2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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徳島の続日本百名城の一宮城見学を終えて、次は高知県に移動して、岡豊(おこう)城の見学です。四国を代表する戦国武将の長宗我部氏の本城です。南部を流れる国分川を天然の堀とし、山頂部の『詰』を中心に曲輪を階段状に配していました。
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岡豊城の麓に建てられている『高知県立歴史文化資料館』の建物光景です。有料施設ですし、ゆっくりと見学する時間はありませんでしたから、利用する機会はありませんでした。公式HPには、『岡豊山は、蛇紋岩からなっています。標高は97m、山は東から南斜面にかけて急傾斜で、北側はややゆるい斜面となり、西部には標高49mの小さな丘陵が続いています』と紹介されていました。
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四国を代表する戦国武将の『長宗我部元親公(1539~1599年)』の、若かりし頃の武者姿です。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げました。しかし、織田信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ、土佐一国に減知となりました。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去りました。
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『長宗我部元親・飛翔之像』のタイトルの紹介です。南国市市長・橋詰壽人名の落款がありました。『長宗我部元親飛翔之像・建立委員会。平成27年5月建立』の文字も記されていました。『長宗我部元親飛翔之像』の文字が市長の揮毫とすれば、中々の達筆です。隷書体になるようです。
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イチオシ
『長宗我部元親・飛翔之像』の上半身のズームアップ光景です。土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である『元』の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より『元』の字を受けた15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなりました。長宗我部氏は、室町時代以降、通字に『親』を用いていました。
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石段を登って、その上から見下ろした『高知県立歴史文化資料館』方面の光景です。『南国(なんこく)市』の公式HPには、『戦国武将・長宗我部氏の居城跡(国史跡・岡豊城跡)に立つ歴史系総合博物館。長宗我部氏の関連資料や、土佐の歴史・文化・くらしを紹』と紹介されていました。
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『長宗我部元親・飛翔之像』について説明される現地ガイドさんです。平成27年(2015年)5月に建立された像です。『長宗我部元親』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名でした。関ヶ原の戦いの前年に亡くなりました。彼は天下を狙える四国随一の将傑とされましたが、土佐の統一を遂げた後、信長・秀吉という天下人に翻弄されながら戦国の世に亡くなりました。生前の位階は従五位下で、死後に正五位となり、昭和3年(1928年)には正三位が贈られました。
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『岡豊城跡・全体案内板』のタイトルがあった看板の光景です。現在地が図面の中央付近に赤く記され、その左が『高知県立歴史文化資料館』、右側が『岡豊城跡』の全域でした。北の方角が、左下になる地図です。城郭は、左から、二ノ段、詰ノ下、詰、三ノ段、四ノ段、そして少し離れた場所に伝厩跡曲輪が記されていました。
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『二の段』から眺めた、『土佐のまほろば』と呼ばれる史跡と文化財に恵まれた眺めの紹介でした。写真入りで、『比江廃寺跡』、『土佐国分寺跡』と『土佐国府跡』が紹介されていました。
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先程の説明写真と同じ方向の眺めです。写真中央上部に写っている、こんもりとした林が目印になりました。『土佐国分寺跡』が、その中央付近に、『土佐国府跡』がその左後ろ付近に表示されていました。『比江廃寺跡』は、更に左後に記されていました。『比江寺』は白鳳時代(飛鳥時代と奈良時代の間の40~60年間)に建てられ、その塔跡が国の史跡に指定されています。
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イチオシ
先程のパネルで、『土佐国分寺跡』と『土佐国府跡』が表示されていた方面のズームアップ光景です、『土佐国分寺跡』は、現在も四国霊場29番札所の『国分寺』として続いています。『国府』は行政官庁(国衛:こくか)で、延長8年(930年)、紀貫之が国司として赴任したことがパネルで紹介されていました。平安時代の貴族、歌人で、三十六歌仙の一人、『古今和歌集』の選者の一人です。
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『二ノ段』の木々の間から見下ろした『国分川』の光景です。鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した『長宗我部能俊(よしとし:生没年不詳)』が土佐長宗我部氏の始まりとされます。平安時代末期から鎌倉 時代初期の武士だった人です。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、『長宗我部氏』ではなく『宗我部氏』を名乗っていたようです。
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イチオシ
『長宗我部氏』の名前の由来の続きです。隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の『宗我部氏』があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、『長宗我部氏』と『香宗我部氏』と名乗るようになりました。この頃、『長宗我部氏』によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられています
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同じく、『二ノ段』見下ろした麓の光景です。 『長宗我部氏』は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げました。『宗我部氏(こうそかべし)』も土佐七雄の一つです。甲斐源氏の子孫と伝えられます。戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となりました。
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自然の地形ではなく、人工的に造られた急斜面は、『堀切』になるようです。『堀切』は、主に山城に用いられる防御のための土木建築物で、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(空堀)にしたものです。
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同じく、『堀切』の光景です。『堀切』が造られた当時には、絶対に生えていなかったはずの樹木が、1本だけありました。静岡県にある山中城の堀は、関東ローム層の粘土質なので、雨の時などには滑って、とても登るとこなどは出来なかったようです。
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『堀切と井戸』のタイトルがあった説明看板の光景です。岡豊城の堀切は、詰と二の段の間に1本、北に伸びる尾根上に2本、伝厩跡曲輪の北西部に1本築かれていたことが紹介されていました。幅3~4メートル、深さ2メートル前後の規模とされます。『井戸』は、堀切の中央部に設けられ、自然湧水ではなく、雨水を溜めていたようです。
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枯葉で覆われていた『井戸』の光景になるようです。先程の説明パネルに、『堀きりの中央』に設けられた井戸の一つになるようです。場所的には、『詰と二ノ段の間の堀切』になるようです。
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同じく、『井戸跡』の光景です。方形をしている『井戸』は、上部は幅3メートル、底部が0.8メートルと紹介パネルに記されていました。また、二ノ段からの深さは4.7メートルで、岩盤を3.6メートル程掘り込んであります。岩盤の上には、濠きりを区切るように、北に2段、南に3段の石垣が積まれています。
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道案内標識の光景です。右上向きに『詰』、左向きの矢印で『二ノ段』が表示されていました。『二ノ段』は、先ほどから見学している場所、『詰』がこれから向かう場所です。右端に『二ノ段』の中心部分に向かう上りの石段が見えていました。
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高台になった広場の光景です。『詰』に向かう途中にある『二ノ段』になるようです。見晴らしがよい場所らしく、右端に東屋が見えていました。『岡豊城跡・全体案内板』にも、二ノ丸の象徴的な建物として、『東屋』が記されていました。『本丸』に相当する『詰』がある方向は、中央手前に置かれた石標に、右上向きの矢印で記されていました。
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右上向きの矢印が『詰』、左向きの矢印が『詰下段』と、『三ノ段』の表示があった道案内パネルの光景です。最下部に『国史跡・岡豊城跡巡り・案内看板』の表示がありました。
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『詰』と記された場所に上がる石段だったようです。『詰』は、『本丸』に相当する城郭の中心施設です。『詰下段』の見学の後に向かいました。『詰』は、標高97mの岡豊山の山頂にあります。
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『詰下段・礎石建物跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『詰下段』は、『に目』の東に付属する小曲輪です。『二ノ丸』から『詰』への出入口を守る曲輪とされています。礎石建物跡は、2間×5間(5.8m×9.3m)と、かなり大きな規模です。
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『礎石跡』の遺構のようです。『詰下段・礎石建物跡』の説明パネルには、『礎石には40~60センチの割石が使われており、半間ごとに置かれています』と紹介されていました。その礎石に相当する大きさの割石のようです。
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『詰下段(つめかだん)』を囲う低い石積の遺構です。『詰下段・礎石建物跡』の説明パネルには、『土塁は、幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留めのために2~3段の石積みがある』と解説されていました。その石積部分になるようです。往時の石積がそのまま残されているようでした。
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樹木の影で分かりにくい写真となりましたが、『詰下段』を囲う低い石垣の遺構の光景です。『詰下段』は、『詰の東の一段低いところに付随する曲輪で、礎石の上に柱を建てた礎石建物跡1棟、土塁、段状遺構、土坑や三ノ段への通路と考えられる遺構が確認されています』、と『高知県立歴史文化資料館』の公式HPに紹介されていました。
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左手に見えるのは『三ノ段』の方角を矢印で刻んだ石標です。『高知県立歴史文化資料館』の公式HPには、『三ノ段は詰の南から西にかけて造られた曲輪で、南部は幅約5m、長さ約45m、西部は幅約4~6m、長さが約50mほどあります。南部では遺構はほとんど確認されていませんが、焼土と炭化物を含む層が確認されています』と紹介されていました。
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公式HPからの『三ノ段』の紹介の続きです。『西部では礎石建物跡1棟と、中央部に詰にいたる通路となる階段状の遺構、土塁の内側に20~40cmの石を1mほど積んでいますが、南半分はほとんど崩れていました。階段状遺構は岩盤を削って造られ、両側は石積みとなっていました。階段の北には礎石建物が接して建てられており、通路は南から階段を通って詰に登るようになっています』
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公式HPからの『三ノ段』の紹介の締め括りです。『三ノ段では、西部の西半分に礎石建物跡が確認されました。この建物は三ノ段の幅いっぱいに建てられており、土壁などを用いた強固な建物であったと想像されます』、『建物跡からは鉄鍋片や石臼など城の生活を物語る遺物が出土していますが、瓦片はほとんど出土していません』、と紹介されていました。
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『さざれ石(細石)』らしい大きな石の光景です。虎口の辺りで役割を果たしていた遺構の石のようでした。『三ノ段』と『詰』については、この後にも現地を紹介します。
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