南国・土佐山田・香南旅行記(ブログ) 一覧に戻る
長宗我部家の第21代当主となった元親は、父・国親の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、土佐中央部を手中に収めました。また、本山氏・安芸氏・津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575年)、念願の土佐統一を果たしました。

2020暮、四国続日本百名城巡り(13/22):12月5日(7):岡豊城(2):地鎮遺構、建物礎石

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2020/12/04 - 2020/12/06

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

長宗我部家の第21代当主となった元親は、父・国親の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、土佐中央部を手中に収めました。また、本山氏・安芸氏・津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575年)、念願の土佐統一を果たしました。

  • 先に紹介した「細石(さざれいし)』と同様な、巨石の紹介です。自然石を利用したものかも知れませんが、出入口当たりで役割を持っていた岩のようでした。地中に埋もれた部分が大きいような巨石でした。

    先に紹介した「細石(さざれいし)』と同様な、巨石の紹介です。自然石を利用したものかも知れませんが、出入口当たりで役割を持っていた岩のようでした。地中に埋もれた部分が大きいような巨石でした。

  • 右下向きに矢印があった、『三ノ段』の道案内標石の光景です。『三ノ段』については少し紹介しましたが、その続きは、遺跡全体の発掘調査の紹介です。県史跡整備に先立つ確認調査は、昭和60年(1985年)から平成元年(1989年)に第1~5次発掘調査(国庫補助)が、平成2年(1990年)に第6次発掘調査が高知県教育委員会により実施されました。

    右下向きに矢印があった、『三ノ段』の道案内標石の光景です。『三ノ段』については少し紹介しましたが、その続きは、遺跡全体の発掘調査の紹介です。県史跡整備に先立つ確認調査は、昭和60年(1985年)から平成元年(1989年)に第1~5次発掘調査(国庫補助)が、平成2年(1990年)に第6次発掘調査が高知県教育委員会により実施されました。

  • 地面から顔を出していた、礎石らしい遺構の光景です。これらの遺構は、発掘調査の成果に基づき、城跡の現状を変更せずに伐採や植栽を行いながら、遺構には盛土をし、出土状態が復元されました。岡豊城の築城年代は不明ですが、15世紀後半から、落城した永正5~6年(1508~1509年)の時期(長宗我部元秀の頃)を含め、大高坂城に移転する天正16年(1588年)頃まで存続したとされます。

    地面から顔を出していた、礎石らしい遺構の光景です。これらの遺構は、発掘調査の成果に基づき、城跡の現状を変更せずに伐採や植栽を行いながら、遺構には盛土をし、出土状態が復元されました。岡豊城の築城年代は不明ですが、15世紀後半から、落城した永正5~6年(1508~1509年)の時期(長宗我部元秀の頃)を含め、大高坂城に移転する天正16年(1588年)頃まで存続したとされます。

  • 本丸に相当する『詰』と三ノ段の間の石段です。発掘調査の紹介に戻ります。発掘調査は、史跡部分の詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段で行われました。詰では、石敷遺構や礎石建物跡、地鎮の遺構、三ノ段では土塁・石積み、礎石建物跡、階段状の遺構などが確認されました。また、多量の土師質土器や輸入陶磁器、年号の刻された瓦などが出土しました。

    本丸に相当する『詰』と三ノ段の間の石段です。発掘調査の紹介に戻ります。発掘調査は、史跡部分の詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段で行われました。詰では、石敷遺構や礎石建物跡、地鎮の遺構、三ノ段では土塁・石積み、礎石建物跡、階段状の遺構などが確認されました。また、多量の土師質土器や輸入陶磁器、年号の刻された瓦などが出土しました。

  • 『三ノ段』の見学を終え、石段を登って『詰」のエリアに』移動しました。『岡豊山(おこうやま)歴史公園・園内マップ』のタイトルがあった観光案内図の光景です。現在位置が、『詰』の中に赤く記されていました。この地図からの目測では東西400メートル、南北200メートルほどの城郭区域の規模のようでした。

    『三ノ段』の見学を終え、石段を登って『詰」のエリアに』移動しました。『岡豊山(おこうやま)歴史公園・園内マップ』のタイトルがあった観光案内図の光景です。現在位置が、『詰』の中に赤く記されていました。この地図からの目測では東西400メートル、南北200メートルほどの城郭区域の規模のようでした。

  • 少しズームアップした、発掘調査を終えた礎石が並んだ『詰』の建物跡の光景です。『応仁の乱』は、室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西二つに分ける大乱となり、それぞれの領国にも争いが拡大しました。 明応2年(1493年)の『明応の政』と並んで戦国時代移行の原因とされます。

    イチオシ

    少しズームアップした、発掘調査を終えた礎石が並んだ『詰』の建物跡の光景です。『応仁の乱』は、室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西二つに分ける大乱となり、それぞれの領国にも争いが拡大しました。 明応2年(1493年)の『明応の政』と並んで戦国時代移行の原因とされます。

  • 発掘調査を終えた礎石が並んだ『詰』の建物跡の光景です。2018年のブログに、『詰櫓』の写真がありましたが、臨時施設だったということで、既に撤去されていました。二階建ての望楼付きの建物でした。室町時代の応仁の乱(1467~1477年)後の、永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺されて以降、細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続け、次第に戦国の世の中になりました。

    発掘調査を終えた礎石が並んだ『詰』の建物跡の光景です。2018年のブログに、『詰櫓』の写真がありましたが、臨時施設だったということで、既に撤去されていました。二階建ての望楼付きの建物でした。室町時代の応仁の乱(1467~1477年)後の、永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺されて以降、細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続け、次第に戦国の世の中になりました。

  • 『地鎮の遺構』のタイトルがあった説明パネルの光景です。6枚の陶板を使って写真入りで紹介されていました。その全文を紹介します。『12枚の土師質土器が土坑(穴)に入れられており、その中に91枚の渡来銭が納められていました。これらの土師質土器や渡来銭は、築城のときに土地の神を鎮める祭に使われたものと考えられます』、と紹介されていました。

    『地鎮の遺構』のタイトルがあった説明パネルの光景です。6枚の陶板を使って写真入りで紹介されていました。その全文を紹介します。『12枚の土師質土器が土坑(穴)に入れられており、その中に91枚の渡来銭が納められていました。これらの土師質土器や渡来銭は、築城のときに土地の神を鎮める祭に使われたものと考えられます』、と紹介されていました。

  • 『詰・礎石建物跡』のタイトルがあった案内パネルの紹介です。『礎石建物跡は詰の西南部で確認されました。その南端は40~60㎝の割石を幅1~1.5m、長さ16mにわたって敷いた敷石の遺構で、建物の基礎として造られ、南側に土壁などの強固な外壁をもっていたと考えられます。また、その北側には石敷遺構につながる東西方向の大きな建物跡の礎石が続いています』と紹介されていました。

    『詰・礎石建物跡』のタイトルがあった案内パネルの紹介です。『礎石建物跡は詰の西南部で確認されました。その南端は40~60㎝の割石を幅1~1.5m、長さ16mにわたって敷いた敷石の遺構で、建物の基礎として造られ、南側に土壁などの強固な外壁をもっていたと考えられます。また、その北側には石敷遺構につながる東西方向の大きな建物跡の礎石が続いています』と紹介されていました。

  • 現地ガイドさんは、『お城とは全く関係がない社です』と紹介されていましたが、『詰』の端にありましたので紹介します。その周りで赤い『サザンカ(山茶花)』が咲いていました。『詰・礎石建物跡』の紹介の続きです。『建物跡は5間×4間(10.4m×7.2m)と1間×1間(1.4m×2.0m)の2棟です。詰には、近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があった』、と推定されています。

    現地ガイドさんは、『お城とは全く関係がない社です』と紹介されていましたが、『詰』の端にありましたので紹介します。その周りで赤い『サザンカ(山茶花)』が咲いていました。『詰・礎石建物跡』の紹介の続きです。『建物跡は5間×4間(10.4m×7.2m)と1間×1間(1.4m×2.0m)の2棟です。詰には、近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があった』、と推定されています。

  • 『三ノ段・礎石建物跡』のタイトルの案内パネルの紹介です。『三ノ段では、西部の西半分に礎石建物跡が確認されました。この建物は三ノ段の幅いっぱいに建てられており、土壁などを用いた強固な建物であったと想像されます。建物は南北が9間(16.8m)、中央部に南北を分離する間仕切りの礎石とみられる石列があり、東西は北半分が4間(8.7m)、南半分が3間(6.2m)と二つに分かれています』

    『三ノ段・礎石建物跡』のタイトルの案内パネルの紹介です。『三ノ段では、西部の西半分に礎石建物跡が確認されました。この建物は三ノ段の幅いっぱいに建てられており、土壁などを用いた強固な建物であったと想像されます。建物は南北が9間(16.8m)、中央部に南北を分離する間仕切りの礎石とみられる石列があり、東西は北半分が4間(8.7m)、南半分が3間(6.2m)と二つに分かれています』

  • 『三ノ段・礎石建物跡』の案内パネル紹介の続きです。『面積は約124平方メートルと大きく、詰に接しています。礎石も50~60cmと大きく、半間おきに置かれています。また、北半分には礎石間に列石がみられます。北半分は4間×4間、南半分は5間×3間に分かれていることから、同じ棟でも構造に違いがあったようです』、写真は『三ノ段』の礎石光景です

    『三ノ段・礎石建物跡』の案内パネル紹介の続きです。『面積は約124平方メートルと大きく、詰に接しています。礎石も50~60cmと大きく、半間おきに置かれています。また、北半分には礎石間に列石がみられます。北半分は4間×4間、南半分は5間×3間に分かれていることから、同じ棟でも構造に違いがあったようです』、写真は『三ノ段』の礎石光景です

  • 『三ノ段・礎石建物跡』の紹介が続きます。『建物跡と土塁・石積みの間は南が低くなった溝となっており、排水用と考えられます。建物跡からは鉄鍋片や石臼など城の生活を物語る遺物が出土していますが、瓦片はほとんど出土していません』<br />写真は、曲輪を縁取るように連なる、『三ノ段』の石積光景です。特に北半分は良好な状態で残っています。地面にも礎石跡が並んでいました。

    イチオシ

    『三ノ段・礎石建物跡』の紹介が続きます。『建物跡と土塁・石積みの間は南が低くなった溝となっており、排水用と考えられます。建物跡からは鉄鍋片や石臼など城の生活を物語る遺物が出土していますが、瓦片はほとんど出土していません』
    写真は、曲輪を縁取るように連なる、『三ノ段』の石積光景です。特に北半分は良好な状態で残っています。地面にも礎石跡が並んでいました。

  • 写真は、『三ノ段』の曲輪を縁取るように積まれていた石積のズームアップ光景です。あまり大きな石は見当たらない『野面積』でした。その野面積の石垣に沿うように列石が並んでいました。『建物跡と土塁・石積みの間は南が低くなった溝となっており、排水用と考えられます』と紹介されていましたから、『溝』の縁石のようです。

    写真は、『三ノ段』の曲輪を縁取るように積まれていた石積のズームアップ光景です。あまり大きな石は見当たらない『野面積』でした。その野面積の石垣に沿うように列石が並んでいました。『建物跡と土塁・石積みの間は南が低くなった溝となっており、排水用と考えられます』と紹介されていましたから、『溝』の縁石のようです。

  • 土塁の内側(城内側)に積まれた石垣のコーナー部分の光景です。角の部分は、やや大きめの自然石を使った算木積でしたが、積み直された部分のように見えましたから、オリジナルの算木積かどうかは判断が付きませんでした。この辺りの石積の高さは、目測ですが2メートル前後あったようです。

    イチオシ

    土塁の内側(城内側)に積まれた石垣のコーナー部分の光景です。角の部分は、やや大きめの自然石を使った算木積でしたが、積み直された部分のように見えましたから、オリジナルの算木積かどうかは判断が付きませんでした。この辺りの石積の高さは、目測ですが2メートル前後あったようです。

  • 横から眺めた、『三ノ段』から『詰』に登る石垣の光景です。縄張図を参照しますと、『三ノ段』と『詰』の間には、複数の通路があったようです。また、高知県立歴史民俗資料館の資料を参照しますと、『三ノ段で発掘された土塁・石積み礎石建物跡(南より撮影)』の発掘写真では、排水用と考えられる溝が、かなりはっきりと確認できました。

    横から眺めた、『三ノ段』から『詰』に登る石垣の光景です。縄張図を参照しますと、『三ノ段』と『詰』の間には、複数の通路があったようです。また、高知県立歴史民俗資料館の資料を参照しますと、『三ノ段で発掘された土塁・石積み礎石建物跡(南より撮影)』の発掘写真では、排水用と考えられる溝が、かなりはっきりと確認できました。

  • 正面真下から眺めた、『三ノ段』から『詰』に登る石垣の光景です。既に紹介した『詰』です。歴史民俗資料館の資料からの紹介です。『詰は1辺40mの三角形状をしており、建物の基礎と考えられる石敷遺構や礎石建物跡、雨水を溜めたとみられる土坑や柱穴などが確認されています。西部には土塁が残されており、築城当時は周囲に巡らされていた』、と紹介されていました。

    正面真下から眺めた、『三ノ段』から『詰』に登る石垣の光景です。既に紹介した『詰』です。歴史民俗資料館の資料からの紹介です。『詰は1辺40mの三角形状をしており、建物の基礎と考えられる石敷遺構や礎石建物跡、雨水を溜めたとみられる土坑や柱穴などが確認されています。西部には土塁が残されており、築城当時は周囲に巡らされていた』、と紹介されていました。

  • 右から『四国のみち』、『国史跡・岡豊城跡巡り・案内板』と『足元注意』の表示あ看板でした。『国史跡・岡豊城跡巡り・案内板』には、右向きの矢印で、『詰下段・二ノ段』が、左向きの矢印で『四ノ段・北部」が案内されていました。次の見学場所は『四ノ段』です。

    右から『四国のみち』、『国史跡・岡豊城跡巡り・案内板』と『足元注意』の表示あ看板でした。『国史跡・岡豊城跡巡り・案内板』には、右向きの矢印で、『詰下段・二ノ段』が、左向きの矢印で『四ノ段・北部」が案内されていました。次の見学場所は『四ノ段』です。

  • 中央下部に見える石標には、右向きの矢印で『虎口・四ノ段(しのだん)』が道案内されていました。現地ガイドさんに従って、全員揃っての移動です。『三ノ段の西部を囲むように造られた曲輪で、中央部にある虎口により二分されています。北部は方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。南部は南北約32m、東西約16mです』、と歴史民俗資料館の資料に紹介されていました。

    中央下部に見える石標には、右向きの矢印で『虎口・四ノ段(しのだん)』が道案内されていました。現地ガイドさんに従って、全員揃っての移動です。『三ノ段の西部を囲むように造られた曲輪で、中央部にある虎口により二分されています。北部は方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。南部は南北約32m、東西約16mです』、と歴史民俗資料館の資料に紹介されていました。

  • 歴史民俗資料館の資料では、『北部郭』では、『土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。南部からは土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした』、と紹介されていました。写真は、通路脇の土塁らしい光景です。土塁の側面は、笹などが綺麗に刈り込んでありました。

    歴史民俗資料館の資料では、『北部郭』では、『土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。南部からは土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした』、と紹介されていました。写真は、通路脇の土塁らしい光景です。土塁の側面は、笹などが綺麗に刈り込んでありました。

  • 『三ノ段』から『四ノ段』に向かう途中の光景が続きます。ここで、まだ見学していない曲輪について紹介しておきます。『伝厩跡曲輪(でんうまやあとくるわ)』は、詰の西南方向にある出城です。長さ約30m、幅17mの楕円形状で、周囲は急な斜面に囲まれています。北西には2本の堀切、南斜面には竪堀群があります。西方からの攻撃に対した出城です。

    『三ノ段』から『四ノ段』に向かう途中の光景が続きます。ここで、まだ見学していない曲輪について紹介しておきます。『伝厩跡曲輪(でんうまやあとくるわ)』は、詰の西南方向にある出城です。長さ約30m、幅17mの楕円形状で、周囲は急な斜面に囲まれています。北西には2本の堀切、南斜面には竪堀群があります。西方からの攻撃に対した出城です。

  • 次は、『伝家老屋敷曲輪(でんかろうやしきくるわ)』の紹介です。『詰の南に位置しています。この曲輪自体の発掘調査は行われていませんが、国分川と接した曲輪の出入口部にあたる場所の発掘調査の結果、堀切、竪堀、土塁、土橋、柱穴等の遺構が確認され、15世紀後半~16世紀後半にわたって使用された土師質土器、土鍋、擂鉢、輸入陶磁器などが出土しています』

    次は、『伝家老屋敷曲輪(でんかろうやしきくるわ)』の紹介です。『詰の南に位置しています。この曲輪自体の発掘調査は行われていませんが、国分川と接した曲輪の出入口部にあたる場所の発掘調査の結果、堀切、竪堀、土塁、土橋、柱穴等の遺構が確認され、15世紀後半~16世紀後半にわたって使用された土師質土器、土鍋、擂鉢、輸入陶磁器などが出土しています』

  • 『伝家老屋敷曲輪』の紹介の続きです。『主郭部への登城口として国分川から発掘調査された地点を通り伝家老屋敷曲輪を経て詰に至るルートを想定することができ、また踏査による縄張り調査では、この曲輪は広い平坦面をもち、周囲は堀切、横堀、竪堀がめぐらされるなど防御性を強く意識して造られ、城郭全体の中でも重要な曲輪であることがわかりました』(以上、歴史民俗資料館の資料参照)

    『伝家老屋敷曲輪』の紹介の続きです。『主郭部への登城口として国分川から発掘調査された地点を通り伝家老屋敷曲輪を経て詰に至るルートを想定することができ、また踏査による縄張り調査では、この曲輪は広い平坦面をもち、周囲は堀切、横堀、竪堀がめぐらされるなど防御性を強く意識して造られ、城郭全体の中でも重要な曲輪であることがわかりました』(以上、歴史民俗資料館の資料参照)

  • 新しく積み直したらしい部分に、『落し積み』の積み方が混じった石垣光景です。古い石材にも『落し積み』が見受けられました。『落し積み』は、これまで目にした資料では、江戸時代後期に始まったと解説されていました。

    新しく積み直したらしい部分に、『落し積み』の積み方が混じった石垣光景です。古い石材にも『落し積み』が見受けられました。『落し積み』は、これまで目にした資料では、江戸時代後期に始まったと解説されていました。

  • 蔦が這った、古い石垣のようです。この辺りの石積は、『野面積み』でした。見た目には武骨に見える『野面積み』ですが、水捌けがよく、強度も十分な石積みです。石材の加工程度によって、野面積み、打ち込み接ぎ、切り込み接ぎの三つに分けられます。『野面積み』は、技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代からです。

    蔦が這った、古い石垣のようです。この辺りの石積は、『野面積み』でした。見た目には武骨に見える『野面積み』ですが、水捌けがよく、強度も十分な石積みです。石材の加工程度によって、野面積み、打ち込み接ぎ、切り込み接ぎの三つに分けられます。『野面積み』は、技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代からです。

  • 『四国の道・高知県」の表示があった道案内標識です。『岡豊城跡(詰)』の表示が左向きに、手前向きに『国分寺』の表示がありました。今回のお城巡りのツアーでは、『国分寺』は見学の対象になっていませんでした。また、『詰』の見学は既に終えました。

    『四国の道・高知県」の表示があった道案内標識です。『岡豊城跡(詰)』の表示が左向きに、手前向きに『国分寺』の表示がありました。今回のお城巡りのツアーでは、『国分寺』は見学の対象になっていませんでした。また、『詰』の見学は既に終えました。

  • 写真は、『三ノ段』の見学を終えて、『四ノ段』に向かう途中の光景です。道幅が広く、整備されていましたので、後世に手が加えられた道のようでした。左手が山手、右が崖になる、山腹を通る道のようです。

    写真は、『三ノ段』の見学を終えて、『四ノ段』に向かう途中の光景です。道幅が広く、整備されていましたので、後世に手が加えられた道のようでした。左手が山手、右が崖になる、山腹を通る道のようです。

  • 山側の斜面の裾野に見えていた、野面積の石垣の光景です。石垣の下部が枯葉で埋もれていましたから、高さは分かりませんでしたが、推定では2メートル前後はありそうでした。斜面の土留めのほかに、敵方を容易に斜面に取り付かせない効果がありそうでした。

    山側の斜面の裾野に見えていた、野面積の石垣の光景です。石垣の下部が枯葉で埋もれていましたから、高さは分かりませんでしたが、推定では2メートル前後はありそうでした。斜面の土留めのほかに、敵方を容易に斜面に取り付かせない効果がありそうでした。

  • 振り返って眺めた、先程の石垣光景です。石垣は、途中から見えなくなっていました。こちら側は道路がカーブし、虎口がある場所が近付いてきたようです。岡豊城の虎口は、高知県では最初に造られた虎口とされます。

    振り返って眺めた、先程の石垣光景です。石垣は、途中から見えなくなっていました。こちら側は道路がカーブし、虎口がある場所が近付いてきたようです。岡豊城の虎口は、高知県では最初に造られた虎口とされます。

  • 左手に見えているのが、今向かっている『四ノ段』の広場になるようです。先着した人達の姿が見えていました。縄張図によれば、『四ノ段』入口には、土塁を東に曲げた虎口が造られています。

    左手に見えているのが、今向かっている『四ノ段』の広場になるようです。先着した人達の姿が見えていました。縄張図によれば、『四ノ段』入口には、土塁を東に曲げた虎口が造られています。

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