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ポーラ美術館で11/14より開幕した「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」の展覧会の紹介です。<br />以下、ポーラ美術館「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」HPより参照<br />第2章 1900年パリ万博-日本のヌード、その誕生と展開<br />ジャポニスムの影響を強く受けた印象派の作風は、フランス・アカデミスムの世界にも波及し、写実的な人物像と柔らかな光の描写を融合させた作品が多く描かれました。<br />やがて近代日本の洋画界へとその作風は受け継がれます。黒田清輝や岡田三郎助らの明るい色彩表現を特徴とする「外光派」が、新しい潮流を生み出したのです。特に、留学中に師事したラファエル・コランに大きく感化された黒田は、日本に裸体表現を根付かせようと苦心します。<br />第3章 大正の輝き-ゴッホ、セザンヌ、ルノワールと日本の洋画家たち<br />1912年-大正時代の幕開けとともに、日本の近代美術は大きな変革期を迎えます。<br />文芸雑誌『白樺』などを通じて、ゴッホやセザンヌ、ルノワールらを熱烈に支持し、その作風だけでなく生き方にまで感化される芸術家が続出しました。萬鐵五郎や岸田劉生も、1912年にゴッホの影響が顕著な作品を残しています。また、フランス留学中にセザンヌの作品に大きな感銘を受けた安井曾太郎は、帰国後セザンヌ調の静物画や裸婦群像を発表しています。<br />さらにこの頃、美術雑誌や帰国した留学生により西洋美術の動向がもたらされる一方で、日本人による西洋美術の本格的な収集も始まりました。<br />※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。

ポーラ美術館「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」- 第2章1900年パリ万博・第3章大正の輝き

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2020/11/14 - 2020/11/14

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ポーラ美術館で11/14より開幕した「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」の展覧会の紹介です。
以下、ポーラ美術館「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」HPより参照
第2章 1900年パリ万博-日本のヌード、その誕生と展開
ジャポニスムの影響を強く受けた印象派の作風は、フランス・アカデミスムの世界にも波及し、写実的な人物像と柔らかな光の描写を融合させた作品が多く描かれました。
やがて近代日本の洋画界へとその作風は受け継がれます。黒田清輝や岡田三郎助らの明るい色彩表現を特徴とする「外光派」が、新しい潮流を生み出したのです。特に、留学中に師事したラファエル・コランに大きく感化された黒田は、日本に裸体表現を根付かせようと苦心します。
第3章 大正の輝き-ゴッホ、セザンヌ、ルノワールと日本の洋画家たち
1912年-大正時代の幕開けとともに、日本の近代美術は大きな変革期を迎えます。
文芸雑誌『白樺』などを通じて、ゴッホやセザンヌ、ルノワールらを熱烈に支持し、その作風だけでなく生き方にまで感化される芸術家が続出しました。萬鐵五郎や岸田劉生も、1912年にゴッホの影響が顕著な作品を残しています。また、フランス留学中にセザンヌの作品に大きな感銘を受けた安井曾太郎は、帰国後セザンヌ調の静物画や裸婦群像を発表しています。
さらにこの頃、美術雑誌や帰国した留学生により西洋美術の動向がもたらされる一方で、日本人による西洋美術の本格的な収集も始まりました。
※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通手段
自家用車

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  • 第2章 1900年パリ万博-日本のヌード、その誕生と展開<br />フランスに留学した黒田清輝や岡田三郎助らの明るい色彩表現を特徴とする「外光派」が、新しい潮流を生み出しました。<br />特に黒田は、日本に裸体表現を根付かせようと苦心します。<br />

    第2章 1900年パリ万博-日本のヌード、その誕生と展開
    フランスに留学した黒田清輝や岡田三郎助らの明るい色彩表現を特徴とする「外光派」が、新しい潮流を生み出しました。
    特に黒田は、日本に裸体表現を根付かせようと苦心します。

  • 五姓田義松「銭湯」東京藝術大学所蔵

    五姓田義松「銭湯」東京藝術大学所蔵

  • 五姓田義松「西洋婦人像」明治14年(1881) 東京藝術大学所蔵<br />

    五姓田義松「西洋婦人像」明治14年(1881) 東京藝術大学所蔵

  • 百武兼行「臥裸婦」 1881年頃 Artizon Museum所蔵<br />百武兼行は、日本の洋画家、外交官。幕末・明治維新を経て1871年岩倉使節団を皮切りに計3回渡欧し、この滞欧期間中に洋画を学び製作活動を行っています。本来は画家ではなく外務書記官であり、また帰国後には農商務省へ出仕した政府役人であり、日本美術史において日本人初の洋画家として評価が確立されていません。 1880(明治13)年~1882(明治15)年、駐伊公使となった鍋島直大に随行してローマに赴く。ちなみに、この赴任時に描いた「臥裸婦」が、日本人が油絵で描いた最初の裸婦といわれています。<br />※本作品は本展覧会では写真撮影不可となっていました。写真はArtizon Museum 開館記念展にて撮影したものです。

    百武兼行「臥裸婦」 1881年頃 Artizon Museum所蔵
    百武兼行は、日本の洋画家、外交官。幕末・明治維新を経て1871年岩倉使節団を皮切りに計3回渡欧し、この滞欧期間中に洋画を学び製作活動を行っています。本来は画家ではなく外務書記官であり、また帰国後には農商務省へ出仕した政府役人であり、日本美術史において日本人初の洋画家として評価が確立されていません。 1880(明治13)年~1882(明治15)年、駐伊公使となった鍋島直大に随行してローマに赴く。ちなみに、この赴任時に描いた「臥裸婦」が、日本人が油絵で描いた最初の裸婦といわれています。
    ※本作品は本展覧会では写真撮影不可となっていました。写真はArtizon Museum 開館記念展にて撮影したものです。

  • ラファエル・コラン「田園恋愛詩」1882年 東京藝術大学所蔵<br />

    ラファエル・コラン「田園恋愛詩」1882年 東京藝術大学所蔵

  • ラファエル・コラン「フロレアル(花月)」1886年 オルセー美術館(アラス美術館委託)<br />黒田清輝や岡田三郎助を通じて、後の日本の近代洋画界に多大な影響を与えたラファエル・コラン。本作品は、1886年のサロン出品作であるコランの代表作。本作には複数のヴァリエーションが残されており、本展にも東京藝術大学所蔵のものと本作のオルセー美術館所蔵の2点が出展されています。

    ラファエル・コラン「フロレアル(花月)」1886年 オルセー美術館(アラス美術館委託)
    黒田清輝や岡田三郎助を通じて、後の日本の近代洋画界に多大な影響を与えたラファエル・コラン。本作品は、1886年のサロン出品作であるコランの代表作。本作には複数のヴァリエーションが残されており、本展にも東京藝術大学所蔵のものと本作のオルセー美術館所蔵の2点が出展されています。

  • ラファエル・コラン「眠り」1892年 芸術家財団<br />数多くの裸婦像を残した黒田清輝の代表作「野辺」。<br />本作品はこれまで、黒田の師ラファエル・コランが、草原に寝そべる女性を俯瞰で描いた「眠り」との影響関係が指摘されてきました。1900年のパリ万博の会場で「眠り」を直接目にしたとされる黒田は、帰国後、様々な改変を加えながらも師の作品と酷似する「野辺」を描きます。<br /><br />この度、長年所在不明とされてきた《眠り》が初来日し、黒田の作品とともに120年ぶりに公開されます。<br />

    ラファエル・コラン「眠り」1892年 芸術家財団
    数多くの裸婦像を残した黒田清輝の代表作「野辺」。
    本作品はこれまで、黒田の師ラファエル・コランが、草原に寝そべる女性を俯瞰で描いた「眠り」との影響関係が指摘されてきました。1900年のパリ万博の会場で「眠り」を直接目にしたとされる黒田は、帰国後、様々な改変を加えながらも師の作品と酷似する「野辺」を描きます。

    この度、長年所在不明とされてきた《眠り》が初来日し、黒田の作品とともに120年ぶりに公開されます。

  • 黒田清輝「野辺」1907年(明治40)<br />鹿児島に薩摩藩士、黒田清兼の長男として生まれた黒田清輝は、元老院議員などを歴任して子爵となった叔父、清綱の養嫡子となり上京し、清綱邸で少年時代を過ごしました。黒田は1884年(明治17)、17歳で法律を学ぶためフランスに留学したが、その後画家になることを決意します。彼は1886年(明治19)にアカデミー・コラロッシのラファエル・コラン教室に入学し、翌年法律大学校を辞すると、1893年(明治26)に帰国するまで画業の研鑽に励ました。コランは外光描写を採り入れた優美な女性像、裸婦像を得意とする画家であり、黒田の帰国によってそれまでに見ることのなかった、自由で明るさに溢れた作品が日本の洋画界にもたらされました。彼は後半生は美術教育、美術行政の中心人物としても活躍しました。<br />  この作品が描かれた同じ年に黒田清輝は、野原に3人の裸婦が憩う《花野》(東京文化財研究所)の画稿に着手しています。《花野》は黒田の後期の未完の大作とされています。自然のなかに裸婦を描いた本作品とともに、この頃黒田はかつて師事したコランの作風に再び回帰したようです。黒田は、作品《智・感・情》《湖畔》(いずれも東京文化財研究所)などを出品した1900年のパリ万国博覧会を訪れているが、そこには本作品と酷似した主題、構図のコランの作品、草地に仰向けに横たわる裸婦の上半身を描いた《眠り》、また庭に3人の女性が集う《庭の隅》(1895年、前田育徳会)などが出品されていました。こうしたコランの作品に触発されたのであろうか、本作品は、微妙な色彩を用いた繊細な光あふれる画面をもち、甘美で魅惑的な詩情をたたえています。<br /> 「野辺」は、黒田らが自由な発表の場として創設した美術団体、白馬会の第11回展に出品されました。また、本作品の素描習作は、耽美的な異国趣味を漂わせた詩篇を掲載したことで知られる、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄らパンの会の詩人たちの文芸雑誌『屋上庭園』の創刊号(明治42年)の表紙となりました。

    黒田清輝「野辺」1907年(明治40)
    鹿児島に薩摩藩士、黒田清兼の長男として生まれた黒田清輝は、元老院議員などを歴任して子爵となった叔父、清綱の養嫡子となり上京し、清綱邸で少年時代を過ごしました。黒田は1884年(明治17)、17歳で法律を学ぶためフランスに留学したが、その後画家になることを決意します。彼は1886年(明治19)にアカデミー・コラロッシのラファエル・コラン教室に入学し、翌年法律大学校を辞すると、1893年(明治26)に帰国するまで画業の研鑽に励ました。コランは外光描写を採り入れた優美な女性像、裸婦像を得意とする画家であり、黒田の帰国によってそれまでに見ることのなかった、自由で明るさに溢れた作品が日本の洋画界にもたらされました。彼は後半生は美術教育、美術行政の中心人物としても活躍しました。
     この作品が描かれた同じ年に黒田清輝は、野原に3人の裸婦が憩う《花野》(東京文化財研究所)の画稿に着手しています。《花野》は黒田の後期の未完の大作とされています。自然のなかに裸婦を描いた本作品とともに、この頃黒田はかつて師事したコランの作風に再び回帰したようです。黒田は、作品《智・感・情》《湖畔》(いずれも東京文化財研究所)などを出品した1900年のパリ万国博覧会を訪れているが、そこには本作品と酷似した主題、構図のコランの作品、草地に仰向けに横たわる裸婦の上半身を描いた《眠り》、また庭に3人の女性が集う《庭の隅》(1895年、前田育徳会)などが出品されていました。こうしたコランの作品に触発されたのであろうか、本作品は、微妙な色彩を用いた繊細な光あふれる画面をもち、甘美で魅惑的な詩情をたたえています。
    「野辺」は、黒田らが自由な発表の場として創設した美術団体、白馬会の第11回展に出品されました。また、本作品の素描習作は、耽美的な異国趣味を漂わせた詩篇を掲載したことで知られる、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄らパンの会の詩人たちの文芸雑誌『屋上庭園』の創刊号(明治42年)の表紙となりました。

  • 本展のハイライトの1つラファエル・コラン × 黒田清輝です。

    本展のハイライトの1つラファエル・コラン × 黒田清輝です。

  • ジョルジュ・ビゴー フェルナン・ガネスコ著「日本におけるショッキング」

    ジョルジュ・ビゴー フェルナン・ガネスコ著「日本におけるショッキング」

  • 岡田三郎助「裸婦」1917年(大正6)<br />岡田三郎助は、6歳で上京し旧佐賀藩主の鍋島直大邸内に身を寄せていましたが、そこで同郷の百武兼行の油絵に触れ、洋画に関心をもちました。曾山幸彦の塾に入門し研鑚をつんだあと、フランス帰りの黒田清輝と久米桂一郎が指導する天真道場に入門します。1896年(明治29)白馬会の創立に参加するとともに、東京美術学校に新設された西洋画科の助教授に就任し、翌年には西洋画研究の第1回文部省留学生として渡仏、黒田の師ラファエル・コランに学び、帰国後は東京美術学校で多くの後進を育成しました。<br />

    岡田三郎助「裸婦」1917年(大正6)
    岡田三郎助は、6歳で上京し旧佐賀藩主の鍋島直大邸内に身を寄せていましたが、そこで同郷の百武兼行の油絵に触れ、洋画に関心をもちました。曾山幸彦の塾に入門し研鑚をつんだあと、フランス帰りの黒田清輝と久米桂一郎が指導する天真道場に入門します。1896年(明治29)白馬会の創立に参加するとともに、東京美術学校に新設された西洋画科の助教授に就任し、翌年には西洋画研究の第1回文部省留学生として渡仏、黒田の師ラファエル・コランに学び、帰国後は東京美術学校で多くの後進を育成しました。

  • 岡田三郎助「裸婦-水辺に立てる」1931年(昭和6)<br />「水浴の前」(大正5年 Artizon Museum所蔵)以降、岡田は森の中の水辺、あるいは水浴の裸婦像をさかんに描いています。本作はその代表的な作で、水面に波紋を残し、今まさに水からあがった女性のあでやかな姿が描かれています。画面左右に配された木々と足元の水辺等、画面外辺を囲むように暗さを配し、中央の森の奥手の明るさと、裸婦のきめこまやかな白い肌を浮かびあがらせています。  水辺の裸婦は19世紀のフランス絵画においてしばしば描かれ、岡田の師コランも好んだ題材でした。岡田は西洋の画題の中に日本の女性を登場させ、自身にとっての理想化された裸婦を創出しようとしました。

    岡田三郎助「裸婦-水辺に立てる」1931年(昭和6)
    「水浴の前」(大正5年 Artizon Museum所蔵)以降、岡田は森の中の水辺、あるいは水浴の裸婦像をさかんに描いています。本作はその代表的な作で、水面に波紋を残し、今まさに水からあがった女性のあでやかな姿が描かれています。画面左右に配された木々と足元の水辺等、画面外辺を囲むように暗さを配し、中央の森の奥手の明るさと、裸婦のきめこまやかな白い肌を浮かびあがらせています。  水辺の裸婦は19世紀のフランス絵画においてしばしば描かれ、岡田の師コランも好んだ題材でした。岡田は西洋の画題の中に日本の女性を登場させ、自身にとっての理想化された裸婦を創出しようとしました。

  • 満谷国四郎「樹下裸婦」1921年(大正10)<br />岡山県に生まれた満谷国四郎は、画家を志して17歳で上京し、小山正太郎に入門します。師の小山は明治期の洋画教育の第一人者とされ、代表作《濁醪療渇黄葉村店》など歴史的主題を扱った厳格な写実性を得意としていました。その教えを受けて、この頃の満谷の作品には明暗のコントラストの強い写実的な表現がみられるます。しかしその後、1911年(明治44)、大原コレクションで知られる大原孫三郎の援助により渡欧した際にさまざまな画家の影響を受け画風を変えます。満谷は、カーニュにルノワールを直接訪ねたことが知られているほか、セザンヌの作品から造形的な特徴を採り入れたことが指摘されており、また、1910年以降の作品には、ゴーガンや象徴派の画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌなどの影響もみられます。帰国してからも文芸雑誌『白樺』の図版などで、同時代の西洋美術の潮流を知ることができたため、満谷の作品にも、さまざまな画家の実験的な試みが反映されています。<br />  本作品には「1921」の年記がみられ、それを証明するかのように、画面には1920年頃の作品に多く見られる杏の木が描かれています。そしてその木の下には腰布を巻いた裸婦がひざまずく。樹下美人図は《鳥毛立女屏風》(正倉院)に代表される日本の伝統的なテーマであり、近代になってもよく描かれました。テーマは伝統的であるが、この作品の描法は新しい試みに満ちており、それは形のとらえ方に表われています。やわらかな丸みを帯びた裸婦の身体の肌色と布の白、地面の褐色や緑のコントラストなど、色と色を並べることによって物の境界が明らかにされています。このような単純化や平面化はときに「装飾的」と呼ばれる、新しい表現でした。

    満谷国四郎「樹下裸婦」1921年(大正10)
    岡山県に生まれた満谷国四郎は、画家を志して17歳で上京し、小山正太郎に入門します。師の小山は明治期の洋画教育の第一人者とされ、代表作《濁醪療渇黄葉村店》など歴史的主題を扱った厳格な写実性を得意としていました。その教えを受けて、この頃の満谷の作品には明暗のコントラストの強い写実的な表現がみられるます。しかしその後、1911年(明治44)、大原コレクションで知られる大原孫三郎の援助により渡欧した際にさまざまな画家の影響を受け画風を変えます。満谷は、カーニュにルノワールを直接訪ねたことが知られているほか、セザンヌの作品から造形的な特徴を採り入れたことが指摘されており、また、1910年以降の作品には、ゴーガンや象徴派の画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌなどの影響もみられます。帰国してからも文芸雑誌『白樺』の図版などで、同時代の西洋美術の潮流を知ることができたため、満谷の作品にも、さまざまな画家の実験的な試みが反映されています。
     本作品には「1921」の年記がみられ、それを証明するかのように、画面には1920年頃の作品に多く見られる杏の木が描かれています。そしてその木の下には腰布を巻いた裸婦がひざまずく。樹下美人図は《鳥毛立女屏風》(正倉院)に代表される日本の伝統的なテーマであり、近代になってもよく描かれました。テーマは伝統的であるが、この作品の描法は新しい試みに満ちており、それは形のとらえ方に表われています。やわらかな丸みを帯びた裸婦の身体の肌色と布の白、地面の褐色や緑のコントラストなど、色と色を並べることによって物の境界が明らかにされています。このような単純化や平面化はときに「装飾的」と呼ばれる、新しい表現でした。

  • 和田英作「思郷」1902年(明治35)東京藝術大学所蔵<br />和田英作(1874-1959)は、明治・大正・昭和を通じて洋画壇の重鎮として偉大な業績を残し、日本近代洋画の礎を築きました。堅実な写生を基礎にした穏健な画風を生涯守り続け、富士山をモチーフとした風景画、肖像画、薔薇の静物画などを情感豊かに描きました。<br /> 1874(明治7)年に鹿児島県垂水市で生まれた和田は、13歳頃から洋画を学び始め、曽山幸彦、原田直次郎から指導を受けます。その後、天真道場に入門し、黒田清輝や久米桂一郎に学び、1896(明治29)年の白馬会の結成に参加。同年開設された東京美術学校西洋画科の助教授に招聘されるも、和田は同職を辞して同科選科4年級に編入し、名作として名高い《渡頭の夕暮》を卒業制作として描きます。その後、4年間滞欧し、1900年から約3年間フランスで学びましだ。サロン・デ・ザルティスト・フランセに見事入選を果たし、ラファエル・コランより祝福を受けました。本作は、当時パリの日本料亭・巴屋で働いていた女性・板原はつ子をモデルに描いたもの。その後1903(明治36)年に帰国。33歳の若さで文展の審査員となり、1932(昭和7)年に東京美術学校の校長に就任、1943(昭和18)年には文化勲章を受章するなど、洋画壇を代表する画家として活躍し、日本洋画のアカデミズムの確立に貢献しました。

    和田英作「思郷」1902年(明治35)東京藝術大学所蔵
    和田英作(1874-1959)は、明治・大正・昭和を通じて洋画壇の重鎮として偉大な業績を残し、日本近代洋画の礎を築きました。堅実な写生を基礎にした穏健な画風を生涯守り続け、富士山をモチーフとした風景画、肖像画、薔薇の静物画などを情感豊かに描きました。
     1874(明治7)年に鹿児島県垂水市で生まれた和田は、13歳頃から洋画を学び始め、曽山幸彦、原田直次郎から指導を受けます。その後、天真道場に入門し、黒田清輝や久米桂一郎に学び、1896(明治29)年の白馬会の結成に参加。同年開設された東京美術学校西洋画科の助教授に招聘されるも、和田は同職を辞して同科選科4年級に編入し、名作として名高い《渡頭の夕暮》を卒業制作として描きます。その後、4年間滞欧し、1900年から約3年間フランスで学びましだ。サロン・デ・ザルティスト・フランセに見事入選を果たし、ラファエル・コランより祝福を受けました。本作は、当時パリの日本料亭・巴屋で働いていた女性・板原はつ子をモデルに描いたもの。その後1903(明治36)年に帰国。33歳の若さで文展の審査員となり、1932(昭和7)年に東京美術学校の校長に就任、1943(昭和18)年には文化勲章を受章するなど、洋画壇を代表する画家として活躍し、日本洋画のアカデミズムの確立に貢献しました。

  • 岡田三郎助「あやめの衣」1927年(昭和2)<br />岡田の作風の特徴は、何よりもその優美で典雅な女性像にあるが、それはコランのもとで培われたといってもよいでしょう。彼はコランの代表作《花月(フロレアル)》にみられるような、繊細な筆致と上品な色調を徐々に自己の画風として定着させていきました。《紫の調(某婦人の肖像)》(1907年)、《萩》(1908年)などに見られます、女性特有のきめ細かくやわらかな肌合いの表現と、洗練された装飾性を見事に結実させたのが、この「あやめの衣」です。池水に見立てた明るい藍地に白く浮き上がるあやめの模様、それと帯状に配された朱紅色が美しく調和する衣が、本作品の主役です。その衣をまとった後ろ姿の女性は、櫨染調(黄金色)の背景のうえに、油絵具で描かれている。日本の伝統的な美意識と手法が油彩画に導入されており、岡田のあくことのない研究の成果をうかがい知ることができます。

    岡田三郎助「あやめの衣」1927年(昭和2)
    岡田の作風の特徴は、何よりもその優美で典雅な女性像にあるが、それはコランのもとで培われたといってもよいでしょう。彼はコランの代表作《花月(フロレアル)》にみられるような、繊細な筆致と上品な色調を徐々に自己の画風として定着させていきました。《紫の調(某婦人の肖像)》(1907年)、《萩》(1908年)などに見られます、女性特有のきめ細かくやわらかな肌合いの表現と、洗練された装飾性を見事に結実させたのが、この「あやめの衣」です。池水に見立てた明るい藍地に白く浮き上がるあやめの模様、それと帯状に配された朱紅色が美しく調和する衣が、本作品の主役です。その衣をまとった後ろ姿の女性は、櫨染調(黄金色)の背景のうえに、油絵具で描かれている。日本の伝統的な美意識と手法が油彩画に導入されており、岡田のあくことのない研究の成果をうかがい知ることができます。

  • 藤島武二「女の横顔」大正15-昭和2年(1926-1927)<br />藤島武二は島津藩士、藤島賢方の三男として鹿児島に生まれました。洋画家を志し17歳で上京しますが、明治20年代の国粋主義によって洋画が排斥されるなか、日本画家の川端玉章に学びます。その後23歳で曽山幸彦の画塾に入門し、念願の洋画研究を開始しました。1896年(明治29)、新設された東京美術学校西洋画科の助教授に黒田清輝の推薦を受けて就任し、明治30年代前半、彼の外光主義から強い影響を受けます。明治34年から6年間ほど雑誌『明星』の表紙絵、挿絵を担当。また明治30年代後半には《天平の面影》(1902年、Artizon Museum)など明治浪漫主義の時代を代表する作品を発表し、青木繁ら画家のみならず文芸思潮に大きな影響を与えました。1905年から官費留学で4年間渡欧し、パリでフェルナン・コルモンに師事した後、ローマに移りフランス人画家カロリュス=デュランに学びます。イタリア人画家ジョヴァンニ・ボルディーニからも少なからぬ影響を受け、ローマ時代には代表作「黒扇」(1908-1909年、Artizon Museum)などを制作しています。帰国後は、1924(大正13)年の第5回帝展に出品した「東洋振り」をはじめ、日本的な感性や文化的風土にもとづいた油彩画を描き続けました。<br />  中国服を着た横顔の女性を描いた《東洋振り》は、藤島の留学後10年にしてあらたな躍進の契機となった作品です。その後、横顔のシリーズは大正15年の《芳A》、《女の横顔》、《B剪眉》と続きます。《芳A》、《女の横顔》のモデルは、彦乃を失って失意にあった竹久夢二の制作意欲をかきたてた女性で、「お葉」として知られる佐々木カ子(ネ)ヨといわれています。自然を背景にした横顔の女性像はイタリア・ルネサンスの影響でありますが、《東洋振り》、《芳A》に比べると、本作品の、単純化された風景と髪飾り、服装等は藤島の後期の様式につらなるものといえます。

    藤島武二「女の横顔」大正15-昭和2年(1926-1927)
    藤島武二は島津藩士、藤島賢方の三男として鹿児島に生まれました。洋画家を志し17歳で上京しますが、明治20年代の国粋主義によって洋画が排斥されるなか、日本画家の川端玉章に学びます。その後23歳で曽山幸彦の画塾に入門し、念願の洋画研究を開始しました。1896年(明治29)、新設された東京美術学校西洋画科の助教授に黒田清輝の推薦を受けて就任し、明治30年代前半、彼の外光主義から強い影響を受けます。明治34年から6年間ほど雑誌『明星』の表紙絵、挿絵を担当。また明治30年代後半には《天平の面影》(1902年、Artizon Museum)など明治浪漫主義の時代を代表する作品を発表し、青木繁ら画家のみならず文芸思潮に大きな影響を与えました。1905年から官費留学で4年間渡欧し、パリでフェルナン・コルモンに師事した後、ローマに移りフランス人画家カロリュス=デュランに学びます。イタリア人画家ジョヴァンニ・ボルディーニからも少なからぬ影響を受け、ローマ時代には代表作「黒扇」(1908-1909年、Artizon Museum)などを制作しています。帰国後は、1924(大正13)年の第5回帝展に出品した「東洋振り」をはじめ、日本的な感性や文化的風土にもとづいた油彩画を描き続けました。
     中国服を着た横顔の女性を描いた《東洋振り》は、藤島の留学後10年にしてあらたな躍進の契機となった作品です。その後、横顔のシリーズは大正15年の《芳A》、《女の横顔》、《B剪眉》と続きます。《芳A》、《女の横顔》のモデルは、彦乃を失って失意にあった竹久夢二の制作意欲をかきたてた女性で、「お葉」として知られる佐々木カ子(ネ)ヨといわれています。自然を背景にした横顔の女性像はイタリア・ルネサンスの影響でありますが、《東洋振り》、《芳A》に比べると、本作品の、単純化された風景と髪飾り、服装等は藤島の後期の様式につらなるものといえます。

  • 第3章 大正の輝き-ゴッホ、セザンヌ、ルノワールと日本の洋画家たち<br />1912年-大正時代の幕開けとともに、日本の近代美術は大きな変革期を迎えます。<br />文芸雑誌『白樺』などを通じて、ゴッホやセザンヌ、ルノワールらを熱烈に支持し、その作風だけでなく生き方にまで感化される芸術家が続出しました。萬鐵五郎や岸田劉生も、1912年にゴッホの影響が顕著な作品を残しています。また、フランス留学中にセザンヌの作品に大きな感銘を受けた安井曾太郎は、帰国後セザンヌ調の静物画や裸婦群像を発表しています。<br />さらにこの頃、美術雑誌や帰国した留学生により西洋美術の動向がもたらされる一方で、日本人による西洋美術の本格的な収集も始まりました。<br />

    第3章 大正の輝き-ゴッホ、セザンヌ、ルノワールと日本の洋画家たち
    1912年-大正時代の幕開けとともに、日本の近代美術は大きな変革期を迎えます。
    文芸雑誌『白樺』などを通じて、ゴッホやセザンヌ、ルノワールらを熱烈に支持し、その作風だけでなく生き方にまで感化される芸術家が続出しました。萬鐵五郎や岸田劉生も、1912年にゴッホの影響が顕著な作品を残しています。また、フランス留学中にセザンヌの作品に大きな感銘を受けた安井曾太郎は、帰国後セザンヌ調の静物画や裸婦群像を発表しています。
    さらにこの頃、美術雑誌や帰国した留学生により西洋美術の動向がもたらされる一方で、日本人による西洋美術の本格的な収集も始まりました。

  • オーギュスト・ロダン「カレーの市民(第二試作)」1885年、鋳造年1977年<br />1900年のパリ万国博覧会に際し、アルマ広場のパヴィリオンにおいてロダンの大回顧展が開催され、《カレーの市民》を含む彫刻168点や、デッサンと写真約50点が出品されました。この展覧会でロダンは批評家たちの注目を集め、世界中から注文が殺到することとなりました。<br />  《カレーの市民》とよばれる群像彫刻は、イギリスとフランスが対立した百年戦争における、ある英雄たちの物語が主題となっていますが、この物語についてロダンは中世後期の歴史学者、ジャン・フロワサールの『年代記』をよりどころとしました。1347年、フランス北部のカレー市を包囲した英国王エドワード3世は、この市の6人の名士が人質となり、城塞の鍵を渡すならば包囲を解こうと提案しました。この時、ユスタッシュ・ド・サン=ピエールほか6人が死を覚悟してエドワード3世の陣営に赴きましたが、命を奪われることなく解放されました。フランス人の勇敢さとイギリス人の寛大さを象徴するこの伝説的な話をカレー市は記念碑の主題に選び、1884年にロダンに制作を依頼しました。<br />  1895年、カレー市のリシュリュー広場に設置された《カレーの市民》は、1884年の第一試作と1885年の第二試作を経て実現されましたが、本作品は後者の第二試作にあたります。第一試作についてロダンは、「自らすすんで犠牲になろうとするこれら6人の登場人物の全体が、集合的な感情の力を持っているのです」と述べ、凱旋門のような高い台座の上に6人の英雄を配する構成としましたが、第二試作で彼は、犠牲となる人々の英雄性よりはむしろ、運命に対する諦念や絶望、一瞬の躊躇を強く表現しました。さらに、6体それぞれが台座ごと独立し、それらを組み合わせてひとつの作品とする独創的な構成を試みています。ただしポーラ美術館収蔵の6体のうち、ジャン・ド・フィエンヌの像だけは組み合わせるように作られたものではなく、後で制作されたと思われるヴァリアント(異作)であるため、台座の形が異なっています。記念碑となるような群像の構成は、伝統的なピラミッド型でなければならないとする当時の慣習に反し、台座を低くし群像の高さをそろえたことなどが批判の的となったため、結局この第二試作は完成作として実現することはありませんでしたが、ロダンが強く意図した、死を覚悟した人間の重々しい歩みの姿は、そのまま完成作へと引き継がれました。完成作の石膏像は、1889年にパリのジョルジュ・プティ画廊で開催されたロダンとモネの二人展において、はじめて披露されています。<br />  第二試作は、ロダン美術館の許可のもと12作品が鋳造されました。当館収蔵の作品はシュス鋳造所で1977年に鋳造された12番目の作品であることが各作品の台座に刻まれています。

    オーギュスト・ロダン「カレーの市民(第二試作)」1885年、鋳造年1977年
    1900年のパリ万国博覧会に際し、アルマ広場のパヴィリオンにおいてロダンの大回顧展が開催され、《カレーの市民》を含む彫刻168点や、デッサンと写真約50点が出品されました。この展覧会でロダンは批評家たちの注目を集め、世界中から注文が殺到することとなりました。
     《カレーの市民》とよばれる群像彫刻は、イギリスとフランスが対立した百年戦争における、ある英雄たちの物語が主題となっていますが、この物語についてロダンは中世後期の歴史学者、ジャン・フロワサールの『年代記』をよりどころとしました。1347年、フランス北部のカレー市を包囲した英国王エドワード3世は、この市の6人の名士が人質となり、城塞の鍵を渡すならば包囲を解こうと提案しました。この時、ユスタッシュ・ド・サン=ピエールほか6人が死を覚悟してエドワード3世の陣営に赴きましたが、命を奪われることなく解放されました。フランス人の勇敢さとイギリス人の寛大さを象徴するこの伝説的な話をカレー市は記念碑の主題に選び、1884年にロダンに制作を依頼しました。
     1895年、カレー市のリシュリュー広場に設置された《カレーの市民》は、1884年の第一試作と1885年の第二試作を経て実現されましたが、本作品は後者の第二試作にあたります。第一試作についてロダンは、「自らすすんで犠牲になろうとするこれら6人の登場人物の全体が、集合的な感情の力を持っているのです」と述べ、凱旋門のような高い台座の上に6人の英雄を配する構成としましたが、第二試作で彼は、犠牲となる人々の英雄性よりはむしろ、運命に対する諦念や絶望、一瞬の躊躇を強く表現しました。さらに、6体それぞれが台座ごと独立し、それらを組み合わせてひとつの作品とする独創的な構成を試みています。ただしポーラ美術館収蔵の6体のうち、ジャン・ド・フィエンヌの像だけは組み合わせるように作られたものではなく、後で制作されたと思われるヴァリアント(異作)であるため、台座の形が異なっています。記念碑となるような群像の構成は、伝統的なピラミッド型でなければならないとする当時の慣習に反し、台座を低くし群像の高さをそろえたことなどが批判の的となったため、結局この第二試作は完成作として実現することはありませんでしたが、ロダンが強く意図した、死を覚悟した人間の重々しい歩みの姿は、そのまま完成作へと引き継がれました。完成作の石膏像は、1889年にパリのジョルジュ・プティ画廊で開催されたロダンとモネの二人展において、はじめて披露されています。
     第二試作は、ロダン美術館の許可のもと12作品が鋳造されました。当館収蔵の作品はシュス鋳造所で1977年に鋳造された12番目の作品であることが各作品の台座に刻まれています。

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」1890年<br />本作品は、ゴッホ晩年の1890年6月16日または17日に、ガシェ医師の家でモティーフを見つけて描いた数点の野花の静物画のうちの1点。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」1890年
    本作品は、ゴッホ晩年の1890年6月16日または17日に、ガシェ医師の家でモティーフを見つけて描いた数点の野花の静物画のうちの1点。

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」(部分拡大)<br />テーブルや花瓶を区切る輪郭線は、日本の浮世絵版画の影響を感じさせます。外側に広がるアザミの鋸歯状の葉や麦穂、花瓶の同心円状のタッチや背景にみられる垂直と水平方向に交差したタッチは、ゴッホの線と色彩、画肌の効果の追究の成果を示しています。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」(部分拡大)
    テーブルや花瓶を区切る輪郭線は、日本の浮世絵版画の影響を感じさせます。外側に広がるアザミの鋸歯状の葉や麦穂、花瓶の同心円状のタッチや背景にみられる垂直と水平方向に交差したタッチは、ゴッホの線と色彩、画肌の効果の追究の成果を示しています。

  • 森村泰昌「唄うひまわり」1998年(平成10)作家蔵<br />森村泰昌は、美術史を彩る芸術家や名画の登場人物に自らが扮するセルフ・ポートレートを手掛けてきました。ゴッホの「ひまわり」を題材にした「唄うひまわり」は、人物ではなく静物(花)に自信の顔を重ね合わせた作品であり、藤村がヒマワリの花そのものをゴッホの自画像とみなしていることがわかります。

    森村泰昌「唄うひまわり」1998年(平成10)作家蔵
    森村泰昌は、美術史を彩る芸術家や名画の登場人物に自らが扮するセルフ・ポートレートを手掛けてきました。ゴッホの「ひまわり」を題材にした「唄うひまわり」は、人物ではなく静物(花)に自信の顔を重ね合わせた作品であり、藤村がヒマワリの花そのものをゴッホの自画像とみなしていることがわかります。

  • 森村泰昌「肖像(ゴッホ)」1985年(昭和60)高松市美術館所蔵<br />古今東西の芸術家に扮したセルフポートレートを発表している森村泰昌(1951-)もまた、近代日本におけるゴッホ受容に大きな影響を受けているといえます。1985年(昭和60)、森村が最初に向き合った芸術家はまさにゴッホでした。現代の我々にとっても、ゴッホの自画像が「芸術家のアイコン」としていかに強く意識されているかを物語る作品です。

    森村泰昌「肖像(ゴッホ)」1985年(昭和60)高松市美術館所蔵
    古今東西の芸術家に扮したセルフポートレートを発表している森村泰昌(1951-)もまた、近代日本におけるゴッホ受容に大きな影響を受けているといえます。1985年(昭和60)、森村が最初に向き合った芸術家はまさにゴッホでした。現代の我々にとっても、ゴッホの自画像が「芸術家のアイコン」としていかに強く意識されているかを物語る作品です。

  • 森村泰昌「自画像の美術史(ゴッホ/青い炎」2016-18年(平成28-30)作家蔵<br /><br />

    森村泰昌「自画像の美術史(ゴッホ/青い炎」2016-18年(平成28-30)作家蔵

  • 萬鐵五郎 「自画像」1912年(明治45)頃 岩手県立美術館所蔵<br />明治末期から大正期にかけて「白樺」などの雑誌に、ゴッホの評伝や複製図版が掲載されるようになると、若手芸術家たちがこぞってゴッホ風の作品を描くようになります。萬鐵五郎もその1人でした。

    萬鐵五郎 「自画像」1912年(明治45)頃 岩手県立美術館所蔵
    明治末期から大正期にかけて「白樺」などの雑誌に、ゴッホの評伝や複製図版が掲載されるようになると、若手芸術家たちがこぞってゴッホ風の作品を描くようになります。萬鐵五郎もその1人でした。

  • 萬鐵五郎 「女の顔(ボアの女)」1912年(大正元) 岩手県立美術館所蔵<br />画題にある「ボア」とは当時流行していた毛皮や羽毛でつくられた婦人用の細長い襟巻で、それを頸にゆるく巻き、椅子に腰掛けているのは萬の妻よ志です。彼女が身にまとう朱色の着物と緑の手甲との対比が鮮やかですが、この赤と緑の補色による色彩対比は萬が終生好み、多くの作品で用いています。ゴッホ風の激しい筆触はこの作品の大きな特徴ですが、絵のかけられた壁面を背景に人物の膝から上の部分を真正面から描く構図自体も、背後に浮世絵をはりめぐらし、正面から人物を描いたゴッホ作品「タンギー爺さん」から直接引用したものと思われます。当時日本では、実物のゴッホ作品を見る機会は無く、萬らの若い画家達は印刷物に掲載された複製などを通し手探りで学んでいました。「タンギー爺さん」は彼らの参考書籍で特に有名なハインド著『後期印象派』に収められる24点の図版の一つでした。

    萬鐵五郎 「女の顔(ボアの女)」1912年(大正元) 岩手県立美術館所蔵
    画題にある「ボア」とは当時流行していた毛皮や羽毛でつくられた婦人用の細長い襟巻で、それを頸にゆるく巻き、椅子に腰掛けているのは萬の妻よ志です。彼女が身にまとう朱色の着物と緑の手甲との対比が鮮やかですが、この赤と緑の補色による色彩対比は萬が終生好み、多くの作品で用いています。ゴッホ風の激しい筆触はこの作品の大きな特徴ですが、絵のかけられた壁面を背景に人物の膝から上の部分を真正面から描く構図自体も、背後に浮世絵をはりめぐらし、正面から人物を描いたゴッホ作品「タンギー爺さん」から直接引用したものと思われます。当時日本では、実物のゴッホ作品を見る機会は無く、萬らの若い画家達は印刷物に掲載された複製などを通し手探りで学んでいました。「タンギー爺さん」は彼らの参考書籍で特に有名なハインド著『後期印象派』に収められる24点の図版の一つでした。

  • 岸田劉生「自画像」1912年(明治45)東京都現代美術館<br />岸田劉生と木村荘八は、ともに白馬会葵橋洋画研究所で洋画を学んだ仲です。1911年(明治44)12月に知り合った二人は、「白樺」を通してポスト印象派の表現へへと傾倒していき、同じころに描かれた「自画像」と「祖母と子猫」には特にゴッホからの影響が顕著にみられます。

    岸田劉生「自画像」1912年(明治45)東京都現代美術館
    岸田劉生と木村荘八は、ともに白馬会葵橋洋画研究所で洋画を学んだ仲です。1911年(明治44)12月に知り合った二人は、「白樺」を通してポスト印象派の表現へへと傾倒していき、同じころに描かれた「自画像」と「祖母と子猫」には特にゴッホからの影響が顕著にみられます。

  • 木村荘八「祖母と子猫」1912年(明治45)東京都現代美術館

    木村荘八「祖母と子猫」1912年(明治45)東京都現代美術館

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「草むら」1889年<br />ファン・ゴッホは、アルルでのゴーガンとの共同生活と耳切り事件ののち、サン=レミのサン=ポール精神療養院に入院しました。彼は何度か発作を起こしましたが、病気が小康状態のときには制作を行いました。彼は病室の窓から見える風景や庭の草花や木々、病院近くのオリーヴ園、糸杉のある風景などを描いています。1889年4月、彼はこの病院の庭で見たと思われる草花を主題にし、数点の作品を制作しています。<br />ゴッホはそれら数点の作品で、空も地平線もない、草花の広がる光景のみを描いていますが、この《草むら》は、そのなかでもとりわけ草の茂みを大きくクローズアップしてとらえている。彼は大地に根を張るこの草むらを、あざやかな緑、黄緑を用い、力強い線条のタッチで描いています。自然の風景の細部を見つめる観察態度には日本美術の影響も指摘されていますが、きわめて地面に近い視点から描かれた本作品は、奥行感が欠如し、平面的な画面になっています。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「草むら」1889年
    ファン・ゴッホは、アルルでのゴーガンとの共同生活と耳切り事件ののち、サン=レミのサン=ポール精神療養院に入院しました。彼は何度か発作を起こしましたが、病気が小康状態のときには制作を行いました。彼は病室の窓から見える風景や庭の草花や木々、病院近くのオリーヴ園、糸杉のある風景などを描いています。1889年4月、彼はこの病院の庭で見たと思われる草花を主題にし、数点の作品を制作しています。
    ゴッホはそれら数点の作品で、空も地平線もない、草花の広がる光景のみを描いていますが、この《草むら》は、そのなかでもとりわけ草の茂みを大きくクローズアップしてとらえている。彼は大地に根を張るこの草むらを、あざやかな緑、黄緑を用い、力強い線条のタッチで描いています。自然の風景の細部を見つめる観察態度には日本美術の影響も指摘されていますが、きわめて地面に近い視点から描かれた本作品は、奥行感が欠如し、平面的な画面になっています。

  • 中村彝「平磯海岸」1919年(大正8)今治市玉川近代美術館<br />中村彝は、明治20年に水戸で生まれ、レノブラント・ルノワール・セザンヌなどの画家の影響を受け、文部省美術展覧会(文展)や帝国美術院展覧会(帝展)で活躍した洋画家。 幼いころに両親を亡くし、さらに17歳の時結核と診断されます。そして療養生活の中、以前から絵を描くことに興味を持っていたことから絵を描くようになりました。明治42年には文展で初入賞、44年には三等賞をとり、同年、新宿中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋裏のアトリエに移ります。しかし大正3年にはアトリエを離れ、各地を転々としました。そんな中大正8年にここ平磯町を訪れ、滞在4か月の間に「平磯海岸」や「平磯」などの作品を数点書き上げました。その後最終的に下落合のアトリエに落ち着いた中村彝は友人にエロシェンコ氏をモデルとして紹介してもらい、「エロシェンコ像」を描きました。この作品は第二回帝展で特選となり、明治以降の油絵肖像画の中で最高傑作と謳われます。それから病状は悪化していき、大正13年に38歳という若さでこの世を去りました。

    中村彝「平磯海岸」1919年(大正8)今治市玉川近代美術館
    中村彝は、明治20年に水戸で生まれ、レノブラント・ルノワール・セザンヌなどの画家の影響を受け、文部省美術展覧会(文展)や帝国美術院展覧会(帝展)で活躍した洋画家。 幼いころに両親を亡くし、さらに17歳の時結核と診断されます。そして療養生活の中、以前から絵を描くことに興味を持っていたことから絵を描くようになりました。明治42年には文展で初入賞、44年には三等賞をとり、同年、新宿中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋裏のアトリエに移ります。しかし大正3年にはアトリエを離れ、各地を転々としました。そんな中大正8年にここ平磯町を訪れ、滞在4か月の間に「平磯海岸」や「平磯」などの作品を数点書き上げました。その後最終的に下落合のアトリエに落ち着いた中村彝は友人にエロシェンコ氏をモデルとして紹介してもらい、「エロシェンコ像」を描きました。この作品は第二回帝展で特選となり、明治以降の油絵肖像画の中で最高傑作と謳われます。それから病状は悪化していき、大正13年に38歳という若さでこの世を去りました。

  • 中村彝「林間晩夏」1907年(明治40)頃<br />水戸市に生まれた中村彝は幼くして父母を失い、11歳で祖母・姉とともに上京しました。1906年(明治39)には黒田清輝の白馬会洋画研究所に入所し、洋画を学びはじめます。その後、文展・帝展への出品を通して画壇での地位を確立しますが、同じ頃、パトロンであった新宿・中村屋の相馬黒光夫人と娘の俊子をめぐって複雑な心理状態に陥り、苦悩の日々を送りました。<br />  西欧の文化を積極的に取り入れる進歩的な相馬家の影響を受け、中村もヨーロッパの画家に憧れました。とりわけセザンヌとルノワールに傾倒し、風景画や人物画に彼らの様式の影響をみてとることができます。<br />

    中村彝「林間晩夏」1907年(明治40)頃
    水戸市に生まれた中村彝は幼くして父母を失い、11歳で祖母・姉とともに上京しました。1906年(明治39)には黒田清輝の白馬会洋画研究所に入所し、洋画を学びはじめます。その後、文展・帝展への出品を通して画壇での地位を確立しますが、同じ頃、パトロンであった新宿・中村屋の相馬黒光夫人と娘の俊子をめぐって複雑な心理状態に陥り、苦悩の日々を送りました。
     西欧の文化を積極的に取り入れる進歩的な相馬家の影響を受け、中村もヨーロッパの画家に憧れました。とりわけセザンヌとルノワールに傾倒し、風景画や人物画に彼らの様式の影響をみてとることができます。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1887年<br />ルノワールは、最初に感動を覚えた絵画として、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの「ディアナの水浴」(1742年、ルーヴル美術館、パリ)を挙げています。「水浴する裸婦」は古来、表されてきた主題であり、伝統に対するルノワールの強い意識をうかがうことができます。1860年代後半からモネとともに印象派の手法で描きましたが、やがて行き詰まりを感じたルノワールは、1880年代初頭のイタリア旅行を機に、この主題に本格的に取り組むことになります。本作品はその頃に制作された1点です。<br /> 全身像で表された裸婦の身体は、ハイライトと細やかな陰影により量感がもたらされ、浮彫りのように描かれています。身体の向きがわずかにねじれ、動きが生み出されている点は、古代ギリシアやローマの彫刻に典型的な身体表現にも見られ、ルノワールが伝統的な造形を重視して参照していたことがわかります。<br />  一方で、草木を描いた背景は、筆触がやわらかく重ねられ、白で淡く暈ぼかされた調子が随所に見られるます。地平線が高い位置に設定されていることで、せり上がった地面や背景は裸婦を穏やかに取り巻き、包み込むような印象をもたらします。同じ年に発表された「大水浴」(1884-1887年、フィラデルフィア美術館)は、硬い輪郭線で描かれた裸婦群像と周囲の自然とが分離した印象を展覧会の観衆に残すことになりましたが、本作品ではより調和を作り出す意識を見てとることができます。<br />

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1887年
    ルノワールは、最初に感動を覚えた絵画として、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの「ディアナの水浴」(1742年、ルーヴル美術館、パリ)を挙げています。「水浴する裸婦」は古来、表されてきた主題であり、伝統に対するルノワールの強い意識をうかがうことができます。1860年代後半からモネとともに印象派の手法で描きましたが、やがて行き詰まりを感じたルノワールは、1880年代初頭のイタリア旅行を機に、この主題に本格的に取り組むことになります。本作品はその頃に制作された1点です。
    全身像で表された裸婦の身体は、ハイライトと細やかな陰影により量感がもたらされ、浮彫りのように描かれています。身体の向きがわずかにねじれ、動きが生み出されている点は、古代ギリシアやローマの彫刻に典型的な身体表現にも見られ、ルノワールが伝統的な造形を重視して参照していたことがわかります。
     一方で、草木を描いた背景は、筆触がやわらかく重ねられ、白で淡く暈ぼかされた調子が随所に見られるます。地平線が高い位置に設定されていることで、せり上がった地面や背景は裸婦を穏やかに取り巻き、包み込むような印象をもたらします。同じ年に発表された「大水浴」(1884-1887年、フィラデルフィア美術館)は、硬い輪郭線で描かれた裸婦群像と周囲の自然とが分離した印象を展覧会の観衆に残すことになりましたが、本作品ではより調和を作り出す意識を見てとることができます。

  • 萬鐵五郎「木蔭の村」1918年(大正7)<br />岩手県に生まれた萬鐵五郎は、大下藤次郎の『水彩画の栞』を手本に絵画を独学した後、18歳で上京し、1907年(明治40)、東京美術学校へ入学しました。卒業制作の「裸体美人」(1912年、東京国立近代美術館)は、自ら「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と語ったように、ポスト印象派やフォーヴィスムの影響を示す記念碑的な作品です。<br />  1910年(明治43)に創刊された文芸雑誌『白樺』は、同時代のヨーロッパのさまざまな芸術運動を紹介し、芸術を志す若者たちを覚醒させました。図版や記事を通して目にするフランスのフォーヴィスム、キュビスム、ドイツ表現主義などの動きは萬の心をとらえ、1912年(大正元)、彼は岸田劉生らとともに新しい傾向の芸術をめざしフュウザン会を結成しました。この会は1年で解散したが、若い画家への影響力は絶大でありました。<br />  本作品は、萬が関心を示した画家のなかでもとくにドイツ表現主義の画家カンディンスキーの影響、とりわけ初期のムルナウ風景画を思わせる描写が印象的です。故郷の岩手・土沢を思わせる木々と家並みのモティーフをはじめ、躍動感あふれた筆致、強烈な色彩など、萬が新しい表現を獲得したことを感じさせます。故郷の岩手・土沢を思わせる木々のあいだの集落は、暖かな色彩と相まってのどかな雰囲気を漂わせますが、手前に見える赤と青のアーモンド形の奇妙な物体は、観者に不安な感じを与えます。<br />  本作品の制作年は、ほぼ同じ構図の「木の間から見下した町」(岩手県立美術館)に大正7年と記されていることから、1918年(大正7)の作とされています。この頃制作に没頭していた萬は、心身ともに疲労の極限に達し、転地療養のため翌1919年(大正8)には神奈川県茅ヶ崎市に移り住みます。以後、亡くなるまでの8年間はこの温暖な海沿いの町で暮らし、制作を続けました。

    萬鐵五郎「木蔭の村」1918年(大正7)
    岩手県に生まれた萬鐵五郎は、大下藤次郎の『水彩画の栞』を手本に絵画を独学した後、18歳で上京し、1907年(明治40)、東京美術学校へ入学しました。卒業制作の「裸体美人」(1912年、東京国立近代美術館)は、自ら「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と語ったように、ポスト印象派やフォーヴィスムの影響を示す記念碑的な作品です。
     1910年(明治43)に創刊された文芸雑誌『白樺』は、同時代のヨーロッパのさまざまな芸術運動を紹介し、芸術を志す若者たちを覚醒させました。図版や記事を通して目にするフランスのフォーヴィスム、キュビスム、ドイツ表現主義などの動きは萬の心をとらえ、1912年(大正元)、彼は岸田劉生らとともに新しい傾向の芸術をめざしフュウザン会を結成しました。この会は1年で解散したが、若い画家への影響力は絶大でありました。
     本作品は、萬が関心を示した画家のなかでもとくにドイツ表現主義の画家カンディンスキーの影響、とりわけ初期のムルナウ風景画を思わせる描写が印象的です。故郷の岩手・土沢を思わせる木々と家並みのモティーフをはじめ、躍動感あふれた筆致、強烈な色彩など、萬が新しい表現を獲得したことを感じさせます。故郷の岩手・土沢を思わせる木々のあいだの集落は、暖かな色彩と相まってのどかな雰囲気を漂わせますが、手前に見える赤と青のアーモンド形の奇妙な物体は、観者に不安な感じを与えます。
     本作品の制作年は、ほぼ同じ構図の「木の間から見下した町」(岩手県立美術館)に大正7年と記されていることから、1918年(大正7)の作とされています。この頃制作に没頭していた萬は、心身ともに疲労の極限に達し、転地療養のため翌1919年(大正8)には神奈川県茅ヶ崎市に移り住みます。以後、亡くなるまでの8年間はこの温暖な海沿いの町で暮らし、制作を続けました。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「休息」1916-1917年<br />入浴の後と思われる裸婦が寝台に横たわる、室内での休息のひとときが描かれています。横たわる裸婦とその傍らに着衣の人物がたたずむ舞台設定からは、ティツィアーノやマネによる作品が想起されますが、女性たちの様子からは親密でくつろいだ雰囲気が伝わってきます。<br />ふたりの女性は画面の対角線上に置かれていますが、その位置関係を下支えするように V 字を作る裸婦の下半身は、どっしりとした安定感をそなえています。一方で、互いに引き立てあう赤と緑の補色の関係が随所に作り出されており、画面はあたかもあざやかな色彩の織物のようです。着衣の女性の背後にさりげなく用いられた黒もまた、この色彩表現に豊かな陰影をもたらしています。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「休息」1916-1917年
    入浴の後と思われる裸婦が寝台に横たわる、室内での休息のひとときが描かれています。横たわる裸婦とその傍らに着衣の人物がたたずむ舞台設定からは、ティツィアーノやマネによる作品が想起されますが、女性たちの様子からは親密でくつろいだ雰囲気が伝わってきます。
    ふたりの女性は画面の対角線上に置かれていますが、その位置関係を下支えするように V 字を作る裸婦の下半身は、どっしりとした安定感をそなえています。一方で、互いに引き立てあう赤と緑の補色の関係が随所に作り出されており、画面はあたかもあざやかな色彩の織物のようです。着衣の女性の背後にさりげなく用いられた黒もまた、この色彩表現に豊かな陰影をもたらしています。

  • 中村彝「泉のほとり」1920年(大正9)<br /> 従来この「泉のほとり」はルノワールの模写といわれてきましたが、近年の研究によってそれが模写でなく、中村彝の創作であることが明らかになってきました。それは「素戔鳴命に題をとつて勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえます。日本の古代神話に取材していますが、人物は、西洋の神話に登場するニンフや牧神のように描かれている。これは中村の西洋美術への憧憬の表われでしょう。彼は、1920年(大正9)頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようです。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この「泉のほとり」を制作したといいいます。黄色と淡紅色を基調とした肌の色合い、溶け込むようなやわらかな筆触などに、ルノワールの影響がみられます。この作品を描いた後、彝は持病の胸部疾患を悪化させ床に伏し、1924年(大正13)年に37歳の若さで世を去りました。

    中村彝「泉のほとり」1920年(大正9)
     従来この「泉のほとり」はルノワールの模写といわれてきましたが、近年の研究によってそれが模写でなく、中村彝の創作であることが明らかになってきました。それは「素戔鳴命に題をとつて勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえます。日本の古代神話に取材していますが、人物は、西洋の神話に登場するニンフや牧神のように描かれている。これは中村の西洋美術への憧憬の表われでしょう。彼は、1920年(大正9)頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようです。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この「泉のほとり」を制作したといいいます。黄色と淡紅色を基調とした肌の色合い、溶け込むようなやわらかな筆触などに、ルノワールの影響がみられます。この作品を描いた後、彝は持病の胸部疾患を悪化させ床に伏し、1924年(大正13)年に37歳の若さで世を去りました。

  • ポール・セザンヌ「4人の水浴の女たち」1877‐78年<br />本作品は、1957年にピカソが購入した「5人の水浴の女たち」を含む、4、5人の裸婦をピラミッド型に配置した5点の水浴図のうちの1点です。斜めに平行に置かれた構築的な筆致が画面の大部分を覆ってはいますが、規則性が幾分ゆるやかなため、彼の構築的構図へといたる道のりの途上を思わせます。内側に傾いた樹木のアーチが女性たちの傾いたポーズに反復され、構築的な筆致とともに画面に無数の呼応する要素が緻密に組み合わされており、印象派の絵画にみられる偶然性や瞬間性とは大きく隔たった画面構成となっています。この反復はピカソの「3人の女」(1907-1908年、エルミタージュ美術館蔵)をはじめとする裸婦像においては、半円形と三角形の反復による構成に変換され、体系的に取り入れられています。

    ポール・セザンヌ「4人の水浴の女たち」1877‐78年
    本作品は、1957年にピカソが購入した「5人の水浴の女たち」を含む、4、5人の裸婦をピラミッド型に配置した5点の水浴図のうちの1点です。斜めに平行に置かれた構築的な筆致が画面の大部分を覆ってはいますが、規則性が幾分ゆるやかなため、彼の構築的構図へといたる道のりの途上を思わせます。内側に傾いた樹木のアーチが女性たちの傾いたポーズに反復され、構築的な筆致とともに画面に無数の呼応する要素が緻密に組み合わされており、印象派の絵画にみられる偶然性や瞬間性とは大きく隔たった画面構成となっています。この反復はピカソの「3人の女」(1907-1908年、エルミタージュ美術館蔵)をはじめとする裸婦像においては、半円形と三角形の反復による構成に変換され、体系的に取り入れられています。

  • 安井曾太郎「水浴裸婦」1914年 Artizon Museum所蔵<br />10代終わりから7年間、フランスに留学した安井曾太郎は、古典からポスト印象派まで様々な西洋美術を学び取りました。カーニュのアトリエに晩年のルノワールを訪ねていますが、安井にとって最も大きい存在がセザンヌでした。この作品は。帰国する年に描かれており、留学中の集大成ともいえる充実ぶりです。<br />※本作品は本展覧会では写真撮影不可となっていました。写真はArtizon Museum 開館記念展にて撮影したものです。<br />

    安井曾太郎「水浴裸婦」1914年 Artizon Museum所蔵
    10代終わりから7年間、フランスに留学した安井曾太郎は、古典からポスト印象派まで様々な西洋美術を学び取りました。カーニュのアトリエに晩年のルノワールを訪ねていますが、安井にとって最も大きい存在がセザンヌでした。この作品は。帰国する年に描かれており、留学中の集大成ともいえる充実ぶりです。
    ※本作品は本展覧会では写真撮影不可となっていました。写真はArtizon Museum 開館記念展にて撮影したものです。

  • ポール・ゴーガン「異国のエヴァ」1890-94年<br />ゴーガンは、幼少期をペルーで過ごし、船員生活を経験し、カリブ海に浮かぶ小アンティル諸島のマルティニク島にしばらく滞在しています。アルルでのゴッホとの悲劇的な共同生活の後、ゴーガンは西欧の近代化の波のおよばない、文明化されていない世界に憧れを抱き、南国に向かう決意を固めます。本作品は、おそらくタヒチに渡る1891年以前に、1889年のパリ万国博覧会に展示されていた東洋や中東の美術に影響を受けてゴーガンが創り上げた創造の南国の風景です。ゴーガンは、エデンの園を自分がこれから向かう南国として表現し、エヴァの容貌を母アリーヌの写真にもとづいて描いています。

    ポール・ゴーガン「異国のエヴァ」1890-94年
    ゴーガンは、幼少期をペルーで過ごし、船員生活を経験し、カリブ海に浮かぶ小アンティル諸島のマルティニク島にしばらく滞在しています。アルルでのゴッホとの悲劇的な共同生活の後、ゴーガンは西欧の近代化の波のおよばない、文明化されていない世界に憧れを抱き、南国に向かう決意を固めます。本作品は、おそらくタヒチに渡る1891年以前に、1889年のパリ万国博覧会に展示されていた東洋や中東の美術に影響を受けてゴーガンが創り上げた創造の南国の風景です。ゴーガンは、エデンの園を自分がこれから向かう南国として表現し、エヴァの容貌を母アリーヌの写真にもとづいて描いています。

  • ポール・ゴーガン「小屋の前の犬、タヒチ」1892年<br />ゴーガンは、1891年に初めてタヒチへ渡りました。それは画家が暮らす文明社会ではすでに失われてしまったかつての人間の営みと精神を、タヒチで見出す心の旅路でもありました。強く憧れていた南国の地で、画家は鮮やかな色彩を呈する風景、島特有のさまざまな生活の場面、人間、動物たちの姿を捉えていきました。本作品では、植物だけを材料に組み立てられた伝統的な小屋が、柔らかい質感と目の醒めるような橙色で表現され、その隣には、村人たちが大地に腰掛けておしゃべりする光景が添えられています。ゴーガン特有の緑を主調にして斜めに平行に置かれた筆致が画面の大部分を覆っていますが、その傾いだ色とりどりの筆致は、はるかなる山裾から集落までを駆け抜ける風にそよぐ草木のざわめきを表わし、この土地固有の空気の流れと輝きを伝えています。<br /> 前景には、一匹の黒い犬が頭を垂れ、大地に繁茂する植物とともに、集落の風景に比べてより写実的に描写されています。そこには新天地の大地を踏みしめ、タヒチの人々から距離を置きつつ観察するゴーガンの姿を投影することができるかもしれません。ゴーガンは、この第一次タヒチ滞在ののち、いったんは帰国するものの1895年に再び渡航し、1901年にタヒチよりもさらに故国から離れたマルキーズ諸島のドミニク島(現ヒヴァ=オア島)に到着しますが、1903年、彼の地で生涯にわたった長い旅路を終えました。

    ポール・ゴーガン「小屋の前の犬、タヒチ」1892年
    ゴーガンは、1891年に初めてタヒチへ渡りました。それは画家が暮らす文明社会ではすでに失われてしまったかつての人間の営みと精神を、タヒチで見出す心の旅路でもありました。強く憧れていた南国の地で、画家は鮮やかな色彩を呈する風景、島特有のさまざまな生活の場面、人間、動物たちの姿を捉えていきました。本作品では、植物だけを材料に組み立てられた伝統的な小屋が、柔らかい質感と目の醒めるような橙色で表現され、その隣には、村人たちが大地に腰掛けておしゃべりする光景が添えられています。ゴーガン特有の緑を主調にして斜めに平行に置かれた筆致が画面の大部分を覆っていますが、その傾いだ色とりどりの筆致は、はるかなる山裾から集落までを駆け抜ける風にそよぐ草木のざわめきを表わし、この土地固有の空気の流れと輝きを伝えています。
    前景には、一匹の黒い犬が頭を垂れ、大地に繁茂する植物とともに、集落の風景に比べてより写実的に描写されています。そこには新天地の大地を踏みしめ、タヒチの人々から距離を置きつつ観察するゴーガンの姿を投影することができるかもしれません。ゴーガンは、この第一次タヒチ滞在ののち、いったんは帰国するものの1895年に再び渡航し、1901年にタヒチよりもさらに故国から離れたマルキーズ諸島のドミニク島(現ヒヴァ=オア島)に到着しますが、1903年、彼の地で生涯にわたった長い旅路を終えました。

  • 靉光「屋根の見える風景」1929年(昭和4)個人蔵<br />

    靉光「屋根の見える風景」1929年(昭和4)個人蔵

  • 「白樺」第13巻第1号、1922年(大正17)

    「白樺」第13巻第1号、1922年(大正17)

  • セザンヌ及びセザンヌから影響を受けた作品が並びます。

    セザンヌ及びセザンヌから影響を受けた作品が並びます。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • ポール・セザンヌ「砂糖壺、梨とテーブルクロス」1893-1894年<br />静物画は西洋絵画の伝統的な画題であり、画家にとってもいかに迫真的な描写ができるのかという自らの技術を示す格好の画題でもありました。宗教画が衰退した17世紀オランダでは、風景画や風俗画と並んで主要な画題でしたが、18世紀以降、歴史画や肖像画に比べて、静物画の絵画におけるジャンルの地位は低くみなされていました。この地位を引き上げるのに大きな役割を果たし、革新をもたらしたのがセザンヌです。セザンヌは絵画的な統一性をつくりだすために、多視点からの空間表現やカンヴァスの平面性を強調して3次元の空間を2次元に置き換えるなど、あえて自然主義的な空間表現を放棄しようとしました。このような作品は、20世紀に入ると若い画家たちによりその先進性が認められ、キュビスムにおいても静物画は重要かつ実験的な画題となりました。

    ポール・セザンヌ「砂糖壺、梨とテーブルクロス」1893-1894年
    静物画は西洋絵画の伝統的な画題であり、画家にとってもいかに迫真的な描写ができるのかという自らの技術を示す格好の画題でもありました。宗教画が衰退した17世紀オランダでは、風景画や風俗画と並んで主要な画題でしたが、18世紀以降、歴史画や肖像画に比べて、静物画の絵画におけるジャンルの地位は低くみなされていました。この地位を引き上げるのに大きな役割を果たし、革新をもたらしたのがセザンヌです。セザンヌは絵画的な統一性をつくりだすために、多視点からの空間表現やカンヴァスの平面性を強調して3次元の空間を2次元に置き換えるなど、あえて自然主義的な空間表現を放棄しようとしました。このような作品は、20世紀に入ると若い画家たちによりその先進性が認められ、キュビスムにおいても静物画は重要かつ実験的な画題となりました。

  • 安井曾太郎「静物」1912年(明治45-大正元)上原美術館<br />1907(明治40)年、安井はフランスに渡り私立の画塾アカデミー・ジュリアンに入学すると、ジャン=ポール・ローランスに師事しました。本作は3年近く通った画塾を辞し、自由な制作を試み始めた24歳頃に描かれました。<br />砂糖壺に反射する4つの小さな白い四角は窓の光でしょうか。薄暗い部屋の様子からは、自らの芸術を生み出そうと模索する画学生の生活がうかがえるようです。

    安井曾太郎「静物」1912年(明治45-大正元)上原美術館
    1907(明治40)年、安井はフランスに渡り私立の画塾アカデミー・ジュリアンに入学すると、ジャン=ポール・ローランスに師事しました。本作は3年近く通った画塾を辞し、自由な制作を試み始めた24歳頃に描かれました。
    砂糖壺に反射する4つの小さな白い四角は窓の光でしょうか。薄暗い部屋の様子からは、自らの芸術を生み出そうと模索する画学生の生活がうかがえるようです。

  • 安井曾太郎「中国風景」1944年(昭和19)<br />京都に生まれた安井曾太郎は、1904年(明治37)から聖護院洋画研究所(後の関西美術院)で本格的に絵画の勉強をはじめました。1907年(明治40)に渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学びながら、ルノワールやセザンヌなど、当時のフランス画壇に多大な影響を受けました。帰国後は油絵具で日本の風景を表現することの難しさに悩み、しばらく模索の時期を過ごしますが、まもなく真摯な探究が実を結び、強調された形態と、あざやかな色彩のコントラストによって対象を生き生きととらえる独自の描法を確立します。代表作「金蓉」(1934年、東京国立近代美術館)にはその特徴が表われています。<br />  1937年(昭和12)から数回、安井は満州国美術展の審査のため中国を訪れています。中国風景を描いた本作品は、1944年(昭和19)の新京、北京旅行の際に描かれたものです。抜けるような晴天、廟の淡紅色の壁、そして黄色の屋根の色彩のコントラストがあざやかです。彼は中国の風景を数点描いていますが、本作品にはそれらと似通った黄と青の対比がみられます。それは1937年の満州旅行のときにすでに発見していた面白みであったらしく、「この寺は、樺黄色の丸木壁で、青空に美しい」と語っています。構図には安井の理知的な配慮が随所にみられます。前景に配された樹木の枝が廟の前庭の広々とした空間を際立たせ、その奥に描かれた建物は、形よりも強烈な色彩のほうが目に飛び込んできます。躍動感に満ちた筆触や描線は、試行錯誤の末にようやく到達した表現方法でした。

    安井曾太郎「中国風景」1944年(昭和19)
    京都に生まれた安井曾太郎は、1904年(明治37)から聖護院洋画研究所(後の関西美術院)で本格的に絵画の勉強をはじめました。1907年(明治40)に渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学びながら、ルノワールやセザンヌなど、当時のフランス画壇に多大な影響を受けました。帰国後は油絵具で日本の風景を表現することの難しさに悩み、しばらく模索の時期を過ごしますが、まもなく真摯な探究が実を結び、強調された形態と、あざやかな色彩のコントラストによって対象を生き生きととらえる独自の描法を確立します。代表作「金蓉」(1934年、東京国立近代美術館)にはその特徴が表われています。
     1937年(昭和12)から数回、安井は満州国美術展の審査のため中国を訪れています。中国風景を描いた本作品は、1944年(昭和19)の新京、北京旅行の際に描かれたものです。抜けるような晴天、廟の淡紅色の壁、そして黄色の屋根の色彩のコントラストがあざやかです。彼は中国の風景を数点描いていますが、本作品にはそれらと似通った黄と青の対比がみられます。それは1937年の満州旅行のときにすでに発見していた面白みであったらしく、「この寺は、樺黄色の丸木壁で、青空に美しい」と語っています。構図には安井の理知的な配慮が随所にみられます。前景に配された樹木の枝が廟の前庭の広々とした空間を際立たせ、その奥に描かれた建物は、形よりも強烈な色彩のほうが目に飛び込んできます。躍動感に満ちた筆触や描線は、試行錯誤の末にようやく到達した表現方法でした。

  • 岸田劉生「麗子坐像」1919年(大正8)<br />岸田劉生の画家としての活動は、1908年(明治41)の白馬会洋画研究所入門からはじまります。この研究所の主宰は、外光派の中心人物、黒田清輝でした。劉生は外光派の画風をすばやく吸収し、早くも1910年(明治43)秋の第4回文展には風景画2点が入選するという早熟ぶりをみせましたが、徐々に外光派のアカデミズムに不満を抱いていきます。<br />  高村光太郎が論文「緑色の太陽」を発表し、個性の時代の到来を告げて間もない頃、劉生は文芸雑誌『白樺』(1910年4月創刊)と出会います。ゴッホやセザンヌらの芸術を積極的に紹介していた同誌の影響のもと、高村光太郎、斎藤与里らとともにフュウザン会を結成し、油絵展覧会を開催して大成功をおさめると、劉生の名は一躍人の知るところとなりました。<br />  劉生は、生涯を通じて肖像画の制作に取り組んでいます。「斎藤与里氏像」(1913年、愛知県美術館)のようなゴッホやセザンヌの感化のもとに描かれた作品や、写実にもとづく表現への移行期に制作された「武者小路実篤像」(1914年、東京都現代美術館)など、友人の肖像が短時間につぎつぎと仕上げられ、「岸田の首狩り」と恐れられることもありました。しかし友人や職業モデルでは劉生の厳しい要望にこたえられなかったため、しだいに自画像または妻をモデルにして描くことが多くなっていきました。そして愛娘麗子を描いた「麗子五歳之像」(1918年、東京国立近代美術館)以後、彼女をモデルにした作品が劉生の画題の中心を占めるようになります。本作品は、娘麗子に対する愛情をこめて、約2カ月かけて描かれました。執拗に制作に取り組む劉生の姿は、麗子とのあいだに張りつめた空気をもたらし、その面持ちは硬くこわばっています。絞りの着物の質感は克明に描かれ、暗闇に浮かび上がる赤と黄の対比が画面を引き締めています。

    岸田劉生「麗子坐像」1919年(大正8)
    岸田劉生の画家としての活動は、1908年(明治41)の白馬会洋画研究所入門からはじまります。この研究所の主宰は、外光派の中心人物、黒田清輝でした。劉生は外光派の画風をすばやく吸収し、早くも1910年(明治43)秋の第4回文展には風景画2点が入選するという早熟ぶりをみせましたが、徐々に外光派のアカデミズムに不満を抱いていきます。
     高村光太郎が論文「緑色の太陽」を発表し、個性の時代の到来を告げて間もない頃、劉生は文芸雑誌『白樺』(1910年4月創刊)と出会います。ゴッホやセザンヌらの芸術を積極的に紹介していた同誌の影響のもと、高村光太郎、斎藤与里らとともにフュウザン会を結成し、油絵展覧会を開催して大成功をおさめると、劉生の名は一躍人の知るところとなりました。
     劉生は、生涯を通じて肖像画の制作に取り組んでいます。「斎藤与里氏像」(1913年、愛知県美術館)のようなゴッホやセザンヌの感化のもとに描かれた作品や、写実にもとづく表現への移行期に制作された「武者小路実篤像」(1914年、東京都現代美術館)など、友人の肖像が短時間につぎつぎと仕上げられ、「岸田の首狩り」と恐れられることもありました。しかし友人や職業モデルでは劉生の厳しい要望にこたえられなかったため、しだいに自画像または妻をモデルにして描くことが多くなっていきました。そして愛娘麗子を描いた「麗子五歳之像」(1918年、東京国立近代美術館)以後、彼女をモデルにした作品が劉生の画題の中心を占めるようになります。本作品は、娘麗子に対する愛情をこめて、約2カ月かけて描かれました。執拗に制作に取り組む劉生の姿は、麗子とのあいだに張りつめた空気をもたらし、その面持ちは硬くこわばっています。絞りの着物の質感は克明に描かれ、暗闇に浮かび上がる赤と黄の対比が画面を引き締めています。

  • 村山槐多「湖水と女」1917年(大正6)<br />22歳で世を去った夭折の画家村山槐多は、詩作や絵画制作に才能を発揮し、その奔放な生き方からさまざまな逸話を残しています。彼はまさに、短い人生を駆け抜けた天才芸術家でした。<br />  横浜に生まれた槐多は、父親の転勤でまもなく京都に移りました。中学2年のとき、従兄弟の画家、山本鼎に感化され、本格的に芸術家を目指すようになります。1914年(大正3)、中学を卒業すると画家をめざして上京し、山本から紹介された画家、小杉未醒のもとに下宿しながら日本美術院洋画部の研究所に通いはじめました。<br />  1916年(大正5)、根津の下宿に転居すると、この頃からモデルの「お玉さん」そして下宿先の「おばさん」への恋慕に悩むようになります。この「湖水と女」のモデルについては、当初この「おばさん」だといわれていたが、近年になってこの絵のモデルが槐多の後援者、笹秀松の妻の操であるという説が有力となってきました。槐多の遠縁にあたる笹操はすらりとした長身の美女で、この「湖水と女」が描かれたとき31歳頃であったという。夫の秀松は、大柄で磊落な性質で知られており、「のらくら者」(1916年)のモデルといわれています。<br />  山々に囲まれた湖を背景に、一人の女性が座っています。流行の束髪に色白の端正な顔立ちをしたこの女性は、鶯色の着物に紺色の羽織を合わせています。涼しげな目もと、固くむすんだ口もとが意志の強さをうかがわせ、近寄りがたい崇高さを感じさせます。背景の湖と民家、山々の風景は、郷愁をさそいつつも寂寥感をただよわせ、描法と構図はダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)を彷彿させます。丁寧に描きこまれたこの作品は、第3回日本美術院試作展に出品され、奨励賞を受けています。しかし、その後槐多はしだいに頽廃的な生活に耽るようになり、1919年(大正8)肺炎により急逝しました。

    村山槐多「湖水と女」1917年(大正6)
    22歳で世を去った夭折の画家村山槐多は、詩作や絵画制作に才能を発揮し、その奔放な生き方からさまざまな逸話を残しています。彼はまさに、短い人生を駆け抜けた天才芸術家でした。
     横浜に生まれた槐多は、父親の転勤でまもなく京都に移りました。中学2年のとき、従兄弟の画家、山本鼎に感化され、本格的に芸術家を目指すようになります。1914年(大正3)、中学を卒業すると画家をめざして上京し、山本から紹介された画家、小杉未醒のもとに下宿しながら日本美術院洋画部の研究所に通いはじめました。
     1916年(大正5)、根津の下宿に転居すると、この頃からモデルの「お玉さん」そして下宿先の「おばさん」への恋慕に悩むようになります。この「湖水と女」のモデルについては、当初この「おばさん」だといわれていたが、近年になってこの絵のモデルが槐多の後援者、笹秀松の妻の操であるという説が有力となってきました。槐多の遠縁にあたる笹操はすらりとした長身の美女で、この「湖水と女」が描かれたとき31歳頃であったという。夫の秀松は、大柄で磊落な性質で知られており、「のらくら者」(1916年)のモデルといわれています。
     山々に囲まれた湖を背景に、一人の女性が座っています。流行の束髪に色白の端正な顔立ちをしたこの女性は、鶯色の着物に紺色の羽織を合わせています。涼しげな目もと、固くむすんだ口もとが意志の強さをうかがわせ、近寄りがたい崇高さを感じさせます。背景の湖と民家、山々の風景は、郷愁をさそいつつも寂寥感をただよわせ、描法と構図はダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)を彷彿させます。丁寧に描きこまれたこの作品は、第3回日本美術院試作展に出品され、奨励賞を受けています。しかし、その後槐多はしだいに頽廃的な生活に耽るようになり、1919年(大正8)肺炎により急逝しました。

  • 関根正二「三人の顔」1919年(大正8)頃<br />

    関根正二「三人の顔」1919年(大正8)頃

  • 梅原龍三郎「裸婦結髪」1928年(昭和3)<br />梅原龍三郎と安井曾太郎は同年生まれであり、またおなじ京都の出身であることから、ともに学び競い合う間柄となります。15歳頃から聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)で本格的に洋画をはじめた梅原は、1908年(明治41)、安井と前後して渡仏し、パリではじめてルノワールの作品を目にします。感激した彼は、紹介状も持たずにルノワールを訪ね、熱意を買われて師事を許されました。1913年(大正2)に帰国すると、滞欧作を白樺社主催の個展で発表し、ルノワールから学んだやわらかい筆致や淡く優しい色合いが好評を博し、一躍画壇の寵児となります。帰国してからもルノワールへ寄せた敬愛は深く、1919年(大正8)12月、新聞でルノワールの死を知ると、すぐに弔問のため渡欧したほどでした。<br />  この二度目のパリ滞在でギメ美術館を訪れ、東洋美術を再発見したことは彼にとって大きな転機でした。この頃から梅原は肉筆浮世絵や大津絵の収集をはじめ、描線や平面的、装飾的な構図を油絵に取り入れていきました。また、東洋的な要素を油絵に生かし、いわゆる「日本的油絵」を創出することにつとめていた岸田劉生との交流も、その後の画風を変える要因となりました。本作品は、この頃多く描かれた裸婦図のひとつです。赤い絨毯に緑色の敷布、さらに同じ緑色のカーテンをあしらった室内で二人の裸婦が身支度をしています。緑、赤、黄、黒のほぼ4色に限られた色の使用、なかでも女性の長い髪と手鏡の漆黒が印象的です。この「黒」の活用については梅原自身がつぎのように述懐しています。「黒という色の美しさを考えたことも印象派の影響を受けていた頃には考えられなかったことだ」。二度のヨーロッパ体験を経た後の、日本の伝統芸術への回帰は、本作品にも明確に示されています。

    梅原龍三郎「裸婦結髪」1928年(昭和3)
    梅原龍三郎と安井曾太郎は同年生まれであり、またおなじ京都の出身であることから、ともに学び競い合う間柄となります。15歳頃から聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)で本格的に洋画をはじめた梅原は、1908年(明治41)、安井と前後して渡仏し、パリではじめてルノワールの作品を目にします。感激した彼は、紹介状も持たずにルノワールを訪ね、熱意を買われて師事を許されました。1913年(大正2)に帰国すると、滞欧作を白樺社主催の個展で発表し、ルノワールから学んだやわらかい筆致や淡く優しい色合いが好評を博し、一躍画壇の寵児となります。帰国してからもルノワールへ寄せた敬愛は深く、1919年(大正8)12月、新聞でルノワールの死を知ると、すぐに弔問のため渡欧したほどでした。
     この二度目のパリ滞在でギメ美術館を訪れ、東洋美術を再発見したことは彼にとって大きな転機でした。この頃から梅原は肉筆浮世絵や大津絵の収集をはじめ、描線や平面的、装飾的な構図を油絵に取り入れていきました。また、東洋的な要素を油絵に生かし、いわゆる「日本的油絵」を創出することにつとめていた岸田劉生との交流も、その後の画風を変える要因となりました。本作品は、この頃多く描かれた裸婦図のひとつです。赤い絨毯に緑色の敷布、さらに同じ緑色のカーテンをあしらった室内で二人の裸婦が身支度をしています。緑、赤、黄、黒のほぼ4色に限られた色の使用、なかでも女性の長い髪と手鏡の漆黒が印象的です。この「黒」の活用については梅原自身がつぎのように述懐しています。「黒という色の美しさを考えたことも印象派の影響を受けていた頃には考えられなかったことだ」。二度のヨーロッパ体験を経た後の、日本の伝統芸術への回帰は、本作品にも明確に示されています。

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