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4月17日からポーラ美術館で4月17日からポーラ美術館で「フジター色彩への旅」が始まりましたので早速行ってきました。「フジター色彩への旅」展の様子は別旅行記に纏めましたが、同時開催の 岡田杏里「Sonar dentro de la tierra / 土の中で夢をみる」「モネ-光のなかに」「ポーラ美術館の名作絵画」「ラファエル・コランと黒田清輝―120年目の邂逅」も興味深く展示を楽しめました。

ポーラ美術館 「岡田杏里 土の中で夢をみる」「モネ-光のなかに」他

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2021/04/17 - 2021/04/17

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旅行記グループ ポーラ美術館

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4月17日からポーラ美術館で4月17日からポーラ美術館で「フジター色彩への旅」が始まりましたので早速行ってきました。「フジター色彩への旅」展の様子は別旅行記に纏めましたが、同時開催の 岡田杏里「Sonar dentro de la tierra / 土の中で夢をみる」「モネ-光のなかに」「ポーラ美術館の名作絵画」「ラファエル・コランと黒田清輝―120年目の邂逅」も興味深く展示を楽しめました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通手段
自家用車

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  • この日は雨、ポーラ美術館のまわりは少し霧がでています。開館と同時に入場しました。

    この日は雨、ポーラ美術館のまわりは少し霧がでています。開館と同時に入場しました。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • ポーラ美術館は、開館15周年にあたる2017年に公益財団法人ポーラ美術振興財団の助成を受けた現代美術作家の活動を紹介する「アトリウム ギャラリー」を新設し、芸術表現と美術館の可能性を「ひらく」という趣旨の「HIRAKU PROJECT」をおこなっています。11回目の今回は、日本とメキシコを拠点に活躍する岡田 杏里が紹介されていました。

    ポーラ美術館は、開館15周年にあたる2017年に公益財団法人ポーラ美術振興財団の助成を受けた現代美術作家の活動を紹介する「アトリウム ギャラリー」を新設し、芸術表現と美術館の可能性を「ひらく」という趣旨の「HIRAKU PROJECT」をおこなっています。11回目の今回は、日本とメキシコを拠点に活躍する岡田 杏里が紹介されていました。

  • 岡田杏里は、1989年埼?県生まれ。2016年東京藝術大学大学院美術研究科を卒業。2014年に?橋財団国際交流油画奨学生としてメキシコ、グアテマラへの留学、2016年ポーラ美術振興財団在外研修員としてベラクルス州立大学美術研究所(メキシコ)での研修を経て、2019年からはメキシコ国立自治大学UMAMに留学、現在は日本とメキシコを拠点に活動しているアーティストです。

    岡田杏里は、1989年埼?県生まれ。2016年東京藝術大学大学院美術研究科を卒業。2014年に?橋財団国際交流油画奨学生としてメキシコ、グアテマラへの留学、2016年ポーラ美術振興財団在外研修員としてベラクルス州立大学美術研究所(メキシコ)での研修を経て、2019年からはメキシコ国立自治大学UMAMに留学、現在は日本とメキシコを拠点に活動しているアーティストです。

  • 国内外での個展開催やグループ展への参加、滞在制作のほか、壁画アートプロジェクト「ヘキカキカク」を通じてメキシコ、グアテラマ、ネパールなど世界各地でパブリック・アートとしての壁画を制作するなど、多方面で活躍しているそうです。<br />本展では、メキシコで制作された最新作33点によるインスタレーションを中心に、絵画作品や立体作品なども展示されていました。

    国内外での個展開催やグループ展への参加、滞在制作のほか、壁画アートプロジェクト「ヘキカキカク」を通じてメキシコ、グアテラマ、ネパールなど世界各地でパブリック・アートとしての壁画を制作するなど、多方面で活躍しているそうです。
    本展では、メキシコで制作された最新作33点によるインスタレーションを中心に、絵画作品や立体作品なども展示されていました。

  • 目玉となるのは、縦75×横75センチメートルのキャンバスを33点ほど組み合わて実現される、壁画のインスタレーション。およそ縦3×横10メートルもの大きさに及ぶこの壁画では、メキシコの地で培われた想像上の森を舞台として、植物や生物、そして人間の形象が交錯します。

    目玉となるのは、縦75×横75センチメートルのキャンバスを33点ほど組み合わて実現される、壁画のインスタレーション。およそ縦3×横10メートルもの大きさに及ぶこの壁画では、メキシコの地で培われた想像上の森を舞台として、植物や生物、そして人間の形象が交錯します。

  • 自然と生命との関係をめぐるテーマは、岡田がこれまで主たる関心のもとに追求してきたものということ。

    自然と生命との関係をめぐるテーマは、岡田がこれまで主たる関心のもとに追求してきたものということ。

  • ユニークな立体作品

    ユニークな立体作品

  • メキシコらしいカラフルな作品はパワーが溢れているようです。

    メキシコらしいカラフルな作品はパワーが溢れているようです。

  • 「モネ-光のなかに」という特別展示が展示室3で開催されていました。<br />HPより<br />印象派を代表する画家クロード・モネ。ポーラ美術館は、国内最多の19点に及ぶモネ作品を収蔵しています。19世紀後半、セーヌ流域を転々と移り住み、やがてパリ郊外のジヴェルニーを終の棲家としたモネは、フランスの各地で、そしてロンドンやヴェネツィアといった旅先で、風景を描き続けました。季節や時間によって異なる表情を見せる、移ろいゆく光を生涯追い続けたのです。<br />本展示では、《ルーアン大聖堂》(1892年)や《睡蓮の池》(1899年)など、ポーラ美術館のコレクションから名品の数々をご紹介いたします。気鋭の建築家・中山英之が会場デザインを手がける斬新な展示空間のなかで、モネ作品の新たな魅力に迫る試みです。

    「モネ-光のなかに」という特別展示が展示室3で開催されていました。
    HPより
    印象派を代表する画家クロード・モネ。ポーラ美術館は、国内最多の19点に及ぶモネ作品を収蔵しています。19世紀後半、セーヌ流域を転々と移り住み、やがてパリ郊外のジヴェルニーを終の棲家としたモネは、フランスの各地で、そしてロンドンやヴェネツィアといった旅先で、風景を描き続けました。季節や時間によって異なる表情を見せる、移ろいゆく光を生涯追い続けたのです。
    本展示では、《ルーアン大聖堂》(1892年)や《睡蓮の池》(1899年)など、ポーラ美術館のコレクションから名品の数々をご紹介いたします。気鋭の建築家・中山英之が会場デザインを手がける斬新な展示空間のなかで、モネ作品の新たな魅力に迫る試みです。

  • 明るい空間の中でゆったりと作品をみていきます。

    明るい空間の中でゆったりと作品をみていきます。

  • クロード・モネ「サルーテ運河」1908年<br />1908年の9月末から12月にかけて、アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの友人の招待により、モネは妻のアリスをともなってイタリアのヴェネツィアに滞在しました。静養が目的でしたが、彼はホテル・グランド・ブリタニアで制作に没頭します。モネがヴェネツィアを描いた作品は約40点残されていますが、本作品を含む29点は、1912年5月に開催されたベルネーム=ジュヌ画廊の個展で展示されました。モネは、グラン・カナル(大運河)の近くに位置するサルーテ聖堂周辺の運河の風景を描いています。建物を照らす午後の強い光をモネはあざやかな色彩で表現していますが、その色使いは豊かでいきいきとしており、同時代のフォーヴィスムの色彩にさえ接近しています。水の都ヴェネツィアをはじめて訪れたモネは、もう一度来たいと願っていましたが、結局この旅行が最後の制作旅行となってしまいました。

    クロード・モネ「サルーテ運河」1908年
    1908年の9月末から12月にかけて、アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの友人の招待により、モネは妻のアリスをともなってイタリアのヴェネツィアに滞在しました。静養が目的でしたが、彼はホテル・グランド・ブリタニアで制作に没頭します。モネがヴェネツィアを描いた作品は約40点残されていますが、本作品を含む29点は、1912年5月に開催されたベルネーム=ジュヌ画廊の個展で展示されました。モネは、グラン・カナル(大運河)の近くに位置するサルーテ聖堂周辺の運河の風景を描いています。建物を照らす午後の強い光をモネはあざやかな色彩で表現していますが、その色使いは豊かでいきいきとしており、同時代のフォーヴィスムの色彩にさえ接近しています。水の都ヴェネツィアをはじめて訪れたモネは、もう一度来たいと願っていましたが、結局この旅行が最後の制作旅行となってしまいました。

  • クロード・モネ「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年<br />1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。「霧なしではロンドンは美しい町ではありえないでしょう。…[中略]…その整然とした、重々しい街並みは、この神秘的なマントのなかで壮麗になるのです」。

    クロード・モネ「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年
    1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。「霧なしではロンドンは美しい町ではありえないでしょう。…[中略]…その整然とした、重々しい街並みは、この神秘的なマントのなかで壮麗になるのです」。

  • 中山 英之(建築家)<br />1972年福岡県生まれ。1998年東京藝術大学建築学科卒業。2000年同大学院修士課程修了。伊東豊雄建築設計事務所勤務を経て、2007年に中山英之建築設計事務所を設立。2014年より東京藝術大学准教授。主な作品に「2004」、「O 邸」、「Yビル」、「Y邸」、「家と道」、「石の島の石」、「弦と弧」、「mitosaya薬草園蒸留所」、「Printmaking Studio/ Frans Masereel Centrum」(LISTと協働)。主な受賞にSD Review 2004 鹿島賞(2004年)、第23回吉岡賞(2007年)、Red Dot Design Award(2014年)、JIA新人賞(2019年)。

    中山 英之(建築家)
    1972年福岡県生まれ。1998年東京藝術大学建築学科卒業。2000年同大学院修士課程修了。伊東豊雄建築設計事務所勤務を経て、2007年に中山英之建築設計事務所を設立。2014年より東京藝術大学准教授。主な作品に「2004」、「O 邸」、「Yビル」、「Y邸」、「家と道」、「石の島の石」、「弦と弧」、「mitosaya薬草園蒸留所」、「Printmaking Studio/ Frans Masereel Centrum」(LISTと協働)。主な受賞にSD Review 2004 鹿島賞(2004年)、第23回吉岡賞(2007年)、Red Dot Design Award(2014年)、JIA新人賞(2019年)。

  • クロード・モネ「エトルタの夕焼け」1885年<br />ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。

    クロード・モネ「エトルタの夕焼け」1885年
    ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。

  • クロード・モネ「ヴァランジュヴィルの風景」1882年<br />1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています。<br />

    クロード・モネ「ヴァランジュヴィルの風景」1882年
    1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています。

  • 二枚のグラジオスの絵です。

    二枚のグラジオスの絵です。

  • クロード・モネ「グラジオラス」1881年<br />日本の掛物を思い起こさせる縦長の画面に、一輪のグラジオラスの花が描かれています。奥行きをあまり感じさせない空間表現や、抑えられた微妙な色彩、壺に生けられた一輪の花という単一のモティーフの選択、そして素早い筆さばきが生み出す線のリズムなど、本作品には日本美術の影響が随所に認められます。グラジオラスを描いたこの2点の作品は、1882年の第7回印象派展に出品されました。

    クロード・モネ「グラジオラス」1881年
    日本の掛物を思い起こさせる縦長の画面に、一輪のグラジオラスの花が描かれています。奥行きをあまり感じさせない空間表現や、抑えられた微妙な色彩、壺に生けられた一輪の花という単一のモティーフの選択、そして素早い筆さばきが生み出す線のリズムなど、本作品には日本美術の影響が随所に認められます。グラジオラスを描いたこの2点の作品は、1882年の第7回印象派展に出品されました。

  • クロード・モネ「グラジオラス」1881年<br />本作品を描いた翌年の1882年から1885年、モネは画商ポール・デュラン=リュエルの私邸のサロンの扉のために36枚の装飾パネルを制作しました。花や果物をモティーフとしたそのパネルの中には、壺に生けられた数本のグラジオラスを描いた縦長のものも含まれていました。こうした一連の作品は、モネの装飾性に対する高い関心を示していると言えるでしょう。

    クロード・モネ「グラジオラス」1881年
    本作品を描いた翌年の1882年から1885年、モネは画商ポール・デュラン=リュエルの私邸のサロンの扉のために36枚の装飾パネルを制作しました。花や果物をモティーフとしたそのパネルの中には、壺に生けられた数本のグラジオラスを描いた縦長のものも含まれていました。こうした一連の作品は、モネの装飾性に対する高い関心を示していると言えるでしょう。

  • 作品はどれも当館で何度も見た作品ですが、展示スペースが変わると新鮮です。<br />またこちらは、ほとんど人がおらずゆっくりと作品を堪能しました。

    作品はどれも当館で何度も見た作品ですが、展示スペースが変わると新鮮です。
    またこちらは、ほとんど人がおらずゆっくりと作品を堪能しました。

  • クロード・モネ「睡蓮の池」1899年<br />モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

    クロード・モネ「睡蓮の池」1899年
    モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

  • クロード・モネ「ジヴェルニーの積みわら」1884年<br />モネは、1883年の4月末、パリの北西70km、セーヌ河の渓谷とエプト河の合流点に位置する小さな村ジヴェルニーに転居します。そして、1884-1886年に、家の南に広がる牧草地に積み上げられた麦藁の山を描きました。本作品を含む8点の作品を制作しています。三つの積みわらの後ろには、ポプラ並木がみられます。この作品では、日常的な風景に明るく降りそそぐ光を、明暗の強いコントラストで表現しています。モネは、描く対象を限定し、構図も単純化したうえで、光の効果の探究を行っていますが、この作品でもそのような特徴がみられます。限られたその後、モネは脱穀前の麦穂を積み上げた紡錘形の積みわらをモティーフに、さまざまな天候や時間によって変化する光のもとで、あざやかな色彩で描いています。そして1891年5月、モネは15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表し、大成功を収め、連作の時代に入ります。

    クロード・モネ「ジヴェルニーの積みわら」1884年
    モネは、1883年の4月末、パリの北西70km、セーヌ河の渓谷とエプト河の合流点に位置する小さな村ジヴェルニーに転居します。そして、1884-1886年に、家の南に広がる牧草地に積み上げられた麦藁の山を描きました。本作品を含む8点の作品を制作しています。三つの積みわらの後ろには、ポプラ並木がみられます。この作品では、日常的な風景に明るく降りそそぐ光を、明暗の強いコントラストで表現しています。モネは、描く対象を限定し、構図も単純化したうえで、光の効果の探究を行っていますが、この作品でもそのような特徴がみられます。限られたその後、モネは脱穀前の麦穂を積み上げた紡錘形の積みわらをモティーフに、さまざまな天候や時間によって変化する光のもとで、あざやかな色彩で描いています。そして1891年5月、モネは15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表し、大成功を収め、連作の時代に入ります。

  • クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」1880年<br />モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。

    クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」1880年
    モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。

  • クロード・モネ「ジヴェルニーの冬」1885年<br />モネ一家がジヴェルニーの村に移住したのは1883年4月のことでした。これ以来、この地はモネの終の棲家となります。ジヴェルニーの雪景色を、モネは丘の上から村を見下ろす構図で描きました。教会の三角屋根や寄り添うようにして建つ家々を覆う雪は、影の部分に青みを帯びた色彩を用いて描かれています。モネは、数多くの雪景を残した画家としても知られています。本作品でも、モネは雪の白にさまざまな諧調を見出し、その微妙な違いを見事に表現しています。ノルマンディーとイル=ド=フランスの境に位置するジヴェルニーの冬の積雪はそれほど多くありませんでした。それを不満に思っていたモネは、1895年にノルウェーを訪れ、冬の国の白銀の世界を描いています。

    クロード・モネ「ジヴェルニーの冬」1885年
    モネ一家がジヴェルニーの村に移住したのは1883年4月のことでした。これ以来、この地はモネの終の棲家となります。ジヴェルニーの雪景色を、モネは丘の上から村を見下ろす構図で描きました。教会の三角屋根や寄り添うようにして建つ家々を覆う雪は、影の部分に青みを帯びた色彩を用いて描かれています。モネは、数多くの雪景を残した画家としても知られています。本作品でも、モネは雪の白にさまざまな諧調を見出し、その微妙な違いを見事に表現しています。ノルマンディーとイル=ド=フランスの境に位置するジヴェルニーの冬の積雪はそれほど多くありませんでした。それを不満に思っていたモネは、1895年にノルウェーを訪れ、冬の国の白銀の世界を描いています。

  • クロード・モネ「ルーアン大聖堂」1892年<br />ローマの時代からセーヌ河による水運の拠点として発展し、かつてノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、現在もフランス有数の大都市です。また、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地としても知られています。 セーヌ河右岸の旧市街の中心の建つノートル=ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の精華のひとつに数えられています。この大聖堂のファサード(西正面)を、モネは夜明け直後から日没直後のさまざまな時間まで、異なる天候のもとで描き出して、その数は33点にまで及びました。1895年5月には、デュラン=リュエル画廊の個展で、そのうちの20点を発表しています。本作品の上側には夕刻の光を受けてバラ色に輝く大聖堂の表現がみられますが、これは夕方6時頃の光であると言われています。加えて、本作品の下側には灰色の表現が見られますが、これは大聖堂に向かいの建物の影が落ちている様子を表現したものです。モネはこの建物の2階の部屋にイーゼルを立てて、ルーアン大聖堂の連作を制作しました。

    クロード・モネ「ルーアン大聖堂」1892年
    ローマの時代からセーヌ河による水運の拠点として発展し、かつてノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、現在もフランス有数の大都市です。また、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地としても知られています。 セーヌ河右岸の旧市街の中心の建つノートル=ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の精華のひとつに数えられています。この大聖堂のファサード(西正面)を、モネは夜明け直後から日没直後のさまざまな時間まで、異なる天候のもとで描き出して、その数は33点にまで及びました。1895年5月には、デュラン=リュエル画廊の個展で、そのうちの20点を発表しています。本作品の上側には夕刻の光を受けてバラ色に輝く大聖堂の表現がみられますが、これは夕方6時頃の光であると言われています。加えて、本作品の下側には灰色の表現が見られますが、これは大聖堂に向かいの建物の影が落ちている様子を表現したものです。モネはこの建物の2階の部屋にイーゼルを立てて、ルーアン大聖堂の連作を制作しました。

  • ポーラ美術館の名作絵画のコーナーです。今回は企画展「フジター色彩への旅」にちなみ、フジタが留学先のパリで出会い、大きな影響を受けたピカソやモディリアーニなどフジタと同じく、20世紀初頭のヨーロッパで活躍した前衛的な芸術家の作品やフジタを慕い、フランスで活躍した日本人洋画家の作品が紹介されていました。

    ポーラ美術館の名作絵画のコーナーです。今回は企画展「フジター色彩への旅」にちなみ、フジタが留学先のパリで出会い、大きな影響を受けたピカソやモディリアーニなどフジタと同じく、20世紀初頭のヨーロッパで活躍した前衛的な芸術家の作品やフジタを慕い、フランスで活躍した日本人洋画家の作品が紹介されていました。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1887年<br />ルノワールは、最初に感動を覚えた絵画として、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの「ディアナの水浴」(1742年、ルーヴル美術館、パリ)を挙げています。「水浴する裸婦」は古来、表されてきた主題であり、伝統に対するルノワールの強い意識をうかがうことができます。1860年代後半からモネとともに印象派の手法で描きましたが、やがて行き詰まりを感じたルノワールは、1880年代初頭のイタリア旅行を機に、この主題に本格的に取り組むことになります。本作品はその頃に制作された1点です。<br />全身像で表された裸婦の身体は、ハイライトと細やかな陰影により量感がもたらされ、浮彫りのように描かれています。身体の向きがわずかにねじれ、動きが生み出されている点は、古代ギリシアやローマの彫刻に典型的な身体表現にも見られ、ルノワールが伝統的な造形を重視して参照していたことがわかります。<br /> 一方で、草木を描いた背景は、筆触がやわらかく重ねられ、白で淡く暈ぼかされた調子が随所に見られるます。地平線が高い位置に設定されていることで、せり上がった地面や背景は裸婦を穏やかに取り巻き、包み込むような印象をもたらします。同じ年に発表された「大水浴」(1884-1887年、フィラデルフィア美術館)は、硬い輪郭線で描かれた裸婦群像と周囲の自然とが分離した印象を展覧会の観衆に残すことになりましたが、本作品ではより調和を作り出す意識を見てとることができます。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「水浴の女」1887年
    ルノワールは、最初に感動を覚えた絵画として、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの「ディアナの水浴」(1742年、ルーヴル美術館、パリ)を挙げています。「水浴する裸婦」は古来、表されてきた主題であり、伝統に対するルノワールの強い意識をうかがうことができます。1860年代後半からモネとともに印象派の手法で描きましたが、やがて行き詰まりを感じたルノワールは、1880年代初頭のイタリア旅行を機に、この主題に本格的に取り組むことになります。本作品はその頃に制作された1点です。
    全身像で表された裸婦の身体は、ハイライトと細やかな陰影により量感がもたらされ、浮彫りのように描かれています。身体の向きがわずかにねじれ、動きが生み出されている点は、古代ギリシアやローマの彫刻に典型的な身体表現にも見られ、ルノワールが伝統的な造形を重視して参照していたことがわかります。
     一方で、草木を描いた背景は、筆触がやわらかく重ねられ、白で淡く暈ぼかされた調子が随所に見られるます。地平線が高い位置に設定されていることで、せり上がった地面や背景は裸婦を穏やかに取り巻き、包み込むような印象をもたらします。同じ年に発表された「大水浴」(1884-1887年、フィラデルフィア美術館)は、硬い輪郭線で描かれた裸婦群像と周囲の自然とが分離した印象を展覧会の観衆に残すことになりましたが、本作品ではより調和を作り出す意識を見てとることができます。

  • ジョルジュ・スーラ「グランカンの干潮」1885年<br />大きさの異なる3隻の帆船が、画面の中にさまざまな角度で配されています。中央の遠景の船は正面観で、右側のものは側面観で、そして潮の満干で浜辺に取り残された左側のもっとも大きいものは斜めの軸を強く意識しながら描かれています。こうした画面の構成は、安定した調和をもたらす黄金分割に基づいており、作品全体を覆う綿密な点描の効果と相まって、英仏海峡を臨むノルマンディー地方の小村であるグランカンの情景に、厳格な性格を与えています。 著名な化学者であり、色彩の研究にも力を尽くしたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839年)をはじめとする著作を研究したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ美術館)が話題を呼んだのは、最後の印象派展となった第8回印象派展でした。光学、そして色彩理論による科学的な視座から印象派の技法を再検討し、乗り越えようとしたスーラの作品を、美術批評家フェリックス・フェネオンが「新印象派」と命名したのは、同年に開催された第2回アンデパンダン展でのことです。この展覧会に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》とともに出品されたのが本作品であり、額縁の装飾も含めた絵画制作を実践していたスーラによる、点描の縁取りが施されています。

    ジョルジュ・スーラ「グランカンの干潮」1885年
    大きさの異なる3隻の帆船が、画面の中にさまざまな角度で配されています。中央の遠景の船は正面観で、右側のものは側面観で、そして潮の満干で浜辺に取り残された左側のもっとも大きいものは斜めの軸を強く意識しながら描かれています。こうした画面の構成は、安定した調和をもたらす黄金分割に基づいており、作品全体を覆う綿密な点描の効果と相まって、英仏海峡を臨むノルマンディー地方の小村であるグランカンの情景に、厳格な性格を与えています。 著名な化学者であり、色彩の研究にも力を尽くしたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839年)をはじめとする著作を研究したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ美術館)が話題を呼んだのは、最後の印象派展となった第8回印象派展でした。光学、そして色彩理論による科学的な視座から印象派の技法を再検討し、乗り越えようとしたスーラの作品を、美術批評家フェリックス・フェネオンが「新印象派」と命名したのは、同年に開催された第2回アンデパンダン展でのことです。この展覧会に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》とともに出品されたのが本作品であり、額縁の装飾も含めた絵画制作を実践していたスーラによる、点描の縁取りが施されています。

  • こちらもほとんど人がおらず、ゆっくりと鑑賞できました。

    こちらもほとんど人がおらず、ゆっくりと鑑賞できました。

  • ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」1890年頃

    ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」1890年頃

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」1890年<br />本作品は、ゴッホ晩年の1890年6月16日または17日に、ガシェ医師の家でモティーフを見つけて描いた数点の野花の静物画のうちの1点。<br />テーブルや花瓶を区切る輪郭線は、日本の浮世絵版画の影響を感じさせます。外側に広がるアザミの鋸歯状の葉や麦穂、花瓶の同心円状のタッチや背景にみられる垂直と水平方向に交差したタッチは、ゴッホの線と色彩、画肌の効果の追究の成果を示しています。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」1890年
    本作品は、ゴッホ晩年の1890年6月16日または17日に、ガシェ医師の家でモティーフを見つけて描いた数点の野花の静物画のうちの1点。
    テーブルや花瓶を区切る輪郭線は、日本の浮世絵版画の影響を感じさせます。外側に広がるアザミの鋸歯状の葉や麦穂、花瓶の同心円状のタッチや背景にみられる垂直と水平方向に交差したタッチは、ゴッホの線と色彩、画肌の効果の追究の成果を示しています。

  • アンリ・マティス「リュート」1943年<br />フランス北部の織物産業で栄えた町、ル・カトー=カンブレジに生まれたマティスは、法律を学んだ後、画家の道を選びます。1892年にパリの国立美術学校でギュスターヴ・モローのもとで学びます。1905年にサロン・デザンデパンダンに点描画法による《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、オルセー美術館)を発表、さらに激しい色彩のコントラストで肖像を描いて物議をかもし、フォーヴィスムの中心的存在となりました。マティスの絵画は装飾性が色濃くなり、人体表現は単純化され、その探究はバーンズ財団のために制作された1930年代初頭の《ダンス》に結実しています。 マティスが本作品を制作したのは、1943年に戦火を逃れて南仏ニースのレジナ・ホテルに滞在していたときでした。1941年に腸の疾患で大手術を受けてから、マティスは技法的に負担の少ない切り紙絵の制作をはじめ、この頃「ジャズ」の連作に着手しています。「私はあるときは色彩だけである種の均衡と表現的なリズムを得ようとし、またあるときはただアラベスクだけの力を確かめようと努めてきました」。マティスはこの時期こう告白しています。 目の醒めるような朱色の部屋は、黄色が下塗りされているために光を帯びてみえます。葉の形の装飾文様とアラベスクが壁紙と絨毯にのびやかに描かれ、女性のドレスにはアルファベットの「K」の文字に似たモティーフが躍ります。画面中央には生命力みなぎる紫陽花が君臨し、そのかたわらでリュートを爪弾く女性は、室内に遍在する音楽的なリズムに主旋律を与える伴奏者として、生の喜びを謳い上げているようです。戦後、マティスがフランスの伝統的なゴブラン織のタペストリー復興の仕事を受けたとき、彼は装飾文様が一面に描き込まれたこの作品を選び、下絵として提供しました。絵画の枠組みを越え、より大きな空間の装飾へと情熱を傾けた晩年のマティスの意志を、本作品は明らかにしています。<br />

    アンリ・マティス「リュート」1943年
    フランス北部の織物産業で栄えた町、ル・カトー=カンブレジに生まれたマティスは、法律を学んだ後、画家の道を選びます。1892年にパリの国立美術学校でギュスターヴ・モローのもとで学びます。1905年にサロン・デザンデパンダンに点描画法による《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、オルセー美術館)を発表、さらに激しい色彩のコントラストで肖像を描いて物議をかもし、フォーヴィスムの中心的存在となりました。マティスの絵画は装飾性が色濃くなり、人体表現は単純化され、その探究はバーンズ財団のために制作された1930年代初頭の《ダンス》に結実しています。 マティスが本作品を制作したのは、1943年に戦火を逃れて南仏ニースのレジナ・ホテルに滞在していたときでした。1941年に腸の疾患で大手術を受けてから、マティスは技法的に負担の少ない切り紙絵の制作をはじめ、この頃「ジャズ」の連作に着手しています。「私はあるときは色彩だけである種の均衡と表現的なリズムを得ようとし、またあるときはただアラベスクだけの力を確かめようと努めてきました」。マティスはこの時期こう告白しています。 目の醒めるような朱色の部屋は、黄色が下塗りされているために光を帯びてみえます。葉の形の装飾文様とアラベスクが壁紙と絨毯にのびやかに描かれ、女性のドレスにはアルファベットの「K」の文字に似たモティーフが躍ります。画面中央には生命力みなぎる紫陽花が君臨し、そのかたわらでリュートを爪弾く女性は、室内に遍在する音楽的なリズムに主旋律を与える伴奏者として、生の喜びを謳い上げているようです。戦後、マティスがフランスの伝統的なゴブラン織のタペストリー復興の仕事を受けたとき、彼は装飾文様が一面に描き込まれたこの作品を選び、下絵として提供しました。絵画の枠組みを越え、より大きな空間の装飾へと情熱を傾けた晩年のマティスの意志を、本作品は明らかにしています。

  • 荻須高徳、海老原喜之助などフランスで活躍した日本人洋画家の作品が並びます。

    荻須高徳、海老原喜之助などフランスで活躍した日本人洋画家の作品が並びます。

  • 荻須高徳「ジャン・ジョレス界隈、ジュマップ河岸」1958年(昭和33)<br />パリ在住の洋画家荻須高徳は、戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人。

    荻須高徳「ジャン・ジョレス界隈、ジュマップ河岸」1958年(昭和33)
    パリ在住の洋画家荻須高徳は、戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人。

  • 猪熊弦一郎「猫を抱く人物」1955年(昭和30)

    猪熊弦一郎「猫を抱く人物」1955年(昭和30)

  • 海老原喜之助「行軍」1930年(昭和5)<br />海老原 喜之助は、鹿児島県出身の洋画家。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフにした作品を数多く制作しています。

    海老原喜之助「行軍」1930年(昭和5)
    海老原 喜之助は、鹿児島県出身の洋画家。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフにした作品を数多く制作しています。

  • 岡鹿之助「掘割」1927年(昭和2)<br />岡鹿之助は明治、大正時代に活躍した劇評家の岡鬼太郎の長男として、東京に生まれました。父の友人、岡田三郎助に素描を学んだ後、東京美術学校西洋画科に入学しました。1924年(大正13)12月に同校を卒業すると、岡はフランスに渡りました。パリでは、藤田嗣治の勧めで翌年のサロン・ドートンヌに出品し、風景画一点が入選しますが、会場に展示された自作の油絵技法の弱さを自覚して、顔料やカンヴァスについて研究や工夫を重ね、独自の技法を探究しました。そして1927年のサロン・ドートンヌに出品した本作品や《滞船》において、独特の点描と穏やかで構成美あふれる絵画世界を確立していきます。その後は第二次大戦勃発により、1939年(昭和14)12月に帰国するまで15年間をフランスで過ごしました。帰国後は春陽会に会員として迎えられ、終生出品を続けながら、《遊蝶花》(1951年、下関市立美術館)から、《雪の発電所》(1956年、石橋財団ブリヂストン美術館)、絶筆となった《段丘》(1978年)まで、精緻な筆触によって静かな詩情に満ちた作品を描き続けました。『フランスの画家たち』(1949年)、『油絵のマティエール』(1953年)など著述も多く残しています。 1927年頃、岡鹿之助は描法がスーラに似ているといわれ、リュクサンブール美術館でスーラの作品《サーカス》(オルセー美術館)をはじめて見ています。岡は「(スーラから)画面の構成と色のリズムを教わった」と述べているように、スーラの科学的な色彩の処理よりも、造形的秩序をもった画面構成に啓発されています。岡の点描風のタッチはスーラら新印象主義の点描とは異なり、濃い色をかすらせて薄く見せ、少しすり込んでいくような筆づかいを用いています。本作品に描かれている風景はパリのサン=ドニ運河であるが、現実の風景にこだわらず単純化されており、画家の記憶にある風景となっています。独特の褐色を基調とした色調、均整のとれた構図によって、ノスタルジーを漂わせたロマンティックな画面となっています

    岡鹿之助「掘割」1927年(昭和2)
    岡鹿之助は明治、大正時代に活躍した劇評家の岡鬼太郎の長男として、東京に生まれました。父の友人、岡田三郎助に素描を学んだ後、東京美術学校西洋画科に入学しました。1924年(大正13)12月に同校を卒業すると、岡はフランスに渡りました。パリでは、藤田嗣治の勧めで翌年のサロン・ドートンヌに出品し、風景画一点が入選しますが、会場に展示された自作の油絵技法の弱さを自覚して、顔料やカンヴァスについて研究や工夫を重ね、独自の技法を探究しました。そして1927年のサロン・ドートンヌに出品した本作品や《滞船》において、独特の点描と穏やかで構成美あふれる絵画世界を確立していきます。その後は第二次大戦勃発により、1939年(昭和14)12月に帰国するまで15年間をフランスで過ごしました。帰国後は春陽会に会員として迎えられ、終生出品を続けながら、《遊蝶花》(1951年、下関市立美術館)から、《雪の発電所》(1956年、石橋財団ブリヂストン美術館)、絶筆となった《段丘》(1978年)まで、精緻な筆触によって静かな詩情に満ちた作品を描き続けました。『フランスの画家たち』(1949年)、『油絵のマティエール』(1953年)など著述も多く残しています。 1927年頃、岡鹿之助は描法がスーラに似ているといわれ、リュクサンブール美術館でスーラの作品《サーカス》(オルセー美術館)をはじめて見ています。岡は「(スーラから)画面の構成と色のリズムを教わった」と述べているように、スーラの科学的な色彩の処理よりも、造形的秩序をもった画面構成に啓発されています。岡の点描風のタッチはスーラら新印象主義の点描とは異なり、濃い色をかすらせて薄く見せ、少しすり込んでいくような筆づかいを用いています。本作品に描かれている風景はパリのサン=ドニ運河であるが、現実の風景にこだわらず単純化されており、画家の記憶にある風景となっています。独特の褐色を基調とした色調、均整のとれた構図によって、ノスタルジーを漂わせたロマンティックな画面となっています

  • キスリング「風景、パリ-ニース間の汽車」1926年<br />パリとニースの間の、おそらくは南仏の緑の崖の横を白い煙をあげて走り抜ける汽車。南仏コート・ダジュールのニースは、世界でも有数の保養地、観光地です。18世紀の後半にイギリス人の避寒地であったニースに1864年に鉄道が開通すると、19世紀後半から20世紀初頭に観光地として発展し、都会から多くの人々が押し寄せるようになりました。1922年12月には、貨客列車「ブルー・トレイン」が運行を開始し、パリのブルジョワたちの憧れの的となった。キスリングはこの南方の旅へと誘う、パリからニースへ向かう汽車がプロヴァンスの渓谷を走る風景を、あざやかな緑と白、赤のアクセント、強い明暗のコントラストで描いています。

    キスリング「風景、パリ-ニース間の汽車」1926年
    パリとニースの間の、おそらくは南仏の緑の崖の横を白い煙をあげて走り抜ける汽車。南仏コート・ダジュールのニースは、世界でも有数の保養地、観光地です。18世紀の後半にイギリス人の避寒地であったニースに1864年に鉄道が開通すると、19世紀後半から20世紀初頭に観光地として発展し、都会から多くの人々が押し寄せるようになりました。1922年12月には、貨客列車「ブルー・トレイン」が運行を開始し、パリのブルジョワたちの憧れの的となった。キスリングはこの南方の旅へと誘う、パリからニースへ向かう汽車がプロヴァンスの渓谷を走る風景を、あざやかな緑と白、赤のアクセント、強い明暗のコントラストで描いています。

  • マリー・ローランサン「ヴァランティーヌ・テシエの肖像」1933年<br />ローランサンは、画塾アカデミー・アンベールでブラックと出会い、ピカソをはじめとする「バトー=ラヴォワール」(洗濯船)に住む画家たちと親交を結びました。1907年、ピカソの紹介によりキュビスムの理論家だった詩人ギョーム・アポリネールと知り合い、恋愛関係となります。この頃、ローランサンはキュビスムの影響を受けた平面的な色面構成や先史美術とのかかわりをうかがわせる作品を制作し、キュビストの展覧会に参加しています。1912年にアポリネールと別れ、1914年にドイツ人のヴェッチェン男爵と結婚し、第一次大戦勃発時には戦禍を逃れてスペイン、ドイツで生活を送りました。しかし夫のアルコール依存症が原因で離婚した後、1921年にパリに戻り、淡い色彩とやわらかいタッチによる甘美な情緒を湛えた幻想的な画風を確立し、夢見るような表情の少女たちを描き続けました。また、彼女は肖像画家としても成功し、パリの社交界の人々を描いた肖像画も数多く手がけています。 本作品は、女優ヴァランティーヌ・テシエ(1892-1981)の全身像を描いた肖像画です。彼女は気品のある薄紫色のドレスと、ローランサンの後期の作品によく見受けられる真珠のアクセサリーを身に着け、舞台上で演技をしているかのような優美なポーズで描かれています。テシエは、1920年代には有名な舞台女優となり、数々の舞台やジャン・ルノワール監督の「ボヴァリー夫人」(1934年)などの映画に出演しました。1960年以来、歿するまで住み続けたポワティエ近郊リグジェには1999年6月25日、彼女の名を冠した通りが開通しました。 晩年は愛人シュザンヌ・モローとひっそりと暮らしていたローランサンですが、遺言によりアポリネールからの手紙を胸に彼と同じ墓地に葬られました。

    マリー・ローランサン「ヴァランティーヌ・テシエの肖像」1933年
    ローランサンは、画塾アカデミー・アンベールでブラックと出会い、ピカソをはじめとする「バトー=ラヴォワール」(洗濯船)に住む画家たちと親交を結びました。1907年、ピカソの紹介によりキュビスムの理論家だった詩人ギョーム・アポリネールと知り合い、恋愛関係となります。この頃、ローランサンはキュビスムの影響を受けた平面的な色面構成や先史美術とのかかわりをうかがわせる作品を制作し、キュビストの展覧会に参加しています。1912年にアポリネールと別れ、1914年にドイツ人のヴェッチェン男爵と結婚し、第一次大戦勃発時には戦禍を逃れてスペイン、ドイツで生活を送りました。しかし夫のアルコール依存症が原因で離婚した後、1921年にパリに戻り、淡い色彩とやわらかいタッチによる甘美な情緒を湛えた幻想的な画風を確立し、夢見るような表情の少女たちを描き続けました。また、彼女は肖像画家としても成功し、パリの社交界の人々を描いた肖像画も数多く手がけています。 本作品は、女優ヴァランティーヌ・テシエ(1892-1981)の全身像を描いた肖像画です。彼女は気品のある薄紫色のドレスと、ローランサンの後期の作品によく見受けられる真珠のアクセサリーを身に着け、舞台上で演技をしているかのような優美なポーズで描かれています。テシエは、1920年代には有名な舞台女優となり、数々の舞台やジャン・ルノワール監督の「ボヴァリー夫人」(1934年)などの映画に出演しました。1960年以来、歿するまで住み続けたポワティエ近郊リグジェには1999年6月25日、彼女の名を冠した通りが開通しました。 晩年は愛人シュザンヌ・モローとひっそりと暮らしていたローランサンですが、遺言によりアポリネールからの手紙を胸に彼と同じ墓地に葬られました。

  • モディリアーニ、ピカソ、ルソーなどの作品が並びます。

    モディリアーニ、ピカソ、ルソーなどの作品が並びます。

  • アメデオ・モディリアーニ「ルニア・チェホフスカの肖像」1917年<br />イタリアのトスカーナ地方の由緒あるユダヤ系の家に生まれたモディリアーニは、ダンテやニーチェを愛読し早熟な青年時代を過ごします。1906年にパリへ移住し、モンパルナスの芸術家や詩人たちと親交を深めますが、やがて酒と麻薬に浸る退廃的な生活を送り、35歳の若さでこの世を去りました。 パリのモンマルトルに到着したモディリアーニは、セザンヌとピカソの絵画の洗礼を受けました。その一方で彫刻にも情熱を抱き、彫刻家ブランクーシと出会い、彼のアトリエがあるモンパルナスに移り住んで彫刻に取り組みます。1909年から1916年まで、アルカイック期のギリシア彫刻や、アフリカの仮面に影響を受けた作品を断続的に制作しますが、貧困のうちに健康を害し、彫刻家の道を断念します。1916年にふたたび絵画に専念した画家は、鑿で切り出したような線描によって、モンパルナスの友人の肖像や裸婦像を残しました。 本作品のモデルは、モディリアーニのよき理解者であった画商ズボロフスキーの友人、ルニア・チェホフスカです。ルニアはポーランドの名家の出身で、軍人の夫が戦場に出征した後、パリに滞在していました。モディリアーニの女性像のなかで、ルニアを描いた作品は妻ジャンヌ・エビュテルヌの肖像に次いで多く、画家の円熟期にルニアの存在が果した役割は大きい。 絵のなかのルニアは、ゆったりとした白の簡素なブラウスに、お気に入りのブローチを胸に着けています。結髪が豊かに膨らむ後頭部、引き伸ばされた首、憂鬱な青みを帯びるアーモンド型の目は、モディリアーニが描いた優美な女性像の特徴を余すところなく伝えています。壁には、深い青と緑が灰色を基調にして無数のニュアンスをみせており、すべての細部はモデルの繊細な人物描写へと結びついています。

    アメデオ・モディリアーニ「ルニア・チェホフスカの肖像」1917年
    イタリアのトスカーナ地方の由緒あるユダヤ系の家に生まれたモディリアーニは、ダンテやニーチェを愛読し早熟な青年時代を過ごします。1906年にパリへ移住し、モンパルナスの芸術家や詩人たちと親交を深めますが、やがて酒と麻薬に浸る退廃的な生活を送り、35歳の若さでこの世を去りました。 パリのモンマルトルに到着したモディリアーニは、セザンヌとピカソの絵画の洗礼を受けました。その一方で彫刻にも情熱を抱き、彫刻家ブランクーシと出会い、彼のアトリエがあるモンパルナスに移り住んで彫刻に取り組みます。1909年から1916年まで、アルカイック期のギリシア彫刻や、アフリカの仮面に影響を受けた作品を断続的に制作しますが、貧困のうちに健康を害し、彫刻家の道を断念します。1916年にふたたび絵画に専念した画家は、鑿で切り出したような線描によって、モンパルナスの友人の肖像や裸婦像を残しました。 本作品のモデルは、モディリアーニのよき理解者であった画商ズボロフスキーの友人、ルニア・チェホフスカです。ルニアはポーランドの名家の出身で、軍人の夫が戦場に出征した後、パリに滞在していました。モディリアーニの女性像のなかで、ルニアを描いた作品は妻ジャンヌ・エビュテルヌの肖像に次いで多く、画家の円熟期にルニアの存在が果した役割は大きい。 絵のなかのルニアは、ゆったりとした白の簡素なブラウスに、お気に入りのブローチを胸に着けています。結髪が豊かに膨らむ後頭部、引き伸ばされた首、憂鬱な青みを帯びるアーモンド型の目は、モディリアーニが描いた優美な女性像の特徴を余すところなく伝えています。壁には、深い青と緑が灰色を基調にして無数のニュアンスをみせており、すべての細部はモデルの繊細な人物描写へと結びついています。

  • パブロ・ピカソ「裸婦」1909年<br />	オルタ・デ・エブロで制作された作品です。恋人フェルナンド・オリヴィエをモデルに、ピカソがオルタで約20点制作した油彩画の「フェルナンド・シリーズ」の中で、本作品は数少ない全身像を描いた1点です。背景のサンタ・バルバラ山は、セザンヌが好んだ画題であるサント=ヴィクトワール山と同じ鉱物質の山で、荒涼とした山肌や山の稜線が忠実に写されています。この裸婦像は、身体と背景の山、空にいたるまでを、ひし型や山型の小さな色面に分解し、画面全体を鉱物の結晶体のように見せており、オルタでのキュビスムの特徴を明示する作品です。 オルタの地では、ピカソは、サンタ・バルバラ山や丘陵地に家々がひしめき合う集落の光景に魅せられ、キュビスムの時代を代表する風景画も残しています。画家の関心はオルタ滞在を契機に、構築的な立体物を表現することへと向かい、さらには絵画で立体的にフェルナンドを表現するだけでは飽き足らず、同じ年の秋、ピカソはパリでフェルナンドの頭部の彫刻を制作しています。

    パブロ・ピカソ「裸婦」1909年
    オルタ・デ・エブロで制作された作品です。恋人フェルナンド・オリヴィエをモデルに、ピカソがオルタで約20点制作した油彩画の「フェルナンド・シリーズ」の中で、本作品は数少ない全身像を描いた1点です。背景のサンタ・バルバラ山は、セザンヌが好んだ画題であるサント=ヴィクトワール山と同じ鉱物質の山で、荒涼とした山肌や山の稜線が忠実に写されています。この裸婦像は、身体と背景の山、空にいたるまでを、ひし型や山型の小さな色面に分解し、画面全体を鉱物の結晶体のように見せており、オルタでのキュビスムの特徴を明示する作品です。 オルタの地では、ピカソは、サンタ・バルバラ山や丘陵地に家々がひしめき合う集落の光景に魅せられ、キュビスムの時代を代表する風景画も残しています。画家の関心はオルタ滞在を契機に、構築的な立体物を表現することへと向かい、さらには絵画で立体的にフェルナンドを表現するだけでは飽き足らず、同じ年の秋、ピカソはパリでフェルナンドの頭部の彫刻を制作しています。

  • アンリ・ルソー「飛行船「レピュブリック号」とライト飛行機のある風景」1909年<br />河岸の緑地で釣りに散歩、ピクニックなど、自由気ままに楽しむ市民たち。その背景にはルソー特有の樹木のカーテンが茜色に色づき空にやわらかくとけ込んでいます。ルソーが描いたこの行楽地はパリの東を流れるセーヌ河の支流であるマルヌ河の岸辺であり、ルソーは本作品において、その流れの湾曲部を大胆に切り取っています。マルヌ河のピクニック風景といえば、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンがこの河の岸辺でくつろぐ労働者階級の一団を被写体に収めた1938年のモノクローム写真が知られていますが、ルソーはすでに約30年前に、このパリ近郊の「20世紀的風景」を見出してあざやかに画布に描きとめました。のどかな余暇の風景の上空を見上げると、飛行船と飛行機が雲のごとく浮んでいます。飛行船「レピュブリック号」は右方向に、ライト型飛行機は左方向に、進行方向が交差するように配置されています。《エッフェル塔とトロカデロ宮殿》で、新旧一対の記念建造物が並置されていたのと同様に、本作品でもルソーは最新型の飛行機と、一世代前の航空テクノロジーを代表する飛行船を象徴的に並べています。画家が捉えたライト型飛行機の雄姿は、ルソー研究者アンリ・セルティニにより、「大飛行機週間」を報じる『ル・プティ・ジュルナル 挿絵入り増刊号』(1909年9月5日付981号)の表紙画に描かれた車輪付きのライト型飛行機を参照したことが明らかになっています。また、フランス軍の飛行船であるレピュブリック号は、1909年9月25日に事故で墜落しており、1909年の9月に新聞各紙が飛行機と飛行船の話題でもちきりであった状況が、この風景画の空に鏡のごとく反映されています。同時代のジャーナリズムとルソーとの接点が窺える作品です。

    アンリ・ルソー「飛行船「レピュブリック号」とライト飛行機のある風景」1909年
    河岸の緑地で釣りに散歩、ピクニックなど、自由気ままに楽しむ市民たち。その背景にはルソー特有の樹木のカーテンが茜色に色づき空にやわらかくとけ込んでいます。ルソーが描いたこの行楽地はパリの東を流れるセーヌ河の支流であるマルヌ河の岸辺であり、ルソーは本作品において、その流れの湾曲部を大胆に切り取っています。マルヌ河のピクニック風景といえば、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンがこの河の岸辺でくつろぐ労働者階級の一団を被写体に収めた1938年のモノクローム写真が知られていますが、ルソーはすでに約30年前に、このパリ近郊の「20世紀的風景」を見出してあざやかに画布に描きとめました。のどかな余暇の風景の上空を見上げると、飛行船と飛行機が雲のごとく浮んでいます。飛行船「レピュブリック号」は右方向に、ライト型飛行機は左方向に、進行方向が交差するように配置されています。《エッフェル塔とトロカデロ宮殿》で、新旧一対の記念建造物が並置されていたのと同様に、本作品でもルソーは最新型の飛行機と、一世代前の航空テクノロジーを代表する飛行船を象徴的に並べています。画家が捉えたライト型飛行機の雄姿は、ルソー研究者アンリ・セルティニにより、「大飛行機週間」を報じる『ル・プティ・ジュルナル 挿絵入り増刊号』(1909年9月5日付981号)の表紙画に描かれた車輪付きのライト型飛行機を参照したことが明らかになっています。また、フランス軍の飛行船であるレピュブリック号は、1909年9月25日に事故で墜落しており、1909年の9月に新聞各紙が飛行機と飛行船の話題でもちきりであった状況が、この風景画の空に鏡のごとく反映されています。同時代のジャーナリズムとルソーとの接点が窺える作品です。

  • アンリ・ルソー「エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望」1896-98年<br />本作品には、パリ万国博覧会に関するふたつの記念碑的な建造物が見られます。ひとつは1878年のパリ万博の主会場となったトロカデロ宮殿、そしてもうひとつは1889年のパリ万博の際に建設されたエッフェル塔です。トロカデロ宮殿は1937年に取り壊されましたが、1909年に取り壊される予定であったエッフェル塔は、今もパリのシンボルとしてそびえ立っています。ロラン・バルトはこの塔を「大地と街を空に結ぶ、立った橋である」と述べていますが、水平に伸びるアンヴァリッド橋と垂直方向に伸びたエッフェル塔は、近代の技術発展による世界と空間のひろがりを表わしているかのようです。 ルソーは、1889年のパリ万博の思い出を、ブルターニュ出身の田舎者のルボセック夫妻を主人公にした3幕の軽喜劇に著わし、劇場に持っていきましたが上演を断られたといいいます。この劇中で、ルボセック氏はエッフェル塔を「でっかい梯子」と呼び、塔が「柵がいっぱいついた梯子でできているとは思わなかった」と述べています。ルソー自身もエッフェル塔に驚嘆し、万博会場の異国の展示物に熱狂しました。ルソーは素朴な画家といわれますが、彼はその素朴さゆえに変貌するパリの風景や文明の産物を素直な目でとらえて描き、近代性を独自に表現しています。彼の影響によってロベール・ドローネーはエッフェル塔を描きはじめ、ピカソはルソーの独特な表現を称賛しました。

    アンリ・ルソー「エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望」1896-98年
    本作品には、パリ万国博覧会に関するふたつの記念碑的な建造物が見られます。ひとつは1878年のパリ万博の主会場となったトロカデロ宮殿、そしてもうひとつは1889年のパリ万博の際に建設されたエッフェル塔です。トロカデロ宮殿は1937年に取り壊されましたが、1909年に取り壊される予定であったエッフェル塔は、今もパリのシンボルとしてそびえ立っています。ロラン・バルトはこの塔を「大地と街を空に結ぶ、立った橋である」と述べていますが、水平に伸びるアンヴァリッド橋と垂直方向に伸びたエッフェル塔は、近代の技術発展による世界と空間のひろがりを表わしているかのようです。 ルソーは、1889年のパリ万博の思い出を、ブルターニュ出身の田舎者のルボセック夫妻を主人公にした3幕の軽喜劇に著わし、劇場に持っていきましたが上演を断られたといいいます。この劇中で、ルボセック氏はエッフェル塔を「でっかい梯子」と呼び、塔が「柵がいっぱいついた梯子でできているとは思わなかった」と述べています。ルソー自身もエッフェル塔に驚嘆し、万博会場の異国の展示物に熱狂しました。ルソーは素朴な画家といわれますが、彼はその素朴さゆえに変貌するパリの風景や文明の産物を素直な目でとらえて描き、近代性を独自に表現しています。彼の影響によってロベール・ドローネーはエッフェル塔を描きはじめ、ピカソはルソーの独特な表現を称賛しました。

  • ラファエル・コランと黒田清輝―120年目の邂逅<br />ポーラ美術館の前回の展覧会「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」の目玉だったラファエル・コラン × 黒田清輝、引き続き展示されていました。

    ラファエル・コランと黒田清輝―120年目の邂逅
    ポーラ美術館の前回の展覧会「Connections―海を越える憧れ、日本とフランスの150年」の目玉だったラファエル・コラン × 黒田清輝、引き続き展示されていました。

  • 「日本近代洋画の父」と称される黒田清輝(1866-1924)は、留学先のフランスでアカデミスムの画家ラファエル・コラン(1850-1916)に師事し、油彩画の素養を身に付けました。1900年(明治33)に二度目の渡仏を果たした黒田は、かつての師コランの描いた一枚の絵を目にしたと考えられています。《眠り》と題されたこの裸婦像は、黒田によほど強い印象を与えたのでしょう。帰国後に、黒田は《眠り》とよく似た構図の《野辺》を手がけました。<br />黒田に大きな影響を与えた作品として、《眠り》は日本で重要視されてきましたが、長年所在が不明でした。数年前、パリ市内で発見され、この度120年ぶりに公開されるとともに、弟子である黒田の作品との邂逅を果たしました。

    「日本近代洋画の父」と称される黒田清輝(1866-1924)は、留学先のフランスでアカデミスムの画家ラファエル・コラン(1850-1916)に師事し、油彩画の素養を身に付けました。1900年(明治33)に二度目の渡仏を果たした黒田は、かつての師コランの描いた一枚の絵を目にしたと考えられています。《眠り》と題されたこの裸婦像は、黒田によほど強い印象を与えたのでしょう。帰国後に、黒田は《眠り》とよく似た構図の《野辺》を手がけました。
    黒田に大きな影響を与えた作品として、《眠り》は日本で重要視されてきましたが、長年所在が不明でした。数年前、パリ市内で発見され、この度120年ぶりに公開されるとともに、弟子である黒田の作品との邂逅を果たしました。

  • ラファエル・コラン「眠り」(部分拡大)1892年 芸術家財団<br />長年所在不明とされてきた《眠り》が初来日し、黒田の作品とともに120年ぶりに公開されました。

    ラファエル・コラン「眠り」(部分拡大)1892年 芸術家財団
    長年所在不明とされてきた《眠り》が初来日し、黒田の作品とともに120年ぶりに公開されました。

  • 黒田清輝「野辺」(部分拡大)1907年(明治40)<br />数多くの裸婦像を残した黒田清輝の代表作「野辺」。<br />本作品はこれまで、黒田の師ラファエル・コランが、草原に寝そべる女性を俯瞰で描いた「眠り」との影響関係が指摘されてきました。1900年のパリ万博の会場で「眠り」を直接目にしたとされる黒田は、帰国後、様々な改変を加えながらも師の作品と酷似する「野辺」を描きます。

    黒田清輝「野辺」(部分拡大)1907年(明治40)
    数多くの裸婦像を残した黒田清輝の代表作「野辺」。
    本作品はこれまで、黒田の師ラファエル・コランが、草原に寝そべる女性を俯瞰で描いた「眠り」との影響関係が指摘されてきました。1900年のパリ万博の会場で「眠り」を直接目にしたとされる黒田は、帰国後、様々な改変を加えながらも師の作品と酷似する「野辺」を描きます。

  • 岡田三郎助「裸婦-水辺に立てる」1931年(昭和6)<br />「水浴の前」(大正5年 Artizon Museum所蔵)以降、岡田は森の中の水辺、あるいは水浴の裸婦像をさかんに描いています。本作はその代表的な作で、水面に波紋を残し、今まさに水からあがった女性のあでやかな姿が描かれています。画面左右に配された木々と足元の水辺等、画面外辺を囲むように暗さを配し、中央の森の奥手の明るさと、裸婦のきめこまやかな白い肌を浮かびあがらせています。

    岡田三郎助「裸婦-水辺に立てる」1931年(昭和6)
    「水浴の前」(大正5年 Artizon Museum所蔵)以降、岡田は森の中の水辺、あるいは水浴の裸婦像をさかんに描いています。本作はその代表的な作で、水面に波紋を残し、今まさに水からあがった女性のあでやかな姿が描かれています。画面左右に配された木々と足元の水辺等、画面外辺を囲むように暗さを配し、中央の森の奥手の明るさと、裸婦のきめこまやかな白い肌を浮かびあがらせています。

  • 岡田三郎助「裸婦」1936年(昭和11)<br />水辺の裸婦は19世紀のフランス絵画においてしばしば描かれ、岡田の師コランも好んだ題材でした。岡田は西洋の画題の中に日本の女性を登場させ、自身にとっての理想化された裸婦を創出しようとしました。

    岡田三郎助「裸婦」1936年(昭和11)
    水辺の裸婦は19世紀のフランス絵画においてしばしば描かれ、岡田の師コランも好んだ題材でした。岡田は西洋の画題の中に日本の女性を登場させ、自身にとっての理想化された裸婦を創出しようとしました。

  • 和田英作「薔薇」1932年(昭和7)

    和田英作「薔薇」1932年(昭和7)

  • ミュージアムショップで買い物後、帰りました。

    ミュージアムショップで買い物後、帰りました。

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