2021/11/30 - 2022/02/14
51位(同エリア167件中)
Decoさん
この旅行記のスケジュール
2021/12/19
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マルエイ大牟田店(かつての三池炭鉱購買所)
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メルクス大牟田(旧三池炭鉱・馬渡社宅跡地)
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馬渡社宅の碑(馬渡第一公園)
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山ノ神神社跡
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新勝立公園
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この旅行記スケジュールを元に
世界文化遺産となった三池炭鉱。宮原坑や三池炭鉱専用鉄道敷跡の東に「勝立(かったち)」というエリアがあります。かつて宮原坑の前に開坑した勝立坑があり、炭鉱の社宅が一面に広がっていた地区です。
閉山から20年以上経ち、町も変化を遂げました。炭鉱時代の痕跡、大きく変わった街並み、忘れてはならない慰霊碑や記念碑…そんな勝立地区を訪れてみました。
尚、この旅行記は数度にわたって現地を訪れた記録です。また構成上、訪れた場所の順番は変更しています。
(2021/03/18)
勝立坑についての補足
三池炭鉱関連の世界遺産巡りなどをされた方は、三池炭鉱は大浦坑周辺から炭鉱専用鉄道に沿って西南へ、有明海方向・三池港へ開発が進むという印象を持たれる方が多いと思います。
勝立坑はそれとは外れた東の方にあります。三池炭鉱は大牟田市東南部にある高取山の北側・西側から採炭が始まり、東側でも行われていました。未だ手付かずだった南側に坑を設ければ、採炭できると、当時は考えられていたのかも知れません。
実際、官営化された時のお雇い外国人の開発計画は二つあって、その一つは勝立坑の手前にある三ツ山坑(排気坑)に採炭用の竪坑を設けて、現在の三池港の北側にある諏訪川河口から搬出するというものでした。
結局この案は採用されず、大浦坑を近代化して、大牟田川河口を整備、両者を鉄道でつなぐという案が採用されましたが、当初は勝立付近が採炭に有望だと思われていたことがうかがわれます。
(2022/6/19 上記の説明や勝立坑における囚人労働、三池集治監の医師・菊池常喜の経歴その他、追記しました)
(2022/9/25 堤茶園と椎山食料品店の前の道と映画「向田理髪店ロケ地」についての記述、および馬渡社宅の碑の説明を追加)
(2022/10/30 囚人労働に関して、熊本県監獄典獄・坪井直彦の回想及び熊本県囚人労働廃止の経緯を追加)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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今回の旅行記は観光とはあまり縁のない内容ですが、あまり知られていない勝立坑やその周辺の史跡、現在の街の姿を紹介したいと思い、作成しました。
それではまずは勝立坑です。勝立は「かったち」と地元では読まれているようです。
勝立坑は明治28年(1898)に開坑、昭和3年(1928)に採炭が終了しています。
明治以来の三池炭鉱の主な坑ですが、まず幕末に開坑し明治になり官営化されます。西欧近代技術が投入された大浦坑。次いで明治初期に開かれたのが七浦坑。
それに続いて開削が行われたのが、この勝立坑ですが、後述のように大量の湧水のために工事が難航。当初は排気坑として設けられるはずだった宮浦坑が採炭の坑として先に開坑。
勝立坑の開坑はその後になります。この後、世界遺産認定の宮原坑と万田坑が開かれます。
勝立坑、写真でおわかりいただけるように、人や物が出入りした第二竪坑櫓の基礎が僅かに残っているだけです。しかも周辺は地元の方々の家庭菜園と化していました。勝立坑跡 名所・史跡
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説明板の説明部分です。
三池港築港の指揮を取った団琢磨ですが、その前に彼が行った功績の一つがイギリス製のデービー・ポンプの導入。石炭の採炭には大量の水が出てきて排水が必要です。勝立坑でも大量の出水に悩まされましたが、このポンプのおかげで採炭が可能になりました。
【団琢磨について】
三池炭鉱を近代化し100年に渡って続く基礎を作り上げた人物。三池港を築港した人物。彼の事績を考えると、一概には良し悪しで語れないように思います。
団琢磨は三池炭鉱を近代化した立役者であり、偉大な人物。その近代化には労務管理も含まれ、悪質な労働ブローカーによるタコ部屋のような労働(=納屋制度と言われます)を徐々に少なくして三井鉱山の直接雇用を拡大、福利厚生なども整えた人物です。一方で明治の初めから行われていた囚人労働も継続していましたが、この後、万田坑に関しては三池集治監からの囚人労働の申し出を断ったそうです。囚人労働は好ましくないと思いつつも、現実には三池炭鉱は囚人の労働力に大きく依存しており、炭鉱の存続のためには外すことができなかったのではないかと思います。
団琢磨は福岡藩士の家に生まれ、13歳にして藩主のお伴のような形で米国留学します。多感な成長期をアメリカの家庭で過ごしました。今でいえば留学というより帰国子女のような感覚だったのかも知れません。当時の経済界においてはまれに見る人格者。穏やかで優しい人柄だっと言われます。
【勝立坑と囚人労働】
三池炭鉱では明治6年の官営化以降、囚人労働が行われ、三潴県(現在の福岡県筑後地方)を皮切りに、福岡県、熊本県、長崎県(後には長崎から分離した佐賀県)から囚人が派遣され、それぞれ大牟田市内に各県刑務所の出張所(又は懲役場)が設けられ居住労働していました。
さらに明治16年に内務省管轄(=国直轄)の三池集治監が設置されます。
勝立坑には三池集治監からの囚徒が使役されました。初めは集治監から徒歩で勝立坑へ(最短でも2.4km、かなり距離があります)。次いで炭鉱鉄道が延伸されると鉄道で(集治監に近い七浦坑から乗車したと思われます)。さらに勝立坑付近に三池集治監勝立派出所が設けられ、囚徒が収容されました(現在のオーム乳業のあたりかと思われます)。 -
説明板にあった往時の勝立坑の写真です。三池炭鉱専用鉄道の支線も引かれ、二つの竪坑が並ぶ姿…今は周囲は住宅街、公民館、家庭菜園にメガソーラー。まったく想像がつきません。
*三池炭鉱専用鉄道の勝立線ですが、勝立坑閉山(昭和3年=1928)と共にいったん撤去されます。しかし周囲に多くの炭鉱社宅ができたことから、再び施設、勝立坑の先の東谷の社宅(現在は市営住宅があります)付近まで延ばされたそうです。尚、現存しない第一竪坑(写真右の櫓)は現在の勝立公民館のあたりにあったそうです。 -
説明板のある南側を少し離れて撮影。手前は駐車所と勝立公民館、右側(東側)はひばりが丘団地という大規模な住宅街、左側(西側)は谷間で荒地(昔は線路が引き込まれ勝立坑閉坑後はグラウンドになっていたらしい)、裏側(北側)は公園~道路になっています(ひばりが丘団地は、炭鉱関係の施設の跡地ではなく、後から住宅地として開発されたようです)。
背後に見えるのは高取山。三池炭鉱の故郷ともいえる山です。勝立坑は高取山の南側にありますが、最初期(藩政期)の坑道はこの反対側(山の北側=柳河藩が採炭)から西側・東側(三池藩により採炭)にありました。 -
第二竪坑跡の基礎部分、コンクリートの下から煉瓦が見えました。
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説明板のある側とは反対側(北側)の写真です。斜面に面しており、右下には竪坑へのアーチ形の入口跡が見えます(コンクリートで塞がれています)。
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すっかり荒地となった場所を進み、第二竪坑跡の入口付近に行ってみました。
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間近に行ってみます。煉瓦のアーチ型の入口ですが、コンクリートで塞がれています。
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斜め上から撮影。
尚、ここから説明板がある側(反対側)に廻って気が付いたのですが、第二竪坑櫓跡は、南側(説明板がある側)は櫓の基礎、北側はこの入口になっていて、この入口側は櫓側より低くなっています。この入口の上も、なんと家庭菜園になっていました… -
第二竪坑櫓跡の南側にある勝立地区公民館。かつてはここに第一竪坑があったそうです。第二竪坑跡よりも少し土地が低くなっています。
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【マルエイ大牟田店=旧三井鉱山売店跡】
勝立坑跡はやや高い場所の斜面に位置しています。そこから西側に降りて行くと「マルエイ大牟田店」というスーパーがあります。ここは元々は三井鉱山の購買所(三池炭鉱に働く人たちの社員専用の店)があったようです。一応社員の福利厚生のためで、第二次大戦前は組合が経営することになっていましたが、実はこの組合の役員は経営者側とツーカーだったとか。
購買所は後には「サンショー」というスーパーになります。この頃には「三池商事」という会社になり、三池炭鉱閉山後も存続しました。この建物もサンショー時代のものを改装したものです。
以上の経緯から、この場所は元々三井鉱山が所有する土地であったことがわかります。
ちなみに、ここにあったサンショーは、すぐ近くにショッピングモール(メルクス)ができた際に移転しています。
*ネットで古い地図を確認したら、このあたりにも線路が引き込まれていたようです。前述のように、支線は昭和3年の勝立坑閉坑後いったん撤去され、付近に社宅が造成されてから再び引かれたそうです。炭鉱の売店は、いったん撤去されて社宅が造成された頃に建てられたと思われます。 -
マルエイ大牟田店の北側です。大規模な太陽光発電が設置されています。斜面になっており、高取山に続いています。
かつてここには三井鉱山(=炭鉱)の福利厚生施設があったようです。ネットで検索したところ、古い地図が出てきて、このあたりにはテニスコートや講堂、保育所などもあったようです。数年前訪れた時は、木々に覆われていましたが、中に舗装された狭い道があり、所々に建物の基礎部分らしきものが残っていました。
勝立坑の東側にも、造成された大規模な住宅地が広がりますが、ここもまた三井系企業の社宅や施設があったと思われます。 -
マルエイ大牟田店から、大牟田川沿いに西へ進みます。
小さな商店街があります…と言っても、営業しているのは最も東側ににある二軒だけ。八百屋さん(椎山食料品店)とそのお隣の茶舗のみ。
他は既にお店を閉じていたり、空き家も多く見られます。
この商店街、かつて周囲に社宅が数多くあった頃の名残なのです。周囲が再開発などで姿を変えていく中、ここは個人の地所であるためか昔の面影が残っています。かつては多くの買物客でにぎわっていたらしいです。
ちなみに八百屋さんの店頭をちょっとのぞいてみましたが、案外安くて、マルエイと互角に近いお値段の商品もありました。昔からの常連さんが付いているのかも知れません。
かつてはこの椎山食料品店の横から炭鉱住宅(この写真の右の方)へ続く長い坂道があったようです。 -
八百屋さんのお隣の茶舗(堤園)は営業されているようでした。そのお隣の大洋軒は店は開けてないようです。堤園は、炭鉱の社宅があった頃の地図にも記載されていました。
*堤園と椎山食料品店の前の道は、2022年10月公開の映画「向田理髪店」でもロケ地になっているようです。また理髪店もさほど離れていない場所(ドラッグストアモリの近く)にあります。(2022/9/25加筆) -
商店街の裏側(メガソーラーの西)には、小さな川を隔てて市営住宅勝立団地があります。この写真の右側は傾斜地になっていますが、そのまま高取山の南側に続いています。このあたり、かつては三池炭鉱の社宅がありました。
この団地、なかなかお洒落な雰囲気。屋根の形など凝っていて、ラテン的な柔らかい形状をしています。土地も斜面の高低差をそのまま利用しており、変化のある景観になっています。 -
八百屋さんやお茶屋さんがある商店街の前は小さな川と広めの道路(大牟田植木線)があり、その反対側は小高い丘になっています。
この写真でわかるように、商店(ガス関係を扱う平川商店)の左側にかつては上っていく道があったことがうかがわれます(ロープが張られています)。この先にも社宅があったようです。ちなみに、平川商店も昔の地図に記載されていました。堤園と共に時代の変遷を見守ってきたのですね。 -
【メルクス大牟田(ミスター・マックスなど)】
先ほどの古い商店街からさらに東に進むと「メルクス」というショッピングモールがあります。中心になっている店舗はディスカウントストアのミスター・マックス。
今の景色からは想像できませんが、ここにはかつて「馬渡(まわたり)社宅」という三池炭鉱の社宅がありました。
以前「大牟田市石炭産業科学館」を訪ねたとき(https://4travel.jp/travelogue/11723603)、「馬渡社宅には朝鮮半島から連れてこられて劣悪な環境で働かされた人々が住まわされていた」と聞いていました。
周囲を台地に囲まれ前面には川、馬渡という地名は、”馬でなければ渡れないような湿地”という意味があるそうです。 -
ショッピングモールには「ザ・ビッグ」というイオン系の食品スーパーがあります。ここも何度か店舗が変わりましたが、元々は三井鉱山系のサンショーでした。先ほどのマルエイ大牟田店の場所から、ショッピングモールができたときに移転してきたわけです。こちらも元々三井鉱山の土地でしたから。
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ショッピングモールの一画には単独店舗で「九州筑豊ラーメン山小屋」があります。
三池炭鉱の社宅があった場所に、同じ炭鉱町だった筑豊系のお店が…不思議な縁を感じます。「山小屋」は田川郡香春町が本店のようです。ちなみに、このお隣にはカレーの「CoCo壱番館」があります。筑豊ラーメン山小屋 メルクス大牟田店 グルメ・レストラン
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【馬渡社宅の碑(馬渡第一公園)】
ショッピングモールは、東と西の台地に挟まれた谷間のような地形の場所ですが、この奥(南側)には小さな住宅街と公園があります。
ショッピングモールのすぐそばの馬渡第一公園ですが、奥に記念碑のようなものが見えます。 -
近づいてみます。
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記念碑の建立文です。1997年に建立とういことは、三池炭鉱が閉山した年です。この頃三井鉱山がこのあたりに残っていた土地を手放したのではないかと思います。
*この碑の建立資金は、三井鉱山が出し、そこに大牟田市が建立文を入れたそうです。(2022/9/25加筆) -
続いて記念碑本体の写真や文章、四枚を掲載します。
まずは、取り壊し当時の馬渡社宅の写真。建物を保存しようという動きもあったようですが、かなわなかったようです。 -
朝鮮半島から連れてこられた方々が押し入れに残した文章。
(大牟田市石炭産業科学館にも展示されていました) -
同じく押し入れに残された文章。こちらも大牟田市石炭産業科学館に展示されていたと思います。
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残された文章についての説明です。
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馬渡第一公園の先には、一本の道が延び、両側が住宅街になっていました。建物の状態やデザイン、また道路の幅などから、おそらく1970年代に造成されたのではないかと想像しています。空き家になっている家も数軒ありました。
私もはっきりしたことはわかりませんが、馬渡社宅の一部だったのでしょうか? もしかしたら、早めに住宅地に造成された一画かも知れません。この周囲にも住宅街が広がっており、いずれも三井系企業社宅の跡地のようです。 -
ショッピングモールに戻ります。今度は反対側、道路(大牟田植木線)の先、高取山方面へ行って見ます。
こちらも昔は炭鉱の社宅があったようですが、今は企業や公園などになっています。写真に見えるのは「松谷海苔九州工場」です。 -
【山の神神社跡】
ショッピングモールから松谷海苔九州工場の方へ向かう道をさらに上ると、道は東に進みます。このあたりは炭鉱住宅があった場所が再開発され、この道路沿いに勝立団地(市営住宅)、工業団地、写真の地図にある九州帝京短大などが出来ました(案内図右下の墓地は昔からあります)。
九州帝京短大は、その後医療系の学部を加え、有明海沿岸、大牟田市石炭産業科学館のお隣に引っ越しており、現在は大学の研究施設として使われています。
この案内図にある「市民の森」ですが、高取山の南側の斜面に位置しており、その先は三井系の企業(三井化学?)の土地になっているようです。
案内図の左下に何か神社のようなものが…。 -
拡大してみます。「山の神」…大牟田市石炭産業科学館の公式サイトによると、愛媛県の大山祇大神を祀り、三池炭鉱の各施設等で建立されましたが最も古いのがここ勝立にあるもので1908年に建立されました。
しかし、1997年の閉山以降、管理されていないとか…約15年ほど前に訪れたときには、建物は一部朽ちてはいましたが、堂々たるたたずまいを見せていました。 -
車で道を上がってみます。入口。階段の先に一の鳥居が見えていますが、荒れています。
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さらに道路を上り、本殿横に駐車しますが、建物が見えません…
草ぼうぼうの境内を進むと…なんと本殿が無くなっていました。
これは悲しい…。三池炭鉱の山ノ神の中でも立派な敷地と建物があったのに…。写真は本殿があった場所です。 -
本殿跡から二の鳥居を通り、一の鳥居に下る途中、狛犬がいました。雄々しい姿、立派な狛犬ですが、悲し気に見えました。
勝立の山ノ神神社跡、もはや宗教施設でもないし、文化遺産として跡地だけでも整備してもらえたらと思いますが、大牟田市の財政も厳しいようですし、難しいのでしょうね。 -
【勝立工業団地(オーム乳業など)】
山の神神社跡から工業団地へ戻ります。松谷海苔のすぐ側から道が伸び、オーム乳業の工場があります。近代的な美しい工場です。
勝立坑があった頃は、恐らくこのあたりに三池集治監勝立派出所が設けられ、囚徒が勝立坑へ出役していたようです。 -
【勝立工業団地緑地公園】
オーム乳業のすぐ西側(松谷海苔の北側)が小高い公園になっており、「解脱塔・合葬の碑入口」の案内があります。解脱塔 名所・史跡
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この先に解脱塔があるようです。
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解脱塔慰霊碑の説明プレートがありました。事前に本を読んで、おおよそのことはわかっていましたが、説明の内容は非常に重いものです。当時、囚人とはいえ人が亡くなるということに対しても、人間らしい扱いをしていなかったことがわかります。
慰霊碑はこの近くには無いようです。上に続く道を登ります。 -
【解脱塔・合葬之碑】
小山の先の少し奥まった場所に慰霊碑がありました。
左から合葬之碑、馬頭観音、菩薩像。この写真の右側に解脱塔があります。
合葬之碑は、工業団地造成の際に見つかった遺骨を慰霊するもの。
馬頭観音は、昔炭鉱で使役に使われていた馬の霊を慰めるもの。
そして菩薩像は、大正時代に見つかった遺骨を慰霊するものです。 -
右側には解脱塔。先ほどの合葬之碑の右側が正面になっています。
解脱塔 名所・史跡
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解脱塔の裏側。明治21年、三池集治監の吏員によって建てられました。
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解脱塔の手前に顕彰碑がありました。
明治33年、三池集治監の医者であった菊池常喜(きくち・つねよし)は、集治監の生活環境が劣悪で囚人労働が過酷であるとし、囚人労働の中止の意見書を出したが一蹴され、菊池医師は集治監を去ります。当時、国家や三井財閥に物申すというのは、非常に勇気がいったと思います。
【菊池常喜医師による意見書と当時の社会状況】
三池炭鉱は官営化された頃から囚人労働を積極的に導入しましたが、内務省や司法省では人道上反対の声が大きかったと言います。また、三井の民営化に際し、福岡県議会は、囚人労働は非人道的だとして、廃止の要望の議決を行っています。
しかし三井が落札したときの価格は、囚人労働で人件費を抑えることが前提のものだったそうです。
菊池医師の意見書は無視されたかのように見えますが、政府は三池集治監から北海道の集治監へ囚徒の一部を移し、三池炭鉱の囚徒を減らします。また熊本県は囚徒を引き揚げ、福岡県は囚徒出役の要請を謝絶します。
三井鉱山も囚人労働への依存を減らすために直轄抗夫の募集を行います。また、三池集治監からは万田坑への囚徒派遣も打診されますが、三池炭鉱の事務長・団琢磨はこれを断っています。この後、囚人労働は三池集治監→宮原坑のみになります(ただし、昭和5年=1930まで囚人労働は続きましたが)。菊池医師の意見書は決して無駄ではなかったようです。
(以上の部分は「新大牟田市史 三池炭鉱近現代史編」を参考にさせていただき、その内容を私なりにまとめて記しました)
【菊池常喜の経歴】
菊池常喜の人物像については、地元の有志の方々が熱心に調べられたそうですが、ほとんど記録が残っていなかったそうです。わかったことは以下の通りです。
1862年、現在の熊本県菊池郡菊陽町に生まれる。
1890年(明治23)、現在の大牟田市手鎌の医師・菊池養貞の養子として入籍。
1894年(明治27)、九州医学会で「流行性スコールブート」について発表。
1896年(明治29)、現在の大牟田市三川付近へ転籍。
1898年(明治31)、三池集治監監獄医になる。
1900年(明治33)、「囚徒を採炭に使役するのは有害なる事に就き意見書」を三池集治監典獄(所長)へ提出(常喜38歳)するも、三池集治監会合審議で認められず、監獄医を辞任。
1907年(明治40)、現在の福岡市博多区住吉へ転籍。
1912年(明治45)、現在の東京都台東区東上野へ転籍、以後不明。
(以上の経歴は「三池炭鉱発展の礎石 囚人墓地とその関係遺跡」(大牟田囚人墓地保存会)の内容を記載させていただきました)
*ここから先の記述は私の推測に過ぎず、裏付ける資料もないのでそれをご理解の上お読みいただきたいと思います。
司法省の初代トップは江藤新平。征韓論で大久保利通などと対立して下野し、佐賀の乱の首謀に担がれ刑死した人物です。司法卿としての江藤新平は、性格的に難しいところもあり敵を多く作ってしまったようなところもありますが、人民の権利(=人権)の概念を日本社会に持ち込み確立、重視した人でもあります。また、能力のある人は身分に関わらず積極的に登用したそうです。囚人労働に否定的だった司法省。もしかしたら、江藤新平の影響を受けた人が多かったのかも知れません。それに初期の囚人労働の中には西南戦争の薩軍の人々もいました。佐賀の乱の江藤新平と同じような立場の人々と言っても良いかも知れません。このあたりも司法省の考え方に影響していたのかも、と思います。
*熊本県囚人労働引き揚げ(=廃止)に関して資料が見つかったのでここに追加します。[資料紹介]三池炭鉱の囚人労働(『リベラシオン』第163号、大原俊秀著)の内容をかいつまんで紹介すると…
熊本県監獄の元典獄(監獄の責任者)、坪井直彦の回想によると、坪井は採炭の囚人労働は不適当と予想しており、実地調査の上改善できるなら継続、不可能なら断然廃止と決心していました。彼は度々出張して実見し、改善の余地はないと判断します。その理由は
・外相患者が非常に多い。崩落、墜落、馬やトロッコとの衝突に囚人同士の喧嘩。
・変死者が多い。特に崩落による圧死など。
・衛生状態が極めて悪い
・風紀秩序が保ちにくい(同性関係、犯則行為、残飯で密醸した酒など)
坪井は囚人労働の廃止引き揚げを決心、熊本県知事の同意を得て廃止を決行しました。昭和35年、菊池文書から間もない頃ですが、もしかしたら菊池常喜の告発文が影響していたのかも知れません。 -
解脱塔の説明文です。
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背後には煉瓦塀の説明がありました。三池集治監で使用された煉瓦塀。網走刑務所のものと同じだそうです。
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煉瓦塀の残骸。
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合葬之碑の側面の碑文。
過去に目を閉ざす者は未来を失う… -
解脱塔慰霊碑の少し下の東屋付近からは周囲が見下ろせます。
工業団地の先には先ほど訪れたメルクス(ショッピングモール)=旧馬渡社宅。東西と南を台地に囲まれた地形。朝鮮人労働者を外部から遮断しやすい環境のだったのかも知れません。 -
メルクスの左(東)の台地にはトレーラのようなものが見えます。企業の敷地かと思いましたが、よく考えれば「大牟田温泉・最高の湯」という温泉施設。敷地内でグランピングも展開しているようです。ここも三池炭鉱の社宅跡ですが、時代は変わり大きく姿を変えています(背後に見える観覧車はグリーンランド)。
最高の湯 温泉
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勝立工業団地には、先ほどの緑地公園の他にもう一つ公園があります。
オーム乳業の工場とプレートの間に道があります。ここは会社の敷地ではなく公道。 -
【新勝立公園】
その先、奥の谷間に広がる「新勝立公園」。
工業団地が造成されたときに、一緒に整備されたのだと思います。
写真のように駐車場完備。トイレもあり。
小高い丘のような場所(展望デッキ)も見えます。 -
展望デッキに行ってみました。展望が開けているわけではありませんが、谷間の奥の緑に囲まれた静かな公園です。芝生広場に遊具もありました。
あまり知られていないけど、素敵な場所です。 -
奥には「化石園」という一画もありました。このあたりは断層があって、化石も出るのでしょう。石炭もメタセコイアの化石ですから。
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解脱塔慰霊碑のある工業団地付近から再び下に降りて、メルクスの前から道路(大牟田植木線)を西へ向かいます。
左手(南側)には台地の上に住宅街(元炭鉱などの社宅跡地)、右手(北側)には細長く工場などが続きます。このあたりには昔三池炭鉱専用鉄道の支線(勝立線)が引かれており(現在は完全に撤去)、その跡地ではないかと思います。
その一角にゴルフ場への入口があります。
進んでいくと「不知火ゴルフ場」の看板が見えます。
昔一度だけ、知人について行ったことがありますが、ゴルフにはまったく縁のないDeco。恐々と車を進ませます。すると右手に駐車場と打ちっぱなしと思われる場所があり、その先には…不知火ゴルフ場 ゴルフ場
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コースが広がっています。2月だから芝生は緑ではありませんが、自然に囲まれて良い感じです。
さて、なぜゴルフに縁がないDecoが不知火ゴルフ場に来ているのか?
それは、ここが三池炭鉱勝立坑や次に訪れれる早鐘眼鏡橋(国指定重要文化財)と関係しているからです。
高取山の西南から北東に向けて食い込むような谷間があり、不知火ゴルフ場はこの谷間の地形を利用して造られています。
実は江戸時代、灌漑のために筑後地方有数といわれる溜池(早鐘池)が作られたのです。
ところが…明治に入り、三池炭鉱が勝立坑を掘削しているときに熊本を震源とする大地震が発生! ちょうど早鐘池の下に坑道がありましたが、地震で池の下が破れて坑道が水浸しになりました。このあたりで団琢磨が排水のためにデービーポンプを導入したのだと思います。結局三井鉱山はお金を払って溜池を廃止、農家は稲作から畑作に転換することになりました。
この写真では若干わかりにくいのですが、左右と奥が山に囲まれている地形なのです。
ちなみに、このゴルフ場の谷間の奥深くに、明治初期に開発計画があった三ツ山竪坑(排気坑)があるようです。 -
上の写真の右手方向、ちょっとわかりにくいのですが、土地が高くなっており、昔の溜池の淵だったのでしょうか。
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左手奥にはクラブハウスらしきものも見えます…ということは、ここまでは車で行っても良さそう。
再び恐々と車を進ませます。 -
クラブハウス前の駐車場から撮影。
2月にしては暖かい晴れの日、多くのゴルフ好きの方が訪れていました。
施設も年季が入っていますが…地元の人たちに愛されるゴルフ場のようで温かい雰囲気を感じました(料金もとてもリーズナブルなようです)。
自然に囲まれて、歩いて体を動かしてゴルフを楽しんで。ゴルフ好きの方たちの気持ちがちょっとだけわかったような気がしました。 -
クラブハウス前から撮影。斜面を利用した立地です。
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クラブハウス入口です。昨季までレストランが営業していたそうですが、今はないそうです。食事だけでも利用してみたかった…。
不知火ゴルフ場には、先述の三ツ山竪坑や、早鐘坑(いずれも排気坑)の跡があるそうです。ゴルフ場を利用するなら見学できるかどうか聞いてみるところですが、見て廻るだけなので断念。 -
不知火ゴルフ場から道路に戻り、さらに西へ。最後に訪れるのは早鐘眼鏡橋。国指定重要文化財です。
早鐘眼鏡橋 名所・史跡
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入口から進むと眼鏡橋が見えてきます。小さいながらも遊歩道風に整備されています。写真には写っていませんが、ベンチもいくつかありました。
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早鐘眼鏡橋の説明です。
17世紀初頭、三池藩の沿岸部は貧しい農村で、水不足のために困窮していたそうです。代官・平塚信昌は早鐘谷に大きなため池を造り(先ほど訪れた不知火ゴルフ場の場所)、沿岸部に通すために眼鏡橋を建造しました。1664年のこと。眼鏡橋の工法が長崎に伝来したのは1634年。そのわずか三十年後に筑後の小藩が眼鏡橋を建造したことになります。
明治に入り、溜池がなくなると共に、そのや役割を終えました。 -
説明の地図の部分を拡大。
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眼鏡橋に近づきます。アーチが見事です。
これにて勝立坑周辺の旅行記は終わります。
悲しい歴史の今に伝える史跡もあり、炭鉱時代の名残を留めつつも、町は大きく姿を変えています。その一方で炭鉱がなくなり、社宅が姿を消しても、住宅街やショッピングモールができて人々の生活は続いていく。ゴルフ場や温泉施設では憩いのひと時を過ごす人々もいる。
時代は変わり、風景は変わっても、人も町も生き続けていくことに勇気づけられたような気もしました。
最後にもう一枚写真を… -
眼鏡橋の西側すぐの場所に「三池炭鉱専用鉄道敷」(世界遺産)があります。この写真は以前の宮原坑の旅行記(https://4travel.jp/travelogue/11730973)で使用したもの。線路跡沿いにしばらく進むと宮原坑があります。
過去から現代へ、現代から過去へ。時代は巡り続いていく。
そんなことを感じた散策でした。
最後まで御覧いただき、ありがとうございました。三池炭鉱専用鉄道敷跡 名所・史跡
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この旅行記へのコメント (2)
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- みみこさん 2022/03/18 13:14:49
- 資料
- Decoさん、こんにちは。
旅行記と言うよりもはや資料。
Decoさんの真面目で実直なお人柄がにじみ出ていますね。
当時の建物など残っているものをみるのも良いですが、実はここは・・・的な場所には惹かれます。
現代の姿とDecoさんの説明による過去の姿。
その対比が逆に当時への郷愁を誘います。
調べ上げるだけではなく、ご自分の推察まで書かれている。
これはしっかりと研究した人だけが書ける旅行記だと思います。
素晴らしいです!
みみこ
- Decoさん からの返信 2022/03/18 19:49:48
- Re: 資料
- みみこさん、コメントをいただき、ありがとうございます。
三池炭鉱に関する本を少しずつ読んでいて、今回は「新大牟田市史・三池炭鉱編」を参考にしました。ただ私の処理速度の遅い頭脳ではなかなか読み込みが難しいです。
過去の街の姿、書籍では貴重な写真もみかけます。本当はここで紹介したいのですが、著作権上問題があるのであきらめました。
江藤新平については、司馬遼太郎の「歳月」という本を読んだときのことをふと思い出して、書いてみました。当時としては画期的な思想を持っていたと思いますし、彼が生きていれば後の日本ももっと違った形になったかも知れません。
団琢磨も菊池常喜も、歴史のエピソードから人柄や考え、置かれた立場などを考えると尽きせぬ興味があります。
お褒めのお言葉をいただき恐縮です。面倒な旅行記ですが、読んでいただいて、本当に感謝しています。
Deco
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