2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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勝瑞城館跡は、旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接し、現在は吉野川の本支流に囲まれた平野の低湿地帯中央部に位置する城跡です。
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勝瑞城跡の見性寺の境内にあるお墓の光景です。左側が、勝瑞城主だった三好氏の累代のお墓、右に見えるのは子安地蔵尊です。
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ほかのお墓よりは一段低い場所にあったお墓の光景です。周りは本瓦を載せた白塀で囲われ、扉は締め切られていました。撮影した写真を後で拡大しましたら、五輪塔には、『妙法蓮華経』の五文字と、その下に『三好家の墓』の文字が読み取れました。
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先ほど紹介した三好家のお墓の南面の白塀と、更にその南側の土手と堀の光景です。城跡の敷地に堀が並行し、その先に、現在の出入口になっている土橋が見えました。見性寺は、江戸時代中期に三好氏歴代の墓を一箇所に移転してきたとのネット解説もありました。(ウィキペディア)
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『土塁』のタイトルがあった、4枚のタイル仕立ての説明看板です。平成9年(1997年)の発掘調査で、『上幅13メートルの堀や、基底部幅2.5メートル、高さ2.5メートルの土塁が確認された』と、現地入手のパンフレットに記述されていました。
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発掘調査された場所とは違うかもしれませんが、土塁跡の雰囲気が残る城跡の敷地の端の部分の光景です。堀と土塁の発掘調査の際、土塁の法面から大量の瓦が出土したことも紹介されていました。
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イチオシ
勝瑞城址の敷地側から眺めたお堀の光景です。近年に行われた発掘調査によれば、、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されています。中富川の戦いは、天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いです。
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勝瑞城址の敷地の西側にあった、土塁跡のような光景です。天正10年(1582年)5月、織田信長は三好康長を先鋒、三男の織田信孝を主将として四国攻めの兵を起こし、このため既に阿波侵攻を進めていた元親は一時兵を退いていました。しかし本能寺の変により後ろ盾である信長を失った康長は、阿波を捨てて退却しました。長宗我部氏にとっては阿波攻略の絶好の機会が訪れた、中富川の戦いでした。
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竹が生い茂っていた、勝瑞城址の西側方面の光景です。見性寺本堂よりも北側に位置する場所です。藪どぇしたから、中に踏み入ることはできませんでした。下草のように生えていたのは、ハラン(葉蘭)でした。バランとも呼ばれます。ところで、中富川での戦いでは、十河存保軍に属していた織田信長上洛以降の1570年(元亀元年)から活躍した城主の殆どが戦死しました。
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勝瑞城址の西北付近のお堀の光景です。この辺りの堀幅は、かなり広いようです。発掘調査時の14メートル幅は十分にあるようです。ただし、水深が浅く、境界がはっきりしない沼地のような光景でした。
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同じ場所から眺めた、東北方面のお堀の光景です。この辺りも底が浅い沼地のような光景でした。発掘調査の写真を見ますと、元々の地盤自体がかなり低いようにも見えましたから、現在の堀の幅も、深さもあまり参考にはならないようです。。
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長宗我部軍によって破却された勝瑞城は、徳島城築城の際に石塁や遺構の多くが持ち運ばれたという伝承が残っています。現在の勝瑞城址の規模では、その伝承も不釣り合いで、勝瑞城館跡が城の本体であったと考えた方がしっくりします。その意味で、勝瑞城跡は、詰めの城であったとする近年の説に賛同したくなります。
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勝瑞城跡の見学を終えて、出口に向かう途中の光景です。まだ勝瑞城跡内の光景です。1994年(平成6年)に行われた発掘調査では、城は16世紀末に造られ、短期間のうちに廃城となったことが明確になったようです。このことでも、『中富川の戦いの時に急造された詰めの城』との説が補完されたようです。
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南側から眺めた、『勝瑞城跡』の西面の光景です。城跡の敷地面一杯に樹木が生い茂っていました。敷地に廻らされた堀の水の効果かもしれません。
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『勝瑞城跡』の見学を終えて、次の『勝瑞館跡』の見学に向かう途中、もう一度振り返って撮影した『勝瑞城跡』の光景です。
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ここからは、国指定の同じ史跡ですが、『勝瑞館跡』の紹介です。大掛かりな発掘調査が行われいる最中でした。この居館の構造、出土遺物の質や量から、三好実休(1527?~1562年)の居館跡と推定されているようです。戦国武将の三好三好元長の次男として生まれました。
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『勝瑞館跡』の発掘調査現場に掲示してあった説明看板の光景です。左のパネルには、『勝瑞館跡「発掘調査のあゆみ」』、右のパネルは、その続きです。この後もう少し詳しく紹介します。
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次に紹介する2枚のパネルも、『勝瑞館跡「発掘調査のあゆみ」』の続きです。こちらも、この後もう少し詳しく紹介します。
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ズームアップして再掲した、『勝瑞館跡「発掘調査のあゆみ」』のパネルです。平成6年(1994年)、最初に発掘調査が行われたのが、右上に写真がある『勝瑞城跡』です。その発掘調査の途中で、南側にも遺跡があることが分かりました。それが、左上の地図に記された『勝瑞館跡』の部分です。下の写真は、『勝瑞館跡』に建っていた鉄工所の紹介です。
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2枚目にズームアップしたパネルは、6枚の写真で紹介されていた、『勝瑞館跡』の発掘調査現場です。最上段の2枚の写真は、発掘調査かえの長尾鉄工所構内です。中段の写真が工場の協力により平成9年(1997年)に始まった発掘調査の状況です。最下段の写真は、順調な発掘調査で遺物が多数見つかり、長尾鐵工所の敷地が国有化された時の写真です。
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3枚目にズームアップしたパネルも6枚の写真で紹介されていましたが、火との後ろから撮影しましたので如湯気が切れてしまいました。最上段の写真が、いs機内の建物が撤去され、本格的な発掘調査に入った時の状況です。中断と花壇の写真は、区域を幾つかに分割し、本格的な発掘調査が行われている最中の状況です。
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4枚目にズームアップした最後のパネルは、発掘調査が終わった後は埋め戻され、遺跡の保護がされている状況の写真です。左下に、地図上に記された勝瑞城跡と勝瑞館跡の写真が、右下に、新しく建てられた『史蹟・勝瑞城館跡』の石標の写真がありました。発掘調査は、現在も継続されています。
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イチオシ
10メートル近く掘り下げられたように見えた、発掘調査中の『勝瑞館跡』の現場光景です。梅雨時などは、排水作業が大変なように見えました。
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同じく、10メートル近く掘り下げられたように見えた、発掘調査中の『勝瑞館跡』の現場光景です。発掘調査は、最後は人手による細かな作業も必要なようですから、この規模ですと長年月がかかってしまうのは不可避のようです。
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発掘調査が完了し、埋め戻された跡の光景です。大規模な発掘調査であったことが一目瞭然の光景でした。北側から南側方面を眺めた光景になります。は椅子のためでしょうか、緩い勾配が設けてありました。
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『濠跡(ほりあと)・礎石建物跡(そせきたてものあと)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。永禄7年(1565年)5月24日の日付けが入った卒塔婆や、『古松丸』の名前が入った硯の出土状況や、木橋が架かったらしい場所の検出状況などが説明されていました。
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『濠跡(ほりあと)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査では、大規模な濠が検出されました。このことで、『勝瑞城館』は、濠で区画された複数の曲輪で形成されていることが分かってきました。下に掲示された写真は、濠の粘土質層から検出された出土品の数々です。
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発掘調査が完了し、埋め戻された跡の光景です。大規模な発掘調査であったことが一目瞭然の光景でした。南側から北側方面を眺めた光景になります。先に紹介した写真とは反対側からの光景です。
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イチオシ
発掘調査での礎石などの位置を踏まえて再建された建物の光景です。屋根と床の一部は再建亜sれていましたが、壁は省略されていました。サロン的な役割を果たした会所であったことが想定された建物です。
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『礎石建物跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。最大で南北七間、東西四間半の建物礎石の紹介です。礎石には、30~50センチの左岸が使われていあmした。右上の写真は、CGで再現された予想建物図です。左側の図面の赤い部分は、焼けた壁土跡です。16世紀末頃に焼失した建物であることが特定できたようです。長曾我部氏による制圧時期と一致するようです。
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発掘作業が済んだ庭園部分御光景かも知れません。埋め戻しだけではなく、庭木も植栽されていました。
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