2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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伊予と土佐の国境にある河後森城は、1614年(慶長19年)に伊達秀宗が宇和島藩を創立した際に、付家老の桑折氏が居城しました。長宗我部氏の四国統一への動き、また豊臣秀吉による四国平定を経て、この地域は、戸田氏、藤堂氏、冨田氏へと支配が移っていきました。
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出発地点の『西第十曲輪』から木橋を二つ渡った場所の光景になります。河後森城の縄張り図を参照しますと。『西第七曲輪』当たりになるようです。ここからは、曲輪の中ではなく、曲輪の脇に設けられた通路を使っての散策です。
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木々の間から、微かに眺めることが出来た、出発地点の『西第十曲輪』方面の光景です。写真の左指付近に、続日本百名城巡りの公式スタンプが置いてあった『掘立はした建物』が見えていました。発掘調査を基に再現された、厩付きの建物です。
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『西第五曲輪』と『本郭』の表示があった立札の光景です。左側の段下部分が『西第五曲輪』で、右側の段上が『西第四曲輪』になります。『本郭』の表示は、方角を示したものです。
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『西第四曲輪』と『本郭』の表示があった立札の光景です。左側の段下部分が『西第四曲輪』で、右側の段上が『西第三曲輪』になります。ここでも『本郭』の表示は、方角を示したものになります。
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撮影をしている私の場所が西第三曲輪の横、先行する人達の位置が西第二曲輪の横辺りになるようです。『西第十曲輪』から木橋を二つ渡った『西第七曲輪』以降は曲輪の中ではなく、側面の細い道を通る観光ルートになっていました。
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『曲輪を分断する堀切』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右上に発掘調査時の堀切、右下にその発掘前後の断面図が記されていました。右側の西第二曲輪と左側の西第三曲輪との間の説明でした。底の部分は通路として利用されていたようです。説明文に『岩盤』と表記されている部分は、一部は岩盤かも知れませんが、大部分は『地肌』や『地盤』の意味のようです。
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イチオシ
現在の左側の西第二曲輪と左側の西第三曲輪との間の光景です。発掘調査の後、埋め戻されて、幅が狭く、深さも浅くなっています。説明パネルでは、長さ17メートル、幅約1.3メートルから2.2メートル、深さ約1.3メートルから1.8メートルの規模と説明されていました。
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標識は確認できませんでしたが、『西第二曲輪』になるようでした。現地で頂いた『河後森城・山城登城マップ』には、『西第二曲輪』の中間地点で側道が終わって、曲輪に合流する道順が明示されていました。
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右手前向きに『本郭』、左奥向きに『西第十曲輪』の表示があった道案内立札の光景です。この立札が建てられている場所は、『西第二曲輪』になるようでした。『本郭』に西に接する『西第二曲輪』は、戦時には相当数の兵力も収容できそうな広い敷地になっていました。
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この辺りは、間違いなく『西第二曲輪』のエリアになるようです。その先に一段高くなった場所が、『本郭』です。『本郭』の西に隣接するのが『西第二』、東に隣接するのが『東第二』で、『第一曲輪』の呼び名は使われていませんでした。
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びっしりと実を付けた木立の光景です。俳句会に所属されていると自己紹介されていた現地ガイドさんに、お尋ねしたところ、『櫨の実』と教えてもらいました。個人的は『櫨の実』か、『栴檀の実』か判断が付かないでいました。
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『本郭へ続く虎口の様子』のタイトルがあった説明パネルの光景です。ここでも『西第十曲輪』の説明で使われていた、『古い段階』の『16世紀後半:1550~1600年頃』、『新しい段階』の『16世紀終末~17世紀初頭:1600年前後』の定義が使われていました。平面図と側面図との区別がつかず、理解しにくい図面でした。右下の写真は、『西第二曲輪』で検出された石垣です。
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この案内標識は、現在地ではなく、3箇所とも方角表示を示したもののようでした。右向きの『西第十曲輪』、左向きの『本郭』と、左奥行きの『古城・新城』の表示でした。ただし、場所的には『本郭』か、あるいは『西第二曲輪』に近い場所か、その端の部分かも知れません。
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イチオシ
『本郭』の西端の光景です。守りのために切岸が作られていあるようでした。写真の中央から左手にかけては、低い石垣跡がありました。1600年前後には、石垣を備えた天守が存在したとされる河後森城です。その天守は、宇和島城に移築されたとも言われます。
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『本郭』への西側からの出入口光景です。縄張図を参照しますと、この場所は正規の出入口ではなく、右手に見える石垣の南端付近が正規のルートのようでした。また、東南側に、もう1箇所の出入口が記されていました。
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『本郭』から眺めた、麓や遠くの山並み光景です。標高171メートル、比高差70メートルの独立峰の山城ですから、申し分のない光景が四方に広がっていました。写真中央付近に川が見えていますが、『広見川』でしょうか。
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『本郭』の周りの樹木と、その先に見えていた、かなりの高さの山並みの光景です。『本郭』の周りには黄葉の木々が多く、その先には針葉樹林らしい常緑樹の林でした。常緑樹は宿林された杉や桧のようです。
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発掘調査が行われた『本郭』のエリアの光景です。検出された建物跡は埋め戻されていますが、その上に建物敷地の表示がありました。中央奥に見える部分が『主殿舎』があった場所です。間取りが再現されていました。
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『本郭で検出した施設』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下の図面が城郭全体における『本郭』の位置、右下図面が『本郭の整備状況)』で、その上が発掘調査時の写真です。
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『主殿舎(掘立柱建物)の構造』のタイトルがあった説明パネルの光景です。本郭で確認された、最も規模が大きな掘立柱建物の紹介でした。東西が約12メートル、南北が約9メートルです。規模と構造から、主殿舎と呼ばれる城主の居所と推定されていました。
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先程の図面の中で、『主座敷』と表示されていた場所にあった『主人』と『客人』の場所の表示です。先程の図面の中の『主座敷』が城主(主人)の対面所で、その右の『納戸』が、主人の寝所になるようです。
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『主殿舎』の中の間仕切りと、柱の位置などが記されていました。手前が『二の間』になります。その右手には『家来』の列が、その向かいに『客人』の列が表示されていました。『二の間』の奥(東側)が『三の間』になります。
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イチオシ
真東からは少し南にずれますが、東側から眺めた『主殿舎』の間仕切りの光景です。一番奥に見える衝立がある間仕切り部分が『主座敷』になります。左手(南側)には幅約2メートルの広縁がその主座敷の奥まで続き、右端(北側)には幅約1メートルの縁側が納戸の手前まで続きます。
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地元小学校の5・6年生の方達が作成された資料の紹介です。『五・六山城学パネル』と略称します。左上の『本郭』の六つの建物の内、『主殿舎』の拡大で主殿舎の間仕切りが紹介され、更にその中の『主座敷』が拡大されて、主人(城主)を中心とした応対の様子がイラストで描かれていました。別枠で描かれた、髭を生やした奥方らしい方の扱いに困っていたようです。客人も女性のように見えました、
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こちらも、『五・六山城学パネル』です。『本かく』のタイトルがちゃんと付けられていましたが、『紙しばい』の文字もくっ付いていました。左下の『本かくでの武家儀礼』に絞って説明した方がよかったかもしれません。まだ習っていない漢字が多くあって、戸惑ったかもしれませんね。
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『本郭』から見下ろした麓の光景です。中央やや右手に、まるでおにぎりのような山の姿が見えました。河後森城があるこちらの山も独立峰ですが、『おむすび山』の背後にも独立峰のような山が並んでいました。独立峰が出来やすい地勢かも知れません。
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『本郭』から見下ろした麓のズームアップ光景です。まるでおにぎりのような山の姿です。黄葉、紅葉の光景はほとんど見当たらない緑の山でしたから、植林された木々のようでした。石で葺いたら、多分ピラミッドの光景です。残念ながら、まだ名前は掴めていません。麓を街道が走る小山でした。
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目を転じて、河後森城が建つ山の周りの光景です。身近な錦秋の光景でした。紅葉、黄葉、褐葉に常緑樹と冬木立も交じった賑やかな光景でした。現地ガイドさんに教えてもらった『櫨の実』もありました。
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『おむすび山』がまだ右端に見えている光景です。この方面は『松丸地区』になるようです。河後森城見学の後に立寄った、『かごもり市場』の丸い屋根が中央左側に見えました。国道381号線に面した場所で、『道の駅・虹の森公園まつの』の名前にもなっていました。
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『本郭』から見下ろした麓の光景の紹介の最後です。『本郭』の東北付近からの光景です。『山城登城マップ』のビュー・ポイントに選ばれていた場所でした。麓の光景をはじめ、右手に広見川、遠くに幾重にも重なった山並みが見渡せました。
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