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四国の続日本百名城の引田城の紹介です。引田城は高松城や丸亀城と同じく生駒氏時代の城ですが、1615年(元和元年)、一国一城令で廃城後、香川の歴史上から消え去りました。同じ高松城の支城だった丸亀城は、再築され名を留めました。

2020暮、四国続日本百名城巡り(2/22):12月4日(2):引田城(1):井筒屋敷、かめびし屋

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2020/12/04 - 2020/12/06

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旅人のくまさん

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四国の続日本百名城の引田城の紹介です。引田城は高松城や丸亀城と同じく生駒氏時代の城ですが、1615年(元和元年)、一国一城令で廃城後、香川の歴史上から消え去りました。同じ高松城の支城だった丸亀城は、再築され名を留めました。

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  • 『引田城』見学の拠点になった『讃州井筒屋敷』です。江戸時代から続いていた酒・醤油づくりの商家を改装した建物です。商家建築の旧佐野家住宅で、井筒屋は屋号です。先に紹介しましたが、ここに『続日本百名城』巡りのスタンプも置いてありました。

    『引田城』見学の拠点になった『讃州井筒屋敷』です。江戸時代から続いていた酒・醤油づくりの商家を改装した建物です。商家建築の旧佐野家住宅で、井筒屋は屋号です。先に紹介しましたが、ここに『続日本百名城』巡りのスタンプも置いてありました。

  • 『讃州井筒屋敷』の中庭と、周りの建物光景です。現在の讃州井筒屋敷は、東かがわ市が事業主体となった、資料館と観光案内所、商業施設、ホールを備えた複合施設です。 ここで、現地ガイドさんと落ち合いました。江戸時代の1692年(元禄5年)の創業後間もなく上方から江戸まで醤油を出荷し、引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』の一つとされました。

    イチオシ

    『讃州井筒屋敷』の中庭と、周りの建物光景です。現在の讃州井筒屋敷は、東かがわ市が事業主体となった、資料館と観光案内所、商業施設、ホールを備えた複合施設です。 ここで、現地ガイドさんと落ち合いました。江戸時代の1692年(元禄5年)の創業後間もなく上方から江戸まで醤油を出荷し、引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』の一つとされました。

  • 『讃州井筒屋敷』のタイトルがあった説明看板の光景です。江戸時代の1692年(元禄5年)の創業後間もなく上方から江戸まで醤油を出荷し、引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』の一つとされました。1913年(大正2年)から酒造も手がけ合名会社酒造井筒屋を設立、1920年(大正9年)からは焼酎・みりんの製造も始めるなど、戦前まで栄えました。(ウィキペディア)

    『讃州井筒屋敷』のタイトルがあった説明看板の光景です。江戸時代の1692年(元禄5年)の創業後間もなく上方から江戸まで醤油を出荷し、引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』の一つとされました。1913年(大正2年)から酒造も手がけ合名会社酒造井筒屋を設立、1920年(大正9年)からは焼酎・みりんの製造も始めるなど、戦前まで栄えました。(ウィキペディア)

  • しかし、1997年(平成9年)頃から当屋敷は空家となり、朽ちるにまかされていました。このため、引田町(現・東かがわ市)はこの町の歴史的建物の保存のために、2001年(平成13年)になると、母屋と倉庫群を取得しました。そして、東かがわ市により改修が行われ、立派な姿が蘇りました。写真は、井筒屋敷に隣接する、『かめびし屋』の赤壁と、ナマコ壁の光景です。

    しかし、1997年(平成9年)頃から当屋敷は空家となり、朽ちるにまかされていました。このため、引田町(現・東かがわ市)はこの町の歴史的建物の保存のために、2001年(平成13年)になると、母屋と倉庫群を取得しました。そして、東かがわ市により改修が行われ、立派な姿が蘇りました。写真は、井筒屋敷に隣接する、『かめびし屋』の赤壁と、ナマコ壁の光景です。

  • 『かめびし屋』の看板が下がった建物光景です。その店舗や醤油蔵など18棟の建造物が国の登録有形文化財に登録されています。一際目に付く、赤壁と、ナマコ塀でした。創業の宝暦3年(1753年)から、醤油の伝統的製法の『むしろ麹法』を続ける全国で唯一の醤油醸造元です。 江戸時代建築の醤油蔵を活用した讃岐うどん店『かめびし屋』を開いています。

    『かめびし屋』の看板が下がった建物光景です。その店舗や醤油蔵など18棟の建造物が国の登録有形文化財に登録されています。一際目に付く、赤壁と、ナマコ塀でした。創業の宝暦3年(1753年)から、醤油の伝統的製法の『むしろ麹法』を続ける全国で唯一の醤油醸造元です。 江戸時代建築の醤油蔵を活用した讃岐うどん店『かめびし屋』を開いています。

  • 讃岐うどん店の『かめびし屋』で出される、醪を使用した『もろみうどん』は、引田の名物の一つとなっています。この辺りは、通りの左右が 『かめびし屋』の建物のようでした。道路を横断する、黒いアーケードのようなもの見えました。推測ですが、左右のお店を繋ぐ、ケーブル類を納めた、環境に配慮したデザインのボックスのようでした。

    讃岐うどん店の『かめびし屋』で出される、醪を使用した『もろみうどん』は、引田の名物の一つとなっています。この辺りは、通りの左右が 『かめびし屋』の建物のようでした。道路を横断する、黒いアーケードのようなもの見えました。推測ですが、左右のお店を繋ぐ、ケーブル類を納めた、環境に配慮したデザインのボックスのようでした。

  • 「岡田屋(亀微視醤油)の由来」のタイトルがあった説明看板の光景です。少し拾い読みしますと、岡田家の開祖は生駒家の家臣・西山丹後、寛永の頃に四代目が引田に来住し、五代目の時に岡田に改姓したと紹介されていました。江戸時代からの『かめびし醤油』の『かめ』は、氏神を祀る『亀山』に由来し、『ひし』は、醤を『ひしお』とも呼ぶことからの命名と紹介されていました。

    「岡田屋(亀微視醤油)の由来」のタイトルがあった説明看板の光景です。少し拾い読みしますと、岡田家の開祖は生駒家の家臣・西山丹後、寛永の頃に四代目が引田に来住し、五代目の時に岡田に改姓したと紹介されていました。江戸時代からの『かめびし醤油』の『かめ』は、氏神を祀る『亀山』に由来し、『ひし』は、醤を『ひしお』とも呼ぶことからの命名と紹介されていました。

  • ブロンズ製の擬宝珠で飾られた、赤い欄干の光景です。『みゆきばし』と読むのでしょうか、欄干に『御幸橋』の文字がありました。『かめびし屋は赤壁で醤油造りに励んでおられる。主屋も土蔵も醤油蔵も門も壁も全部赤壁で、自動車までも赤色であった』との紹介もありましたが、この橋も、ついその延長線上で見てしまいましたが、端の朱色は別です。

    ブロンズ製の擬宝珠で飾られた、赤い欄干の光景です。『みゆきばし』と読むのでしょうか、欄干に『御幸橋』の文字がありました。『かめびし屋は赤壁で醤油造りに励んでおられる。主屋も土蔵も醤油蔵も門も壁も全部赤壁で、自動車までも赤色であった』との紹介もありましたが、この橋も、ついその延長線上で見てしまいましたが、端の朱色は別です。

  • 『誉田八幡宮』の石造の扁額が懸かった石の鳥居の光景です。その参道奥に見えている、『誉田神社』です。その先にも石の鳥居が見え、背後には鎮守の杜がありました。承和8年(841年)、手置帆負命の末裔で大内郡の領主である忌部正國が誉田八幡宮に参拝した際に神託により神宝2品を授かり、1品は伊座中山、もう1品は忌部中山家の後園に祀ったと縁起が紹介されていました。(ウィキペディア)

    『誉田八幡宮』の石造の扁額が懸かった石の鳥居の光景です。その参道奥に見えている、『誉田神社』です。その先にも石の鳥居が見え、背後には鎮守の杜がありました。承和8年(841年)、手置帆負命の末裔で大内郡の領主である忌部正國が誉田八幡宮に参拝した際に神託により神宝2品を授かり、1品は伊座中山、もう1品は忌部中山家の後園に祀ったと縁起が紹介されていました。(ウィキペディア)

  • 鳥居の近くにあった古い石標のズームアップ光景です。『左こんぴら(金比羅)』の文字が刻まれていました。縁起には、『延久元年(1069年)、伊座中山にある神宝は引田の亀山の頂に遷座され、引田七郷の鎮守神とされる』とも記されていました。(ウィキペディア)

    鳥居の近くにあった古い石標のズームアップ光景です。『左こんぴら(金比羅)』の文字が刻まれていました。縁起には、『延久元年(1069年)、伊座中山にある神宝は引田の亀山の頂に遷座され、引田七郷の鎮守神とされる』とも記されていました。(ウィキペディア)

  • 『誉田神社』の石標と、狛犬の光景です。お尻を上げた姿の狛犬は、『出雲型の狛犬』や、『狛犬ではなく、唐獅子』等の解説がネット情報にありました。好天に恵まれた『引田城址』の見学になりそうです。

    『誉田神社』の石標と、狛犬の光景です。お尻を上げた姿の狛犬は、『出雲型の狛犬』や、『狛犬ではなく、唐獅子』等の解説がネット情報にありました。好天に恵まれた『引田城址』の見学になりそうです。

  • 次第に大きく見えてきた、誉田神社の鎮守の杜の光景です。祭神は応神天皇、旧郷社で、神饌幣帛料供進社とされます。 郷社に列格されたのが、明治5年(1872年)、神饌幣帛料供進社とされたのが、明治40年(1907年)です。また、昭和51年(1976年)、誉田八幡神社社叢が香川県の自然記念物に指定されました。(ウィキペディア) 社叢は、鎮守の杜のことです。

    次第に大きく見えてきた、誉田神社の鎮守の杜の光景です。祭神は応神天皇、旧郷社で、神饌幣帛料供進社とされます。 郷社に列格されたのが、明治5年(1872年)、神饌幣帛料供進社とされたのが、明治40年(1907年)です。また、昭和51年(1976年)、誉田八幡神社社叢が香川県の自然記念物に指定されました。(ウィキペディア) 社叢は、鎮守の杜のことです。

  • 注連縄が張られた、誉田神社参道の石標の光景です。左側の石標には『四海昌乎』の文字が、右側の石標には『上下和楽』の文字が刻まれていました。『上下』は時代を反映した『領主と領民』の意味かも知れません。また、『四海』は『世の中』や『天下』当たりを意味するようですが、瀬戸内海ですから、文字通り『四海』でもあります。

    注連縄が張られた、誉田神社参道の石標の光景です。左側の石標には『四海昌乎』の文字が、右側の石標には『上下和楽』の文字が刻まれていました。『上下』は時代を反映した『領主と領民』の意味かも知れません。また、『四海』は『世の中』や『天下』当たりを意味するようですが、瀬戸内海ですから、文字通り『四海』でもあります。

  • 厳つい造りで存在感があった、参道の石灯篭の光景です。火袋や柱は綺麗に細工されていましたが、笠や台座などには、自然石が出来るだけ加工をせずに使われていました。大きさも十分の武骨な石灯篭です。

    厳つい造りで存在感があった、参道の石灯篭の光景です。火袋や柱は綺麗に細工されていましたが、笠や台座などには、自然石が出来るだけ加工をせずに使われていました。大きさも十分の武骨な石灯篭です。

  • 斜め前から眺めた『誉田神社』の拝殿光景です。『誉田八幡宮』等の呼び名もあるようでした。神社の由緒によれば、昭和56年(1981年)、幣殿、拝殿、社務所が改築され、裏参道が新設されました。

    斜め前から眺めた『誉田神社』の拝殿光景です。『誉田八幡宮』等の呼び名もあるようでした。神社の由緒によれば、昭和56年(1981年)、幣殿、拝殿、社務所が改築され、裏参道が新設されました。

  • 醤油製造工程で、使われていた石臼のような石材です。役目を終えて、今は、石垣の飾りとして、引田の景観アップを担っていました。原料か、製造途中の絞り工程で使われていたようです。ネットで調べた醤油製造の材料では、炙られた小麦が石臼で砕かれるようでした。

    醤油製造工程で、使われていた石臼のような石材です。役目を終えて、今は、石垣の飾りとして、引田の景観アップを担っていました。原料か、製造途中の絞り工程で使われていたようです。ネットで調べた醤油製造の材料では、炙られた小麦が石臼で砕かれるようでした。

  • かなりの数の石臼が垣根代わりの置かれていたのは、醤油醸造の蔵元のお家だったようです。醤油の元の『諸味(もろみ)』は、麹が持つ酵素により蛋白質はアミノ酸に、デンプン質は糖に分解されるまで2年ほどかかります。諸味を搾って醤油にされますが、この工程までくれば、石臼の出番ありません。

    かなりの数の石臼が垣根代わりの置かれていたのは、醤油醸造の蔵元のお家だったようです。醤油の元の『諸味(もろみ)』は、麹が持つ酵素により蛋白質はアミノ酸に、デンプン質は糖に分解されるまで2年ほどかかります。諸味を搾って醤油にされますが、この工程までくれば、石臼の出番ありません。

  • 麓から眺めた、『引田城』がある城山の光景です。引田城は2020年(令和2年)3月10日、国の史跡に指定されました。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(177番)にも選定されています。

    麓から眺めた、『引田城』がある城山の光景です。引田城は2020年(令和2年)3月10日、国の史跡に指定されました。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(177番)にも選定されています。

  • 『引田港』の光景です。現在の『引田港(ひけたこう)』は、香川県東かがわ市の引田にある地方港湾で、港湾管理者は香川県です。近代以降は醤油の大量生産化にともない産地が移ったため、積出港の地位を失ったものの、戦後まもなく地方港湾に指定されました。

    『引田港』の光景です。現在の『引田港(ひけたこう)』は、香川県東かがわ市の引田にある地方港湾で、港湾管理者は香川県です。近代以降は醤油の大量生産化にともない産地が移ったため、積出港の地位を失ったものの、戦後まもなく地方港湾に指定されました。

  • 『大池オートキャンプ場』の標識です。支柱に、『城山登山口・引田城』の表示も付け加えられていました。ネットで検索することができた、『大池オートキャンプ場』は、設備の整った大型キャンプ場でした。

    『大池オートキャンプ場』の標識です。支柱に、『城山登山口・引田城』の表示も付け加えられていました。ネットで検索することができた、『大池オートキャンプ場』は、設備の整った大型キャンプ場でした。

  • 『引田(ひけた)城跡』の文字が記された幟と、『瀬戸内海国立公園・城山園地案内図』のタイトルがあった案内看板の光景です。中央下部に、赤い色で現在地が記されていました。『瀬戸内海国立公園』は、1934年3月16日に雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、日本初の国立公園として指定されました。その範囲は10県に及びます。

    『引田(ひけた)城跡』の文字が記された幟と、『瀬戸内海国立公園・城山園地案内図』のタイトルがあった案内看板の光景です。中央下部に、赤い色で現在地が記されていました。『瀬戸内海国立公園』は、1934年3月16日に雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、日本初の国立公園として指定されました。その範囲は10県に及びます。

  • 右が『引田城跡・町指定文化財第11号』の文字が記された古い標識、左が『東かがわ市指定文化財・引田城址』のタイトルがあった新しい説明看板の光景です。『東かがわ市指定文化財』に指定されたのは、平成12年(2000年)12月20日と記されていました。

    右が『引田城跡・町指定文化財第11号』の文字が記された古い標識、左が『東かがわ市指定文化財・引田城址』のタイトルがあった新しい説明看板の光景です。『東かがわ市指定文化財』に指定されたのは、平成12年(2000年)12月20日と記されていました。

  • 城山の頂上付近から眺めた、『引田港』の沖合の光景です。戦後まもなく、地方港湾に指定されて以降は、漁港、およびプレジャーボート・小型船用の港湾として賑わいをみせているようです。

    城山の頂上付近から眺めた、『引田港』の沖合の光景です。戦後まもなく、地方港湾に指定されて以降は、漁港、およびプレジャーボート・小型船用の港湾として賑わいをみせているようです。

  • 城山の頂上付近から見下ろした、『引田港』の光景です。引田港は、中世より播磨灘における『風待ちの港』として開かれ、引田城城下の港として発展しました。近世には、日用品の集散地および醤油の積出港として栄えたという歴史をもつ港です。近年では、世界で初めてハマチの養殖に成功したことでも知られます。

    城山の頂上付近から見下ろした、『引田港』の光景です。引田港は、中世より播磨灘における『風待ちの港』として開かれ、引田城城下の港として発展しました。近世には、日用品の集散地および醤油の積出港として栄えたという歴史をもつ港です。近年では、世界で初めてハマチの養殖に成功したことでも知られます。

  • 城山に登る前に、現地ガイドさんから頂上の目印と教えてもらっていた、枝振りの良い黒松の光景です。標高80メートル程ですから、あまり難儀せずに登ることが出来ました。逆光になりましたが、白雲が浮かぶ青空をバックにしたその黒松の光景です。

    イチオシ

    城山に登る前に、現地ガイドさんから頂上の目印と教えてもらっていた、枝振りの良い黒松の光景です。標高80メートル程ですから、あまり難儀せずに登ることが出来ました。逆光になりましたが、白雲が浮かぶ青空をバックにしたその黒松の光景です。

  • 頂上にある黒松付近から見下ろした、かつての引田の城下町の光景です。現在は東かがわ市になっています。引田城は、667年頃(天智天皇の時代)に『屋嶋城(やしまのき)』とともに、唐・新羅対策として築城されたと考えられています。 平安時代後も、瀬戸内防衛の要所として近世にかけて代々整備されてきたようです。

    頂上にある黒松付近から見下ろした、かつての引田の城下町の光景です。現在は東かがわ市になっています。引田城は、667年頃(天智天皇の時代)に『屋嶋城(やしまのき)』とともに、唐・新羅対策として築城されたと考えられています。 平安時代後も、瀬戸内防衛の要所として近世にかけて代々整備されてきたようです。

  • 道案内標識の光景です。左向きの矢印で『引田港側登山口(約390メートル)』、右向きの矢印で、『本丸(約170メートル)』と『北二の丸(約390メートル)』が記されていました。柱の部分の縦書き文字は、現在地の『狼煙(のろし)台跡』でした。

    道案内標識の光景です。左向きの矢印で『引田港側登山口(約390メートル)』、右向きの矢印で、『本丸(約170メートル)』と『北二の丸(約390メートル)』が記されていました。柱の部分の縦書き文字は、現在地の『狼煙(のろし)台跡』でした。

  • 『引田城址』の遺物の石のようですが、自然石のようにも見えました。詳しいことは分かりませんでした。現在の引田城址は、豊臣秀吉の時代に入城した、『生駒親正(1526~1603年)』の古い石垣遺構が残る貴重な城とされています。

    『引田城址』の遺物の石のようですが、自然石のようにも見えました。詳しいことは分かりませんでした。現在の引田城址は、豊臣秀吉の時代に入城した、『生駒親正(1526~1603年)』の古い石垣遺構が残る貴重な城とされています。

  • 立派な造りの道案内標識の光景です。左向きの矢印で『引田港側登山口(490メートル)』、右向きの矢印で、『本丸(約90メートル)』と『北二の丸(約290メートル)』が記されていました。先に紹介した案内標識からは、引田港側登山口から100メートルほどの移動でした。柱に記された現在地は、『本丸跡』です。

    立派な造りの道案内標識の光景です。左向きの矢印で『引田港側登山口(490メートル)』、右向きの矢印で、『本丸(約90メートル)』と『北二の丸(約290メートル)』が記されていました。先に紹介した案内標識からは、引田港側登山口から100メートルほどの移動でした。柱に記された現在地は、『本丸跡』です。

  • 『本丸石垣』の光景です。引田城は、城山と呼ばれる山にある平山城で、初期の頃は、尾根伝いにコの字型に展開し、四隅には櫓を備えていました。現在の遺構は、四隅の櫓の内、北と西の二つの櫓を中心に残っています。2020年(令和2年)3月10日に東かがわ市内初の国の史跡に指定され増した。

    イチオシ

    『本丸石垣』の光景です。引田城は、城山と呼ばれる山にある平山城で、初期の頃は、尾根伝いにコの字型に展開し、四隅には櫓を備えていました。現在の遺構は、四隅の櫓の内、北と西の二つの櫓を中心に残っています。2020年(令和2年)3月10日に東かがわ市内初の国の史跡に指定され増した。

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