2020/12/04 - 2020/12/06
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旅人のくまさんさん
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続日本百名城の海城、能島城の紹介です。能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家からなる村上氏の全盛期は16世紀頃でした。中でも能島村上家が拠点とした能島城は、早い海流と渦潮に守られ、島全体が要塞となった海城です。
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『村上海賊ミュージアム』の文字が刻まれた大きな石標の光景です。『子葉書』の落款がありました。書家で、大阪CMO文化学院代表、産経国際書会常務理事、てんぶん夢の学校副理事長の『正川子葉』さんのようです。同じ名前の書道家には、『赤塚子葉』さんも見えます。
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『村上海賊ミュージアム』とも呼ばれる『村上水軍博物館』の建物光景です。『2004年にオープンし、中世に瀬戸内海を中心に活躍した村上水軍の一族であった能島村上氏の資料や関連する書籍などを保存している。3階には展望室が設けられており、瀬戸内海を眺めることができる。(ウィキペディア)』と紹介されていました。
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左側の像が、この後にも紹介する『村上武吉公像』、右側のレリーフ像には『村上海賊の娘』のタイトルがありました。『村上海賊の娘』は、『和田竜による長編歴史小説。1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでの村上水軍の当主・村上武吉の娘・景(きょう:20歳)を描いています。「週刊新潮」に2011年から2013年にかけて連載され、2013年10月に単行本が刊行されました』(ウィキペディア)
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イチオシ
『村上武吉公像』の紹介です。『村上武吉(たけよし:1533~1606年)』は、『能島武吉(のしま・たけよし)』とも呼ばれた、戦国時代から江戸時代初期の伊予国などの武将です。能島村上水軍の大将であり、能島城主でした。村上義忠の子で、子に元吉、景親がいます。 『萩藩譜録・村上図書元敬寄組』(山口県文書館蔵)中の家系図に、娘がいたことが記されていますが、この娘に関する資料は同文書しか発見されていません。この娘を題材に創作されたのが、和田竜の小説『村上海賊の娘』です。 『本屋大賞』を受賞したベストセラーです。
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平成16年(2004年)に建立された、宮窪町長名の顕彰碑です。顕彰されているのは、能島村上家第36代当主の『村上公一氏(1932~2003年)』と、宮窪市名誉町民の『矢野勝明氏(1906~1995年)』です。顕彰理由は、『村上水軍博物館』の設立に当たっての尽力(主に矢野氏)と、資料提供(主に村上氏)と紹介されていました。
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村上海賊ミュージアムの屋外展示品の『小早船』の紹介です。『小早(こはや)は、戦国時代から江戸時代にかけて使われた日本の軍用船の種類の一つで、大型の安宅船と中型の関船に対し、最も小型の軍船を指します。名称の「小早」は、「小型の早船の意味です。小早船(こばやぶね)の略ともされます』(ウィキペディア)、村上海賊の機動力として活躍しました。
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『援(からみ)煉瓦の由来』のタイトルがあった説明パネルの光景です。鉱石から金属を精錬するときに生じる鉱物成分など含む物質をスラグもしくは鉱滓と呼び、銅やアルミニウムなどの非鉄金属の精錬で生じたスラグの場合、『援(からみ)』と呼ばれます。この煉瓦は、別子銅山の援を型に流し込んで固めたものです。独特の風合いを持ちます。(注)援(からみ)は正しくは金偏。
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『村上景親公(1558~1610年)』は、能島村上氏当主の村上武吉の次男として生まれ、天正6年(1578年)の上月城の戦いに出陣し、その後は兄・元吉と行動を共にしました。景親は小早川隆景の下に属し、隆景が九州平定後の天正15年(1587年)に筑前と筑後の大名となると6000石を与えられて同格おとな役(家老)となりました。武勇と忠臣で知られる人です。
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『大島』の中心部分を記した地図の紹介です。右上部に見えるのが、『村上水軍博物館』と、その前にある宮窪港と波止場です。能島城がある能島は、芸予諸島の大島と伯方島に挟まれた場所にあります。この波止場からフェリーで能島に向かいました。
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『みやくぼ・しゅうはい』の表示があったカラーのマンホール蓋に見えました。図柄は、村上水軍の『小早船』のようです。赤い幟と采配を振るう武将と、櫓を漕ぐ姿が描かれていました。旗印は村上水軍の船印です。『丸に上紋』の上に、『角三文字』と呼ばれる印があります。
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和紙人形の武者達と、小早船の展示光景です。左下のパネルに、製作者の8名の方の名前が記されていました。全員女性のメンバーで『水軍クラブ』らしい表示もありました。推測ですが、上陸の時の様子を表した武者人形でしょうか。
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『能島城に残る謎の大穴』のレプリカ展示です。この後紹介する説明文には、『後世に伝えるために造られた実物大のレプリカ』と紹介されていました。現在もその使途については、十分には解明されていないようです。
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『能島城に残る謎の大穴』のタイトルがあった説明パネルの光景です。穴は二つあり、その直径は1メートルほどで、深さは、2メートルまで確認されているようです。写真に記された左上向きの矢印は、『二の丸方面に続く登城路』の表示です。謎の大穴と関係がありそうです。
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『村上海賊関連年表・能島・来島村上氏を中心に』のタイトルがあった、屏風のよう造られた年表の光景です。年表には、南北朝時代の1349年の『野島の海賊が、幕府使節が弓削島荘に入る時の警護を、文献上の初見として始まり、江戸時代の1611年(慶長16年)、能島・村上氏と因島村上氏が毛利氏の舟手組になったところが締め括りでした。
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ここからは、繰り返し放映されていた村上水軍のビデオ紹介です。操船に優れた村上水軍の編隊の様子を紹介したイラスト図です。中央の丸く囲われた部分に、全体の指揮官の船が位置しているようでした。
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能島・村上氏の所縁のお寺の紹介場面です。『禅興寺』は、室町時代能島城主村上氏によって開かれた曹洞宗の禅寺とされ、能島村上家の菩提寺です。時間の都合で見学は出来ませんでしたが、お寺近くに大楠があり、その下には村上海賊能島の祖村上雅房公と奥方の墓(五輪塔)があります。ネットで、その写真を見ることができました。(注)大島ではなく、伯方島に所在するようです。
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どうやら大島の『禅興寺』ではなく、伯方島のようですから、そちらの『禅興寺』を紹介します。能島村上水軍の祖である村上雅房公によって、1430年頃に創建されたようです。創建当時は臨済宗、現在は曹洞宗とされます。本堂内には雅房公夫妻の位牌が祀られています。ビデオの写真は、千手観音らしい御本尊のようですが、詳しくは分かりませんでした。
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村上水軍を偲ぶお祭りの様子でしょうか、幟の中央には『奉請・八幡大菩薩』の文字が、右には『十方諸仏菩薩』、左には『十方諸天善神』の文字が染め抜かれていました。『八幡大菩薩』は、八幡神に対して奉られた菩薩号です。奈良時代に始る神仏習合から起った称号とされ、仏教に守られる八幡神の意です。武の神様として信仰されました。
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イチオシ
瀬戸内海名物の『渦潮(うずしお)』の光景です。一番大きなものは、徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴門海峡で発生する渦潮です。大潮の際には渦の直径は最大で30メートルに達するとされ、渦の大きさは世界最大級とされます。潮汐により1日に2回、大量の海水が瀬戸内海に流れ込み、また同様に1日に2回瀬戸内海から流れ出す時に生じます。
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瀬戸内海の夕焼光景のようです。写真のタイトルがなく、朝焼の光景かも知れませんが、『夕焼』として紹介しておきます。『写真での朝焼けと夕焼の見分け方』をネット検索しましたら、静止画では『見分け方が難しい』が結論でした。色合いでは、赤色が強いのが夕焼になるようですが、これも撮影条件により変化します。色合いから判断すれば、この写真は『朝焼』に近いようです。
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この瀬戸内海の区域を通じて、国際交易があったことを示す、中国製らしい磁器の碗や皿の紹介です。割れた断面からも、陶器ではないようです。白地に青絵の磁器が主体になるようです。鳳凰図らしいものもありました。江戸時代では、景徳鎮窯系の磁器が輸入陶磁器の大部分を占めることから、江戸へ運 ばれた中国陶磁は主に長崎から入ってきたものと推定されています。
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背景に大きな吊り橋が見える、小島の光景です。『今治付近に架かる吊り橋』で検索しましたら、『来島海峡大橋』がヒットしました。今回、観光バスで渡った橋です。『しまなみ海道最大規模の橋で、世界初の3連吊橋』とも紹介されていました。
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イチオシ
2015年(平成27年)3月13日、村上水軍の村上武吉が1581年(天正9年)に雑賀衆の向井弾右衛門尉に発行した海上通行証『過所船旗(かしょせんき):天正九年三月廿八日』が、国の重要文化財に指定されました。その過所船旗と同じ意匠のようです。オリジナル品は、山口県文書館に収蔵されています。
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『小早船』に観光客を乗せたイベントのようです。その観光客が、一丁櫓の漕ぎ方を船頭さん達に教わっているようでした。『小早船は八丁櫓船とも呼ばれ、7~10本の櫓を船員が漕ぐ(静岡新聞ニュース)』とも紹介されていました。また、『推進力を出しながら、同時に方向転換まで出来る(日テレの所さんの目がテン:第1430回)、という特長もあります。
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ポルトガルの宣教師、『ルイス・フロイス』が紹介された場面です。フロイスが執筆した『日本史』に村上水軍に関して次のような記録が残っています。『我々が訪れた瀬戸内海のある島に日本最大の海賊が住んでおり、大きい城を構え多数の部下や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。他国の沿岸や海辺の人々は、彼らによる襲撃を恐れ、毎年貢物を献上していた』
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少し風変わりな石碑の紹介です。石碑の足元には、小さな石像が幾つも並んでいました。刻まれた文字は『お大師さんのおる島』で、その中の『大』と『島』が大きく刻まれて『大島』を表していました。足元の小さな石像は全部で六つ、どうやら『六地蔵』のようでした。もう一つの謎は左側に開いた穴でしたが、小さな梵鐘がありました。
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港から眺めた、左手方面の岩山光景です。石切り場のような光景でした。銘石の『大島石特級』は、愛媛県今治市の宮窪町の採掘場を中心に採掘される青みがかった石目の細かいのが特徴の石です。昨今では、採れる採掘場も少なくなっていて、大変希少価値の高い石とされます。その採石場のようでした。
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少しズームアップした、石切場らしい光景です。大島石のランクは、品質によって大きく三種類に分けられます。最上級が特級、以下、一等、二等と続きます。伊予大島から産出する白系花崗岩で、庵治石に並ぶ瀬戸内の高級墓石材として、全国に広く知られているようです。主に墓石材として使用されていますが、記念碑、モニュメント、建築材などとしても幅広く使用されています。
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更にズームアップした、石切場らしい箇所の光景です。『御影石』は、岩石としての分類では『花崗岩』で、『御影石』の呼び名は、神戸市東灘区の『旧兵庫県武庫郡御影町』の地名に因みます。そこに『澤之井』という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが『御影』という名前の起源とされています。
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宮窪港の光景です。もう暫くしましたら、能島城跡がある能島に向かって出航です。瀬戸内しまなみ海道振興協議会の船便案内では『宮窪港』と表記されていますが、正式名は『宮窪漁港』のようです。今治市が管理者の港です。
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