2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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和歌山城は,和歌山市の中心部に位置する標高48.9メートルの虎伏山に築造されました。北部を流れる紀の川を天然の堀とした梯郭式平山城です。本丸の北側に二の丸、その外に三の丸が配されています。
- 交通手段
- 観光バス 船
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ホテルを定時に観光バスで出発し、和歌山城に到着しました。そのバス駐車場の光景です。ここで、先に和歌山城の略史について紹介しておきます。安土桃山時代の1585年(天正13年)、豊臣秀吉の弟・秀長は紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増されました。当時は『若山』と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら『吹上の峰』を城地に選定し、縄張りを行いました。
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和歌山城の略史紹介の続きです。築城の普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させました。この時に『和歌山』と改められました。1586年(天正14年)、秀吉は桑山重晴(1524~1606年)に3万石を与え城代に据えました。重晴は本丸を中心に手直しを行いました。1596年(慶長元年)、重晴の隠居に伴い孫の一晴が城代を継ぎました。
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かなりの大きさに成長した、ソテツ(蘇鉄)の光景です。江戸時代以前には、かなり高価な樹木だったようです。和歌山城の略史紹介が続きます。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴(1575~1604年)は、正式に紀伊和歌山に2万石を与えられましたが、まもなく大和新庄藩に転封となりました。一春は、桑山一重(1557~1582年)の長男で、桑山重晴の嫡孫です。
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その後の和歌山城は、東軍に属した浅野幸長(1576~1613年)が、軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城しました。幸長も引き続き城の改修を行いました。慶長16年(1611年)、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させ、ともに警備を行いました。清正が亡くなったのが慶長16年6月、幸長が亡くなったのが慶長18年8月でした。ともに暗殺説があります。
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和歌山城本丸の石垣と長塀の光景です。江戸時代の徳川御三家の前の城主は、
○桑山家初代(1586~1596年):桑山重晴(しげはる):秀長の城代
○桑山家二代(1596~1600年):桑山一晴(かずはる):秀長の城代
○浅野家初代(1600~1613年):浅野幸長(ゆきなが)
○浅野家二代(1600~1613年):浅野長晟(ながあきら)、の四代でした。 -
和歌山城本丸の天守と長塀の光景です。元和5年(1619)には、徳川家康の第10男の頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となりました。以来、水戸家、尾張家と並び、徳川御三家の一つとして、長い歴史を刻見ました。殊に、紀州藩第5代藩主(1705~1716年)の徳川吉宗は、江戸幕府の第8代将軍(1716~1745年)を務めました。
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お堀の外から眺めた、和歌山城天守のズームアップ光景です。紀州徳川家の初代藩主(1619~1667年)は、 徳川頼宣(よりのぶ)公、明治維新を迎えた時の藩主は第14代(1858~1871年)、徳川茂承(もちつぐ)公でした。茂承公は、明治2年(1869年)6月に和歌山藩知事となり、辞職後、明治17年(1884年)7月に侯爵を叙爵されています。
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お堀を渡る時に遠望した天守閣の光景です。その手前に、」お堀に架かった御橋廊下が見えていました。御橋廊下は、藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸を繋ぐ傾斜のある橋です。藩主が移動するのを目視できないよう、壁付になっています。
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イチオシ
少しだけズームアップした、天守閣と、御橋廊下の光景です。御橋廊下は、江戸時代の図面をもとに復元されています。帰り道に渡ることが出来ましたが、思った以上に傾斜がありました。
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大天守だけのズームアップ光景です。天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものです。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられています。
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イチオシ
更にズームアップした大天守の光景です。天守は国宝(旧国宝)に指定されていましたが、和歌山大空襲で焼失しました。現在の天守は、1850年(嘉永3年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と『御天守御普請覚張』を参考にして、1958年(昭和33年)に再建されたものです。
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先程の場所から、城内を少し移動しての撮影です。内堀と石垣の光景です。この場所からも天守と御橋廊下が見えました。御橋廊下の右側(西側)が『西の丸』、左側が『二の丸』になります。
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城内の樹木の黄葉光景です。左手にホテルらしい造りの高層建築が見えました。ネット検索しましたら、超高層ビルの『ダイワロイネットホテル和歌山』でした。改めて写真をズームアップしましたら、その名前が読み取れました。
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かつての『二の丸』と『三の丸』の中間にあるお堀付近の光景が続きます。お城の内側になる『二の丸』の北に位置するお堀ですから、『北内堀』とも呼ばれているようです。
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鏡のような内堀の光景です。城内の紅葉がその姿を写し込んでいました。『一の橋』の北側の袂付近から眺めた西側方面の光景です。石垣は、『二の丸』の北面になります。
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『北内堀と石垣上の櫓』のタイトルがあった、和歌山城史跡解説板の光景です。右上の写真が『紀之國名所図会』の中の『大手御門辺の図』、左下の写真が、明治初年に撮影された、左奥から駿河櫓、物見櫓と多門の光景です。
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上の方が隠れてしまいましたが、『史跡・和歌山城』らしい文字が刻まれた石標の光景です。石垣造りの、しっかりとした土台の上に建てられていました。
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橋の北側の袂から眺めた、『一の橋』の光景です。太鼓橋とは表現できませんが、緩い円弧を描いた橋の造りでした。江戸期以前には『北ノ橋』と呼ばれていましたが、江戸時代には『市ノ橋』に改められ、更に『一の橋』の呼び名に代わりました。
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橋の北側の袂から眺めた、『一の橋』の西側方面の光景です。門に繋がる多門があり、更にその右側(西側)には、高石垣が続きます。かつては、月見櫓が置かれていたようです。
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橋の北側の袂の東側から眺めた、『一の橋』の東側方面の光景です。こちらにも門に繋がる多門がありました。
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『史跡・和歌山城』のタイトルがあった説明看板の光景です。昭和6年(1931年)3月、国の史跡に指定されたことなどを記した和歌山市名での看板でした。指定以後の変遷などを踏まえた記載でした。
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『史跡・和歌山城』のタイトルがあった説明看板の中の図面のズームアップ光景です。『和歌山御城内惣御絵図』のタイトルがあった縄張図です。下向きに北側の方向表示がありました。現在位置が一の橋の袂に赤く記されていました。
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『一の橋と大手門』のタイトルがあった、和歌山城史跡解説板の光景です。『一の橋』は、浅野時代に築かれ、徳川御三家時代にも踏襲された大手門の橋です。徳川御三家時代の初めには、『市之橋』と『一之橋門』の呼び名でしたが、寛政8年(1769年)に、『一の橋』と『大手門』の呼び名に改まったことが紹介されていました。
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左が和歌山県立博物館、右が和歌山県立近代美術館の案内看板です。この後紹介する『和歌山城・周辺案内図』を参照しましたら、二つの施設とも、城跡の西南に隣接する場所にありました。
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イチオシ
外側から眺めた、高麗門形式の『大手門』の光景です。間口が約11メートルの規模の門です。門を潜った先が二の丸エリアになります。
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『大手門と一の橋』のタイトルがあった説明立札の光景です。大手門は、明治42年(1909年)に倒壊しましたが、現在の紋は昭和59年(1983年)に再建された門であることなどが紹介されていました。
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昭和58年(1983年)に、古写真などを基に再建された『大手門』の光景です。内側から眺めた高麗門形式の門の光景です。高麗門は、その名前からも想像されるように、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門です。
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大手門から入って右手のクス(楠、樟)の大木の光景です。推定樹齢は500年程とされ、和歌山県の天然記念に指定されています。 写真掲載は省略しましたが、『一の橋の樟樹』のタイトルがありました。昭和33年(1958年)3月の県文化財(天然記念物)の指定です。
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大手門から入って右手の楠の大木と石垣の光景です。和歌山城の石垣は、豊臣秀長の時代は緑色片岩を中心とした自然石をそのまま積んだ『野面積み』、浅野幸長の時代には、友ヶ島等に石切場を整備して加工した、『打込み接ぎ』、 徳川期には熊野の花崗斑岩を用いた『切込み接ぎ』の石垣が積まれています。この石垣は、『打込み接ぎ』のようです。
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『和歌山城・周辺案内図』のタイトルがあった、まだ新しい案内看板の光景です。城址部分がカラーで、周辺部がモノトーンで表され、施設名などが文字書きされていました。方向表示がされていませんでしたが、この地図の北側は、下側になるようです。
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