤の北側へ進みます。大牟田中央病院とその先に見える高取山です。
    小野春信が柳河藩から賜ったのは「平野山」という山です。私も詳しくはわかりませんが、平野山は高取山の一部(中央部付近)を指す名称のようです。大牟田中央病院も、創設時は「平野山病院」だったそうで、今でも平野山の名称は残っているようです。

  • 堤の北側を進みます。このあたりだけ、木立が残っています。<br /><br />【柳河藩領と三池藩領】<br /><br />さて、当時の大牟田市のエリア、市の北側は柳河藩、南側は三池藩でした。高取山の北から中央部に食い込むように柳河藩の領地、残りの東・南・西が三池藩でした。<br />尚、両藩とも立花家ですが、本藩・支藩の関係ではなく、独立した藩です。ただし、両藩の藩祖が兄弟だったため、親しい関係にあったようです。<br /><br />柳河藩小野家に続いて三池藩の領地でも採炭が始まります。高取山の東側、室町時代に石炭が発見されたと思われる稲荷山エリアです。恐らく18世紀半ばと思われます。また、平野山エリアの東側に生山(「いもうやま」あるいは「いくやま」)というエリアがあり、こちらも三池藩領で幕末に採炭が行われました。<br /><br />小野家は藩政期を通じて炭鉱経営を続けましたが、実質的に三池藩領の炭鉱と同じ山にあり、坑夫同士の争いが絶えなかったそうです。藩同士は同じ一族で友好的であり、争いを収めてきましたが、明治に入り争いが激化。政府により官営化されました。

    堤の北側を進みます。このあたりだけ、木立が残っています。

    【柳河藩領と三池藩領】

    さて、当時の大牟田市のエリア、市の北側は柳河藩、南側は三池藩でした。高取山の北から中央部に食い込むように柳河藩の領地、残りの東・南・西が三池藩でした。
    尚、両藩とも立花家ですが、本藩・支藩の関係ではなく、独立した藩です。ただし、両藩の藩祖が兄弟だったため、親しい関係にあったようです。

    柳河藩小野家に続いて三池藩の領地でも採炭が始まります。高取山の東側、室町時代に石炭が発見されたと思われる稲荷山エリアです。恐らく18世紀半ばと思われます。また、平野山エリアの東側に生山(「いもうやま」あるいは「いくやま」)というエリアがあり、こちらも三池藩領で幕末に採炭が行われました。

    小野家は藩政期を通じて炭鉱経営を続けましたが、実質的に三池藩領の炭鉱と同じ山にあり、坑夫同士の争いが絶えなかったそうです。藩同士は同じ一族で友好的であり、争いを収めてきましたが、明治に入り争いが激化。政府により官営化されました。

  • 【小野家・餐霞亭跡地付近】<br /><br />堤の北西側へ。昭和30年代まで、小野家の炭役所「餐霞亭」が小野堤の北東側にあったそうです。堤の霞の上に自然林に囲まれた白壁の邸宅が浮いているように見えたそうです。小野氏は明治維新後はこちらに移り住み、明治期に福岡市内に転出したそうですが、邸宅は昭和30年代まで存在していました。現在、北東部には小さなお堂があります。周囲には木々も残り、この近くが小野家の跡かもしれません。<br /><br />*明治期に小野家が福岡市内に転出したとき、小野家の文書が一部流出、大牟田市内の古書店を通じて向坂逸郎氏(九州大学教授、三池争議の組合側の思想的なバックボーンとなった)が購入したとのことです。

    【小野家・餐霞亭跡地付近】

    堤の北西側へ。昭和30年代まで、小野家の炭役所「餐霞亭」が小野堤の北東側にあったそうです。堤の霞の上に自然林に囲まれた白壁の邸宅が浮いているように見えたそうです。小野氏は明治維新後はこちらに移り住み、明治期に福岡市内に転出したそうですが、邸宅は昭和30年代まで存在していました。現在、北東部には小さなお堂があります。周囲には木々も残り、この近くが小野家の跡かもしれません。

    *明治期に小野家が福岡市内に転出したとき、小野家の文書が一部流出、大牟田市内の古書店を通じて向坂逸郎氏(九州大学教授、三池争議の組合側の思想的なバックボーンとなった)が購入したとのことです。

  • 小野堤北東部分の道路と住宅街。このあたりに小野家はあったのでしょうか?<br /><br />【官営化と小野家の経営状況】<br /><br />官営化時、政府より旧柳河藩領で採炭していた小野家と、旧三池藩領で採炭していた士族に補償金が支払われました。旧三池藩士族の炭鉱は帳簿類などが揃っており、補償金の額も算定されて比較的早く支払われましたが、小野家の方は帳簿が揃っておらず、売上や負債もわからなかったとか…で、補償金の支払いも遅れたそうです。小野家の採炭は「武家の商法」とも言われていたようですが、今風に言えば、どんぶり勘定だったのかも知れません。ただし、小野家は炭鉱経営の運上金を柳河藩に納め、藩の財政はかなり潤っていたということです。<br /><br />尚、小野家は官営化後もしばらくは請負のような形で採炭に関わっていましたが、自家で所有していた頃に比べて、経済的にはかなり落ちていたそうです。再び民に払い下げられるときは小野家に、と嘆願書も出していたそうですが、結局は三井が落札します。<br />小野家ご当主、明治期には自由民権運動を支援したり、三池町の町長や地元の銀行の頭取などを務められていたそうで、地元の名士ではあったそうです。しかし現在は子孫の方は市内にはいらっしゃらないと思います。

    小野堤北東部分の道路と住宅街。このあたりに小野家はあったのでしょうか?

    【官営化と小野家の経営状況】

    官営化時、政府より旧柳河藩領で採炭していた小野家と、旧三池藩領で採炭していた士族に補償金が支払われました。旧三池藩士族の炭鉱は帳簿類などが揃っており、補償金の額も算定されて比較的早く支払われましたが、小野家の方は帳簿が揃っておらず、売上や負債もわからなかったとか…で、補償金の支払いも遅れたそうです。小野家の採炭は「武家の商法」とも言われていたようですが、今風に言えば、どんぶり勘定だったのかも知れません。ただし、小野家は炭鉱経営の運上金を柳河藩に納め、藩の財政はかなり潤っていたということです。

    尚、小野家は官営化後もしばらくは請負のような形で採炭に関わっていましたが、自家で所有していた頃に比べて、経済的にはかなり落ちていたそうです。再び民に払い下げられるときは小野家に、と嘆願書も出していたそうですが、結局は三井が落札します。
    小野家ご当主、明治期には自由民権運動を支援したり、三池町の町長や地元の銀行の頭取などを務められていたそうで、地元の名士ではあったそうです。しかし現在は子孫の方は市内にはいらっしゃらないと思います。

  • 堤の東側に廻りこみます。新しい住宅街が見えます。このあたりはかつて三井金属三池精練所の社宅があった場所。再開発されて住宅街や集合住宅などがあります。

    堤の東側に廻りこみます。新しい住宅街が見えます。このあたりはかつて三井金属三池精練所の社宅があった場所。再開発されて住宅街や集合住宅などがあります。

  • 新しい住宅街に面して、古い店舗跡の建物。「プラッシー」の看板がこの建物が現役だった時代を物語るようです。昭和30年代でしょうか。恐らく、三井金属三池精練所の社宅の人々がお客さんだったのでしょうね。

    新しい住宅街に面して、古い店舗跡の建物。「プラッシー」の看板がこの建物が現役だった時代を物語るようです。昭和30年代でしょうか。恐らく、三井金属三池精練所の社宅の人々がお客さんだったのでしょうね。

  • 堤の東側、大牟田中央病院付近から見た小野堤です。<br />堤の西側は丘のようになっていて、マンションや先ほどの万田ホルモン本店があります。

    堤の東側、大牟田中央病院付近から見た小野堤です。
    堤の西側は丘のようになっていて、マンションや先ほどの万田ホルモン本店があります。

  • 大牟田中央病院の斜め前あたりにある井上商店さんです。<br />みかんがお安いようなので立ち寄り購入しました<br /><br />そうしたら、貴重なお話をうかがいました。<br />井上商店さんは、創業して約70年とのこと(1950年代創業でしょうか)。昔は小野堤は水も豊富で、ボートも出ていたそうです。このお話は本で読んだりして知っていましたが、実際に当時の様子をご存知の方にお話を聞けたのは貴重な経験でした。<br />堤の水は農業用水だったので、付近が住宅街になると、溜められなくなったそうです。<br /><br />また、かつてこの南側一帯(道路と高取山の間)には現在の三井化学の大きな社宅があり、多くの人が住んでいたそうです。井上商店さんの前にもバス停があり、かつては社宅行のバス路線もあって、この付近から始発があったそうです。マイカー時代以前の話かと思いますが、感慨深いものがあります。長く平野山の地を見て来た井上商店さん、長く長く、続けていただければと思います。<br /><br />(この部分は2023年11月に追加)

    大牟田中央病院の斜め前あたりにある井上商店さんです。
    みかんがお安いようなので立ち寄り購入しました

    そうしたら、貴重なお話をうかがいました。
    井上商店さんは、創業して約70年とのこと(1950年代創業でしょうか)。昔は小野堤は水も豊富で、ボートも出ていたそうです。このお話は本で読んだりして知っていましたが、実際に当時の様子をご存知の方にお話を聞けたのは貴重な経験でした。
    堤の水は農業用水だったので、付近が住宅街になると、溜められなくなったそうです。

    また、かつてこの南側一帯(道路と高取山の間)には現在の三井化学の大きな社宅があり、多くの人が住んでいたそうです。井上商店さんの前にもバス停があり、かつては社宅行のバス路線もあって、この付近から始発があったそうです。マイカー時代以前の話かと思いますが、感慨深いものがあります。長く平野山の地を見て来た井上商店さん、長く長く、続けていただければと思います。

    (この部分は2023年11月に追加)

  • 続いて、道路(通称米の山線)を挟んで北側にある住宅街の奥に進み、坑跡付近へ進みます。<br />平野山の、山と住宅街が接するあたりを西→東へ進みますので、いったん道路を西方向へ進みます。<br />道路と高取山の間の住宅街、現在は平野山団地と高取団地と呼ばれています。団地という名称ですが、分譲された住宅街のようです。この一帯には三池染料などの社宅がありました。三池染料は後に合併統合されて、現在は三井化学になっています。<br /><br />【セブンイレブン大牟田歴木店(=三西ストア跡)】<br /><br />住宅地の一角にはセブンイレブンがあります。ここにもかつては三西ストア(三井化学の社宅向け購買所が元になったスーパー)がありました。<br />三西ストアとは、かつてあった三池染料という三井系の企業が経営するスーパーであり、その前身は三池染料の社員専用の売店で、通称「染料の売店」と呼ばれていました。三西ストアは大牟田市内に何軒かありましたが、今は会社としては存在していません。三池染料は後に統合されて、現在は三井化学の一部となっています

    続いて、道路(通称米の山線)を挟んで北側にある住宅街の奥に進み、坑跡付近へ進みます。
    平野山の、山と住宅街が接するあたりを西→東へ進みますので、いったん道路を西方向へ進みます。
    道路と高取山の間の住宅街、現在は平野山団地と高取団地と呼ばれています。団地という名称ですが、分譲された住宅街のようです。この一帯には三池染料などの社宅がありました。三池染料は後に合併統合されて、現在は三井化学になっています。

    【セブンイレブン大牟田歴木店(=三西ストア跡)】

    住宅地の一角にはセブンイレブンがあります。ここにもかつては三西ストア(三井化学の社宅向け購買所が元になったスーパー)がありました。
    三西ストアとは、かつてあった三池染料という三井系の企業が経営するスーパーであり、その前身は三池染料の社員専用の売店で、通称「染料の売店」と呼ばれていました。三西ストアは大牟田市内に何軒かありましたが、今は会社としては存在していません。三池染料は後に統合されて、現在は三井化学の一部となっています

  • 【三井化学(旧三池染料)平野山社宅跡地】<br /><br />道路の南側には福岡県の県営住宅が数棟あります。この周囲には一般の住宅街が広がっており、このエリアには三池染料という三井系列の会社の広い社宅がありました。三池染料は合併し、現在は三井化学の一部になっています。<br />このあたりは明治の頃の三池炭鉱民営化に伴い、三井鉱山に払い下げられた土地と思われます。旧三池染料も三井鉱山から派生した企業ですから、ここに社宅が形成されたと思います。

    【三井化学(旧三池染料)平野山社宅跡地】

    道路の南側には福岡県の県営住宅が数棟あります。この周囲には一般の住宅街が広がっており、このエリアには三池染料という三井系列の会社の広い社宅がありました。三池染料は合併し、現在は三井化学の一部になっています。
    このあたりは明治の頃の三池炭鉱民営化に伴い、三井鉱山に払い下げられた土地と思われます。旧三池染料も三井鉱山から派生した企業ですから、ここに社宅が形成されたと思います。

  • 【三田堤(散田堤)と福岡県監獄三池懲役場跡地】<br /><br />道路沿いに草が茂った低地が見えます。この先には三田堤(さんでん・つつみ)があり、小野堤と併せて柳河藩の石炭の搬出路になっていました。堤の右側(東)と左側(西)にかつては、福岡県監獄三池懲役場があったそうです。<br /><br />東側は明治8-10年にかけて使用されました。龍湖瀬坑からの石炭運搬の他、一部は最初から採炭作業に従事。しかし西南戦争のためにいったん引き揚げます。<br />西側は西南線戦争が落ち着いた後、明治10-14年に囚人が再度送り込まれ、新たに懲役場が設けられたとのことです。

    【三田堤(散田堤)と福岡県監獄三池懲役場跡地】

    道路沿いに草が茂った低地が見えます。この先には三田堤(さんでん・つつみ)があり、小野堤と併せて柳河藩の石炭の搬出路になっていました。堤の右側(東)と左側(西)にかつては、福岡県監獄三池懲役場があったそうです。

    東側は明治8-10年にかけて使用されました。龍湖瀬坑からの石炭運搬の他、一部は最初から採炭作業に従事。しかし西南戦争のためにいったん引き揚げます。
    西側は西南線戦争が落ち着いた後、明治10-14年に囚人が再度送り込まれ、新たに懲役場が設けられたとのことです。

  • 道路(米の山線)から住宅街の西側に入ります。高取山から続く尾根があります。この向こうは龍湖瀬町という別のエリアになります。恐らくここまでが、江戸時代は柳河藩で小野家が採炭していたエリア。龍湖瀬町は三池藩が採炭していたエリアになります。

    道路(米の山線)から住宅街の西側に入ります。高取山から続く尾根があります。この向こうは龍湖瀬町という別のエリアになります。恐らくここまでが、江戸時代は柳河藩で小野家が採炭していたエリア。龍湖瀬町は三池藩が採炭していたエリアになります。

  • このあたりは新しい住宅街です。このエリアでは恐らく最も後で開発されたと思われます。

    このあたりは新しい住宅街です。このエリアでは恐らく最も後で開発されたと思われます。

  • 県営住宅の南側には谷間がありそうな気配。このあたりにも坑道がありそうな雰囲気ですが、資料で調べると旧三池藩との境に近く、坑口はないようです。<br /><br />このあたりも三井化学の社宅があった場所ですが、再開発に際して元の区画や道の痕跡はありません。家庭菜園の名残りのようなものも見えます。かつては人が通った跡があったのかも知れません。

    県営住宅の南側には谷間がありそうな気配。このあたりにも坑道がありそうな雰囲気ですが、資料で調べると旧三池藩との境に近く、坑口はないようです。

    このあたりも三井化学の社宅があった場所ですが、再開発に際して元の区画や道の痕跡はありません。家庭菜園の名残りのようなものも見えます。かつては人が通った跡があったのかも知れません。

  • 福岡県の県営住宅の東南側へ。このあたりから小野家の坑があったと思われる場所に近づきます。<br /><br />【平野山坑道跡周辺と近代以前の炭鉱】<br /><br />柳河藩小野家の坑や、三池藩の坑は、後の宮原坑や万田坑など西洋近代技術が投入された坑とはかなり異なります。江戸時代に開かれた坑は小規模で地面に近い所から、掘りやすいところを進んでいく(いわゆる「狸堀り」)掘り方です。従って各坑は接近しており(数十メートル間隔のところもあり)、特に柳河藩小野家の坑は狭いエリアに密集しています。また、一つの坑に小規模な多くの坑口が設けれていたようです。<br />それに対し、宮原坑や万田坑などの近代的な坑では大規模な竪坑や斜坑を備え、深く掘り進み、そこから規則的に坑道が延びていきます。当然動力(当初は蒸気、後に電化)も使用されています。大規模なので、各坑も離れています。<br />例えば柳河藩小野家のエリアに万田坑のような近代的な坑を設けたとすれば、多分一つか、せいぜい二つになると思います。<br /><br />小野家の坑は、大谷、小谷、本谷、梅谷、満谷、炉谷、清水谷、西谷の8坑があったそうで、このうち明治6年の官営化以後も使用されたのは、本谷、梅谷、炉谷の3坑だったそうです。<br />*ただし、その後大谷坑に関しては、大牟田囚人墓地保存会の書籍の中に、明治24年に工事完成の記述があり、「わが三池炭鉱」という写真集の中に小さいながらもアーチ形の入口の斜坑が撮影されています。このことから若干の西洋技術が投入されて使用されたと思われます。

    福岡県の県営住宅の東南側へ。このあたりから小野家の坑があったと思われる場所に近づきます。

    【平野山坑道跡周辺と近代以前の炭鉱】

    柳河藩小野家の坑や、三池藩の坑は、後の宮原坑や万田坑など西洋近代技術が投入された坑とはかなり異なります。江戸時代に開かれた坑は小規模で地面に近い所から、掘りやすいところを進んでいく(いわゆる「狸堀り」)掘り方です。従って各坑は接近しており(数十メートル間隔のところもあり)、特に柳河藩小野家の坑は狭いエリアに密集しています。また、一つの坑に小規模な多くの坑口が設けれていたようです。
    それに対し、宮原坑や万田坑などの近代的な坑では大規模な竪坑や斜坑を備え、深く掘り進み、そこから規則的に坑道が延びていきます。当然動力(当初は蒸気、後に電化)も使用されています。大規模なので、各坑も離れています。
    例えば柳河藩小野家のエリアに万田坑のような近代的な坑を設けたとすれば、多分一つか、せいぜい二つになると思います。

    小野家の坑は、大谷、小谷、本谷、梅谷、満谷、炉谷、清水谷、西谷の8坑があったそうで、このうち明治6年の官営化以後も使用されたのは、本谷、梅谷、炉谷の3坑だったそうです。
    *ただし、その後大谷坑に関しては、大牟田囚人墓地保存会の書籍の中に、明治24年に工事完成の記述があり、「わが三池炭鉱」という写真集の中に小さいながらもアーチ形の入口の斜坑が撮影されています。このことから若干の西洋技術が投入されて使用されたと思われます。

  • 次の写真から坑口跡に近い場所に進みます。大牟田市石炭産業科学館の小野家採炭場付近を拡大したものです。各坑口までは行けませんが、付近の住宅街を歩いてみます。

    次の写真から坑口跡に近い場所に進みます。大牟田市石炭産業科学館の小野家採炭場付近を拡大したものです。各坑口までは行けませんが、付近の住宅街を歩いてみます。

  • 【西谷坑入口付近?】<br /><br />平野山団地第一公園に進みます。先ほどの集合住宅を西南側から見る方向で撮影。<br />この写真の右側に西谷坑の入口があったと思われます。<br />西谷坑、文字通り西の谷。旧柳河藩の最も西側の坑になります。<br />小野家の各坑の名称には「谷」が付くものが多く、山の谷間から掘り進んでいたことがうかがわれます。

    【西谷坑入口付近?】

    平野山団地第一公園に進みます。先ほどの集合住宅を西南側から見る方向で撮影。
    この写真の右側に西谷坑の入口があったと思われます。
    西谷坑、文字通り西の谷。旧柳河藩の最も西側の坑になります。
    小野家の各坑の名称には「谷」が付くものが多く、山の谷間から掘り進んでいたことがうかがわれます。

  • さらに東に向かうと集合住宅があります。(平野山団地第三公園から撮影)。

    さらに東に向かうと集合住宅があります。(平野山団地第三公園から撮影)。

  • 【清水谷(しみずだに)坑入口付近?】<br /><br />平野山団地第三公園。この写真左手に清水谷坑への入口があったようです。<br /><br />【藩政期の炭鉱労働】<br /><br />近代以前の炭鉱では、採炭だけで生計を建てていた人々と、副業的に働いていた人々がいたそうです。小野家では約1,000人の坑夫がいて、その中の300人が採炭のみで生計を建てていたとのこと。残りの700人は、恐らく近所の農家の人々だったと思います…が、三池藩においては武士の内職でもあったようです。<br /><br />明治時代以降は囚人労働や納屋制度の過酷な労働環境のイメージがある三池炭鉱ですが、意外にも、近隣の住宅から通勤する「通勤坑夫」とされる人々も少なからずいたようで、藩政期の農家からの労働と繋がりがあるのかも知れません。

    【清水谷(しみずだに)坑入口付近?】

    平野山団地第三公園。この写真左手に清水谷坑への入口があったようです。

    【藩政期の炭鉱労働】

    近代以前の炭鉱では、採炭だけで生計を建てていた人々と、副業的に働いていた人々がいたそうです。小野家では約1,000人の坑夫がいて、その中の300人が採炭のみで生計を建てていたとのこと。残りの700人は、恐らく近所の農家の人々だったと思います…が、三池藩においては武士の内職でもあったようです。

    明治時代以降は囚人労働や納屋制度の過酷な労働環境のイメージがある三池炭鉱ですが、意外にも、近隣の住宅から通勤する「通勤坑夫」とされる人々も少なからずいたようで、藩政期の農家からの労働と繋がりがあるのかも知れません。

  • 平野山団地第三公園のあたりから東南方向へ進みます。左手に小山が見えます。断層のようです。<br /><br />【藩政期のお給料】<br /><br />厳しい労働に決して高くはない賃金…そんなイメージの炭鉱ですが、意外にも江戸時代においては、世間一般の水準からしてかなり良かったそうです…が、幕末のインフレで給与水準が下がり、それが明治期以降の低賃金になってしまったようです。<br /><br />尚、明治期の北九州の各炭鉱のお給料、三池は筑豊や長崎よりも低かったそうです。詳しい理由はわかりませんが、多分、筑豊は大小様々な会社が炭鉱を経営しており、その中で坑夫を集める中で競争原理が働き、賃金も上がっていたのだと思います。三池においては官営化→三井と独占状態になったことが、低賃金の原因かと思われます。<br /><br />危険で過酷で低賃金…この悪条件では人も集まらず、そこで安定した(しかも低賃金)の労働力確保のため、囚人労働が導入された側面があると思います。また納屋制度(悪質な労働ブローカーによる過酷な労働)も、この流れの中で悪化していったのかも知れません。<br /><br />*江戸時代の坑夫のお給料は決して悪くなかったのですが、社会的には低く見られ近隣の農家との縁組なども嫌がられていたそうです。当時は百姓こそが正業という時代だったのだと思います。

    平野山団地第三公園のあたりから東南方向へ進みます。左手に小山が見えます。断層のようです。

    【藩政期のお給料】

    厳しい労働に決して高くはない賃金…そんなイメージの炭鉱ですが、意外にも江戸時代においては、世間一般の水準からしてかなり良かったそうです…が、幕末のインフレで給与水準が下がり、それが明治期以降の低賃金になってしまったようです。

    尚、明治期の北九州の各炭鉱のお給料、三池は筑豊や長崎よりも低かったそうです。詳しい理由はわかりませんが、多分、筑豊は大小様々な会社が炭鉱を経営しており、その中で坑夫を集める中で競争原理が働き、賃金も上がっていたのだと思います。三池においては官営化→三井と独占状態になったことが、低賃金の原因かと思われます。

    危険で過酷で低賃金…この悪条件では人も集まらず、そこで安定した(しかも低賃金)の労働力確保のため、囚人労働が導入された側面があると思います。また納屋制度(悪質な労働ブローカーによる過酷な労働)も、この流れの中で悪化していったのかも知れません。

    *江戸時代の坑夫のお給料は決して悪くなかったのですが、社会的には低く見られ近隣の農家との縁組なども嫌がられていたそうです。当時は百姓こそが正業という時代だったのだと思います。

  • このような感じでかなり広い岩山になっています。

    このような感じでかなり広い岩山になっています。

  • 【三井化学(旧三池染料)高取社宅跡地】<br /><br />さらに東南方面へ進みます。高取山が間近に見えます。<br />この周辺も三井化学(旧三池染料)の社宅跡で、平野山社宅と連続していますが、正式には高取社宅と呼ばれていたようです。多分、先の写真の断層のような小山のあたりで両社宅のエリアが分かれていたのかも知れません。

    【三井化学(旧三池染料)高取社宅跡地】

    さらに東南方面へ進みます。高取山が間近に見えます。
    この周辺も三井化学(旧三池染料)の社宅跡で、平野山社宅と連続していますが、正式には高取社宅と呼ばれていたようです。多分、先の写真の断層のような小山のあたりで両社宅のエリアが分かれていたのかも知れません。

  • この先カーブを左に向かうと、住宅街の一番北奥になります。

    この先カーブを左に向かうと、住宅街の一番北奥になります。

  • 【炉谷(いろりたに)坑入口?】<br /><br />高取団地で最も南側に位置する場所に近づきます。このあたりに炉谷坑への入口があったのではないかと思います(撮影当日、霧が出ていてみにくくて申し訳ありません)。

    【炉谷(いろりたに)坑入口?】

    高取団地で最も南側に位置する場所に近づきます。このあたりに炉谷坑への入口があったのではないかと思います(撮影当日、霧が出ていてみにくくて申し訳ありません)。

  • 炉谷坑への入口と思われる場所へ。行き止まりになっています。三井鉱山と高取公民館名で古めの表札あり。「工作を禁ず」…なんの工作でしょうか? 何か施設があったのでしょうか?<br />この先も坑道があったような雰囲気です。<br /><br />先述のように1980年代の地図では、まだこのあたりは三井化学の社宅だったたようですが、敷地内の道路は現在とほぼ変わっていません。この柵の場所も昔からのもの。やはり坑道の入口が残されていたのではないかと想像しています。

    炉谷坑への入口と思われる場所へ。行き止まりになっています。三井鉱山と高取公民館名で古めの表札あり。「工作を禁ず」…なんの工作でしょうか? 何か施設があったのでしょうか?
    この先も坑道があったような雰囲気です。

    先述のように1980年代の地図では、まだこのあたりは三井化学の社宅だったたようですが、敷地内の道路は現在とほぼ変わっていません。この柵の場所も昔からのもの。やはり坑道の入口が残されていたのではないかと想像しています。

  • 【満谷坑入口?】<br /><br />住宅街を東へ進みます。この奥には「満谷坑」という坑があったのではないかと思われます。

    【満谷坑入口?】

    住宅街を東へ進みます。この奥には「満谷坑」という坑があったのではないかと思われます。

  • 【梅谷坑入口(?)と囚人脱走事件】<br /><br />満谷坑入口(?)から少し東へ。このあたりは、山の形(凹凸がある)に沿って住宅街が作られています。この奥には明治以後も採炭が行われた「梅谷坑」があったのかも?<br />梅谷坑は明治以降も採炭され、かなりの出炭量があったようです。三池炭鉱は明治6年の官営化後に西洋近代技術が投入されますが、その過程で幾つかの坑が候補地になり、最終的には大浦坑に近代的な斜坑が設けられました。梅谷坑も候補地の一つだったようです。<br /><br />ちなみにこの梅谷坑、明治16年に使役されていた熊本県囚人26人が脱走するという事件が起こります。藩政期以来の古い坑でも囚人労働が行われていたようですが、記録が少なく不明な点も多いようです。ただ、この事件の記録が残っていたことで、梅谷坑での囚人使役があったことがわかっているそうです。<br /><br />【囚人労働と脱走】<br /><br />三池炭鉱の囚人労働、厳しい監視がありましたが、脱走・脱獄は後を絶たなかったそうです。それだけ酷い環境だったのだと思います。脱走した後捕まった囚人も多いのですが、無事に(?)逃げた囚人も少なからずいたようです。<br />今の時代では考えられませんが、脱走して北海道のある村の村長になったもののバレて再逮捕された人もいたとか…。<br />また、小倉の刑務所から脱獄して、なんと三池集治監の看守になって、囚人の脱走の手引きをした人物もいたそうです…事実は小説より奇なり、ですね。<br />このようにバレて再逮捕された人もいるわけですが、バレずに平穏に暮らした人もいたのかも知れません。もし人に迷惑をかけずに真面目に暮らしていたなら…囚人労働の酷さを知るにつけ、ちょっとほっとしたりもします。<br />三池集治監の記録を「新大牟田市史」で少し読みましたが、生きて出所する人よりも死亡した人の方が多かったですから(酷い年は約8割が死亡)。

    【梅谷坑入口(?)と囚人脱走事件】

    満谷坑入口(?)から少し東へ。このあたりは、山の形(凹凸がある)に沿って住宅街が作られています。この奥には明治以後も採炭が行われた「梅谷坑」があったのかも?
    梅谷坑は明治以降も採炭され、かなりの出炭量があったようです。三池炭鉱は明治6年の官営化後に西洋近代技術が投入されますが、その過程で幾つかの坑が候補地になり、最終的には大浦坑に近代的な斜坑が設けられました。梅谷坑も候補地の一つだったようです。

    ちなみにこの梅谷坑、明治16年に使役されていた熊本県囚人26人が脱走するという事件が起こります。藩政期以来の古い坑でも囚人労働が行われていたようですが、記録が少なく不明な点も多いようです。ただ、この事件の記録が残っていたことで、梅谷坑での囚人使役があったことがわかっているそうです。

    【囚人労働と脱走】

    三池炭鉱の囚人労働、厳しい監視がありましたが、脱走・脱獄は後を絶たなかったそうです。それだけ酷い環境だったのだと思います。脱走した後捕まった囚人も多いのですが、無事に(?)逃げた囚人も少なからずいたようです。
    今の時代では考えられませんが、脱走して北海道のある村の村長になったもののバレて再逮捕された人もいたとか…。
    また、小倉の刑務所から脱獄して、なんと三池集治監の看守になって、囚人の脱走の手引きをした人物もいたそうです…事実は小説より奇なり、ですね。
    このようにバレて再逮捕された人もいるわけですが、バレずに平穏に暮らした人もいたのかも知れません。もし人に迷惑をかけずに真面目に暮らしていたなら…囚人労働の酷さを知るにつけ、ちょっとほっとしたりもします。
    三池集治監の記録を「新大牟田市史」で少し読みましたが、生きて出所する人よりも死亡した人の方が多かったですから(酷い年は約8割が死亡)。

  • こちらの写真は、大牟田市石炭産業科学館の特別展にて撮影させていただいた梅谷坑の写真と説明です(撮影掲載は特に問題ないということでした)。<br /><br />明治初期の採炭場や人々の様子がわかる貴重な写真です。

    こちらの写真は、大牟田市石炭産業科学館の特別展にて撮影させていただいた梅谷坑の写真と説明です(撮影掲載は特に問題ないということでした)。

    明治初期の採炭場や人々の様子がわかる貴重な写真です。

  • 【本谷坑入口】<br /><br />住宅地の東南隅に来ました。このエリアを歩くにあたって、現在の地図と、藩政期の坑道の位置図を参考にし、両者をあわせてみましたが、時代も異なり細かい位置関係を一致させるのは困難でした。<br />ただ、この先は確実に小野家の坑道・本谷坑があったようです。

    【本谷坑入口】

    住宅地の東南隅に来ました。このエリアを歩くにあたって、現在の地図と、藩政期の坑道の位置図を参考にし、両者をあわせてみましたが、時代も異なり細かい位置関係を一致させるのは困難でした。
    ただ、この先は確実に小野家の坑道・本谷坑があったようです。

  • フェンスの向こうには「立入禁止」の<br />札がありました。三井鉱山(株)三池事業所とあります。<br /><br />【三井鉱山について】<br /><br />三井鉱山という企業ですが、現在は「日本コークス工業」に社名を変えています。<br />元々、三井財閥が明治19年(1886)に岐阜県の神岡鉱山を買い取ったことから始まり、同22年(1889)に三池炭鉱を国から払い下げられ、炭鉱事業を始め、紆余曲折はあったもののこれが大発展して三井物産、三井銀行と並び財閥を代表する企業になりました。<br />第二次大戦後は財閥解体となり、金属部門は三井金属に分離、三井鉱山は炭鉱事業に専念しました。しかしその後のエネルギー革命や安価な海外炭との競争などで力を減じ、2003~2006年までは産業再生機構の管理下に置かれたそうです。今は再生したそうですが、多角化しているようです。<br />尚、現在の三井化学、三井金属鉱業、三井三池製作所、デンカ(旧電気化学工業)、さらに東芝も三井鉱山から派生した企業ということです。<br />変わったところでは、テーマパークの草分け、「グリーンランド」も三井鉱山からの派生企業です(現在は西部ガスのグループ会社とのこと)。

    フェンスの向こうには「立入禁止」の
    札がありました。三井鉱山(株)三池事業所とあります。

    【三井鉱山について】

    三井鉱山という企業ですが、現在は「日本コークス工業」に社名を変えています。
    元々、三井財閥が明治19年(1886)に岐阜県の神岡鉱山を買い取ったことから始まり、同22年(1889)に三池炭鉱を国から払い下げられ、炭鉱事業を始め、紆余曲折はあったもののこれが大発展して三井物産、三井銀行と並び財閥を代表する企業になりました。
    第二次大戦後は財閥解体となり、金属部門は三井金属に分離、三井鉱山は炭鉱事業に専念しました。しかしその後のエネルギー革命や安価な海外炭との競争などで力を減じ、2003~2006年までは産業再生機構の管理下に置かれたそうです。今は再生したそうですが、多角化しているようです。
    尚、現在の三井化学、三井金属鉱業、三井三池製作所、デンカ(旧電気化学工業)、さらに東芝も三井鉱山から派生した企業ということです。
    変わったところでは、テーマパークの草分け、「グリーンランド」も三井鉱山からの派生企業です(現在は西部ガスのグループ会社とのこと)。

  • 本谷坑入口付近、日を改めて撮影してみました。黄色と黒の柵が、”この先に何かある”感を醸し出しています。

    本谷坑入口付近、日を改めて撮影してみました。黄色と黒の柵が、”この先に何かある”感を醸し出しています。

  • ちょっと離れると山肌に岩が見えます。断層が露出しているのかも知れません。昔は露頭炭が出ていたのかも。

    ちょっと離れると山肌に岩が見えます。断層が露出しているのかも知れません。昔は露頭炭が出ていたのかも。

  • 【小谷坑への入口?】<br /><br />本谷坑入口付近から北へ、(小野堤の方)へ戻ります。住宅街の東橋に面した荒地。ここは「小谷坑」への入口ではないかと思います。この先、丘を越えたあたりにあったようです。小谷坑の先には大谷坑がありました。<br />この二つの坑付近は別旅行記にて西側からアプローチします。

    【小谷坑への入口?】

    本谷坑入口付近から北へ、(小野堤の方)へ戻ります。住宅街の東橋に面した荒地。ここは「小谷坑」への入口ではないかと思います。この先、丘を越えたあたりにあったようです。小谷坑の先には大谷坑がありました。
    この二つの坑付近は別旅行記にて西側からアプローチします。

  • 小谷坑入口と思われる場所のフェンスには再び「立入禁止」の札。これには(株)九州ビルシステム小浜営業所の文字が上書きされています。元は三井鉱山の文字があったのでしょうね。<br /><br />ちなみにこの九州ビルシステム、公式サイトを見てみました。沿革は幾つかの会社が合併したりと複雑ですが、その中の一社が名称からして三井鉱山系の会社だったようで、現在も本社は三川坑跡や三井港倶楽部に隣接していて、三井鉱山(現・日本コークス工業)とも何らかの関係があるのかもしれません。

    小谷坑入口と思われる場所のフェンスには再び「立入禁止」の札。これには(株)九州ビルシステム小浜営業所の文字が上書きされています。元は三井鉱山の文字があったのでしょうね。

    ちなみにこの九州ビルシステム、公式サイトを見てみました。沿革は幾つかの会社が合併したりと複雑ですが、その中の一社が名称からして三井鉱山系の会社だったようで、現在も本社は三川坑跡や三井港倶楽部に隣接していて、三井鉱山(現・日本コークス工業)とも何らかの関係があるのかもしれません。

  • 【アパッチ砦・北西側】<br /><br />さらに道路の方に戻り北へ向かうと、東側の尾根が迫ってきます。この辺りは地元では「アパッチ砦」と言われていたそうです。むき出しの岩と地層が西部劇の荒野を思わせたのでしょうか。今は木々が生い茂ってわかりにくくなっていますが、いかにも石炭層が見られそうな地層ではあります。<br />この後、さらに道路(米の山線)を北へ。

    【アパッチ砦・北西側】

    さらに道路の方に戻り北へ向かうと、東側の尾根が迫ってきます。この辺りは地元では「アパッチ砦」と言われていたそうです。むき出しの岩と地層が西部劇の荒野を思わせたのでしょうか。今は木々が生い茂ってわかりにくくなっていますが、いかにも石炭層が見られそうな地層ではあります。
    この後、さらに道路(米の山線)を北へ。

  • 【ファミリー特鮮ストア=旧三西ストア店舗】<br /><br />幹線道路を東へ向かいます。「ファミリー特鮮ストア」という商店が見えます。この建物は旧三西ストアの店舗。先ほどのセブンイレブンの場所にも三西ストアがありましたが、至近距離にもう一店舗あったことになります。こちらは高取社宅の購買所跡でしょうか。それとも…このお店の側を長溝川が流れており、その向こうには広大な三井化学の米の山社宅がありました。元はここの購買所だったのかも知れません。<br /><br />尚、こちらのお店は旧三西ストアの店舗をそのまま使用しています。現在はここを含めて二か所、かつての店舗が見られます。

    【ファミリー特鮮ストア=旧三西ストア店舗】

    幹線道路を東へ向かいます。「ファミリー特鮮ストア」という商店が見えます。この建物は旧三西ストアの店舗。先ほどのセブンイレブンの場所にも三西ストアがありましたが、至近距離にもう一店舗あったことになります。こちらは高取社宅の購買所跡でしょうか。それとも…このお店の側を長溝川が流れており、その向こうには広大な三井化学の米の山社宅がありました。元はここの購買所だったのかも知れません。

    尚、こちらのお店は旧三西ストアの店舗をそのまま使用しています。現在はここを含めて二か所、かつての店舗が見られます。

  • 【米の山病院=三井化学米の山社宅跡】<br /><br />ファミリーストアから長溝川を越えて三井化学米の山社宅の跡地へ行っています。<br />大きな病院があります。米の山病院。すぐ近くの三池街道沿いの場所から数年前に社宅跡地に移転してきました。

    【米の山病院=三井化学米の山社宅跡】

    ファミリーストアから長溝川を越えて三井化学米の山社宅の跡地へ行っています。
    大きな病院があります。米の山病院。すぐ近くの三池街道沿いの場所から数年前に社宅跡地に移転してきました。

  • 米の山病院から北へ、奥の方へ進みます。一般の住宅があります。社宅跡の敷地に囲まれていますが、このあたりだけ社宅ではなかったようです。尚、手前のクリーム色の建物は以前は学習塾だったそうです。

    米の山病院から北へ、奥の方へ進みます。一般の住宅があります。社宅跡の敷地に囲まれていますが、このあたりだけ社宅ではなかったようです。尚、手前のクリーム色の建物は以前は学習塾だったそうです。

  • その奥に進みます。社宅跡の空き地が広がります。<br />米の山病院の職員の方たちの駐車場になっているのでしょうか。<br /><br />車の奥の建物は今は空き家のようですが、個人の商店でした。ここも社宅に接してはいますが一般の土地だったようです。<br /><br />私は20年前と10年前にここを訪れたことがあります。20年前は住む人は少ないながらも木造の社宅が残っていた記憶があり、商店も営業していました。<br />10年前は社宅もなくなり、商店も閉まってはいましたが、まだ住んでいらしたと記憶しています。

    その奥に進みます。社宅跡の空き地が広がります。
    米の山病院の職員の方たちの駐車場になっているのでしょうか。

    車の奥の建物は今は空き家のようですが、個人の商店でした。ここも社宅に接してはいますが一般の土地だったようです。

    私は20年前と10年前にここを訪れたことがあります。20年前は住む人は少ないながらも木造の社宅が残っていた記憶があり、商店も営業していました。
    10年前は社宅もなくなり、商店も閉まってはいましたが、まだ住んでいらしたと記憶しています。

  • 草ぼうぼうの敷地。道路だけが延びてところどころが駐車場になっています。<br />10年前も既に空き地でしたが、ここまで荒れてはいませんでした。

    草ぼうぼうの敷地。道路だけが延びてところどころが駐車場になっています。
    10年前も既に空き地でしたが、ここまで荒れてはいませんでした。

  • 社宅の公民館の跡。現在は使用されておらず、建物も傷んでいました。<br />10年前はまだ(変な表現ですが)現役感のある建物でしたが。

    社宅の公民館の跡。現在は使用されておらず、建物も傷んでいました。
    10年前はまだ(変な表現ですが)現役感のある建物でしたが。

  • 一番奥には鉄筋コンクリートの団地のような建物。グーグルマップには米の山アパートと表示されています。荒地のようになった社宅跡で、この一画だけはきれいで近くには公園もあります。<br />私の想像ですが、この建物は今も三井化学の社宅として使用されているのではないかと思います。<br /><br />ここから出発点の小野堤の方へ戻ります。

    一番奥には鉄筋コンクリートの団地のような建物。グーグルマップには米の山アパートと表示されています。荒地のようになった社宅跡で、この一画だけはきれいで近くには公園もあります。
    私の想像ですが、この建物は今も三井化学の社宅として使用されているのではないかと思います。

    ここから出発点の小野堤の方へ戻ります。

  • 【三井金属三池精練所社宅跡】<br /><br />米の山線の道路を西へ進みます。途中ダイレックスというディスカウントストアと新しい住宅街が見えます。この旅行記の前半の小野堤周辺を歩いた際に三井金属三池精練所の社宅跡の住宅街がありましたが、このあたりはその社宅跡住宅街の東側部分です。

    【三井金属三池精練所社宅跡】

    米の山線の道路を西へ進みます。途中ダイレックスというディスカウントストアと新しい住宅街が見えます。この旅行記の前半の小野堤周辺を歩いた際に三井金属三池精練所の社宅跡の住宅街がありましたが、このあたりはその社宅跡住宅街の東側部分です。

  • 小野堤付近に戻ります。道路沿いには傳寿司というお寿司屋さんがあります。

    小野堤付近に戻ります。道路沿いには傳寿司というお寿司屋さんがあります。

    傅寿司 本店 グルメ・レストラン

    おすすめの寿司から、お手軽なランチまで by Decoさん
  • 傳寿司さんでランチを取ります。

    傳寿司さんでランチを取ります。

  • 店内はカウンターと…

    店内はカウンターと…

  • 畳席が三つほど。二階への階段があったので、小宴会用の部屋があるのかも知れません。

    畳席が三つほど。二階への階段があったので、小宴会用の部屋があるのかも知れません。

  • 傳寿司にはリーズナブルなランチメニューがあります(日・祝を除く)。<br />まず寿司ランチをオーダー。

    傳寿司にはリーズナブルなランチメニューがあります(日・祝を除く)。
    まず寿司ランチをオーダー。

  • もう一つ、寿司以外のランチからロースかつ定食をオーダー。

    もう一つ、寿司以外のランチからロースかつ定食をオーダー。

  • 寿司ランチ(1100円)のCセット(鶏の唐揚げ)。握り六貫(選択できます)。<br />茶わん蒸しもついて、かなりリーズナブルです。<br />握りも美味しかったのですが…唐揚げが私的にはかなり気に入りました。揚げたてというのもありますが、サクサクで味付けもちょうどよく、次回は「鶏の唐揚げ定食」を食べてみたいと思いました。<br />

    寿司ランチ(1100円)のCセット(鶏の唐揚げ)。握り六貫(選択できます)。
    茶わん蒸しもついて、かなりリーズナブルです。
    握りも美味しかったのですが…唐揚げが私的にはかなり気に入りました。揚げたてというのもありますが、サクサクで味付けもちょうどよく、次回は「鶏の唐揚げ定食」を食べてみたいと思いました。

  • こちらはロースかつ定食、800円。こちらも茶わん蒸しに煮物の小鉢も付いています。栄養のバランスも取れています。かつがサクサクで美味しくボリュームもありました。<br /><br />寿司ランチとロースかつランチ。当然ながら内容は全然違います。調理するのは大将一人。一品ずつ出てくるかと思ったら、同時に運ばれてきました。調理時間もそれほどかかっていません。手際が良いお店のようです。

    こちらはロースかつ定食、800円。こちらも茶わん蒸しに煮物の小鉢も付いています。栄養のバランスも取れています。かつがサクサクで美味しくボリュームもありました。

    寿司ランチとロースかつランチ。当然ながら内容は全然違います。調理するのは大将一人。一品ずつ出てくるかと思ったら、同時に運ばれてきました。調理時間もそれほどかかっていません。手際が良いお店のようです。

  • 今回はお得なランチにしましたが、丼ものもあって、リーズナブルなお値段から食事できます。

    今回はお得なランチにしましたが、丼ものもあって、リーズナブルなお値段から食事できます。

  • うなぎもあり。<br />傳寿司さん、いろんなメニューがあります。<br /><br />この周辺は飲食店は少ないのですが、かつては社宅、今はその後にできた住宅街や県営団地もあり、一般の住宅も数多くあります。地域のニーズに応える形でメニューが増えていったのかも知れません。

    うなぎもあり。
    傳寿司さん、いろんなメニューがあります。

    この周辺は飲食店は少ないのですが、かつては社宅、今はその後にできた住宅街や県営団地もあり、一般の住宅も数多くあります。地域のニーズに応える形でメニューが増えていったのかも知れません。

  • 食事を終えて傳寿司を後にします。<br /><br />創業は50年以上前、ということは1970年代初めということでしょうか。<br />周囲に多くの社宅があった頃、その後再開発されて住宅街ができて団地ができて…平野山周辺の街は姿を変えていきました。<br />傳寿司さん、移り行く街の姿を見てきたのだと思います。

    食事を終えて傳寿司を後にします。

    創業は50年以上前、ということは1970年代初めということでしょうか。
    周囲に多くの社宅があった頃、その後再開発されて住宅街ができて団地ができて…平野山周辺の街は姿を変えていきました。
    傳寿司さん、移り行く街の姿を見てきたのだと思います。

  • 【慧日寺(えにちじ)】<br /><br />高取山の北側を歩いてきましたが、ここで大きく移動します。<br />大牟田市の北部にある岩本という地区。ここに慧日寺というお寺があります。<br />三池炭鉱で初めて組織的な採炭を行った、柳河藩家老・小野家の菩提寺ということで訪ねてみました。

    【慧日寺(えにちじ)】

    高取山の北側を歩いてきましたが、ここで大きく移動します。
    大牟田市の北部にある岩本という地区。ここに慧日寺というお寺があります。
    三池炭鉱で初めて組織的な採炭を行った、柳河藩家老・小野家の菩提寺ということで訪ねてみました。

  • 山門まで長いアプローチ。元々は右側の道を通って行くようになっていたようですが、狭いながらもスロープの道ができています。<br />

    山門まで長いアプローチ。元々は右側の道を通って行くようになっていたようですが、狭いながらもスロープの道ができています。

  • 境内に入ります。本堂があります。

    境内に入ります。本堂があります。

  • 説明板です。<br />元々はここには浄土宗のお寺がありましたが廃れ、江戸時代に新たに黄檗宗の寺院として再建されました。黄檗宗…禅宗の一派で、江戸時代に創始されたそうです。<br />中国様式の建物で、本堂床は土間になっています。

    説明板です。
    元々はここには浄土宗のお寺がありましたが廃れ、江戸時代に新たに黄檗宗の寺院として再建されました。黄檗宗…禅宗の一派で、江戸時代に創始されたそうです。
    中国様式の建物で、本堂床は土間になっています。

  • 本堂左手に新旧のお墓が見えます。

    本堂左手に新旧のお墓が見えます。

  • 小野家のお墓です。子孫の方が新たに建てられたのでしょうか。<br />子孫の方々は健在なのでしょう。

    小野家のお墓です。子孫の方が新たに建てられたのでしょうか。
    子孫の方々は健在なのでしょう。

  • 側面には「小野家先祖累代各霊位」とあります。

    側面には「小野家先祖累代各霊位」とあります。

  • 立派な山門。境内から撮影しました。

    立派な山門。境内から撮影しました。

  • 一度坂道の手前まで戻り、小野家の墓所を訪ねてみます。<br />竹藪の中の小路を進むと突き当り左手に古い石段が見えます。

    一度坂道の手前まで戻り、小野家の墓所を訪ねてみます。
    竹藪の中の小路を進むと突き当り左手に古い石段が見えます。

  • 石段の一番奥の高まりが小野家の墓所です。

    石段の一番奥の高まりが小野家の墓所です。

  • 説明板がありました。<br />小野家の来歴(藤原道長の子孫であるとか)や第23代春信が採炭を行ったこと、先祖の槍の名手・小野鎮幸、一族とされるオノ・ヨーコのことなどが記されています。<br /><br />*オノ・ヨーコが小野鎮幸の一族であるかについては異論もあります。

    説明板がありました。
    小野家の来歴(藤原道長の子孫であるとか)や第23代春信が採炭を行ったこと、先祖の槍の名手・小野鎮幸、一族とされるオノ・ヨーコのことなどが記されています。

    *オノ・ヨーコが小野鎮幸の一族であるかについては異論もあります。

  • 小野家の墓所。第20代から30代までのお墓があります。<br />かなり広くて、この写真に収めたのは小野春信のお墓(右から三番目)がある右側部分のみです。

    小野家の墓所。第20代から30代までのお墓があります。
    かなり広くて、この写真に収めたのは小野春信のお墓(右から三番目)がある右側部分のみです。

  • 小野春信公のお墓。竹林の中にひっそりとたたずんでいます。<br />本堂横に新しい小野家のお墓があったので、お参りはそちらにされているのかも知れません。<br /><br />小野春信…三池炭鉱で初めて組織的な採炭を行った人物。三池炭鉱の開祖といっても良い人です。晴信が採炭を始めたことで、明治維新に至るまで小野家により採炭が続けられ、隣接する三池藩でも採炭が始まりました。<br />春信が採炭を始めなくとも、江戸時代のある時期で採炭は始まり、明治期には大資本が入ってきたと思います。<br />しかし、柳河藩家老という高い身分の春信が大掛かりな採炭を行ったことは後の三池炭鉱の発展に大きな影響を与えたと思います。彼が初めていなければ、その後の三池炭鉱の歴史も随分と変わったものになったことでしょう。日本の近現代の産業の発展にも大きな影響を与えた人物だと思います。<br />春信が開坑した1721年から、官営化された1873年まで、小野家は150年余に渡って炭鉱経営を行ったことになります。規模や採炭量には大きな違いがあるとはいえ、三井財閥の経営(1888-1997、約110年間)よりも長い期間です。長期に渡り安定した幕藩体制が続いた江戸時代ならではのことかも知れませんが、一つの一族が一世紀以上も連続して経営してきたことは、驚異的なことと思います。

    小野春信公のお墓。竹林の中にひっそりとたたずんでいます。
    本堂横に新しい小野家のお墓があったので、お参りはそちらにされているのかも知れません。

    小野春信…三池炭鉱で初めて組織的な採炭を行った人物。三池炭鉱の開祖といっても良い人です。晴信が採炭を始めたことで、明治維新に至るまで小野家により採炭が続けられ、隣接する三池藩でも採炭が始まりました。
    春信が採炭を始めなくとも、江戸時代のある時期で採炭は始まり、明治期には大資本が入ってきたと思います。
    しかし、柳河藩家老という高い身分の春信が大掛かりな採炭を行ったことは後の三池炭鉱の発展に大きな影響を与えたと思います。彼が初めていなければ、その後の三池炭鉱の歴史も随分と変わったものになったことでしょう。日本の近現代の産業の発展にも大きな影響を与えた人物だと思います。
    春信が開坑した1721年から、官営化された1873年まで、小野家は150年余に渡って炭鉱経営を行ったことになります。規模や採炭量には大きな違いがあるとはいえ、三井財閥の経営(1888-1997、約110年間)よりも長い期間です。長期に渡り安定した幕藩体制が続いた江戸時代ならではのことかも知れませんが、一つの一族が一世紀以上も連続して経営してきたことは、驚異的なことと思います。

  • 墓所を下り、坂道の下へ戻ります。

    墓所を下り、坂道の下へ戻ります。

  • お寺の西側に出てみると、九州新幹線の新大牟田駅が見えました。<br />===============================<br />観光とは縁のない旅行記、最後まで御覧いただいた方がいらしたなら、心からお礼を申し上げたいと思います。<br /><br />末筆にはなりますが、この旅行記を作成するにあたり「大牟田市史」「新大牟田市史」、同市の囚人墓地保存会代表の方が発行された数々の書籍・冊子、この他にも様々な書籍やホームページをを参考にさせていただきました。本旅行記はこれらの書籍や資料に拠り、作成できました。市史の関係者の皆さま、囚人墓地保存会の皆さま、その他著者・作成者の皆さまに心から感謝の気持ちを捧げ、敬意を表します。

    お寺の西側に出てみると、九州新幹線の新大牟田駅が見えました。
    ===============================
    観光とは縁のない旅行記、最後まで御覧いただいた方がいらしたなら、心からお礼を申し上げたいと思います。

    末筆にはなりますが、この旅行記を作成するにあたり「大牟田市史」「新大牟田市史」、同市の囚人墓地保存会代表の方が発行された数々の書籍・冊子、この他にも様々な書籍やホームページをを参考にさせていただきました。本旅行記はこれらの書籍や資料に拠り、作成できました。市史の関係者の皆さま、囚人墓地保存会の皆さま、その他著者・作成者の皆さまに心から感謝の気持ちを捧げ、敬意を表します。

    新大牟田駅

90いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (5)

開く

閉じる

  • hijunoさん 2023/03/09 20:49:25
    沢山歩いて調べられましたね!
    Decoさん

    こんばんは!
    すごく面白く、楽しく旅行記を読ませていただきました。
    歩いて、いろんな場所からの検証が詳しくてわかりやすいです。
    私もこのくらい、緻密に歩いてみたいものです。(すぐ、歩いてヘトヘトになってしまいます)

    採炭の歴史というと、三池や三井といったことしか思い浮かばないのですが、柳河藩の家老の小野春信が採炭を始めたことも初めて知りました。Decoさんのおっしゃる通り、家老という重職での採炭は様々な力とともに、採炭という産業が長続きすることにつながったのですね。
    鉱山の採掘の囚人の動員のDecoさんのエピソードもとても面白かったです。本当に小説は奇なりという話も多々あったのですね。

    オノヨーコさんの祖先とのつながりも面白いです、真偽はわかりませけれど、もともと
    父方の祖父は元日本興業銀行の第四代総裁であった小野英二郎氏、母方の祖父も安田財閥、安田銀行の総裁を務めた安田善三郎氏という家系だったことからも、何かの関係もあったのかもしれませんよね。

    全然関係ないのですが、ジョンレノンの息子のジュリアン・レノンを思い出して、
    彼の曲をユーチューブで聞きました、昔、大好きだったValloteという曲です。
    ジョンレノンが父でありながら、疎遠であり、そのジュリアンを励ますためにポールマッカートニーが「ヘイジュード」を作ったということも思い出しました。
    (余談ですみません。(-_-;))オノヨーコさんも90歳なんですね。
    いまさらながら、ジョンレノンも早く亡くなって残念だと思いました。

    文献も参考されて、とても詳しく楽しい旅行記、フットワーク軽く、細かな取材、
    ありがとうございました。
    私も最近は少々、季節の変わり目で疲れ、孫たちの世話でダウン気味でしたが、
    Decoさんの旅行記を読ませてもらってから、自分も良く歩いて、よく観察して、
    よく調べて楽しもう~という意欲がわいてきました。ありがとうございます。(^^)

    追記
    梅の旅行記も盆栽に圧倒されました。梅の美しさに気づいたのは、実は歳をとってからなんです。友人に梅が名前に入っている人がいて、この時期、彼女を思い出します。
    こんな室内でしたら、梅の香りが満々としていますね。近隣の梅の樹の側を通っても
    梅の香りを感じます。お写真をみていましたら、梅の力強さも同時に感じました。
    こんな立派な盆栽の梅、迫力がありますね。どんな手入れをされているか、頭が下がる思いです。

    Reise

    Deco

    Decoさん からの返信 2023/03/10 06:38:13
    Re: 沢山歩いて調べられましたね!
    Reiseさん、おはようございます。

    マニアックな旅行記ですが、楽しんでいただけたようで、ありがとうございます。
    緻密に歩き回る…それはReiseさんだと思います。数々の史跡や建物の探訪、沖縄などの町の様子の描写、見る私もいつも新しいことを見つけさせていただいています。

    囚人労働の逸話、大牟田囚人墓地保存会の本の年表から見つけました。脱走くらいならよくある話ですが、村長になったり、看守になって脱走の手引きをしたり。今なら考えられない話ですね。
    オノ・ヨーコと炭鉱の小野家、一般的には同じ一族とされていて、私も公開のちょっと前まで「オノ・ヨーコは三池炭鉱を始めた人物の親戚だった」と書いていましたが、ウィキペディアの記述を見て書き換えました(^^ゞ
    小野英二郎氏、柳河藩士の家柄だったので、小野鎮幸の小野家と関係あるといわれているようですが、詳細はわからないようです。でも同じ柳河藩士だったから、どこかで関わりがあったのかも知れませんね。
    あのオノ・ヨーコさんも90歳。時の流れを痛感します。

    梅の花、あの巨大な盆梅には圧倒されて、びっくりしました。まさに生命力ある降れる花。樹齢200年以上のものもあり、一つ一つが大変な価値があるでしょうね。
                                 Deco

    Deco

    Decoさん からの返信 2023/04/22 19:08:50
    Re: 沢山歩いて調べられましたね!
    Reiseさん、お返事拝見いたしました。
    お読みいただき、ありがとうございました。
                              Deco
  • マジェッドさん 2023/02/26 21:15:43
    すばらし!!!
     Deco様

     マジェッドです。
     またまたスゴイ時代考証が出来上がりましたね。
     読み進んでいくうちに、自由採炭時代から藩政期→官営→民間払い下げと、採炭の歴史が理解できます。
     さらには、「露頭炭は、もっと早くから使われていたが、記録に残っていないだけでは…」といった見解も、まさに「あり得る」話ですよね。
     藩政期の柳河藩と三池藩の関係と比較も、大変勉強になりました。
     特に、小野春信が拝領して、僅か八か月後で採炭が始められた秘密に切り込んだあたり、Decoさんは、ただ者ではありませんね。
     それから、小野家は帳簿も揃えておらず、官営に際しての補償金も三池藩より遅れて支払われるなど、「武家の商法(どんぶり勘定)」ぶりにも触れておられ、とにかく記述が面白くて、どんどん先まで読んでしまいました。
     私も、そんな旅行記が書きたいなと思っているのですが、まだまだです。
     今回も、とっても勉強になりました。
     次回作も期待しています。
     今後ともよろしくお願いします。

           マジェッド

    Deco

    Decoさん からの返信 2023/02/27 20:06:21
    Re: すばらし!!!
    マジェッド様

    ありがとうございます。マニアックな炭鉱シリーズの中でも一際異色な今回の旅行記、公開してよいものかと思っていましたが、マジェッドさんからご感想をいただいて、ほっとしています(^^ゞ

    私は当初から江戸時代、さらにそれ以前について興味を持っていました。明治以降に比べて資料が少なく、それ故に謎を探るような気がしまして。今回の旅行記は自由採炭時代や藩政期について調べて、わかったことをまとめるという目的もありました。その意図を読み取っていただき、本当に感謝しています。

    露頭炭が記録に残っていないだけ…というのは…これは私の妄想なのですが、以前三池派の日本刀の旅行記を作成したときに、平安末期の刀匠・初代三池典太光世はもしかして石炭を使用していたかも、などと想像してしまったのです。光世の屋敷跡とされる場所から平野山の小野家の採炭地まで徒歩15~20分くらい。さらに、光世の屋敷跡から徒歩五分程の三池の街のはずれでも、若干の石炭が採れたようなのです。

    あとお褒めいただいた小野春信の八か月ですが、種明かしをすれば「大牟田市史」に載っていた話です。この旅行記を作成するにあたり、私なりに努力したつもりですが、そこから想像するに、市史を編纂された方々、また本を書かれた方の苦労は、大変なものだったと思います。

    小野家は武士の商売とも言われていて、やっぱり近江商人みたいな帳簿付けは無理だったのでしょうね。ただ、ふと考えてみると、150年も続いたのは凄いことで、どんぶり勘定なりに経営に心を砕いていたのかなぁ…と思ったり、あるいはどんぶりでも十分に利益が上がるくらいの良い商売だったのかも。自由採炭のお百姓さんたちも「侮れない儲け」だったそうですから。
    三池藩は財政が逼迫していたので、最終的には藩の直営になり、それもかなり厳しく経営していたらしいのです。廃藩置県後もそれが引き継がれていたのかも知れません。
    柳河藩は小野家が安定して経営していた(それなりにいろいろ出来事はあったと思いますが)のに対し、三池藩領は波乱万丈。採炭のパイオニア、藩のお役人、石炭長者、豪商に維新の志士、後の三池争議に関わる人物のご先祖様などが出てきて、ライバルを蹴落としたり逆襲したり、藩の東北への転封と帰還も絡んで複雑な歴史をたどったようです。

    長くなりましたが、こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。
                               Deco

Decoさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP