2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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続日本百名城の能島城の紹介です。村上水軍の本拠地だった能島の周りで、最も潮流が激しいのは、満ち潮(南流)ではなく、引き潮(北流)の時とされます。1階だけの体験では選択できませんでしたが、機会があれば引き潮の時に生じる、能島と鯛崎出丸の間の激しい流れも見学したいものです。
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フェリーの中から眺めた、能島の光景です。丘の上の右手には、展望台のような建物があり、その周りには桜らしい樹木の姿が見えていました。急峻な斜面の下部には灌木の緑がありましたが、その上部の斜面には、根元から伐採された切り株が並んでいました。多分、能島城跡の修景や、史跡保存のための伐採のようです。
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現在の能島の上陸地点の南面の護岸光景です。南部平坦地は、15世紀~16世紀中頃にかけて段階的に埋め立てられました。ここでは石列や柱穴の遺構、鍋や釜などの遺物が見つかっています。荷揚げや漁具などを手入れする作業場として使われていたと考えられています。
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南面に設けられた桟橋から上陸する時の光景です。南部平坦地の右脇に、切通で守られているらしい曲輪跡に登る階段が設けられていました。現在の階段は、観光用に設けられた、整備された階段です。
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上陸した後、南部平坦地から見上げた崖と、その上の光景です。赤っぽい葉をしているのは、植樹された桜の樹でした。現在は桜の名所としても人気が高いようですが、史跡の保存問題との選択が迫られているようでした。併存できない場合は、すべての桜の樹の伐採も視野にあるようです。
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緩やかにカーブした、南部平坦地の西側方面の光景です。戦国時代には、能島城を舞台にした戦いも起きました。そのきっかけは、北部九州を巡る毛利氏と大友氏の対立でした。毛利氏は、毛利元就の一代で国人領主から、最盛期には山陽道・山陰道10箇国と九州北部の一部を領国とする戦国大名となりました。また、大友氏は、九州の豊後国(現・大分県)を本拠とした戦国大名です。
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大友氏の呼びかけにより毛利氏包囲網ができ、永禄13年(1570年)には能島村上氏もこの包囲網に加わりました。このため毛利氏より狙われることとなりました。毛利軍は、能島・村上氏の家臣・嶋吉利の守る本太城(岡山県)、そして能島・村上氏の拠点の務司城(むしじょう)を落としました。写真は、『能島城跡』の説明パネルですが、図面はほとんど読み取れませんでした。
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写真は、『史跡・能島城跡』の文字が刻まれた石碑の光景です。元亀2年(1571年)、毛利軍はついに能島城を攻撃開始しました。『能島城合戦』の始まりです。援軍が駆けつけますが、これも毛利方の小早川軍・因島村上軍・来島村上軍などによって撃退され、能島・村上水軍は窮地に陥りました。
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イチオシ
『史跡・能島城跡』の文字が刻まれた石碑のズームアップ光景です。石垣の上に建てられた、立派な石碑でした。村上海賊を代表する能島村上氏の拠点海城であり、昭和28年(1953年)に3月31日に国史跡の指定を受けました。『能島城合戦』の話しに戻ります、能島・村上氏を手助けするため、大友氏は和睦を斡旋しました。その結果、和睦は成立し、戦いは幕を閉じました。
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上陸した、南部平坦地から見上げた『能島城』の本丸方面の光景です。能島城の曲輪内は平坦に削平され、100~200人ほどの兵が駐屯できるほどの広さがあります。平成時代に行われた発掘調査では、能島城は14世紀後半~16世紀後半まで使用されていたことが確認されています。
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能島城内では、井楼などの物見櫓や住居跡など、現在までに18棟の建物跡が見つかっています。また、出土遺物では調理用具など生活土器も多かったことから、城内で生活していた様子を窺い知ることができます。『井楼(せいろう)』は、戦場で、 敵陣 を偵察するために材木を『井桁(いげた)』に組んで作る櫓(やぐら)のことです。
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崖下から見上げた桜樹の光景です。昭和6年(1931年)、当時の宮窪村に住む住民有志により植えられた桜の樹とされます。ソメイヨシノですと、60年とも、90年とも言わsれる寿命が来ているかも知れません。桜満開の時期には、季節船が1日だけ運航されてきたようです。
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南部平坦地から眺めた能島の波止場と、南側に近接する属島の『鯛崎島」の光景です。背後に見える山並みは、『大島』になるようです。能島から見て、西側と南側が『大島』、東に近接しているのが『鵜島』です。
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イチオシ
島全体が城砦になっている能島の『東南出丸』方面の光景です。その長く伸びている岬の先に見えているのが『鯛崎島』です。能島と鯛崎島と、鵜島の一部を合わせて『能島城』の城塞が構成されていました。に島の南側に見えるのは、すべて『大島』になります。
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フェリーを下りて上陸した、南部平坦地方面の光景です。波止場は写真に写っていませんが、平坦地の左側(南部)方面になります。能島の南部寄りの高台から眺めた光景です。『東南出丸』のエリアから眺めた、北西部の光景になるようです。西側の対岸は大島です。
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『能島』から眺めた、『大島』の宮窪港方面の光景です。中央から右手にかけて、防波堤が見え、その先には『村上水軍博物館』も見えていました。出発した宮窪港から能島までは5分の航行と紹介されていましたので、肉眼で見える距離です。
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『東南出丸』のエリアからの光景が続きます。本丸と二の丸方面からは、下り勾配になっていました。足元に見えあるのは、傾斜のきつい斜面に設けられた、滑り止めの丸太です。
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能島の東側に位置する『鵜島』の南端付近の光景です。現在は愛媛県今治市に属しますが、かつての『能島城』の時代には、城塞の機能の一部を担っていました。島の大きさは、南北約1.5キロ、東西約0.8キロ、面積は約0.76平方キロです。周囲は集落のある地域を除いて、海に面した崖となっています。
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能島の東側に位置する『鵜島』の南端付近のズームアップ光景です。2008年(平成20年)現在の島民は32名とされ、島民の姓は、織田(おりた:平氏)と福羅(ふくら:源氏)の二つのみとされます。島の中心には、標高84メートルの小高い山があります。
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イチオシ
更にズームアップした、『鵜島』の南端付近の光景です。木造二階建ての望楼のような建物が見えました。現地ガイドさんによれば、能島城が機能していた時代に見張り所があった場所のようでした。
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カメラでのズームアップ無しに眺めた、『鵜島』の南端付近の光景です。その背後に見えているのは『大島』になります。撮影している場所は、突堤の一つですが、『矢櫃(やびつ)』と呼ばれる場所かも知れません。縄張図を参照しますと、二の丸の北部に位置します。『矢櫃』とは、矢を入れておく蓋つきの箱のことですが、地名との関連は分かりませんでした。
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能島から眺めた、『瀬戸内しまなみ海道』の愛称を持つ『西瀬戸自動車道』の光景です。その橋脚部分です。西瀬戸自動車道の各橋には、そのほとんどに自転車歩行者道とバイク道(125cc以下)が併設されているようです。サイクリングの聖地らしい呼び名もあったようです。
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能島から眺めた、大島方面の光景になるようですが、別の島かも分かりません。左端に造船所らしい紅白のクレーンが林立しているのが目印になりようです。その背後の少し右手に白いタワーも見えましたから、時間を掛ければ場所が特定できそうです。
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ズームアップした『鵜島(うしま)』の光景だった記憶ですが、いささか不確かです。その脇を小舟がゆっくりと通過していきました。能島から眺めた東側の光景ではなく、西側に回り込んで撮影した、大島の光景だったかも知れません。おぼろげな記憶では鵜島の方でした。
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能島の北端近くから眺めた南西側の光景です。撮影している場所は、『二の丸』エリア付近だったようです。能島城には、曲輪を守る虎口などの施設は少なかったらしく、本丸、二の丸、三の丸や複数の出丸などに名前は付けられていますが、その境界は、はっきりとしませんでした。
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能島城の『三の丸』の突端部分の光景です。北東側から眺めた光景になります。平坦にされたのか、元々平坦だったのか分かりませんが、先端に向かって平らな崖が伸びていました。
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能島城の『三の丸』の突端部分のズームアップ光景です。先程より、少し南側に移動しての撮影になります。左手から紅葉の桜の枝が伸び、崖の先端部分の下部には、竹林の姿がありました。
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能島の周りを航行するフェリーの紹介です。今回、宮窪港から乗船したフェリーと同じくらいの大きさの白いフェリーの光景です。船体をズームアップしましたら、『宮窪・潮流丸』の文字が読み取れました。宮窪港に係留されていたフェリーでした。ゆっくりと能島に近付いていました。
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全速力で、能島を離れていくフェリーの光景です。能島に上陸する客ではなく、その周りの潮流見学が目的のようでした。大島~鵜島~伯方島間を繰り返し航行するフェリーのようでした。
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全速力で、能島を離れていくフェリーのズームアップ光景です。船尾に『宮窪・潮流丸』の文字が読み取れました。お城巡りのツアーメンバーも、このフェリーで能島まで送ってもらったようです。その目の前をモーターボートが、これまた全速で通り過ぎていきました。千体の前半分が、高スピードで持ち上がっていました。
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左端に見える白い橋脚は、しまなみ海道の『伯方・大島大橋』になるようです。今治市から、来島海峡大橋、伯方・大島大橋、大三島橋、多々羅大橋、生口橋、因島大橋と尾道大橋の七つで、瀬戸内海を横断できます。
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