2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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河後森城の紹介です。天正8年(1580年)から翌年の間に、城主の渡辺教忠の近習だった、芝源三郎が謀略により河後森城を奪いました。天正11年(1583年)の四国の役の後、戸田勝隆により芝源三郎は放逐されました。その後、当地を治めたのは藤堂高虎でした。
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河後森城の『本郭』から眺めた『古城』方面の光景になるようです。中央奥、やや右手に見えているのが『古城』のようです。こちらの『本郭』の標高が171メートル、10メートルほど低い標高だったようです。少し距離が離れすぎているようにも見えますから、その場合は周囲に帯曲輪を持つ『新城』になります。不確かですが、『帯曲輪』が巡っているようにも見えました。
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『本郭』付近にあった樹木のようです。中々風格を感じさせる山城の1本木です。『本郭』の見学の後は、次は『古城』への移動です。樹種は分かりませんでしたが、常緑樹のようでした。
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『本郭』の周りの紅葉光景です。麻やかな紅葉は、『櫨(ハゼ)』かとも思いましたが、地震がありません。身近に眺めた、実が生って冬木立になった樹とは、イメージが異なり過ぎました。『楓(かえで)』の紅葉だったかもしれません。
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『本郭』から、『古城』への移動中の光景です。身近に見えていた左側の常緑樹が、杉か、桧かを確認するための撮影でした。この樹は『ヒノキ(檜、桧)』でしたが、現地ガイドさんは、この辺りは杉の木の方が多いと話されていました。杉は尖った葉ですが、桧は平べったい葉をしています。
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イチオシ
『東第四曲輪』と『古城第二曲輪』との間に設けられた『堀切』と、再建された『棟門(むなもん)』の光景です。棟門は、控え柱がなく、鏡柱だけに屋根を載せた簡素な門です。屋根がなければ、更に簡素な『冠木門(かぶきもん)』になります。
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『堀切の構造』のタイトルがあった説明パネルの光景です。河後森城の『東第四曲輪』と『古城第二曲輪』との間に設けられた『堀切』の紹介でした。上端の幅約7メートル、下端の幅約4メートル、深さが約3メートル、城内最大規模の堀切と紹介されていました。堀底は通路として使われ、門も設置されていたようです。左下が発掘写真、右が旧時代と、新時代の堀切の平面図です。
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『五・六山城学パネル』の紹介です。『門の機能』のタイトルがありました。6年生の男女混成の5人のチームによる作品でした。情報を詰め込み過ぎて、文字が小さくなってしまったのが残念です。門の機能については、場所、大きさ、使用目的などに分けて、宇和島城を比較しながら説明されていました。
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『東第四曲輪』と『古城第二曲輪』との間に設けられた『堀切』の光景になるようです。発掘調査の後に埋め戻されたようです。実際には、もっと急峻な斜面と、深い溝になっていたものと思われます。その状況は、『堀切の構造』の説明パネルに紹介されていました。
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上から眺めた、『東第四曲輪』と『東第二曲輪』の間に設けられた『堀切』と、再建された棟門の光景です。実際には、もっと堅固な守りを持った『虎口(こぐち)』を形成していたものと思われます。
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『古城』のタイトルがあった、『五・六山城学パネル』の紹介です。『古城』の施設について、図面、文章共に、しっかりと纏められていました。5年生の女性トリオの作品のようでした。
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『古城で検出した施設』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『本郭』の東約160メートルに位置する『古城』の発掘調査結果などの紹介でした。番小屋などの建物跡が4棟、ほかに『石打棚(いしうちだな)』などが検出されています。右下の写真が発掘調査状況、中央下の図面が、確認された建物跡など、左下の図面が、古城の位置図です。
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『大型番小屋の構造』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『古城』で確認された最も規模が大きな番小屋で、東西が8.5メートル、南北が6.5メートルと紹介されていました。柱間(はしらま)は、2~2.2メートルと記されていました。h板が復元平面図、右下が発掘調査時の写真です。
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『石打棚(いしうちだな):塀庇(へいびさし)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査で検出された、『古城の北西部』を防御するための『石打棚(塀庇)』の紹介でした。曲輪の縁に沿って、1~1.5メートル間隔で柱が並べ、対になった支柱の穴も検出されました。左下の図は、大坂冬の陣の時、二段に設えられた『石打棚』の光景です。
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『五・六山城学パネル』の紹介です。先ほど紹介した、『石打棚(いしうちだな):瓶庇(へいびさし)』の絵が手本にされていたようです。右側半分が『石打棚』の説明で、左側半分が『番小屋』の紹介でした。先程の2枚の説明パネルを1枚に纏めたものでした。
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通路脇にあった1メートル四方ほどの土盛のような光景です。井戸跡とも想定して撮影してみましたが、結局、何も分かりませんでした。高さが50センチ前後だったようです。腐朽してしまった覆いらしいものも見えました。
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横から眺めた、切岸らしい斜面の光景です。ほぼ垂直に切り立っていました。現地ガイドさんとの一緒の行動でしたが、この後、『古城』の見学は済みましたので、『新城』方面を目指すようでした。
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道案内標識の紹介です。右方面が『風呂ケ谷』、東方面が『新城』の表示でした。『新城(しんじょう)』は、曲輪の周囲に帯曲輪を巡らせているのが特徴とされ、発掘調査により、中央に高層の井楼櫓があり、周囲に土塀を巡らし、切岸などを設けるなど、強固な曲輪であったことが確認されています。
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急峻な斜面に設けられた山道の光景です。右手に『新城』方面を記した道案内が見えていました。『西第十曲輪』から。『本郭』を経て『古城』までは一連の連郭でしたが、『新城』は出城のように独立した曲輪のようです。
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振り返って眺めた、狭くて険しい山道の光景です。この後も、このような山道が続くようでしたが、『山城』ですから、当然のことだったようです。ともかく、足を踏み外さないよう、万全の注意を払っての移動です。
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山道に厚く積もった枯葉の光景です。ドングリが生る木のようです。ドングリが生るのはブナ科の樹木で、ブナ科はさらにブナ属、コナラ属、シイノキ属、マテバシイ属、クリ属に分かれます。落葉樹だけでなく、常緑樹にもドングリが生ります。シラカシや、アラカシなどです。
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木々の間から眺めた、左手下がりに見えた谷合の光景です。後ほど、現地でもらった『河後森城・山城登城マップ』を参照しましたら、『風呂ケ谷』に向かっての下り道になっているようでした。遠くに見える山並みも左下がりになっていました。
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落葉が降り積もった、細い山道の光景です。雨上がりなどですと、滑りそうで怖い感じもしました。ネット情報に目を通しても、雨上がりの河後森城の見学では、滑りやすいので、落葉に注意の書き込みを幾つも目にしました。
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右方面が『新城』、左方面が『本郭・古城』の道案内標識の光景です。『新城地区の自生ツツジの道』の説明パネルもありました。この説明パネルは、出発地点の『風呂ケ谷駐車場』に設置してあったものと同じでしたこの辺りの自生ツツジは『オンツツジ(雄躑躅)』と呼ばれているようでした。
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道案内標識や『新城地区の自生ツツジの道』の説明パネルがあった周りの光景です。先ほど紹介した『オンツツジ』は、日本で著しく種分化が起こったものであり、分類の難しい群』と紹介されていました。ジングウツツジやアマギツツジは、葉が先に開き、ミツバツツジやその変異種のトサノミツバツツジやハヤトミツバツツジは、花が咲いた後で葉が開きます。
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『新城(しんじょう)』に向かって、かなり平坦な場所になって来たようです。地図を参照しますと、『新城』に向かって伸びる尾根道のようにも見えました。樹も疎らな光景です。
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この広場が、『新城(しんじょう)』の曲輪になるようです。『新城』の特徴は、周りに帯曲輪を巡らしたことにあるようですが、うまく写真に収めることは出来ませんでした。発掘調査で、中央に井楼(せいろう)櫓があり、周囲にも土塀を巡らせていたことが検出されています。
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『門』のタイトルがあった『五・六山城学パネル』の紹介です。一生懸命書いた絵のようでしたが、門より、建物のイメージでしたから、倉庫風の絵になってしまったようです。
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『堀切』のタイトルがあった『五・六山城学パネル』の紹介です。残念ながら、ちぎれて地面に落下していました。先に紹介した、『石打棚(いしうちだな):瓶庇(へいびさし)』の絵が模写されていたようです。
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『新城』から眺めた、黄葉の木々の間から見えていた麓の光景です。公孫樹のような黄葉ではなくて、褐葉の木々が多いようでした。その木々の間から見えた、人家が疎らな、山に挟まれた谷合の光景でした。
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イチオシ
見晴らしが利く『新城』からの眺めです。写真の中央奥に見えているのは、『本郭』になるようです。山を下って来ましたので『本郭』とは、かなりの標高差になったようです。
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