2022/08/03 - 2022/10/15
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Decoさん
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この旅行記は「三池炭鉱の故郷・高取山周辺を歩く(1) ~旧柳河藩小野家平野山~」https://4travel.jp/travelogue/11785602 に続くものです。
前編では、三池炭鉱で初めて組織的採炭が行われた高取山の平野山地区(旧柳河藩領)を歩きました。
この平野山地区と尾根を一つ隔てた大谷地区があります。ここも旧柳河藩領ですが、幕末に開坑された、旧三池藩領の生山坑と隣接しています。
この二つの地区境界線争いが絶えず、明治に入り思いもよらぬ展開を見せます。
今回はこの二つの地区を歩いてみました。
尚、この記録は二度に渡って歩いたものをまとめています。
*前編同様、この旅行記は個人的な記録であり、資料と現況の写真を合わせてみることに重きを置いています。コメントは上記の事情から、どうぞ無理はなさらずお気遣いないようにと思います。
(2023/5/25公開、2023/7/30向坂玄秀について追記、2023/11/30大牟田市石炭産業科学館の「江戸時代の坑口と運搬経路」の地図を追加)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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-
本日歩くのは赤で囲った部分、柳河藩家老であった小野家の採炭場の東の端の部分に、旧三池藩領、現在の今山地区にあった生山坑跡近辺です。
この写真は大牟田市石炭産業科学館で撮影掲載の許可をいただいた上で使用しています。 -
この小さな商店から旅行記は始まります。
前編でもこの商店は登場しましたが、本編ではここから前の道を越えて、南へ向かう道路を進みます。
【ファミリー特鮮ストア=旧三西ストア店舗】
三池染料(現在の三井化学)の社宅の購買所から始まり、後に組織改編して三西ストアというスーパーに変わりました。数店舗あったと思いますが、今は会社そのものもなく、私が知る限りでは笹原町の「スリーエスしばた」とこの「ファミリー特鮮ストア」がかつての建物を使用した商業施設として残っています。 -
ファミリー特鮮ストアから南に延びる道。
前編の「アパッチ砦」を挟んで東側になります。前編でも「本谷坑入口?」が登場しましたが、そこから尾根一つ隔てた反対側になります。
ご覧のように30km制限の狭い道路ですが、この先、住宅街があって小学校や幼稚園もあり、人口も多い地区なのです。住んでる方は馴れているのかもしれませんが、車だと離合も多くて大変そうです。
この写真の右側は高取山の東側の山裾になり、左側には長溝川が流れています。この川を少しだけ下ると高泉…平安末期の刀工・三池典太光世の屋敷跡の場所がある地区になります。 -
上の写真の路を入ってすぐ、右手(尾根側)には南井空公園があります。ここは以前は南井空第一堤という池があったようです。
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道を進みます。この道の右手は高取山の東側山裾になり、坂道の左右に住宅街があります。
この少し先で道が分かれ、右側が高取小学校とその周辺の住宅街(希望ヶ丘団地)に続き、左側の道は長溝川沿いに幼稚園や川沿いの住宅街に向かいます。 -
高取小学校への道を進み、途中から右手の高取山方向への坂道を上ります。
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坂の上に断層が見えます。
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【小谷坑跡周辺北側?】
上ってみると、さらに小高い場所があります。
実はこのあたり、「小谷坑」という、柳河藩小野家の坑があったようなのです。この左手(南側)の住宅街にあったようなのですが、今は坑の痕跡は見られません。
この稲荷層の向こうには、アパッチ砦の西側の本谷坑があり、かつては小谷坑→本谷坑への尾根を越えたルートがあったようで、掘り出された石炭もこのルートで搬出されていたのかも知れません。 -
大牟田市教育委員会の説明プレートがありました。未指定文化財「稲荷層」とあります。
かいつまんで言うと、高取山の西側(亀谷町周辺=化学コンビナート付近)から東側(茶屋の原周辺=このあたり)にかけて、山の北側に炭層が露出しているということで、このあたりから採炭が始まったことがうかがわれています。 -
稲荷層を至近距離から撮影。さすがに石炭は見られませんが、かつて、初期に石炭が露出していた雰囲気がうかがわれます。
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小谷坑跡は住宅地になっており、先ほどは北側からアプローチしました。南側にも行ってみますが、そのためにはいったん下の道路に下ります。
下の道路沿いには売地の看板。(株)九州ビルシステムという会社が連絡先になっていますが、前編で調べたところ、この会社は旧三井鉱山のグループ会社から出発しています。ということは、やはりこの周辺は三井鉱山の所有地で、坑があったのだと思います。 -
先ほどは小谷坑跡の北側からアプローチしましたが、次は南側から近づいてみます。先ほどの道を進むと、南井空第二堤が見えます。その奥には高取小学校があります。
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左手には高取小学校への入口をみつつ…
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堤を廻りこんで正面の住宅街付近へ向かいます。
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【小谷坑周辺南側?】
住宅街の南側へ進むと、北側からも見えた断層があります。上では南側から見えた部分とつながっているようです。 -
先ほどの断層付近から住宅街の西端の道を南へ進みます。
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このあたりも断層が見えます。
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途中見えた表示「危険のため立入を禁ず 三井鉱山三池事業所」。
この奥に何かあったのでしょうか?
もしかしたら、こちらが小谷坑跡なのかも知れません。 -
途中にあった表示。古くなっていて、この付近の住宅街の歴史を感じさせます。しかし、この表示、ちょっとイイ味を醸し出しているような気もします。
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山に入る道のようなものが見えます。高取山の頂上への登山口でしょうか。
高取山は、三井系企業などの土地が多く、中にはいりにくいのですが、頂上までは行けるようです。 -
途中、希望ヶ丘公民館の建物がありました。今はもう使用されていないようです。
この周辺の住宅は、希望ヶ丘団地といわれます。まず、高取小学校が開校し、そのあと、周囲にこの団地(=住宅街)が造成されたようです。
造成されてからある程度の年月が経っているようで、空き家も目立ちました(これは希望ヶ丘団地だけではありませんが)。私が歩いてみた印象では、奥の山裾にあるエリアほど空き家が多いように感じました。
希望ヶ丘団地、緑豊かで小学校に隣接した住宅街ですが、商店らしきものは一軒もなく、米の山線の道路まで行かなければならないようです。また団地内の道路はそこそこの広さがありますが、幹線道路から団地の入口までの道が狭くて…年を取ると住みにくく感じるのかも知れません。 -
道路は西方向へ向かいます。
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【大谷坑跡付近?】
住宅街の南端まできました。このあたりが大谷坑跡のはずですが…。空き地から住宅街を振り返ってみます。この写真の左部分の道を通ってここまできました。 -
その先の空き地。坑があったのは、住宅地内なのか、それともその先のこの空き地周辺だったのか?
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大谷坑跡と思われる住宅街。道も広くて明るい街並みです。
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住宅街の南端の道路から見える高取山。
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住宅街の中央部分に戻ってきました。
このあたりが大谷坑跡付近かと思われますが、痕跡らしきものは何も確認できず。
ネット上には今も大谷坑跡は残っていう情報はあって…もしかして先ほどの空地の先にあるのかも知れません。
「わが三池炭鉱」という写真集の中に、昭和40年頃の大谷坑の写真が掲載されており、大きくはないものの、煉瓦か石で造られた斜坑が載っていました。しかし、今現在、ネットで検索しても大谷坑の画像は出てきません。
大谷坑、藩政期に設けられた坑ですが、先述の大牟田囚人墓地保存会の本を見ると、明治24年に「工事が完成した」との記述があります(なんの工事なのかは不明)。
故内田康夫氏の浅見光彦シリーズの小説「不知火海」では、三池炭鉱の幾つかの坑が登場します。
大浦坑や宮原坑など西洋技術が投入された坑の中にあって、なぜか江戸時代以来の古い坑であまり知られていない大谷坑も登場していました。
小説の中ではかなり具体的に坑の様子が記述されているのですが…内田氏は多分現地の取材をされたと思いますが、実際に大谷坑を見ていたのでしょうか? それとも小説「不知火海」の参考文献の中に、先述の写真集「わが三池炭鉱」があったので、この中の大谷坑の写真を見て小説に取り入れたのでしょうか?
この後、大谷坑、いやその後の三池炭鉱の行く末に大きな影響を及ぼすことになった旧三池藩の生山坑跡の近くへ行ってみます。 -
【茶屋の原】
大谷坑跡の住宅街の東端の道に面して古い建物が見えます。
廻りこんでみると「茶屋の原公民館」の看板があります。
かなり古くなってはいますが、今も使用されているようです。
茶屋の原…希望ヶ丘団地の東南に広がる区域です。三池街道沿いに位置し、古くは茶が栽培されていたとか。希望ヶ丘が1970~80年代(?)に造成された住宅街であるのに対し、茶屋の原は古くからある農村地帯でした。この公民館のあるあたりが両区域の境界にあたるようです。 -
公民館から茶屋の原の集落へ下りていきます。田園風景が広がります。
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公民館から下るとT字路になり、右手(西南方向)には谷間に向かって細い道が延びています。行き止まりのようで田舎の道故に奥までは行きませんでしたが、この先に生山坑があったのかも知れません。
【生山坑と大谷坑】
生山坑は「いくやま」とも「いもうやま」とも読まれているようです。本によって違いますが、私の印象では難しい読み方の「いもうやま」の方が古い呼称で正しいような気もします。
生山坑は一時奥州に転封になった三池藩が幕末になって開いた坑です。ちょうど大谷坑があるあたりが柳河藩の南限で、そのすぐ先の三池藩領に開かれました。
三池藩としては大谷坑で採炭できるのだから、そのすぐ近くの生山も有望だと思ったのかも知れません。しかし、生山坑があるあたりは、炭層の東端。開坑して3~4年で掘り尽くしそうになったそうです。
生山坑がさらに採炭するとなれば西方向に掘り進めるしかありませんが、その方向には柳河藩領の坑があり、生山坑は目と鼻の先の大谷坑と坑道がつながってしまったとか…で、両坑で争いが発生。明治になっても継続し、収拾がつかなくなり政府が旧柳河藩小野家の坑と、旧三池藩の坑の両方を官営化することとなりました。
官営化されたことにより一挙に西洋技術が投入され、三池炭鉱は一挙に近代化されます。またそれと同時に労働力不足により囚人労働や悪名高い納屋制度が広がります。
もし生山坑が設けられず、旧柳河・三池両藩の争いがなかったら…近代化は多少遅れ、筑豊のように大~小まで幾つもの会社が並立していたかも知れません。また、囚人労働もなかったと思いますが、後の三池炭鉱のような発展も無かったかも知れません。
それと同時に後の三池争議や三川坑炭じん爆発事故のような「大規模」な事故もなかったのではないかと覆います。争議も事故も、三池炭鉱という単一の組織による「大規模な炭鉱」があっってこその負の出来事だからです。 -
そんなことを考えながら、三池街道を南に進むと延寿苑という施設が見えます。
生山坑、先ほどの茶屋の原の奥の谷間にあったのかも知れませんが、地図で確認するとこの延寿苑の裏手にあったようなのです。 -
【三池藩生山坑跡付近】
延寿苑と、その横の自動車工場。この奥の山の中に生山坑があったようですが、企業内の敷地のために入ることはできないそうです。
下記のサイトに生山坑を撮影した記事が載っています。
「黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草) 」というサイトの中の「三池炭鉱 #15:生山坑」では登治焼場(とじやきば) が残っているとか。
*登治焼場とは、石炭を蒸し焼きにしてコークスを作った炉のことです。コークスにすると煙が出ないので重用されました。
【さきさか山と三池争議】
さて、この生山、江戸時代は「さきさかやま」と呼ばれたそうです。三池藩の向坂老之介という武士が差配していたことから呼ばれていました。
この向坂老之介の子孫からは、後年三池炭鉱に関わる一人の人物が出ることになります。
それは向坂逸郎。九州大学の教授にしてマルクス・レーニン主義の経済学者。三池争議で三池労組側の思想的な後ろ盾となった人物、老之介の曾孫にあたります。
三池争議は大変複雑なもので、様々な立場の見方がありますが、向坂氏が争議を劇化させた一因となった面もあるのでは、とも思います。
向坂老之介、そしてその子黙爾(維新の志士として活動、三池藩の藩校・修道館の教授も務めた)は官営後や三井による民営化後、炭鉱の経営には協力的だったとされます。また逸郎氏の父・賀禄氏(黙爾の子)は三井物産(三池炭鉱の石炭販売から始まった)の社員だったそうです。
三池争議で組合側に立った向坂逸郎氏ですが、曾祖父・祖父・父と三代に渡り、三井に近い立場にあったようです。このあたり、いろいろ事情があったのかも知れません。
*向坂黙爾の長兄・玄秀は医師でしたが明治三年に病死。その妻・マスに熊本より西洋医学を修めた入江進が入籍し”向坂進”となります。大牟田で初めて西洋医学を学んだ医師で、そのことから三池集治監(内務省管轄の刑務所、三池炭鉱での囚人労働のために設立された)でも医師を務めていたそうです。 -
【茶屋原坑付近?】
延寿苑の前には旧三池街道が通っていました。
先ほどの黒沢さんのサイトの中に江戸時代のものと思われる古地図が掲載されており、そこには「茶屋原坑」も見えます。
しかし、この地図以外ではこの坑の名を私は見たことがありません。地図も詳細なものではなく性格の場所もわかりませんが、恐らく生山坑の南側の谷間の奥ではないかと思います。写真の右手に上る道の奥の方、かも知れません。 -
この先、三池街道は荒尾から高瀬(玉名)へと続いて行きます。古来から多くの人々が往来し、その中には石炭関係でこの地を訪れた人々もいたことと思います。
-
最後に一枚の写真。旅の途中で露頭炭のようなものを目にしました。
かつてはこの周辺も、自由採炭時代にお百姓さんが採炭して家計の足しにしたのかも知れません。また江戸時代中期以降は、柳河藩家老小野家の採炭夫たちがこのあたりを歩いていたのだろうと思いました。
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この旅行記は今まで本やネットで調べたことをまとめ、実際の現地の様子を照らし合わせて、併せて記録するということを目的としたもので、きわめて個人的動機で作成したものです。
ここまで読んでいくださった方がいらしたら、心から感謝を申し上げます。
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