2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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大阪湾の周りで9城見学した内の7城目になる、和歌山城紹介の締め括りです。徳川御三家のお城だけに、規模とその風格はさすがです。それでも、現存している城跡は、最盛期の4分の1ほどの面積とされますから驚きます。
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打込み接ぎの石垣光景です。二の丸エリアにあった石垣だったようです。高石垣の下に、低い石垣が付属していました。門が築かれteいた場所でしょうか、現地での確認はできませんでした。
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『二の丸・大奥』のタイトルがあった説明看板の光景です。江戸城本丸が表・中奥・大奥に3分割されたので、ここ紀州江戸藩の和歌山城二之丸もそれに倣って三つに分けたとされます。さらに大奥も三つに分かれていて、藩主の居間や寝所の『御殿向』、奥女中達の生活スペースの『長局向』、大奥役人の役所だった『広敷向』の三つです。
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二の丸広場の光景です。平地として整備され、芝生が張られていましたが、端の方には樹木の光景もありました、かなりの広さでした。初代藩主の頼宣と14代藩主の茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいたとされます。
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同じく、二の丸広場の光景です。和歌山城の二の丸御殿は、表・中奥・大奥に分かれていたことを既に紹介しましたが、江戸時代に大奥があったのは、江戸城、和歌山城と名古屋城のみとされます。御三家でも水戸城には大奥がありませんでした。理由は調べていませんが、水戸生まれは二代藩主の光圀公だけで、他の代々の水戸藩主はすべて江戸生まれだったことがヒントになりそうです。
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上の説明文が『穴蔵状遺構』、下の説明文が『化石のある和泉砂岩』のタイトルがありました。『穴蔵状遺構』は、何かを収納する施設だったようです。江戸初期の火災以降、埋立てられて、使われていなかったとされます。『化石のある和泉砂岩』には、約7千万年前のコダイアマモの化石が残っているとの説明でした。
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左が『江戸時代の遺構』、右が『二之丸 (大奥部分)』のタイトルがあった説明看板の光景です。御橋廊下の東側が二の丸になり、表・中奥・大奥に分かれていました。さすがに徳川御三家の威光を示す規模です。
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二の丸エリアから眺めた、『御橋廊下』方面の光景です。『御橋廊下』を渡った先が『西の丸』になります。観光用の通路に造られたらしい木の桟道が設けてありました。
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二の丸エリアの西端付近の光景です。現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され、整備されています。
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斜め後ろから眺めた、『御橋廊下』の光景です。橋の入口横に少しだけ多門の白塀が再建されていました。その延長線上に多門の礎石跡が残されていましたが、現在のところ、再建はされていません。
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二の丸エリアの褐葉光景です。年代を経たような木々でした。雨跡では足元がぬかるむのでしょうか、こちら方面にも木の桟道が設けられていました。
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イチオシ
内堀に架かる『御橋廊下(おはしろうか)』の内部光景です。通称『紅葉溪庭園』の『和歌山城西之丸庭園』の景色の一部ともされます。屋根を持った橋で今でも印象に残っているのが、中国の少数民族のトン族が造った三江の『程陽橋』です。図面なしで鼓楼や橋などを築く、建築の神と言われる少数民族です。2004年春の旅行でした。
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『御橋廊下(おはしろうか)』を西丸側に下った場所にあった説明パネルです。左側が『復元・御橋廊下』、右側に『西の丸(にしのまる)』のタイトルがありました。『御橋廊下』については、詳細な図面があり、また発掘調査により堀底から礎石や瓦などが出土したことから、かなりの精度で復元できたようです。
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ここからは、国の名勝に指定されている『紅葉溪庭園』の紹介です。江戸時代初期に、紀州藩初代藩主の徳川頼宣が和歌山城北西隅の西之丸に隠居所の御殿と共に築いた池泉回遊式庭園が始まりです。『紅葉溪庭園(もみじだにていえん)』は通称で、正式名は『和歌山城西之丸庭園』です。
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紅葉の時期の『紅葉溪庭園(もみじだにていえん)』の紹介が続きます。虎伏山麓の斜面という立地を生かし、湧水を利用した2段の池と瀧を設け、さらに内堀の一部をもう一つの池として庭園に取り込むことで広がりをもたせています。紹介できたのはその一部です。
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『紅葉溪庭園』の紅葉の時期は、少しピークを過ぎていたようです。地面や丸く刈り込んだ常緑の庭木の上に、紅葉の落葉が降り注いでいました。右端に見える建物が、内堀の畔に配された池亭の『鳶魚閣(えんぎょかく)』です。
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丸い形に成形されたらしい自然石の飛び石が並んだ散策路の光景です。飛び石の周りも、翠色をした敷石が敷き詰められていました。石垣にも使われている『緑色片岩』のようでした。木々の間から、おぼろげに御橋廊下が見えていました。
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イチオシ
『紅葉溪庭園』の中から眺めた、先程渡ってきた『御橋廊下(おはしろうか)』の光景です。鏡のような内堀に、くっきりとその姿を映していました。太鼓橋ですとメガネが死になるところですが、御橋廊下の場合は、勝手に名付けるなら『拍子木橋』の光景でしょうか、あるいはハモニカ橋でもよさそうです。
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同じく、『紅葉溪庭園』の中から眺めた、『御橋廊下』の光景です。江戸時代の図面を基に復元された『御橋廊下』は、藩主が移動するのを気付かれないように設けられた壁が、そのまま再現されています。2006年4月に復元された橋です。
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『紅葉溪庭園』の中の光景が続きます。斜面に配された庭石と木々の光景です。左上に『紅葉渓橋』が見えていました。
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イチオシ
『紅葉溪庭園』の中の楓の紅葉光景です。青空によく映えていました、』微かに橙色が入った紅葉でした。紅葉以外の主な見ものは、鳶魚閣、紅葉渓橋と紅松庵とされます。
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『紅葉溪庭園』の中の池の光景です。かつての『西之丸庭園』の『紅葉溪庭園』は、江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として、国の名勝に指定されています。城郭内に現存する庭園の遺存例は極めて少なく、その希少性もあり文化庁主導の下に1970年代より大掛かりな発掘調査と復元整備が開始され、1985年11月に国の名勝に指定されました。
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『紅葉溪庭園』の中の飛び石の散策論の光景です。ゆっくりと散策する時間はありませんでしたから、横目で眺めただけでした。飛び石の先には、この庭園の目玉の楓の紅葉が見えていました。
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『紅葉溪庭園』の中の庭石の光景です。庭園のせせらぎの脇に置かれているようでした。少し青みを帯び、縦に白い筋と亀裂が走った名石です。下部が泥跳ねで汚れていたのが少し気になりました。
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常緑樹の松、楓の紅葉と青空の光景です。欲を言えば、紅葉のボリュウムがもう少し欲しいところです。ただし、園内全体では『紅葉溪庭園』の名に相応しく、庭園内には紅葉が数多く植栽されています。
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『紅葉溪庭園』の中の茶店の光景です。後ほど紹介しますが、松下幸之助氏が寄贈された『茶室・紅松庵』です。待合用らしい緋毛氈の席と、風流な石灯篭の光景がありました。
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同じく、『紅葉溪庭園』の入口付近の光景です。松下氏が寄贈された先は和歌山市ですから、一般客も利用できるようでした。飛び石を使った通路が入口に向かって、『営業中』の木札も見えました。
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『茶室・紅松庵』のタイトルがあった説明立札の光景です。少し拾い読みしますと、紅葉慶庭園は江戸初期の名園でしたが、荒れ果てていました。この庭園を斯界の権威の森博士指導により、昭和45年から3年の歳月をかけて再建されたことにより、松下幸之助氏より寄贈されたのが『茶室・紅松庵』でした。命名も扁額の揮毫の筆も幸之助氏によるものです。
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『和歌山城・紅葉溪庭園』の文字が刻まれた石標の光景です。最後に、紀州徳川藩の5代藩主から、徳川幕府の第8代将軍になった、徳川吉宗公について紹介しておきます。徳川御三家の紀州藩第2代藩主の徳川光貞の四男として生まれました。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たります。紀州藩主の前には、越前国葛野藩主を務めています。破綻しかけていた財政の復興などをし、中興の祖と呼ばれます。
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バス駐車場から眺めた、『紅葉溪庭園』の光景です。吉宗公についての紹介の続きです。紀州藩主の時に藩財政の再建に成果を挙げた吉宗は、享保元年(1716年)から『享保の改革』と呼ばれる幕政改革に取組みました。幕府財政の再建が目的でしたが、先例格式に捉われない幅広い政策が行われました。文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革などです。
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『紅葉溪庭園』の周りの風流な垣根の光景です。吉宗公についての紹介の締め括りです。人事面では正徳の治を主導した新井白石や間部詮房らを解任し、紀州藩の人材を多く幕臣に登用しました。紀州藩士による御庭番の創設、庶民の声を直接聞く目安箱の設置、貧病民救済を目的とした小石川養生所の設置、新田開発や管所の栽培研究もありました。和歌山城の見学を終え、次に『岸和田城』に向かいました。
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