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徳島の続日本百名城の一宮城の紹介です。一宮城は、南北朝時代に天険を利用した山城で、のちに大幅に改修されました。東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸部分は標高144.3m、麓からの比高は約120mの山嶺に築かれ、石垣下は急傾斜となっています。<br /><br />

2020暮、四国続日本百名城巡り(8/22):12月5日(2):一宮城(2):経筒出土地、竪堀

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2020/12/04 - 2020/12/06

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

徳島の続日本百名城の一宮城の紹介です。一宮城は、南北朝時代に天険を利用した山城で、のちに大幅に改修されました。東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸部分は標高144.3m、麓からの比高は約120mの山嶺に築かれ、石垣下は急傾斜となっています。

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  • 左側の白い標識には、『本丸まで500メートル』の表示が、右側の石標には『神宮寺跡』の文字が読み取れました。『神宮寺』は、神仏習合思想に基づいて、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂のことです。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺、神宮禅院とも呼ばれました。 推測ですが、一宮神社の神宮寺のようでした。

    左側の白い標識には、『本丸まで500メートル』の表示が、右側の石標には『神宮寺跡』の文字が読み取れました。『神宮寺』は、神仏習合思想に基づいて、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂のことです。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺、神宮禅院とも呼ばれました。 推測ですが、一宮神社の神宮寺のようでした。

  • 『経筒出土地』のタイトルがあった説明看板の光景です。『明治40年、北側斜面下の神宮寺跡を開墾中に、12世紀頃のものと推定される高さ33センチ、口径22センチほどの銅製の経筒が出土したことが紹介されていました。『経筒』は、経巻を保護するための筒形容器のことです。日本では、永承7年(1052年)、末法の時代に入ったとされ、お経が埋納され始めました。

    『経筒出土地』のタイトルがあった説明看板の光景です。『明治40年、北側斜面下の神宮寺跡を開墾中に、12世紀頃のものと推定される高さ33センチ、口径22センチほどの銅製の経筒が出土したことが紹介されていました。『経筒』は、経巻を保護するための筒形容器のことです。日本では、永承7年(1052年)、末法の時代に入ったとされ、お経が埋納され始めました。

  • 振り返って眺めた石段の光景です。『殿(しんがり)』を歩いていましたので、後からやって来る人の姿はありませんでした。石段の周りは、落葉が厚く散り敷いた晩秋の光景でした。

    イチオシ

    振り返って眺めた石段の光景です。『殿(しんがり)』を歩いていましたので、後からやって来る人の姿はありませんでした。石段の周りは、落葉が厚く散り敷いた晩秋の光景でした。

  • 自然の地質の光景です。大きな岩盤が連続して、地表に顔を出していました。この辺りでは、石段を設けることは困難で、その必要もなかったようです。ここでも、岩盤を避けて歩いたほうが楽でした。

    自然の地質の光景です。大きな岩盤が連続して、地表に顔を出していました。この辺りでは、石段を設けることは困難で、その必要もなかったようです。ここでも、岩盤を避けて歩いたほうが楽でした。

  • 石段部分は歩き難く、全員の方が石段を避けて、その脇を登っていました。石段の横板が障害物のように連続していたためです。石段を歩こうとしても、靴が石段の間にはまり込んでしまう感じでした。

    石段部分は歩き難く、全員の方が石段を避けて、その脇を登っていました。石段の横板が障害物のように連続していたためです。石段を歩こうとしても、靴が石段の間にはまり込んでしまう感じでした。

  • 『竪堀』の表示があった標識の光景です。『竪堀(たてぼり)』は、等高線に対して直角に設けた堀です。竪堀を掘ることによって斜面を縦に仕切ることが出来るので、敵は横方向へ移動することが極めて難しくなります。竪堀は、堀切部分に連続して設けられることが多く、曲輪の直下にも多く設けられました。

    『竪堀』の表示があった標識の光景です。『竪堀(たてぼり)』は、等高線に対して直角に設けた堀です。竪堀を掘ることによって斜面を縦に仕切ることが出来るので、敵は横方向へ移動することが極めて難しくなります。竪堀は、堀切部分に連続して設けられることが多く、曲輪の直下にも多く設けられました。

  • 草や木に覆われて、はっきりとした形は見えませんでしたが、『竪堀』が設けられていた斜面の光景です。斜面に取り付いた敵兵が、自由に横方向へ移動することが出来ないようにするのが目的でした。

    草や木に覆われて、はっきりとした形は見えませんでしたが、『竪堀』が設けられていた斜面の光景です。斜面に取り付いた敵兵が、自由に横方向へ移動することが出来ないようにするのが目的でした。

  • 人の姿が見えませんので、この光景も、工法を振り返って撮影した1枚になります。山の斜面に築かれた通路でしたから、右側が山側、左側が急峻な崖になっていました。まさに山城の光景です。

    人の姿が見えませんので、この光景も、工法を振り返って撮影した1枚になります。山の斜面に築かれた通路でしたから、右側が山側、左側が急峻な崖になっていました。まさに山城の光景です。

  • 『倉庫跡』のタイトルがあった説明看板の光景です拾い読みしますと、一宮城には2カ所の倉庫跡があり、平時には、食糧や戦闘用の兵器を収納していたことが紹介されていました。戦いの折に焼かれたらしく、焼けた麦が出土したことから『やけむぎ』と呼ばれた場所だったようです。

    『倉庫跡』のタイトルがあった説明看板の光景です拾い読みしますと、一宮城には2カ所の倉庫跡があり、平時には、食糧や戦闘用の兵器を収納していたことが紹介されていました。戦いの折に焼かれたらしく、焼けた麦が出土したことから『やけむぎ』と呼ばれた場所だったようです。

  • 左端に見える説明看板は、先ほど紹介した『倉庫跡』の立看板です。見晴らしが利く場所で、曲輪のような平地の端に建てられていました。軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間の『曲輪』は、15世紀後半に曲輪を連ねる構造が発達し始めたとされます。

    イチオシ

    左端に見える説明看板は、先ほど紹介した『倉庫跡』の立看板です。見晴らしが利く場所で、曲輪のような平地の端に建てられていました。軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間の『曲輪』は、15世紀後半に曲輪を連ねる構造が発達し始めたとされます。

  • 『倉庫跡』の見晴らしがよい場所からの眺めです。樹林の頭越しに眺めた山間の町の光景です。盆地のように、周りを山が取り囲んでいました。一宮城は、鮎喰(あくい)川に面した標高144メートルの城山一帯に築かれました。

    『倉庫跡』の見晴らしがよい場所からの眺めです。樹林の頭越しに眺めた山間の町の光景です。盆地のように、周りを山が取り囲んでいました。一宮城は、鮎喰(あくい)川に面した標高144メートルの城山一帯に築かれました。

  • 同じく、『倉庫跡』の見晴らしがよい場所からの眺めです。当初の連郭式城郭では、曲輪間に主従の関係はなかったといわれていますが、戦国時代以降の城郭では、複数の曲輪を意図的に配置し、一郭を主とし二郭以降を従とする構成が一般的になりました。

    同じく、『倉庫跡』の見晴らしがよい場所からの眺めです。当初の連郭式城郭では、曲輪間に主従の関係はなかったといわれていますが、戦国時代以降の城郭では、複数の曲輪を意図的に配置し、一郭を主とし二郭以降を従とする構成が一般的になりました。

  • 戦国時代までは、曲輪間に主従の関係はなかったとされますが、江戸時代には中心的な曲輪に、『本丸(ほんまる)』、『二の丸(にのまる)』、『三の丸(さんのまる)』などの名前が付くようになりました。

    戦国時代までは、曲輪間に主従の関係はなかったとされますが、江戸時代には中心的な曲輪に、『本丸(ほんまる)』、『二の丸(にのまる)』、『三の丸(さんのまる)』などの名前が付くようになりました。

  • 『曲輪』の表示があった表示板の光景です。『曲輪(くるわ)』は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称です。『郭(くるわ)』とも書きます。主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられ、戦時には、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯しました。

    『曲輪』の表示があった表示板の光景です。『曲輪(くるわ)』は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称です。『郭(くるわ)』とも書きます。主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられ、戦時には、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯しました。

  • 『一宮城』の沿革の紹介です。南北朝時代(1336~1392年)、阿波国守護の小笠原長房の四男、小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀したのが始まりとされます。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城は一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようです。 (この後も、ウィキペディア参照)

    『一宮城』の沿革の紹介です。南北朝時代(1336~1392年)、阿波国守護の小笠原長房の四男、小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀したのが始まりとされます。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城は一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようです。 (この後も、ウィキペディア参照)

  • 『一宮城』の沿革紹介の続きです。南北朝時代に『小笠原長宗(生年不詳~1350年)』は南朝に属して活躍していましたが、『細川頼春(1304~1352年)』が南朝の切り崩しにかかりました。1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけました。

    『一宮城』の沿革紹介の続きです。南北朝時代に『小笠原長宗(生年不詳~1350年)』は南朝に属して活躍していましたが、『細川頼春(1304~1352年)』が南朝の切り崩しにかかりました。1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけました。

  • 1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)に小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となりました。細川頼之軍は手始めに夷山城を攻め、野田山城を焼き討ちしました。その勢いに乗じて一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにしました。一宮城が戦場になったのは、この時が初めてとされます。その後、両者は度々合戦となりました。

    1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)に小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となりました。細川頼之軍は手始めに夷山城を攻め、野田山城を焼き討ちしました。その勢いに乗じて一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにしました。一宮城が戦場になったのは、この時が初めてとされます。その後、両者は度々合戦となりました。

  • 縄張図に『畑跡』と記されている場所の辺りのようです。標識類はなかったようですから、詳しいことは分かりませんでした。一見すれば、『曲輪跡』のような平坦地でした。1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)、細川頼之軍と戦って破れ、細川頼之との間で和睦を結び、一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居しました。

    縄張図に『畑跡』と記されている場所の辺りのようです。標識類はなかったようですから、詳しいことは分かりませんでした。一見すれば、『曲輪跡』のような平坦地でした。1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)、細川頼之軍と戦って破れ、細川頼之との間で和睦を結び、一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居しました。

  • 同じく、縄張図に『畑跡』と記されていた辺りの光景です。現在は落ち葉が散り敷いた、二段になった平坦地です。ネット情報では、この地を『曲輪』と紹介したものもあったようです。『一宮城』の沿革紹介の続きです。一宮成行は北朝に下り、その後細川氏の被官となりました。永正の錯乱以降、細川家の内乱で度々畿内に出軍した国人衆の中に一宮氏の名前が見られます。

    同じく、縄張図に『畑跡』と記されていた辺りの光景です。現在は落ち葉が散り敷いた、二段になった平坦地です。ネット情報では、この地を『曲輪』と紹介したものもあったようです。『一宮城』の沿革紹介の続きです。一宮成行は北朝に下り、その後細川氏の被官となりました。永正の錯乱以降、細川家の内乱で度々畿内に出軍した国人衆の中に一宮氏の名前が見られます。

  • 阿波国が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐(小笠原成助)の時には、三好家臣団の中でも重要な地位を占めるようになりました。しかし、三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮だった篠原長房が、元亀4年(1573年)に上桜城の戦いで討ち取られ、家臣団も分裂状態になりました。

    阿波国が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐(小笠原成助)の時には、三好家臣団の中でも重要な地位を占めるようになりました。しかし、三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮だった篠原長房が、元亀4年(1573年)に上桜城の戦いで討ち取られ、家臣団も分裂状態になりました。

  • 通路の脇に表示してあった道案内標識の光景です。『倉庫跡・新生屋敷跡・天満谷越え』の3箇所が表示してありました。縄張図を参照しますと、西南方角の、少し離れた場所に『倉庫跡』が記されていました。天正9年(1581年)7月、織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めましたが、一宮城は堅く、一宮成祐もよく防ぎました。

    通路の脇に表示してあった道案内標識の光景です。『倉庫跡・新生屋敷跡・天満谷越え』の3箇所が表示してありました。縄張図を参照しますと、西南方角の、少し離れた場所に『倉庫跡』が記されていました。天正9年(1581年)7月、織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めましたが、一宮城は堅く、一宮成祐もよく防ぎました。

  • 一宮城は、天正13年(1585年)5月、羽柴秀吉の四国攻めで主戦場の一つとなりました。豊臣秀長が4万の兵で攻城し一宮城は1万の兵でよく守りましたが、同年7月下旬開城しました。長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、同年9月、羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。石垣を巡らした現在の遺構は、この時の大改修とされます。

    一宮城は、天正13年(1585年)5月、羽柴秀吉の四国攻めで主戦場の一つとなりました。豊臣秀長が4万の兵で攻城し一宮城は1万の兵でよく守りましたが、同年7月下旬開城しました。長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、同年9月、羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。石垣を巡らした現在の遺構は、この時の大改修とされます。

  • 蜂須賀家政は、1586年(天正14年)に徳島城を築くとそちらに移り、家臣の益田持正が一宮城の城代となりました。阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていましたが、一国一城令によって1638年(寛永15年)に一宮城は廃城となりました。この時石材の一部は徳島城に運ばれ、修築に使われたという伝承があります。 (以上、ウィキペディアを参照しました)

    蜂須賀家政は、1586年(天正14年)に徳島城を築くとそちらに移り、家臣の益田持正が一宮城の城代となりました。阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていましたが、一国一城令によって1638年(寛永15年)に一宮城は廃城となりました。この時石材の一部は徳島城に運ばれ、修築に使われたという伝承があります。 (以上、ウィキペディアを参照しました)

  • 急な登り坂のコーナー部分に設置してあった白い標識です・『本丸まで200メートル』の表示でした。前回の標識の『神宮寺跡』からは300メートルの距離を登ってきたことになります。

    急な登り坂のコーナー部分に設置してあった白い標識です・『本丸まで200メートル』の表示でした。前回の標識の『神宮寺跡』からは300メートルの距離を登ってきたことになります。

  • 『湧水(ゆうすい)』の表示があった説明板の光景です。『城の周辺では所々小さな湧水が見られます。この湧水は最近のものですが、当時、山城では水の確保に苦労していたことが偲ばれます』と解説してありました。

    『湧水(ゆうすい)』の表示があった説明板の光景です。『城の周辺では所々小さな湧水が見られます。この湧水は最近のものですが、当時、山城では水の確保に苦労していたことが偲ばれます』と解説してありました。

  • 最近のものと解説されていた『湧水(ゆうすい)』の場所の光景です。山肌から少しづつ湧きだしているようでした。僅かな水量ですから、降り積もった落葉を運び出すこともできないようでした。

    最近のものと解説されていた『湧水(ゆうすい)』の場所の光景です。山肌から少しづつ湧きだしているようでした。僅かな水量ですから、降り積もった落葉を運び出すこともできないようでした。

  • 『堀切(ほりきり)』の表示があった説明看板の光景です。『堀切』は、城や城塞群において、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(堀)で、空堀の一種です。

    『堀切(ほりきり)』の表示があった説明看板の光景です。『堀切』は、城や城塞群において、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(堀)で、空堀の一種です。

  • 逆光での撮影になりましたが、右の『明神丸』と左の『才蔵丸』の間に設けられた『堀切』の周りの光景です。『明神丸』と『才蔵丸』は、どちらも『本丸』の守備の役割がありますが、独立させたことで、より強固な守りになっているようです。『才蔵丸』は、一宮神社近くの登城口から最初に到達する主要曲輪で、『三の丸』とも呼ばれています。

    逆光での撮影になりましたが、右の『明神丸』と左の『才蔵丸』の間に設けられた『堀切』の周りの光景です。『明神丸』と『才蔵丸』は、どちらも『本丸』の守備の役割がありますが、独立させたことで、より強固な守りになっているようです。『才蔵丸』は、一宮神社近くの登城口から最初に到達する主要曲輪で、『三の丸』とも呼ばれています。

  • 『明神丸』と左の『才蔵丸』の間に設けられた『堀切』の光景です。『才蔵丸』の標高は129.2メートルで、曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。虎口は西端の一ヵ所にあり、この堀切に面しています。

    イチオシ

    『明神丸』と左の『才蔵丸』の間に設けられた『堀切』の光景です。『才蔵丸』の標高は129.2メートルで、曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。虎口は西端の一ヵ所にあり、この堀切に面しています。

  • 『明神丸』と『才蔵丸』の間に設けられた『堀切』の付近から、振り返って眺めた、いわゆる『大手道』の光景です。縄張図には、『大手道』、『搦手道』等の表示はなかったようです。<br />(追記)かつての『大手道』、『搦手道』は別の道になるようです。現在は登山道としては整備されていないようでした。

    『明神丸』と『才蔵丸』の間に設けられた『堀切』の付近から、振り返って眺めた、いわゆる『大手道』の光景です。縄張図には、『大手道』、『搦手道』等の表示はなかったようです。
    (追記)かつての『大手道』、『搦手道』は別の道になるようです。現在は登山道としては整備されていないようでした。

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