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現在の大阪城がある場所には石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失しました。『信長公記』によれば、信長はこの立地を高く評価し、跡地に更に大きな城を築く予定だったようです。

2017暮、大阪湾の名城(41/42):12月7日(14):大阪城(4/5):山里口出枡形、刻印石広場

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2017/12/05 - 2017/12/07

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

現在の大阪城がある場所には石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失しました。『信長公記』によれば、信長はこの立地を高く評価し、跡地に更に大きな城を築く予定だったようです。

交通手段
観光バス
  • 東北側から眺めた大阪城天守の光景です。こちら側からの見学に足を運ぶ人は、かなり少ないようでした。樹々の青葉が茂った時期には、お城の姿も半分ほどは隠れてしまいそうです。

    東北側から眺めた大阪城天守の光景です。こちら側からの見学に足を運ぶ人は、かなり少ないようでした。樹々の青葉が茂った時期には、お城の姿も半分ほどは隠れてしまいそうです。

  • 大阪城天守台の東北の石積のズームアップ光景です。大きな石を使った見事な算木積でした。その周りも、切込み接ぎに近い、整った仕上げの打込み接ぎでした。

    大阪城天守台の東北の石積のズームアップ光景です。大きな石を使った見事な算木積でした。その周りも、切込み接ぎに近い、整った仕上げの打込み接ぎでした。

  • 『帝國陸海軍史研究会』の名前でアップされていたネット情報には、『米軍による大阪空襲の際、1トン爆弾の爆発によってずれてしまった石垣で、現在はコンクリートで補強されている。石垣の下の方は、焼けた跡が今も残っている』と紹介されていました。石積や地盤の問題ではなく、第二次大戦時の石垣の傷痕でした。

    『帝國陸海軍史研究会』の名前でアップされていたネット情報には、『米軍による大阪空襲の際、1トン爆弾の爆発によってずれてしまった石垣で、現在はコンクリートで補強されている。石垣の下の方は、焼けた跡が今も残っている』と紹介されていました。石積や地盤の問題ではなく、第二次大戦時の石垣の傷痕でした。

  • 立入り禁止になっていた、天守閣より東側の小山の光景です。そのフェンスには、『大阪市水道局』名の告示表示がありました。大阪城全体が大阪城の管理下にあるようです。

    立入り禁止になっていた、天守閣より東側の小山の光景です。そのフェンスには、『大阪市水道局』名の告示表示がありました。大阪城全体が大阪城の管理下にあるようです。

  • 本丸エリアらしいこの通りのグランドレベルは、左下の『山里丸』より一段高くなっているようでしたが、下方を覗ける場所が見当たりませんでした。石垣の最上部の施設に並行して、立入り禁止の石柵が伸びていました。

    本丸エリアらしいこの通りのグランドレベルは、左下の『山里丸』より一段高くなっているようでしたが、下方を覗ける場所が見当たりませんでした。石垣の最上部の施設に並行して、立入り禁止の石柵が伸びていました。

  • 江戸時代や現在の縄張り図を見ても、場所や施設の名粗油は分かりませんでした。少なくとも、現在は大阪市水道局が管理する敷地には間違いがないようでした。

    江戸時代や現在の縄張り図を見ても、場所や施設の名粗油は分かりませんでした。少なくとも、現在は大阪市水道局が管理する敷地には間違いがないようでした。

  • 本丸エリアの東北にある、不思議な空間の紹介が続きます。『大阪城付近の浄水施』等のキーワードで検索しましたら、日経新聞の記事の『大手前配水池』がヒットしました。天守閣に近い小高い丘の地下には、『コンクリート製の巨大貯水槽(縦30メートル、横60メートル、深さ7メートル)が三つ埋まっている』と紹介されていました。有効貯水量は計3万3700立方メートルです。

    本丸エリアの東北にある、不思議な空間の紹介が続きます。『大阪城付近の浄水施』等のキーワードで検索しましたら、日経新聞の記事の『大手前配水池』がヒットしました。天守閣に近い小高い丘の地下には、『コンクリート製の巨大貯水槽(縦30メートル、横60メートル、深さ7メートル)が三つ埋まっている』と紹介されていました。有効貯水量は計3万3700立方メートルです。

  • 本丸敷地の東北角が前方に見えてきました。江戸時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』があった場所とされます。本丸高台の東北角に位置する三層の櫓でしたが戊辰戦争時の火災で焼け落ちました。豊臣時代の天守があった場所の近くになるようです。北側には、昭和初期の本丸公園化の際に作られたコンクリート製のベンチが設置されましたが、荒れ果てていました。

    本丸敷地の東北角が前方に見えてきました。江戸時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』があった場所とされます。本丸高台の東北角に位置する三層の櫓でしたが戊辰戦争時の火災で焼け落ちました。豊臣時代の天守があった場所の近くになるようです。北側には、昭和初期の本丸公園化の際に作られたコンクリート製のベンチが設置されましたが、荒れ果てていました。

  • 本丸敷地の東北角にあった地蔵堂の光景です。徳川時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』跡に祀られたお地蔵さんです。豊臣時代から徳川時代に変遷した時期に、この地で亡くなった人達を慰霊して祀ったものかもしれません。

    イチオシ

    本丸敷地の東北角にあった地蔵堂の光景です。徳川時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』跡に祀られたお地蔵さんです。豊臣時代から徳川時代に変遷した時期に、この地で亡くなった人達を慰霊して祀ったものかもしれません。

  • 徳川時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』跡に祀られたお地蔵さんのズームアップ光景です。左端に置かれた白いパネルに、『無縁仏回向供養塔』の文字がありました。大阪城築城以来、多くの亡くなった人達を供養したものでした。

    徳川時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』跡に祀られたお地蔵さんのズームアップ光景です。左端に置かれた白いパネルに、『無縁仏回向供養塔』の文字がありました。大阪城築城以来、多くの亡くなった人達を供養したものでした。

  • この三柱の祭神は、昭和6年(1931年)の天守閣復興工事にかかわった大林組関係の人達が、一人の怪我人も出すことなく工事を終えたことに感謝して白龍大神を祀ったものとされます。現在も大林組関係の方々が祭祀を続けられているようです。

    この三柱の祭神は、昭和6年(1931年)の天守閣復興工事にかかわった大林組関係の人達が、一人の怪我人も出すことなく工事を終えたことに感謝して白龍大神を祀ったものとされます。現在も大林組関係の方々が祭祀を続けられているようです。

  • 徳川時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』跡付近から振り返って眺めた、西方向の光景です。落葉が進んだ、黄葉の木が通路を覆っていました。この通りでは、撮影中に行き交う人は皆無でした。

    徳川時代の『糒櫓(ほしいやぐら)』跡付近から振り返って眺めた、西方向の光景です。落葉が進んだ、黄葉の木が通路を覆っていました。この通りでは、撮影中に行き交う人は皆無でした。

  • 本丸跡の東北付近から、南方向を眺めた光景です。倒木の木が道を塞ぎ、その手前に通行止めの表示がありました。大勢の観光客が集まる大阪城の中に、このような光景があるのは意外でした。倒木は、長い年月を経ているようにも見えました。推測ですが、国の特別史跡に指定されているために、倒木処置の手続きが面倒なのかも知れません。

    本丸跡の東北付近から、南方向を眺めた光景です。倒木の木が道を塞ぎ、その手前に通行止めの表示がありました。大勢の観光客が集まる大阪城の中に、このような光景があるのは意外でした。倒木は、長い年月を経ているようにも見えました。推測ですが、国の特別史跡に指定されているために、倒木処置の手続きが面倒なのかも知れません。

  • 東北側から眺めた、大阪城天守閣の光景です。先ほど紹介した日経新聞の貯水施設の記事は、撮影したカメラマン余話に、『国内外の観光客でにぎわう天守閣そばの一等地ながら、固く閉ざされ人影のない一画がある。鉄柵が隔てる小高い丘に許可を得て入り、小型無人ヘリを飛ばした。天守閣の屋根より少し上がったところで、うっそうとした木に囲まれた広い芝生が全貌を現した』と紹介されていました。

    東北側から眺めた、大阪城天守閣の光景です。先ほど紹介した日経新聞の貯水施設の記事は、撮影したカメラマン余話に、『国内外の観光客でにぎわう天守閣そばの一等地ながら、固く閉ざされ人影のない一画がある。鉄柵が隔てる小高い丘に許可を得て入り、小型無人ヘリを飛ばした。天守閣の屋根より少し上がったところで、うっそうとした木に囲まれた広い芝生が全貌を現した』と紹介されていました。

  • 本丸エリアの西北端の方にあった樹木の紅葉光景です。紅葉が綺麗なハゼノキのようでした。ウルシ科ウルシ属の落葉小高木です。本丸エリアからも眺めた紅葉の木でした。

    イチオシ

    本丸エリアの西北端の方にあった樹木の紅葉光景です。紅葉が綺麗なハゼノキのようでした。ウルシ科ウルシ属の落葉小高木です。本丸エリアからも眺めた紅葉の木でした。

  • 西北付近から見上げた穂天守閣の光景です。1階部分には、要所に石落しが施設されていました。西面には、その数が4箇所です。

    西北付近から見上げた穂天守閣の光景です。1階部分には、要所に石落しが施設されていました。西面には、その数が4箇所です。

  • 江戸時代に築かれた大阪城天守台の光景です。西面のす層の部分です。庭石ではなく、残念石らしいものが置かれていました。周りに松の庭木がありますから、今は庭石の役割を果たしているようです。

    江戸時代に築かれた大阪城天守台の光景です。西面のす層の部分です。庭石ではなく、残念石らしいものが置かれていました。周りに松の庭木がありますから、今は庭石の役割を果たしているようです。

  • 自由見学の後の再集合場所に向かう途中の光景です。『金蔵』付近での再集合でした。再集合の跡、バス駐車場に向かう途中、全員で秀頼公と淀君が自裁した碑がある場所に立寄ることになりました。

    自由見学の後の再集合場所に向かう途中の光景です。『金蔵』付近での再集合でした。再集合の跡、バス駐車場に向かう途中、全員で秀頼公と淀君が自裁した碑がある場所に立寄ることになりました。

  • 『天守下仕切門跡』と『山里口出桝形』が見えている場所のようですが、その詳しい構造は分かりませんでした。奥に見える石垣が仕切門跡、手前の石垣が『山里口出桝形』かもしれません。

    イチオシ

    『天守下仕切門跡』と『山里口出桝形』が見えている場所のようですが、その詳しい構造は分かりませんでした。奥に見える石垣が仕切門跡、手前の石垣が『山里口出桝形』かもしれません。

  • 同じ場所からズームアップした天守閣の光景です。奥に見える石垣の東端(左端)が天守台に接し、手前の石垣は虎口の石垣の西面のように見えました。

    同じ場所からズームアップした天守閣の光景です。奥に見える石垣の東端(左端)が天守台に接し、手前の石垣は虎口の石垣の西面のように見えました。

  • 『山里口出桝形』のタイトルがあった説明看板の光景です。本丸と山里丸を結ぶ場所に設けられた、徳川時代の枡形と紹介されていました。『出桝形』と呼ばれるのは、本丸側から山里丸側に突き出して設けられた桝形のためです。

    『山里口出桝形』のタイトルがあった説明看板の光景です。本丸と山里丸を結ぶ場所に設けられた、徳川時代の枡形と紹介されていました。『出桝形』と呼ばれるのは、本丸側から山里丸側に突き出して設けられた桝形のためです。

  • 切込み接ぎの石垣ですが、なぜか大きくゆがんでいました。天守台の東北付近や、西南付近と同じように。第二次大戦時の被災があった場所かもしれません。

    切込み接ぎの石垣ですが、なぜか大きくゆがんでいました。天守台の東北付近や、西南付近と同じように。第二次大戦時の被災があった場所かもしれません。

  • 『本丸』の北西付近から、『山里丸』に向かう長いスロープです。かつての城址の通路では、大勢の韓国客が通過するのが困難との判断で設けられた通路のようでした。十分な横幅がありました。

    『本丸』の北西付近から、『山里丸』に向かう長いスロープです。かつての城址の通路では、大勢の韓国客が通過するのが困難との判断で設けられた通路のようでした。十分な横幅がありました。

  • 先程のスロープで下って来た上下差はは、この石垣の高さに相当するようです。南側の本丸エリアと、北側の山里丸エリアの境界にある高石垣です。

    先程のスロープで下って来た上下差はは、この石垣の高さに相当するようです。南側の本丸エリアと、北側の山里丸エリアの境界にある高石垣です。

  • 頭がアーチ型になった左の石には、『刻印石広場』の文字が刻まれていました。その下の銅板プレートには、図面や解説文がありましたが、読み取ることができませんでした。刻印石広場は、昭和58年(1983年)の大坂築城400年祭を記念して、大阪城の石垣に刻まれた刻印を展示するために造られました。

    頭がアーチ型になった左の石には、『刻印石広場』の文字が刻まれていました。その下の銅板プレートには、図面や解説文がありましたが、読み取ることができませんでした。刻印石広場は、昭和58年(1983年)の大坂築城400年祭を記念して、大阪城の石垣に刻まれた刻印を展示するために造られました。

  • こちらの『大阪城内ゾーン』と題された金属プレートには、刻印の文様とその説明一覧がありました。刻印の数は29種ですが、その内の九つには説明文がありませんでした。主な大名家は、加賀金沢・前田家、肥前佐賀・鍋島家、備前岡山・池田家、讃岐高松・生駒家などでしたが、圧倒的に多いのが前田家のものでした。

    こちらの『大阪城内ゾーン』と題された金属プレートには、刻印の文様とその説明一覧がありました。刻印の数は29種ですが、その内の九つには説明文がありませんでした。主な大名家は、加賀金沢・前田家、肥前佐賀・鍋島家、備前岡山・池田家、讃岐高松・生駒家などでしたが、圧倒的に多いのが前田家のものでした。

  • 『大阪城内ゾーン』に展示してあった刻印が入った石材の光景です。大小様々でしたが、既に成形された石材がほとんどのようでした。

    『大阪城内ゾーン』に展示してあった刻印が入った石材の光景です。大小様々でしたが、既に成形された石材がほとんどのようでした。

  • こちらの『寝屋川ゾーン』と題された金属プレートには、20種の刻印が一覧になっていましたが、その内の8種に説明文がありませんでした。こちらの大名家は、豊前小倉・細川家、出雲松江・堀尾家、豊後臼杵・稲葉家、肥後熊本・加藤家、土佐高地・山内家、備前唐津・寺沢家などでした。

    こちらの『寝屋川ゾーン』と題された金属プレートには、20種の刻印が一覧になっていましたが、その内の8種に説明文がありませんでした。こちらの大名家は、豊前小倉・細川家、出雲松江・堀尾家、豊後臼杵・稲葉家、肥後熊本・加藤家、土佐高地・山内家、備前唐津・寺沢家などでした。

  • 『寝屋川ゾーン』の刻印石の展示状況です。寝屋川は大阪城の東北側、淀川の上流方面になります。『寝屋川ゾーン』の定義が分かりませんでしたが、石材の運搬に淀川上流が関係していおるのかも知れません。

    『寝屋川ゾーン』の刻印石の展示状況です。寝屋川は大阪城の東北側、淀川の上流方面になります。『寝屋川ゾーン』の定義が分かりませんでしたが、石材の運搬に淀川上流が関係していおるのかも知れません。

  • 『山里丸(やまざとまる)』のタイトルがあった説明プレートの光景です。豊臣時代と徳川時代の様変わりなどが紹介されていました。豊臣時代は茶屋が建った風雅な山里、徳川時代は、山里加番と呼ばれる、大阪城を守衛した役人が住んだ場所と紹介されていました。左側の図面は、徳川時代の縄張りになるようです。

    『山里丸(やまざとまる)』のタイトルがあった説明プレートの光景です。豊臣時代と徳川時代の様変わりなどが紹介されていました。豊臣時代は茶屋が建った風雅な山里、徳川時代は、山里加番と呼ばれる、大阪城を守衛した役人が住んだ場所と紹介されていました。左側の図面は、徳川時代の縄張りになるようです。

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