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ポーラ美術館で11/14より開幕した「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」の展覧会の紹介の第3弾です。<br />以下、ポーラ美術館「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」HPより参照<br />第4章 「フォーヴ」と「シュール」<br />1920~1930年代に入ると、ヨーロッパの前衛芸術の動向が雑誌や書物などを介してほぼ同時に日本へも紹介されます。<br />西洋美術の最新スタイルをいち早く吸収し、独自の解釈を加えて創作に励む芸術家が現れました。1932年(昭和7)には「巴里東京新興美術展」が開催され、日本で初公開されたシュルレアリスムの作品に、三岸好太郎は強い衝撃を受けています。<br />また、渡仏した里見勝蔵や佐伯祐三は、ヴラマンクやユトリロの作風に大きな影響を受け、激しい色彩表現と大胆な筆致を特徴とするフォーヴィスムのスタイルを吸収して帰国します。日本で「1930年協会」(1926年)や「独立美術協会」(1930年)を結成するなど、昭和初期の洋画界に新風を巻き起こしました。<br />エピローグ フジタ-日本とフランスの往還の果てに<br />日本人というアイデンティティに翻弄されながらも、フランス人として生涯を終えたレオナール・フジタ(藤田嗣治)。<br />フジタは1920年代のパリで、乳白色の地に面相筆による流麗な線描という、日本的な表現と感性を存分に生かして成功を収めます。しかし戦後は日本を追われ、1950年にパリに戻った後は、生涯母国の地を踏むことはありませんでした。<br />日仏両国の間で苦悩しつつ、双方の芸術の融合に挑んだ芸術家像をひもときます。<br />※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。<br /><br /><br />

ポーラ美術館「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」- 第4章「フォーヴ」と「シュール」・エピローグ フジタ

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2020/11/14 - 2020/11/14

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ポーラ美術館で11/14より開幕した「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」の展覧会の紹介の第3弾です。
以下、ポーラ美術館「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」HPより参照
第4章 「フォーヴ」と「シュール」
1920~1930年代に入ると、ヨーロッパの前衛芸術の動向が雑誌や書物などを介してほぼ同時に日本へも紹介されます。
西洋美術の最新スタイルをいち早く吸収し、独自の解釈を加えて創作に励む芸術家が現れました。1932年(昭和7)には「巴里東京新興美術展」が開催され、日本で初公開されたシュルレアリスムの作品に、三岸好太郎は強い衝撃を受けています。
また、渡仏した里見勝蔵や佐伯祐三は、ヴラマンクやユトリロの作風に大きな影響を受け、激しい色彩表現と大胆な筆致を特徴とするフォーヴィスムのスタイルを吸収して帰国します。日本で「1930年協会」(1926年)や「独立美術協会」(1930年)を結成するなど、昭和初期の洋画界に新風を巻き起こしました。
エピローグ フジタ-日本とフランスの往還の果てに
日本人というアイデンティティに翻弄されながらも、フランス人として生涯を終えたレオナール・フジタ(藤田嗣治)。
フジタは1920年代のパリで、乳白色の地に面相筆による流麗な線描という、日本的な表現と感性を存分に生かして成功を収めます。しかし戦後は日本を追われ、1950年にパリに戻った後は、生涯母国の地を踏むことはありませんでした。
日仏両国の間で苦悩しつつ、双方の芸術の融合に挑んだ芸術家像をひもときます。
※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。


旅行の満足度
4.5
観光
4.5

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  • 第2会場に移りますが、第4章の前にポーラ美術館収蔵の西洋絵画と日本のコレクターたちというコーナーがありました。<br />ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「男の頭部(《ホメロス礼讃》のための習作 )」1827年頃<br />川崎造船所の社長を務めた松方幸次郎のいわゆる松方コレクションの一枚。昨年、国立西洋美術館で開催された松方コレクション展にも出品されていました。

    第2会場に移りますが、第4章の前にポーラ美術館収蔵の西洋絵画と日本のコレクターたちというコーナーがありました。
    ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「男の頭部(《ホメロス礼讃》のための習作 )」1827年頃
    川崎造船所の社長を務めた松方幸次郎のいわゆる松方コレクションの一枚。昨年、国立西洋美術館で開催された松方コレクション展にも出品されていました。

  • ギュスターヴ・クールベ「牝鹿のいる雪の風景」1866-1869年頃<br />團 伊能の旧蔵品。團 伊能は、三井合名会社理事長 團琢磨の長男で、東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学んでいます。1923年東京美術館で開催された展覧会で本作品が出品されています。

    ギュスターヴ・クールベ「牝鹿のいる雪の風景」1866-1869年頃
    團 伊能の旧蔵品。團 伊能は、三井合名会社理事長 團琢磨の長男で、東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学んでいます。1923年東京美術館で開催された展覧会で本作品が出品されています。

  • アンリ・ルソー「飛行船「レピュブリック号」とライト飛行機のある風景」1909年<br />福島 繁太郎は、株式仲買人の福島浪蔵商店を設立した父の残した莫大な遺産を資本として1923年から1933年までパリに滞在して有名画商や画廊などに出入りし、同時代の多くの画家と交流し、特にジョルジュ・ルオーと親しく交際しました。また、多数の絵画を収集して、いわゆる「福島コレクション」を形成し、その多くを日本にもたらしました。アンリ・ルソーの「飛行船「レピュブリック号」とライト飛行機のある風景」は旧福島コレクションの1点です。<br />

    アンリ・ルソー「飛行船「レピュブリック号」とライト飛行機のある風景」1909年
    福島 繁太郎は、株式仲買人の福島浪蔵商店を設立した父の残した莫大な遺産を資本として1923年から1933年までパリに滞在して有名画商や画廊などに出入りし、同時代の多くの画家と交流し、特にジョルジュ・ルオーと親しく交際しました。また、多数の絵画を収集して、いわゆる「福島コレクション」を形成し、その多くを日本にもたらしました。アンリ・ルソーの「飛行船「レピュブリック号」とライト飛行機のある風景」は旧福島コレクションの1点です。

  • オディロン・ルドン「ブルターニュの海」<br />ポーラ美術館の西洋絵画の中には戦後、芸術家によって日本にもたされた作品もあります。梅原龍三郎は、美術品のコレクションをしていたこでも知られますが、オディロン・ルドン「ブルターニュの海」は梅原の旧蔵品であることが画面裏木枠の本人による書き込みから明らかになっています。<br /> パステルで描かれた「ブルターニュの風景」には、寄り添うようにして建つ、この地域独特の屋根の勾配が大きい家並みが描かれ、その家を覆うように蒼い空が広がります。

    オディロン・ルドン「ブルターニュの海」
    ポーラ美術館の西洋絵画の中には戦後、芸術家によって日本にもたされた作品もあります。梅原龍三郎は、美術品のコレクションをしていたこでも知られますが、オディロン・ルドン「ブルターニュの海」は梅原の旧蔵品であることが画面裏木枠の本人による書き込みから明らかになっています。
     パステルで描かれた「ブルターニュの風景」には、寄り添うようにして建つ、この地域独特の屋根の勾配が大きい家並みが描かれ、その家を覆うように蒼い空が広がります。

  • 第4章 「フォーヴ」と「シュール」<br /> 1920~1930年代に入ると、ヨーロッパの前衛芸術の動向が雑誌や書物などを介してほぼ同時に日本へも紹介されます。西洋美術の最新スタイルをいち早く吸収し、独自の解釈を加えて創作に励む芸術家が現れました。<br />

    第4章 「フォーヴ」と「シュール」
    1920~1930年代に入ると、ヨーロッパの前衛芸術の動向が雑誌や書物などを介してほぼ同時に日本へも紹介されます。西洋美術の最新スタイルをいち早く吸収し、独自の解釈を加えて創作に励む芸術家が現れました。

  • モーリス・ド・ヴラマンク「雪」1920-1922年頃<br />モーリス・ド・ヴラマンクは、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末~20世紀のフランスの画家。あらゆる伝統を拒否し、自分の才能だけを信じたヴラマンクであったがファン・ゴッホにだけは少なからず影響を受けていることを画家自身が表明しており、作品からも影響がうかがわれます。ヴラマンクの絵は絵具チューブから絞り出した原色を塗りつけているように見えて、その画面には明るさよりは陰鬱さがただよっているのが特色です。第一次世界大戦後はフォーヴィスムから離れてポール・セザンヌを見出し、独自の道を歩み、色彩も一転して茶と白を基調とする暗めに移行しました。

    モーリス・ド・ヴラマンク「雪」1920-1922年頃
    モーリス・ド・ヴラマンクは、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末~20世紀のフランスの画家。あらゆる伝統を拒否し、自分の才能だけを信じたヴラマンクであったがファン・ゴッホにだけは少なからず影響を受けていることを画家自身が表明しており、作品からも影響がうかがわれます。ヴラマンクの絵は絵具チューブから絞り出した原色を塗りつけているように見えて、その画面には明るさよりは陰鬱さがただよっているのが特色です。第一次世界大戦後はフォーヴィスムから離れてポール・セザンヌを見出し、独自の道を歩み、色彩も一転して茶と白を基調とする暗めに移行しました。

  • 里見勝蔵「ポントワーズの雪景」1924年頃<br />東京芸術学校卒業の翌年、1921年に渡仏した里見勝蔵は、かねてから心酔していたゴッホの終焉の地、オーヴェール=シュル=オワーズを訪れました。このオーヴェールの地で、里見にはフォーヴィズムの画家、ヴラマンクとの出会いが待っていました。

    里見勝蔵「ポントワーズの雪景」1924年頃
    東京芸術学校卒業の翌年、1921年に渡仏した里見勝蔵は、かねてから心酔していたゴッホの終焉の地、オーヴェール=シュル=オワーズを訪れました。このオーヴェールの地で、里見にはフォーヴィズムの画家、ヴラマンクとの出会いが待っていました。

  • 里見勝蔵「ポントワーズの雪景」からは、ヴラマンクの画風に大きな影響を受けていた様子が伺えます。

    里見勝蔵「ポントワーズの雪景」からは、ヴラマンクの画風に大きな影響を受けていた様子が伺えます。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • モーリス・ユトリロ「シャップ通り」1910年頃<br />ドガやルノワールのモデルをつとめ、後に画家として活躍したシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として、ユトリロはモンマルトルに生まれました。幼い頃より異常な飲酒癖を示し、20歳の頃、アルコール依存症から脱するために、母シュザンヌは息子に絵筆を与えます。生まれ育ったモンマルトルを中心に、ユトリロは繰り返し哀愁を帯びたパリの街角の風景を描きました。<br />  シャップ通りとは、サン=ピエール教会と、サクレ=クール寺院へ続く坂道です。円形ドームを載せたサクレ=クール寺院は、普仏戦争での敗北を契機に計画され、本作品と同年代の1910年にようやく完成し、以後モンマルトルの象徴として親しまれています。このシャップ通りを行く人々は、漆喰が幾層にも塗りこめられた白い建物の壁や、レンガが剥き出しになった側壁、乾いた街に逞しく枝を伸ばす木々のあいだを抜け、礼拝のためにモンマルトルの丘を登っていきました。<br />  ゆるやかな坂道を中心に、街路が広がる奥行きのある構図は、ユトリロの得意としたものですが、本作品ではその構図が見事な調和をみせています。前景は三分割され、左右に建物のファサードが切り立ち、シャップ通りは途中で階段になり、さらにサクレ=クール寺院のたたずむ鉛色の空へと繋がっています。<br />  ユトリロは独りアトリエに閉じこもり、パリの街並を撮影した絵はがきをもとに、同じ構図の作品を何枚も制作したといわれています。1930年代以降に、シャップ通りとサクレ=クール寺院を描いた同じ構図の作品が6点確認されています。この「シャップ通り」は、それらの作品に先立ち、ユトリロ最良の時代といわれる「白の時代」(1909-1912年頃)に制作された、堂々とした構図と細部の描写が巧みな作品です。

    モーリス・ユトリロ「シャップ通り」1910年頃
    ドガやルノワールのモデルをつとめ、後に画家として活躍したシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として、ユトリロはモンマルトルに生まれました。幼い頃より異常な飲酒癖を示し、20歳の頃、アルコール依存症から脱するために、母シュザンヌは息子に絵筆を与えます。生まれ育ったモンマルトルを中心に、ユトリロは繰り返し哀愁を帯びたパリの街角の風景を描きました。
     シャップ通りとは、サン=ピエール教会と、サクレ=クール寺院へ続く坂道です。円形ドームを載せたサクレ=クール寺院は、普仏戦争での敗北を契機に計画され、本作品と同年代の1910年にようやく完成し、以後モンマルトルの象徴として親しまれています。このシャップ通りを行く人々は、漆喰が幾層にも塗りこめられた白い建物の壁や、レンガが剥き出しになった側壁、乾いた街に逞しく枝を伸ばす木々のあいだを抜け、礼拝のためにモンマルトルの丘を登っていきました。
     ゆるやかな坂道を中心に、街路が広がる奥行きのある構図は、ユトリロの得意としたものですが、本作品ではその構図が見事な調和をみせています。前景は三分割され、左右に建物のファサードが切り立ち、シャップ通りは途中で階段になり、さらにサクレ=クール寺院のたたずむ鉛色の空へと繋がっています。
     ユトリロは独りアトリエに閉じこもり、パリの街並を撮影した絵はがきをもとに、同じ構図の作品を何枚も制作したといわれています。1930年代以降に、シャップ通りとサクレ=クール寺院を描いた同じ構図の作品が6点確認されています。この「シャップ通り」は、それらの作品に先立ち、ユトリロ最良の時代といわれる「白の時代」(1909-1912年頃)に制作された、堂々とした構図と細部の描写が巧みな作品です。

  • 佐伯祐三「パリ風景」1925年(大正14)頃<br />佐伯祐三は、大阪府立北野中学校在学中に画家を志し、赤松麟作の画塾に通い石膏デッサンを学びます。1917年(大正6)に上京し、川端画学校で藤島武二の指導を受けたあと、東京美術学校に入学しました。佐伯がパリ行きの夢を抱いたきっかけは、武者小路実篤邸で「白樺美術館第1回展」に展示されたゴッホの《ひまわり》(戦災で焼失)を見たことでした。1923年(大正12)の東京美術学校卒業後、妻子とともに念願のパリへ赴きます。<br />

    佐伯祐三「パリ風景」1925年(大正14)頃
    佐伯祐三は、大阪府立北野中学校在学中に画家を志し、赤松麟作の画塾に通い石膏デッサンを学びます。1917年(大正6)に上京し、川端画学校で藤島武二の指導を受けたあと、東京美術学校に入学しました。佐伯がパリ行きの夢を抱いたきっかけは、武者小路実篤邸で「白樺美術館第1回展」に展示されたゴッホの《ひまわり》(戦災で焼失)を見たことでした。1923年(大正12)の東京美術学校卒業後、妻子とともに念願のパリへ赴きます。

  • モーリス・ユトリロ「ラ・ベル・ガブリエル」1912年<br />雪のモンマルトルの路地に、風雪にさらされた漆喰の壁が切り立っています。幾度も塗り重ねられて不規則な表情をみせる壁や、湿り気をおびて緑の黴が侵食する壁が、巧みに描き分けられています。左側の壁の前に立つ人物は右方へと矢印を書き込み、こう記しています。「正面にあるのは、私の人生の最良の思い出だ。モーリス・ユトリロ 1912年10月」<br />  体をしならせて壁に向う姿はまだ少年のようですが、画家自身の後ろ姿です。正面にある店は、モン=スニ通り33番地にあった居酒屋「ラ・ベル・ガブリエル」(美しきガブリエル)。画家は20代の頃、この店の女将マリ・ヴィジエに夢中になっていました。アルコールによる失態でユトリロはしばしば巡査に連行されるのですが、避難場所は、彼女が店先で酔いどれたちを迎えるこの場所だけでした。壁にはほかにも落書き風に鉛筆で書き込まれた文字や、恋の成就を願うハートのマークも見られます。「モーリスはガブリエルを愛してる」。飲み友達の諷刺漫画家ジュール・ドパキの名前もあります。「ルイーズはドパキが好き」。本作品は、ユトリロ絵画の最良の時代といわれる「白の時代」の代表作であり、また画家とその仲間たちがモンマルトルを生きた記録の集大成といえます。

    モーリス・ユトリロ「ラ・ベル・ガブリエル」1912年
    雪のモンマルトルの路地に、風雪にさらされた漆喰の壁が切り立っています。幾度も塗り重ねられて不規則な表情をみせる壁や、湿り気をおびて緑の黴が侵食する壁が、巧みに描き分けられています。左側の壁の前に立つ人物は右方へと矢印を書き込み、こう記しています。「正面にあるのは、私の人生の最良の思い出だ。モーリス・ユトリロ 1912年10月」
     体をしならせて壁に向う姿はまだ少年のようですが、画家自身の後ろ姿です。正面にある店は、モン=スニ通り33番地にあった居酒屋「ラ・ベル・ガブリエル」(美しきガブリエル)。画家は20代の頃、この店の女将マリ・ヴィジエに夢中になっていました。アルコールによる失態でユトリロはしばしば巡査に連行されるのですが、避難場所は、彼女が店先で酔いどれたちを迎えるこの場所だけでした。壁にはほかにも落書き風に鉛筆で書き込まれた文字や、恋の成就を願うハートのマークも見られます。「モーリスはガブリエルを愛してる」。飲み友達の諷刺漫画家ジュール・ドパキの名前もあります。「ルイーズはドパキが好き」。本作品は、ユトリロ絵画の最良の時代といわれる「白の時代」の代表作であり、また画家とその仲間たちがモンマルトルを生きた記録の集大成といえます。

  • 佐伯祐三「アントレ ド リュー ド シャトー」1925年(大正14)頃<br />佐伯祐三は、パリではまず、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールの自由科に通い、セザンヌ風の裸体習作や着衣像を描いていましたが、オーヴェール=シュル=オワーズでヴラマンクと出会ってからは、彼の影響を受けた風景画を盛んに描くようになります。その後1924年(大正13)11月に、佐伯はパリ市内モンパルナス駅南のシャトー通り13番地に居を構え、周辺のパリの街並を描きはじめます。<br />  シャトー通りに転居してから、その制作は勢いを増しています。制作量が増えると画材にかかる費用もかさむため、佐伯はこの頃から自家製のカンヴァスを用いるようになります。油絵具の油分を吸収しやすい独自のカンヴァスは、絵具の吸着具合が良かったらしく、結果として佐伯の多作をさらに助長することになりました。昂揚する情感を絵筆にのせて街景を即座に描き込む。こうして生まれた作品のひとつが本作品です。庶民の哀歓が壁に染みついたような街角の描写に、いい知れぬ深い魅力が感じられます。

    佐伯祐三「アントレ ド リュー ド シャトー」1925年(大正14)頃
    佐伯祐三は、パリではまず、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールの自由科に通い、セザンヌ風の裸体習作や着衣像を描いていましたが、オーヴェール=シュル=オワーズでヴラマンクと出会ってからは、彼の影響を受けた風景画を盛んに描くようになります。その後1924年(大正13)11月に、佐伯はパリ市内モンパルナス駅南のシャトー通り13番地に居を構え、周辺のパリの街並を描きはじめます。
     シャトー通りに転居してから、その制作は勢いを増しています。制作量が増えると画材にかかる費用もかさむため、佐伯はこの頃から自家製のカンヴァスを用いるようになります。油絵具の油分を吸収しやすい独自のカンヴァスは、絵具の吸着具合が良かったらしく、結果として佐伯の多作をさらに助長することになりました。昂揚する情感を絵筆にのせて街景を即座に描き込む。こうして生まれた作品のひとつが本作品です。庶民の哀歓が壁に染みついたような街角の描写に、いい知れぬ深い魅力が感じられます。

  • ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトールとアンドロマケー」1930年頃<br />ギリシアで生まれたイタリア人、デ・キリコはアテネの美術学校に通い、17歳の時に移住先のミュンヘンでアカデミーに学びました。象徴派の画家ベックリンとクリンガー、哲学者のニーチェとショーペンハウエルの思想に影響を受けた画家はしだいに神秘的な表現へと傾倒していきます。デ・キリコの、日常の深層に潜む神秘を暗示する絵画は、1911年にパリで出会った詩人のアポリネールが「形而上的」と評したことにより、「形而上的絵画」と呼ばれるようになりました。また、事物を奇妙な組み合わせで描く「デペイズマン」と呼ばれる方法を用い、無意識の世界を探究するシュルレアリスムの先駆として、マグリット、デルヴォー、ダリに多大な影響を与えました。<br />  光を浴びた城壁と、黒い影のなかの壁がドラマティックに対峙するあいだに、三角定規や細い支柱が組み合わされた2体のマネキンが頬を寄せています。その擬人化されたオブジェの集積は、ホメロスによるギリシアの叙事詩『イリアス』に登場するトロイアの王ヘクトールと王妃アンドロマケーです。同じ主題を描いたデ・キリコのデッサンと比べると、肩が張った左のマネキンがヘクトールを、右がアンドロマケーを表わしていることがわかります。死が待つ戦場へ出征する夫とその妻は、まさに今生の別れにあるのですが、この不可解なオブジェの姿は、その物語を知らずとも緊張のなかに圧倒的な存在感で迫ってきます。<br />  古代ギリシアの悲劇を、架空の都市を舞台に演出するデ・キリコの手法は、ヨーロッパ美術の伝統と前衛とのかかわりにあらたな展開を示唆しました。デ・キリコは1917年にイタリアのフェラーラで「ヘクトールとアンドロマケー」のシリーズを着想して以来、長い年月をかけてこの主題に取り組み、絵画だけでなく彫刻も制作しています。

    ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトールとアンドロマケー」1930年頃
    ギリシアで生まれたイタリア人、デ・キリコはアテネの美術学校に通い、17歳の時に移住先のミュンヘンでアカデミーに学びました。象徴派の画家ベックリンとクリンガー、哲学者のニーチェとショーペンハウエルの思想に影響を受けた画家はしだいに神秘的な表現へと傾倒していきます。デ・キリコの、日常の深層に潜む神秘を暗示する絵画は、1911年にパリで出会った詩人のアポリネールが「形而上的」と評したことにより、「形而上的絵画」と呼ばれるようになりました。また、事物を奇妙な組み合わせで描く「デペイズマン」と呼ばれる方法を用い、無意識の世界を探究するシュルレアリスムの先駆として、マグリット、デルヴォー、ダリに多大な影響を与えました。
     光を浴びた城壁と、黒い影のなかの壁がドラマティックに対峙するあいだに、三角定規や細い支柱が組み合わされた2体のマネキンが頬を寄せています。その擬人化されたオブジェの集積は、ホメロスによるギリシアの叙事詩『イリアス』に登場するトロイアの王ヘクトールと王妃アンドロマケーです。同じ主題を描いたデ・キリコのデッサンと比べると、肩が張った左のマネキンがヘクトールを、右がアンドロマケーを表わしていることがわかります。死が待つ戦場へ出征する夫とその妻は、まさに今生の別れにあるのですが、この不可解なオブジェの姿は、その物語を知らずとも緊張のなかに圧倒的な存在感で迫ってきます。
     古代ギリシアの悲劇を、架空の都市を舞台に演出するデ・キリコの手法は、ヨーロッパ美術の伝統と前衛とのかかわりにあらたな展開を示唆しました。デ・キリコは1917年にイタリアのフェラーラで「ヘクトールとアンドロマケー」のシリーズを着想して以来、長い年月をかけてこの主題に取り組み、絵画だけでなく彫刻も制作しています。

  • サルバドール・ダリ「姿の見えない眠る人、馬、獅子」1930年<br />ダリはスペインのカタルーニャ地方の小さな町フィゲラスに公証人の次男として生まれました。マドリードに出て王立サン・フェルナンド美術アカデミーで学び、細密描写に興味を示します。ルイス・ブニュエルと共同制作したシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』を1929年にパリで発表しました。ミロを通じてシュルレアリストたちと接触し、この頃フロイトの『夢判断』に影響を受けた「偏執狂的批評的方法」と称する手法を確立して複数のモティーフが重なり合う像を描きはじめました。1940年代に大戦を避けてアメリカに移住し、1955年にはスペインに帰国、版画の制作や宝飾品のデザインも手がけました。<br />  ダリは、生来の想像力とスペイン芸術の伝統的リアリズムを背景にして、非現実的で幻想的な世界を描き出しています。空には奇怪な雲が低くたなびき、あたりには午睡(シエスタ)の静寂が訪れています。ダリの心に棲みついたカタルーニャ地方のカダケスにある奇岩の岬と故郷フィゲラスのあるアンプルダン平野の風景が、この絵の舞台を形成しているのでしょう。<br />  建物や彫刻が影をのばし遠近法が強調された空間は、すでにジョルジョ・デ・キリコが描き出してみせたいいようもない不安と緊張で満ちています。大地に表層をのぞかせる灰色の岩は、雲の影が水面に映るように描かれ、見るものの意識下に不気味な生き物の姿を潜ませます。この沈黙を破り前景に出現しているのは、牙をむき出す獅子、横たわる女性の裸体、蹄を蹴りだす馬という3つの神話的な像が結合した、獰猛でエロティックな生き物です。<br />  本作品は、ダリがシュルレアリスムの旗手としてパリで輝かしいデビューを遂げた翌年の1930年に制作されました。ダリはこの年、詩人ポール・エリュアールの夫人であったガラと出会い結婚しています。この絵の怪物の足元に小さくガラの名が付されており、本作品は生涯の伴侶となる女性に捧げられています。

    サルバドール・ダリ「姿の見えない眠る人、馬、獅子」1930年
    ダリはスペインのカタルーニャ地方の小さな町フィゲラスに公証人の次男として生まれました。マドリードに出て王立サン・フェルナンド美術アカデミーで学び、細密描写に興味を示します。ルイス・ブニュエルと共同制作したシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』を1929年にパリで発表しました。ミロを通じてシュルレアリストたちと接触し、この頃フロイトの『夢判断』に影響を受けた「偏執狂的批評的方法」と称する手法を確立して複数のモティーフが重なり合う像を描きはじめました。1940年代に大戦を避けてアメリカに移住し、1955年にはスペインに帰国、版画の制作や宝飾品のデザインも手がけました。
     ダリは、生来の想像力とスペイン芸術の伝統的リアリズムを背景にして、非現実的で幻想的な世界を描き出しています。空には奇怪な雲が低くたなびき、あたりには午睡(シエスタ)の静寂が訪れています。ダリの心に棲みついたカタルーニャ地方のカダケスにある奇岩の岬と故郷フィゲラスのあるアンプルダン平野の風景が、この絵の舞台を形成しているのでしょう。
     建物や彫刻が影をのばし遠近法が強調された空間は、すでにジョルジョ・デ・キリコが描き出してみせたいいようもない不安と緊張で満ちています。大地に表層をのぞかせる灰色の岩は、雲の影が水面に映るように描かれ、見るものの意識下に不気味な生き物の姿を潜ませます。この沈黙を破り前景に出現しているのは、牙をむき出す獅子、横たわる女性の裸体、蹄を蹴りだす馬という3つの神話的な像が結合した、獰猛でエロティックな生き物です。
     本作品は、ダリがシュルレアリスムの旗手としてパリで輝かしいデビューを遂げた翌年の1930年に制作されました。ダリはこの年、詩人ポール・エリュアールの夫人であったガラと出会い結婚しています。この絵の怪物の足元に小さくガラの名が付されており、本作品は生涯の伴侶となる女性に捧げられています。

  • 古賀春江「白い貝殻」1932年(昭和7)<br />久留米市に生まれた古賀春江(本名:亀雄)は、少年時代に同郷の画家松田諦晶と出会い、画家を志します。1912年(明治45)、周囲の反対を押し切って上京した古賀は、本格的に絵画の勉強をはじめ、1922年(大正11)には新傾向の洋画をめざしていた神原泰、中川紀元らと芸術家集団「アクション」を結成しました。その後、パウル・クレーに影響を受けた童画風のやわらかな描写や、キュビスムの傾向を示していたが、大正末期から昭和初期にかけてシュルレアリスム(超現実主義)への関心を強めていきます。<br />  この「白い貝殻」では、マネキン人形のような顔のない女性が空中を浮遊し、まわりには科学への興味をほのめかす幾何学的モティーフ、そして貝などがフォト・モンタージュ風に配されています。女性像はイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコのいわゆる形而上絵画でよく描かれるマネキン人形を連想させます。古賀は詩作にも才能をみせましたが、モダニズム詩人北園克衛との交流からデ・キリコへの傾倒が強まったといわれています。この女性像の風になびく髪や衣の表現は、イタリア・ルネサンスの巨匠ボッティチェリの《ヴィーナス誕生》(ウフィッツィ美術館)を思わせます。この顔のない女性は空想科学小説に出てくるロボットのように、冷たく無機質な物体ではあるが、別の見方をすれば、科学の時代を象徴する新しい女神といえるかもしれません。さらに、画面左下に小さく描かれ、タイトルにもなっている貝殻は、イヴ・タンギーなどシュルレアリストが好み、古賀もしばしば描いたモティーフです。「白い貝殻」という作品名は、おそらくこの真っ白な肌をした女性と貝のイメージの融合であり、思わせぶりな雰囲気をいっそう高めています。また、このように画面に寄せ集められたイメージの源泉には、当時さかんに発刊されたグラビア雑誌の挿図や写真があるとも考えられています。

    古賀春江「白い貝殻」1932年(昭和7)
    久留米市に生まれた古賀春江(本名:亀雄)は、少年時代に同郷の画家松田諦晶と出会い、画家を志します。1912年(明治45)、周囲の反対を押し切って上京した古賀は、本格的に絵画の勉強をはじめ、1922年(大正11)には新傾向の洋画をめざしていた神原泰、中川紀元らと芸術家集団「アクション」を結成しました。その後、パウル・クレーに影響を受けた童画風のやわらかな描写や、キュビスムの傾向を示していたが、大正末期から昭和初期にかけてシュルレアリスム(超現実主義)への関心を強めていきます。
     この「白い貝殻」では、マネキン人形のような顔のない女性が空中を浮遊し、まわりには科学への興味をほのめかす幾何学的モティーフ、そして貝などがフォト・モンタージュ風に配されています。女性像はイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコのいわゆる形而上絵画でよく描かれるマネキン人形を連想させます。古賀は詩作にも才能をみせましたが、モダニズム詩人北園克衛との交流からデ・キリコへの傾倒が強まったといわれています。この女性像の風になびく髪や衣の表現は、イタリア・ルネサンスの巨匠ボッティチェリの《ヴィーナス誕生》(ウフィッツィ美術館)を思わせます。この顔のない女性は空想科学小説に出てくるロボットのように、冷たく無機質な物体ではあるが、別の見方をすれば、科学の時代を象徴する新しい女神といえるかもしれません。さらに、画面左下に小さく描かれ、タイトルにもなっている貝殻は、イヴ・タンギーなどシュルレアリストが好み、古賀もしばしば描いたモティーフです。「白い貝殻」という作品名は、おそらくこの真っ白な肌をした女性と貝のイメージの融合であり、思わせぶりな雰囲気をいっそう高めています。また、このように画面に寄せ集められたイメージの源泉には、当時さかんに発刊されたグラビア雑誌の挿図や写真があるとも考えられています。

  • 三岸好太郎「蝶と裸婦」1934年(昭和9)<br />新興美術展においてピカソやマックス・エルンストらヨーロッパの同時代美術に接し、特にシュルレアリスムに強く影響されて作風を一変させました。三岸は1934年(昭和9)7月1日に31歳でこの世を去りますが、その最後の一年間に蝶と貝殻をモティーフにした幻想的な作品を多く制作しています。<br />  三岸の妻節子の回想によると、晩年に繰り返し描かれた蝶を主題とした作品は、本作品をきっかけに始められたといいます。背景と同系色で溶け込むように描かれた裸の人物の手前に、人体に比するとかなり大型の二匹の蝶(蛾)が羽ばたいています。現実ではあり得ない、想像にもとづくこうした場面を作り出すために、三岸は現実では出合うことのない異質なものを接合し、新たな意味を生み出そうとするシュルレアリスム的手法を取り入れています。<br />  この後、歿するまで蝶を主題にした制作を続け、並行して行った詩作との関わりは、手彩色で発行された素描集『蝶と貝殻』(1934年)にまとめられました。蝶を主題とした作品は同時代の古賀春江らにも見られますが、フランスに渡りたいと願いながらも叶わなかった三岸の理想が、風に乗って日本海を横断するという蝶の生態に重ねられ、彼特有のロマンティシズムとともに表されているといえるでしょう。

    三岸好太郎「蝶と裸婦」1934年(昭和9)
    新興美術展においてピカソやマックス・エルンストらヨーロッパの同時代美術に接し、特にシュルレアリスムに強く影響されて作風を一変させました。三岸は1934年(昭和9)7月1日に31歳でこの世を去りますが、その最後の一年間に蝶と貝殻をモティーフにした幻想的な作品を多く制作しています。
     三岸の妻節子の回想によると、晩年に繰り返し描かれた蝶を主題とした作品は、本作品をきっかけに始められたといいます。背景と同系色で溶け込むように描かれた裸の人物の手前に、人体に比するとかなり大型の二匹の蝶(蛾)が羽ばたいています。現実ではあり得ない、想像にもとづくこうした場面を作り出すために、三岸は現実では出合うことのない異質なものを接合し、新たな意味を生み出そうとするシュルレアリスム的手法を取り入れています。
     この後、歿するまで蝶を主題にした制作を続け、並行して行った詩作との関わりは、手彩色で発行された素描集『蝶と貝殻』(1934年)にまとめられました。蝶を主題とした作品は同時代の古賀春江らにも見られますが、フランスに渡りたいと願いながらも叶わなかった三岸の理想が、風に乗って日本海を横断するという蝶の生態に重ねられ、彼特有のロマンティシズムとともに表されているといえるでしょう。

  • ジョルジュ・ルオー「スペイン人の女Ⅰ」1937年<br />ジョルジュ・ルオーは、フォーヴィスムに分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。 <br />ルオーは、パリの美術学校でアンリ・マティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いですが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家でした。

    ジョルジュ・ルオー「スペイン人の女Ⅰ」1937年
    ジョルジュ・ルオーは、フォーヴィスムに分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。
    ルオーは、パリの美術学校でアンリ・マティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いですが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家でした。

  • 三岸好太郎「少年道化」1932年(昭和7)頃<br />1921年(大正10)、札幌一中を卒業後に上京し、白樺美術館第1回展でセザンヌとゴッホの作品を見て刺激を受けた三岸好太郎は、春陽会主催の展覧会で入選、入賞を重ねて画壇にデビューしました。初期の作品は、岸田劉生を中心とする草土社風の暗い色調の画面に、この時期評判を呼んでいたアンリ・ルソーの作風を加味したものです。以後、「静かに朗らかな雰囲気、又その内に浮漾する或る唐突さを感じさせるグロテスクな、又フアンタステイツクな感じ、そう云うふ味」と絵画の本質的要素―形と形が並び合い、色と色が隣り合うことによって生まれる美―を融合させて描くことが三岸にとって大きなテーマとなりました。<br />  三岸の画業のなかでもひときわ暗く、重い画風の「道化」を中心とするシリーズは、1926年(大正15)に異国情緒漂う植民地都市、上海を旅行し、そこで見たサーカス団の道化役者の姿に触発されたことからはじまります。春陽会第7回展(1929年)に出品した《少年道化》(東京国立近代美術館)を皮切りに、不気味な笑みをたたえた《マリオネット》(1930年、北海道立三岸好太郎美術館)を経て、ジョルジュ・ルオーの感化がうかがわれる作品にいたるこのシリーズからは、三岸のロマンティシスムの一端をみることができます。1932年頃に描かれた本作品には、まさにルオーの影響によるフォーヴィスム風の激しい筆触や大胆な色づかいが顕著に表われています。そして不透明な油絵具を厚塗りし、透明な絵具を薄塗りするという技法を巧みに使いこなした本作品から、たんなる西洋の前衛美術の模倣という域にとどまらない、三岸の鋭敏な感性が伝わってきます。

    三岸好太郎「少年道化」1932年(昭和7)頃
    1921年(大正10)、札幌一中を卒業後に上京し、白樺美術館第1回展でセザンヌとゴッホの作品を見て刺激を受けた三岸好太郎は、春陽会主催の展覧会で入選、入賞を重ねて画壇にデビューしました。初期の作品は、岸田劉生を中心とする草土社風の暗い色調の画面に、この時期評判を呼んでいたアンリ・ルソーの作風を加味したものです。以後、「静かに朗らかな雰囲気、又その内に浮漾する或る唐突さを感じさせるグロテスクな、又フアンタステイツクな感じ、そう云うふ味」と絵画の本質的要素―形と形が並び合い、色と色が隣り合うことによって生まれる美―を融合させて描くことが三岸にとって大きなテーマとなりました。
     三岸の画業のなかでもひときわ暗く、重い画風の「道化」を中心とするシリーズは、1926年(大正15)に異国情緒漂う植民地都市、上海を旅行し、そこで見たサーカス団の道化役者の姿に触発されたことからはじまります。春陽会第7回展(1929年)に出品した《少年道化》(東京国立近代美術館)を皮切りに、不気味な笑みをたたえた《マリオネット》(1930年、北海道立三岸好太郎美術館)を経て、ジョルジュ・ルオーの感化がうかがわれる作品にいたるこのシリーズからは、三岸のロマンティシスムの一端をみることができます。1932年頃に描かれた本作品には、まさにルオーの影響によるフォーヴィスム風の激しい筆触や大胆な色づかいが顕著に表われています。そして不透明な油絵具を厚塗りし、透明な絵具を薄塗りするという技法を巧みに使いこなした本作品から、たんなる西洋の前衛美術の模倣という域にとどまらない、三岸の鋭敏な感性が伝わってきます。

  • ジョルジュ・ルオーと三岸好太郎の作品が並べて展示されています。

    ジョルジュ・ルオーと三岸好太郎の作品が並べて展示されています。

  • 前田寛治「少女像」1928年(昭和3)<br />鳥取県東伯郡に生まれた前田は、高校までを郷里で過ごし、その後東京美術学校西洋画科に学びました。1922年(大正11)、倉敷で開かれた大原コレクション展を見た前田は強い感銘を受け、その年のうちに渡仏します。パリではとくにクールベのレアリスム(写実主義)や同時代のフォーヴィスムに傾倒し、労働者や工場などをモティーフにした作品を多数制作するとともに、同郷の福本和夫に社会主義の思想的影響を受けました。<br />  1925年(大正14)に帰国すると、帝展に出品し特選を受賞するなど中央画壇での活動を活発に行なう一方で、里見勝蔵、佐伯祐三などと「1930年協会」を結成しました。前田らがつぎつぎに発表する、フォーヴィスムの雰囲気を伝える作品は、当時の若い画家たちを魅了しました。

    前田寛治「少女像」1928年(昭和3)
    鳥取県東伯郡に生まれた前田は、高校までを郷里で過ごし、その後東京美術学校西洋画科に学びました。1922年(大正11)、倉敷で開かれた大原コレクション展を見た前田は強い感銘を受け、その年のうちに渡仏します。パリではとくにクールベのレアリスム(写実主義)や同時代のフォーヴィスムに傾倒し、労働者や工場などをモティーフにした作品を多数制作するとともに、同郷の福本和夫に社会主義の思想的影響を受けました。
     1925年(大正14)に帰国すると、帝展に出品し特選を受賞するなど中央画壇での活動を活発に行なう一方で、里見勝蔵、佐伯祐三などと「1930年協会」を結成しました。前田らがつぎつぎに発表する、フォーヴィスムの雰囲気を伝える作品は、当時の若い画家たちを魅了しました。

  • 前田寛治「後向きの裸婦」1927年(昭和2)頃<br />本作品は、前田が1930年協会の活動に没頭していた頃のものであり、この頃数多く発表した裸婦の大作のひとつです。彼は写実技法で追求すべき要訣を「質感を得ること」、「量感を得ること」、「実在感を得ること」の3つにまとめていますが、この裸婦像にもそれら三要素が巧みに表現されています。<br />  褐色を基調に深緑や濃紺が混ざった翳りのある室内を背景として、寝椅子には裸婦が横たわっています。こちらに背中を向ける女性の横臥像は、アングルの《グランド・オダリスク》(1814年、ルーヴル美術館)を思い起こさせます。寝椅子と裸婦の背中の曲線は同じカーヴを描いており、画面に一定方向の運動性をもたらしています。そして、この裸婦像では、見る者はなによりも裸婦のどっしりとした量感に圧倒されます。体のねじれや立体感、とくに暗闇に浮かび上がるかのような肌の明るさは、質感と存在感を呼びおこします。クールベを独学で理解した前田の写実への執着がうかがえる作品です。<br />

    前田寛治「後向きの裸婦」1927年(昭和2)頃
    本作品は、前田が1930年協会の活動に没頭していた頃のものであり、この頃数多く発表した裸婦の大作のひとつです。彼は写実技法で追求すべき要訣を「質感を得ること」、「量感を得ること」、「実在感を得ること」の3つにまとめていますが、この裸婦像にもそれら三要素が巧みに表現されています。
     褐色を基調に深緑や濃紺が混ざった翳りのある室内を背景として、寝椅子には裸婦が横たわっています。こちらに背中を向ける女性の横臥像は、アングルの《グランド・オダリスク》(1814年、ルーヴル美術館)を思い起こさせます。寝椅子と裸婦の背中の曲線は同じカーヴを描いており、画面に一定方向の運動性をもたらしています。そして、この裸婦像では、見る者はなによりも裸婦のどっしりとした量感に圧倒されます。体のねじれや立体感、とくに暗闇に浮かび上がるかのような肌の明るさは、質感と存在感を呼びおこします。クールベを独学で理解した前田の写実への執着がうかがえる作品です。

  • エピローグ フジタ-日本とフランスの往還の果てに<br /> 本展のエピローグをかざるのは、日本人というアイデンティティに翻弄されながらも、フランス人として生涯を終えたレオナール・フジタ(藤田嗣治)です。<br />

    エピローグ フジタ-日本とフランスの往還の果てに
    本展のエピローグをかざるのは、日本人というアイデンティティに翻弄されながらも、フランス人として生涯を終えたレオナール・フジタ(藤田嗣治)です。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「キュビスム風静物」1914年<br />1913年に念願の渡仏を果たしたフジタは、翌年2月頃に初めてピカソのアトリエを訪れました。そこでフジタは、ピカソが新たな表現を模索する中で切断したギターなど、実験的な作品を目にしています。本作品は、いまだ自身の画風を確立していない頃のフジタが、ピカソらのキュビスム絵画に触発されて描いたものと推察されます。絵筆や鉛筆、封筒、書籍などさまざまな卓上のモティーフを本来の形態から解放し、それらを自由に組み合わせて画面を構成した本作品からは、前衛的な芸術の本質に迫ろうとする画家の意気込みが感じられます。

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「キュビスム風静物」1914年
    1913年に念願の渡仏を果たしたフジタは、翌年2月頃に初めてピカソのアトリエを訪れました。そこでフジタは、ピカソが新たな表現を模索する中で切断したギターなど、実験的な作品を目にしています。本作品は、いまだ自身の画風を確立していない頃のフジタが、ピカソらのキュビスム絵画に触発されて描いたものと推察されます。絵筆や鉛筆、封筒、書籍などさまざまな卓上のモティーフを本来の形態から解放し、それらを自由に組み合わせて画面を構成した本作品からは、前衛的な芸術の本質に迫ろうとする画家の意気込みが感じられます。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「春」1953年<br />

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「春」1953年

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「秋」1953年<br /><br />

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「秋」1953年

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「姉妹」1950年<br />本作品は、戦後パリに戻ってまもなく描かれた作品で、はじめからこの八角形の額縁に納めようと考えて制作されたと思われます。額の下にアルファベットで〝フジタ〟、〝1940〟と彫られており、1940年5月にドイツ軍侵攻による陥落寸前のパリを脱出し、日本帰国後に作られたのかもしれません。その後、アトリエで鏡の額縁として使われていたことが、戦時中に撮影した写真からわかります。<br />額縁は油彩画より10年早く制作されています。画家みずから木を彫り、手製の金属装飾をあしらっています。ブリキの切り抜きが釘で留められた素朴な味わいの額だ。ハートや天使などのモティーフと絵画空間が見事に調和しています。<br />画面の大部分を占めるベッドの上では、ナイトキャップをかぶりパジャマをまとったふたりの少女が、カフェオレ・ボウルとクロワッサンの朝食をとっている。ふと食べるのをやめた左の少女はこちらをにらんでいるかのように見つめています。右の少女は左側の少女のほうをたしなめるようにそっと見つめています。少女ふたりの性格の違いも的確に表現されていることがわかります。また、交わらないふたりの視線からは、起きたときのけだるさが伝わってきます。<br />黒い背景に白いベッドとシンプルな色彩構成ですが、白いナプキンには赤で、また白い食器には青で細い線がアクセントとして引かれ、それらと淡い色の色違いのパジャマと相まっています。<br />

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「姉妹」1950年
    本作品は、戦後パリに戻ってまもなく描かれた作品で、はじめからこの八角形の額縁に納めようと考えて制作されたと思われます。額の下にアルファベットで〝フジタ〟、〝1940〟と彫られており、1940年5月にドイツ軍侵攻による陥落寸前のパリを脱出し、日本帰国後に作られたのかもしれません。その後、アトリエで鏡の額縁として使われていたことが、戦時中に撮影した写真からわかります。
    額縁は油彩画より10年早く制作されています。画家みずから木を彫り、手製の金属装飾をあしらっています。ブリキの切り抜きが釘で留められた素朴な味わいの額だ。ハートや天使などのモティーフと絵画空間が見事に調和しています。
    画面の大部分を占めるベッドの上では、ナイトキャップをかぶりパジャマをまとったふたりの少女が、カフェオレ・ボウルとクロワッサンの朝食をとっている。ふと食べるのをやめた左の少女はこちらをにらんでいるかのように見つめています。右の少女は左側の少女のほうをたしなめるようにそっと見つめています。少女ふたりの性格の違いも的確に表現されていることがわかります。また、交わらないふたりの視線からは、起きたときのけだるさが伝わってきます。
    黒い背景に白いベッドとシンプルな色彩構成ですが、白いナプキンには赤で、また白い食器には青で細い線がアクセントとして引かれ、それらと淡い色の色違いのパジャマと相まっています。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「ラ・フォンテーヌ頌」1949年<br />擬人化されたキツネの家族が食卓を囲んでいる場面。子どもたちが喧嘩をしたり、床で行儀悪く食事をしているため、キツネの夫婦はなかなか食べはじめることができません。舞台となっている室内には、フジタが理想の家として1948年に製作したマケット(建築模型)にみられる厨房や階段、暖炉などがあり、壁にはカラスとキツネを描いた絵が架けられています。この絵は、17世紀の作家ジャン・ド・ラ・フォンテーヌによる『寓話』全12巻のうちの「カラスとキツネ」の一場面を描いたものです。チーズを食べようとしていたカラスが、キツネに美声の持ち主だとおだてられ、声を発しようとした瞬間にチーズを落とし、それを奪われてしまうという話です。

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「ラ・フォンテーヌ頌」1949年
    擬人化されたキツネの家族が食卓を囲んでいる場面。子どもたちが喧嘩をしたり、床で行儀悪く食事をしているため、キツネの夫婦はなかなか食べはじめることができません。舞台となっている室内には、フジタが理想の家として1948年に製作したマケット(建築模型)にみられる厨房や階段、暖炉などがあり、壁にはカラスとキツネを描いた絵が架けられています。この絵は、17世紀の作家ジャン・ド・ラ・フォンテーヌによる『寓話』全12巻のうちの「カラスとキツネ」の一場面を描いたものです。チーズを食べようとしていたカラスが、キツネに美声の持ち主だとおだてられ、声を発しようとした瞬間にチーズを落とし、それを奪われてしまうという話です。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『お梅さんの三度目の青春』(ピエール・ロティ著)》1926年刊

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『お梅さんの三度目の青春』(ピエール・ロティ著)》1926年刊

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「御遠足」トマ・ローカ著 1927年刊<br />著者のトマ・ローカは第一次世界大戦に従軍したフランス軍パイロットで、1920年代、航空訓練の教官として日本に滞在した時の体験をもとに本書を執筆しました。庶民の生活や習慣などの日常的な風景が、フジタによる軽やかで戯画的な挿絵に彩られて活き活きと描かれています。<br />

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「御遠足」トマ・ローカ著 1927年刊
    著者のトマ・ローカは第一次世界大戦に従軍したフランス軍パイロットで、1920年代、航空訓練の教官として日本に滞在した時の体験をもとに本書を執筆しました。庶民の生活や習慣などの日常的な風景が、フジタによる軽やかで戯画的な挿絵に彩られて活き活きと描かれています。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「日本昔噺」1922年刊<br />フジタの水彩画に基づく66点の挿絵が入った、13篇の日本の寓話、神話、伝説からなる本。

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「日本昔噺」1922年刊
    フジタの水彩画に基づく66点の挿絵が入った、13篇の日本の寓話、神話、伝説からなる本。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『海龍』(ジャン・コクトー著)》1955年刊<br />1936年、詩人で劇作家のジャン・コクトーはフランスの夕刊紙パリ・ソワールの企画した世界一周旅行に出かけます。フジタは、コクトーの日本滞在中、東京での案内役を務め、日本にまつわる本書の為に25点の新作の挿絵をかきおろしています。

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『海龍』(ジャン・コクトー著)》1955年刊
    1936年、詩人で劇作家のジャン・コクトーはフランスの夕刊紙パリ・ソワールの企画した世界一周旅行に出かけます。フジタは、コクトーの日本滞在中、東京での案内役を務め、日本にまつわる本書の為に25点の新作の挿絵をかきおろしています。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『海龍』(ジャン・コクトー著)》<br />

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『海龍』(ジャン・コクトー著)》

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『海龍』(ジャン・コクトー著)》

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)《『海龍』(ジャン・コクトー著)》

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