2019/04/23 - 2019/04/30
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旅人のくまさんさん
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ペンジケントは、バクトリアの中心地の一つでしたが、722年、アラビアの軍勢に包囲され、以後およそ50年間、その支配を受けました。8世紀末、台地の町は放棄され、人が住まなくなりました。これが現在のペンジケント遺跡です。
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イチオシ
ペンジケント遺跡から眺めた、ペンジケント遺跡の北端部分と、ペンジケントの街の郊外光景です。紀元前330年頃、アレキサンダー大王によって追い散らされたソグド人達は、シルクロード全域に情報網を完成させて挽回を図りました。そして、商取引の一切を独占するまでに発展しました。この後、ソグド人をキーワードに、ペンジケント遺跡を紹介します。関連キーワードは、大唐帝国です。
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国境無き民族のソグド人は、イスラム帝国(アッバース朝:750~1258年)と大唐帝国(618~907年)とを結んで富を蓄え、インドとヨーロッパへも販路を広げて、史上最大の商業ネットワークを完成させました。一つのエピソードとして、唐の玄宗に対し安禄山の乱を起こし、大燕皇帝に即位した安禄山を紹介します。康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血でした。
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ペンジケント遺跡から眺めた、ペンジケントの街並み光景です。緑が多く、高層建築物が見当たらない街並みが広がっていました。安禄山は、突厥や契丹・奚などの諸勢力が混在する地域に育ったことで、六つの言語に堪能でした。初め貿易官に任じられました。ずる賢く、残忍で、機転が効き、人に取り入るのに巧みであったとも伝えられます。
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同じく、ペンジケント遺跡から眺めた、ペンジケントの街並み光景です。玄宗皇帝は、勤政楼の祝宴において玉座の東隣に安禄山を特別に座らせるほどの寵愛ぶりでした。また、楊貴妃の養子になることを請い、それが実現すると入朝して玄宗より先に楊貴妃に拝礼しました。理由を問われると、『私は胡人なので、礼は母を先、父を後にします』と答えました。
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安禄山の答えに、玄宗は大いに喜び、楊貴妃の兄弟姉妹(楊貴妃の3人の姉)に義兄弟となるように命じ、これも実現しましたす。この頃、安禄山は范陽の北に雄武城を築き、同羅(鉄勒の一部)・契丹・奚の騎馬民族出身の曳落河(胡語で勇士の意味)を集め、軍馬や家畜を集めていました。また、胡人の商人を各地に派遣して、毎年、大量の品や衣を納付させていました。
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遺跡から眺めたペンジケントの街並み光景の紹介が続きます。安禄山は、結果として歴史上の敗者ですから、史実でない不利な事柄も織り込まれているかもしれませんが、ウィキペディアを参照しながら、そのままを紹介します。安禄山は、商人たちに引見した時には、生け贄の儀式を行い、女巫に舞わせ、自分を神に擬えさせていました。
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安禄山の振舞いを知った隴右・朔方・河西・河東節度使の王忠嗣が、何度も『安禄山は必ず謀反するでしょう』と上奏しましたが、天宝6年(747年)王忠嗣の方が失脚させられました。よくある歴史の皮肉かも知れません。天宝7年(748年)には、玄宗から武勲を賞する鉄券を与えられました。天宝9年(750年)、東平郡王に任じられ、同年に、河北道采処置使も兼ねました。
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安禄山は天宝10年(751年)、誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を貰いました。入朝して楊貴妃の赤子を演じ、おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗を喜ばせ、宮中に自由に出入りするようになりました。そして、范陽・平盧・河東の三つの節度使を兼ねることとなりました。部下の劉駱谷を長安に留めて情報を収集させ、毎月、献上品を都に届けました。
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ペンジケントの街並み紹介を終えて、遺跡の中の光景に戻ります。遺跡を取り巻く城壁らしい建造物跡が見えていました。玄宗皇帝に対し、宰相の楊国忠が、安禄山が必ず反乱を起こすという上奏を、何度も行ないました。 天宝12年(753年)、皇太子の李亨が再度安禄山の危険性を伝えますが、玄宗は聞き入れませんでした。また、安禄山の従兄である安思順も謀反を訴えていたようです。
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天宝13年(754年)、正月に華清宮で玄宗皇帝に謁見し、宰相の楊国忠から迫害されていることを訴えたようです。安禄山を訴える者は、玄宗の怒りを買い、縛り上げられて安禄山の元に搬送されました。宰相となるように運動しましたが、楊国忠に阻まれました。この頃、安禄山が謀反を決心したとする説があります。その後、玄宗からの使者に対しても尊大な態度をとり、監禁も行いました。
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天宝14年(755年)11月、玄宗皇帝より逆賊の楊国忠を討てとの密使を受けたと称し、安禄山は反乱を起こしました。同羅・契丹など15万人の兵を20万と称して洛陽へ進軍、各地がその勢力下に帰属させられました。河北の諸郡は全て降伏しました。玄宗は初めは信じませんでしたが、謀反と知ると、安禄山の長男である安慶宗と妻の康氏を処刑し、高仙芝・封常清らの武将に迎撃を命じました。
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至徳元年(756年)正月、安禄山は、洛陽で雄武皇帝として即位し、国号を燕とし、元号を『聖武』としました。安慶緒を晋王などに任じました。玄宗は長安を捨てて蜀の地へ逃亡し、途中で楊国忠は唐の兵士に殺されました。安禄山の将は略奪に夢中になったため、玄宗と皇太子の李亨の追撃を行いませんでした。そのため、唐側は態勢を立て直すのに成功したと伝えられます。
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安禄山は、教坊や梨園にいる楽人や舞馬・犀・象を集めて、洛陽に送らせ、孫孝哲に命じて、民間のものまで全て略奪させました。そのため、関中の豪族たちが唐側につ付き、決起しました。河北では書家としても有名な顔真卿が抵抗を続け、南では張巡の守る雍丘を陥落できない状況が続来ました。顔真卿は私の好きな書家の一人で、西安の碑林で晩年の書の石碑を目にした時、本当に感激しました。
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二つ並んだ壁のような遺跡の光景です。遠くからでも日干しレンガを積んだものであることが確認できました。安禄山の話題に戻ります。至徳2年(757年)正月、目が悪くなっていた安禄山は、この頃に失明したようです。結局、身内に暗殺され、緘口令が敷かれました。安禄山は太上皇とされた後、喪をされました。安禄山が皇帝を名乗って1年、55歳でした。
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二つ並んだ壁のような遺跡のズームアップ光景です。日干し煉瓦が積まれていることがはっきりわかりました。安禄山は、『旧唐書』、『資治通鑑』などで随所にその狡猾さ、残忍さが指摘されていますが、彼の配下だった後に、唐に降伏して魏博節度使となった田承嗣が、安禄山・安慶緒・史思明・史朝義を『四聖』として祀っています。
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『拝火教(ゾロアスター教)』の寺院跡とされる遺跡の光景です。安禄山が活動した時代は、日本では第45代の聖武天皇(701~756年)在位の奈良時代でした。安禄山は、『大燕聖武(せいぶ)皇帝』として伝わりました。また鎌倉時代の『平家物語』の序文では、秦の趙高、前漢の王莽、南朝梁の朱异とともに奸臣の代表として列挙されました。
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イチオシ
通路脇にあった、保存状態の良い建物跡らしい遺物の光景です二つか三つに区切られた空間が残っていました。イメージ的には、住居ではなく、倉庫当たりのようでした。話は逸れてしまいますが、中学時代に吉川英治さんの『新平家物語』を全巻読みましたが、その有名な序文は今でも諳んじています。祇園精舎の鐘の声で始まり、遠く異朝をとぶろう(訪ねる)に『秦の趙高』の部分までです。
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角度を変えて眺めた遺物の内部光景です。4面の内の1面に、出入口らしい構造が残っていました。空間の広さに比べて、壁厚がかなり大きい造りに見えます。最後に、安禄山のことを、ソグド人の混血の面から、整理しておきます。現代の研究家からは、商業を重視していた記録など、ソグド人や遊牧民族によくみられる文化や思想を持ち、漢民族と異なる点が注目されているようです。
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同じく現代の研究家からは、安禄山は、古典的な評価を否定できないとしながらも、そのたくましさ、不幸な生い立ち、巧みな世渡りと機転、鮮やかな昇進ぶりなどを肯定的に評価されることも多いようです。商社の側からだけでは読み解けない、歴史の面白さも隠されているようです。日本では、西郷隆盛が安禄山に例えられた時代がありました。
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遺跡に散らばった、少し大きな石の数々です。もし建造物の一部であれば、すでに発掘調査が済んだ場所かも知れません。日本で例えれば、石垣の石程度の大きさのようです。加工したらしい跡が見える石もありました。
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春のお花畑のピクニックの光景に戻ります。発掘調査が済んだ後に生えてきた野草のようです。ソグド人と安禄山、大唐帝国をキーワードにした説明から、『ソグド人』と『ペンジケント』をキーワードにした説明に変えます。この地はタジキスタンの『ソグド州』になりますが、ずばりソグド人に関連します。また、『ソグディアナ』と呼ばれる地方の一部にもなります。
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『ソグディアナ』は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とする、ザラフシャン川流域地方の古名です。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当する区域です。ソグド人に因む、ギリシャ語・ラテン語の名称とされます。トランスオクシアナとも呼ばれ、中国の歴史書には『粟特』と記されています。
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『ソグディアナ』は、もともとイランとの政治的・文化的な繋がりが深く、アケメネス朝時代(紀元前550年~紀元前330年)の紀元前6世紀には、ペルシア帝国に併合されてその地方州となりました。この時、ソグディアナにアラム文字が持ち込まれ、のちにソグド語がアラム文字で表記されました。アラム文字は、かつての中東の国際語で、中東系文字の大部分は、この文字から派生しました。
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『ソグディアナ』は、アケメネス朝(紀元前550年~紀元前330年)の滅亡後は、マケドニア王国(紀元前808年~紀元前313年分裂~紀元前168年)のアレキサンダー大王に征服され、その死後は南に位置するバクトリアの地方州とされました。 バクトリアは、ヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する、中央アジアの歴史的な領域の古名です。
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バクトリアの領域では、かつてグレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃~紀元前130年頃)などが栄えました。 バクトリア地方は、現在のイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部に当たります。
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ペンジケントは、バクトリアの中心地の一つでしたが、722年、アラビアの軍勢に包囲され、以後およそ50年間、その支配を受けました。8世紀末、台地の町は放棄され、人が住まなくなりました。これが旧市街のペンジケント遺跡です。
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最後は、遺跡巡りというより、花咲く草原のピクニックのような写真になりました。花の名前は分かりませんでしたが、薄紫色のお花畑でした・
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イチオシ
これでペンジケント遺跡紹介はおしまいです。冬枯れの時の方が遺跡は、もっと見やすかったかもしれませんが、花の季節のピクニックのような遺跡見学も悪くありませんでした。
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野菜や果物がたっぷりだったカバブーのお店の配膳光景です。各種のパンも先に提供されていました。旅行計画書には、『タジク料理』と紹介されていた昼食です。合格点のお店でした。串焼きのケバブは、日本ではインド料理のシークカバブが早くに紹介され、それがトルコ風に訛った『シシカバブー』の名前で親しまれてきました。
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カバブーのお店の看板光景です。カバブの文字のようです。トルコなどのイスラム教国の場合、ケバブには主に羊肉、牛肉、鶏肉が使われ、魚肉も使われることがあるようです。ウズベキスタンもイスラムの国ですから、牛肉や山羊肉が使われていました。ヒンドゥ教のインドでは、牛肉は使われず、羊肉や山羊肉が使用されるようです。
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