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ポーラ美術館の絵画コレクションは、19世紀の印象派絵画から20世紀の抽象絵画に至るまで、質の高い作品によって美術の展開を辿ることができます。<br /> 19世紀から20世紀は、フランスを中心とした近代美術がもっとも急激な変化を遂げた時代です。ポーラ美術館の核となる西洋近代絵画のコレクション約400点は、まさにこの時代を生きた画家たちの作品です。印象派、ポスト印象派、新印象派などが100点、そして1920年代のパリに集まった外国人画家たちのグループ「エコール・ド・パリ」の画家たちの作品100点を中心に、新古典主義のアングル、ロマン主義の画家ドラクロワから、抽象絵画の創始者カンディンスキー、シュルレアリスムの画家たちまで、モダン・アートの流れをたどる構成になっています。<br /> そのなかでも、ポーラ美術館のコレクションを築いたコレクターであり、ポーラ・オルビスグループのオーナーであった鈴木常司(1930-2000)が特に注目した画家は、印象派を牽引したモネ、「生きる歓び」を描き続けたルノワール、今日の絵画に決定的な影響を与えたピカソです。ポーラ美術館では、そのコレクションを入れ替えながら常設展示しており、写真撮影が可能となっています。<br /> 印象派とその周辺では、モネ、ルノワール、ドガなどの作品を紹介します。<br />※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。また、写真は、展示が替わる都度、追加アップしていきます。

ポーラ美術館の名作絵画(1)~印象派とその周辺

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2020/11/14 - 2020/11/14

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旅行記グループ ポーラ美術館

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ポーラ美術館の絵画コレクションは、19世紀の印象派絵画から20世紀の抽象絵画に至るまで、質の高い作品によって美術の展開を辿ることができます。
 19世紀から20世紀は、フランスを中心とした近代美術がもっとも急激な変化を遂げた時代です。ポーラ美術館の核となる西洋近代絵画のコレクション約400点は、まさにこの時代を生きた画家たちの作品です。印象派、ポスト印象派、新印象派などが100点、そして1920年代のパリに集まった外国人画家たちのグループ「エコール・ド・パリ」の画家たちの作品100点を中心に、新古典主義のアングル、ロマン主義の画家ドラクロワから、抽象絵画の創始者カンディンスキー、シュルレアリスムの画家たちまで、モダン・アートの流れをたどる構成になっています。
 そのなかでも、ポーラ美術館のコレクションを築いたコレクターであり、ポーラ・オルビスグループのオーナーであった鈴木常司(1930-2000)が特に注目した画家は、印象派を牽引したモネ、「生きる歓び」を描き続けたルノワール、今日の絵画に決定的な影響を与えたピカソです。ポーラ美術館では、そのコレクションを入れ替えながら常設展示しており、写真撮影が可能となっています。
 印象派とその周辺では、モネ、ルノワール、ドガなどの作品を紹介します。
※作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。また、写真は、展示が替わる都度、追加アップしていきます。

旅行の満足度
4.5

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  • まずは、ピエール・オーギュスト・ルノワールの作品から<br />ピエール・オーギュスト・ルノワール「レースの帽子の少女」1891年<br />ポーラ美術館の顔ともいえる作品。<br />レースの帽子の質感や軽やかさを伝える筆致からは、ルノワールの描く喜びが感じ取れるようです。袖口のヴォリュームが巧みに表現されたドレスの描写にもうかがえるように、ルノワールは衣装の質感をとらえて描き出すことを得意としていました。これには、仕立屋とお針子を父母にもつ生い立ちが関係していたのかもしれません。白いレースの帽子の清々しさは、夢見るような表情を浮かべた少女の甘美な魅力を引きたてています。ルノワールは、自らの選んだ帽子や衣装をモデルに提供することもあったようです。女性像にいっそう活き活きとした魅力をもたらすうえで、帽子をはじめとするファッションは、ルノワールにとってきわめて重要なものだったのです。

    まずは、ピエール・オーギュスト・ルノワールの作品から
    ピエール・オーギュスト・ルノワール「レースの帽子の少女」1891年
    ポーラ美術館の顔ともいえる作品。
    レースの帽子の質感や軽やかさを伝える筆致からは、ルノワールの描く喜びが感じ取れるようです。袖口のヴォリュームが巧みに表現されたドレスの描写にもうかがえるように、ルノワールは衣装の質感をとらえて描き出すことを得意としていました。これには、仕立屋とお針子を父母にもつ生い立ちが関係していたのかもしれません。白いレースの帽子の清々しさは、夢見るような表情を浮かべた少女の甘美な魅力を引きたてています。ルノワールは、自らの選んだ帽子や衣装をモデルに提供することもあったようです。女性像にいっそう活き活きとした魅力をもたらすうえで、帽子をはじめとするファッションは、ルノワールにとってきわめて重要なものだったのです。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「ロバに乗ったアラブ人たち」1881-82年頃<br />1881 年の 2 月末、ルノワールはアルジェリアへの一度目の旅に赴いています。その滞在中に制作されたと考えられる本作品には、伝統的な衣装に身を包んだおそらく現地の人々 の、ロバに乗って海岸沿いを進む光景が描かれています。<br /> 目を引くのは、彼方の街並みから棕櫚を思わせる南方の植物にいたるまで、随所に施されたハイライトです。ルノワールは後年、アルジェリア旅行の成果として「白の発見」を挙げ、事物の姿を一変させる「太陽の魔力」に言及しています。現地で日常にみられる光景が輝きを帯びて描き出された本作品は、ルノワールのアルジェリア体験を物語る作例といえます。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「ロバに乗ったアラブ人たち」1881-82年頃
    1881 年の 2 月末、ルノワールはアルジェリアへの一度目の旅に赴いています。その滞在中に制作されたと考えられる本作品には、伝統的な衣装に身を包んだおそらく現地の人々 の、ロバに乗って海岸沿いを進む光景が描かれています。
    目を引くのは、彼方の街並みから棕櫚を思わせる南方の植物にいたるまで、随所に施されたハイライトです。ルノワールは後年、アルジェリア旅行の成果として「白の発見」を挙げ、事物の姿を一変させる「太陽の魔力」に言及しています。現地で日常にみられる光景が輝きを帯びて描き出された本作品は、ルノワールのアルジェリア体験を物語る作例といえます。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「アネモネ」1883-1890年頃<br />アネモネは、バラやダリアと並んで、ルノワールがもっとも好んで描いた花のひとつです。多様な色彩を帯び、カールした花弁にも見えるがくの部分が並んで丸みを作り出す花の造形を、ルノワールは好んだのでしょう。本作品でも、それらの形態をなぞるような筆致によって、ふっくらとした量感と厚みを感じさせる描写がみられます。色彩についても、背景の青が画面の全体を引きしめつつ、花瓶の文様のコバルトブルーとともに、赤や薄紫に彩られた花の匂い立つような華やかさをいっそう引き立てています。<br />ルノワールが残した日の朝、手助けを借りながら筆を入れたのも、アネモネを描いた作品でした。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「アネモネ」1883-1890年頃
    アネモネは、バラやダリアと並んで、ルノワールがもっとも好んで描いた花のひとつです。多様な色彩を帯び、カールした花弁にも見えるがくの部分が並んで丸みを作り出す花の造形を、ルノワールは好んだのでしょう。本作品でも、それらの形態をなぞるような筆致によって、ふっくらとした量感と厚みを感じさせる描写がみられます。色彩についても、背景の青が画面の全体を引きしめつつ、花瓶の文様のコバルトブルーとともに、赤や薄紫に彩られた花の匂い立つような華やかさをいっそう引き立てています。
    ルノワールが残した日の朝、手助けを借りながら筆を入れたのも、アネモネを描いた作品でした。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1887年<br />ルノワールは、最初に感動を覚えた絵画として、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの「ディアナの水浴」(1742年、ルーヴル美術館、パリ)を挙げています。「水浴する裸婦」は古来、表されてきた主題であり、伝統に対するルノワールの強い意識をうかがうことができます。1860年代後半からモネとともに印象派の手法で描きましたが、やがて行き詰まりを感じたルノワールは、1880年代初頭のイタリア旅行を機に、この主題に本格的に取り組むことになります。本作品はその頃に制作された1点です。<br /> 全身像で表された裸婦の身体は、ハイライトと細やかな陰影により量感がもたらされ、浮彫りのように描かれています。身体の向きがわずかにねじれ、動きが生み出されている点は、古代ギリシアやローマの彫刻に典型的な身体表現にも見られ、ルノワールが伝統的な造形を重視して参照していたことがわかります。<br />  一方で、草木を描いた背景は、筆触がやわらかく重ねられ、白で淡く暈ぼかされた調子が随所に見られるます。地平線が高い位置に設定されていることで、せり上がった地面や背景は裸婦を穏やかに取り巻き、包み込むような印象をもたらします。同じ年に発表された「大水浴」(1884-1887年、フィラデルフィア美術館)は、硬い輪郭線で描かれた裸婦群像と周囲の自然とが分離した印象を展覧会の観衆に残すことになりましたが、本作品ではより調和を作り出す意識を見てとることができます。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1887年
    ルノワールは、最初に感動を覚えた絵画として、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの「ディアナの水浴」(1742年、ルーヴル美術館、パリ)を挙げています。「水浴する裸婦」は古来、表されてきた主題であり、伝統に対するルノワールの強い意識をうかがうことができます。1860年代後半からモネとともに印象派の手法で描きましたが、やがて行き詰まりを感じたルノワールは、1880年代初頭のイタリア旅行を機に、この主題に本格的に取り組むことになります。本作品はその頃に制作された1点です。
    全身像で表された裸婦の身体は、ハイライトと細やかな陰影により量感がもたらされ、浮彫りのように描かれています。身体の向きがわずかにねじれ、動きが生み出されている点は、古代ギリシアやローマの彫刻に典型的な身体表現にも見られ、ルノワールが伝統的な造形を重視して参照していたことがわかります。
     一方で、草木を描いた背景は、筆触がやわらかく重ねられ、白で淡く暈ぼかされた調子が随所に見られるます。地平線が高い位置に設定されていることで、せり上がった地面や背景は裸婦を穏やかに取り巻き、包み込むような印象をもたらします。同じ年に発表された「大水浴」(1884-1887年、フィラデルフィア美術館)は、硬い輪郭線で描かれた裸婦群像と周囲の自然とが分離した印象を展覧会の観衆に残すことになりましたが、本作品ではより調和を作り出す意識を見てとることができます。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「水のなかの裸婦」1888年<br />水のなかでたたずむ裸婦のみせる恥じらいのポーズは、古来、アフロディーテの表象などに伝統的にみられます。ルノワールは、若き日よりルーヴル美術館に通っていたほか、 1880 年代前半のイタリア滞在により、裸体表現の伝統に深く通じていたと考えられます。ここでは、裸婦の背景を水面が覆い尽くす、大胆な画面構成がとられています。裸婦の身体には丹念に筆致が重ねられ、陰影とハイライトにより量感が作り出されています。それに対し、水面には光のきらめきや反映を表わす黄や赤、白の筆触が横方向に並置されており、違いはあきらかです。古典美術を参照しつつ、明瞭な形態と量感をそなえた裸体表現を追究しようとする意図が表われています。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「水のなかの裸婦」1888年
    水のなかでたたずむ裸婦のみせる恥じらいのポーズは、古来、アフロディーテの表象などに伝統的にみられます。ルノワールは、若き日よりルーヴル美術館に通っていたほか、 1880 年代前半のイタリア滞在により、裸体表現の伝統に深く通じていたと考えられます。ここでは、裸婦の背景を水面が覆い尽くす、大胆な画面構成がとられています。裸婦の身体には丹念に筆致が重ねられ、陰影とハイライトにより量感が作り出されています。それに対し、水面には光のきらめきや反映を表わす黄や赤、白の筆触が横方向に並置されており、違いはあきらかです。古典美術を参照しつつ、明瞭な形態と量感をそなえた裸体表現を追究しようとする意図が表われています。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「髪かざり」1888年<br />椅子に腰掛けた若い女性の後ろにもう一人の女性が寄り添い、髪に花かざりを着けています。当時、ブルジョワ階級の女性が家で過ごす際には、花の髪かざりを着ける習慣がありました。同様の髪かざりは座っている女性の手にも見られます。ルノワールは1890年前後、身づくろいのほかにも、同じ年頃の女性による奏楽や花摘みなどの情景をしばしば描いています。1880年代後半に印象派の描法を脱するべく取り組みました。アングル流の立体的な裸婦が画商や画家仲間に不評だったことで、ルノワールはこの時期、一般に受け入れられやすい近代生活を描きました。しかしこの主題をめぐっては、アントワーヌ・ヴァトーやジャン=オノレ・フラゴナールといった18世紀ロココの画家による、甘美で活き活きとした女性像への憧憬を読み取ることもできます。人物をはじめとして、室内で重なりあう多様なモティーフがそれぞれ明瞭な輪郭で描き出されているのは、アングルを範として1880年代を通じて追究されたアカデミックな描法の特徴といえます。また、二人の女性像が織り成す垂直方向の線が、背後の長椅子の作る水平線とともに均衡のとれた画面を作り出しており、先立つ印象派の時代と比べて、構図の検討がより入念になされています。<br />

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「髪かざり」1888年
    椅子に腰掛けた若い女性の後ろにもう一人の女性が寄り添い、髪に花かざりを着けています。当時、ブルジョワ階級の女性が家で過ごす際には、花の髪かざりを着ける習慣がありました。同様の髪かざりは座っている女性の手にも見られます。ルノワールは1890年前後、身づくろいのほかにも、同じ年頃の女性による奏楽や花摘みなどの情景をしばしば描いています。1880年代後半に印象派の描法を脱するべく取り組みました。アングル流の立体的な裸婦が画商や画家仲間に不評だったことで、ルノワールはこの時期、一般に受け入れられやすい近代生活を描きました。しかしこの主題をめぐっては、アントワーヌ・ヴァトーやジャン=オノレ・フラゴナールといった18世紀ロココの画家による、甘美で活き活きとした女性像への憧憬を読み取ることもできます。人物をはじめとして、室内で重なりあう多様なモティーフがそれぞれ明瞭な輪郭で描き出されているのは、アングルを範として1880年代を通じて追究されたアカデミックな描法の特徴といえます。また、二人の女性像が織り成す垂直方向の線が、背後の長椅子の作る水平線とともに均衡のとれた画面を作り出しており、先立つ印象派の時代と比べて、構図の検討がより入念になされています。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「ムール貝採り」1888-89年頃<br />本作品は、1879年に制作された《ベルヌヴァルのムール貝採り》(フィラデルフィア、バーンズ財団蔵)をもとに、そのおよそ十年後に再び描かれた作品と考えられます。ノルマンディーの海岸沿いの町ベルヌヴァルには、ルノワールの擁護者であった銀行家のポール・ベラールの別邸がありました。1880年前後の時期、ルノワールは招かれて同地にたびたび滞在していますが、1880年代末に制作された本作品は、かつて滞在した際に残された習作等に基づきながらアトリエで描かれたものと思われます。牧歌的な自然を舞台とした群像表現は、ルノワールが愛好した18世紀のロココ絵画にしばしばみられます。加えて、女性と子どもによる労働の様子は、1880年代半ば以降、ルノワールが好んで主題に取り上げています。また、鮮烈な色彩に加え、明瞭な輪郭をもつ人物の形態はとりわけ、古典主義への意識を深めた1880年代ならではの表現の特徴といえます。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「ムール貝採り」1888-89年頃
    本作品は、1879年に制作された《ベルヌヴァルのムール貝採り》(フィラデルフィア、バーンズ財団蔵)をもとに、そのおよそ十年後に再び描かれた作品と考えられます。ノルマンディーの海岸沿いの町ベルヌヴァルには、ルノワールの擁護者であった銀行家のポール・ベラールの別邸がありました。1880年前後の時期、ルノワールは招かれて同地にたびたび滞在していますが、1880年代末に制作された本作品は、かつて滞在した際に残された習作等に基づきながらアトリエで描かれたものと思われます。牧歌的な自然を舞台とした群像表現は、ルノワールが愛好した18世紀のロココ絵画にしばしばみられます。加えて、女性と子どもによる労働の様子は、1880年代半ば以降、ルノワールが好んで主題に取り上げています。また、鮮烈な色彩に加え、明瞭な輪郭をもつ人物の形態はとりわけ、古典主義への意識を深めた1880年代ならではの表現の特徴といえます。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「カーニュの風景」1905年<br />カーニュ=シュル=メールで本作品が制作された1905 年、ルノワールは町の中心部の郵便局の建物に居を置いていました。その名も「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれたこの建物は、家主と郵便局長、そしてルノワール一家が暮らすアパルトマンを兼ねるほど大きかったようで、ルノワールの住まいは裏手の広いオレンジ畑に面していました。<br />ルノワールが「メゾン・ド・ラ・ポスト」の近辺を描いた作品は数点残されていますが、本作品もその一点と考えられます。画面の中央を走る道には、連れ立って歩くふたりの人物の姿が描きこまれており、南フランスの日常の穏やかな空気を、さりげなく伝えています。<br />

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「カーニュの風景」1905年
    カーニュ=シュル=メールで本作品が制作された1905 年、ルノワールは町の中心部の郵便局の建物に居を置いていました。その名も「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれたこの建物は、家主と郵便局長、そしてルノワール一家が暮らすアパルトマンを兼ねるほど大きかったようで、ルノワールの住まいは裏手の広いオレンジ畑に面していました。
    ルノワールが「メゾン・ド・ラ・ポスト」の近辺を描いた作品は数点残されていますが、本作品もその一点と考えられます。画面の中央を走る道には、連れ立って歩くふたりの人物の姿が描きこまれており、南フランスの日常の穏やかな空気を、さりげなく伝えています。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「エッソワの風景、早朝」1901年<br />1885年、ルノワールは長男ピエールの誕生を機に、妻アリーヌの故郷であるエッソワを初めて訪れています。シャンパーニュ地方の豊かな自然を背景に、農村の慎ましい暮らしの息づいたこの町をルノワールはすっかり気に入り、その後、最晩年に至るまで毎年のように滞在して一時を過ごすようになります。<br /> ルノワールが60歳を迎える1901年の滞在時に制作されたと考えられる本作品でも、早朝の仕事に出た土地の農民たちの姿が点景で描かれており、画面に活気を添えています。ひときわ目を引くのは、田舎道の両脇に立つ木々です。前景右に見られるように、幹は緩やかなカーブを描き、葉を茂らせた梢は、この時期の作を特徴づける暈すようなやわらかい筆致で描かれています。豊かな詩情を伝えるこうした木の表現には、ルノワールが敬意を示してやまなかったコローとの類似をみることもできます。木々のうねるような連なりは、土地の起伏を示すとともに、風景の奥行きを表しており、観る者の目は木の梢と道の影が作り出す心地よい形のリズムとともに、画面の手前から奥へと自然に誘われます。先立つ1890年代、ルノワールは古典絵画の研究を深め、構図と造形の堅固さはいっそう増すことになりますが、本作品にもまたその成果を見ることができます。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「エッソワの風景、早朝」1901年
    1885年、ルノワールは長男ピエールの誕生を機に、妻アリーヌの故郷であるエッソワを初めて訪れています。シャンパーニュ地方の豊かな自然を背景に、農村の慎ましい暮らしの息づいたこの町をルノワールはすっかり気に入り、その後、最晩年に至るまで毎年のように滞在して一時を過ごすようになります。
    ルノワールが60歳を迎える1901年の滞在時に制作されたと考えられる本作品でも、早朝の仕事に出た土地の農民たちの姿が点景で描かれており、画面に活気を添えています。ひときわ目を引くのは、田舎道の両脇に立つ木々です。前景右に見られるように、幹は緩やかなカーブを描き、葉を茂らせた梢は、この時期の作を特徴づける暈すようなやわらかい筆致で描かれています。豊かな詩情を伝えるこうした木の表現には、ルノワールが敬意を示してやまなかったコローとの類似をみることもできます。木々のうねるような連なりは、土地の起伏を示すとともに、風景の奥行きを表しており、観る者の目は木の梢と道の影が作り出す心地よい形のリズムとともに、画面の手前から奥へと自然に誘われます。先立つ1890年代、ルノワールは古典絵画の研究を深め、構図と造形の堅固さはいっそう増すことになりますが、本作品にもまたその成果を見ることができます。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「風景」<br />カーニュの町の高台から地中海を望む立地にあった「レ・コレット」”Les Collettes”の語源は、「丘」を意味する「コリーヌ」”colline”であると言われています。本作品でも、風景をわずかに上から見下ろすような視点から、豊かに葉を茂らせた木々が強い光を受ける眺めが、黄やオレンジの効果的な色彩と簡潔な筆遣いによって描き出されています。<br />ルノワールはしばしば横長の小さな力ンヴァスを用い、眼前に広がる風景をパノラミックにとらえ、軽やかな筆致で描きとめました。同様の眺望は晩年、視角をやや異にしていくつも描かれていることから、本作品は「レ・コレット」、あるいはその近辺で描かれたものと考えられます。<br />

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「風景」
    カーニュの町の高台から地中海を望む立地にあった「レ・コレット」”Les Collettes”の語源は、「丘」を意味する「コリーヌ」”colline”であると言われています。本作品でも、風景をわずかに上から見下ろすような視点から、豊かに葉を茂らせた木々が強い光を受ける眺めが、黄やオレンジの効果的な色彩と簡潔な筆遣いによって描き出されています。
    ルノワールはしばしば横長の小さな力ンヴァスを用い、眼前に広がる風景をパノラミックにとらえ、軽やかな筆致で描きとめました。同様の眺望は晩年、視角をやや異にしていくつも描かれていることから、本作品は「レ・コレット」、あるいはその近辺で描かれたものと考えられます。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の後」1915年<br />本作品に描かれた裸婦は、若々しい血色をたたえるとともに、周囲の自然の生命力を感じさせる色彩と呼応して、輝きを放っています。暗緑色の上に置かれた山吹色のハイライトは、ルノワールがとらえた強い光の効果を伝えており、その印象が画面全体にわたって描き出されています。<br />ルノワールが究極的にめざしたのは、戸外を舞台とした裸婦の群像を作り上げることでした。南フランスで得た強い光と豊かな自然、そして生命感溢れるモデルの存在は、最晩年にいたるまでルノワールを戸外での制作へとつき動かし、人物と風景との調和のヴィジョンを作品にもたらしました。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の後」1915年
    本作品に描かれた裸婦は、若々しい血色をたたえるとともに、周囲の自然の生命力を感じさせる色彩と呼応して、輝きを放っています。暗緑色の上に置かれた山吹色のハイライトは、ルノワールがとらえた強い光の効果を伝えており、その印象が画面全体にわたって描き出されています。
    ルノワールが究極的にめざしたのは、戸外を舞台とした裸婦の群像を作り上げることでした。南フランスで得た強い光と豊かな自然、そして生命感溢れるモデルの存在は、最晩年にいたるまでルノワールを戸外での制作へとつき動かし、人物と風景との調和のヴィジョンを作品にもたらしました。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「休息」1916-1917年<br />入浴の後と思われる裸婦が寝台に横たわる、室内での休息のひとときが描かれています。横たわる裸婦とその傍らに着衣の人物がたたずむ舞台設定からは、ティツィアーノやマネによる作品が想起されますが、女性たちの様子からは親密でくつろいだ雰囲気が伝わってきます。<br />ふたりの女性は画面の対角線上に置かれていますが、その位置関係を下支えするように V 字を作る裸婦の下半身は、どっしりとした安定感をそなえています。一方で、互いに引き立てあう赤と緑の補色の関係が随所に作り出されており、画面はあたかもあざやかな色彩の織物のようです。着衣の女性の背後にさりげなく用いられた黒もまた、この色彩表現に豊かな陰影をもたらしています。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「休息」1916-1917年
    入浴の後と思われる裸婦が寝台に横たわる、室内での休息のひとときが描かれています。横たわる裸婦とその傍らに着衣の人物がたたずむ舞台設定からは、ティツィアーノやマネによる作品が想起されますが、女性たちの様子からは親密でくつろいだ雰囲気が伝わってきます。
    ふたりの女性は画面の対角線上に置かれていますが、その位置関係を下支えするように V 字を作る裸婦の下半身は、どっしりとした安定感をそなえています。一方で、互いに引き立てあう赤と緑の補色の関係が随所に作り出されており、画面はあたかもあざやかな色彩の織物のようです。着衣の女性の背後にさりげなく用いられた黒もまた、この色彩表現に豊かな陰影をもたらしています。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「ヴェールをまとう踊り子」1918年、鋳造年: 1964年<br />ルノワールが彫刻の制作に取り組み始めたのは、1913 年の夏、72 歳を迎える年のことです。リウマチが悪化し、車椅子での生活を余儀なくされていたルノワールは、画商のヴォラールから勧められた彫刻の制作に着手します。それは、彫刻家の手を借りてルノワールの着想を実現する、共同制作の試みでした。<br />ルノワールはまず、かつて絵画に描いた「パリスの審判」の図像をもとに、彫刻の制作に取り組みました。その図像から展開して生み出されたのが、本作品です。広げた両手にヴェールをもつ安定した構造と、下半身を中心にそなわった豊かな量感は、ルノワールの裸体表現の特徴を示しています。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「ヴェールをまとう踊り子」1918年、鋳造年: 1964年
    ルノワールが彫刻の制作に取り組み始めたのは、1913 年の夏、72 歳を迎える年のことです。リウマチが悪化し、車椅子での生活を余儀なくされていたルノワールは、画商のヴォラールから勧められた彫刻の制作に着手します。それは、彫刻家の手を借りてルノワールの着想を実現する、共同制作の試みでした。
    ルノワールはまず、かつて絵画に描いた「パリスの審判」の図像をもとに、彫刻の制作に取り組みました。その図像から展開して生み出されたのが、本作品です。広げた両手にヴェールをもつ安定した構造と、下半身を中心にそなわった豊かな量感は、ルノワールの裸体表現の特徴を示しています。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • ポーラ美術館には、モネの作品は19点あるそうです。<br />クロード・モネ「セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ」1872年<br />1871年12月から1878年1月までの間、モネが活動拠点としたのが、パリから10kmほど離れた、鉄道でおよそ15分の距離にある、セーヌ河畔の町アルジャントゥイユでした。セーヌ河が大きく湾曲し、川幅が広く、水深もあるこの地域では、夏に毎週ヨットレースが開催されており、1851年に鉄道が開通してからは、郊外の行楽地として人気を博しました。<br />モネはおそらくマネの紹介で、アルジャントゥイユに家を借りたと言われています。印象派の仲間たちは、夏になるとモネの家を訪れて、この地で共同制作を行っていました。モネが、小舟の上に小屋をしつらえた「アトリエ舟」で制作を始めたのもこの地でのことです。ヨットやボートが浮かぶ河の水面は穏やかですが、流れる雲の動きは、微妙に異なる諧調の灰色とすばやい筆致によっていきいきととらえられています。

    ポーラ美術館には、モネの作品は19点あるそうです。
    クロード・モネ「セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ」1872年
    1871年12月から1878年1月までの間、モネが活動拠点としたのが、パリから10kmほど離れた、鉄道でおよそ15分の距離にある、セーヌ河畔の町アルジャントゥイユでした。セーヌ河が大きく湾曲し、川幅が広く、水深もあるこの地域では、夏に毎週ヨットレースが開催されており、1851年に鉄道が開通してからは、郊外の行楽地として人気を博しました。
    モネはおそらくマネの紹介で、アルジャントゥイユに家を借りたと言われています。印象派の仲間たちは、夏になるとモネの家を訪れて、この地で共同制作を行っていました。モネが、小舟の上に小屋をしつらえた「アトリエ舟」で制作を始めたのもこの地でのことです。ヨットやボートが浮かぶ河の水面は穏やかですが、流れる雲の動きは、微妙に異なる諧調の灰色とすばやい筆致によっていきいきととらえられています。

  • クロード・モネ「散歩」1875年<br />この作品が描かれた1875年頃、モネはパラソルをさす女性と子どもという主題を頻繁に描いていました。登場人物は、モネの妻カミーユと息子のジャンです。自然豊かなアルジャントゥイユで、幸福に満ちた生活を送っていたモネ一家の日常生活の一場面をとらえた、親密な空気の漂う作品です。<br /> 本作品は、セーヌ河を挟んでアルジャントゥイユの対岸に位置する、ジュヌヴィリエで制作されたものです。晴れ渡った空と広々とした草原の広がりが、遠近法で表された並木で強調されています。光と影のコントラストのなかに人物の姿が溶け込んでいて、あたかも自然と一体化しているかのようです。青い空や強い陽射し、そして緑の草原は、夏の感覚を鑑賞者に呼び覚まします。

    クロード・モネ「散歩」1875年
    この作品が描かれた1875年頃、モネはパラソルをさす女性と子どもという主題を頻繁に描いていました。登場人物は、モネの妻カミーユと息子のジャンです。自然豊かなアルジャントゥイユで、幸福に満ちた生活を送っていたモネ一家の日常生活の一場面をとらえた、親密な空気の漂う作品です。
    本作品は、セーヌ河を挟んでアルジャントゥイユの対岸に位置する、ジュヌヴィリエで制作されたものです。晴れ渡った空と広々とした草原の広がりが、遠近法で表された並木で強調されています。光と影のコントラストのなかに人物の姿が溶け込んでいて、あたかも自然と一体化しているかのようです。青い空や強い陽射し、そして緑の草原は、夏の感覚を鑑賞者に呼び覚まします。

  • クロード・モネ「花咲く堤、アルジャントゥイユ」1877年<br />モネは、1872年に、パリの北西10km離れたセーヌ河沿いの町アルジャントゥイユに転居し、1878年1月まで住んでいます。1851年の鉄道開通によってパリと結ばれたアルジャントゥイユは、セーヌでの川遊びなどのレジャーでにぎわう行楽地でしたが、急速に産業化していきました。工場が建設されて、のどかな美しい風景は変貌していきます。町には工場労働者が増加し、セーヌ河も汚染されてしまいました。このアルジャントゥイユで、モネは170点以上の作品を制作していますが、この作品は、最後の作品の1点とされています。モネは、煙を上げる煙突がみられる工場を背景に、ダリアの花咲く緑の草むらを前景に置き、都市の産業化と美しい自然を対比させて描いてます。この、画面の上方に水平線を置いて、手前に大きく、視界を遮るようにモティーフを配する構図には、日本の浮世絵の構図の影響が指摘されています。

    クロード・モネ「花咲く堤、アルジャントゥイユ」1877年
    モネは、1872年に、パリの北西10km離れたセーヌ河沿いの町アルジャントゥイユに転居し、1878年1月まで住んでいます。1851年の鉄道開通によってパリと結ばれたアルジャントゥイユは、セーヌでの川遊びなどのレジャーでにぎわう行楽地でしたが、急速に産業化していきました。工場が建設されて、のどかな美しい風景は変貌していきます。町には工場労働者が増加し、セーヌ河も汚染されてしまいました。このアルジャントゥイユで、モネは170点以上の作品を制作していますが、この作品は、最後の作品の1点とされています。モネは、煙を上げる煙突がみられる工場を背景に、ダリアの花咲く緑の草むらを前景に置き、都市の産業化と美しい自然を対比させて描いてます。この、画面の上方に水平線を置いて、手前に大きく、視界を遮るようにモティーフを配する構図には、日本の浮世絵の構図の影響が指摘されています。

  • クロード・モネ「サン=ラザール駅の線路」1877年<br />19世紀の半ば頃、鉄道は著しく発達し、都市の人々は田園や海辺で休日を過ごすようになります。パリのほぼ中央に位置するサン=ラザール駅はパリで最初に建設された駅で、フランス北西部ノルマンディーの海岸に向かう路線の発着点であり、当時、フランスでもっとも多くの人々に利用されていた駅でした。モネは、戦争を避けてロンドンに亡命していた1870-1871年に目にしたターナーの作品に影響を受け、1877年の1-4月にはアルジャントゥイユを一時離れてパリに滞在し、サン=ラザール駅の連作を制作しています。この連作は、同年の第3回印象派展に出品されました。三角屋根の駅舎に発着する汽車が吐き出す煙と蒸気の様子が、力強く、いきいきとした筆使いでとらえられています。鉄道や駅をテーマとしたこのような絵画は、風景や風俗にみられる同時代性、近代性を表すものとして高く評価されています。

    クロード・モネ「サン=ラザール駅の線路」1877年
    19世紀の半ば頃、鉄道は著しく発達し、都市の人々は田園や海辺で休日を過ごすようになります。パリのほぼ中央に位置するサン=ラザール駅はパリで最初に建設された駅で、フランス北西部ノルマンディーの海岸に向かう路線の発着点であり、当時、フランスでもっとも多くの人々に利用されていた駅でした。モネは、戦争を避けてロンドンに亡命していた1870-1871年に目にしたターナーの作品に影響を受け、1877年の1-4月にはアルジャントゥイユを一時離れてパリに滞在し、サン=ラザール駅の連作を制作しています。この連作は、同年の第3回印象派展に出品されました。三角屋根の駅舎に発着する汽車が吐き出す煙と蒸気の様子が、力強く、いきいきとした筆使いでとらえられています。鉄道や駅をテーマとしたこのような絵画は、風景や風俗にみられる同時代性、近代性を表すものとして高く評価されています。

  • クロード・モネ「グランド・ジャット島」1878年<br />この作品に描かれたグランド・ジャット島とは、パリの北西1.5km、ブーローニュの森の北、ヌイイとルヴァロワにまたがって位置する、セーヌ河に浮かぶ細長く全長約2kmと200mの二つからなる中州のことです。スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ・アート・インスティテュート蔵)でも有名な、19世紀半ば以降、舟遊びなどで人気のある行楽地でした。モネは、この行楽地の風景を、島の西端から見て描いています。曲がりくねった島の周囲の散歩道と暗い色彩で描かれた点景の人物たちは、いずれも奥行を表わしており、画面中央には、アニエールの鉄橋とクリシーの工場の煙突と灰色の煙が見えます。のどかな田園と産業化の要素の対比は、モネが1870年代後半によく用いた手法であり、この作品は、フランスの19世紀後半の社会と風景の変化の記録といえます。

    クロード・モネ「グランド・ジャット島」1878年
    この作品に描かれたグランド・ジャット島とは、パリの北西1.5km、ブーローニュの森の北、ヌイイとルヴァロワにまたがって位置する、セーヌ河に浮かぶ細長く全長約2kmと200mの二つからなる中州のことです。スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ・アート・インスティテュート蔵)でも有名な、19世紀半ば以降、舟遊びなどで人気のある行楽地でした。モネは、この行楽地の風景を、島の西端から見て描いています。曲がりくねった島の周囲の散歩道と暗い色彩で描かれた点景の人物たちは、いずれも奥行を表わしており、画面中央には、アニエールの鉄橋とクリシーの工場の煙突と灰色の煙が見えます。のどかな田園と産業化の要素の対比は、モネが1870年代後半によく用いた手法であり、この作品は、フランスの19世紀後半の社会と風景の変化の記録といえます。

  • クロード・モネ「ヴァランジュヴィルの風景」1882年<br />1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。 青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています。

    クロード・モネ「ヴァランジュヴィルの風景」1882年
    1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。 青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています。

  • クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」1880年<br />モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。

    クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」1880年
    モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。

  • クロード・モネ「グラジオラス」1881年<br />日本の掛物を思い起こさせる縦長の画面に、一輪のグラジオラスの花が描かれています。奥行きをあまり感じさせない空間表現や、抑えられた微妙な色彩、壺に生けられた一輪の花という単一のモティーフの選択、そして素早い筆さばきが生み出す線のリズムなど、本作品には日本美術の影響が随所に認められます。グラジオラスを描いたこの2点の作品は、1882年の第7回印象派展に出品されました。<br /> 本作品を描いた翌年の1882年から1885年、モネは画商ポール・デュラン=リュエルの私邸のサロンの扉のために36枚の装飾パネルを制作しました。花や果物をモティーフとしたそのパネルの中には、壺に生けられた数本のグラジオラスを描いた縦長のものも含まれていました。こうした一連の作品は、モネの装飾性に対する高い関心を示していると言えるでしょう。

    クロード・モネ「グラジオラス」1881年
    日本の掛物を思い起こさせる縦長の画面に、一輪のグラジオラスの花が描かれています。奥行きをあまり感じさせない空間表現や、抑えられた微妙な色彩、壺に生けられた一輪の花という単一のモティーフの選択、そして素早い筆さばきが生み出す線のリズムなど、本作品には日本美術の影響が随所に認められます。グラジオラスを描いたこの2点の作品は、1882年の第7回印象派展に出品されました。
    本作品を描いた翌年の1882年から1885年、モネは画商ポール・デュラン=リュエルの私邸のサロンの扉のために36枚の装飾パネルを制作しました。花や果物をモティーフとしたそのパネルの中には、壺に生けられた数本のグラジオラスを描いた縦長のものも含まれていました。こうした一連の作品は、モネの装飾性に対する高い関心を示していると言えるでしょう。

  • クロード・モネ「エトルタの夕焼け」1885年<br />ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。

    クロード・モネ「エトルタの夕焼け」1885年
    ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。

  • クロード・モネ「ジヴェルニーの積みわら」1884年<br />1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、一つのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になりますが、これはモネが愛好していた葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』といった浮世絵から発想を得た可能性があると考えられています。1891年5月、モネは15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表しており、そのうちの1点です。

    クロード・モネ「ジヴェルニーの積みわら」1884年
    1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、一つのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になりますが、これはモネが愛好していた葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』といった浮世絵から発想を得た可能性があると考えられています。1891年5月、モネは15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表しており、そのうちの1点です。

  • クロード・モネ「ルーアン大聖堂」1892年<br />ローマの時代からセーヌ河による水運の拠点として発展し、かつてノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、現在もフランス有数の大都市です。また、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地としても知られています。<br />  セーヌ河右岸の旧市街の中心の建つノートル=ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の精華のひとつに数えられています。この大聖堂のファサード(西正面)を、モネは夜明け直後から日没直後のさまざまな時間まで、異なる天候のもとで描き出して、その数は33点にまで及びました。1895年5月には、デュラン=リュエル画廊の個展で、そのうちの20点を発表しています。<br /> 本作品の上側には夕刻の光を受けてバラ色に輝く大聖堂の表現がみられますが、これは夕方6時頃の光であると言われています。加えて、本作品の下側には灰色の表現が見られますが、これは大聖堂に向かいの建物の影が落ちている様子を表現したものです。モネはこの建物の2階の部屋にイーゼルを立てて、ルーアン大聖堂の連作を制作しました。

    クロード・モネ「ルーアン大聖堂」1892年
    ローマの時代からセーヌ河による水運の拠点として発展し、かつてノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、現在もフランス有数の大都市です。また、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地としても知られています。
     セーヌ河右岸の旧市街の中心の建つノートル=ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の精華のひとつに数えられています。この大聖堂のファサード(西正面)を、モネは夜明け直後から日没直後のさまざまな時間まで、異なる天候のもとで描き出して、その数は33点にまで及びました。1895年5月には、デュラン=リュエル画廊の個展で、そのうちの20点を発表しています。
    本作品の上側には夕刻の光を受けてバラ色に輝く大聖堂の表現がみられますが、これは夕方6時頃の光であると言われています。加えて、本作品の下側には灰色の表現が見られますが、これは大聖堂に向かいの建物の影が落ちている様子を表現したものです。モネはこの建物の2階の部屋にイーゼルを立てて、ルーアン大聖堂の連作を制作しました。

  • クロード・モネ「バラ色のボート」1890年<br />モネは、1880年代後半から1890年にかけて、エプト川での舟遊びの情景を描いていますが、この作品は、モネの人物画の最後の大作であるとともに、水面下の水草の動きと神秘的な暗い光を描いた最初の試みでもあります。

    クロード・モネ「バラ色のボート」1890年
    モネは、1880年代後半から1890年にかけて、エプト川での舟遊びの情景を描いていますが、この作品は、モネの人物画の最後の大作であるとともに、水面下の水草の動きと神秘的な暗い光を描いた最初の試みでもあります。

  • クロード・モネ「睡蓮の池」1899年<br />モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

    クロード・モネ「睡蓮の池」1899年
    モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

  • クロード・モネ「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年<br />1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。

    クロード・モネ「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年
    1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。

  • クロード・モネ「睡蓮」1907年<br />モネは1899年から睡蓮を描いていますが、現在、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展示されている最晩年の「睡蓮」大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題とした作品は約200点残されています。モネは、最初睡蓮の池と日本風の橋の風景を空間として捉えた作品を描いていますが、彼の興味は、次第に睡蓮の浮かぶ水面に向けられていきます。モネは同じモティーフを描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。太陽の光は、季節や天気、時間帯によって異なります。朝の光は白くまぶしく、夕暮れ時の光は桃色やオレンジに見えます。同じ主題で異なる時間帯に描かれた作品を並べることで刻一刻と移りゆく光の表情を表現できるのです。この作品では、水面のさまざまな光による変化を捉えることで、空の色や雲の動き、周囲の木々の存在、水面の下の世界などを表現し、画面外の世界の存在の暗示と象徴に満ちています。

    クロード・モネ「睡蓮」1907年
    モネは1899年から睡蓮を描いていますが、現在、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展示されている最晩年の「睡蓮」大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題とした作品は約200点残されています。モネは、最初睡蓮の池と日本風の橋の風景を空間として捉えた作品を描いていますが、彼の興味は、次第に睡蓮の浮かぶ水面に向けられていきます。モネは同じモティーフを描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。太陽の光は、季節や天気、時間帯によって異なります。朝の光は白くまぶしく、夕暮れ時の光は桃色やオレンジに見えます。同じ主題で異なる時間帯に描かれた作品を並べることで刻一刻と移りゆく光の表情を表現できるのです。この作品では、水面のさまざまな光による変化を捉えることで、空の色や雲の動き、周囲の木々の存在、水面の下の世界などを表現し、画面外の世界の存在の暗示と象徴に満ちています。

  • クロード・モネ「サルーテ運河」1908年<br />1908年の9月末から12月にかけて、アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの友人の招待により、モネは妻のアリスをともなってイタリアのヴェネツィアに滞在しました。静養が目的でしたが、彼はホテル・グランド・ブリタニアで制作に没頭します。モネがヴェネツィアを描いた作品は約40点残されていますが、本作品を含む29点は、1912年5月に開催されたベルネーム=ジュヌ画廊の個展で展示されました。モネは、グラン・カナル(大運河)の近くに位置するサルーテ聖堂周辺の運河の風景を描いています。建物を照らす午後の強い光をモネはあざやかな色彩で表現していますが、その色使いは豊かでいきいきとしており、同時代のフォーヴィスムの色彩にさえ接近しています。水の都ヴェネツィアをはじめて訪れたモネは、もう一度来たいと願っていましたが、結局この旅行が最後の制作旅行となってしまいました。

    クロード・モネ「サルーテ運河」1908年
    1908年の9月末から12月にかけて、アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの友人の招待により、モネは妻のアリスをともなってイタリアのヴェネツィアに滞在しました。静養が目的でしたが、彼はホテル・グランド・ブリタニアで制作に没頭します。モネがヴェネツィアを描いた作品は約40点残されていますが、本作品を含む29点は、1912年5月に開催されたベルネーム=ジュヌ画廊の個展で展示されました。モネは、グラン・カナル(大運河)の近くに位置するサルーテ聖堂周辺の運河の風景を描いています。建物を照らす午後の強い光をモネはあざやかな色彩で表現していますが、その色使いは豊かでいきいきとしており、同時代のフォーヴィスムの色彩にさえ接近しています。水の都ヴェネツィアをはじめて訪れたモネは、もう一度来たいと願っていましたが、結局この旅行が最後の制作旅行となってしまいました。

  • アルフレッド・シスレー「マルリーの水飼い場」1873年<br />シスレーは、イル=ド=フランスのセーヌ河畔の村を転々として生涯のほとんどを過ごしました。1872年にパリを離れ、ルーヴシエンヌを経て、パリの西15km、ヴェルサイユとサン=ジェルマン=アン=レーに近いマルリー=ル=ロワに1875年に移り、この地で2年間暮らしました。マルリーは17、18世紀にわたって、王家の所有地であり、丘の上の広大な森は王の狩猟場でした。19世紀には、マンサール設計によるルイ14世の城館や庭園の跡地が残る、人気のある行楽地となりました。シスレーは、マルリーでもっとも古い通りのひとつで、ヴェルサイユとサン=ジェルマン=アン=レーを結ぶアヴルヴォワール(水飼い場)通り2番地に住み、水飼い場を繰り返し描いています。1699年にルイ14世によって建設された水飼い場は、ヴェルサイユの庭園にも水を供給していました、「マルリーの機械」と呼ばれる、セーヌ河水の揚水装置で汲み上げられた庭園の池の流水を利用したもので、馬の水飲み場としてばかりでなく、村にも水を供給していました。1862年には歴史的建造物に認定され、現在は国家が所有しています。

    アルフレッド・シスレー「マルリーの水飼い場」1873年
    シスレーは、イル=ド=フランスのセーヌ河畔の村を転々として生涯のほとんどを過ごしました。1872年にパリを離れ、ルーヴシエンヌを経て、パリの西15km、ヴェルサイユとサン=ジェルマン=アン=レーに近いマルリー=ル=ロワに1875年に移り、この地で2年間暮らしました。マルリーは17、18世紀にわたって、王家の所有地であり、丘の上の広大な森は王の狩猟場でした。19世紀には、マンサール設計によるルイ14世の城館や庭園の跡地が残る、人気のある行楽地となりました。シスレーは、マルリーでもっとも古い通りのひとつで、ヴェルサイユとサン=ジェルマン=アン=レーを結ぶアヴルヴォワール(水飼い場)通り2番地に住み、水飼い場を繰り返し描いています。1699年にルイ14世によって建設された水飼い場は、ヴェルサイユの庭園にも水を供給していました、「マルリーの機械」と呼ばれる、セーヌ河水の揚水装置で汲み上げられた庭園の池の流水を利用したもので、馬の水飲み場としてばかりでなく、村にも水を供給していました。1862年には歴史的建造物に認定され、現在は国家が所有しています。

  • アルフレッド・シスレー「サン=マメスのロワン河」1885年<br />サン=マメスは、モレ=シュル=ロワンの北、セーヌ河とロワン河の合流地点にあります。シスレーは1880-1882年にヴヌー=ナドンに住み、その後、1882年9月には穏やかな流れのロワン河畔の村モレ=シュル=ロワンに移り住みました。聖マメスの聖衣と遺骨の一部を納めた協会に由来する名を持つサン=マメスは、河川輸送の要衝の地であり、「船頭の村」として知られました。シスレーは晩年、この地を中心に作品を制作しました。水平線を画面の中央より低く置き、すばやい筆致で雲の動きや明るく照らされた河岸の草むらをとらえた本作品は、戸外制作の際にシスレーが感じた光や風の感覚を鮮明に伝えています。

    アルフレッド・シスレー「サン=マメスのロワン河」1885年
    サン=マメスは、モレ=シュル=ロワンの北、セーヌ河とロワン河の合流地点にあります。シスレーは1880-1882年にヴヌー=ナドンに住み、その後、1882年9月には穏やかな流れのロワン河畔の村モレ=シュル=ロワンに移り住みました。聖マメスの聖衣と遺骨の一部を納めた協会に由来する名を持つサン=マメスは、河川輸送の要衝の地であり、「船頭の村」として知られました。シスレーは晩年、この地を中心に作品を制作しました。水平線を画面の中央より低く置き、すばやい筆致で雲の動きや明るく照らされた河岸の草むらをとらえた本作品は、戸外制作の際にシスレーが感じた光や風の感覚を鮮明に伝えています。

  • アルフレッド・シスレー「ロワン河畔、朝」1891年<br />フォンテーヌブローの森の近く、ロワン河畔の美しい村モレ=シュル=ロワンの風景。シスレーはこの地で晩年の約10年を過しました。モレ=シュル=ロワンは、11世紀以降、3世紀にわたり王の城館があった歴史ある村。1893-1894年に、シスレーはモレの教会の連作を12点描いています。初期には暗い色彩を使って風景画を描いていたシスレーも、この頃には明るい色彩を多用して、青い空、朝の清澄な光に照らされて輝くロワン川の水面と河畔に建つ家々をやわらかな色調で描きとめています。

    アルフレッド・シスレー「ロワン河畔、朝」1891年
    フォンテーヌブローの森の近く、ロワン河畔の美しい村モレ=シュル=ロワンの風景。シスレーはこの地で晩年の約10年を過しました。モレ=シュル=ロワンは、11世紀以降、3世紀にわたり王の城館があった歴史ある村。1893-1894年に、シスレーはモレの教会の連作を12点描いています。初期には暗い色彩を使って風景画を描いていたシスレーも、この頃には明るい色彩を多用して、青い空、朝の清澄な光に照らされて輝くロワン川の水面と河畔に建つ家々をやわらかな色調で描きとめています。

  • カミーユ・ピサロ「エヌリー街道の眺め」1879年<br />ポントワーズから隣村エヌリーに続く道の風景。1864年に鉄道が敷設されたポントワーズは、パリの人々の行楽地となりました。ピサロは、1866年から1882年まで、ポントワーズとその周辺で約300点の油彩画を制作しました。ポントワーズとエヌリーの間には約3.5kmにわたって森が広がっています。緑豊かな風景を描いた本作品で、ピサロは微妙な諧調の色彩のタッチをさまざまな方向に置き重ねることにより、大気や風の揺らぎを感じさせる情緒豊かな画面を創り上げています。

    カミーユ・ピサロ「エヌリー街道の眺め」1879年
    ポントワーズから隣村エヌリーに続く道の風景。1864年に鉄道が敷設されたポントワーズは、パリの人々の行楽地となりました。ピサロは、1866年から1882年まで、ポントワーズとその周辺で約300点の油彩画を制作しました。ポントワーズとエヌリーの間には約3.5kmにわたって森が広がっています。緑豊かな風景を描いた本作品で、ピサロは微妙な諧調の色彩のタッチをさまざまな方向に置き重ねることにより、大気や風の揺らぎを感じさせる情緒豊かな画面を創り上げています。

  • カミーユ・ピサロ「エラニーの村の入口」1884年<br />ピサロは1884年に、パリの西北100kmに位置する、エプト河畔の小さな村エラニー=シュル=エプトに移り住みます。この地でピサロは、果樹園や牧場、農民の暮らしなど、牧歌的な田園風景を描き、最晩年を迎えるまでの約20年間を過ごしました。尖塔のある教会へと続く、生い茂る木々と立ちならぶ家々に挟まれたこの道に描きこまれた人々や馬車などは、この村ののどかな生活の雰囲気とともに、画面の奥行を表わしています。

    カミーユ・ピサロ「エラニーの村の入口」1884年
    ピサロは1884年に、パリの西北100kmに位置する、エプト河畔の小さな村エラニー=シュル=エプトに移り住みます。この地でピサロは、果樹園や牧場、農民の暮らしなど、牧歌的な田園風景を描き、最晩年を迎えるまでの約20年間を過ごしました。尖塔のある教会へと続く、生い茂る木々と立ちならぶ家々に挟まれたこの道に描きこまれた人々や馬車などは、この村ののどかな生活の雰囲気とともに、画面の奥行を表わしています。

  • カミーユ・ピサロ「エラニーの花咲く梨の木、朝」1886年<br />ピサロが1884年から移り住んだ村、エラニー=シュル=エプトの風景が、細かな点描と補色を利用した新印象主義の技法で描かれています。1885年にピサロは、デュラン=リュエル画廊でスーラと知り合い、彼の科学的で理論的な点描技法に注目し、自らも取り組みました。1886年の第8回印象派展には、ピサロの強い推薦によってスーラやシニャックらの作品が展示されましたが、ピサロも本作品をはじめとする点描技法による絵画を同展覧会に出品しました。しかし、アトリエで長時間制作しなければならない点描法はピサロの制作法に合わず、まもなくこの描法から離れてゆきます。

    カミーユ・ピサロ「エラニーの花咲く梨の木、朝」1886年
    ピサロが1884年から移り住んだ村、エラニー=シュル=エプトの風景が、細かな点描と補色を利用した新印象主義の技法で描かれています。1885年にピサロは、デュラン=リュエル画廊でスーラと知り合い、彼の科学的で理論的な点描技法に注目し、自らも取り組みました。1886年の第8回印象派展には、ピサロの強い推薦によってスーラやシニャックらの作品が展示されましたが、ピサロも本作品をはじめとする点描技法による絵画を同展覧会に出品しました。しかし、アトリエで長時間制作しなければならない点描法はピサロの制作法に合わず、まもなくこの描法から離れてゆきます。

  • エドガー・ドガ「マント家の人々」1879-80年頃<br />ドガは本作品で、1848年から1894年にオペラ座のオーケストラのコントラバス奏者をつとめ、写真家でもあったドガの友人ルイ=アメデ・マントの家族を描いています。

    エドガー・ドガ「マント家の人々」1879-80年頃
    ドガは本作品で、1848年から1894年にオペラ座のオーケストラのコントラバス奏者をつとめ、写真家でもあったドガの友人ルイ=アメデ・マントの家族を描いています。

  • エドガー・ドガ「踊りの稽古場にて」1884年頃<br />ドガは、1870年頃に制作された「オペラ座のオーケストラ」(オルセー美術館)ではじめて踊り子を描いたとされています。劇場でのバレエ鑑賞は当時のブルジョワ紳士たちの代表的な娯楽のひとつであり、ブルジョワ階級に生まれたドガにとっても日常的なことでした。ドガは人体表現の探究、そして彼が好んで描いた馬と同様に動きの表現を探究するための画題として踊り子を繰り返し描き続け、「踊り子の画家ドガ」というイメージを決定づけるまでにいたりました。

    エドガー・ドガ「踊りの稽古場にて」1884年頃
    ドガは、1870年頃に制作された「オペラ座のオーケストラ」(オルセー美術館)ではじめて踊り子を描いたとされています。劇場でのバレエ鑑賞は当時のブルジョワ紳士たちの代表的な娯楽のひとつであり、ブルジョワ階級に生まれたドガにとっても日常的なことでした。ドガは人体表現の探究、そして彼が好んで描いた馬と同様に動きの表現を探究するための画題として踊り子を繰り返し描き続け、「踊り子の画家ドガ」というイメージを決定づけるまでにいたりました。

  • エドガー・ドガ「休息する二人の踊り子」1900-1905年頃<br />本作品では、楽屋の踊り子たちのなにげない一瞬の光景が描かれています。このような踊り子たちの姿は、舞台裏にも出入りしていたドガだからこそ描けたものであるといえます。彼女たちは長椅子に座り込み、くるぶしを掴んだポーズで描かれています。本作品には同様の構図をもつ8点のヴァリアント(異作)が存在しますが、それらをみると二人の踊り子がそれぞれ自分の関心事に夢中になっているポーズから、腕の位置を変え、画面左の踊り子の頭部を右の踊り子のほうに向けることによって、二人が会話を交わしているような場面に構図を変化させていったことがうかがわれます。衣装から突き出た踊り子たちの手や脚の配置は計算し尽くされており、すばらしい構図を形作りながらも画面にぴったりと収まっています。<br />  1871年の普仏戦争従軍の後、目を病み、視力の衰えに悩まされていたドガは、あざやかな色彩表現とデッサンが同時にでき、また容易に加筆や修正ができるパステルを好んで用いました。とりわけ1892年頃、視力が急速に衰えてからはパステルや木炭を用いて大胆な色彩と強い輪郭線による作品を数多く制作しています。本作品でものびやかな踊り子たちの腕や脚は黒い力強い線で描かれ、踊り子のチュチュは明るい黄色の色面と化し、抽象的な背景に溶け込んでいます。

    エドガー・ドガ「休息する二人の踊り子」1900-1905年頃
    本作品では、楽屋の踊り子たちのなにげない一瞬の光景が描かれています。このような踊り子たちの姿は、舞台裏にも出入りしていたドガだからこそ描けたものであるといえます。彼女たちは長椅子に座り込み、くるぶしを掴んだポーズで描かれています。本作品には同様の構図をもつ8点のヴァリアント(異作)が存在しますが、それらをみると二人の踊り子がそれぞれ自分の関心事に夢中になっているポーズから、腕の位置を変え、画面左の踊り子の頭部を右の踊り子のほうに向けることによって、二人が会話を交わしているような場面に構図を変化させていったことがうかがわれます。衣装から突き出た踊り子たちの手や脚の配置は計算し尽くされており、すばらしい構図を形作りながらも画面にぴったりと収まっています。
     1871年の普仏戦争従軍の後、目を病み、視力の衰えに悩まされていたドガは、あざやかな色彩表現とデッサンが同時にでき、また容易に加筆や修正ができるパステルを好んで用いました。とりわけ1892年頃、視力が急速に衰えてからはパステルや木炭を用いて大胆な色彩と強い輪郭線による作品を数多く制作しています。本作品でものびやかな踊り子たちの腕や脚は黒い力強い線で描かれ、踊り子のチュチュは明るい黄色の色面と化し、抽象的な背景に溶け込んでいます。

  • エドガー・ドガ「踊り子たち」1900-1905年頃<br />本作品でドガは、「二人の踊り子」(1900年頃、ポーラ美術館蔵)にもみられる、腰に手を当てて立つポーズの踊り子を、斜め後ろから大きくとらえています。踊り子の身体の形態は、大胆で力強い、黒い輪郭線によってしっかりとかたどられています。この作品では、ドガは踊り子の左腕の輪郭線を何度も引き直しており、その線の跡が残っています。この跡は、踊り子の腕がまるで左右に揺れ動いているかのような錯覚を起こさせます。ドガは、おそらく意図的に引きなおしの線を残す、あるいは加えることで、動きを表現した作例を残しています。それは、「洗濯女」(1869年、ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク蔵)にみられる、アイロンをかける女性の腕の表現などです。「踊り子たち」の左腕の輪郭線の痕跡は、ドガの意図したものではなく、単なる偶然の効果によるものですが、形態を的確にとらえようと繰り返し引かれた輪郭線の痕跡は、静止した絵画の画面に、踊り子の身体の動きを導入しているようにも思われます。<br />

    エドガー・ドガ「踊り子たち」1900-1905年頃
    本作品でドガは、「二人の踊り子」(1900年頃、ポーラ美術館蔵)にもみられる、腰に手を当てて立つポーズの踊り子を、斜め後ろから大きくとらえています。踊り子の身体の形態は、大胆で力強い、黒い輪郭線によってしっかりとかたどられています。この作品では、ドガは踊り子の左腕の輪郭線を何度も引き直しており、その線の跡が残っています。この跡は、踊り子の腕がまるで左右に揺れ動いているかのような錯覚を起こさせます。ドガは、おそらく意図的に引きなおしの線を残す、あるいは加えることで、動きを表現した作例を残しています。それは、「洗濯女」(1869年、ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク蔵)にみられる、アイロンをかける女性の腕の表現などです。「踊り子たち」の左腕の輪郭線の痕跡は、ドガの意図したものではなく、単なる偶然の効果によるものですが、形態を的確にとらえようと繰り返し引かれた輪郭線の痕跡は、静止した絵画の画面に、踊り子の身体の動きを導入しているようにも思われます。

  • エドガー・ドガ「スパニッシュ・ダンス」1885-1890年頃<br />1881年の第6回印象派展にドガは、人口の髪に絹のリボン、バレエのチュチュを着け、トウシューズを履いた《14歳の小さな踊り子》を出品しています。この作品だけが唯一、彼の生前に公開された塑像でした。少女の顔立ちや人体のプロポーションを、美しく理想化することなく写実的に表現し、実物の衣装をつけ、一部は着彩まで施されていたこの作品は、異様で醜いものとして批評家たちの酷評を浴びました。しかし現在では、ドガが目指していた写実主義がもっとも直接的に表現されている作品として高く評価されています。<br />  ドガは、1880年代の半ば頃より、油彩画やパステル画と同様、踊り子、裸婦、馬などを主題とした、蜜蝋や粘土による小さな塑像を数多く制作するようになります。彼はこのような塑像を、完成作として発表することは考えていなかったため、アトリエのなかで、つくっては壊すといった作業を繰り返しました。ドガの死後、壊れかけた塑像やばらばらの破片がアトリエで発見され、それらは修復されて1921年までに72点が鋳造されました。そのうちの38点は踊り子の像です。これらの塑像は、ドガが絵画や素描の制作と同時に行っていた、モデリングによる立体のエスキースのような作業で生み出されたのでした。しかし、この作品にみられるように、ドガの彫刻は、どの角度から見ても均整のとれた美しいプロポーションと人体の軽やかな動きを表現しており、絵画にとどまらない彼の造形の才能を示しています。

    エドガー・ドガ「スパニッシュ・ダンス」1885-1890年頃
    1881年の第6回印象派展にドガは、人口の髪に絹のリボン、バレエのチュチュを着け、トウシューズを履いた《14歳の小さな踊り子》を出品しています。この作品だけが唯一、彼の生前に公開された塑像でした。少女の顔立ちや人体のプロポーションを、美しく理想化することなく写実的に表現し、実物の衣装をつけ、一部は着彩まで施されていたこの作品は、異様で醜いものとして批評家たちの酷評を浴びました。しかし現在では、ドガが目指していた写実主義がもっとも直接的に表現されている作品として高く評価されています。
     ドガは、1880年代の半ば頃より、油彩画やパステル画と同様、踊り子、裸婦、馬などを主題とした、蜜蝋や粘土による小さな塑像を数多く制作するようになります。彼はこのような塑像を、完成作として発表することは考えていなかったため、アトリエのなかで、つくっては壊すといった作業を繰り返しました。ドガの死後、壊れかけた塑像やばらばらの破片がアトリエで発見され、それらは修復されて1921年までに72点が鋳造されました。そのうちの38点は踊り子の像です。これらの塑像は、ドガが絵画や素描の制作と同時に行っていた、モデリングによる立体のエスキースのような作業で生み出されたのでした。しかし、この作品にみられるように、ドガの彫刻は、どの角度から見ても均整のとれた美しいプロポーションと人体の軽やかな動きを表現しており、絵画にとどまらない彼の造形の才能を示しています。

  • エドガー・ドガ「入浴する女」1894年頃<br />エドガー・ドガもまた、日本美術を愛好した芸術家として知られています。特にデッサンを重視し、人体描写に飽くなき探求心を持っていたドガは、「北斎漫画」に登場する人々のくつろいだポーズや滑稽にさえ見えるありのままの姿に興味を抱いたと考えられます。女性の日常的な入浴シーンを主題とした「入浴する女」では、今まさに浴槽に入ろうとしているのか、かがんだ女性の自然な姿が描かれています。

    エドガー・ドガ「入浴する女」1894年頃
    エドガー・ドガもまた、日本美術を愛好した芸術家として知られています。特にデッサンを重視し、人体描写に飽くなき探求心を持っていたドガは、「北斎漫画」に登場する人々のくつろいだポーズや滑稽にさえ見えるありのままの姿に興味を抱いたと考えられます。女性の日常的な入浴シーンを主題とした「入浴する女」では、今まさに浴槽に入ろうとしているのか、かがんだ女性の自然な姿が描かれています。

  • ウジェーヌ・ブーダン「海洋の帆船」1873年<br />ブーダンは、フランスやヨーロッパの各地を旅して絵画制作を続けましたが、もっとも多く制作したのがフランスの大西洋岸の海浜風景でした。この海景がどこで制作されたのかは定かではありませんが、おそらくはブルターニュ地方の、この時期にしばしば制作を行っていた、カマレ沖の海景であると推測されます。<br />  1857年に、ブーダンはル・アーヴルで若きモネと出会い、屋外で絵を描くことを教えたことで知られていますが、この「海洋の帆船」も、実景を目にしながら画家が受けた印象が留められた作品です。ブーダンはサロン出品を続けつつ、1874年の第1回印象派展に出品していますが、本作品にも印象派につながる表現を認めることができます。画面の低い位置に水平線が置かれ、画面下部の海の部分では、力強いタッチをすばやく重ねて、光にきらめく海面の波のうねりや揺らめきを表現し、海上には数隻の帆船が浮かんでいます。画面上部を占める空の部分には、湧き立つ雲が活き活きとした筆遣いで描き出されています。彼の海景画では、空が画面の大半を占めますが、刻々と移り変わる大気の表情を鋭い観察眼でとらえた作品を前にした詩人シャルル・ボードレールは、絵を見ただけで季節や時刻、風向きがわかると讃辞を呈し、コローはこの画家を「空の王者」と称えました。

    ウジェーヌ・ブーダン「海洋の帆船」1873年
    ブーダンは、フランスやヨーロッパの各地を旅して絵画制作を続けましたが、もっとも多く制作したのがフランスの大西洋岸の海浜風景でした。この海景がどこで制作されたのかは定かではありませんが、おそらくはブルターニュ地方の、この時期にしばしば制作を行っていた、カマレ沖の海景であると推測されます。
     1857年に、ブーダンはル・アーヴルで若きモネと出会い、屋外で絵を描くことを教えたことで知られていますが、この「海洋の帆船」も、実景を目にしながら画家が受けた印象が留められた作品です。ブーダンはサロン出品を続けつつ、1874年の第1回印象派展に出品していますが、本作品にも印象派につながる表現を認めることができます。画面の低い位置に水平線が置かれ、画面下部の海の部分では、力強いタッチをすばやく重ねて、光にきらめく海面の波のうねりや揺らめきを表現し、海上には数隻の帆船が浮かんでいます。画面上部を占める空の部分には、湧き立つ雲が活き活きとした筆遣いで描き出されています。彼の海景画では、空が画面の大半を占めますが、刻々と移り変わる大気の表情を鋭い観察眼でとらえた作品を前にした詩人シャルル・ボードレールは、絵を見ただけで季節や時刻、風向きがわかると讃辞を呈し、コローはこの画家を「空の王者」と称えました。

  • ウジェーヌ・ブーダン「トリスタン島の眺望、朝」1895年<br />トリスタン島は、ブルターニュにある、フランス有数の漁港がある街ドゥアルヌネの湾内に浮かぶ小島です。干潮時には陸続きとなります。ドゥアルヌネ湾はカンペールから北西30km、北をクロワゾン半島、南をシザン半島に囲まれたリアス式海岸の入り江。「ドゥアルヌネ」とは、ブルトン語で「その島の地」(Douar an enez)を意味し、トリスタン島に由来します。この島は『トリスタンとイゾルデ』の登場人物、トリスタンが仕えたおじのマルク王の別荘があった島と言われています。中世には小さな修道院が建てられ、16世紀には海賊の根城として使われた歴史があります。ブーダンが1855年にこの地を訪れて以来、多くの画家たちが滞在し、作品を制作しています。本作品でブーダンは、トリスタン島の岩場とドゥアルヌネ湾岸の風景を描いています。エメラルド色がかった青い海と空を分かつ陸地には、朝の光を受けた教会の尖塔や家々、灯台などの建物が細かく描きこまれています。

    ウジェーヌ・ブーダン「トリスタン島の眺望、朝」1895年
    トリスタン島は、ブルターニュにある、フランス有数の漁港がある街ドゥアルヌネの湾内に浮かぶ小島です。干潮時には陸続きとなります。ドゥアルヌネ湾はカンペールから北西30km、北をクロワゾン半島、南をシザン半島に囲まれたリアス式海岸の入り江。「ドゥアルヌネ」とは、ブルトン語で「その島の地」(Douar an enez)を意味し、トリスタン島に由来します。この島は『トリスタンとイゾルデ』の登場人物、トリスタンが仕えたおじのマルク王の別荘があった島と言われています。中世には小さな修道院が建てられ、16世紀には海賊の根城として使われた歴史があります。ブーダンが1855年にこの地を訪れて以来、多くの画家たちが滞在し、作品を制作しています。本作品でブーダンは、トリスタン島の岩場とドゥアルヌネ湾岸の風景を描いています。エメラルド色がかった青い海と空を分かつ陸地には、朝の光を受けた教会の尖塔や家々、灯台などの建物が細かく描きこまれています。

  • エドゥアール・マネ「サラマンカの学生たち」1860年<br />本作品は、17世紀スペインを舞台とした、18世紀フランスの劇作家ル・サージュの小説『ジル・ブラース物語』(全12巻、1715-1735年)の序文の逸話を題材にしています。二人の学生がスペインの古都サラマンカに向かう途中、碑文を記した石を発見し、一人は笑って去り、もう一人は碑文の内容通り石の下から金貨を発見するという話は、この物語を注意深く読めば、そこに隠されている教訓から読者は多くを得られることを示唆しています。森の奥に広がる美しい風景は、マネ家が別荘を所有していたパリ近郊のジュヌヴィリエに近い、サン=トゥアンで描いたスケッチをもとに描かれたと思われます。マネは物語の舞台となるスペインの風景を、身近な風景を取り入れて創り上げています。彼が実際にスペインを訪れたのは1865年でした。

    エドゥアール・マネ「サラマンカの学生たち」1860年
    本作品は、17世紀スペインを舞台とした、18世紀フランスの劇作家ル・サージュの小説『ジル・ブラース物語』(全12巻、1715-1735年)の序文の逸話を題材にしています。二人の学生がスペインの古都サラマンカに向かう途中、碑文を記した石を発見し、一人は笑って去り、もう一人は碑文の内容通り石の下から金貨を発見するという話は、この物語を注意深く読めば、そこに隠されている教訓から読者は多くを得られることを示唆しています。森の奥に広がる美しい風景は、マネ家が別荘を所有していたパリ近郊のジュヌヴィリエに近い、サン=トゥアンで描いたスケッチをもとに描かれたと思われます。マネは物語の舞台となるスペインの風景を、身近な風景を取り入れて創り上げています。彼が実際にスペインを訪れたのは1865年でした。

  • エドゥアール・マネ「ベンチにて」1879年<br />本作品に描かれた女性は、1882年のサロンに出品されたマネ晩年の傑作《春(ジャンヌ・ドマルシー)》(1882年、ポール・ゲッティ美術館、ロサンゼルス)でも横顔で描かれた若い女優ジャンヌ・ドマルシーです。《春》は、マネの友人の美術批評家アントナン・プルーストの注文制作による四季の寓意の1点でした。この作品でも、ジャンヌの横顔にみられる女性の華やかな美しさと優美さ、活き活きとした生命感が、カンヴァスの上に明るい色彩のパステルによって描き出されています。マネは、1870年代末から歿するまでに90点近くのパステル画を残していますが、そのうち70点以上が女性の胸像でした。油彩よりも色彩が明るく、なめらかでマットな画肌を作り出すことができるパステルは、女性のやわらかな肌の表現に適しており、マネも意識して用いたと思われます。<br />  ジャンヌは、この頃マネが借りていた、スウェーデン人画家オットー・ローゼンの温室アトリエにあったベンチに街着を着て座っています。この温室でマネは、2点の油彩画を制作していますが、いずれも1879年制作とされています。しかしながら、《春》と構図や周囲の植物の表現が似ていることから、制作年は1881年頃とも考えられます。なお、本作品は1883年にパリ国立美術学校で開催されたマネ歿後の大回顧展に出品されました。

    エドゥアール・マネ「ベンチにて」1879年
    本作品に描かれた女性は、1882年のサロンに出品されたマネ晩年の傑作《春(ジャンヌ・ドマルシー)》(1882年、ポール・ゲッティ美術館、ロサンゼルス)でも横顔で描かれた若い女優ジャンヌ・ドマルシーです。《春》は、マネの友人の美術批評家アントナン・プルーストの注文制作による四季の寓意の1点でした。この作品でも、ジャンヌの横顔にみられる女性の華やかな美しさと優美さ、活き活きとした生命感が、カンヴァスの上に明るい色彩のパステルによって描き出されています。マネは、1870年代末から歿するまでに90点近くのパステル画を残していますが、そのうち70点以上が女性の胸像でした。油彩よりも色彩が明るく、なめらかでマットな画肌を作り出すことができるパステルは、女性のやわらかな肌の表現に適しており、マネも意識して用いたと思われます。
     ジャンヌは、この頃マネが借りていた、スウェーデン人画家オットー・ローゼンの温室アトリエにあったベンチに街着を着て座っています。この温室でマネは、2点の油彩画を制作していますが、いずれも1879年制作とされています。しかしながら、《春》と構図や周囲の植物の表現が似ていることから、制作年は1881年頃とも考えられます。なお、本作品は1883年にパリ国立美術学校で開催されたマネ歿後の大回顧展に出品されました。

  • ギュスターヴ・クールベ「岩のある風景」<br />地方主義の運動が活発化した19世紀後半において、故郷の風景に愛着を抱いていたクールベは、数多くの風景画を制作して、フランシュ=コンテ地方の称揚に力を尽くしました。 本作品は、オルナン近郊を流れるルー川の渓谷に位置する小村、ムーティエ=オート=ピエールにある奇岩、「ル・モワーヌ・ド・ラ・ヴァレ」(谷間の坊主岩)を取り上げたものです。剥き出しとなった石灰岩質の崖、そして坊主岩に表れた、この地域の荒々しく力強い自然の特性が、パレットナイフによる厚塗りの描法によって、ひときわ高められています。劇的な自然の描写の前にたたずむ二匹の鹿は、画家の得意としたもうひとつのジャンルである狩猟図の伝統に通じています。

    ギュスターヴ・クールベ「岩のある風景」
    地方主義の運動が活発化した19世紀後半において、故郷の風景に愛着を抱いていたクールベは、数多くの風景画を制作して、フランシュ=コンテ地方の称揚に力を尽くしました。 本作品は、オルナン近郊を流れるルー川の渓谷に位置する小村、ムーティエ=オート=ピエールにある奇岩、「ル・モワーヌ・ド・ラ・ヴァレ」(谷間の坊主岩)を取り上げたものです。剥き出しとなった石灰岩質の崖、そして坊主岩に表れた、この地域の荒々しく力強い自然の特性が、パレットナイフによる厚塗りの描法によって、ひときわ高められています。劇的な自然の描写の前にたたずむ二匹の鹿は、画家の得意としたもうひとつのジャンルである狩猟図の伝統に通じています。

  • ギュスターヴ・クールベ「牝鹿のいる雪の風景」1866-1869年頃<br />クールベは、1860年代からバルビゾン派の影響や狩猟の体験にもとづき、森の風景を多く描いています。ルー川の渓谷に位置するクールベの故郷、フランス東部フランシュ=コンテのドーブ県の町オルナンの近郊には、緑深い森や、切り立つ石灰岩質の大地や崖などの広大な風景が広がります。クールベは故郷の自然を愛し、その風景画を数多く残しています。本作品でクールベは狩猟者のように、鹿が彼の存在に気づかない視点から観察し、東部と耳の一部のみを描いています。また、彼は雪の風景をパレットナイフや筆を使って、盛上げた乾いた調子など、さまざまな画肌を創り出しながら表現しています。

    ギュスターヴ・クールベ「牝鹿のいる雪の風景」1866-1869年頃
    クールベは、1860年代からバルビゾン派の影響や狩猟の体験にもとづき、森の風景を多く描いています。ルー川の渓谷に位置するクールベの故郷、フランス東部フランシュ=コンテのドーブ県の町オルナンの近郊には、緑深い森や、切り立つ石灰岩質の大地や崖などの広大な風景が広がります。クールベは故郷の自然を愛し、その風景画を数多く残しています。本作品でクールベは狩猟者のように、鹿が彼の存在に気づかない視点から観察し、東部と耳の一部のみを描いています。また、彼は雪の風景をパレットナイフや筆を使って、盛上げた乾いた調子など、さまざまな画肌を創り出しながら表現しています。

  • ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「森のなかの少女」1865-70年<br />19世紀のフランス美術界の中で最も優れた風景画家のひとりジャン=バティスト=カミーユ・コローの作品。

    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「森のなかの少女」1865-70年
    19世紀のフランス美術界の中で最も優れた風景画家のひとりジャン=バティスト=カミーユ・コローの作品。

  • オーギュスト・ロダン「カレーの市民(第二試作)」1885年、鋳造年1977年<br />1900年のパリ万国博覧会に際し、アルマ広場のパヴィリオンにおいてロダンの大回顧展が開催され、《カレーの市民》を含む彫刻168点や、デッサンと写真約50点が出品されました。この展覧会でロダンは批評家たちの注目を集め、世界中から注文が殺到することとなりました。<br />  《カレーの市民》とよばれる群像彫刻は、イギリスとフランスが対立した百年戦争における、ある英雄たちの物語が主題となっていますが、この物語についてロダンは中世後期の歴史学者、ジャン・フロワサールの『年代記』をよりどころとしました。1347年、フランス北部のカレー市を包囲した英国王エドワード3世は、この市の6人の名士が人質となり、城塞の鍵を渡すならば包囲を解こうと提案しました。この時、ユスタッシュ・ド・サン=ピエールほか6人が死を覚悟してエドワード3世の陣営に赴きましたが、命を奪われることなく解放されました。フランス人の勇敢さとイギリス人の寛大さを象徴するこの伝説的な話をカレー市は記念碑の主題に選び、1884年にロダンに制作を依頼しました。

    オーギュスト・ロダン「カレーの市民(第二試作)」1885年、鋳造年1977年
    1900年のパリ万国博覧会に際し、アルマ広場のパヴィリオンにおいてロダンの大回顧展が開催され、《カレーの市民》を含む彫刻168点や、デッサンと写真約50点が出品されました。この展覧会でロダンは批評家たちの注目を集め、世界中から注文が殺到することとなりました。
     《カレーの市民》とよばれる群像彫刻は、イギリスとフランスが対立した百年戦争における、ある英雄たちの物語が主題となっていますが、この物語についてロダンは中世後期の歴史学者、ジャン・フロワサールの『年代記』をよりどころとしました。1347年、フランス北部のカレー市を包囲した英国王エドワード3世は、この市の6人の名士が人質となり、城塞の鍵を渡すならば包囲を解こうと提案しました。この時、ユスタッシュ・ド・サン=ピエールほか6人が死を覚悟してエドワード3世の陣営に赴きましたが、命を奪われることなく解放されました。フランス人の勇敢さとイギリス人の寛大さを象徴するこの伝説的な話をカレー市は記念碑の主題に選び、1884年にロダンに制作を依頼しました。

  • オーギュスト・ロダン「ナタリー・ド・ゴルベフの肖像」1905年頃<br />ロダンは、若い頃より家族、友人など身近な人々の肖像彫刻を制作しています。肖像彫刻の場合、写真などの二次元的資料では生命力が欠けるとして、常にモデルにポーズをとらせました。1900年以前には、ロダンは女性の肖像彫刻を制作したことはなかったが、1900年にアルマ広場で開催された展覧会以降、肖像彫刻制作の注文が殺到しました。<br />  大理石の女性の肖像が多いのは、この《ナタリー・ド・ゴルベフの肖像》にみられるように、大理石の肌理と光沢が、女性のすべらかな肌や衣服のやわらかな襞を表現するのに適していたからです。 ナタリー・ド・ゴルベフ(1879-1941)は、ロシア出身でヴィクトール・ド・ゴルベフ伯爵(1879-1945)の夫人。ヴィクトールはインドシナ美術の研究者で、ハノイの極東学院の教授を務めた人物です。ナタリーは文筆家であり、ドナテッラ・クロスという名で翻訳も手がけた才媛で、イタリア人の作家・詩人のガブリエーレ・ダヌンツィオ(1863-1938)と恋愛関係にありました。自分の胸像を見たナタリーがロダンに書き送った次のような言葉からは、彼女がその出来栄えに満足し、ロダンに賞讃と感謝の念を抱いていたことがうかがえます。「私をもとにしてこのような胸像をつくってくださったのだ、という自惚れを押し殺すように苦労しなければなりません」。「あなたが私をもとにつくってくださった、所有しているのが今でも夢のような、この理想的な肖像にふさわしい人になるよう、できる限り努力するつもりです」。

    オーギュスト・ロダン「ナタリー・ド・ゴルベフの肖像」1905年頃
    ロダンは、若い頃より家族、友人など身近な人々の肖像彫刻を制作しています。肖像彫刻の場合、写真などの二次元的資料では生命力が欠けるとして、常にモデルにポーズをとらせました。1900年以前には、ロダンは女性の肖像彫刻を制作したことはなかったが、1900年にアルマ広場で開催された展覧会以降、肖像彫刻制作の注文が殺到しました。
     大理石の女性の肖像が多いのは、この《ナタリー・ド・ゴルベフの肖像》にみられるように、大理石の肌理と光沢が、女性のすべらかな肌や衣服のやわらかな襞を表現するのに適していたからです。 ナタリー・ド・ゴルベフ(1879-1941)は、ロシア出身でヴィクトール・ド・ゴルベフ伯爵(1879-1945)の夫人。ヴィクトールはインドシナ美術の研究者で、ハノイの極東学院の教授を務めた人物です。ナタリーは文筆家であり、ドナテッラ・クロスという名で翻訳も手がけた才媛で、イタリア人の作家・詩人のガブリエーレ・ダヌンツィオ(1863-1938)と恋愛関係にありました。自分の胸像を見たナタリーがロダンに書き送った次のような言葉からは、彼女がその出来栄えに満足し、ロダンに賞讃と感謝の念を抱いていたことがうかがえます。「私をもとにしてこのような胸像をつくってくださったのだ、という自惚れを押し殺すように苦労しなければなりません」。「あなたが私をもとにつくってくださった、所有しているのが今でも夢のような、この理想的な肖像にふさわしい人になるよう、できる限り努力するつもりです」。

  • ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「男の頭部(《ホメロス礼讃》のための習作 )」1827年<br />アングルは、フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、特にダヴィッドがナポレオンの没落後の1816年にブリュッセルに亡命した後、注目され、古典主義的な絵画の牙城を守りました。 <br />  本作品はアカデミー会員となった翌年の1826年、フランス政府より依頼を受けて制作された天井画の習作のひとつと考えられます。ルーヴル宮内に新設される九つの部屋からなる「シャルル10世美術館」の「第9の間」天井画として、アングルは《ホメロス礼讃》(1827年、ルーヴル美術館)を描きました。ギリシア風の神殿を背景に詩人ホメロスを称える古今の偉大な詩人、美術家、音楽家、哲学者、芸術の擁護者たち45人が彼を取り囲んでいます。ギリシア芸術を最高の規範とする新古典主義の考えを視覚化した作品であり、アングルの芸術的、精神的信仰の告白といえます。アングルはこの主題を以前から考案していたようだ。この作品には、《黄金時代》とならんでもっとも多くの習作が残されており、部分素描習作はモントーバンのアングル美術館だけでも300点以上あります。本作品は35点ほどの油彩部分習作のひとつであり、描かれた人物は完成作にはない古代の司祭であるとも、また完成作にある古代ギリシアの叙情詩人ピンダロスの像ともいわれています。

    ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「男の頭部(《ホメロス礼讃》のための習作 )」1827年
    アングルは、フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、特にダヴィッドがナポレオンの没落後の1816年にブリュッセルに亡命した後、注目され、古典主義的な絵画の牙城を守りました。
     本作品はアカデミー会員となった翌年の1826年、フランス政府より依頼を受けて制作された天井画の習作のひとつと考えられます。ルーヴル宮内に新設される九つの部屋からなる「シャルル10世美術館」の「第9の間」天井画として、アングルは《ホメロス礼讃》(1827年、ルーヴル美術館)を描きました。ギリシア風の神殿を背景に詩人ホメロスを称える古今の偉大な詩人、美術家、音楽家、哲学者、芸術の擁護者たち45人が彼を取り囲んでいます。ギリシア芸術を最高の規範とする新古典主義の考えを視覚化した作品であり、アングルの芸術的、精神的信仰の告白といえます。アングルはこの主題を以前から考案していたようだ。この作品には、《黄金時代》とならんでもっとも多くの習作が残されており、部分素描習作はモントーバンのアングル美術館だけでも300点以上あります。本作品は35点ほどの油彩部分習作のひとつであり、描かれた人物は完成作にはない古代の司祭であるとも、また完成作にある古代ギリシアの叙情詩人ピンダロスの像ともいわれています。

  • アドルフ・ジョゼフ・トマ・モンティセリ「人物」<br />アドルフ・ジョゼフ・トマ・モンティセリは、フランスの印象派に先立つ時期の画家。ゴッホにも影響を与えています。

    アドルフ・ジョゼフ・トマ・モンティセリ「人物」
    アドルフ・ジョゼフ・トマ・モンティセリは、フランスの印象派に先立つ時期の画家。ゴッホにも影響を与えています。

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