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「西なびグリーンパス」で行く折りたたみ自転車輪行旅の2日目は、サイクリングが主体で最後に萩の観光を予定している。<br /><br />長門市駅から萩市内へのサイクリングで走った県道64号線は、アップダウンがありイージーコースではないものの、時折見える日本海の美しさと山陰本線の組み合わせが非常に魅力的なコース。<br />そして目的地となる萩は、幕末から明治維新にかけて活躍した長州藩の志士たちの史跡や古い町並みが残り、屋根のない広い博物館=「萩まちじゅう博物館」ともいわれている。<br /><br />サイクリングと萩観光の両立は可能なのか・・・<br />時間勝負となった2日目後編です。

チャリと行く西なびグリーンパスの旅 2021 /2日目(11/15)後編

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2021/11/15 - 2021/11/15

69位(同エリア941件中)

旅行記グループ チャリと行く鉄道旅 2021

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キートン

キートンさん

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「西なびグリーンパス」で行く折りたたみ自転車輪行旅の2日目は、サイクリングが主体で最後に萩の観光を予定している。

長門市駅から萩市内へのサイクリングで走った県道64号線は、アップダウンがありイージーコースではないものの、時折見える日本海の美しさと山陰本線の組み合わせが非常に魅力的なコース。
そして目的地となる萩は、幕末から明治維新にかけて活躍した長州藩の志士たちの史跡や古い町並みが残り、屋根のない広い博物館=「萩まちじゅう博物館」ともいわれている。

サイクリングと萩観光の両立は可能なのか・・・
時間勝負となった2日目後編です。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
ホテル
4.0
交通
2.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
JRローカル
旅行の手配内容
個別手配
  • 飯井の街に流れる小さな川を渡ると、長門市から萩市に入り、右のスロープの先に山陰本線の飯井駅がある。<br />お年寄りが上るにはきついスロープかもしれない。<br /><br />「飯井」は何と読むのか戸惑うが、「めしい」でも「いいい」でもなく、「いい」が正解らしい。

    飯井の街に流れる小さな川を渡ると、長門市から萩市に入り、右のスロープの先に山陰本線の飯井駅がある。
    お年寄りが上るにはきついスロープかもしれない。

    「飯井」は何と読むのか戸惑うが、「めしい」でも「いいい」でもなく、「いい」が正解らしい。

  • 県道64号線には、路面の所々に自転車マークのついたブルーラインが引かれていて萩の方向を表示してある。<br />サイクリング推奨ルートと解釈して良いかどうかはわからないが、この表示を見ると安心感がある。

    県道64号線には、路面の所々に自転車マークのついたブルーラインが引かれていて萩の方向を表示してある。
    サイクリング推奨ルートと解釈して良いかどうかはわからないが、この表示を見ると安心感がある。

  • 県道64号線から道の駅萩・さんさん三見に上る途中、日本海と山陰本線が見渡せた。<br />これはなかなかの撮り鉄スポットでは?

    県道64号線から道の駅萩・さんさん三見に上る途中、日本海と山陰本線が見渡せた。
    これはなかなかの撮り鉄スポットでは?

  • 県道64号線から三見付近で県道296号線を進む方が萩市街に行くには早いのだろうが、あえて山陰本線に添うようなルートの県道64号線を走った。<br />県道64号線の三見から玉江へと向かう区間は、途中一車線の細い山道となった。

    県道64号線から三見付近で県道296号線を進む方が萩市街に行くには早いのだろうが、あえて山陰本線に添うようなルートの県道64号線を走った。
    県道64号線の三見から玉江へと向かう区間は、途中一車線の細い山道となった。

  • 昼でもうす暗い山道を抜け、山陰本線の青長谷第3踏切からは日本海が見えた。

    昼でもうす暗い山道を抜け、山陰本線の青長谷第3踏切からは日本海が見えた。

  • 青長谷第1踏切を渡ると、県道64号線と山陰本線が海添いに並走する小原浜に出た。

    青長谷第1踏切を渡ると、県道64号線と山陰本線が海添いに並走する小原浜に出た。

  • この小原浜添いの区間は、長門市駅から走ってきた中でも最も風光明媚といっていい。

    この小原浜添いの区間は、長門市駅から走ってきた中でも最も風光明媚といっていい。

  • 小原浜の先に萩城跡がある指月山が見えている。<br />萩の中心地からそれほど離れていないところに、これほど美しい海岸があるとは驚きだ。<br />文化財や街並みが萩観光の見どころではあるものの、海岸の風景もなかなかのものである。

    イチオシ

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    小原浜の先に萩城跡がある指月山が見えている。
    萩の中心地からそれほど離れていないところに、これほど美しい海岸があるとは驚きだ。
    文化財や街並みが萩観光の見どころではあるものの、海岸の風景もなかなかのものである。

  • 小原浜沖に浮かぶ小島。<br />てか、岩。

    小原浜沖に浮かぶ小島。
    てか、岩。

  • 山陰本線の小原踏切を渡り、県道から右に上って行く道を少し上った所に、日本海と山陰本線が見える撮り鉄スポット発見。<br />実はここは、三見と玉江の間で通称「三玉」と呼ばれる、撮り鉄には知られる地点らしい。<br />ベストポイントは、もう少し坂を上った山陰本線のトンネルの出口上あたりだったようだ。<br />そういう意味では少し残念なことをした。

    山陰本線の小原踏切を渡り、県道から右に上って行く道を少し上った所に、日本海と山陰本線が見える撮り鉄スポット発見。
    実はここは、三見と玉江の間で通称「三玉」と呼ばれる、撮り鉄には知られる地点らしい。
    ベストポイントは、もう少し坂を上った山陰本線のトンネルの出口上あたりだったようだ。
    そういう意味では少し残念なことをした。

  • 海岸風景が良いだけに撮影のため立ち止まることが多くなる。

    海岸風景が良いだけに撮影のため立ち止まることが多くなる。

  • 小原浜の東にも、倉江ノ浜というきれいな浜があった。

    小原浜の東にも、倉江ノ浜というきれいな浜があった。

  • 県道64号線を玉江駅手前まで来ると、常盤大橋を渡って萩市街へ入った。<br />時刻はすでに14:40頃。<br />東萩16:58発の列車に乗る予定なので、萩観光は実質約2時間となった。

    県道64号線を玉江駅手前まで来ると、常盤大橋を渡って萩市街へ入った。
    時刻はすでに14:40頃。
    東萩16:58発の列車に乗る予定なので、萩観光は実質約2時間となった。

  • 最初に訪れたのは萩城趾。<br /><br />入口付近には、1604年(慶長9年)に築城した毛利輝元の像がある。

    最初に訪れたのは萩城趾。

    入口付近には、1604年(慶長9年)に築城した毛利輝元の像がある。

  • 萩城の堀。<br />大学1回生の夏に山陰旅行した時に萩をレンタサイクルで観光し、この地点で撮った写真が残っている。<br />ほかの訪問地のことは多少なりとも記憶に残っているが、なぜか萩の記憶はほとんどない。<br />もう40年前のことだし。

    萩城の堀。
    大学1回生の夏に山陰旅行した時に萩をレンタサイクルで観光し、この地点で撮った写真が残っている。
    ほかの訪問地のことは多少なりとも記憶に残っているが、なぜか萩の記憶はほとんどない。
    もう40年前のことだし。

    萩城跡指月公園 名所・史跡

  • その時は指月山を登って山頂から萩市街を見下ろした写真も残っているが、今回は時間がないのでここから城跡を遠望するだけだ。

    その時は指月山を登って山頂から萩市街を見下ろした写真も残っているが、今回は時間がないのでここから城跡を遠望するだけだ。

  • 萩市内では、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾とともに、萩城下町が世界文化遺産に登録されている。<br />重臣の屋敷が並ぶ「堀内地区」は国の重要伝統的建造物群保存地区にもなっている。

    萩市内では、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾とともに、萩城下町が世界文化遺産に登録されている。
    重臣の屋敷が並ぶ「堀内地区」は国の重要伝統的建造物群保存地区にもなっている。

  • 江戸時代後期に建てられた旧久保田家住宅。<br />呉服商・酒造業を営なんでいた久保田家は、主屋、門、塀、離れが旧御成道に面し、菊屋家住宅と対峙するように建っている。<br />両家の主屋同士が向かい合い、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」(中二階)を持ち、建ちが高く、菊屋家との対比はそれぞれの建物が建てられた時代特色をよく表している。

    江戸時代後期に建てられた旧久保田家住宅。
    呉服商・酒造業を営なんでいた久保田家は、主屋、門、塀、離れが旧御成道に面し、菊屋家住宅と対峙するように建っている。
    両家の主屋同士が向かい合い、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」(中二階)を持ち、建ちが高く、菊屋家との対比はそれぞれの建物が建てられた時代特色をよく表している。

    旧久保田家住宅 名所・史跡

  • 江戸時代前期に建てられた現存する大型町屋としては最古の部類に属する菊屋家住宅。<br />萩藩の御用商人で徳川幕府巡見使の宿として本陣にもあてられた菊屋家は、藩の賓客をもてなす迎賓館のような役割を担っていた。<br />主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定されている。

    江戸時代前期に建てられた現存する大型町屋としては最古の部類に属する菊屋家住宅。
    萩藩の御用商人で徳川幕府巡見使の宿として本陣にもあてられた菊屋家は、藩の賓客をもてなす迎賓館のような役割を担っていた。
    主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定されている。

    菊屋家住宅 名所・史跡

  • 菊屋家住宅の角を南へと入った通りは「菊屋横丁」と呼ばれ、延々と続く土塀(なまこ壁)が美しい。<br />江戸時代当時の景観を良く残していて、「日本の道100選」に選定されているという。

    イチオシ

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    菊屋家住宅の角を南へと入った通りは「菊屋横丁」と呼ばれ、延々と続く土塀(なまこ壁)が美しい。
    江戸時代当時の景観を良く残していて、「日本の道100選」に選定されているという。

  • 菊屋横丁を南へ進むと、高杉晋作誕生地がある。<br />1839年(天保10年)に長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれた高杉晋作は、明倫館から松下村塾に入り、幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍した。<br />奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた人物。

    菊屋横丁を南へ進むと、高杉晋作誕生地がある。
    1839年(天保10年)に長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれた高杉晋作は、明倫館から松下村塾に入り、幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍した。
    奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた人物。

    高杉晋作誕生地 名所・史跡

  • 茶陶(茶の湯で使うための陶器)として有名な萩焼の店もある。

    茶陶(茶の湯で使うための陶器)として有名な萩焼の店もある。

  • 高杉晋作誕生地の近くには晋作広場があり、高杉晋作立志像が立っている。

    高杉晋作誕生地の近くには晋作広場があり、高杉晋作立志像が立っている。

    高杉晋作立志像 名所・史跡

  • 菊屋横丁の東側に通る江戸屋横丁には、木戸孝允旧宅がある。<br />1833年(天保4年)に萩藩医・和田昌景の長男として生まれた木戸孝允は、藩士・桂家の養子となり「桂小五郎」の名でも知られている。<br />坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩と薩長同盟を結び、西郷隆盛や大久保利通とともに「維新の三傑」のひとりとされる。<br />五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残した。

    菊屋横丁の東側に通る江戸屋横丁には、木戸孝允旧宅がある。
    1833年(天保4年)に萩藩医・和田昌景の長男として生まれた木戸孝允は、藩士・桂家の養子となり「桂小五郎」の名でも知られている。
    坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩と薩長同盟を結び、西郷隆盛や大久保利通とともに「維新の三傑」のひとりとされる。
    五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残した。

  • 生まれてから江戸に出るまでの約20年間、木戸孝允はこの木造瓦葺の家で過ごした。<br />その間、明倫館で吉田松陰から兵学を学んだ。

    生まれてから江戸に出るまでの約20年間、木戸孝允はこの木造瓦葺の家で過ごした。
    その間、明倫館で吉田松陰から兵学を学んだ。

    木戸孝允旧宅 名所・史跡

  • 木戸孝允旧宅から江戸屋横丁を南へ行くと、円政寺がある。<br />境内には、幼年期の高杉晋作や伊藤博文らが遊んだといわれる木馬(神馬)が残っているという。<br /><br />ここまでの萩観光は入場せずにさらっと外観だけの見学に済ませた。

    木戸孝允旧宅から江戸屋横丁を南へ行くと、円政寺がある。
    境内には、幼年期の高杉晋作や伊藤博文らが遊んだといわれる木馬(神馬)が残っているという。

    ここまでの萩観光は入場せずにさらっと外観だけの見学に済ませた。

    円政寺 寺・神社・教会

  • 15:30頃、萩・明倫学舎に到着。<br /><br />明倫館は、江戸時代に全国で300近くあった藩校のうち12番目に出来たもので、三の丸(堀内地区)にあったが、1849年(嘉永2年)にここに移転された。<br />その後明倫小学校となり、1935年(昭和10年)に建てられた木造2階建ての校舎が現在の建物で、国の登録有形文化財に登録されている。<br />2014年(平成26年)まで小学校として利用されていたが、2017年(平成29年)に萩・明倫学舎として開館した。<br /><br />入場料は、本館無料、2号館300円で、開館時間は9:00~17:00。

    イチオシ

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    15:30頃、萩・明倫学舎に到着。

    明倫館は、江戸時代に全国で300近くあった藩校のうち12番目に出来たもので、三の丸(堀内地区)にあったが、1849年(嘉永2年)にここに移転された。
    その後明倫小学校となり、1935年(昭和10年)に建てられた木造2階建ての校舎が現在の建物で、国の登録有形文化財に登録されている。
    2014年(平成26年)まで小学校として利用されていたが、2017年(平成29年)に萩・明倫学舎として開館した。

    入場料は、本館無料、2号館300円で、開館時間は9:00~17:00。

    明倫小学校本館 名所・史跡

  • 有料の2号館から見学。<br /><br />校舎中央の階段の壁には、「長州五傑(長州ファイブ)」の有名な写真が掲げられている。<br />長州五傑(長州ファイブ)とは、幕末の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の長州藩士である。<br />驚くべきは、ここに掲げられているのは、子供たちの多数の顔写真(明倫小学校の卒業生かどうかは不明)を使って表現されているのである。

    有料の2号館から見学。

    校舎中央の階段の壁には、「長州五傑(長州ファイブ)」の有名な写真が掲げられている。
    長州五傑(長州ファイブ)とは、幕末の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の長州藩士である。
    驚くべきは、ここに掲げられているのは、子供たちの多数の顔写真(明倫小学校の卒業生かどうかは不明)を使って表現されているのである。

  • 2号館は、幕末の歴史をひもとく「幕末ミュージアム」と萩の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」の二つに分かれている。<br /><br />幕末ミュージアムの天文・地理の展示室。<br />天体観測の高度計、測量道具として使用された象限儀。<br />ここでは日本で初めて日本各地を実測し、精巧な日本地図を作成した伊能忠敬に関する展示が目を引いた。

    2号館は、幕末の歴史をひもとく「幕末ミュージアム」と萩の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」の二つに分かれている。

    幕末ミュージアムの天文・地理の展示室。
    天体観測の高度計、測量道具として使用された象限儀。
    ここでは日本で初めて日本各地を実測し、精巧な日本地図を作成した伊能忠敬に関する展示が目を引いた。

  • 医学の展示室。<br /><br />幕末ミュージアムの展示物は、日本でも有数の収集家である小川忠文氏(下関市在住)から萩市に寄贈された幕末維新期の歴史・科学技術史6,000点を超える資料のうち、特に貴重な実物資料を展示している。

    医学の展示室。

    幕末ミュージアムの展示物は、日本でも有数の収集家である小川忠文氏(下関市在住)から萩市に寄贈された幕末維新期の歴史・科学技術史6,000点を超える資料のうち、特に貴重な実物資料を展示している。

  • 軍装の展示室。<br /><br />幕末維新期の戦で使用された、衣装、太刀、小物などの展示。

    軍装の展示室。

    幕末維新期の戦で使用された、衣装、太刀、小物などの展示。

  • 鉄砲の展示室。<br /><br />江戸時代後期、西洋から日本にもたらされた多様な鉄砲。<br />右に並ぶエンフィールド銃は、長州戦争で長州軍の主力となった。

    鉄砲の展示室。

    江戸時代後期、西洋から日本にもたらされた多様な鉄砲。
    右に並ぶエンフィールド銃は、長州戦争で長州軍の主力となった。

  • 渡り廊下から見た2号館。<br /><br />※世界遺産ビジターセンターはパネル展示が主で、あまり写真を撮らなかったので割愛する。

    渡り廊下から見た2号館。

    ※世界遺産ビジターセンターはパネル展示が主で、あまり写真を撮らなかったので割愛する。

  • 本館中央のノスタルジックな階段。

    本館中央のノスタルジックな階段。

  • 明倫小学校の展示室。<br /><br />給食の食器などは、個人的には小学校低学年頃の時代のイメージ。

    明倫小学校の展示室。

    給食の食器などは、個人的には小学校低学年頃の時代のイメージ。

  • 確かにこういうの使っていたよなぁ、って文房具の数々。

    確かにこういうの使っていたよなぁ、って文房具の数々。

  • 黒板消しクリーナー、久しぶりに見た。<br />学校に黒板は今でもあるから、黒板消しクリーナーも似たようなものを使っているのかな?

    黒板消しクリーナー、久しぶりに見た。
    学校に黒板は今でもあるから、黒板消しクリーナーも似たようなものを使っているのかな?

  • 私が小中高だった1970年代は、こういう木造校舎はどんどん鉄筋コンクリート造の新校舎に建て替えられていく時代だった。

    私が小中高だった1970年代は、こういう木造校舎はどんどん鉄筋コンクリート造の新校舎に建て替えられていく時代だった。

  • 本館2階の西端は、天井裏見学室になっている。<br />国の登録有形文化財である本館の特徴的な建築構造を見ることができる。

    本館2階の西端は、天井裏見学室になっている。
    国の登録有形文化財である本館の特徴的な建築構造を見ることができる。

  • 復元された小学校の教室。<br /><br />机は引出しではなく天板を上に開けるタイプか?<br />いつの時代を復元しているのか、団塊の世代あたりか?<br /><br />幕末ミュージアムでガイドと話をしたりしてたこともあり、結局萩・明倫学舎の見学に45分程度かかった。

    復元された小学校の教室。

    机は引出しではなく天板を上に開けるタイプか?
    いつの時代を復元しているのか、団塊の世代あたりか?

    幕末ミュージアムでガイドと話をしたりしてたこともあり、結局萩・明倫学舎の見学に45分程度かかった。

  • 萩・明倫学舎から東に走り、やって来たのは松陰神社。<br />幕末の思想家・教育者である吉田松陰、および彼の門人である伊藤博文、山縣有朋はじめ、松下村塾の生徒を祭神とする神社である。

    萩・明倫学舎から東に走り、やって来たのは松陰神社。
    幕末の思想家・教育者である吉田松陰、および彼の門人である伊藤博文、山縣有朋はじめ、松下村塾の生徒を祭神とする神社である。

  • 幕末期に吉田松陰が主宰した私塾の松下村塾。<br />1842年(天保13年)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、1857年(安政4年)に吉田松陰が引き継いだ。

    幕末期に吉田松陰が主宰した私塾の松下村塾。
    1842年(天保13年)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、1857年(安政4年)に吉田松陰が引き継いだ。

  • 建物は木造かわらぶき平家建で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。<br />十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものだという。<br />吉田松陰と門下生の高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など幕末より明治期の日本を主導した人物が掲げられている。<br />なお木戸孝允は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けた。

    建物は木造かわらぶき平家建で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。
    十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものだという。
    吉田松陰と門下生の高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など幕末より明治期の日本を主導した人物が掲げられている。
    なお木戸孝允は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けた。

  • 当初からあった講義室には吉田松陰の石膏像と肖像画がある。<br /><br />1830年(文政8年)長州萩城下松本村に生まれた吉田松陰は、玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受け、9歳から明倫館で講義を始め、19歳で明倫館師範となり、九州や東北など遊学を始めた。<br />25歳の時に浦賀に再度来航した黒船で海外渡航を企てるが失敗し、幕府に自首し投獄された。<br />翌年出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となるがそこで講義を開始した。<br />28歳で松下村塾を引継ぎ、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成した。<br />一方的に授業をすることはなく、塾生の意見を聞くなど対話を重んじ、各人の個性や能力が尊重され、可能性を引き出したという。<br />1858年(安政5年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに危機感を持ち、老中・間部詮勝の暗殺を企て、警戒した長州藩により投獄された。<br />井伊直弼による尊王攘夷の弾圧、安政の大獄で処刑された。享年30(満29歳没)<br /><br />松下村塾で吉田松陰が教えた期間は僅か1年余りだが、このような片田舎で日本の歴史に影響を与えた人物を多数輩出したことは、驚くべきことである。

    当初からあった講義室には吉田松陰の石膏像と肖像画がある。

    1830年(文政8年)長州萩城下松本村に生まれた吉田松陰は、玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受け、9歳から明倫館で講義を始め、19歳で明倫館師範となり、九州や東北など遊学を始めた。
    25歳の時に浦賀に再度来航した黒船で海外渡航を企てるが失敗し、幕府に自首し投獄された。
    翌年出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となるがそこで講義を開始した。
    28歳で松下村塾を引継ぎ、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成した。
    一方的に授業をすることはなく、塾生の意見を聞くなど対話を重んじ、各人の個性や能力が尊重され、可能性を引き出したという。
    1858年(安政5年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに危機感を持ち、老中・間部詮勝の暗殺を企て、警戒した長州藩により投獄された。
    井伊直弼による尊王攘夷の弾圧、安政の大獄で処刑された。享年30(満29歳没)

    松下村塾で吉田松陰が教えた期間は僅か1年余りだが、このような片田舎で日本の歴史に影響を与えた人物を多数輩出したことは、驚くべきことである。

    松下村塾 名所・史跡

  • 東萩16:58発の列車に乗る予定だったが、もう一箇所見学しておきたい場所があったので、列車を一本遅らせる覚悟で訪れた。

    東萩16:58発の列車に乗る予定だったが、もう一箇所見学しておきたい場所があったので、列車を一本遅らせる覚悟で訪れた。

  • 萩反射炉は、鉄製大砲の鋳造のための金属溶解炉で、反射炉の煙突部の高さが10.5mと標準の7割程度の規模であることから、試験炉だったと考えられている。<br />この反射炉は1856年に築造されたが、本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとみられている。

    萩反射炉は、鉄製大砲の鋳造のための金属溶解炉で、反射炉の煙突部の高さが10.5mと標準の7割程度の規模であることから、試験炉だったと考えられている。
    この反射炉は1856年に築造されたが、本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとみられている。

    萩反射炉 名所・史跡

  • 日本に現存する近世の反射炉は、この萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)のみであるため貴重な遺構とされ、ともに世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されている。

    日本に現存する近世の反射炉は、この萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)のみであるため貴重な遺構とされ、ともに世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されている。

  • 下方に二つのアーチ型の煙道穴があり、それぞれ上方の煙突につながっている。<br />アーチ型の炉では燃焼室で焚いた燃料の炎や熱を天井に反射させ、溶解室に置いた金属を溶解した。<br />炉内を高温に保つために大量の空気を送るのに高い煙突が効果的だったという。

    下方に二つのアーチ型の煙道穴があり、それぞれ上方の煙突につながっている。
    アーチ型の炉では燃焼室で焚いた燃料の炎や熱を天井に反射させ、溶解室に置いた金属を溶解した。
    炉内を高温に保つために大量の空気を送るのに高い煙突が効果的だったという。

  • 東萩16:58発の列車に乗るのは困難になったので、次の18:15発の列車に乗ることにした。<br /><br />それまで時間の余裕ができたので、萩反射炉の少し先にある恵美須ヶ鼻造船所跡を訪れた。<br />長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡で、ここも世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されている。

    東萩16:58発の列車に乗るのは困難になったので、次の18:15発の列車に乗ることにした。

    それまで時間の余裕ができたので、萩反射炉の少し先にある恵美須ヶ鼻造船所跡を訪れた。
    長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡で、ここも世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されている。

    恵美須ヶ鼻造船所跡 名所・史跡

  • ロシアの造船技術による丙辰丸とオランダの造船技術による庚申丸が建造されており、同じ造船所内に異なる外国の造船技術が共存する唯一の造船所であり、数少ない西洋式造船所の遺構であって、近代技術の導入期を知る貴重な遺産である。<br /><br />とはいえ、跡地にはそれらしき遺構はほとんど残っていないようで、どこに何があったかを示すロープと簡単な説明板が置かれているだけだ。

    ロシアの造船技術による丙辰丸とオランダの造船技術による庚申丸が建造されており、同じ造船所内に異なる外国の造船技術が共存する唯一の造船所であり、数少ない西洋式造船所の遺構であって、近代技術の導入期を知る貴重な遺産である。

    とはいえ、跡地にはそれらしき遺構はほとんど残っていないようで、どこに何があったかを示すロープと簡単な説明板が置かれているだけだ。

  • 石造の防波堤のみ現存しするが、これが当時のものかどうかは未確認。<br /><br />歴史上重要な場所とはいえ、これほど現物が残っていない世界遺産があるとは、驚きである。

    石造の防波堤のみ現存しするが、これが当時のものかどうかは未確認。

    歴史上重要な場所とはいえ、これほど現物が残っていない世界遺産があるとは、驚きである。

  • 東萩駅前あたりで夕食にしようかと思ったが、適当なレストランなどがなくて、コンビニで夕食を買い込んだ。<br /><br />東萩18:15発の普通列車に乗り、益田乗換えで20:21に浜田に到着した。

    東萩駅前あたりで夕食にしようかと思ったが、適当なレストランなどがなくて、コンビニで夕食を買い込んだ。

    東萩18:15発の普通列車に乗り、益田乗換えで20:21に浜田に到着した。

    東萩駅

  • 今日の宿は、駅から徒歩約5分の東横INN浜田駅北口。<br />重い自転車を持っての徒歩5分はややきつかった。<br /><br />シングル1泊、東横INNの会員価格で5415円。<br />うれしいことに、料金には朝食の弁当が含まれていた。

    今日の宿は、駅から徒歩約5分の東横INN浜田駅北口。
    重い自転車を持っての徒歩5分はややきつかった。

    シングル1泊、東横INNの会員価格で5415円。
    うれしいことに、料金には朝食の弁当が含まれていた。

  • シングルで予約したが、どう見てもダブル並みのベッド。<br />実質朝食付きの価格と部屋の設備から考えると、かなり満足度が高い。

    シングルで予約したが、どう見てもダブル並みのベッド。
    実質朝食付きの価格と部屋の設備から考えると、かなり満足度が高い。

    東横イン浜田駅北口 宿・ホテル

  • バスルームの浴槽も、ビジネスホテルとしてはやや広め。<br /><br />本日の走行距離は約78km。<br />日本海のきれいな海岸風景が印象に残った一日だった。

    バスルームの浴槽も、ビジネスホテルとしてはやや広め。

    本日の走行距離は約78km。
    日本海のきれいな海岸風景が印象に残った一日だった。

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