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徳島城は、吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と、城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城です。1873年(明治6年)に廃城となりました。

2017暮、大阪湾の名城(25/42):12月6日(10):徳島城(2/4):心字池、蜂須賀家政銅像

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2017/12/05 - 2017/12/07

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旅人のくまさん

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徳島城は、吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と、城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城です。1873年(明治6年)に廃城となりました。

交通手段
観光バス
  • 国指定の名称・『千秋閣庭園』の紹介の続きです。かつては、『徳島城表御殿庭園』と呼ばれていました。作庭は、大名で、茶人としても高名な、上田重安です。上田宗箇(うえだ・そうこ)とも呼ばれます。茶人としては、利休や古田織部に学んでいます。古田重然(織部)は、利休七哲の一人に数えられています。(同上)<br /><br />

    国指定の名称・『千秋閣庭園』の紹介の続きです。かつては、『徳島城表御殿庭園』と呼ばれていました。作庭は、大名で、茶人としても高名な、上田重安です。上田宗箇(うえだ・そうこ)とも呼ばれます。茶人としては、利休や古田織部に学んでいます。古田重然(織部)は、利休七哲の一人に数えられています。(同上)

  • 先ほど紹介した古木の根元光景です。樹種は分かりませんでしたが、捻じれたような幹に、空洞がありました。盆栽で見ることが多い、真柏(しんぱく)を連想しました。中国旅行の時には、山西省で柏の大樹の古木も目にした記憶があります。2006年の旅行の時の太原の名刹、晋祠で眺めた千年以上の槐や柏の古木でした。

    先ほど紹介した古木の根元光景です。樹種は分かりませんでしたが、捻じれたような幹に、空洞がありました。盆栽で見ることが多い、真柏(しんぱく)を連想しました。中国旅行の時には、山西省で柏の大樹の古木も目にした記憶があります。2006年の旅行の時の太原の名刹、晋祠で眺めた千年以上の槐や柏の古木でした。

  • 自然石を丸くくりぬいた手水鉢の光景です。推測ですが、かつては、近くに東屋か茶席があったのかも知れませんが、単独でも庭に配されるようです。手水鉢は、元来、神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器でしたが、その後茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれて蹲踞(つくばい)と呼ばれる独特の様式を形成していきました。

    自然石を丸くくりぬいた手水鉢の光景です。推測ですが、かつては、近くに東屋か茶席があったのかも知れませんが、単独でも庭に配されるようです。手水鉢は、元来、神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器でしたが、その後茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれて蹲踞(つくばい)と呼ばれる独特の様式を形成していきました。

  • 枯山水の庭園の端の方には、鬱蒼とした林の光景もありました。昭和16年(1941年)12月に国の名勝に指定されたこの庭園は、庭園面積が 9917平方メートル余、その内の5024平方メートル余が、指定面積とされます。

    枯山水の庭園の端の方には、鬱蒼とした林の光景もありました。昭和16年(1941年)12月に国の名勝に指定されたこの庭園は、庭園面積が 9917平方メートル余、その内の5024平方メートル余が、指定面積とされます。

  • 枯山水の庭と組み合わされた、築山泉水式の庭園の光景です。桃山様式とされています。この池は、その姿から『心字池』と呼ばれています。庭園最奥部の観音山からの水が流れ込む池とされます。『心字池』は多数存在し、例えば江戸時代には加賀藩前田家上屋敷の庭園の『育徳園心字池』や、旧古川庭園の池泉回遊式庭園の心字池などがあります。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作庭です。

    枯山水の庭と組み合わされた、築山泉水式の庭園の光景です。桃山様式とされています。この池は、その姿から『心字池』と呼ばれています。庭園最奥部の観音山からの水が流れ込む池とされます。『心字池』は多数存在し、例えば江戸時代には加賀藩前田家上屋敷の庭園の『育徳園心字池』や、旧古川庭園の池泉回遊式庭園の心字池などがあります。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作庭です。

  • 作庭者の上田宗箇による豪快な石組と、その間から顔を出して黄色い花を咲かせたツワブキの光景です。野趣味タップリの光景でした。ツワブキ(石蕗、艶蕗)は、キク科ツワブキ属の常緑多年草です。

    作庭者の上田宗箇による豪快な石組と、その間から顔を出して黄色い花を咲かせたツワブキの光景です。野趣味タップリの光景でした。ツワブキ(石蕗、艶蕗)は、キク科ツワブキ属の常緑多年草です。

  • 少し高い場所から見下ろした枯山水の光景です。海を模した場所に浮かんだ小島が表現されているようでした。海を表した砂地には軽く掃き目が入れられ、島を模した複数の石の周りには、島をなぞった同心の掃き目がありました。

    少し高い場所から見下ろした枯山水の光景です。海を模した場所に浮かんだ小島が表現されているようでした。海を表した砂地には軽く掃き目が入れられ、島を模した複数の石の周りには、島をなぞった同心の掃き目がありました。

  • 石組み越しに眺めた、『心字池』の光景です。『枯山水』と『築山泉水庭』という、二つの形式で構成されているのは、桃山時代の豪壮な気風を反映していると評されています。

    石組み越しに眺めた、『心字池』の光景です。『枯山水』と『築山泉水庭』という、二つの形式で構成されているのは、桃山時代の豪壮な気風を反映していると評されています。

  • 『旧徳島城表御殿庭園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。昭和16年(1941年)12月に国の名勝に指定されたこの庭園の特徴が説明されていました。使われている庭石は、世界一の長さと言われる青石の石橋をはじめ、多くの青石(緑泥片岩)が使われていることも紹介されていました。

    『旧徳島城表御殿庭園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。昭和16年(1941年)12月に国の名勝に指定されたこの庭園の特徴が説明されていました。使われている庭石は、世界一の長さと言われる青石の石橋をはじめ、多くの青石(緑泥片岩)が使われていることも紹介されていました。

  • 『千秋閣庭園』の見学を終え、次は山城部分の見学です。山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していました。西から順に、三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸です。写真は、山城見学に向かう時に脇を通った徳島城博物館の建物光景です。

    『千秋閣庭園』の見学を終え、次は山城部分の見学です。山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していました。西から順に、三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸です。写真は、山城見学に向かう時に脇を通った徳島城博物館の建物光景です。

  • 同じく、脇を通った徳島城博物館の建物光景です。正面に見える場所を右に曲がれば表玄関だったようです。平成4年(1992年)に開館されたこの博物館は、現在は『とくしま88景』に選ばれています。『とくしま88景』は、徳島新聞社と徳島県観光協会が選定した徳島県内にある88箇所の名所です。

    同じく、脇を通った徳島城博物館の建物光景です。正面に見える場所を右に曲がれば表玄関だったようです。平成4年(1992年)に開館されたこの博物館は、現在は『とくしま88景』に選ばれています。『とくしま88景』は、徳島新聞社と徳島県観光協会が選定した徳島県内にある88箇所の名所です。

  • 右手奥が『千秋閣庭園』、左手の建物が先ほど右手に見えていた徳島城博物館の建物です。ところで、『千秋閣庭園』の呼び名の経緯をネット検索してみましたが、全く分かりませんでした。

    右手奥が『千秋閣庭園』、左手の建物が先ほど右手に見えていた徳島城博物館の建物です。ところで、『千秋閣庭園』の呼び名の経緯をネット検索してみましたが、全く分かりませんでした。

  • 徳島城博物館の建物の西側の光景になるようです。セキュリティを考えた博物館の建物のためでしょうか、西側になる壁面には、出入口や窓が見当たりませんでした。

    徳島城博物館の建物の西側の光景になるようです。セキュリティを考えた博物館の建物のためでしょうか、西側になる壁面には、出入口や窓が見当たりませんでした。

  • 徳島藩の藩祖・蜂須賀家政(1558~1639年)の銅像です。四国攻めの戦功により、秀吉は父の正勝に対して阿波一国を与えようとしましたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく子の家政に阿波を与えたとされます。

    イチオシ

    徳島藩の藩祖・蜂須賀家政(1558~1639年)の銅像です。四国攻めの戦功により、秀吉は父の正勝に対して阿波一国を与えようとしましたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく子の家政に阿波を与えたとされます。

  • 徳島藩の藩祖・蜂須賀家政の銅像と、その周りの光景です。父の辞退で、家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の大名となりました。一宮城の城主となり、その後徳島城を築城しました。一説によれば、阿波踊りは城が竣工した際、家政が城下に『城の完成祝いとして、好きに踊れ』という触れを出したことが発祥ともいわれます。

    徳島藩の藩祖・蜂須賀家政の銅像と、その周りの光景です。父の辞退で、家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の大名となりました。一宮城の城主となり、その後徳島城を築城しました。一説によれば、阿波踊りは城が竣工した際、家政が城下に『城の完成祝いとして、好きに踊れ』という触れを出したことが発祥ともいわれます。

  • 辺り一面に黄葉の葉を降らせていた公孫樹の樹の光景です。枝先には、黄葉の葉が残り少なくなっていました。もうすぐ冬木立の装いに変わりそうです。背後の林は常緑樹が多いようでした。

    辺り一面に黄葉の葉を降らせていた公孫樹の樹の光景です。枝先には、黄葉の葉が残り少なくなっていました。もうすぐ冬木立の装いに変わりそうです。背後の林は常緑樹が多いようでした。

  • 振り返って撮影した、登って来た石段の光景です。程よく踊り場が設けてありました。東二の丸を経由して本丸に向かうコースです。見学コースとして整備された、手摺りも付いた幅広い石段でした。

    イチオシ

    振り返って撮影した、登って来た石段の光景です。程よく踊り場が設けてありました。東二の丸を経由して本丸に向かうコースです。見学コースとして整備された、手摺りも付いた幅広い石段でした。

  • 辺り一面に散り敷いた、公孫樹の黄葉の落葉の光景です。所々に、ハゼノキと思われる紅葉の落葉が混じっていました。この当たりは『東二の丸』の一部になるようです。

    辺り一面に散り敷いた、公孫樹の黄葉の落葉の光景です。所々に、ハゼノキと思われる紅葉の落葉が混じっていました。この当たりは『東二の丸』の一部になるようです。

  • 同じく、かなりの広さがあった『東二の丸』の光景です。中央の左奥に見えて居おるのは、日溜りにいた猫さんです。先に紹介した『閑話休題』の写真の最後で、アップで紹介しておきました。

    同じく、かなりの広さがあった『東二の丸』の光景です。中央の左奥に見えて居おるのは、日溜りにいた猫さんです。先に紹介した『閑話休題』の写真の最後で、アップで紹介しておきました。

  • 同じく、『東二の丸』の光景です。前方右手に見える石段を登りますと、本丸方向になります。左手にあった石段を登って来ました。

    同じく、『東二の丸』の光景です。前方右手に見える石段を登りますと、本丸方向になります。左手にあった石段を登って来ました。

  • 『東二の丸』の光景が続きます。この当たりには、ハゼノキの紅葉らしい、真っ赤な落葉が目に付きました。

    『東二の丸』の光景が続きます。この当たりには、ハゼノキの紅葉らしい、真っ赤な落葉が目に付きました。

  • 根元に大きな駆動があった、『ホルトノキ』の光景です。空洞の中に『ホルトノキ(ホルトノキ科)』の表示札が見えました。『ホルト』とは、ポルトガルのことを意味するという説が有力なようですが、ポルトガル原産の樹ではありません。平賀源内(1738~1780年)による命名とされます。源内は江戸中期の多分野に秀でた発明家です。

    根元に大きな駆動があった、『ホルトノキ』の光景です。空洞の中に『ホルトノキ(ホルトノキ科)』の表示札が見えました。『ホルト』とは、ポルトガルのことを意味するという説が有力なようですが、ポルトガル原産の樹ではありません。平賀源内(1738~1780年)による命名とされます。源内は江戸中期の多分野に秀でた発明家です。

  • 『ホルトノキ』の上部の光景です。中部地区では自生の樹を目にすることがない樹種のようです。本州西側、淡路島、四国、九州、沖縄、台湾、インドシナなどに分布するようです。

    『ホルトノキ』の上部の光景です。中部地区では自生の樹を目にすることがない樹種のようです。本州西側、淡路島、四国、九州、沖縄、台湾、インドシナなどに分布するようです。

  • 『東二の丸跡』から眺めた徳島市街の光景です。徳山城址の目前までビル街が迫っていました。ニ度と元に戻すことは出来ない光景です。

    『東二の丸跡』から眺めた徳島市街の光景です。徳山城址の目前までビル街が迫っていました。ニ度と元に戻すことは出来ない光景です。

  • 『天守跡』の文字が刻まれた石標の光景です。一時この場所に天守を移しましたが、また元の東二の丸に戻ったようでした。その間のいきさつを、『創建当時の天守は元和年間(1615~1624年)に取り壊され、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではない』(ウィキペディア)と説明されていました。

    イチオシ

    『天守跡』の文字が刻まれた石標の光景です。一時この場所に天守を移しましたが、また元の東二の丸に戻ったようでした。その間のいきさつを、『創建当時の天守は元和年間(1615~1624年)に取り壊され、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではない』(ウィキペディア)と説明されていました。

  • 同じエリアにあった、『史蹟・徳島城跡・東二の丸跡』の石標です。こちらの石標が本来の呼び名のようです。同じくウィキペディアには、『景観バランスを整えるためであるとか城の防備上の都合によるものなどが考えられている』と説明されていましたが、あまりすっきりしない理由でした。

    同じエリアにあった、『史蹟・徳島城跡・東二の丸跡』の石標です。こちらの石標が本来の呼び名のようです。同じくウィキペディアには、『景観バランスを整えるためであるとか城の防備上の都合によるものなどが考えられている』と説明されていましたが、あまりすっきりしない理由でした。

  • 更に石段を登って本丸に向かいます。この石段も幅広く、現代工法で整備されていました。適当な感覚で踊り場がありますから、上り下りには、随分と楽です。

    更に石段を登って本丸に向かいます。この石段も幅広く、現代工法で整備されていました。適当な感覚で踊り場がありますから、上り下りには、随分と楽です。

  • 石段の傍らにあった、転用石らしい石材の光景です。石塔の下部当たりの形状に見えました。壊れた石塔を転用したのかも知れません。

    石段の傍らにあった、転用石らしい石材の光景です。石塔の下部当たりの形状に見えました。壊れた石塔を転用したのかも知れません。

  • 『ホルトノキ』の名札が付いた大木の根元付近の光景です。ホルトノキの命名者とされる平賀源内の、異能振りの紹介です。『本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家』(ウィキペディア)と紹介されていました。讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれました。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家でしたが、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)とされます。『甲陽軍鑑』によれば、戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に、甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされ多とされます。

    『ホルトノキ』の名札が付いた大木の根元付近の光景です。ホルトノキの命名者とされる平賀源内の、異能振りの紹介です。『本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家』(ウィキペディア)と紹介されていました。讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれました。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家でしたが、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)とされます。『甲陽軍鑑』によれば、戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に、甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされ多とされます。

  • 『ホルトノキ』の大木の上部の光景です。日本史の中でも特異な才能を持ち、歴史に残る人物ですから、平賀源内についてもう少し説明を続けます。武田氏に滅ぼされましたが、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めました。さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したとされます。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めています。幼少の頃には掛け軸に細工をして『お神酒天神』を作成したとされ、宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びました。大坂、京都でも学び、2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学びました。友人の杉田玄白は、源内の墓の隣に彼を称える碑を建てましたが、その晩年には謎が残されました。

    『ホルトノキ』の大木の上部の光景です。日本史の中でも特異な才能を持ち、歴史に残る人物ですから、平賀源内についてもう少し説明を続けます。武田氏に滅ぼされましたが、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めました。さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したとされます。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めています。幼少の頃には掛け軸に細工をして『お神酒天神』を作成したとされ、宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びました。大坂、京都でも学び、2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学びました。友人の杉田玄白は、源内の墓の隣に彼を称える碑を建てましたが、その晩年には謎が残されました。

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