2020/11/14 - 2020/11/14
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+mo2さん
ポーラ美術館の絵画コレクションは、19世紀の印象派絵画から20世紀の抽象絵画に至るまで、質の高い作品によって美術の展開を辿ることができます。
ポーラ美術館では、そのコレクションを入れ替えながら常設展示しており、写真撮影が可能となっています。第2弾は、先日、訪問時コレクション展で「シュルレアリスムとエコール・ド・パリ 近代化に抗って」開催されていたこともあり、ポスト印象派、新印象派などの作品、そして1920年代のパリに集まった外国人画家たちのグループ「エコール・ド・パリ」の画家たちの作品を紹介します。
※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。また、写真は、展示が替わる都度、追加アップしていきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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まずは、ファン・ゴッホの作品から。ファン・ゴッホは、フランス印象派や日本の浮世絵の影響を受けながら、あざやかな色彩と力強い筆致によって風景や人物、静物などを描きました。後のフィーヴィスムや表現主義などの画家たちにも大きな影響を与えています。
フィンセント・ファン・ゴッホ 「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」1888年
1888年2月、ファン・ゴッホは南仏プロヴァンスのローヌ河畔のアルルに到着しました。アルルはローマ時代からの歴史ある町で、市街には遺跡が多く残されています。ファン・ゴッホは、明るい陽光に満ちた南仏を、日本のあざやかな浮世絵の世界に重ね合わせ、憧れの日本のような場所と考えていました。彼は、ラマルティーヌ広場に面した「黄色い家」で、パリからやって来たゴーガンと約2ヵ月間生活をともにしますが、耳切り事件によって二人の共同生活は幕を閉じます。アルルに滞在した約15ヵ月間で、ゴッホは約200点の油彩画を制作しました。「ここの自然は並はずれて美しい。いたるところ完璧だ。空の穹窿と見事なブルー、太陽の輝きは硫黄が燃える青白い炎の色だ」。本作品は、アルル到着後まもなく制作されました。ヴィゲラ運河のグレーズ橋はアルルの南に位置していました。ゴッホは橋と土手の黄色、空と運河の水面の青色に加え、橋上の人物や奥に広がる低木材、ボート、洗濯女たち、水面の煌きなどにアクセントとして赤を用いています。 -
フィンセント・ファン・ゴッホ「草むら」1889年
ファン・ゴッホは、アルルでのゴーガンとの共同生活と耳切り事件ののち、サン=レミのサン=ポール精神療養院に入院しました。彼は何度か発作を起こしましたが、病気が小康状態のときには制作を行いました。彼は病室の窓から見える風景や庭の草花や木々、病院近くのオリーヴ園、糸杉のある風景などを描いています。1889年4月、彼はこの病院の庭で見たと思われる草花を主題にし、数点の作品を制作しています。
ゴッホはそれら数点の作品で、空も地平線もない、草花の広がる光景のみを描いていますが、この《草むら》は、そのなかでもとりわけ草の茂みを大きくクローズアップしてとらえている。彼は大地に根を張るこの草むらを、あざやかな緑、黄緑を用い、力強い線条のタッチで描いています。自然の風景の細部を見つめる観察態度には日本美術の影響も指摘されていますが、きわめて地面に近い視点から描かれた本作品は、奥行感が欠如し、平面的な画面になっています。 -
フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」1890年
本作品は、ゴッホ晩年の1890年6月16日または17日に、ガシェ医師の家でモティーフを見つけて描いた数点の野花の静物画のうちの1点。
テーブルや花瓶を区切る輪郭線は、日本の浮世絵版画の影響を感じさせます。外側に広がるアザミの鋸歯状の葉や麦穂、花瓶の同心円状のタッチや背景にみられる垂直と水平方向に交差したタッチは、ゴッホの線と色彩、画肌の効果の追究の成果を示しています。 -
ポール・ゴーガン「ポン=タヴェンの木陰の母と子」1886年
本作品は、1886年の最初のポン=タヴェン滞在の際に描かれました。ポン=タヴェンを流れるアヴェン川の周辺には、ポール・セリュジエが1888年に≪護符≫(オルセー美術館蔵)を描いた「愛の森」をはじめとする森がありました。この≪ポン=タヴェンの木陰の母と子≫では、左の上方へと続く森の小道の風景と、右の森のなかに広がる低地の風景で大胆に構成されており、日本の浮世絵の影響がうかがわれます。また、森の小道には、ブルターニュ特有の「コアフ」と呼ばれる被り物を着けた母親と子どもの姿が描き込まれています。画面に動感をもたらしている、小道、木々の葉むら、低地の草むらにみられるさまざまな方向の筆触には、印象派の強い影響が表われています。 -
ポール・ゴーガン「白いテーブルクロス」1886年
ゴーガンが、はじめてブルターニュの小さな村ポン=タヴェンを訪れたのは1886年7月です。アヴェン河口のポン=タヴェンは、かつては14基の水車と15軒の家しかない静かな村だったそうです。1860年代よりアメリカ人の画家たちが集まっていましたが、素朴な地方として注目され、訪れる人々が増えていきました。ゴーガンは、家賃、食事込みで月60フランという良心的なグロアネクの下宿屋で絵画制作に打ち込みました。彼の周りには若い芸術家たちが集まり、この地は芸術家村となりました。芸術家たちは8月15日の聖母マリアの被昇天祭の祝祭日の慣習として、グロアネク夫人に作品を贈ることにしていました。白いテーブルクロスの上のワインデカンタ、ブルターニュの伝統的な水差し、さくらんぼ入りの器を描いた本作品も、ゴーガンがこの慣習に習い、宿屋のために制作し贈ったものです。1892-1893年にポン=タヴェンに滞在したスイス人画家クーノ・アミエは、グロアネクの宿屋でこの作品を見た感想を残しています。「白い布の上に置かれた鉢のなかのさくらんぼ。何の気取りもない全き単純さ、それは不思議に透き通っており、そこには魔法のような輝きがあった」。 -
ポール・ゴーガン「小屋の前の犬、タヒチ」1892年
ゴーガンは、1891年に初めてタヒチへ渡りました。それは画家が暮らす文明社会ではすでに失われてしまったかつての人間の営みと精神を、タヒチで見出す心の旅路でもありました。強く憧れていた南国の地で、画家は鮮やかな色彩を呈する風景、島特有のさまざまな生活の場面、人間、動物たちの姿を捉えていきました。本作品では、植物だけを材料に組み立てられた伝統的な小屋が、柔らかい質感と目の醒めるような橙色で表現され、その隣には、村人たちが大地に腰掛けておしゃべりする光景が添えられています。ゴーガン特有の緑を主調にして斜めに平行に置かれた筆致が画面の大部分を覆っていますが、その傾いだ色とりどりの筆致は、はるかなる山裾から集落までを駆け抜ける風にそよぐ草木のざわめきを表わし、この土地固有の空気の流れと輝きを伝えています。
前景には、一匹の黒い犬が頭を垂れ、大地に繁茂する植物とともに、集落の風景に比べてより写実的に描写されています。そこには新天地の大地を踏みしめ、タヒチの人々から距離を置きつつ観察するゴーガンの姿を投影することができるかもしれません。ゴーガンは、この第一次タヒチ滞在ののち、いったんは帰国するものの1895年に再び渡航し、1901年にタヒチよりもさらに故国から離れたマルキーズ諸島のドミニク島(現ヒヴァ=オア島)に到着しますが、1903年、彼の地で生涯にわたった長い旅路を終えました。 -
ポール・ゴーガン「異国のエヴァ」1890-94年
ゴーガンは、幼少期をペルーで過ごし、船員生活を経験し、カリブ海に浮かぶ小アンティル諸島のマルティニク島にしばらく滞在しています。アルルでのゴッホとの悲劇的な共同生活の後、ゴーガンは西欧の近代化の波のおよばない、文明化されていない世界に憧れを抱き、南国に向かう決意を固めます。本作品は、おそらくタヒチに渡る1891年以前に、1889年のパリ万国博覧会に展示されていた東洋や中東の美術に影響を受けてゴーガンが創り上げた創造の南国の風景です。ゴーガンは、エデンの園を自分がこれから向かう南国として表現し、エヴァの容貌を母アリーヌの写真にもとづいて描いています。 -
ポール・セザンヌ「プロヴァンスの風景」1879-1882年
本作品では、セザンヌの故郷、自然豊かな南仏プロヴァンスの陽光に満ちた青い空、山の斜面に建つ家、緑の木々などが、あざやかな色彩で描かれています。画面中央の家には、プロヴァンスで「マス」と呼ばれる、モルタル塗りの壁と赤く平らな瓦葺き屋根といったこの地域の農家に典型的な建築様式がみられます。また、この辺りの家は南に建てられ、家の周りには、強風を防ぐための木々が植えられています。セザンヌは、緑の木々を、画面全体の統一的な構成をめざした長方形のタッチの積み重ねによって描いています。 -
ポール・セザンヌ「砂糖壺、梨とテーブルクロス」1893-1894年
静物画は西洋絵画の伝統的な画題であり、画家にとってもいかに迫真的な描写ができるのかという自らの技術を示す格好の画題でもありました。宗教画が衰退した17世紀オランダでは、風景画や風俗画と並んで主要な画題でしたが、18世紀以降、歴史画や肖像画に比べて、静物画の絵画におけるジャンルの地位は低くみなされていました。この地位を引き上げるのに大きな役割を果たし、革新をもたらしたのがセザンヌです。セザンヌは絵画的な統一性をつくりだすために、多視点からの空間表現やカンヴァスの平面性を強調して3次元の空間を2次元に置き換えるなど、あえて自然主義的な空間表現を放棄しようとしました。このような作品は、20世紀に入ると若い画家たちによりその先進性が認められ、キュビスムにおいても静物画は重要かつ実験的な画題となりました。
本作品でもセザンヌがもたらした革新がみられます。ここにはそれまでの絵画にみられるような確固とした土台の上に積み上げられ、固定された構図はありません。左端の山のように盛り上がる布によって斜面が強調された机の上で、果物は皿から転がり落ちています。画面中央では、存在感を放つ砂糖壺が傾斜した机の支点を押さえ込むことで均衡をはかっています。果物は画面からこぼれ落ちそうな危うさを残しながら、重力に従うのではなく計算された構図によって、かろうじてその場所にとどまっています。本作品は、絵画が目に見える世界の忠実な再現ではなく、人工的な構築物であることを思い起こさせます。 -
ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」1890年頃
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ポール・セザンヌ「4人の水浴の女たち」1877-1878年
セザンヌが亡くなった翌年の1907年7月には、ベルネーム=ジュヌ画廊で大規模な水彩画の展覧会が、続いて10月にはサロン・ドートンヌで晩年の大水浴図を含む56点の油彩画を展示した大回顧展が開かれました。セザンヌは多くの人々に評価される前にこの世を去りましたが、彼の絵画における彫刻的なアプローチが、アンリ・マティスやアンドレ・ドランら若い画家たちから高く評価されるとともに、彼らの制作に重要な霊感を与え、彼らはすぐさま同じ画題に取り組んでいます。注目すべきは、その彼らがセザンヌの水浴図を所有していたことです。マティスは「3人の水浴の女たち」(1876-1877年、パリ、プティ・パレ美術館蔵)を所有し、ドランは「5人の水浴の女たち」(1885年頃、バーゼル美術館蔵)の複製画を所有していた。ピカソもクリシー大通りのアトリエで撮影したブラックの肖像写真から、セザンヌの水浴図のリトグラフを所有していたことが分かっています。
本作品は、1957年にピカソが購入した「5人の水浴の女たち」(1877-1878年、パリ、ピカソ美術館蔵)を含む、4、5人の裸婦をピラミッド型に配置した5点の水浴図のうちの1点です。斜めに平行に置かれた構築的な筆致が画面の大部分を覆ってはいますが、規則性が幾分ゆるやかなため、彼の構築的構図へといたる道のりの途上を思わせます。内側に傾いた樹木のアーチが女性たちの傾いたポーズに反復され、構築的な筆致とともに画面に無数の呼応する要素が緻密に組み合わされており、印象派の絵画にみられる偶然性や瞬間性とは大きく隔たった画面構成となっています。この反復はピカソの「3人の女」(1907-1908年、サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館蔵)をはじめとする裸婦像においては、半円形と三角形の反復による構成に変換され、体系的に取り入れられています。 -
ポール・セザンヌ「アルルカン」1888-1890年
セザンヌは1880年代から1890年代初頭、風景や静物の主題を探究した後、「赤いチョッキの少年」や「カード遊びをする人々」、「アルルカン」といった人物画の連作を制作します。彼は空間における人体の形態表現に取り組んました。
本作品は「マルディ・グラ」(1888年、プーシキン美術館)を含む「アルルカン」を描いた4点のうちの1点です。謝肉祭の最終日でカーニヴァルが行なわれる謝肉の火曜日を意味するこの「マルディ・グラ」には、16世紀にイタリアからフランスに伝わった即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物アルルカンとピエロに扮した二人の若者が描かれています。アルルカンに扮しているのはセザンヌの息子ポールであり、ピエロに扮しているのは靴屋の息子でポールの友人ルイ・ギョームです。後年ポールは、1888年にパリのヴァル=ド=グラース通りのアトリエでモデルを務めたと語っています。
本作品では、アルルカンに扮したポールの姿だけが描かれています。灰色を基調とし、緑、青、紫、褐色が混ぜられた壁面と赤味がかった床は、赤と黒の菱形模様の衣装を着て帽子をかぶり、左手にバトンを持つ彼の姿を際立たせています。「マルディ・グラ」では二人の顔は描き込まれていますが、本作品ではポールの表情は、まるで仮面のように単純化されています。彼は右足を一歩前に踏み出していますが、この頭部と足が画面からはみ出すほどに前進する動きは、静的な画面全体の構成を乱しています。
「マルディ・グラ」とアルルカンのみを描いた3点が、どこで、どれくらいの間隔を置いて描かれたのかは不明です。美術史家ジョン・リウォルドは本作品を、「マルディ・グラ」の完成前に描かれたか、あるいはアルルカンだけを描いたほかの2点よりも雰囲気にかたさが感じられないことと軽やかに描かれていることから、数年の間隔を置いて制作された最終作である可能性も指摘しています。 -
ジョルジュ・スーラ「グランカンの干潮」1885年
大きさの異なる3隻の帆船が、画面の中にさまざまな角度で配されています。中央の遠景の船は正面観で、右側のものは側面観で、そして潮の満干で浜辺に取り残された左側のもっとも大きいものは斜めの軸を強く意識しながら描かれています。こうした画面の構成は、安定した調和をもたらす黄金分割に基づいており、作品全体を覆う綿密な点描の効果と相まって、英仏海峡を臨むノルマンディー地方の小村であるグランカンの情景に、厳格な性格を与えています。 著名な化学者であり、色彩の研究にも力を尽くしたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839年)をはじめとする著作を研究したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ美術館)が話題を呼んだのは、最後の印象派展となった第8回印象派展でした。光学、そして色彩理論による科学的な視座から印象派の技法を再検討し、乗り越えようとしたスーラの作品を、美術批評家フェリックス・フェネオンが「新印象派」と命名したのは、同年に開催された第2回アンデパンダン展でのことです。この展覧会に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》とともに出品されたのが本作品であり、額縁の装飾も含めた絵画制作を実践していたスーラによる、点描の縁取りが施されています。 -
ポール・シニャック「オーセールの橋」1902年
パリから170km、フランス東部ブルゴーニュのヨンヌ県の県庁所在地オーセールの風景。おそらくはヨンヌ川の小さな中州から見た町の様子がとらえられています。どっしりとした石造りのポール・ベール橋の向こうには、サン=テティエンヌ大聖堂とサン=ジェルマン大聖堂が見えます。1902年に、シニャックはオーセールに15日間滞在した。1900年にに自動車の運転免許を取得したシニャックは、フランス中部を車で旅行しました。パリからリヨンに向かって国道6号線を走行中、オーセールに立ち寄りました。彼はその後、グルノーブル、ニースに向かい、1902-1903年の冬をサン=トロペで過ごし、スケッチをもとに作品を制作しました。シニャックは、オーセールを描いた油彩画を、この作品を含めて3点残しています。 -
アンリ・エドモン・クロス「森の風景」1906-1907年
紫、青、緑などの寒色を主調に描かれたオリーブの低木材の風景。木々の下生えの草を食む山羊のような動物は、牧歌的な雰囲気を与えています。ノール県ドゥエで生まれ、リール市立美術学校で学んだクロスは、1883年に地中海沿岸を旅し、南の明るい色彩の世界に魅せられました。地中海に面したラヴァンドゥ近くのサン=クレールに移り住んだ1891年以降、南仏の風景と光が彼の創造源となりました。この地で彼は、強烈な色彩を用いて光の強さを表わす画風を探求し、あざやかでありながら牧歌的な叙情性を湛えた風景画を描きました。 -
アンリ・ウジェーヌ・ル・シダネル「三本のバラ」1925年
1901年にル・シダネルは、ロダンにすすめられて彼が学生時代を過ごしたボーヴェを訪れたとき、そこから20キロメートルほど離れたジェルブロワという小さな町を見出しました。バラが咲き誇るこの地に画家は一目で魅了されました。 町はずれの傾斜地に建つ家と広大な土地を入手し、画家は自らの手でデザインしたアトリエ、テラス、つる棚を建て、庭園を造り、夏のあいだ避暑を愉しむための緑の理想郷を創り上げました。ひなびた中世の建築をおもわせる、植物で形づくられたアーチ窓の向こうに、明るい眺望が広がるテラスが本作品の舞台です。人の気配を漂わせる無人の庭園は、ル・シダネルが好んだテーマでした。世紀末のパリで象徴派のグループに接し、画家は象徴派の小説家ロデンバック(1855-1898)の『死都ブリュージュ』(1892年)の舞台となったベルギーの古都を訪れています。以来、ヨーロッパ中の都市を巡りましたが、さまざまな古都の面影がジェルブロワの庭園に投影されているのでしょう。 このテラスでは、点描法で描かれた樹木が初夏の日差しにきらめき、地面にこぼれ落ちた花びらが木漏れ陽を受けて光を放っています。苔むした石造りのテーブルに捧げられたバラは、毎年朽ちては復活する生命の神秘を示しているようです。ジェルブロワでは、ル・シダネルが創始したバラ祭が現在も続いているそうです。 -
オディロン・ルドン「アネモネ」1908-1916年頃
ルドンは、生後すぐに預けられた叔父が住むボルドー北西の村ペイルルバードで孤独な少年時代を過ごしました。15歳のとき、ドラクロワの熱心な信奉者スタニスラス・ゴランにデッサンを学び、ロマン主義の芸術観に触れました。1860年頃には植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、生命の神秘、哲学、文学に深い興味をもつようになります。画家を目指し1864年にパリに行き、アカデミー画家ジャン=レオン・ジェロームのアトリエに入りますが数ヵ月で辞め、絶望して故郷に戻ります。この頃、版画家ロドルフ・ブレスダンと出会い、版画ばかりでなく現実から生まれる夢想の世界を描くことを学びます。彼は死や奇怪な幻想を主題に白黒の版画作品を制作し、象徴派の詩人や文学者と交友しました。また、1890年頃から油彩やパステルを用いて幻想的な花や人物、神話的世界をあざやかな色彩で描きました。 -
オディロン・ルドン「日本風の花瓶」1908年
1900年以降、ルドンは花瓶に生けた花を繰り返し描いています。しかし、ルドンの描く花はどれも現実のものとはかけ離れています。彼にとって現実の花は、華麗な色彩の幻想を生み出すきっかけに過ぎませんでした。花々の色彩は空間へと変貌していきます。画面右にみられるあざやかな色彩の2羽の蝶は、自由に浮遊する花びらのようにもみえます。花瓶が置かれたテーブルは色面によってわずかに存在が暗示されているにすぎません。 ルドンはさまざまな花瓶を装飾的に描いていますが、本作品にみられる日本風の花瓶は同時期に制作されたパステル画にも見受けられます。この花瓶は当時、多く出回っていたもののひとつと推測されます。本作品に描かれた面の裏面には刀を構える若武者が描かれており、花瓶の図柄はおそらく「鬼と若武者」を題材にした日本の能、または歌舞伎の一場面であると考えられます。 -
オディロン・ルドン「大きな帆船(寓意的風景)」1907年
波をたてながら海原を進む2艘の船。青空を覆う厚い雲、さまざまな色彩で描かれた断崖は、幻想的な雰囲気を醸し出しています。ルドンは晩年に帆船の主題を描いています。本作品にみられる帆船には、光輪をいただく人物たちも乗っています。これらの人物たちが誰であるかは定かではないが、聖書外典の『黄金伝説』に含まれるます、プロヴァンスの伝説との関係が指摘されます。それは、キリスト昇天の後、マグダラのマリア、姉のマルタ、二人の兄弟のラザロが、天使の導きでマルセイユに到着し、この地の異教徒たちにマリアが布教したというものです。 -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「ムーラン・ド・ラ・ガレットにて」1891年頃
トゥールーズ=ロートレックはフランス南西部アルビの名門貴族の息子として生まれました。1878年と79年に足を骨折し、下半身の成長が止まってしまいます。画家を志したロートレックは1882年、肖像画家レオン・ボナのアトリエ、続いて歴史画家フェルナン・コルモンのアトリエに入り、修業に励みました。1884年頃からロートレックはバーやキャバレー、ダンス・ホール、サーカスなどが建ち並ぶ歓楽街モンマルトルの一角に移り住み、夜の風俗、娼婦の生活を描くようになります。はじめは印象派の影響を受けた作品を制作していましたが、コルモンのアトリエで出会ったゴッホに教えられた浮世絵の大胆な構図、輪郭線と平面による表現を取り入れ、独自の画風を打ち立てました。1886年に発表したポスター《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》は、ロートレックの名を不動のものにし、31点のポスターを制作しています。 本作品は、ロートレックも通っていた当時人気のダンス・ホール、ムーラン・ド・ラ・ガレットの情景を描いたものです。彼はここで、色彩の線条を重ねた彼独特の手法を用いています。画面中央にみられる女性の姿は、《毛皮の娘、ジャンヌ・フォンテーヌ嬢》(1891年、個人蔵)と共通しています。男たちの話の輪に入らず、体をかたくして立ち尽くす彼女の姿は、少々不自然な印象を受けますが、これはおそらく本作品がムーラン・ド・ラ・ガレットで描かれたものでなく、習作を参考にしてアトリエで制作されたことを示しています。彼女の周囲にいる男性の容貌の特徴は、的確な線によって見事にとらえられています。この鋭い人間観察と描写力は、ロートレックが優れた人物画家であったことの明確な証となるでしょう。 -
キスリング「風景、パリ-ニース間の汽車」1926年
パリとニースの間の、おそらくは南仏の緑の崖の横を白い煙をあげて走り抜ける汽車。南仏コート・ダジュールのニースは、世界でも有数の保養地、観光地です。18世紀の後半にイギリス人の避寒地であったニースに1864年に鉄道が開通すると、19世紀後半から20世紀初頭に観光地として発展し、都会から多くの人々が押し寄せるようになりました。1922年12月には、貨客列車「ブルー・トレイン」が運行を開始し、パリのブルジョワたちの憧れの的となった。キスリングはこの南方の旅へと誘う、パリからニースへ向かう汽車がプロヴァンスの渓谷を走る風景を、あざやかな緑と白、赤のアクセント、強い明暗のコントラストで描いています。 -
アメデオ・モディリアーニ「ルニア・チェホフスカの肖像」1917年
イタリアのトスカーナ地方の由緒あるユダヤ系の家に生まれたモディリアーニは、ダンテやニーチェを愛読し早熟な青年時代を過ごします。1906年にパリへ移住し、モンパルナスの芸術家や詩人たちと親交を深めますが、やがて酒と麻薬に浸る退廃的な生活を送り、35歳の若さでこの世を去りました。 パリのモンマルトルに到着したモディリアーニは、セザンヌとピカソの絵画の洗礼を受けました。その一方で彫刻にも情熱を抱き、彫刻家ブランクーシと出会い、彼のアトリエがあるモンパルナスに移り住んで彫刻に取り組みます。1909年から1916年まで、アルカイック期のギリシア彫刻や、アフリカの仮面に影響を受けた作品を断続的に制作しますが、貧困のうちに健康を害し、彫刻家の道を断念します。1916年にふたたび絵画に専念した画家は、鑿で切り出したような線描によって、モンパルナスの友人の肖像や裸婦像を残しました。 本作品のモデルは、モディリアーニのよき理解者であった画商ズボロフスキーの友人、ルニア・チェホフスカです。ルニアはポーランドの名家の出身で、軍人の夫が戦場に出征した後、パリに滞在していました。モディリアーニの女性像のなかで、ルニアを描いた作品は妻ジャンヌ・エビュテルヌの肖像に次いで多く、画家の円熟期にルニアの存在が果した役割は大きい。 絵のなかのルニアは、ゆったりとした白の簡素なブラウスに、お気に入りのブローチを胸に着けています。結髪が豊かに膨らむ後頭部、引き伸ばされた首、憂鬱な青みを帯びるアーモンド型の目は、モディリアーニが描いた優美な女性像の特徴を余すところなく伝えています。壁には、深い青と緑が灰色を基調にして無数のニュアンスをみせており、すべての細部はモデルの繊細な人物描写へと結びついています。 -
アメデオ・モディリアーニ「ルネ」1917年
おかっぱ頭にネクタイ姿という、第一次大戦を契機にパリで流行したギャルソンヌ・スタイルのモデルは、憲兵隊司令官の娘ルネ・グロ。画塾アカデミー・ランソンで絵を学び、芸術家をこころざすこの進歩的な女性は、画家キスリングの妻となりました。1916年にモディリアーニは、モンパルナスのジョゼフ・バラ通りにあるキスリングのアトリエに出入りし、本作品が制作された1917年にルネとキスリングは結婚しています。モンパルナスを代表するこのカップルと画家の絆は固く結ばれ、その友情の証のように本作品の上方にはルネの名が記されています。首を傾いだルネは、大胆に肘をつき、くつろいでいる様子です。ゆるやかに曲線を描く鼻と、笑みをたたえる花びらのような唇は、哀感が漂う大きな瞳に優雅で温かみのある表情を与えています。画家が得意とした直線的なデッサンが、首から上着にかけての構図を引き締める一方で、背景にそえられた草花の装飾文様や、手首にのぞく点描で表わされた繊細なアクセサリーは、ルネの可憐な一面をさりげなく示しています -
モーリス・ユトリロ「シャップ通り」1910年頃
ドガやルノワールのモデルをつとめ、後に画家として活躍したシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として、ユトリロはモンマルトルに生まれました。幼い頃より異常な飲酒癖を示し、20歳の頃、アルコール依存症から脱するために、母シュザンヌは息子に絵筆を与えます。生まれ育ったモンマルトルを中心に、ユトリロは繰り返し哀愁を帯びたパリの街角の風景を描きました。
シャップ通りとは、サン=ピエール教会と、サクレ=クール寺院へ続く坂道です。円形ドームを載せたサクレ=クール寺院は、普仏戦争での敗北を契機に計画され、本作品と同年代の1910年にようやく完成し、以後モンマルトルの象徴として親しまれています。このシャップ通りを行く人々は、漆喰が幾層にも塗りこめられた白い建物の壁や、レンガが剥き出しになった側壁、乾いた街に逞しく枝を伸ばす木々のあいだを抜け、礼拝のためにモンマルトルの丘を登っていきました。
ゆるやかな坂道を中心に、街路が広がる奥行きのある構図は、ユトリロの得意としたものですが、本作品ではその構図が見事な調和をみせています。前景は三分割され、左右に建物のファサードが切り立ち、シャップ通りは途中で階段になり、さらにサクレ=クール寺院のたたずむ鉛色の空へと繋がっています。
ユトリロは独りアトリエに閉じこもり、パリの街並を撮影した絵はがきをもとに、同じ構図の作品を何枚も制作したといわれています。1930年代以降に、シャップ通りとサクレ=クール寺院を描いた同じ構図の作品が6点確認されています。この「シャップ通り」は、それらの作品に先立ち、ユトリロ最良の時代といわれる「白の時代」(1909-1912年頃)に制作された、堂々とした構図と細部の描写が巧みな作品です。 -
モーリス・ユトリロ「ラ・ベル・ガブリエル」1912年
雪のモンマルトルの路地に、風雪にさらされた漆喰の壁が切り立っています。幾度も塗り重ねられて不規則な表情をみせる壁や、湿り気をおびて緑の黴が侵食する壁が、巧みに描き分けられています。左側の壁の前に立つ人物は右方へと矢印を書き込み、こう記しています。「正面にあるのは、私の人生の最良の思い出だ。モーリス・ユトリロ 1912年10月」 体をしならせて壁に向う姿はまだ少年のようですが、画家自身の後ろ姿です。正面にある店は、モン=スニ通り33番地にあった居酒屋「ラ・ベル・ガブリエル」(美しきガブリエル)。画家は20代の頃、この店の女将マリ・ヴィジエに夢中になっていました。アルコールによる失態でユトリロはしばしば巡査に連行されますが、避難場所は、彼女が店先で酔いどれたちを迎えるこの場所だけでした。壁にはほかにも落書き風に鉛筆で書き込まれた文字や、恋の成就を願うハートのマークも見られます。「モーリスはガブリエルを愛してる」。飲み友達の諷刺漫画家ジュール・ドパキの名前もあります。「ルイーズはドパキが好き」。本作品は、ユトリロ絵画の最良の時代といわれる「白の時代」の代表作であり、また画家とその仲間たちがモンマルトルを生きた記録の集大成です -
シャイム・スーティン「青い服を着た子供の肖像」1928年
パリのルーヴル美術館で、レンブラントやクールベの芸術に触れて以来、スーティンはすっかり過去の偉大な巨匠たちの絵画の虜になりました。この少女像の絵具をいく重にも塗り重ねて肉付けする描法と、スカートをたくし上げるポーズも、レンブラントの《水浴の女》(1665年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)に倣っています。並外れた色彩感覚をもつスーティンは、あざやかな肌色と暗い背景色、赤と青の対比が、彼の人物画に強烈な輝きと存在感をもたらすことに気がついたのでしょう。1920年代末に画家はおなじ描き方で、ホテルの支配人や支援者の一人マドレーヌ・カスタン夫人の肖像など、卓越した人物画を制作しています。スーティンのモデルの多くは、子どもや労働者階級の無名の人物ですが、堂々と正面を見据えるこの幼い少女の姿勢とまなざしは、怯えと挑発の相反する感情をたたえ、迫真の人物描写となっています。 -
ジュール・パスキン「果物をもつ少女」1927年
ジュール・パスキン(本名:ユリウス・モルデカイ・ピンカス)は、ブルガリアのヴィデンでユダヤ系の裕福な商人の家庭に生まれました。ベルリンやウィーンの美術学校で絵画の修業を積んだ後、ミュンヘンでデッサンの才能が認められて1904年に諷刺雑誌『ジンプリツィシムス』と専属契約を結び、諷刺挿絵を描く。この頃から彼は本名の“Pincas”(ピンカス)の綴り字を並びかえて“Pascin”(パスキン)と名乗りはじめます。1905年にパリに移り、モンパルナス、続いてモンマルトルに居を構えました。第一次大戦中は渡米して中南米やキューバも訪れていますが、1920年にはパリに戻り、モンマルトルにアトリエを構えながらモンパルナスに通い、エコール・ド・パリの画家たちと交遊しました。 1920年代になってパスキンは独自の作風を確立します。「真珠母色の時代」と称されるこの時期、彼は震えるような線描、けむるような淡い虹色の色彩とやわらかなタッチを用いて退廃的なエロティシスム漂う裸婦や少女の姿を数多く描きました。本作品もこの時代に制作された作品のひとつである。果物が載った皿を手に持ち、うつろな視線を宙に投げかける少女の姿には、メランコリックではかなげな雰囲気が漂っています。また、少女が座る椅子の不明瞭な表現と曖昧な背景表現は、人物像を際立たせながらも不安感や孤独感を醸し出しています。 パスキンの絵画には退廃、倦怠感、孤独感などが感じられることはしばしば指摘されてきましたが、それは放浪や大都会の狂騒の陰で画家自身が抱えていた感情が映し出されているからでしょう。彼は1930年、ジョルジュ・プティ画廊の大規模な個展の開催前日にアトリエで自ら命を絶ちました -
エドゥアール・ヴュイヤール「画家のアトリエ」1915年
1900年代初頭を境に、ヴュイヤールの描く室内は明確な変化を示すようになります。本作品は画家のアトリエを描いていますが、やや高い視点がとられることで空間の奥行きが表されています。室内は画面奥に描かれた窓から射す穏やかな光に満ち、陰影はもはや画面における重要性を失っており、色彩間のあざやかな対比もみられません。 これらは、ヴュイヤールの光への関心の変容によるものでしょう。世紀末の作品では、室内の調度の帯びる色彩が光と影の効果を作り出していたのに対し、本作品では広い空間に等しく降り注ぐ外光が、窓や床、さまざまな調度を彩る白によって表現されています。印象派に通じるこうした光への関心は、同時期のボナールと歩調を同じくしており、19世紀末にナビ派に属していた画家たちが1900年代以降、印象派の描法に関心を寄せ始めたことを示しています。 穏やかな光の効果が画面の基調をなしているものの、前景の肘掛椅子に頬杖をつく女と後景にみえる台や机などの調度の位置関係が巧みに図られている点には、ヴュイヤール独特の室内空間の構成をうかがうことができます。 -
エドゥアール・ヴュイヤール「服を脱ぐモデル、マルゼルブ大通り」1909年頃
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ピエール・ボナール「山羊と遊ぶ子供たち」1899年頃
ボナールの家族は、フランス南東部、グルノーブル近郊の村、ル・グラン=ランに邸宅を持ち、夏を過ごすことを常としていました。両作品の舞台となっている果樹園「ル・クロ」は邸宅と同じ敷地にあり、家族はりんごやプラムの収穫を楽しみました。描かれているのは、妹のアンドレと音楽家クロード・テラスの子どもたちで、この時期から1900年代初頭の作品にしばしば現われることとなります。両作品とも、奥行きを表す地平線が枝によって一部隠されており、緑の色面の上を曲線的な筆触が連なる、装飾性に富んだ画面が構成されています。近い時期に同主題を描いた「大きな庭」(1895/1896年、オルセー美術館)や「りんごつみ」(1895/1899年、ヴァージニア美術館)と比べ、平面性と装飾性が際立っており、大きさもほぼ同じこの二点は、同一の装飾パネルを構成すべく制作されたと考えられます。この時期はボナールがナビ派の一員として活動していた時期であり、庭の芝生や茂み、木々の梢などが曲線的な筆触の反復で表されつつ、平面的に処理されている点が特徴です。植物という曲線的な要素に満ち、緑の色面として扱いやすい庭は、ナビ派時代のボナールがもっていた装飾パネルへの志向に適した主題でした。1890年代後半に制作された両作品にも、その余韻は響いています。この後、平面的で装飾性に富んだ庭の情景はみられませんが、果物の収穫、および人間と動物との交わる光景は、とりわけ大画面の作品の主題として、1900年以降もしばしば現われることとなります。「ボナールの庭」は、都市を離れた果樹園としての側面と、自然に親しみ、動物と交わる理想郷としての側面をそなえた、この「ル・クロ」に始まります。 -
ピエール・ボナール「りんごつみ」1899年頃
緑が一面に広がる風景は、ボナールが「ル・クロ」と呼び親しんだ果樹園。フランス南部のリヨンとグルノーブルのあいだにある、ル・グラン・ランという土地に、ボナールとその妹アンドレの一家が別荘を構えていました。果樹園で果実を摘み取ることが、この家族の最上の愉しみであり、1925年に土地が人手にわたるまで、毎年りんごやプラムが収穫の時期を迎える6月から9月頃のあいだ、ボナールらは親密な安らぎの時を過ごしていました。 本作品を制作した頃、画家は子どもの無邪気に遊ぶ姿に興味をいだき、絵画のなかにそのユーモラスに躍動する姿を登場させています。都会の街を行き交う洗練された女性や子ども、この果樹園で憩う幼な子たちの姿を、複数の大きなカンヴァスに描いています。 本作品はジャポニスムと装飾性を特徴とする、アール・ヌーヴォーの精神のもとに制作された一対の作品です。空を覆うように枝をのばした大きな果樹や、日本の浮世絵と同じく上方に置かれた地平線、連続する筆触で埋め尽くされ、平面的に表わされた大地。これらは、この果樹園が享受する自然の恵みを強調しているのです。 -
ピエール・ボナール「ミモザのある階段」1946年頃
ル・カネの自邸「ル・ボスケ」へと通じる階段の下から、奥に咲き誇るミモザをはじめとした庭の一角が描かれています。濃い黄で描かれたミモザは、右脇の茂みと併せ、萌え出る自然の生命力を豊かに表現しています。各部分がそれぞれくっきりと境界を際立たせており、地中海岸の強い光と乾いた空気を感じさせます。いたるところに置かれた赤やオレンジの筆触は、降り注ぐ光のもたらす強い輝きを表しています。ここでも画面の周縁部にモティーフが配され、画面の外へと連続するように中断されて描かれています。しかし、晩年の画面に特徴的な短い筆触は、奥行きの閉じられた構図と相俟って、画面を平面的に統一しています。ヴェルノネで描いた作品にみられるように、ボナールは起伏に富んだ地勢とあるがままの自然を好みました。弧を描く階段の周りに木々や花々が茂る「ル・ボスケ」の庭は、晩年にいたってもなお変わらぬボナールの嗜好を表しています。1942年にマルトを亡くし、町へと下りることもほとんどなくなったという晩年の画家の画面には、本作品を含め、それまでにない頻度で庭が現われるようになります。 -
ピエール・ボナール「ル・カネの風景」1924年
ボナールは1909年、南仏サン=トロペを訪れ、陽光に魅せられました。それから彼は毎年、サン=トロペ、カンヌ、アンティーブなどで制作するようになります。1926年には、カンヌの北に位置する小さな町ル・カネの、カンヌと地中海を見渡せる丘の上に家を購入しました。「ル・ボスケ」(茂み)と呼ばれたこの別荘は、パリのアトリエやヴェルノネの別荘などとともにボナールの重要な制作の地となりました。第二次大戦が勃発した1939年より、ボナールはル・カネに定住し、この地で妻マルトと愛犬とともにひっそりと暮らし、絵画制作を続けました。1942年にマルトが他界し、1947年にボナールもこの地で歿しました。南仏によくみられるミモザの花の黄色であふれた「ミモザのある階段」を描いた風景ですが、美術評論家クレメント・グリーンバーグは、本作品を「抽象絵画のようである」と評しました。 -
ピエール・ボナール「かがみこむ裸婦」1938-40年 ポーラ美術館
パリ近郊に生まれたボナールは、大学に進み法律家を志しますが、20歳の時本格的に絵筆をとり、画塾アカデミー・ジュリアン、次いで国立美術学校で学びました。1888年、ゴーガンの絵画思想をもとに結成したグループ「ナビ派」(預言者の意)のメンバーに加わり、画家のセリュジエ、ヴュイヤール、ドニらと親交を結びます。浮世絵の色彩や構図に心酔したボナールは、「日本かぶれのナビ」と呼ばれ、ポスターや装飾美術において才能を発揮しました。 -
ピエール・ボナール「浴槽、ブルーのハーモニー」1917年頃
本作品は、伴侶マルトが体を洗う姿を描いており、ほぼ同じ構図で、画家自身がマルトを撮影した写真が現存しています。最良のモデルでもあったマルトは、浴室で過ごす時をこよなく愛し、ボナールは繰り返しその姿をとどめようとしました。 写真技術に影響を受けた画家は少なくありませんが、ボナールもそのひとりです。大気の変動のなかで茫洋とする輪郭線、バランスを欠いたポーズは、一瞬の動きをとらえているようです。画面右側から外光が差し込み、青い影がたゆたい、白と黄の光の斑紋が流動する情景は、ボナールの光に対する鋭敏な感覚を反映しており、モネの「睡蓮」の連作をはじめとする印象派の手法を、画家が吸収したことを物語っています。「絵画は、ひとつの充足する小さな世界でなければならない」とボナールは語っています。最初の印象をすばやくとらえたデッサンや写真をもとに、画家はアトリエで油彩のタッチを丹念に重ね、光が満ちた世界へと収斂させました。 -
ピエール・ボナール「白い服の少女」1942-45年
この肖像画には、書斎あるいはサロンで椅子に座る、夏のドレスを着た10代の少女が描かれています。少女の背筋を伸ばした姿勢と固い表情は、大人びた雰囲気を醸し出していますが、広い額と丸い顔が、わずかに幼さを残しています。ボナールは、絵画を本格的に制作し始めた1890年代から、食卓のまわりや庭で憩う子どもを好んで主題に選び、室内画と風景画に登場させました。ボナールの絵画のなかで、子どもたちの姿は構図の中心から外されて描かれるのが常であり、子どもを正面からとらえた肖像画は稀です。本作品が制作された1940年、戦争により画家の生活が一変し、描く対象にも変化が生じました。ボナールはこの年から、戦火を避けて南仏の小村ル・カネの別荘「ル・ボスケ」にこもり、不安に満ちた暮らしを送っています。それまでときおり制作していた女性の肖像画は、1940年代にはほとんど見られなくなり、かわりに孤独と悲壮感を湛えた自画像を手がけるようになっていました。本作品には、画家が晩年に到達した肖像画のスタイルがみられます。肩や腕の線を大胆にデフォルメし、人物像を背景とともに柔らかな線で表わし、全体の調和に心を砕いています。また彼女の顔の細部は、橙色と青色で調節される一方で、それらふたつの色彩の斑紋は、壁紙や少女の背にあるクッションなど画面全体に点在しており、人物像と周囲の色彩が反映しあう、「色彩の相互照応(コレスポンダンス)」ともいうべき効果が発揮されています。 -
ピエール・ボナール「地中海の庭」1917-18年 ポーラ美術館
地中海に面した庭の牧歌的な風景。庭には黄色のミモザの花で埋め尽くされ、その奥には葉が生い茂った木々があります。中央の開けた場所には棕櫚の木が生えており、その背景には青い地中海が姿を現わしています。画面手前には、庭に面したテラスがあり、左には子どもたち、右にはオレンジの籠を差し出す若い女性が描かれています。本作品のように、手前にテラスが描かれ、その先に風景が広がる構図の作品には、観る者もこのテラスに立っているかのような臨場感があります。第一次大戦中にボナールが制作した数点の装飾画には、このような構図が用いられています。
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