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ポーラ美術館で「ポーラ美術館開館20周年記念展 モネからリヒターへ ― 新収蔵作品を中心に」が開幕(2022.4.9より)されたので、開幕日に早速、見に行ってきました。<br />ーポーラ美術館HPより参照ー<br />2002年9月6日に開館したポーラ美術館は、開館以来、ポーラ創業家二代目の鈴木常司(1930-2000)が戦後約40年をかけて収集したコレクションを公開し、これを基盤としてさまざまな企画展を開催してきました。<br /> 2012年の開館10周年を機に、当館は森の遊歩道の整備と開放、野外彫刻の設置、現代美術ギャラリーの開設、体験型の展示の開催、ラーニング・プログラムの実施など、その活動を広げてきました。また、近年では従来のコレクションに加えて、20世紀から現代までの美術の展開を跡づけるために重要な作品の収集を行っています。本展覧会は、鈴木常司が収集したコレクションと、近年新収蔵した作品を合わせて紹介する初の機会となります。<br /> 本展を企画するにあたり、主要なテーマを「光」としました。「光」をテーマとした現代の美術作品を収集・公開していくことは、印象派の絵画をコレクションの重要な起点のひとつに据えるポーラ美術館にとって大切なミッションです。クロード・モネをはじめとする印象派の画家たちは光の表現を追究していますが、ゲルハルト・リヒターやケリス・ウィン・エヴァンスなどの現代の作家たちの作品にも、光への強い関心をうかがうことができます。彼らの作品に表れる「光」とは、単に造形的な意味だけでなく、現在を照らし出す「光」、あるいは私たちが持続可能な未来へと進むための道標となる「光」という意味も内包していると言えるでしょう。コロナ禍や緊迫する国際情勢により暗雲が立ち込める現代の状況の中で、作品からほとばしるエネルギーと勢い、そして明るい「光」は、多くの人に前進する勇気を与えるきっかけになるのではないでしょうか。本展覧会では、ポーラ美術館のコレクションの「現在(いま)」をご紹介するとともに、美術館の未来とコレクションの可能性を探ります。<br /> なお、本展覧会では、写真撮影は一部の作品のみとなっていますが(参考の為、作品前に○印)別の時期にポーラ美術館で撮った写真もアップして展覧会を振り返ります。また、作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。

ポーラ美術館開館20周年記念展 モネからリヒターへ ― 新収蔵作品を中心に

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2022/04/09 - 2022/04/09

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ポーラ美術館で「ポーラ美術館開館20周年記念展 モネからリヒターへ ― 新収蔵作品を中心に」が開幕(2022.4.9より)されたので、開幕日に早速、見に行ってきました。
ーポーラ美術館HPより参照ー
2002年9月6日に開館したポーラ美術館は、開館以来、ポーラ創業家二代目の鈴木常司(1930-2000)が戦後約40年をかけて収集したコレクションを公開し、これを基盤としてさまざまな企画展を開催してきました。
 2012年の開館10周年を機に、当館は森の遊歩道の整備と開放、野外彫刻の設置、現代美術ギャラリーの開設、体験型の展示の開催、ラーニング・プログラムの実施など、その活動を広げてきました。また、近年では従来のコレクションに加えて、20世紀から現代までの美術の展開を跡づけるために重要な作品の収集を行っています。本展覧会は、鈴木常司が収集したコレクションと、近年新収蔵した作品を合わせて紹介する初の機会となります。
 本展を企画するにあたり、主要なテーマを「光」としました。「光」をテーマとした現代の美術作品を収集・公開していくことは、印象派の絵画をコレクションの重要な起点のひとつに据えるポーラ美術館にとって大切なミッションです。クロード・モネをはじめとする印象派の画家たちは光の表現を追究していますが、ゲルハルト・リヒターやケリス・ウィン・エヴァンスなどの現代の作家たちの作品にも、光への強い関心をうかがうことができます。彼らの作品に表れる「光」とは、単に造形的な意味だけでなく、現在を照らし出す「光」、あるいは私たちが持続可能な未来へと進むための道標となる「光」という意味も内包していると言えるでしょう。コロナ禍や緊迫する国際情勢により暗雲が立ち込める現代の状況の中で、作品からほとばしるエネルギーと勢い、そして明るい「光」は、多くの人に前進する勇気を与えるきっかけになるのではないでしょうか。本展覧会では、ポーラ美術館のコレクションの「現在(いま)」をご紹介するとともに、美術館の未来とコレクションの可能性を探ります。
 なお、本展覧会では、写真撮影は一部の作品のみとなっていますが(参考の為、作品前に○印)別の時期にポーラ美術館で撮った写真もアップして展覧会を振り返ります。また、作品の解説等は、ポーラ美術館のHPから参照しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 箱根を代表する美術館のひとつ、ポーラ美術館の開館20周年の記念展、初めて全館を使った大規模な企画展となります。母の介護施設と父が入院する病院に寄ってきており、10時半頃の到着です。

    箱根を代表する美術館のひとつ、ポーラ美術館の開館20周年の記念展、初めて全館を使った大規模な企画展となります。母の介護施設と父が入院する病院に寄ってきており、10時半頃の到着です。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

    バリアフリー対応されており母も楽しめました by +mo2さん
  • 展覧会の第1部では、ポーラ創業家二代目の鈴木常司(1930-2000)が戦後約40年をかけて収集したコレクションと、これをさらに拡充する新収蔵作品を、テーマや時代、作家ごとに組み合わせて紹介されています。例えば、鈴木常司のコレクションの中心となる印象派絵画では、女性像(ルノワール、レジェ、ロベール・ドローネー他)、水辺の風景(モネ、ニコラ・ド・スタール他)、静物(セザンヌ、ベン・ニコルソン他)、マティスとフォーヴィスムなどテーマ別に展されています。日本の近代洋画では、時代や流派、作家ごとに展示します。例として大正の洋画(岸田劉生、村山槐多、関根正二)や日本のフォーヴ(里見勝蔵、佐伯祐三他)、その他、レオナール・フジタ(藤田嗣治)や松本竣介、坂本繁二郎など、作家ごとの展示となっています。<br />

    展覧会の第1部では、ポーラ創業家二代目の鈴木常司(1930-2000)が戦後約40年をかけて収集したコレクションと、これをさらに拡充する新収蔵作品を、テーマや時代、作家ごとに組み合わせて紹介されています。例えば、鈴木常司のコレクションの中心となる印象派絵画では、女性像(ルノワール、レジェ、ロベール・ドローネー他)、水辺の風景(モネ、ニコラ・ド・スタール他)、静物(セザンヌ、ベン・ニコルソン他)、マティスとフォーヴィスムなどテーマ別に展されています。日本の近代洋画では、時代や流派、作家ごとに展示します。例として大正の洋画(岸田劉生、村山槐多、関根正二)や日本のフォーヴ(里見勝蔵、佐伯祐三他)、その他、レオナール・フジタ(藤田嗣治)や松本竣介、坂本繁二郎など、作家ごとの展示となっています。

  • まずは、ピエール・オーギュスト・ルノワールの作品から<br />○ピエール・オーギュスト・ルノワール「レースの帽子の少女」1891年<br />ポーラ美術館の顔ともいえる作品。<br />レースの帽子の質感や軽やかさを伝える筆致からは、ルノワールの描く喜びが感じ取れるようです。袖口のヴォリュームが巧みに表現されたドレスの描写にもうかがえるように、ルノワールは衣装の質感をとらえて描き出すことを得意としていました。これには、仕立屋とお針子を父母にもつ生い立ちが関係していたのかもしれません。白いレースの帽子の清々しさは、夢見るような表情を浮かべた少女の甘美な魅力を引きたてています。ルノワールは、自らの選んだ帽子や衣装をモデルに提供することもあったようです。女性像にいっそう活き活きとした魅力をもたらすうえで、帽子をはじめとするファッションは、ルノワールにとってきわめて重要なものだったのです。

    まずは、ピエール・オーギュスト・ルノワールの作品から
    ○ピエール・オーギュスト・ルノワール「レースの帽子の少女」1891年
    ポーラ美術館の顔ともいえる作品。
    レースの帽子の質感や軽やかさを伝える筆致からは、ルノワールの描く喜びが感じ取れるようです。袖口のヴォリュームが巧みに表現されたドレスの描写にもうかがえるように、ルノワールは衣装の質感をとらえて描き出すことを得意としていました。これには、仕立屋とお針子を父母にもつ生い立ちが関係していたのかもしれません。白いレースの帽子の清々しさは、夢見るような表情を浮かべた少女の甘美な魅力を引きたてています。ルノワールは、自らの選んだ帽子や衣装をモデルに提供することもあったようです。女性像にいっそう活き活きとした魅力をもたらすうえで、帽子をはじめとするファッションは、ルノワールにとってきわめて重要なものだったのです。

  • エドゥアール・マネ「ベンチにて」1879年<br />本作品に描かれた女性は、1882年のサロンに出品されたマネ晩年の傑作《春(ジャンヌ・ドマルシー)》(1882年、ポール・ゲッティ美術館、ロサンゼルス)でも横顔で描かれた若い女優ジャンヌ・ドマルシーです。《春》は、マネの友人の美術批評家アントナン・プルーストの注文制作による四季の寓意の1点でした。この作品でも、ジャンヌの横顔にみられる女性の華やかな美しさと優美さ、活き活きとした生命感が、カンヴァスの上に明るい色彩のパステルによって描き出されています。マネは、1870年代末から歿するまでに90点近くのパステル画を残していますが、そのうち70点以上が女性の胸像でした。油彩よりも色彩が明るく、なめらかでマットな画肌を作り出すことができるパステルは、女性のやわらかな肌の表現に適しており、マネも意識して用いたと思われます。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    エドゥアール・マネ「ベンチにて」1879年
    本作品に描かれた女性は、1882年のサロンに出品されたマネ晩年の傑作《春(ジャンヌ・ドマルシー)》(1882年、ポール・ゲッティ美術館、ロサンゼルス)でも横顔で描かれた若い女優ジャンヌ・ドマルシーです。《春》は、マネの友人の美術批評家アントナン・プルーストの注文制作による四季の寓意の1点でした。この作品でも、ジャンヌの横顔にみられる女性の華やかな美しさと優美さ、活き活きとした生命感が、カンヴァスの上に明るい色彩のパステルによって描き出されています。マネは、1870年代末から歿するまでに90点近くのパステル画を残していますが、そのうち70点以上が女性の胸像でした。油彩よりも色彩が明るく、なめらかでマットな画肌を作り出すことができるパステルは、女性のやわらかな肌の表現に適しており、マネも意識して用いたと思われます。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • ○ベルト・モリゾ「ベランダにて」1884年<br />モリゾはマネに師事したフランスの印象派で活躍した女性画家。本作は家族で滞在したパリ郊外、セーヌ河沿いのブージヴァルで1884年の夏に制作された作品。この時期の作品には、一家の穏やかで幸福な生活の様子が見られます。陽光溢れる邸宅のサンルームで、机に向かい花らしきものを手にしている画家の一人娘ジュリー・マネの姿が、明るくやわらかな色彩と素早い筆致で描かれています。窓からは、美しい樹々の緑と隣家の建物や屋根がのぞいています。本作品は、身近な人物や風景を主題として制作したモリゾの典型作であると言えます。モリゾの他界後、娘ジュリーがドガ、モネ、ルノワール、マラルメらの協力を得て開催した1896年のデュラン=リュエル画廊での追悼大回顧展に出品されました。

    ○ベルト・モリゾ「ベランダにて」1884年
    モリゾはマネに師事したフランスの印象派で活躍した女性画家。本作は家族で滞在したパリ郊外、セーヌ河沿いのブージヴァルで1884年の夏に制作された作品。この時期の作品には、一家の穏やかで幸福な生活の様子が見られます。陽光溢れる邸宅のサンルームで、机に向かい花らしきものを手にしている画家の一人娘ジュリー・マネの姿が、明るくやわらかな色彩と素早い筆致で描かれています。窓からは、美しい樹々の緑と隣家の建物や屋根がのぞいています。本作品は、身近な人物や風景を主題として制作したモリゾの典型作であると言えます。モリゾの他界後、娘ジュリーがドガ、モネ、ルノワール、マラルメらの協力を得て開催した1896年のデュラン=リュエル画廊での追悼大回顧展に出品されました。

  • ピエール・オーギュスト・ルノワール「髪かざり」1888年<br />椅子に腰掛けた若い女性の後ろにもう一人の女性が寄り添い、髪に花かざりを着けています。当時、ブルジョワ階級の女性が家で過ごす際には、花の髪かざりを着ける習慣がありました。同様の髪かざりは座っている女性の手にも見られます。ルノワールは1890年前後、身づくろいのほかにも、同じ年頃の女性による奏楽や花摘みなどの情景をしばしば描いています。1880年代後半に印象派の描法を脱するべく取り組みました。アングル流の立体的な裸婦が画商や画家仲間に不評だったことで、ルノワールはこの時期、一般に受け入れられやすい近代生活を描きました。しかしこの主題をめぐっては、アントワーヌ・ヴァトーやジャン=オノレ・フラゴナールといった18世紀ロココの画家による、甘美で活き活きとした女性像への憧憬を読み取ることもできます。人物をはじめとして、室内で重なりあう多様なモティーフがそれぞれ明瞭な輪郭で描き出されているのは、アングルを範として1880年代を通じて追究されたアカデミックな描法の特徴といえます。また、二人の女性像が織り成す垂直方向の線が、背後の長椅子の作る水平線とともに均衡のとれた画面を作り出しており、先立つ印象派の時代と比べて、構図の検討がより入念になされています。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    ピエール・オーギュスト・ルノワール「髪かざり」1888年
    椅子に腰掛けた若い女性の後ろにもう一人の女性が寄り添い、髪に花かざりを着けています。当時、ブルジョワ階級の女性が家で過ごす際には、花の髪かざりを着ける習慣がありました。同様の髪かざりは座っている女性の手にも見られます。ルノワールは1890年前後、身づくろいのほかにも、同じ年頃の女性による奏楽や花摘みなどの情景をしばしば描いています。1880年代後半に印象派の描法を脱するべく取り組みました。アングル流の立体的な裸婦が画商や画家仲間に不評だったことで、ルノワールはこの時期、一般に受け入れられやすい近代生活を描きました。しかしこの主題をめぐっては、アントワーヌ・ヴァトーやジャン=オノレ・フラゴナールといった18世紀ロココの画家による、甘美で活き活きとした女性像への憧憬を読み取ることもできます。人物をはじめとして、室内で重なりあう多様なモティーフがそれぞれ明瞭な輪郭で描き出されているのは、アングルを範として1880年代を通じて追究されたアカデミックな描法の特徴といえます。また、二人の女性像が織り成す垂直方向の線が、背後の長椅子の作る水平線とともに均衡のとれた画面を作り出しており、先立つ印象派の時代と比べて、構図の検討がより入念になされています。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • ○フェルナン・レジェ「鏡を持つ女性」1920年<br />フェルナン・レジェは、パリで建築の製図工として働き、装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通い絵画を学びました。キュービズムや未来派の絵画に触発され、単純なフォルムと明快な色彩を追求し、円筒形を組み合わせた造形から「チュビズム」と呼ばれる画風に至ります。

    ○フェルナン・レジェ「鏡を持つ女性」1920年
    フェルナン・レジェは、パリで建築の製図工として働き、装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通い絵画を学びました。キュービズムや未来派の絵画に触発され、単純なフォルムと明快な色彩を追求し、円筒形を組み合わせた造形から「チュビズム」と呼ばれる画風に至ります。

  • クロード・モネ「散歩」1875年<br />この作品が描かれた1875年頃、モネはパラソルをさす女性と子どもという主題を頻繁に描いていました。登場人物は、モネの妻カミーユと息子のジャンです。自然豊かなアルジャントゥイユで、幸福に満ちた生活を送っていたモネ一家の日常生活の一場面をとらえた、親密な空気の漂う作品です。<br />※本展でね写真撮影ではありません。

    クロード・モネ「散歩」1875年
    この作品が描かれた1875年頃、モネはパラソルをさす女性と子どもという主題を頻繁に描いていました。登場人物は、モネの妻カミーユと息子のジャンです。自然豊かなアルジャントゥイユで、幸福に満ちた生活を送っていたモネ一家の日常生活の一場面をとらえた、親密な空気の漂う作品です。
    ※本展でね写真撮影ではありません。

  • ウジェーヌ・ブーダン「海洋の帆船」1873年<br />ブーダンは、フランスやヨーロッパの各地を旅して絵画制作を続けましたが、もっとも多く制作したのがフランスの大西洋岸の海浜風景でした。この海景がどこで制作されたのかは定かではありませんが、おそらくはブルターニュ地方の、この時期にしばしば制作を行っていた、カマレ沖の海景であると推測されます。※本展での写真撮影ではありません。<br /><br /> 

    ウジェーヌ・ブーダン「海洋の帆船」1873年
    ブーダンは、フランスやヨーロッパの各地を旅して絵画制作を続けましたが、もっとも多く制作したのがフランスの大西洋岸の海浜風景でした。この海景がどこで制作されたのかは定かではありませんが、おそらくはブルターニュ地方の、この時期にしばしば制作を行っていた、カマレ沖の海景であると推測されます。※本展での写真撮影ではありません。

     

  • ジョルジュ・スーラ「グランカンの干潮」1885年<br />大きさの異なる3隻の帆船が、画面の中にさまざまな角度で配されています。中央の遠景の船は正面観で、右側のものは側面観で、そして潮の満干で浜辺に取り残された左側のもっとも大きいものは斜めの軸を強く意識しながら描かれています。こうした画面の構成は、安定した調和をもたらす黄金分割に基づいており、作品全体を覆う綿密な点描の効果と相まって、英仏海峡を臨むノルマンディー地方の小村であるグランカンの情景に、厳格な性格を与えています。 著名な化学者であり、色彩の研究にも力を尽くしたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839年)をはじめとする著作を研究したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ美術館)が話題を呼んだのは、最後の印象派展となった第8回印象派展でした。光学、そして色彩理論による科学的な視座から印象派の技法を再検討し、乗り越えようとしたスーラの作品を、美術批評家フェリックス・フェネオンが「新印象派」と命名したのは、同年に開催された第2回アンデパンダン展でのことです。この展覧会に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》とともに出品されたのが本作品であり、額縁の装飾も含めた絵画制作を実践していたスーラによる、点描の縁取りが施されています。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    ジョルジュ・スーラ「グランカンの干潮」1885年
    大きさの異なる3隻の帆船が、画面の中にさまざまな角度で配されています。中央の遠景の船は正面観で、右側のものは側面観で、そして潮の満干で浜辺に取り残された左側のもっとも大きいものは斜めの軸を強く意識しながら描かれています。こうした画面の構成は、安定した調和をもたらす黄金分割に基づいており、作品全体を覆う綿密な点描の効果と相まって、英仏海峡を臨むノルマンディー地方の小村であるグランカンの情景に、厳格な性格を与えています。 著名な化学者であり、色彩の研究にも力を尽くしたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839年)をはじめとする著作を研究したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ美術館)が話題を呼んだのは、最後の印象派展となった第8回印象派展でした。光学、そして色彩理論による科学的な視座から印象派の技法を再検討し、乗り越えようとしたスーラの作品を、美術批評家フェリックス・フェネオンが「新印象派」と命名したのは、同年に開催された第2回アンデパンダン展でのことです。この展覧会に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》とともに出品されたのが本作品であり、額縁の装飾も含めた絵画制作を実践していたスーラによる、点描の縁取りが施されています。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • ○ロベール・ドローネー「傘をさす女性、またはパリジェンヌ」1913年<br />ロベール・ドローネーは、1912年から翌年にかけて円盤や円環の図形を用いた抽象絵画を制作し始めますが、本作はその過渡期に制作した作品。「傘をさす女性」をモティーフにした作品は3点現存しますが、ドローネは、1910年代初期に流行した。ウエストがゆったりとして裾が狭くなったボブル・スカートのドレスを着て帽子を被る女性がパラソルをさして都市を遊歩する姿を、曲線で分割された、虹を想起させるあざやかな色面によって描いています。

    ○ロベール・ドローネー「傘をさす女性、またはパリジェンヌ」1913年
    ロベール・ドローネーは、1912年から翌年にかけて円盤や円環の図形を用いた抽象絵画を制作し始めますが、本作はその過渡期に制作した作品。「傘をさす女性」をモティーフにした作品は3点現存しますが、ドローネは、1910年代初期に流行した。ウエストがゆったりとして裾が狭くなったボブル・スカートのドレスを着て帽子を被る女性がパラソルをさして都市を遊歩する姿を、曲線で分割された、虹を想起させるあざやかな色面によって描いています。

  • クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」1880年<br />モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」1880年
    モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • クロード・モネ「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年<br />1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    クロード・モネ「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年
    1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • クロード・モネ「睡蓮の池」1899年<br />モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。※本展での写真撮影ではありません。

    クロード・モネ「睡蓮の池」1899年
    モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。※本展での写真撮影ではありません。

  • ○クロード・モネ「睡蓮」1907年<br />モネは1899年から睡蓮を描いていますが、現在、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展示されている最晩年の「睡蓮」大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題とした作品は約200点残されています。モネは、最初睡蓮の池と日本風の橋の風景を空間として捉えた作品を描いていますが、彼の興味は、次第に睡蓮の浮かぶ水面に向けられていきます。モネは同じモティーフを描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。太陽の光は、季節や天気、時間帯によって異なります。朝の光は白くまぶしく、夕暮れ時の光は桃色やオレンジに見えます。同じ主題で異なる時間帯に描かれた作品を並べることで刻一刻と移りゆく光の表情を表現できるのです。この作品では、水面のさまざまな光による変化を捉えることで、空の色や雲の動き、周囲の木々の存在、水面の下の世界などを表現し、画面外の世界の存在の暗示と象徴に満ちています。

    ○クロード・モネ「睡蓮」1907年
    モネは1899年から睡蓮を描いていますが、現在、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展示されている最晩年の「睡蓮」大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題とした作品は約200点残されています。モネは、最初睡蓮の池と日本風の橋の風景を空間として捉えた作品を描いていますが、彼の興味は、次第に睡蓮の浮かぶ水面に向けられていきます。モネは同じモティーフを描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。太陽の光は、季節や天気、時間帯によって異なります。朝の光は白くまぶしく、夕暮れ時の光は桃色やオレンジに見えます。同じ主題で異なる時間帯に描かれた作品を並べることで刻一刻と移りゆく光の表情を表現できるのです。この作品では、水面のさまざまな光による変化を捉えることで、空の色や雲の動き、周囲の木々の存在、水面の下の世界などを表現し、画面外の世界の存在の暗示と象徴に満ちています。

  • 第3章揺らぐ静物~セザンヌからニコルソンまで~<br />○ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」1890年頃<br />セザンヌは、目の前にある現実をありのままに描くのではなく、色彩や形態という絵画における造形的な要素による画面の構築を追求した画家であり、その成果は円熟期の静物画にも如実に反映されています。

    第3章揺らぐ静物~セザンヌからニコルソンまで~
    ○ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」1890年頃
    セザンヌは、目の前にある現実をありのままに描くのではなく、色彩や形態という絵画における造形的な要素による画面の構築を追求した画家であり、その成果は円熟期の静物画にも如実に反映されています。

  • ○アンリ・マティス「オリーブの木のある散歩道」1905年<br />フランス北部の織物産業で栄えた町、ル・カトー=カンブレジに生まれたマティスは、法律を学んだ後、画家の道を選ぶ。1892年にパリの国立美術学校でギュスターヴ・モローのもとで学ぶ。1905年にサロン・デザンデパンダンに点描画法による《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、オルセー美術館)を発表、さらに激しい色彩のコントラストで肖像を描いて物議をかもし、フォーヴィスムの中心的存在となっっていきます。

    ○アンリ・マティス「オリーブの木のある散歩道」1905年
    フランス北部の織物産業で栄えた町、ル・カトー=カンブレジに生まれたマティスは、法律を学んだ後、画家の道を選ぶ。1892年にパリの国立美術学校でギュスターヴ・モローのもとで学ぶ。1905年にサロン・デザンデパンダンに点描画法による《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、オルセー美術館)を発表、さらに激しい色彩のコントラストで肖像を描いて物議をかもし、フォーヴィスムの中心的存在となっっていきます。

  • アンリ・マティス「リュート」1943年<br />マティスが本作品を制作したのは、マティスが本作品を制作したのは、1943年に戦火を逃れて南仏ニースのレジナ・ホテルに滞在していたときでした。目の醒めるような朱色の部屋は、黄色が下塗りされているために光を帯びてみえます。葉の形の装飾文様とアラベスクが壁紙と絨毯にのびやかに描かれ、女性のドレスにはアルファベットの「K」の文字に似たモティーフが躍ります。画面中央には生命力みなぎる紫陽花が君臨し、そのかたわらでリュートを爪弾く女性は、室内に遍在する音楽的なリズムに主旋律を与える伴奏者として、生の喜びを謳い上げているようです。 戦後、マティスがフランスの伝統的なゴブラン織のタペストリー復興の仕事を受けたとき、彼は装飾文様が一面に描き込まれたこの作品を選び、下絵として提供しました。絵画の枠組みを越え、より大きな空間の装飾へと情熱を傾けた晩年のマティスの意志を、本作品は明らかにしています。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    アンリ・マティス「リュート」1943年
    マティスが本作品を制作したのは、マティスが本作品を制作したのは、1943年に戦火を逃れて南仏ニースのレジナ・ホテルに滞在していたときでした。目の醒めるような朱色の部屋は、黄色が下塗りされているために光を帯びてみえます。葉の形の装飾文様とアラベスクが壁紙と絨毯にのびやかに描かれ、女性のドレスにはアルファベットの「K」の文字に似たモティーフが躍ります。画面中央には生命力みなぎる紫陽花が君臨し、そのかたわらでリュートを爪弾く女性は、室内に遍在する音楽的なリズムに主旋律を与える伴奏者として、生の喜びを謳い上げているようです。 戦後、マティスがフランスの伝統的なゴブラン織のタペストリー復興の仕事を受けたとき、彼は装飾文様が一面に描き込まれたこの作品を選び、下絵として提供しました。絵画の枠組みを越え、より大きな空間の装飾へと情熱を傾けた晩年のマティスの意志を、本作品は明らかにしています。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • 村山槐多「湖水と女」1917年(大正6)<br />22歳で世を去った夭折の画家村山槐多は、詩作や絵画制作に才能を発揮し、その奔放な生き方からさまざまな逸話を残しています。彼はまさに、短い人生を駆け抜けた天才芸術家でした。<br /> 山々に囲まれた湖を背景に、一人の女性が座っています。流行の束髪に色白の端正な顔立ちをしたこの女性は、鶯色の着物に紺色の羽織を合わせています。涼しげな目もと、固くむすんだ口もとが意志の強さをうかがわせ、近寄りがたい崇高さを感じさせます。背景の湖と民家、山々の風景は、郷愁をさそいつつも寂寥感をただよわせ、描法と構図はダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)を彷彿させます。丁寧に描きこまれたこの作品は、第3回日本美術院試作展に出品され、奨励賞を受けています。しかし、その後槐多はしだいに頽廃的な生活に耽るようになり、1919年(大正8)肺炎により急逝しました。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    村山槐多「湖水と女」1917年(大正6)
    22歳で世を去った夭折の画家村山槐多は、詩作や絵画制作に才能を発揮し、その奔放な生き方からさまざまな逸話を残しています。彼はまさに、短い人生を駆け抜けた天才芸術家でした。
     山々に囲まれた湖を背景に、一人の女性が座っています。流行の束髪に色白の端正な顔立ちをしたこの女性は、鶯色の着物に紺色の羽織を合わせています。涼しげな目もと、固くむすんだ口もとが意志の強さをうかがわせ、近寄りがたい崇高さを感じさせます。背景の湖と民家、山々の風景は、郷愁をさそいつつも寂寥感をただよわせ、描法と構図はダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)を彷彿させます。丁寧に描きこまれたこの作品は、第3回日本美術院試作展に出品され、奨励賞を受けています。しかし、その後槐多はしだいに頽廃的な生活に耽るようになり、1919年(大正8)肺炎により急逝しました。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • 関根正二「三人の顔」1919年(大正8)頃<br />大正時代彗星のように現れ、わずか20歳の若さで夭逝した天才画家、関根正二の作品。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    関根正二「三人の顔」1919年(大正8)頃
    大正時代彗星のように現れ、わずか20歳の若さで夭逝した天才画家、関根正二の作品。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • ○岸田劉生「麗子微笑」1920年(大正9)<br />劉生は、生涯を通じて肖像画の制作に取り組んでいます。「斎藤与里氏像」(1913年、愛知県美術館)のようなゴッホやセザンヌの感化のもとに描かれた作品や、写実にもとづく表現への移行期に制作された「武者小路実篤像」(1914年、東京都現代美術館)など、友人の肖像が短時間につぎつぎと仕上げられ、「岸田の首狩り」と恐れられることもありました。しかし友人や職業モデルでは劉生の厳しい要望にこたえられなかったため、しだいに自画像または妻をモデルにして描くことが多くなっていきました。そして愛娘麗子を描いた「麗子五歳之像」(1918年、東京国立近代美術館)以後、彼女をモデルにした作品が劉生の画題の中心を占めるようになります。

    ○岸田劉生「麗子微笑」1920年(大正9)
    劉生は、生涯を通じて肖像画の制作に取り組んでいます。「斎藤与里氏像」(1913年、愛知県美術館)のようなゴッホやセザンヌの感化のもとに描かれた作品や、写実にもとづく表現への移行期に制作された「武者小路実篤像」(1914年、東京都現代美術館)など、友人の肖像が短時間につぎつぎと仕上げられ、「岸田の首狩り」と恐れられることもありました。しかし友人や職業モデルでは劉生の厳しい要望にこたえられなかったため、しだいに自画像または妻をモデルにして描くことが多くなっていきました。そして愛娘麗子を描いた「麗子五歳之像」(1918年、東京国立近代美術館)以後、彼女をモデルにした作品が劉生の画題の中心を占めるようになります。

  • ○岸田劉生「麗子坐像」1919年(大正8)<br />本作品は、娘麗子に対する愛情をこめて、約2カ月かけて描かれました。執拗に制作に取り組む劉生の姿は、麗子とのあいだに張りつめた空気をもたらし、その面持ちは硬くこわばっています。絞りの着物の質感は克明に描かれ、暗闇に浮かび上がる赤と黄の対比が画面を引き締めています。

    ○岸田劉生「麗子坐像」1919年(大正8)
    本作品は、娘麗子に対する愛情をこめて、約2カ月かけて描かれました。執拗に制作に取り組む劉生の姿は、麗子とのあいだに張りつめた空気をもたらし、その面持ちは硬くこわばっています。絞りの着物の質感は克明に描かれ、暗闇に浮かび上がる赤と黄の対比が画面を引き締めています。

  • モーリス・ド・ヴラマンク「雪」1920-1922年頃<br />モーリス・ド・ヴラマンクは、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末~20世紀のフランスの画家。あらゆる伝統を拒否し、自分の才能だけを信じたヴラマンクであったがファン・ゴッホにだけは少なからず影響を受けていることを画家自身が表明しており、作品からも影響がうかがわれます。ヴラマンクの絵は絵具チューブから絞り出した原色を塗りつけているように見えて、その画面には明るさよりは陰鬱さがただよっているのが特色です。第一次世界大戦後はフォーヴィスムから離れてポール・セザンヌを見出し、独自の道を歩み、色彩も一転して茶と白を基調とする暗めに移行しました。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    モーリス・ド・ヴラマンク「雪」1920-1922年頃
    モーリス・ド・ヴラマンクは、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末~20世紀のフランスの画家。あらゆる伝統を拒否し、自分の才能だけを信じたヴラマンクであったがファン・ゴッホにだけは少なからず影響を受けていることを画家自身が表明しており、作品からも影響がうかがわれます。ヴラマンクの絵は絵具チューブから絞り出した原色を塗りつけているように見えて、その画面には明るさよりは陰鬱さがただよっているのが特色です。第一次世界大戦後はフォーヴィスムから離れてポール・セザンヌを見出し、独自の道を歩み、色彩も一転して茶と白を基調とする暗めに移行しました。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • 里見勝蔵「ポントワーズの雪景」1924年頃<br />東京芸術学校卒業の翌年、1921年に渡仏した里見勝蔵は、かねてから心酔していたゴッホの終焉の地、オーヴェール=シュル=オワーズを訪れました。このオーヴェールの地で、里見にはフォーヴィズムの画家、ヴラマンクとの出会いが待っていました。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    里見勝蔵「ポントワーズの雪景」1924年頃
    東京芸術学校卒業の翌年、1921年に渡仏した里見勝蔵は、かねてから心酔していたゴッホの終焉の地、オーヴェール=シュル=オワーズを訪れました。このオーヴェールの地で、里見にはフォーヴィズムの画家、ヴラマンクとの出会いが待っていました。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • ○佐伯祐三「リュー・デュ・シャトー」1927年<br />佐伯祐三は、大阪府立北野中学校在学中に画家を志し、赤松麟作の画塾に通い石膏デッサンを学びます。1917年(大正6)に上京し、川端画学校で藤島武二の指導を受けたあと、東京美術学校に入学しました。佐伯がパリ行きの夢を抱いたきっかけは、武者小路実篤邸で「白樺美術館第1回展」に展示されたゴッホの《ひまわり》(戦災で焼失)を見たことでした。1923年(大正12)の東京美術学校卒業後、妻子とともに念願のパリへ赴きます。  パリではまず、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールの自由科に通い、セザンヌ風の裸体習作や着衣像を描いていましたが、オーヴェール=シュル=オワーズでヴラマンクと出会ってからは、彼の影響を受けた風景画を盛んに描くようになります。その後1924年(大正13)11月に、佐伯はパリ市内モンパルナス駅南のシャトー通り13番地に居を構え、周辺のパリの街並を描きはじめます。

    ○佐伯祐三「リュー・デュ・シャトー」1927年
    佐伯祐三は、大阪府立北野中学校在学中に画家を志し、赤松麟作の画塾に通い石膏デッサンを学びます。1917年(大正6)に上京し、川端画学校で藤島武二の指導を受けたあと、東京美術学校に入学しました。佐伯がパリ行きの夢を抱いたきっかけは、武者小路実篤邸で「白樺美術館第1回展」に展示されたゴッホの《ひまわり》(戦災で焼失)を見たことでした。1923年(大正12)の東京美術学校卒業後、妻子とともに念願のパリへ赴きます。  パリではまず、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールの自由科に通い、セザンヌ風の裸体習作や着衣像を描いていましたが、オーヴェール=シュル=オワーズでヴラマンクと出会ってからは、彼の影響を受けた風景画を盛んに描くようになります。その後1924年(大正13)11月に、佐伯はパリ市内モンパルナス駅南のシャトー通り13番地に居を構え、周辺のパリの街並を描きはじめます。

  • 佐伯祐三「アントレ ド リュー ド シャトー」1925年<br />シャトー通りに転居してから、その制作は勢いを増しています。制作量が増えると画材にかかる費用もかさむため、佐伯はこの頃から自家製のカンヴァスを用いるようになります。油絵具の油分を吸収しやすい独自のカンヴァスは、絵具の吸着具合が良かったらしく、結果として佐伯の多作をさらに助長することになりました。昂揚する情感を絵筆にのせて街景を即座に描き込む。こうして生まれた作品のひとつが本作品です。庶民の哀歓が壁に染みついたような街角の描写に、いい知れぬ深い魅力が感じられます。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    佐伯祐三「アントレ ド リュー ド シャトー」1925年
    シャトー通りに転居してから、その制作は勢いを増しています。制作量が増えると画材にかかる費用もかさむため、佐伯はこの頃から自家製のカンヴァスを用いるようになります。油絵具の油分を吸収しやすい独自のカンヴァスは、絵具の吸着具合が良かったらしく、結果として佐伯の多作をさらに助長することになりました。昂揚する情感を絵筆にのせて街景を即座に描き込む。こうして生まれた作品のひとつが本作品です。庶民の哀歓が壁に染みついたような街角の描写に、いい知れぬ深い魅力が感じられます。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • ○松本竣介「街」1940年(昭和15)<br />松本竣介は、抒情豊かな人物画や風景画を多く描いた洋画家です。新収蔵となる本作は、画面右下に街を行き交う人々が自由な輪郭線で描写され、残る部分には彼らを取り囲む建物や街路、線路、自転車が奥行きを持って表現されています。画面全体を覆うように水平に描かれた紺の油彩によってもやがかって見える街は、都市の喧騒を感じさせません。街は抽象化され、夢幻さを帯びています。

    ○松本竣介「街」1940年(昭和15)
    松本竣介は、抒情豊かな人物画や風景画を多く描いた洋画家です。新収蔵となる本作は、画面右下に街を行き交う人々が自由な輪郭線で描写され、残る部分には彼らを取り囲む建物や街路、線路、自転車が奥行きを持って表現されています。画面全体を覆うように水平に描かれた紺の油彩によってもやがかって見える街は、都市の喧騒を感じさせません。街は抽象化され、夢幻さを帯びています。

  • レオナール・フジタ (藤田嗣治)「少女と猫」1926年<br />この作品は「すばらしい乳白色」と絶賛された独自の下地の技法を活かした表現により、フジタがパリで名声を獲得した時期に制作されました。肌の質感を思わせる滑らかな乳白色の下地には、細くやわらかな輪郭線が引かれるとともに、陰影を表すぼかしと淡い彩色が施されており、フジタの技法の特徴をよく示しています。子どもや小動物など、フジタが生涯にわたり好んだモティーフを描いたきわめて早い時期の作品で、猫を胸に抱く少女の仕草は子どもらしい愛らしさを感じさせる一方、正面を見据えるまっすぐなまなざしと固く結ばれた口元からは、フジタの描く少女像らしい静かな威厳が伝わってきます。本作品はフジタが亡くなった1968年に、東京と京都で開催された「藤田嗣治追悼展」において代表作として出品されました。<br />※本展での写真撮影ではありません。

    レオナール・フジタ (藤田嗣治)「少女と猫」1926年
    この作品は「すばらしい乳白色」と絶賛された独自の下地の技法を活かした表現により、フジタがパリで名声を獲得した時期に制作されました。肌の質感を思わせる滑らかな乳白色の下地には、細くやわらかな輪郭線が引かれるとともに、陰影を表すぼかしと淡い彩色が施されており、フジタの技法の特徴をよく示しています。子どもや小動物など、フジタが生涯にわたり好んだモティーフを描いたきわめて早い時期の作品で、猫を胸に抱く少女の仕草は子どもらしい愛らしさを感じさせる一方、正面を見据えるまっすぐなまなざしと固く結ばれた口元からは、フジタの描く少女像らしい静かな威厳が伝わってきます。本作品はフジタが亡くなった1968年に、東京と京都で開催された「藤田嗣治追悼展」において代表作として出品されました。
    ※本展での写真撮影ではありません。

  • 展覧会の第2部では、従来のコレクションには含まれていない、近代と現代を結ぶ作家たちの作品が紹介されていました。山口長男、山田正亮、猪熊弦一郎らの戦後日本の抽象絵画、ジャン・デュビュッフェ、斎藤義重、白髪一雄、中西夏之らマティエール(材質感)を探究した画家たち、そしてモーリス・ルイスやヘレン・フランケンサーラー、ゲルハルト・リヒターら欧米の作家たちによる抽象絵画です。その他にもアニッシュ・カプーア、中林忠良、杉本博司、三島喜美代、ケリス・ウィン・エヴァンス、ロニ・ホーン、スーザン・フィリップスなど現在も精力的に活動する多様な作家たちの作品も含まれており、ポーラ美術館の新しいコレクションのありようが楽しめる展示になっています。

    展覧会の第2部では、従来のコレクションには含まれていない、近代と現代を結ぶ作家たちの作品が紹介されていました。山口長男、山田正亮、猪熊弦一郎らの戦後日本の抽象絵画、ジャン・デュビュッフェ、斎藤義重、白髪一雄、中西夏之らマティエール(材質感)を探究した画家たち、そしてモーリス・ルイスやヘレン・フランケンサーラー、ゲルハルト・リヒターら欧米の作家たちによる抽象絵画です。その他にもアニッシュ・カプーア、中林忠良、杉本博司、三島喜美代、ケリス・ウィン・エヴァンス、ロニ・ホーン、スーザン・フィリップスなど現在も精力的に活動する多様な作家たちの作品も含まれており、ポーラ美術館の新しいコレクションのありようが楽しめる展示になっています。

  • ○難波田龍起「生命体の集合」1970年(昭和45)<br />日本的な詩情を湛えた抽象表現の一つの到達点ともいわれる難波田龍起。1970年代には、抽象表現主義やアンフォルメからの影響を受けながらも、日本の水墨画の隅を垂らして描く撥墨という手法を採り入れた本作のような大型の画面を作り出していきました。

    ○難波田龍起「生命体の集合」1970年(昭和45)
    日本的な詩情を湛えた抽象表現の一つの到達点ともいわれる難波田龍起。1970年代には、抽象表現主義やアンフォルメからの影響を受けながらも、日本の水墨画の隅を垂らして描く撥墨という手法を採り入れた本作のような大型の画面を作り出していきました。

  • ○白髪一雄「波濤」1987年<br />城下町の歴史を持ち商工業が栄える尼崎の呉服商の家に生まれた白髪一雄は、京都で日本画を学びました。油彩画に転向した後、次第に前衛的な表現に惹かれるようになり、1955(昭和30)年、吉原治良が率いる具体美術協会に加わります。吉原の指導のもと、だれも試みなかった方法を追求し、カンヴァスを床に広げて天上からロープを吊るし、それにつかまりながら足で抽象絵画を描く「フット・ペインティング」を始めました。

    ○白髪一雄「波濤」1987年
    城下町の歴史を持ち商工業が栄える尼崎の呉服商の家に生まれた白髪一雄は、京都で日本画を学びました。油彩画に転向した後、次第に前衛的な表現に惹かれるようになり、1955(昭和30)年、吉原治良が率いる具体美術協会に加わります。吉原の指導のもと、だれも試みなかった方法を追求し、カンヴァスを床に広げて天上からロープを吊るし、それにつかまりながら足で抽象絵画を描く「フット・ペインティング」を始めました。

  • 「波濤」(部分拡大)<br />足の裏が画面に残す痕跡は、画家の肉体と精神の存在を強く訴えます。<br />

    「波濤」(部分拡大)
    足の裏が画面に残す痕跡は、画家の肉体と精神の存在を強く訴えます。

  • ○白髪一雄「泥錫」1987年<br />ポーラ美術館といえば、印象派やピカソなどの19世紀以降の西洋絵画および近代日本絵画が中心のイメージでしたが、開館20周年を期に新たなビジョンを制定「心をゆさぶる美術館」として「近代・印象派」から「近代・印象派 + 現代アート」への展開を表明しており、益々楽しみです。<br />

    ○白髪一雄「泥錫」1987年
    ポーラ美術館といえば、印象派やピカソなどの19世紀以降の西洋絵画および近代日本絵画が中心のイメージでしたが、開館20周年を期に新たなビジョンを制定「心をゆさぶる美術館」として「近代・印象派」から「近代・印象派 + 現代アート」への展開を表明しており、益々楽しみです。

  • 中西夏之「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」1963/1993年<br />中西夏之は身近なものにこそ芸術が見られるという主義のもと制作を続けた作家。本作は、麻の画面に芸術と日常の混濁の象徴として洗濯バサミを貼りつけた半立体作品。

    中西夏之「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」1963/1993年
    中西夏之は身近なものにこそ芸術が見られるという主義のもと制作を続けた作家。本作は、麻の画面に芸術と日常の混濁の象徴として洗濯バサミを貼りつけた半立体作品。

  • 「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」(部分拡大)

    「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」(部分拡大)

  • 中西夏之「韻-S」1960年

    中西夏之「韻-S」1960年

  • リヒターの「抽象絵画(649-2)」が展覧会タイトル(「モネからリヒターへ」)をなぞるように、モネ「睡蓮の池」と並べて展示されています。

    リヒターの「抽象絵画(649-2)」が展覧会タイトル(「モネからリヒターへ」)をなぞるように、モネ「睡蓮の池」と並べて展示されています。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

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  • ○ゲルハルト・リヒター「抽象絵画(649-2)」1987年 <br />絵画表現の可能性を切り開く現代絵画の最高峰の一人、ゲルハルト・リヒターは、その画業の初期にはおもに写真を利用した具象的な絵画制作を展開していましたが、1970年代後半に、後のライフワークとなる「抽象絵画」のシリーズに着手しました。1980年代半ばまでの、手の軌跡がはっきりと見て取れる作例を経て、1980年代後半以降に本シリーズはスタイルとしての洗練を迎えます。1987年に制作された本作品は、スキージ(板)を使った塗り重ねによって生まれた積層と絵具の物質感が豊かなイメージを喚起し、複雑に重なり合いつつも明快な構成、画面に溢れる明るく豊かな色彩と没入的なスケール感が、「抽象絵画」の代表的な作例と呼びうる完成度と安定感を示しています。

    ○ゲルハルト・リヒター「抽象絵画(649-2)」1987年 
    絵画表現の可能性を切り開く現代絵画の最高峰の一人、ゲルハルト・リヒターは、その画業の初期にはおもに写真を利用した具象的な絵画制作を展開していましたが、1970年代後半に、後のライフワークとなる「抽象絵画」のシリーズに着手しました。1980年代半ばまでの、手の軌跡がはっきりと見て取れる作例を経て、1980年代後半以降に本シリーズはスタイルとしての洗練を迎えます。1987年に制作された本作品は、スキージ(板)を使った塗り重ねによって生まれた積層と絵具の物質感が豊かなイメージを喚起し、複雑に重なり合いつつも明快な構成、画面に溢れる明るく豊かな色彩と没入的なスケール感が、「抽象絵画」の代表的な作例と呼びうる完成度と安定感を示しています。

  • ○クロード・モネ「睡蓮の池」1899年<br />モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

    ○クロード・モネ「睡蓮の池」1899年
    モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

  • ○モーリス・ルイス「ベス・ザイン」1959年<br />モーリス・ルイスはポスト・ペインタリー・アブストラクションの代表的作家の一人。彼の1950年代の画業は、本作を含む「ヴェール・ペインティング」のシリーズに集約されます。その特色は、スケールの大きさと技法の革新性にあり、地塗りを施していない画布(ロウ・キャンヴァス)に、新しく開発されたアクリル絵具を直接流し込むスティニングという方法でした。併置されたり、重ね合わされた絵具は複雑な色彩のオーケストレーションを生み出し、様々なトーンの幾層ものヴェールがキャンヴァス全体に出現し、広がります。

    ○モーリス・ルイス「ベス・ザイン」1959年
    モーリス・ルイスはポスト・ペインタリー・アブストラクションの代表的作家の一人。彼の1950年代の画業は、本作を含む「ヴェール・ペインティング」のシリーズに集約されます。その特色は、スケールの大きさと技法の革新性にあり、地塗りを施していない画布(ロウ・キャンヴァス)に、新しく開発されたアクリル絵具を直接流し込むスティニングという方法でした。併置されたり、重ね合わされた絵具は複雑な色彩のオーケストレーションを生み出し、様々なトーンの幾層ものヴェールがキャンヴァス全体に出現し、広がります。

  • 第14章「ハマスホイとリヒター」は、暗室での展示です。<br />○ヴィルヘルム・ハマスホイ「陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地」1899年<br />建築と深くかかわり、部屋の中に採光と眺望をもたらす窓は、古来より美術作品に多く表象されてきました。室内画の画家として知られるデンマークのヴィルヘルム・ハマスホイが描く室内は詩的で神秘的な静謐さをたたえ、内省的な孤独感を漂わせています。本作はコペンハーゲンにある画家の自宅の室内が、灰色を主調とする限定された色彩により、シンプルな構造体として描かれてます。

    第14章「ハマスホイとリヒター」は、暗室での展示です。
    ○ヴィルヘルム・ハマスホイ「陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地」1899年
    建築と深くかかわり、部屋の中に採光と眺望をもたらす窓は、古来より美術作品に多く表象されてきました。室内画の画家として知られるデンマークのヴィルヘルム・ハマスホイが描く室内は詩的で神秘的な静謐さをたたえ、内省的な孤独感を漂わせています。本作はコペンハーゲンにある画家の自宅の室内が、灰色を主調とする限定された色彩により、シンプルな構造体として描かれてます。

  • ○ゲルハルト・リヒター「Grey House」1966年 <br />リヒターのおそらく故郷ドレスデンの白黒の建物の写真にぼかしやぶれを加えて描かれた「フォト・ペインティング」シリーズのひとつ《グレイ・ハウス》に映る光の世界も観るものをいざなう窓のように思われます。

    ○ゲルハルト・リヒター「Grey House」1966年 
    リヒターのおそらく故郷ドレスデンの白黒の建物の写真にぼかしやぶれを加えて描かれた「フォト・ペインティング」シリーズのひとつ《グレイ・ハウス》に映る光の世界も観るものをいざなう窓のように思われます。

  • ○中林忠良「位置 &#39;17 - 光 - Ⅵ - 5(穏)」2017年<br />中林 忠良は、日本版画界を代表する版画家の1人。銅板の腐食から発想した「すべて朽ちないものはない」という理念のもと、大地や草をモティーフとして「位置」や「転位」シリーズなどを制作し、現代日本の銅版画に新たな一面を開きました。

    ○中林忠良「位置 '17 - 光 - Ⅵ - 5(穏)」2017年
    中林 忠良は、日本版画界を代表する版画家の1人。銅板の腐食から発想した「すべて朽ちないものはない」という理念のもと、大地や草をモティーフとして「位置」や「転位」シリーズなどを制作し、現代日本の銅版画に新たな一面を開きました。

  • ○中林忠良「位置 &#39;19 - 光 - Ⅰ 」2019年<br />ポーラ美術館では、中林の1960年から2019年までの制作活動において重要な作品をまとまった形で収蔵したそうで、今後も展示が楽しみです。

    ○中林忠良「位置 '19 - 光 - Ⅰ 」2019年
    ポーラ美術館では、中林の1960年から2019年までの制作活動において重要な作品をまとまった形で収蔵したそうで、今後も展示が楽しみです。

  • ○杉本博司「Opticks」シリーズ 2018年<br />杉本博司の最新シリーズ「Opticks」はプリズムを透過させることで光を色彩へと変換させ、撮影した作品。作家が「光を絵具として使った新しい絵(ペインティング)」と語る同シリーズは、光そのものを制作の対象とした作家の意図が明確に示されています。

    ○杉本博司「Opticks」シリーズ 2018年
    杉本博司の最新シリーズ「Opticks」はプリズムを透過させることで光を色彩へと変換させ、撮影した作品。作家が「光を絵具として使った新しい絵(ペインティング)」と語る同シリーズは、光そのものを制作の対象とした作家の意図が明確に示されています。

  • ART FACTORY城南島にて常設展を開催している「三島 喜美代」さんの作品が新収蔵作品として展示されていました。

    ART FACTORY城南島にて常設展を開催している「三島 喜美代」さんの作品が新収蔵作品として展示されていました。

  • ○(上)三島 喜美代「Comicbook03 (Comicbook03-1)」2003年(平成15)<br />○(下)三島 喜美代「Newspapers P-17」2017年(平成29)

    ○(上)三島 喜美代「Comicbook03 (Comicbook03-1)」2003年(平成15)
    ○(下)三島 喜美代「Newspapers P-17」2017年(平成29)

  • ○三島 喜美代「Comicbook03 (Comicbook03-2)」2003年(平成15)

    ○三島 喜美代「Comicbook03 (Comicbook03-2)」2003年(平成15)

  • ○三島 喜美代「Work 17‐C」2017年(平成29)

    ○三島 喜美代「Work 17‐C」2017年(平成29)

  • ○ケリス・ウィン・エヴァンス「照明用ガス…(眼科医の証人による)」2015年

    ○ケリス・ウィン・エヴァンス「照明用ガス…(眼科医の証人による)」2015年

  • ○ロニ・ホーン「鳥葬(箱根)」2017-18年<br />昨年開催された「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」屋外の深い森の中に溶け込む、水をたたえた巨大な器のようにみえる本作は、実に5トンもの重量があるガラスの塊です。

    ○ロニ・ホーン「鳥葬(箱根)」2017-18年
    昨年開催された「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」屋外の深い森の中に溶け込む、水をたたえた巨大な器のようにみえる本作は、実に5トンもの重量があるガラスの塊です。

    ポーラ美術館 風の遊ぶ散歩道 名所・史跡

    ポーラ美術館の遊歩道 by +mo2さん
  • 「鳥葬(箱根)」(部分拡大)<br />大きな鋳型に熱く溶けたガラスを流し込み、約4カ月という時間をかけてゆっくりと冷却することで、その巨大なボリュームのなかに、奇跡のように澄みわたる透明性が宿ります。極めて滑らかな上部の表面は人工的に磨かれたものではなく、この制作プロセスのなかで自然に生み出されたものです。

    「鳥葬(箱根)」(部分拡大)
    大きな鋳型に熱く溶けたガラスを流し込み、約4カ月という時間をかけてゆっくりと冷却することで、その巨大なボリュームのなかに、奇跡のように澄みわたる透明性が宿ります。極めて滑らかな上部の表面は人工的に磨かれたものではなく、この制作プロセスのなかで自然に生み出されたものです。

  • 箱根から御殿場へ出て自宅へ帰りますが、途中、桜と富士山が美しい富士仏舎利塔平和公園へ寄りました。

    箱根から御殿場へ出て自宅へ帰りますが、途中、桜と富士山が美しい富士仏舎利塔平和公園へ寄りました。

  • 可愛らしい八重の桜

    可愛らしい八重の桜

  • 参道からも富士山が見えますが・・・

    参道からも富士山が見えますが・・・

  • 展望台からの眺望は最高です。

    展望台からの眺望は最高です。

    富士仏舎利塔平和公園 公園・植物園

    富士山がきれいに見える絶景ポイント by +mo2さん
  • ピンク色が美しい枝垂れ桜など様々な種類の桜も楽しめます。

    ピンク色が美しい枝垂れ桜など様々な種類の桜も楽しめます。

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