2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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続日本百名城の勝瑞城の紹介です。勝瑞は、室町時代に阿波国の守護だった細川氏が15世紀頃には守護所を開いていたようです。その後の戦国時代には、三好氏の拠点となりました。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側に今切川、南側には湿地帯に接しています。
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イチオシ
『史跡・勝瑞城館跡』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。勝瑞城館跡は、戦国時代に阿波の実権を握っていた三好氏の居城跡と推定され、平成13年(2001年)1月29日に国史跡に指定されました。 三好氏は、日本の氏族の一つ、信濃源氏の一族です。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築きました。
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発掘調査で見付かった大規模な濠跡の光景です。周りを、がっちりとコンクリ―とで固めてありました。三好氏は、清和源氏(河内源氏)の名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代の承久の乱で佐々木氏に代わって阿波守護となった、阿波小笠原氏の末裔とされます。阿波三好郡を本拠にしたことから、三好氏を称しました。
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同じく、位置を変えて眺めた、発掘調査で見付かった大規模な濠跡の光景です。三好氏は、伊予国や久米の地名に深い関わりがあり、一族の者が久米氏を称したことから、実際の出自は古代以来の久味国造で、その族裔である久米直から分出した氏族と見る説もあります。
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『国史跡・勝瑞城館跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。2枚の図面と16枚の写真で説明されていました。中世の時代には、平和な勝瑞であったことを発掘調査結果を踏まえて、現地ガイドさんは強調されていました。枯山水庭園や池水庭園が発掘されたことや、茶道具や香道具が出土したことなどから、三好氏の優雅な生活が偲ばれるようです。
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夕暮れ近く、限られた時間でしたから、殺鼠、勝瑞城跡に移動しました。その外堀の光景です。勝瑞城川の岸辺は、袋に石を詰めたもので護岸されていました。現在は、吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置しますが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと考証されています。
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『国指定史跡・勝瑞城館跡』を説明して戴いた方は、20年以上この業務に従事し、精通されている方でした。短い時間かありませんでしたが、要領よく現地説明をして頂きました。藍住町の教育委員会に属されているようでした。
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『国指定史跡・勝瑞城館跡・遺構配置図』のタイトルがあったお説明パネルの光景です。右上に『勝瑞城跡』、中央に『勝瑞叙湯館跡』が記され、主要な遺跡がその中に記してありました、また、肖像城館跡の最大推定範囲が、楕円形の破線で記してありました。
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臨済宗・妙心寺派の『竜音山・見性寺』の本堂、庫裏と墓地の光景です。中央奥が本堂、その左手前が庫裏、撮影している周りが墓地です。長い歴史を感じさせる墓標が立ち並んでいました。
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イチオシ
正面から眺めた、臨済宗・妙心寺派の『竜音山・見性寺』の本堂光景です。享保8年(1723年)、竜音寺とともに、この場所に移って来たとされます。現在の建物は、発掘調査後に、この場所に建てられました。この後紹介しますが、三好氏歴代の墓とされる4基の五輪塔があります。
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石造の基壇に嵌め込まれていた、4枚の焼物を使った説明版の光景です。『やだけ(矢竹)』の解説でした。イネ科ヤダケ属の植物で、縦ではなく笹に分類されます。その違いは、成長しても皮が桿を包んでいるためです。水戸光圀公が、一事に備え栽培を奨励したことが紹介されていました。
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『国指定史跡・勝瑞城館跡・勝瑞城跡』のタイトルがあった、12枚の焼物を使った説明版の光景です。冒頭に、『勝瑞城は室町時代の阿波国守護・細川氏と、その後に三好氏が本拠とした城で、徳島県に残る中世城郭の中では珍しい『平城』と紹介されていました。水運に恵まれ、畿内と結びついて隆盛を誇ったとも紹介されていました。
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雲一つない青空に映える、見性寺の境内の公孫樹の黄葉光景です。現在は国史跡の『勝瑞城跡』にもなっている場所です。イチョウは、世界で最古の現生樹種の一つであり、現代のイチョウは、『生きている化石』として国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種に指定されています。
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三好氏の歴代四人宗主の墓とされる四基の五輪塔の光景です。左から順に長治・実休・元長・之長とされます。少し補足しますと、『三好長治(ながはる):1553~1577年:実休の長男』、『実休(じっきゅう):1527~1562年:元長の二男』、『元長(もとなが):1501~1532年』、『之長(ゆきなが):1448~1520年:義長の長男』、この中では三好之長が最年長です。
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イチオシ
同じく、見性寺の墓地の光景です。こちらにも歴史の長さを感じさせる墓標が立ち並んでいました。僧職の墓らしい、無縫塔も数多くありました。これで、『竜音山・見性寺』の紹介はお終いです。
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『竜音山・見性寺』の見学を終えて、バスの駐車場所に戻る途中に撮影した光景です。『勝瑞城跡』の外堀越しに眺めた、見性寺の庫裏と墓地の光景です。さざ波一つ立たない、静かな水面にその姿を映していました。
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同じく、『勝瑞城跡』の外堀と庫裏の側面光景です。外堀は、『勝瑞城跡』の一部になりますので、発掘調査も行われたようでした。遺物の発掘では、期待できる場所の一つとされます。
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『濠跡(ほりあと)・礎石建物跡(そせきたてものあと)』のタイトルがあった説明文の紹介です。左上の平面図は、北が右方面に記された勝瑞城跡と勝瑞城館跡で、発掘調査で見付かった濠跡と、想定される堀跡が記されていました。その右側の写真は、検出された堀跡と、礎石建物の社員です。右下の写真は、濠跡から見つかった木製品の出土状況です。
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『戦国動乱の時代』と題された、漫画での歴史紹介です。トップページの前書きは、『三好長慶を始めとする三好一族は、阿波(勝瑞)を本拠とし、天下にその名をとどろかせた戦国大名です。その激烈なる活躍のドラマが今始まります』でした。『三好長慶(1522~1564年)』は、戦国時代の武将です。畿内・阿波国の戦国大名で、室町幕府の摂津国守護代、相伴衆でもありました。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立しました。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨しました。(ウィキペディア)
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トップページの前書き通り、『三好長慶(1522~1564年)』を主人公にした、三好氏の物語でしたが、その時代に先駆ける『三好之長(ゆきなが):1448~1520年』が主人公の時代です。最初の説明パネルのタイトルは、『阿波の武士は最強だった!~三好之長の栄光と没落~』でした。永正17年(1520年)3月に上洛を果たしました。絶頂期は僅かで、細川高国に敗れ切腹しました。
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次のパネルのタイトルは『元長による義維(義綱)擁立~二つあった幕府~』でした。非業の死を遂げた三好之長の孫の元長が細川春元を擁して、阿波の勝瑞から挙兵し、大永7年(1527年)2月、足利義維(よしつな)を戴いて境に上陸しました。細川高国は桂川の戦いで敗れ、将軍とともに逃亡しました。義維は境に幕府を拓き、2つの幕府の時代になりました。実権者は、三好元長でした。
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次のパネルのタイトルは『戦う元長~近江の幕府と境の幕府~』です。細川高国は、策略のためにわざと元長に近付き、元長と細川春元の間を割くことに成功しました。これで享禄2年(1529年)、元長は境から阿波に帰りました。一方、高国は京都を奪い返す動きを見せました。見方が散りジリになった境幕府の頼りは、やはり元長でした。享禄4年(1531年)、境に戻り、境幕府の中心人物となりました。
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最後のパネルのタイトルは『元長・・無念!』でした。境幕府の中には政争が渦巻き、殊に、摂津の国衆と、阿波の国衆の諍いは、後々までも続きました。元長は、柳本堅治(かたはる)の子、基次郎を三条城で攻め殺し、主の春元の怒りを恐れて、境の顕本寺に隠棲しました。最後は主との戦いとなり、一向宗の10万の援軍に攻められ、自裁して果てました。
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『「勝瑞館跡」発掘調査の歩み』のタイトルがあった、説明パネルのイントロ部分の紹介です。左上が彩色されたイラストで表示された『平面図』、その右の写真には『平成6年から「勝瑞館跡」の発掘調査が始まりました』の説明が付いていました。その発掘調査は、『その調査で城跡の南側にも大事な遺跡がある可能性に気付きました』と纏められていました。下側のカラー写真には、『その場所が現在の「勝瑞城館跡」敷地です。当時は長尾鐵工所がありました』の説明がありました。その写真の中に、『勝瑞城跡』と『長尾鉄工所』の工場群がありました。
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次の説明パネルの紹介です。一番上の2枚の写真には、『当時の長尾鉄工場の構内』の説明文がありました。その下の4枚の写真には『工場の協力を得て、平成9年(1997年)から発掘調査を行いました』の前書きがありました。4枚の写真の内の左上には、『長尾鐵工所構内での発掘作業』の説明と、その右の写真には『状態もよく、貴重なものが多数発見されました』とのコメントがありました。最後の2枚の写真には、『「勝瑞城館跡」は国史跡に指定され、その後、長尾鉄工所の敷地は公有化されました』と締め括られていました。
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発掘調査過程の説明写真です。最初の2枚には、『敷地の建物は撤去され、本格的な調査へと入ります』との説明書きがありました。次の4枚の写真には、『敷地を幾つかの区画に分けて調査していきます』の説明でした。重機が入った場面や、手彫りの光景が記録されていました。
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勝瑞城跡から県道松茂吉野線を挟んで南側に、『お山』と呼ばれる土地がありました。当時、長尾鉄工所がこの地で操業していましたが、協力を得て平成9年(1997年)に発掘調査が実施されました。すると、大量の土師器皿や国内外産陶磁器類、銭などが出土し、溝や礎石建物跡などが検出されました。これが『勝瑞城址』が日の目を見るきっかけでした。写真は、発掘調査を終え、埋め戻された遺跡跡の光景です。
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先ほど紹介した、発掘状況を説明した4枚の説明パネルの展示状況です。全開見学した時にも、長尾鉄工所の全面協力が有難かったとお聞きしていましたが、このパネルの右から2枚目を見ても、その気持ちが分かる思いがしました。
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こちらは、先に紹介した、漫画で紹介された戦国時代の勝瑞城のパネルの展示状況です。現在展示館の建設も進んでいるようですから、展示場所が、部屋の中になるかも知れません。ただし、あくまで推測です。
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『勝瑞城館跡周辺地図』のタイトルがあった説明パンフレットの紹介です。上が北向きで記された地図に、現在の地勢や施設名などや、主な史跡なども記されていました。緑の部分が、勝瑞城に直接関連する施設のようです。中央付近にあるのが、『勝瑞城跡』と『勝瑞城館跡』です。右下の『正貴寺跡』は、次の名所一覧でも紹介しますが、三好氏の祈願所だった寺院で、現在は国の史跡になっていますが、発掘調査の後埋め戻されていますので、見学はしませんでした。
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『勝瑞城館跡周辺地図』のタイトルがあった説明パンフレットの裏面の紹介です。先ほど紹介した『正貴寺跡』は、右下の18番で紹介されていました。小字名の『正喜地』が残っていることや、付近に五輪塔が散在することから、『正貴寺跡』の言い伝えが残っていたようです。その寺院は16世紀後半に焼失したと考えられています。表面から始まって、18カ所の遺跡や名勝等の紹介でした。
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