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ポーラ美術館で「ポーラ美術館開館20周年記念展 ピカソ 青の時代を超えて」が2022.9.17~2023.15まで開催されています。国立西洋美術館でも10月8日から「ピカソとその時代ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開催されますが、ポーラ美術館の展覧会は、ピカソがオリジナリティを初めて確立した「青の時代」を、初期の一様式としてではなく、「キュビスム」をはじめ革新的な表現を次々と生み出していった画家の原点として捉えなおす大規模展です。久々の晴天の秋空の中、箱根にいってきました。<br /><br />美術館HPより<br />パブロ・ピカソは20歳の頃、悲しみを抱えた貧しい人々を見つめ、青の絵具を用いて絵画にその姿を捉え、比類のない人間像を生み出しました。<br /><br />画家の原点であるこの「青の時代」を超えて、実験的なキュビスムの探究、さらに円熟期から晩年に至るまで、91年の生涯を通して旺盛な制作意欲を絶やすことのなかったピカソ。その絵画は歿後から半世紀を経てなお、生きた表現の力を鮮烈に放ち続けています。<br /> 本展覧会は、国内でも屈指のピカソ・コレクションを誇るポーラ美術館とひろしま美術館が、これまで欧米の美術館の協力を得て深めてきた作品研究をもとに、制作のプロセスに焦点を当て、絵画芸術に挑んだ「描く」ピカソの作品を初期から捉えなおそうとする共同企画展です。<br /> 両館のコレクションをはじめ国内外の重要作とともに、最新の科学技術を用いた調査や研究を通して20世紀の巨匠が遺した創造の軌跡に迫ります。<br /> なお、作品の解説は所蔵美術館の解説を参照しています。<br /><br />2023年1月1日追加

ポーラ美術館開館20周年記念展 ピカソ 青の時代を超えて

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2022/10/01 - 2022/10/01

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ポーラ美術館で「ポーラ美術館開館20周年記念展 ピカソ 青の時代を超えて」が2022.9.17~2023.15まで開催されています。国立西洋美術館でも10月8日から「ピカソとその時代ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開催されますが、ポーラ美術館の展覧会は、ピカソがオリジナリティを初めて確立した「青の時代」を、初期の一様式としてではなく、「キュビスム」をはじめ革新的な表現を次々と生み出していった画家の原点として捉えなおす大規模展です。久々の晴天の秋空の中、箱根にいってきました。

美術館HPより
パブロ・ピカソは20歳の頃、悲しみを抱えた貧しい人々を見つめ、青の絵具を用いて絵画にその姿を捉え、比類のない人間像を生み出しました。

画家の原点であるこの「青の時代」を超えて、実験的なキュビスムの探究、さらに円熟期から晩年に至るまで、91年の生涯を通して旺盛な制作意欲を絶やすことのなかったピカソ。その絵画は歿後から半世紀を経てなお、生きた表現の力を鮮烈に放ち続けています。
 本展覧会は、国内でも屈指のピカソ・コレクションを誇るポーラ美術館とひろしま美術館が、これまで欧米の美術館の協力を得て深めてきた作品研究をもとに、制作のプロセスに焦点を当て、絵画芸術に挑んだ「描く」ピカソの作品を初期から捉えなおそうとする共同企画展です。
 両館のコレクションをはじめ国内外の重要作とともに、最新の科学技術を用いた調査や研究を通して20世紀の巨匠が遺した創造の軌跡に迫ります。
 なお、作品の解説は所蔵美術館の解説を参照しています。

2023年1月1日追加

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 朝、母のいる介護施設に用事があり行きました。コロナも少し落ち着いていることもあり、ガラス越しですが5カ月ぶりに母と面談してもいいということになり会ってきました。本人は「何もわからなくなってきちゃった」と言ってましたが、私のことだけは、わかって話をすることができました。その後、父の入院している病院に寄り、箱根にはお昼過ぎに到着です。

    朝、母のいる介護施設に用事があり行きました。コロナも少し落ち着いていることもあり、ガラス越しですが5カ月ぶりに母と面談してもいいということになり会ってきました。本人は「何もわからなくなってきちゃった」と言ってましたが、私のことだけは、わかって話をすることができました。その後、父の入院している病院に寄り、箱根にはお昼過ぎに到着です。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • 展覧会は、4章の構成になっていましたが、3・4章については、ポーラ美術館所蔵以外の作品も含め、写真撮影OKとなっていました。

    展覧会は、4章の構成になっていましたが、3・4章については、ポーラ美術館所蔵以外の作品も含め、写真撮影OKとなっていました。

  • I. 青の時代―はじまりの絵画、塗重ねられた軌跡<br />1900年に初めてパリを訪れたピカソは、その後4年近くバルセロナとパリを往復する生活を送りました。1901年以来、後に「青の時代」と呼ばれた3年程の期間のなかで、ピカソはそれまで制作したカンヴァスを何度も塗り替えて模索を繰り返し、青を主調色に深い精神性を纏う重厚な作品を制作しています。このコーナーは本作品のみ写真撮影OKでした。

    I. 青の時代―はじまりの絵画、塗重ねられた軌跡
    1900年に初めてパリを訪れたピカソは、その後4年近くバルセロナとパリを往復する生活を送りました。1901年以来、後に「青の時代」と呼ばれた3年程の期間のなかで、ピカソはそれまで制作したカンヴァスを何度も塗り替えて模索を繰り返し、青を主調色に深い精神性を纏う重厚な作品を制作しています。このコーナーは本作品のみ写真撮影OKでした。

  • 「海辺の母子像」1902年 ポーラ美術館<br />20歳のピカソが描いた「青の時代」(1901-1904年)の作品です。ピカソは、親友カサジェマスの死をきっかけに、生と死、貧困といった主題に打ち込み、絵画からは明るくあたたかな色彩が消え、しだいに青い闇に覆われていきました。ピカソの「青の時代」の絵画には、純粋さ、静けさ、あるいは憂鬱など、さまざまなイメージを喚起する「青=ブルー」が巧みにもちいられています。この作品は、ピカソが家族の住むスペインのバルセロナに帰郷していた頃に描かれました。夜の海岸に、母親が幼子を胸に抱いてたたずんでいます。地中海をのぞむこの海岸は、ピカソが通った美術学校の目の前に広がる浜辺で、ピカソが親友カサジェマスと過ごした学生時代の思い出の場所です。母親がまとう衣は、スペイン人が熱心に信奉するキリスト教の、聖母マリアの青いマントを思わせます。蒼白い手を伸ばして赤い花を天へと捧げる姿には、亡き友人へのピカソの鎮魂の祈りが重ねられているのかもしれません。<br />

    「海辺の母子像」1902年 ポーラ美術館
    20歳のピカソが描いた「青の時代」(1901-1904年)の作品です。ピカソは、親友カサジェマスの死をきっかけに、生と死、貧困といった主題に打ち込み、絵画からは明るくあたたかな色彩が消え、しだいに青い闇に覆われていきました。ピカソの「青の時代」の絵画には、純粋さ、静けさ、あるいは憂鬱など、さまざまなイメージを喚起する「青=ブルー」が巧みにもちいられています。この作品は、ピカソが家族の住むスペインのバルセロナに帰郷していた頃に描かれました。夜の海岸に、母親が幼子を胸に抱いてたたずんでいます。地中海をのぞむこの海岸は、ピカソが通った美術学校の目の前に広がる浜辺で、ピカソが親友カサジェマスと過ごした学生時代の思い出の場所です。母親がまとう衣は、スペイン人が熱心に信奉するキリスト教の、聖母マリアの青いマントを思わせます。蒼白い手を伸ばして赤い花を天へと捧げる姿には、亡き友人へのピカソの鎮魂の祈りが重ねられているのかもしれません。

  • II. キュビスム―造形の探究へ<br />ピカソは1904年にパリに定住し、ブラックとともに前衛芸術に身を投じ、幾何学的に対象を分析して再構成するキュビスムを生み出しました。はじめは《裸婦》のように、人物を鉱物の結晶体のように描くなど、ストイックな造形性を探究します。しかし1912年以降、平面の重なりやモチーフの組み替えによって、静物から人物へと主題を変え、軽やかに意味を変容させていく実験的な手法に魅せられていきました。写真はジョルジュ・ブラック「円卓」 1911年 Artizon Museum<br />※ 本展での撮影ではありません

    II. キュビスム―造形の探究へ
    ピカソは1904年にパリに定住し、ブラックとともに前衛芸術に身を投じ、幾何学的に対象を分析して再構成するキュビスムを生み出しました。はじめは《裸婦》のように、人物を鉱物の結晶体のように描くなど、ストイックな造形性を探究します。しかし1912年以降、平面の重なりやモチーフの組み替えによって、静物から人物へと主題を変え、軽やかに意味を変容させていく実験的な手法に魅せられていきました。写真はジョルジュ・ブラック「円卓」 1911年 Artizon Museum
    ※ 本展での撮影ではありません

  • 「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」 1913年 Artizon Museum<br />ピカソは、類まれなデッサン力と絶えざる自己革新を支えた圧倒的な創造力において、20世紀美術を代表する芸術家です。この作品は、1912年頃に始まる総合的キュビスムに位置付けられる作で、画面に異物を導入するコラージュの技法が特徴です。幾何学的な素描に基づきながら、新聞紙の断片を貼り付ける試みは、絵画をイリュージョンから現実に近づけようとするものです。触覚的な現実の二次元的再現という、キュビスムの当初の目的に立ち返るべく、ピカソは画面に砂を混ぜ込み、グラスや瓶に浮き出すような白色を施しています。<br />※ 本展での撮影ではありません

    「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」 1913年 Artizon Museum
    ピカソは、類まれなデッサン力と絶えざる自己革新を支えた圧倒的な創造力において、20世紀美術を代表する芸術家です。この作品は、1912年頃に始まる総合的キュビスムに位置付けられる作で、画面に異物を導入するコラージュの技法が特徴です。幾何学的な素描に基づきながら、新聞紙の断片を貼り付ける試みは、絵画をイリュージョンから現実に近づけようとするものです。触覚的な現実の二次元的再現という、キュビスムの当初の目的に立ち返るべく、ピカソは画面に砂を混ぜ込み、グラスや瓶に浮き出すような白色を施しています。
    ※ 本展での撮影ではありません

  • III. 古典への回帰と身体の変容<br />第一次世界大戦の終結後、「秩序への回帰」という時代の機運のもとピカソも古典に回帰しました。しかし同時にキュビスムを思わせる幾何学的で平面的な作品も制作しています。多様な方法を用いながらも、主題のない抽象絵画を否定し、現実と結びついた作品を制作し続けました。愛人の姿を描いた《マリー・テレースの肖像》では、幾何学的に分割した色面の上に、彼女の姿を重層的に描き出しています。

    III. 古典への回帰と身体の変容
    第一次世界大戦の終結後、「秩序への回帰」という時代の機運のもとピカソも古典に回帰しました。しかし同時にキュビスムを思わせる幾何学的で平面的な作品も制作しています。多様な方法を用いながらも、主題のない抽象絵画を否定し、現実と結びついた作品を制作し続けました。愛人の姿を描いた《マリー・テレースの肖像》では、幾何学的に分割した色面の上に、彼女の姿を重層的に描き出しています。

  • 「四人の水浴する女」1920年 ひろしま美術館<br />1920年夏、ピカソはオルガとともに南仏アンティーブ岬の麓の小さな町ジュアン=レ=バンで過ごしています。この作品は、ピカソが古典的傾向を示した最盛期の重厚な形態表現とは異なり、輪郭線とわずかな陰影で水浴する女性の形態を見事に描いています。<br />

    「四人の水浴する女」1920年 ひろしま美術館
    1920年夏、ピカソはオルガとともに南仏アンティーブ岬の麓の小さな町ジュアン=レ=バンで過ごしています。この作品は、ピカソが古典的傾向を示した最盛期の重厚な形態表現とは異なり、輪郭線とわずかな陰影で水浴する女性の形態を見事に描いています。

  • 「坐る女」1921年 ポーラ美術館<br />このパステル画は、スペイン生まれのピカソが1900年に初めてパリに滞在した頃から、バルセロナに戻り、さらにマドリードへ向かった約1年の間に制作されたと考えられています。それらの都市で、修業時代のピカソはカフェや居酒屋にたむろする人々をモデルに人物デッサンを繰り返すなか、あらゆる線描の技法を身につけました。縦横に線が引かれた暗い背景のなかで、テーブルに肘をつく女性は、バルセロナの居酒屋「エルス・クワトレ・ガッツ」(四匹の猫)の常連で先輩の画家ラモン・カザス、あるいはパリの歓楽街を主題にしたトゥールーズ=ロートレックが描いた陰鬱な世紀末の女性像と、同じ時代の空気をまとっています。しかしピカソはここでは女性の物憂げな表情を表わすよりもむしろ、輪郭を直線へと整理し、黒と青のシンプルな描線で捉えるよう試みています。本作品には、旧世代の世紀末的な雰囲気から一歩踏み出し、独自の女性像を模索するピカソの意欲が見られます。

    「坐る女」1921年 ポーラ美術館
    このパステル画は、スペイン生まれのピカソが1900年に初めてパリに滞在した頃から、バルセロナに戻り、さらにマドリードへ向かった約1年の間に制作されたと考えられています。それらの都市で、修業時代のピカソはカフェや居酒屋にたむろする人々をモデルに人物デッサンを繰り返すなか、あらゆる線描の技法を身につけました。縦横に線が引かれた暗い背景のなかで、テーブルに肘をつく女性は、バルセロナの居酒屋「エルス・クワトレ・ガッツ」(四匹の猫)の常連で先輩の画家ラモン・カザス、あるいはパリの歓楽街を主題にしたトゥールーズ=ロートレックが描いた陰鬱な世紀末の女性像と、同じ時代の空気をまとっています。しかしピカソはここでは女性の物憂げな表情を表わすよりもむしろ、輪郭を直線へと整理し、黒と青のシンプルな描線で捉えるよう試みています。本作品には、旧世代の世紀末的な雰囲気から一歩踏み出し、独自の女性像を模索するピカソの意欲が見られます。

  • 「母子像」1921年 ひろしま美術館<br />表現として頭部や手足を大きく誇張すすことで重厚感が誇張され、体の部分がまるでブロックのような印象を受けます。対象を単純な形の組み合わせで表現するキュービズムの技法との共通点を感じます。一方で衣服などの影の個所は光が透けるほど薄く、明るい箇所は厚く絵具を塗っています。これはレンブラントやベラスケスなど17世紀の巨匠たちからの、伝統的な技法に忠実にあろうとするピカソの意識を読み取ることができます。

    「母子像」1921年 ひろしま美術館
    表現として頭部や手足を大きく誇張すすことで重厚感が誇張され、体の部分がまるでブロックのような印象を受けます。対象を単純な形の組み合わせで表現するキュービズムの技法との共通点を感じます。一方で衣服などの影の個所は光が透けるほど薄く、明るい箇所は厚く絵具を塗っています。これはレンブラントやベラスケスなど17世紀の巨匠たちからの、伝統的な技法に忠実にあろうとするピカソの意識を読み取ることができます。

  • 「母子像」1921年 ポーラ美術館<br />1917年以降、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台装飾と衣装を担当し、華々しい業績とゆるぎない名声を確立します。バレエ団のダンサーでロシアの貴族出身のオルガと結婚した彼は、裕福な新生活を享受しつつ、イタリア旅行を皮切りに、ギリシア、ローマなど地中海文明の遺産を創作に取り入れていきました。そして1921年の夏、オルガと2月に誕生したばかりの長男パウロを伴いフォンテーヌブローに避暑のため滞在し、充実した私生活を反映するかのような重要作を手がけています。オルガとパウロをモデルに古典主義的手法で描いたこの母子像では、やわらかな筆触で淡い褐色とバラ色に白色を重ね、ふっくらとした身体の触感と母子間の交流をあますことなく表現しています。ピカソは腕や手、頭部など身体の各部分にデフォルメを加え、人物像に人間よりも大きな存在感―神秘性を纏わせることに成功しています。

    「母子像」1921年 ポーラ美術館
    1917年以降、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台装飾と衣装を担当し、華々しい業績とゆるぎない名声を確立します。バレエ団のダンサーでロシアの貴族出身のオルガと結婚した彼は、裕福な新生活を享受しつつ、イタリア旅行を皮切りに、ギリシア、ローマなど地中海文明の遺産を創作に取り入れていきました。そして1921年の夏、オルガと2月に誕生したばかりの長男パウロを伴いフォンテーヌブローに避暑のため滞在し、充実した私生活を反映するかのような重要作を手がけています。オルガとパウロをモデルに古典主義的手法で描いたこの母子像では、やわらかな筆触で淡い褐色とバラ色に白色を重ね、ふっくらとした身体の触感と母子間の交流をあますことなく表現しています。ピカソは腕や手、頭部など身体の各部分にデフォルメを加え、人物像に人間よりも大きな存在感―神秘性を纏わせることに成功しています。

  • 「仔羊を連れたパウロ、画家の息子、二歳」1923年 ひろしま美術館<br />1921年、オルガとの間にピカソの最初の子供であるパウロが生まれています。ちょうどパウロが生まれた頃に古典への傾倒が始まり、当初はオルガとともに母子像で描かれていましたが、1923年になるとパウロが単独の肖像画として描かれるようになりました。

    「仔羊を連れたパウロ、画家の息子、二歳」1923年 ひろしま美術館
    1921年、オルガとの間にピカソの最初の子供であるパウロが生まれています。ちょうどパウロが生まれた頃に古典への傾倒が始まり、当初はオルガとともに母子像で描かれていましたが、1923年になるとパウロが単独の肖像画として描かれるようになりました。

  • 「花束を持つピエロに扮したパウロ」1929年 ポーラ美術館<br />本作品は1929年7月、ピカソと妻オルガとの間に生まれた長男パウロが、8歳の頃に制作された肖像画です。ピカソ一家はこの頃、パリの社交界にも出入りする華やかな生活を享受しており、この絵画は、画家の家に残された愛息の大切な肖像画でした。本作品を制作する6年前、ピカソはアルルカンに扮した2歳の頃のパウロを描いたもう一つの作品《花束を持つアルルカンに扮したパウロ》(1923年、個人蔵)を描きました。この作品は知人の手に渡り、本作品はその代替として、ピカソがパウロの幼少期の姿を絵筆でとどめるべく、現実よりも幼い4歳児の息子として描かれたものです。絵のなかのパウロは、一般的にピエロが持つことのない権力の象徴である杖を手にし、威厳に満ちた白い顔を正面に向け、流麗な色の濃淡で覆われた背景のなかに立っています。この杖は絵筆を、もう片方の手に持つ花束は色とりどりの絵具を載せたパレットを連想させ、パウロを画家の姿にもみせています。<br />  この絵は、私の母のお気に入りの作品で寝室にミニ複製画を飾っていました。

    「花束を持つピエロに扮したパウロ」1929年 ポーラ美術館
    本作品は1929年7月、ピカソと妻オルガとの間に生まれた長男パウロが、8歳の頃に制作された肖像画です。ピカソ一家はこの頃、パリの社交界にも出入りする華やかな生活を享受しており、この絵画は、画家の家に残された愛息の大切な肖像画でした。本作品を制作する6年前、ピカソはアルルカンに扮した2歳の頃のパウロを描いたもう一つの作品《花束を持つアルルカンに扮したパウロ》(1923年、個人蔵)を描きました。この作品は知人の手に渡り、本作品はその代替として、ピカソがパウロの幼少期の姿を絵筆でとどめるべく、現実よりも幼い4歳児の息子として描かれたものです。絵のなかのパウロは、一般的にピエロが持つことのない権力の象徴である杖を手にし、威厳に満ちた白い顔を正面に向け、流麗な色の濃淡で覆われた背景のなかに立っています。この杖は絵筆を、もう片方の手に持つ花束は色とりどりの絵具を載せたパレットを連想させ、パウロを画家の姿にもみせています。
    この絵は、私の母のお気に入りの作品で寝室にミニ複製画を飾っていました。

  • 「新聞とグラスとタバコの箱」1921年 ポーラ美術館<br />この時期の人物画が古典的な傾向が強いのに対し、静物画はキュービズムを踏襲したかのような作品が多い。

    「新聞とグラスとタバコの箱」1921年 ポーラ美術館
    この時期の人物画が古典的な傾向が強いのに対し、静物画はキュービズムを踏襲したかのような作品が多い。

  • 「ギターとオレンジの果物鉢」1925年 新潟市美術館<br />ギターのある静物は、1910年代から頻繁に描かれた画題です。

    「ギターとオレンジの果物鉢」1925年 新潟市美術館
    ギターのある静物は、1910年代から頻繁に描かれた画題です。

  • 「静物」1937年 ポーラ美術館<br />ピラミッド型に隆起するテーブルに水差しと果物皿が置かれ、その他は壁に掛けられていると思われる額縁だけがあります。静物のモティーフは、ピカソの作品中しばしば一対で表わされますが、ここでは水差しと果物皿のどちらも丸みが強調され、互いが求め合いながらも反発し合うような緊張感と弾力性に溢れています。静物でありながら、人間の身体を連想させるのです。ピカソの静物を身体のメタファーとして解釈するならば、水差しは男性を示し、丸い果実を戴く果物皿は女性の身体といえるでしょう。親密でありながら拮抗する二つの静物の関係を、青と白の曖昧な背景が優しく包んでいます。ピカソは1936年の秋以降、パリ郊外ヴェルサイユ近くのル・トランブレ=シュル=モルドルにある建物を入手し、恋人マリー=テレーズと、ふたりの間に生まれた娘マヤを住まわせ、穏やかな生活を享受しながら数点の静物を手がけました。本作品もそのうちの一点と思われます。

    「静物」1937年 ポーラ美術館
    ピラミッド型に隆起するテーブルに水差しと果物皿が置かれ、その他は壁に掛けられていると思われる額縁だけがあります。静物のモティーフは、ピカソの作品中しばしば一対で表わされますが、ここでは水差しと果物皿のどちらも丸みが強調され、互いが求め合いながらも反発し合うような緊張感と弾力性に溢れています。静物でありながら、人間の身体を連想させるのです。ピカソの静物を身体のメタファーとして解釈するならば、水差しは男性を示し、丸い果実を戴く果物皿は女性の身体といえるでしょう。親密でありながら拮抗する二つの静物の関係を、青と白の曖昧な背景が優しく包んでいます。ピカソは1936年の秋以降、パリ郊外ヴェルサイユ近くのル・トランブレ=シュル=モルドルにある建物を入手し、恋人マリー=テレーズと、ふたりの間に生まれた娘マヤを住まわせ、穏やかな生活を享受しながら数点の静物を手がけました。本作品もそのうちの一点と思われます。

  • 「静物=ローソク・パレットと牡牛の頭」1938年 メナード美術館<br />闘牛の国スペインに生まれ育ったピカソにとって、牛は特別な存在でした。とりわけ立派な角を持った牡牛の姿は、闘牛やミノタウロス(ギリシャ神話に登場する牛頭人身の怪物)となり、さまざまな象徴性を帯びて作品に登場します。<br />1937年、ピカソは故国の内乱に触発され大作《ゲルニカ》(国立ソフィア王妃芸術センター/マドリード)を制作しました。本作品は、その後の第二次大戦前夜における不穏な社会情勢のなか、《ゲルニカ》と同様に牡牛の頭部を主題に描かれた静物画のひとつです。

    「静物=ローソク・パレットと牡牛の頭」1938年 メナード美術館
    闘牛の国スペインに生まれ育ったピカソにとって、牛は特別な存在でした。とりわけ立派な角を持った牡牛の姿は、闘牛やミノタウロス(ギリシャ神話に登場する牛頭人身の怪物)となり、さまざまな象徴性を帯びて作品に登場します。
    1937年、ピカソは故国の内乱に触発され大作《ゲルニカ》(国立ソフィア王妃芸術センター/マドリード)を制作しました。本作品は、その後の第二次大戦前夜における不穏な社会情勢のなか、《ゲルニカ》と同様に牡牛の頭部を主題に描かれた静物画のひとつです。

  • 「静物=ローソク・パレットと牡牛の頭」(部分拡大)<br />ピカソは、牡牛や静物のモティーフに、不安や死のイメージ、また画家としての誇りと希望といった思いを込めて描きました。牡牛の顔は、さまざまな角度からみたパーツの組み合わせから成り立っており、20世紀初頭、画家がブラックとともに追求したキュビスム的手法がみられます。

    「静物=ローソク・パレットと牡牛の頭」(部分拡大)
    ピカソは、牡牛や静物のモティーフに、不安や死のイメージ、また画家としての誇りと希望といった思いを込めて描きました。牡牛の顔は、さまざまな角度からみたパーツの組み合わせから成り立っており、20世紀初頭、画家がブラックとともに追求したキュビスム的手法がみられます。

  • 「静物-パレット、燭台、ミノタウロスの頭部」1938年 京都国立近代美術館<br />《静物-パレット、燭台、ミノタウロスの頭部》は、1937年に起きたスペインでのドイツ軍の無差別爆撃を主題とする代表作《ゲルニカ》の翌年に描かれたもので、ふたつの作品にはミノタウロスの頭部や燭台などモチーフ上の共通点が見られます。

    「静物-パレット、燭台、ミノタウロスの頭部」1938年 京都国立近代美術館
    《静物-パレット、燭台、ミノタウロスの頭部》は、1937年に起きたスペインでのドイツ軍の無差別爆撃を主題とする代表作《ゲルニカ》の翌年に描かれたもので、ふたつの作品にはミノタウロスの頭部や燭台などモチーフ上の共通点が見られます。

  • 「ろうそくのある静物」1944年 ポーラ美術館<br />ピカソは第二次世界大戦中、首都パリがドイツ軍に占領されてもなお、アメリカとメキシコからの亡命の誘いを断り、フランスに留まっていました。パリ6区にあるグラン・ゾギュスタン通りのアトリエに住まいを移し、画商や友人たちとの交流の拠点としましたが、ナチの統制は前衛画家ピカソを脅かし、作品の公開は禁じられていました。この作品は「ノクテュルヌ」(夜景画)とよばれる、ろうそくの火が室内の夜の闇を照らす静物画のシリーズの一つで、戦時下のピカソの重要な主題でした。「ノクテュルヌ」のシリーズのなかでも、本作品は例外的にろうそくが灯されておらず、白々とした空気がかえって各モティーフの存在を闇に隠すことなく剥き出しにしています。注ぎ口が強調されたコーヒーポットと周辺の静物の間には、主と従、あるいは強者と弱者の関係が認められますが、一方ですべての物―燭台、コーヒーポット、果物、コーヒーカップ、ソーサー、グラスは、力強く引かれた黒い輪郭線で繋げられ、テーブルの上で、奇妙な連帯感が生み出されています。

    「ろうそくのある静物」1944年 ポーラ美術館
    ピカソは第二次世界大戦中、首都パリがドイツ軍に占領されてもなお、アメリカとメキシコからの亡命の誘いを断り、フランスに留まっていました。パリ6区にあるグラン・ゾギュスタン通りのアトリエに住まいを移し、画商や友人たちとの交流の拠点としましたが、ナチの統制は前衛画家ピカソを脅かし、作品の公開は禁じられていました。この作品は「ノクテュルヌ」(夜景画)とよばれる、ろうそくの火が室内の夜の闇を照らす静物画のシリーズの一つで、戦時下のピカソの重要な主題でした。「ノクテュルヌ」のシリーズのなかでも、本作品は例外的にろうそくが灯されておらず、白々とした空気がかえって各モティーフの存在を闇に隠すことなく剥き出しにしています。注ぎ口が強調されたコーヒーポットと周辺の静物の間には、主と従、あるいは強者と弱者の関係が認められますが、一方ですべての物―燭台、コーヒーポット、果物、コーヒーカップ、ソーサー、グラスは、力強く引かれた黒い輪郭線で繋げられ、テーブルの上で、奇妙な連帯感が生み出されています。

  • 「赤い枕で眠る女」1932年 徳島県立近代美術館<br />この作品は、パリの北西約65キロにある小さな村、ボワジュルーのアトリエでマリー・テレーズをモデルに描かれたものです。眉間にくぼみのない、なだらかで大きな鼻は、このころ新境地を開いたピカソの彫刻にも多用されています。柔らかい線を用いてデフォルメされた彼女の姿は、豊かで性的な女神であり、澄んだ色調がピカソのときめきを伝えてくれます。目を閉じてすやすやと眠る彼女が目を覚まさないように、息をころしてそっとしている五十男のピカソの充実した幸福を思いやって、思わずほほえんでしまうことでしょう。

    「赤い枕で眠る女」1932年 徳島県立近代美術館
    この作品は、パリの北西約65キロにある小さな村、ボワジュルーのアトリエでマリー・テレーズをモデルに描かれたものです。眉間にくぼみのない、なだらかで大きな鼻は、このころ新境地を開いたピカソの彫刻にも多用されています。柔らかい線を用いてデフォルメされた彼女の姿は、豊かで性的な女神であり、澄んだ色調がピカソのときめきを伝えてくれます。目を閉じてすやすやと眠る彼女が目を覚まさないように、息をころしてそっとしている五十男のピカソの充実した幸福を思いやって、思わずほほえんでしまうことでしょう。

  • 「マリー=テレーズの肖像」1937年 吉野石膏コレクション(山形美術館に寄託)<br />ピカソの恋愛遍歴の中で4番目に出てくるのが、マリー・テレーズ・ワルテル。<br />46歳のとき、17歳のマリー・テレーズを愛人にします。(8年間)<br />マリーとの出会いは、彼女がデパートの前で人を待っていたときに、ピカソがいきなり「君の肖像画を描かせてください。私はピカソです」と声をかけたとのこと。

    「マリー=テレーズの肖像」1937年 吉野石膏コレクション(山形美術館に寄託)
    ピカソの恋愛遍歴の中で4番目に出てくるのが、マリー・テレーズ・ワルテル。
    46歳のとき、17歳のマリー・テレーズを愛人にします。(8年間)
    マリーとの出会いは、彼女がデパートの前で人を待っていたときに、ピカソがいきなり「君の肖像画を描かせてください。私はピカソです」と声をかけたとのこと。

  • 「花売り」1937年 ポーラ美術館<br />ピカソほど女性のモデルにインスピレーションを受け、次々と新しい様式を開拓していった画家はいないでしょう。パリで開催された万国博覧会のために、巨大な壁画《ゲルニカ》(1937年、プラド美術館蔵、レイナ・ソフィア芸術センター寄託)を発表した直後の作品です。ピカソは、恋人のドラ・マールを伴い、友人でシュルレアリストの詩人ポール・エリュアール、その妻ヌッシュらが滞在する、南仏カンヌ近郊の村ムージャンで夏のヴァカンスを過ごしました。本作品に描かれている瓜実型の顔、褐色の巻き毛は、モデルがヌッシュであることを示しています。力強く花束を差し出すヌッシュの姿は、南仏の黄色い陽光がふりそそぐもとで強烈な色彩を放ち、太陽、花売りの民族衣装、笠などは、菱形、四角といった単純な形態へと一様に変形されています。正面と横からとらえられた顔、誇張された手の表現は、同年の春に制作された《ゲルニカ》や「泣く女」のシリーズの女性像にもみられます。

    「花売り」1937年 ポーラ美術館
    ピカソほど女性のモデルにインスピレーションを受け、次々と新しい様式を開拓していった画家はいないでしょう。パリで開催された万国博覧会のために、巨大な壁画《ゲルニカ》(1937年、プラド美術館蔵、レイナ・ソフィア芸術センター寄託)を発表した直後の作品です。ピカソは、恋人のドラ・マールを伴い、友人でシュルレアリストの詩人ポール・エリュアール、その妻ヌッシュらが滞在する、南仏カンヌ近郊の村ムージャンで夏のヴァカンスを過ごしました。本作品に描かれている瓜実型の顔、褐色の巻き毛は、モデルがヌッシュであることを示しています。力強く花束を差し出すヌッシュの姿は、南仏の黄色い陽光がふりそそぐもとで強烈な色彩を放ち、太陽、花売りの民族衣装、笠などは、菱形、四角といった単純な形態へと一様に変形されています。正面と横からとらえられた顔、誇張された手の表現は、同年の春に制作された《ゲルニカ》や「泣く女」のシリーズの女性像にもみられます。

  • 「黄色い背景の女」1937年 東京ステーションギャラリー

    「黄色い背景の女」1937年 東京ステーションギャラリー

  • 人物画はピカソが生涯を通して数多く描いた主要なモティーフです。なかでも女性たちの肖像画にピカソは強い関心を抱いていました。

    人物画はピカソが生涯を通して数多く描いた主要なモティーフです。なかでも女性たちの肖像画にピカソは強い関心を抱いていました。

  • 『知られざる傑作』オノレ・ド・バルザック著 ポーラ美術館<br />1921年、画商アンブロワーズ・ヴォラールはパブロ・ピカソに『知られざる傑作』の挿絵を描くように勧めました。この小説に魅了されたピカソは天才老画家フレノフェールに自分を重ね合わせ、さらにフレノフェールのアトリエがあったとされたパリのグランゾーギュスタン街に惹かれました。ヴォラールからの勧めがあったしばらく後に、彼は自らグランゾーギュスタン街にアトリエを借り、そこで傑作『ゲルニカ』を製作しました。ピカソはそのアトリエに第二次世界大戦の間住んでいます。

    『知られざる傑作』オノレ・ド・バルザック著 ポーラ美術館
    1921年、画商アンブロワーズ・ヴォラールはパブロ・ピカソに『知られざる傑作』の挿絵を描くように勧めました。この小説に魅了されたピカソは天才老画家フレノフェールに自分を重ね合わせ、さらにフレノフェールのアトリエがあったとされたパリのグランゾーギュスタン街に惹かれました。ヴォラールからの勧めがあったしばらく後に、彼は自らグランゾーギュスタン街にアトリエを借り、そこで傑作『ゲルニカ』を製作しました。ピカソはそのアトリエに第二次世界大戦の間住んでいます。

  • 「画家と編物をするモデル」<br />

    「画家と編物をするモデル」

  • 「動物と男たちのエスキースに囲まれた坐る裸婦」<br />

    「動物と男たちのエスキースに囲まれた坐る裸婦」

  • 「闘技場の牡牛と馬」

    「闘技場の牡牛と馬」

  • 「制作する画家、観察する裸婦のモデル」

    「制作する画家、観察する裸婦のモデル」

  • IV. 南のアトリエー超えゆく絵画<br />第二次世界大戦後のピカソは、南フランスに住まいを移し、なおも制作を続けます。美術史上の巨匠たちを参照した連作を手か?け、「画家とモデル」というテーマのもと絵画における愛とエロティシズムを探究します。晩年には自己の内面をみつめ、再び「青の時代」のように生と死のテーマに還り、魂の表出というベき作品群を描きました。《ラ・ガループの海水浴場》か?登場する映画「ミステリアス・ピカソ天才の秘密」(1956年公開)のなかで74歳のピカソは、大胆かつ自在にイメージを変容させていくプロセスを明らかにしています。

    IV. 南のアトリエー超えゆく絵画
    第二次世界大戦後のピカソは、南フランスに住まいを移し、なおも制作を続けます。美術史上の巨匠たちを参照した連作を手か?け、「画家とモデル」というテーマのもと絵画における愛とエロティシズムを探究します。晩年には自己の内面をみつめ、再び「青の時代」のように生と死のテーマに還り、魂の表出というベき作品群を描きました。《ラ・ガループの海水浴場》か?登場する映画「ミステリアス・ピカソ天才の秘密」(1956年公開)のなかで74歳のピカソは、大胆かつ自在にイメージを変容させていくプロセスを明らかにしています。

  • 「横たわる女」1946 年 アサヒビール大山崎山荘美術館<br />11月16日から展示の作品です<br />

    「横たわる女」1946 年 アサヒビール大山崎山荘美術館
    11月16日から展示の作品です

  • 「ラ・ガループの海水浴場」1955年 東京国立近代美術館<br />955年夏、アンリ・ジョルジュ=クルーゾーが長編記録映画「ピカソ─天才の秘密」を南仏ニースのスタジオで撮影しましたが、この作品は、その際にスタジオ内で描かれた二点の油絵のうちの第一作。横長の画面には、水から上がってきた太陽のような顔を中心に、水着姿の男女、浜辺のテラスで憩う人びと、水上スキーをする男、右側には当時の伴侶ジャクリーヌの姿などが描かれています。

    「ラ・ガループの海水浴場」1955年 東京国立近代美術館
    955年夏、アンリ・ジョルジュ=クルーゾーが長編記録映画「ピカソ─天才の秘密」を南仏ニースのスタジオで撮影しましたが、この作品は、その際にスタジオ内で描かれた二点の油絵のうちの第一作。横長の画面には、水から上がってきた太陽のような顔を中心に、水着姿の男女、浜辺のテラスで憩う人びと、水上スキーをする男、右側には当時の伴侶ジャクリーヌの姿などが描かれています。

  • 「ラ・ガループの海水浴場」(部分拡大)<br />ピカソは、キュビスム以来のさまざまな様式や技法を駆使しながら、記憶の中の人物や光景を自由奔放に繋ぎ合わせて、この躍動感のあるパノラミックな情景を構成した。

    「ラ・ガループの海水浴場」(部分拡大)
    ピカソは、キュビスム以来のさまざまな様式や技法を駆使しながら、記憶の中の人物や光景を自由奔放に繋ぎ合わせて、この躍動感のあるパノラミックな情景を構成した。

  • 「アトリエのモデル 」1965年 国立西洋美術館<br />本作品はピカソが晩年の20年余の間没頭した「画家とモデル」の膨大な作品群の一つ。登場する画家たちのなかには絵筆を持ったまま裸でモデルと愛し合う姿で描かれている者もいます。本作品には画家の姿は描かれていませんが、既存の様式をすべて超越したなぐり描きにも似た画面には、ピカソの執念をみる思いがします。

    「アトリエのモデル 」1965年 国立西洋美術館
    本作品はピカソが晩年の20年余の間没頭した「画家とモデル」の膨大な作品群の一つ。登場する画家たちのなかには絵筆を持ったまま裸でモデルと愛し合う姿で描かれている者もいます。本作品には画家の姿は描かれていませんが、既存の様式をすべて超越したなぐり描きにも似た画面には、ピカソの執念をみる思いがします。

  • 「画家とモデル」1970年 ひろしま美術館<br />この作品は、1971年春にパリのルイーズ・レイリス画廊で開かれた「ピカソ-1969年12月15日から1971年1月12日の間のデッサン」展に出展された作品です。約2年間のデッサン194点には、さまざまなテーマの作品が見られますが、1970年7月前半には多くの「画家とモデル」シリーズが描かれました。

    「画家とモデル」1970年 ひろしま美術館
    この作品は、1971年春にパリのルイーズ・レイリス画廊で開かれた「ピカソ-1969年12月15日から1971年1月12日の間のデッサン」展に出展された作品です。約2年間のデッサン194点には、さまざまなテーマの作品が見られますが、1970年7月前半には多くの「画家とモデル」シリーズが描かれました。

  • 「画家とパレット」1963年 笠間日動美術館<br />

    「画家とパレット」1963年 笠間日動美術館

  • 『死者の歌』ピエール・ルヴェルディ著 ポーラ美術館<br />ピカソの版画による挿絵本<br />

    『死者の歌』ピエール・ルヴェルディ著 ポーラ美術館
    ピカソの版画による挿絵本

  • 『死者の歌』

    『死者の歌』

  • 『ピカソのアトリエにて』ジャウマ・サバルテス著<br />ジャウマ・サバルテスは、バルセロナ生まれの詩人、作家でピカソ8歳からの友人でありまた良き理解者。

    『ピカソのアトリエにて』ジャウマ・サバルテス著
    ジャウマ・サバルテスは、バルセロナ生まれの詩人、作家でピカソ8歳からの友人でありまた良き理解者。

  • 『ピカソのアトリエにて』より「カンヌのアトリエ」1956年4月7日

    『ピカソのアトリエにて』より「カンヌのアトリエ」1956年4月7日

  • 「座る男と女」1966 年 個人蔵<br />特別出展された作品です

    「座る男と女」1966 年 個人蔵
    特別出展された作品です

  • 「草上の昼食」1959年 ポーラ美術館<br />紙に描かれた作品は、19世紀印象派の画家マネの油彩画《草上の昼食》をもとにした連作27点のうちの1点です。70代を迎えたピカソは、ロマン主義の大家ドラクロワの《アルジェの女たち》や、17世紀スペインの宮廷画家ベラスケスの《ラス・メニーナス(女官たち)》をもとにした連作も手掛けています。それらはいずれも巨匠たちの代表作であり、ピカソは過去の巨匠と対話にのぞむように、あるいは挑戦するように原画とは異なる表現を試み、構図に大胆な変更を加えて多様なヴァリエーションが生み出されています。《草上の昼食》における4人の男女が森のなかで憩う場面は、マネによる原作では左手の前景で、白い肌をさらす裸婦に視線が惹きつけられるのですが、本作品ではそのシルエットが黒い線で示されるだけにとどまり、むしろ中央のかがみ込む裸婦が、画面に塗り込められた森の緑の表現からのがれ、紙の無垢な白さを生かして強烈な輝きを放っています。この女性のポーズは、とりわけ画家の興味を掻き立てたようで、以後、ピカソの作品にたびたび登場します。

    「草上の昼食」1959年 ポーラ美術館
    紙に描かれた作品は、19世紀印象派の画家マネの油彩画《草上の昼食》をもとにした連作27点のうちの1点です。70代を迎えたピカソは、ロマン主義の大家ドラクロワの《アルジェの女たち》や、17世紀スペインの宮廷画家ベラスケスの《ラス・メニーナス(女官たち)》をもとにした連作も手掛けています。それらはいずれも巨匠たちの代表作であり、ピカソは過去の巨匠と対話にのぞむように、あるいは挑戦するように原画とは異なる表現を試み、構図に大胆な変更を加えて多様なヴァリエーションが生み出されています。《草上の昼食》における4人の男女が森のなかで憩う場面は、マネによる原作では左手の前景で、白い肌をさらす裸婦に視線が惹きつけられるのですが、本作品ではそのシルエットが黒い線で示されるだけにとどまり、むしろ中央のかがみ込む裸婦が、画面に塗り込められた森の緑の表現からのがれ、紙の無垢な白さを生かして強烈な輝きを放っています。この女性のポーズは、とりわけ画家の興味を掻き立てたようで、以後、ピカソの作品にたびたび登場します。

  • 「手を組む女」1959年 ひろしま美術館

    「手を組む女」1959年 ひろしま美術館

  • 1954年、73歳の年に、ピカソは南仏にある陶芸の町ヴァロリスでシルヴェット・ダヴィットと出会いました。彼女は長い金髪をこの時代に流行し始めたポニーテールに束ねた、しなやかな体つきの20歳を迎えた頃の美しい娘でした。ピカソに声をかけられた彼女は、恋人に付き添われてアトリエに出向き、翌年まで幾度かモデルをつとめました。すでに大画家として著名であったピカソを前に、シルヴェットは緊張を強いられたに違いありません。この頃、最後の妻となるジャクリーヌとの恋愛関係にあったピカソは、シルヴェットに対しては父親のように接したといわれます。

    1954年、73歳の年に、ピカソは南仏にある陶芸の町ヴァロリスでシルヴェット・ダヴィットと出会いました。彼女は長い金髪をこの時代に流行し始めたポニーテールに束ねた、しなやかな体つきの20歳を迎えた頃の美しい娘でした。ピカソに声をかけられた彼女は、恋人に付き添われてアトリエに出向き、翌年まで幾度かモデルをつとめました。すでに大画家として著名であったピカソを前に、シルヴェットは緊張を強いられたに違いありません。この頃、最後の妻となるジャクリーヌとの恋愛関係にあったピカソは、シルヴェットに対しては父親のように接したといわれます。

  • 「シルヴェット・ダヴィット」1954年 ポーラ美術館<br />本作品では、身体の各部分が単純で力強い線で表され、黒、白、グレーのモノトーンに色彩を限定することで、シルヴェットの清廉な顔立ちと、泉から流れ出るような豊かな髪が強調されています。

    「シルヴェット・ダヴィット」1954年 ポーラ美術館
    本作品では、身体の各部分が単純で力強い線で表され、黒、白、グレーのモノトーンに色彩を限定することで、シルヴェットの清廉な顔立ちと、泉から流れ出るような豊かな髪が強調されています。

  • 「シルヴェット」1954年 DIC川村記念美術館<br />こわばった面持ちのシルヴェットと一定の距離を保ちながら、ピカソは彼女の魅力的な容姿を凝視し、一連のポートレートをキュビスム、新古典主義といった複数のスタイルで自由自在に描きわけました。<br />

    「シルヴェット」1954年 DIC川村記念美術館
    こわばった面持ちのシルヴェットと一定の距離を保ちながら、ピカソは彼女の魅力的な容姿を凝視し、一連のポートレートをキュビスム、新古典主義といった複数のスタイルで自由自在に描きわけました。

  • それほど混んでおらず、写真を撮りながらゆっくりと見て回ることができました。

    それほど混んでおらず、写真を撮りながらゆっくりと見て回ることができました。

  • 「帽子の女」1962年 ポーラ美術館<br />ピカソは陶芸で有名な町ヴァロリスで、ジャクリーヌ・ロックと1953年頃に出会い、以来、彼女が最後のパートナーとして晩年のモデルを務めました。南仏の女性特有の大きな黒い瞳、高い鼻筋、長い首をもつジャクリーヌは、ピカソが理想とした彫刻的な容貌の女性でした。1961年に彼女と正式に再婚し、翌年には終の棲家となるムージャンのノートル=ダム=ド=ヴィにある古城に移り住み、本作品を含む70点以上のジャクリーヌの肖像画を制作しています。帽子を被り、女王のように堂々と椅子に坐るのはまぎれもなくジャクリーヌです。両目を見開き、長い髪をなびかせた横顔と、正面を向き瞑想する顔が結合されています。この顔の二面性は、ジャクリーヌの存在とともに、彼女を凝視する画家ピカソの存在を強く意識させます。ピカソは晩年に老若男女を奔放に描きつつ、老いた自分自身を厳しく注視しました。すなわちこの肖像画は、ジャクリーヌの像であるとともに、ピカソとジャクリーヌ、画家とモデルという二つの分かち難い存在の結合体といえるでしょう。

    「帽子の女」1962年 ポーラ美術館
    ピカソは陶芸で有名な町ヴァロリスで、ジャクリーヌ・ロックと1953年頃に出会い、以来、彼女が最後のパートナーとして晩年のモデルを務めました。南仏の女性特有の大きな黒い瞳、高い鼻筋、長い首をもつジャクリーヌは、ピカソが理想とした彫刻的な容貌の女性でした。1961年に彼女と正式に再婚し、翌年には終の棲家となるムージャンのノートル=ダム=ド=ヴィにある古城に移り住み、本作品を含む70点以上のジャクリーヌの肖像画を制作しています。帽子を被り、女王のように堂々と椅子に坐るのはまぎれもなくジャクリーヌです。両目を見開き、長い髪をなびかせた横顔と、正面を向き瞑想する顔が結合されています。この顔の二面性は、ジャクリーヌの存在とともに、彼女を凝視する画家ピカソの存在を強く意識させます。ピカソは晩年に老若男女を奔放に描きつつ、老いた自分自身を厳しく注視しました。すなわちこの肖像画は、ジャクリーヌの像であるとともに、ピカソとジャクリーヌ、画家とモデルという二つの分かち難い存在の結合体といえるでしょう。

  • 「母と子」1960年 ポーラ美術館<br />この人物群像は、逆立ちする人と母子像で構成されています。母子像は体の大小の違いが強調され、倒立する人物像の体は積み木のように組み合わせられています。手であり足であるような肢体は、腕と足の位置が入れ替わる倒立回転のシークエンスを暗示し、人物像に軽業師のような不思議な動力を吹き込んでいます。1950年代、ピカソは恋人フランソワーズ・ジローとの間に生まれたクロードとパロマと生活し、彼らが遊びに熱中する姿をつぶさに観察して、子どものような視点を貪欲に創作に取り入れました。子どもと一緒になって広告の紙や木片など身近な品々で人型や動物型の遊び道具を工作することと、彫刻のプロジェクトのための模型を作ることには、いささかも違わなかったのです。子どものような素直な感覚を生かし、既成概念にとらわれず創作に向かう自由な意識を獲得することこそ、80歳を迎えようとしていたこの頃のピカソの関心事でした。

    「母と子」1960年 ポーラ美術館
    この人物群像は、逆立ちする人と母子像で構成されています。母子像は体の大小の違いが強調され、倒立する人物像の体は積み木のように組み合わせられています。手であり足であるような肢体は、腕と足の位置が入れ替わる倒立回転のシークエンスを暗示し、人物像に軽業師のような不思議な動力を吹き込んでいます。1950年代、ピカソは恋人フランソワーズ・ジローとの間に生まれたクロードとパロマと生活し、彼らが遊びに熱中する姿をつぶさに観察して、子どものような視点を貪欲に創作に取り入れました。子どもと一緒になって広告の紙や木片など身近な品々で人型や動物型の遊び道具を工作することと、彫刻のプロジェクトのための模型を作ることには、いささかも違わなかったのです。子どものような素直な感覚を生かし、既成概念にとらわれず創作に向かう自由な意識を獲得することこそ、80歳を迎えようとしていたこの頃のピカソの関心事でした。

  • 「すいかを食べる男と山羊」1967年 ポーラ美術館<br />ピカソは晩年に向かい、男性と女性、画家とモデル、老人と若者、人間と動物などの相反するモティーフを対比的に並べる傾向が顕著となります。それらは神話や寓話、画家の記憶から抽出されて偶然のままに組み合わされていますが、そこに共通するのは、人間の原初的な欲求―食欲や性欲を満たそうとする、野性的なグロテスクと無垢のイメージです。メロン、あるいはスイカを食べる少年は、スペイン絵画の伝統において、キリスト教的な慈悲の対象となる、貧しくも無垢で生命力に溢れる人間像を示しています。草原に座り込みすいかを頬張る少年と山羊を大胆に組み合わせたこの作品は、ピカソがスペインの農村で知った牧歌的な暮らしを想起させます。また山羊はピカソの生活に身近な動物で、南仏のラ・カリフォルニー荘ではペットとして可愛がられた家畜でした。ピカソは、絵の中の少年に、ペットの山羊「エスメラルダ」の傍らで遊ぶクロードら孫たちの屈託のない姿か、もしくは自らの少年時代を重ねているのかもしれません。

    「すいかを食べる男と山羊」1967年 ポーラ美術館
    ピカソは晩年に向かい、男性と女性、画家とモデル、老人と若者、人間と動物などの相反するモティーフを対比的に並べる傾向が顕著となります。それらは神話や寓話、画家の記憶から抽出されて偶然のままに組み合わされていますが、そこに共通するのは、人間の原初的な欲求―食欲や性欲を満たそうとする、野性的なグロテスクと無垢のイメージです。メロン、あるいはスイカを食べる少年は、スペイン絵画の伝統において、キリスト教的な慈悲の対象となる、貧しくも無垢で生命力に溢れる人間像を示しています。草原に座り込みすいかを頬張る少年と山羊を大胆に組み合わせたこの作品は、ピカソがスペインの農村で知った牧歌的な暮らしを想起させます。また山羊はピカソの生活に身近な動物で、南仏のラ・カリフォルニー荘ではペットとして可愛がられた家畜でした。ピカソは、絵の中の少年に、ペットの山羊「エスメラルダ」の傍らで遊ぶクロードら孫たちの屈託のない姿か、もしくは自らの少年時代を重ねているのかもしれません。

  • 「肘かけ椅子に坐る裸婦」1964年 国立国際美術館

    「肘かけ椅子に坐る裸婦」1964年 国立国際美術館

  • 「女の半身像」1970年 ひろしま美術館<br />第二次世界大戦後ピカソは、南仏を転々とした後、45歳年下の2番目の妻、ジャクリーヌ・ロックと最後の住まいとなった南仏ムージャンで生活をはじめます。最晩年になってなお、旺盛な制作意欲をもっており「子供のように描きたい」と望んでいたピカソですが、まさにこの作品ではそれが実現しています。

    「女の半身像」1970年 ひろしま美術館
    第二次世界大戦後ピカソは、南仏を転々とした後、45歳年下の2番目の妻、ジャクリーヌ・ロックと最後の住まいとなった南仏ムージャンで生活をはじめます。最晩年になってなお、旺盛な制作意欲をもっており「子供のように描きたい」と望んでいたピカソですが、まさにこの作品ではそれが実現しています。

  • ミュージアムショップもピカソ仕様<br />図録などを買いました。<br />

    ミュージアムショップもピカソ仕様
    図録などを買いました。

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