2022/05/25 - 2023/02/22
33位(同エリア168件中)
Decoさん
この旅行記のスケジュール
2023/02/22
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大浦坑遺址と団琢磨像
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三池炭鉱 大浦坑跡
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明治期の大浦坑の絵(大牟田市石炭産業科学館)
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瓦町交差点付近
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稲荷神社入口付近
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化学コンビナート(三井化学大浦工場など)
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壱部山(?)
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小浦坑跡(?)
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三井化学合成門から七浦坑跡方面
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七浦町からの風景
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三池炭鉱専用鉄道旭町支線(後の三井化学専用鉄道支線)跡
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この旅行記スケジュールを元に
自由採炭時代から始まり藩政期の採炭を経て、明治に入り国内屈指の炭鉱に成長した三池炭鉱。
数々の坑の中で、大浦坑は藩政期の最後に開坑し、明治に三池炭鉱の中では初めて西洋近代技術が投入された坑。歴史の転換点にあたる坑です。
また、周囲には豊富な石炭を利用した化学コンビナートが形成され、石炭産業が斜陽化した後も現在に至るまで、大牟田市の産業に大きな役割を果たしてきました。
そんな大浦坑と周辺のコンビナートの周囲を歩いてみました。
尚、この旅行記は2022年5月25日と2023年2月22日の記録を主に作成していますが、それ以外の日付、また以前別の旅行記で使用した写真も使用しています。
*本旅行記中、三井化学などの工場群(コンビナート)の写真があります。工場の各入口には「工場内撮影禁止」の表示があり、三井化学株式会社大牟田工場に電話にて確認したところ(2023/03/14)「ズームで拡大して撮影されると困りますが、風景として公道など敷地外から撮影する分には構いません」とのお返事をいただき、掲載することにしました。尚、担当の方から丁寧にご対応いただき、感謝を申し上げます。
*この旅行記は観光とは縁遠い地味な旅行記です。その点をご了解の上読み進んでいただければと思います。またご感想などはもちろん嬉しいのですが、どうぞ無理はならさないようにと思います。
*旅行記中、大牟田市石炭産業科学館で撮影した地図と明治期の大浦坑の絵の写真を使用しています。撮影・掲載の許可をいただき、お礼を申し上げます。
(2023/6/14公開、023/11/30上記大牟田市石炭産業科学館の写真を追加)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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この旅行記は意外な場所から始まります。
三池炭鉱の迎賓館として建てられ、今はフレンチのレストランとして人気の三井港倶楽部です。
歴史のある瀟洒な建物と銅像が見えます。
*港倶楽部の写真は、以前旅行記で公開したものを再使用しています。三井港倶楽部 グルメ・レストラン
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銅像は男爵・団琢磨。三井三池炭鉱の初代事務長を務め、後に日本経済界のトップとして重きを成し、最期はテロの犠牲になった人物です。
作曲家、団伊玖磨氏の祖父にあたる方です。
*伊玖磨氏が作曲家になった(祖父や父のように経済人にならなかった)のは、琢磨氏がテロの犠牲になったことも影響しているそうです。伊玖磨氏が作曲家にならなかったら、合唱の名曲「筑後川」も誕生しなかったのですね…。 -
イチオシ
その団琢磨像の後ろにあるのが大浦坑遺址。
こちらは2021年6月に大牟田市の三井港倶楽部で撮影したものです。
そのときはピンときませんでしたが、今振り返ると、この遺構は大正15年、大浦坑が閉坑したときの碑(団琢磨の揮毫)であり、その後市の処理場が設置されるにあたって、港倶楽部の敷地に移設されたようです。 -
大浦坑の歴史が表示されています。
三池炭鉱において、西洋近代技術が初めて投入された大浦坑。その歴史は三池炭鉱近代化の歴史でもあります。
明治6年、三池炭鉱官営化、同22年、三井の経営に
明治9年、坑底に炉を設けて通風を行う(温度差により坑内換気を行ったと思われます)
明治11年汽力曳揚機を備える(蒸気機関により揚炭を行ったと思われます)
明治20年蒸汽喞筒(ポンプ)をもって人力水車馬力喞筒に代える(人力水車や馬により行っていた排水を蒸気ポンプで行う)
明治23年七浦に通ずる疏水道を開く(七浦坑へ排水路を通じ、排水処理は七浦にて行う)
明治34年電力の応用に進む(蒸気機関から電力に転換)
明治35年盤下炭の採掘を始める(深い炭層の採炭に進んだと思われます)
明治39年別に第二坑を開いて旧坑の残址を採掘し、出炭総計七百余万トン。
大正15(1926)年2月廃址す
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それでは、次の写真から大浦坑跡付近へ移動します。 -
本日は大浦坑跡及び化学コンビナート周辺を歩きますが、地図の赤線で囲んだあたりになります。
*地図は大牟田市石炭産業科学館で許可をいただいて撮影し掲載しています。 -
高取山西側の麓。三井化学を中心とした化学コンビナートが形成されていますが、その中に、大浦の谷間があり、緑濃い高取山の懐へと進みます。
大浦という名称ですが、その昔はこの辺りも海岸だったことがうかがわれます。この近くの三池炭鉱の坑の名称も宮浦(石炭記念公園)に七浦ですから。往時は海が大牟田市内の奥深くまで入り込み、市内の土地の高い部分が島や半島状になっていたと思われます。「牟田」という地名自体が湿地を意味するので、海が次第に後退し、跡地が湿地になっていったのだと思います。
話が逸れましたが、奥深い谷の奥にあるという大浦坑の跡地へ。写真中央「金子技研」の手前で道は左右に分かれていますが、左側の道へ進みます。 -
【大浦坑跡】
谷間の道を進むと、大牟田市のごみ最終処理場があります。
実は…ここが三池炭鉱大浦坑跡。大浦坑は、1854年に三池藩によって開坑されました。
三池炭鉱の組織的採炭は、1721年に柳河藩家老・小野春信により高取山北側(平野山)にて始められ、続いて三池藩領でも高取山北西部(稲荷山)にて採炭が始まったとされます(1738年頃?)。大浦坑は三池藩領では最後期に開かれた坑です。当時は狸堀りによる従来の採炭が行われていました。
明治維新後は三池藩士に下げ渡され、明治6年(1873)に他の坑と共に一括して官営化されます。
前述のように大浦坑は大正15年に廃坑になりましたが、第二次大戦前後に再度採炭されました。 -
金網の間から中を撮影します。この擁壁の右の方、柵に重なって見えにくいのですが、斜坑跡の入口が確認できます。入口はコンクリートで封鎖され、その奥に本当の入口があるそうです。
【大浦坑の近代化】
官営化されてしばらくして、三池炭鉱に西洋近代技術が投入されます。
それは大規模な斜坑を掘削し、蒸気の力で機械化。さらに港湾(大牟田港)を整備し、大浦坑と大牟田港を馬車鉄道でつなくというものでした。坑口・積出港の整備・そこまでの運搬経路の三点セットです。
発案したのはお雇い外国人ポッター(イギリス人)。大浦坑は長崎の高島炭鉱に続いて日本で二番目に西洋技術が投入されます(第一斜坑は明治11年創業開始、第二斜坑は同40年開始)。
ポッターは、初め高島炭鉱で働き、次いで三池へ訪れました。彼の案は既存の坑に西洋技術で新しい坑を設け、さらに古い坑と接続して再生させるというもの。低予算で行うことができたために採用されました。
その一方で発展性には限界のある近代化でした。大牟田港では大型の船舶は入れず、大量の輸送はできません。馬車鉄道も輸送量に限界があります。また大浦坑で採用された斜坑は、掘削は容易で掘削中でも採炭が可能ですが、地上への揚炭は不利でした。
その後さらに近代化が図られ、蒸気機関車(後に電化)による三池炭鉱専用鉄道が敷かれ、関門による水位調整機能を備えて大型船が寄港できる三池港が設けられます。
官営化された当時は、まず低予算である程度の近代化を図り、炭鉱の発展させてから再度設備投資をするというものだったようです。 -
入口跡部分を切り取り拡大してみます。
【ゴットフレーによる対案】
官営時代、三池炭鉱近代化のもう一つの案とは、鉱山技師ゴットフレーによるもので、高取山の南側の谷間(現在の不知火ゴルフ場の奥)に竪坑を設け、鉄道は大牟田市の南側(三池港のすぐ北側)を流れる諏訪川に沿い、その河口に港を作るというものでした。実現していれば、後の三池炭鉱の発展に近い形になっていましたが、ポッター案に比べて7倍の予算が必要だったそうです。
実現すれば一挙に近代化されますが、予算のハードルが高かったのですね。 -
擁壁の右側手前にある大牟田市環境部 環境業務課第1清掃事務所の敷地です。グーグルマップによれば、このあたりに第二斜坑跡があるらしいのですが…
【大浦坑囚人労働と放火による悲劇】
近代化の技術が投入と同時に囚人労働も行われ、明治16年(1883)、放火により火災が起こります。あまりに過酷な労働により絶望した熊本県の囚人が放火したそうです。逃亡したいからではなく、このような酷い場所は葬り去りたいという理由からでした。
大浦坑は甚大な被害を被り、多くの死傷者が出て坑内馬も犠牲になりました。火災以降元の採炭量に戻ることはなかったといい、同年開坑した七浦坑に三池炭鉱の主力の座を譲ることになります。そして、大正15年、閉坑となります。
その後、昭和21~31年、第二次大戦直後に再び採炭されました。江戸時代から第二次大戦後まで。中断した期間はありますが、長い期間稼働した坑です。
尚、大浦坑では福岡県、長崎県(後に分離した佐賀県)、熊本県の囚人が使役されました。三池集治監からは出役していないそうです。
*私の旅行記では坑口付近を撮影したのみにとどまっていますが、以下のサイトではより深く説明・探索がされています。興味がある方は検索してみていだだければと思います。
・大牟田・荒尾の歴史遺産
・黒沢永紀オフィシャルサイト
・フクダジマ探検記 -
こちらは、2023年11月に大牟田市石炭産業科学館で撮影した明治期お大浦坑の絵画です。
今の風景からは想像がつきませんが、かつてはこのような設備があって、多くの人々が働いていたのですね。
*撮影及び掲載の許可をいただいています。 -
大浦坑があった場所から戻ります。道の左右には鉄工所や小さな工場などが見えます。
このあたりに、明治~大正には炭鉱関係の建物が立ち並び、馬車鉄道(後には七浦坑へのエンドレス・ロープ)が引かれていたのですが、その形跡はまったくありません。往時を想像するのは困難です。ただ、この道の両側の土地、多分大浦坑が閉坑した後、三井鉱山が土地を売却して、ここに工場などが建ったのだと思います。 -
先ほどの金子技研の前の道路まで戻りますが、大浦坑への道と別の道が気になります。この写真の場所からUターンして、もう一つの道へ。
このあたりにも江戸時代には幾つかの坑があったようです。 -
途中にあった、三井化学への出入口。このあたりには、他には運送会社の車両置場があるだけで、新しく開かれた道のようです。
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坂道を上った場所には大牟田市東部環境センターがありました。こちらは清掃車などがバンバン出入りしています。
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道の先は行き止まりになり、このような空き地がありました。
大牟田囚人墓地保存会の資料によると、かつてはこのあたりに狐谷抗という三池藩の坑口があったとのことですが…他の書籍や石炭産業科学館に展示されている地図では狐谷坑は現在の三井化学のコンビナート内(壱部山)のように読み取れます。 -
運送会社(谷口陸運)の車両置場の横を通り、コンビナートを通る道路へ戻ります。このあたりには、藩政期には風抜坑と中口坑があったようです。
大浦坑は大正末期に閉山。第二次大戦前後に一時期復活しましたが、その後設備はすべて撤去されたようです。今は緑の山と工場群やごみ処理場が不思議なコントラストを見せる土地でした。
ただ、坑道跡入口を確認できたのが収穫でした。 -
それでは、ここから三池炭鉱の豊富な石炭を使用して発展した、化学コンビナートを南北に貫く道路を歩いてみます。
コンビナート歩きの出発点は、大牟田市の瓦町交差点付近になある瓦町公民館。レトロでシブい建物です。
ここから南方向へ進みます。 -
瓦町交差点付近は古くからある住宅街ですが、南方向に進むとがらりと風景が変わり、広大な工場群…化学コンビナートが姿を現します。
左手が稲荷神社や高取山(稲荷山エリア)、右側は壱部山と呼ばれたエリアで、左右共に三井化学を中心としたコンビナートが広がります。
コンビナートとしては、壱部山側(右側)が広く、高取山側は山裾の谷間や道路沿いの土地に工場が建っています。 -
稲荷神社入口付近の建物…シブいです。
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道路の西側の敷地。丘陵(小山)が道路に迫っているのが見えます。道路の西側は広い敷地ですが、所々に小山があって、江戸時代には採炭もされました。
【壱部山の坑】
江戸時代には、現在の三井化学のコンビナート内の壱部山に坑がありました。
1806年頃に壱部村の庄屋により採炭が始まりましたが出水のために廃坑したり、別の人が再開したり…近くの坑より苦情が出たりで結局採炭中止に。その後盗掘なども行われた末、廃坑になりました。
壱部山には花栗坑、慶三坑の二坑がありましたが、この他狐谷坑も壱部山にあったのかも知れません。後に壱部山は廃坑になりました。 -
歴史のある工場群です。この先に大浦坑へ向かう道路があります。
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道路を進みます。左(東側)が高取山方向です。
【三池炭鉱と化学コンビナート】
このコンビナートの大部分は三井化学とその関係企業が占めています。
元々は三井鉱山が明治の末頃に三池炭鉱の豊富な石炭を利用して染料や肥料を生産したことに始まり、大正~昭和初期にかけて現在の形に発展します。
【三井化学】
やがてその工場が炭鉱から分離、いくつかの化学系企業が誕生します。化学肥料などの東洋高圧工業(1933年設立)、染料などの三井化学工業(1941)、そして石炭から人造石油を合成した、三池合成工業(1946)。
この中で、1962年に三井化学工業が三池合成工業を併合。さらに1968年に東洋高圧工業が三井化学工業を合併して三井東圧化学が誕生します。
また、1950年代、時代は石油化学への転換点を迎え、三井系など複数の企業により三井石油化学工業が設立(1955)。
最終的に三井東圧化学と三井石油化学工業が合併して現在の三井化学になっています(1997)。
ここ大浦工場は、東洋高圧工業、三井化学工業、三池合成工業の工場があった場所です。
尚、大浦のコンビナート内には、他に三井金属鉱業(三井鉱山から金属部門が分離)があり、西側に隣接するショッピングモール(ゆめタウン)の土地にはかつて三井三池製作所(炭鉱の機械部門が分離独立)がありました。
この他、大牟田川北側の沿岸部には三井系列のデンカ(旧電気化学工業)や三池製錬(三井金属のグループ企業)があり、かつては炭鉱電車、現在はパイプラインによって大浦と結ばれているようです。 -
振り返って右(壱部山側)を撮影。
【団琢磨と化学コンビナート】
当初三井鉱山が化学事業を始めたとき、莫大な投資が必要になり批判もありましたが、三池炭鉱の初代事務長・団琢磨は「合成染料等の化学事業は短期的な損益より長期的な視点からこれらを育成していくことが大事だ」と事業を推し進めました。
炭鉱が無くなっても、化学コンビナートは今もあります。団琢磨の英断は今も大牟田市を支えています。
そういえば、団琢磨、三池港を作ったときも「石炭が尽きても地元の人が生活できるような置き土産が必要。筑港をすればいくらか100年の基礎になる」という言葉を残していました。
私の印象では、地元にとって大浦の化学コンビナートは三池港に劣らぬ存在、いやそれ以上の意義があるように思います。 -
道路右側、複雑な構造です。
三池炭鉱の閉山は1997年ですが、1950年代のエネルギー革命以降、長く衰退の歴史をたどっていました。
炭鉱の出炭高の最高を記録したのは1970年頃ですが、既に1970年代には大牟田市における存在感を減じつつあったように思います。そんな中、三井化学を始めとして、三井金属鉱業、三井三池製作所、電気化学工業(デンカ)などの工業が大牟田の町を支える大きな柱になっていたと思います。
長い工場の歴史の中で社会の需要も変わりました。工場で働く人も昔に比べれば随分減ったようです.
工場の存続が危ぶまれる時期もあったそうですが、現在は時代の変化と共に新たな製品を造り出しているようです。
年月に耐えて稼働する工場群。歴史の重みを感じさせます。私にはこのコンビナート全体が生きた産業遺産、近代化革命遺産だと思えるのです。その重みと意義は三池炭鉱の世界遺産に劣らないと思います。 -
道路を横切る高架を下から撮影。かつては炭鉱鉄道が壱部山側の工場内にも引き込まれ、さらにこの道路の上も通って高取山側に延びていたそうです。
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壱部山側の景色。
かつてこの周辺を通ると強烈なアンモニア臭が漂っていたことを思い出します。
それだけでなく、かつては大気汚染も酷く、また工場からの排水で大牟田川が染まり「七色川」「悪水川」と市民から呼ばれました。
しかし時代の変化と共に環境対策も施されて、今は空気も川もきれいになりました。アンモニア臭もいつの頃からか、なくなりました。
環境面が改善は必要です…が、今となっては活気があったあの頃が懐かしく感じられもします。 -
【小浦坑跡付近?】
さて、こちらは高取山側の景色。恐らくここは江戸時代、三池藩領で初めて中村松次郎というお百姓さんによって組織的採炭が行われた小浦谷ではないかと思います。
かつて小浦谷には松次郎さんの供養塔があり、それは昭和10年頃、市内八尻町の宗慶寺へ移されたそうです。その頃に小浦谷にも工場が建設されたのかも知れません。 -
壱部山側。褐色の小山が見えます。江戸時代に採炭された場所かも知れません。
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壱部山側道路沿い。
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この先高取山側には、冒頭で紹介した大浦坑跡への道路が延びます。このあたりは大浦谷。広く深い谷間で、道路に近い部分はコンビナートも一部になっています。
かつてはこのあたりにも社宅があったそうですが…今は住宅は皆無に近いです。 -
壱部山側の風景。
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こちらは高取山側。大浦坑への広い谷間の南側にあります。こちらの工場も敷地が奥まで延びているようです。
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赤錆びた配管。
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壱部山側の建物。
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振り返って撮影。左が壱部山側(西)、右が高取山側(東)です。
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道路を進むと、壱部山側には断層(?)が見られます。
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振り返って撮影。
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途中、高取山側には古い石段があります。上ってみたかったけど、ここは多分工場の敷地になると思うので断念。
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少し離れて石段付近を撮影。
マップで見ると、この辺りには調整池があるようです。 -
道路を横断する配管。正面に煉瓦造りの小さな建物。歴史のある工場です。
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道路沿いの建物。
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道沿いで見かけた配管。
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振り返って撮影。高取山側の南の方は台地のようになっていて、その上に工場や事業所があります。
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高取山側南部分の工場への入口。
*実はDeco、昔、ある用件があって、この先の駐車場まで行ったことがあります。意外にも広い敷地があって、駐車場の先に事務所や工場が広がっていました。 -
コンビナートの間を抜ける道路ですが、南の端に近づいてきました。
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この石垣も相当古い物。多分第二次大戦以前からのものでしょう。
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振り返って撮影。
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壱部山側(西側)の南の方にある入口。緑の配管が印象的です。
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壱部山側。このあたりに江戸時代に開かれた旧七浦坑があったそうです。
後に明治に入り、別の場所に七浦坑が開かれました。旧七浦坑とも接続されて、採炭坑夫の避難路として使われたとか。 -
不思議な造形。
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イチオシ
【エスジーケミカル本社=旧三池合成工業】
高取山側の南の端の方にきました。レトロなビルが見えます。手前の門の名称は合成門。
前述のように三井化学は、三池炭鉱から派生した複数の企業が合併して今日の姿になっていますが、ここはかつて三池合成工業の社屋でした。建物の前の植栽などにも往時の雰囲気が残っているかのようです。
現在はエスジーケミカルという会社の社屋になっています。
*三井合成工業の社宅は、世界遺産の宮原坑にほど近い場所にありました。中央には広い道があり、社宅は長屋ではなく、質素ながらも二世帯で一棟の作り。庭もそこそこ広く、何より1950年代(?)の建築にもかかわらず、水洗トイレが完備されていたとか。 -
【合成門と七浦坑跡方面】
合成門の先も広大な敷地があり、コンビナートが広がっています。
この先に、大浦坑に次いで明治の国営期に開坑された七浦坑の跡があるはずです。煉瓦造りの建物などが残っているそうですが、敷地の奥にあるため、うかがい知ることもできません(一か所、炭鉱の末広社宅跡の土地から見えそうに思えますが、今は木々に覆われ近づくのも難しいようです)。七浦坑跡の先には早鐘眼鏡橋、そして道路を越えて世界遺産の宮原坑があります。 -
工場の側から離れて、遠望できる市内の七浦という場所へ移動します。
壱部山方面を撮影。
(三池炭鉱にも七浦坑という坑がありました。場所は比較的近くにありますが住所は合成町となり別の場所になります) -
その少し右(東)側。
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さらに右手(南方向)を見ます。にSGケミカルの社屋が見えます。
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その少し右側、奥に高取山が見えます。
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左手にSGケミカルの建物が見えます。多分この右手の方向に七浦坑跡があると思いますが、角度的に撮影できるのはここまででした。
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【三池炭鉱専用鉄道旭町支線(後に、三井化学専用鉄道)跡】
最後に壱部山側の最南端へ戻ります。旧三池炭鉱専用鉄道敷跡です。この部分は世界遺産の指定はされていません…が、炭鉱閉山後は三井化学に譲渡されて、2020年5月まで三井化学専用鉄道として使用されていました。
現在はその役目も終わり、鉄道施設も次第に撤去されつつあります。
この鉄道、宮浦石炭記念公園から見えるので、フォートラベラーの皆さまの中には目にされた方もいらっしゃることと思います(遠くに記念公園の煙突も見えます)。
今回の旅行記は、大浦坑跡とその近くにあるコンビナートの風景(コンビナートの東側を通る道路沿い)を紹介致しました。
三井化学専用鉄道跡(旧三池炭鉱専用鉄道旭町支線跡)については、いつかまた旅行記にしたいと思います。
ご覧いただき、ありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ちちぼーさん 2023/07/28 21:31:57
- 三井港倶楽部でお食事したい
- Decoさん、こんにちは。
三井港倶楽部でのランチいいですね。
しかもとてもコスパがいいなんて、行ってみたくなりました。
大浦坑のことは知らなかったのですが、近代化した池島と違い
囚人の力を借りなければならなかったということはそれだけ厳しい仕事だったということを意味しているのですよね。
池島の旅行記をアップしたので、私を炭鉱の世界に導いてくださったDecoさんをリンクさせて頂きました。
事後報告ですみません。
ちちぼー
- Decoさん からの返信 2023/07/29 05:41:32
- Re: 三井港倶楽部でお食事したい
- ちちぼーさん、おはようございます。
池島に行かれたのですね。早速拝見しましたよ。拙ページをご紹介いただきありがとうございます (#^^#)
池島炭鉱が出炭を始めたのは1959年。国内の炭鉱としてはかなり新しい炭鉱だと思います。1950年代後半にはエネルギー革命で国内炭鉱が厳しい状況にあったことを考えると、1970年代以降も旺盛な採炭が行われたことは特筆すべきことと思います(三池では1960年頃に三池争議が起っていますし)。
大浦坑、というよりも三池炭鉱に明治初めに近代技術が投入されてから、採炭効率はアップしましたが、それに見合う労働力を確保することが難しく、囚人労働に頼ることとなりました。それは過酷なもので、当初から反対する声も大きかったといいます。
三池・長崎・筑豊では納屋制度と呼ばれるタコ部屋労働も導入されましたが、特に長崎では過酷だったようです。高島や今や軍艦島として知られる端島でも。
囚人労働は明治30年代半ば頃から縮小されますが、その一因としてジャーナリストが長崎の高島炭鉱に潜入して納屋制度の信じられない過酷さを暴き、囚人労働も批判をあびたことも関係しているようです(三池集治監の菊池医師が囚人労働廃止の意見書を出したことも一因らしいです)。
三井港倶楽部、ランチは超リーズナブルなコースがあったのですが…その後インフレなどで値段が上がり、お安いコースそのものが無くなってしまいました(泣) でも、それなりのお値段でも一度は訪れて食事したい場所です。(*^^)v
Deco
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