2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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徳島県の続日本百名城、一宮城『本丸』の紹介です。一宮城は、南北朝時代の天険を利用した山城で、のちに大幅改修されました。東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸部分は標高144.3m、麓からの比高は約120mの山嶺に築かれ、石垣下は急斜面となっています。
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『二の丸』とも呼ばれている『明神丸』からの眺望の紹介の続きです。東から『才蔵丸』、『明神丸』、『本丸』と、ほぼ東西に並んでいますので、同じような遠望でした。地図を参照しますと、北側に『鮎喰川(あくいがわ)』が流れていました。
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『明神丸』からの眺望の紹介が続きます。左右に長く伸びているのは、『鮎喰川』です。『鮎喰川(あくいがわ)』は、徳島県名西郡神山町奥屋敷周辺、雲早山の北斜面を源流域とする、吉野川支流の一級河川です。春先の水の豊富な時期に海から遡上した天然の鮎が中流に見られ、国府町の河川敷には、伏流水を活用した鮎の養殖場があるようです。
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同じく、『明神丸』からの眺望の紹介です。麓の平野では、谷合の田園光景から、次第に住宅地へと姿を変えているようでした。中央奥には、瀬戸内海も見えているようでした。紀伊水道方面かも知れません。
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『明神丸』の見学を終えて、次は『本丸』の見学です。西方面に向かって、移動途中の光景です。『帯曲輪』で結ばれている『本丸』までは、僅かの距離でした。『帯曲輪』を形成する時に平削されたのでしょうか、歩き易い平坦な道でした。
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『帯曲輪(おびぐるわ)』の表示があった説明看板の光景です。帯曲輪の一般的な説明の後、『この帯曲輪は、本丸と明神丸を結び、城の守りに大切な曲輪であったことが紹介されていました。
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イチオシ
本丸に到着しました。その周りを取り囲む石垣の光景です。乱積の野面積でした。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代とされます。自然石をそのまま使うため、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありますが、排水性に優れ、頑丈な特長があります。
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本丸には天守台がないので、天守が建っていたかは不明ですが、当時の一般的な情勢や、本丸の南側に礎石跡があることから、天守か、天守に相当する建築物が建っていた可能性は高いと推測されています。
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『一宮城本丸跡』の文字が刻まれた石標の光景です。一宮城は、南城と北城の二城から成り立っています。『本丸』は北城に属し、明神丸等の曲輪は南城に属します。石標の右側には、『本丸』に登る石段が見えています。かつては、楼門が築かれていたようです。
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『徳島県文化指定・史蹟・一宮城』のタイトルがあった説明看板の光景です。延元3年(1338年)の築城から、元和元年(1615年)の廃城までの主な城主と、城の特徴が紹介されていました。その特徴は、『天然の地形をうまく使用しただけでなく、建造もすこぶる精巧で堅固』として、阿波の名城と紹介されていました。
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本丸の東側に位置する、かつての虎口の光景です。本丸への唯一の出入口だったようです。右側に張り出した石垣は、かつての楼門の一部があった場所のようです。写真には写っていませんが、左側にも張り出した石垣があります。
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かつての虎口の左側に張り出した石垣のズームアップ光景です。右手前に、先に紹介した『一宮城本丸跡』の石標が見えていました。『本丸の石垣の高さはまちまちだが東側は5mに達する。本丸のほとんどは急斜面になっている。1986年(昭和61年)春に本丸部分の石垣を徳島市が修復している』(ウィキペディア)、と紹介されていました。その5メートルの石垣の一部になるようです。
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本丸石段を登った後、本丸側から眺めた光景です。虎口が設けられていたかどうか分かりませんが、本丸への侵入に対する、最後の守りであったことは間違いないようです。石垣も、当時のものが残されているようでした。
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イチオシ
一宮城の最上段にある『本丸』に登る石段の光景です。昔のままの遺構として残った石段らしく、段差が大きく、上り下りが難儀な石段でした。それも山城歩きの貴重な体験の一つです。
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『一宮城跡・本丸・県立自然公園』の表示があった白い標識の光景です。『県立自然公園』とは、先に紹介した『東山渓県立自然公園』に指定されたことを指しているようです。『徳島県指定史跡』に指定され、『とくしま市民遺産』にも選定されています。
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『若宮神社』の小さな社からは、少し離れた場所に置かれていましたが、その手水舎のようでした。側面に『昭和15年・奉納・樫原某』の文字が読み取れました。平らな自然石の上に置かれていました。手水舎も自然石をくり抜いたもののようでした。徳島名産の阿波の青石かも知れません。
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正面から眺めた、『若宮神社』の小さな社のズームアップ光景です。一国一城令により、1638年(寛永15年)に廃城になった後は、一宮城は『若宮八幡宮』と呼ばれていました。
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『若宮神社』のタイトルがあった説明立札の光景です。説明の全文を示します。『一宮大明神の大宮司・小笠原長宗(ながむね)公から成佑(なりすけ)公まで、11代の城主をお祀(まつ)りしてあります』、と表示されていました。『小笠原長宗(生年不詳~1350年)』は、阿波国守護・小笠原長房の4男で、岩倉城主でした。1338年に一宮宗成を滅ぼして、一宮城を築いたと考えられています。小笠原長宗は、一宮氏を称しました。
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イチオシ
地元産の平らな石を積み上げた基礎の上に建てられていた、『若宮神社』の光景です。手水舎と同じく、『阿波の青石』が使われているかも知れません。古墳時代の人達も青石の劈開性を良く理解しており、阿波の古墳では、葺き石、天井石はもちろん、石棺も青石で作られているものが多いようです。
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『本丸・周辺案内図』の表示があった説明パネルの光景です。現在地が、本丸の中に記されていました。本丸の中の主な施設と遺跡は、『若宮神社』その周りに、『釡床』と『井戸跡』が記されていました。右端に『帯曲輪』が記されていましたので、こちらが『明神丸』の方面になるようです。方角は記してありませんが、概ね上が北側になる図面のようです。
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『本丸』から見下ろした麓とその先の光景です。ここからも、大きく蛇行して流れる『鮎喰川』の流れが見えました。その先に見えているのが、紀伊水道の西側に面した徳島市の市街光景になるようです。『鮎喰川』は、『吉野川』に合流して、紀伊水道に注ぎます。本丸から眺めた、東側方面の光景になるようです。
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同じく、『本丸』から見下ろした麓と、その先の光景です。この方面は樹木が多く、近くの麓の光景は、その陰になってしまいました。中央奥に、『鮎喰川』の流れが見えました。
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先程も本丸の石垣の端付近からの撮影でしたが、この場所も石垣の角の部分です。あまり近付くと怖い撮影場所でした。前方奥には、あまり高くない、なだらかな山脈が続いていました。
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右側に『一宮城跡保勝会』、左側に『標高144.3メートル』の表示があった白い標識の光景です。ネット情報で、『一宮城跡保勝会は地域にある県指定史跡「一宮城跡」の保存に取組んでいる団体です。主に中世山城である一宮城跡の環境整備を行っています』と紹介されていました。年3回程度、落ち葉や下草の処理やゴミの除去、雑木等の伐採を実施しているようです。
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『本丸』の紹介が続きます。本丸の規模は、東北では36m、西北では23mとされます。一宮城は、本丸を中心に、東西800m、南北500mの範囲で才蔵丸や明神丸、小倉丸などの曲輪が配置されています。その他、倉庫跡、畑跡、貯水池跡や、尾根筋には堀切、横堀、竪堀、小曲輪を配し、強固な防御となっていました。
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右手奥に『若宮神社』の小さな社が見える『本丸』の光景です。登山口になった『一宮神社』の境内社にも『若宮神社』が祀られていました。はじめは源氏、後には広く武人の神様として、全国各地で祀られました。
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本丸跡にあった『小倉丸・貯水池・陰滝(登山口)』の表示があった案内樺の横から見下ろした本丸麓の光景です。難路もあるらしく、今回のお城巡りでは、見学はパスしました。
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『本丸』から見下ろした『釡床曲輪』の光景です。不思議な殊に、本丸の西に当たるこの辺りには石垣が積まれていませんでした。下りた付近に見える石組が、この後紹介する『釡床跡』です。
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『釡床曲輪』と呼ばれる跡に建てられた、『釡床跡』の文字が刻まれた石標の光景です。この曲輪の北面には、地盤強化のために急な斜面に三段に分かれた石垣が築かれていますが、これは後ほど紹介します。
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『釡床(かまとこ)跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。全文紹介します。『城の炊事の跡で、北は石垣で築かれています。本丸の下の釡床には、石組1基残っていますが、以前には数期並んでいました』、と紹介されていました。この一帯は『釡床曲輪』と呼ばれていたようです。
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1基だけ残った『釡床跡』の光景です。浅く土面を掘って、大きな石を並行に並べ、火を使って炊事が行われたたようです。天正13年(1585年)5月、羽柴秀吉の四国攻めでの主戦場の一つとなった時、豊臣秀長が4万の兵で攻城し、一宮城は1万の兵でよく守りましたが、同年7月下旬開城しました。 山城で1万人の食事を賄うのは、並大抵の苦労ではなかったようです。
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