2017/12/05 - 2017/12/07
270位(同エリア1007件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,390,507アクセス
- フォロワー204人
徳島城の山城部分の紹介です。徳島城の山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していました。西から順に、三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸です。この逆の経路で見学しました。
- 交通手段
- 観光バス
-
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していました。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築きました。城山は、古くは『渭山いざん)』や『猪山(いのやま)』と呼ばれていました。『渭山』の古名は、室町時代の管領の細川頼之が、1385年に助任川に映る山を中国長安の渭水に映る山に擬えて川を渭水、山を渭山と名づけたと伝えられます。『猪山』は、西から見ると猪の伏した姿に見えることからの呼び名とされます。写真は、東二の丸から、本丸に向かう途中の石垣光景です。徳島城の山城部分は、現在の徳島中央公園内にある城山に築かれていました。
-
イチオシ
東二の丸から、本丸に向かう石段光景です。麓から、観光用に整備された石段が続いていました。城山の標高は、三角点で61.7メートルとされます。城山の規模は、東西約400メートル、南北約200メートルで、吉野川デルタの一角に位置します。
-
本丸石垣の光景です。創建当時の天守は元和年間(1615~1624年)に取り壊された用です。その後は、東二の丸に天守代用の御三階櫓が建てられたことがありますが、本丸に天守が築かれたことはないとされます。写真は、野面積より、打込み接ぎに近い積み方の石垣です。石材には、眉山の三波川変成岩(結晶片石)が使われています。岩石の種類としては、青石(緑簾石)、紅簾片石や石英片岩です。
-
本丸に到着しました。平らになっているのは、徳島城の築城時に盛土、切土されたためとされます。城山の北は、助任川(すけとうがわ)に面しています。江戸時代の武家諸法度(1615年)や一国一城令(1615年)の発布により、天守の存在しない城にあった天守代わりの三重櫓は、『御三階櫓(おさんがいやぐら、ごさんがいやぐら)と呼ばれました。
-
同じく、広場になった本丸跡の光景です。かなりの広さになっていました。徳島城では東二の丸に天守代わりの『御三階櫓』が建てられましたが、ほかには、二の丸に建てられた水戸城の例があります。水戸城の『御三階櫓』は、残念ながら1945年(昭和20年)8月2日の水戸空襲により焼失しました。
-
天守跡の隅の方にあった、かつての虎口らしい跡の光景です。縄張図を参照しましたら、本丸と、西二の丸との境界の場所になるようでした。縄張図には記されていませんでしたが、搦手門か大手門があった場所のようです。
-
『本丸跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。山城部分では、最も広く、重要な場所であったことが記されていました。普段、城主は本丸を使用しませんでしたが、御座敷は設けられていたと説明されていました。また、御座敷の建物に隠された非常用の脱出口の『北口』が設けられていました。1938年から2003年までは、護國神社があったようです。
-
『弓櫓跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『弓櫓(ゆみやぐら)跡』は、本丸跡西端と繋がっていて、本丸跡の一部とされたようです。段差があり本丸跡より少し高く、城山の山頂(最高点)があります。7間×8間(約13メートル×15メートル)の広さで、石造りの基礎が残ります。
-
『午砲跡』の光景になるようです。弓櫓跡に台座のみが残りますが、1916年4月1日から、戦中末期に戦時供出されるまで『午砲』が置かれていたようです。時報のために撃つ大砲(空砲)のことです。日本では正午に撃つことが多かったため、正午の砲として午砲と称されました。
-
『弓櫓跡』の端になる石垣光景になるようです。縁に近付くのには、足がすくんでしまう高さがありました。先の方が少し高くなるように積まれていました。無理をせずに、少し離れた場所からの撮影です。
-
イチオシ
西側から眺めた本丸跡の光景です。本丸跡は、東西に長い敷地になっています。1873年(明治6年)の廃城令により、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去されました。城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年に一般に開放されました。
-
これで、城山頂上にあった本丸跡の見学はおしまいです。往きは東に二の丸方向から登りましたが、帰りは、西二の丸方向から下りました。かつて、江戸時代には、大手筋とされる西登山道です。
-
江戸時代には大手筋とされた西登山道の周りの石垣のズームアップ光景です。表面が平らに揃えられた、打込み接ぎの石垣でした。石材には、眉山の三波川変成岩が使われているようです。徳島県の『県の石』は、主要産地が眉山(びざん)の高越(こうつ)地域とされる、青色片岩(せいしょくへんがん)です。濃青色を呈する代表的な低温・高圧型変成岩とされます。
-
イチオシ
少し下ったところで、見上げて眺めた高石垣の光景です。青色片岩は、約1億4500万年前から6600万年前の白亜紀の海洋沈み込みにより、海洋底の玄武岩が地下30~65キロの深さに達し、プレート間力の元で構成鉱物が変化して生じたとされます。元となった玄武岩は、地球上で最も量の多い火山岩で、特に、ほとんどすべての海洋底は玄武岩によってできています。
-
振り返って眺めた、西登山道の光景です。西登山道は、本丸に護国神社があった時代の参詣道だったようです。コンクリートっ世の石段ではなく、切り出した石が使われているようでした。
-
慰霊碑があった場所の光景です。『徳島県外地引揚者・慰霊碑』の文字がプレートに刻まれていました。第二次大戦後の引揚者のようでした。敗戦時には軍人・民間人計660万人以上が海外に在住し、引揚げた日本人は1946年末までに500万人に上りましたが、残留日本人の数や実態については現在も不明です。
-
同じく、『徳島県外地引揚者・慰霊碑』があった場所の周りの光景です。米軍占領下区域では、GHQ指令で厚生省が引揚援護庁を設置し、行政事務を行いました。1945年11月、厚生省は佐世保、博多、鹿児島、唐津、仙崎、宇品、舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館の11カ所に地方引揚援護局を設置する告示を行いました。いずれも引揚に必要な港を持つ地域です。
-
『史跡・徳島城址・西二の丸跡』の文字が刻まれた石標の光景です。西登山路が通っている場所に位置します。西登山路は、南麓のSL展示場付近に登山口があり、三の丸跡・西二の丸跡を経由します。
-
鬱蒼とした樹木が生い茂った、西二の丸跡付近の光景です。左手になだらかな階段が続き、その両脇に石垣の光景がありました。西口登山路の一部になります。
-
『帳櫓跡』の光景です。江戸時代の大手筋とされる、西登山道ににらみを利かせた場所に建つ櫓です。通路よりも一段高くなっていました。
-
『帳櫓跡』の文字が刻まれた石標の光景です。帳櫓(とばりやぐら)跡は、三の丸と西二の丸の間に位置し、西二の丸より少し高い場所になります。『とばり(帳・帷)は、戸張の意で、転じて、物を隔て区切るもの、覆い隠して見えなくするものの例え』とされるようです。
-
『帳櫓跡』の光景です。4間×4間(約7メートル×7メートル)の広さで、石造りの基礎が残ります。西三の丸から西二の丸への屈曲した虎口を防衛する役目を担った櫓のようです。『帳櫓』の呼び名は、ほかの城址ではあまり目にしないようです。
-
横から眺めた、『帳櫓跡』の光景です。かつて、1907年(明治40年)に鋳造された、日露戦勝記念鐘の鐘楼があった場所とされます。
-
下側から見上げた、『帳櫓跡』の光景です。場所は確認できませんでしたが、この辺りには、『鉄砲櫓』も置かれていたようです。鉄砲を収容した『鉄砲櫓』は、新発田城や福岡城などにも名前が残るようです。
-
前方に見える石碑には、『殉難・警察官吏・消防組員・招魂碑』の文字が刻まれていました。台座の上に置かれた大きな碑でした。『慰霊碑』の表現ではなく、『招魂碑』の表現でしたから、戦前に建てられた碑かもしれません。『官吏』の表現も同様です。
-
『西三の丸』から『西二の丸』方面への通路になる石段です、数段だけの石段でした。あるいは、『西三の丸』のエリア内の石段だったかもしれません。この階段を下りて次の場所に向かいました。
-
振り返って眺めた、西口登山路の石段光景です。三の丸エリア内の石段になるようでした。左に見える石垣は、虎口を形成する石垣だったかもしれません。
-
『史跡・徳島城址・西三の丸跡』の文字が刻まれた石標の光景です。西登山路が通っています。上中下3段ないし上下2段になっています。中段が狭くなっているようです。この中段の扱いで、2段か三段かに判断が分かれるようです。
-
上中下3段ないし上下2段になっている『西三の丸跡』の光景です。下段は大半が城山配水池のために切土され遺構は失われました。残存部分はヤブガラシの草原になっています。北に張り出した材木櫓跡(石垣を積まず同じ三の丸と同じ高さ)には、北麓から、築城時に資材運搬のために開かれた谷が伸びています。
-
西三の丸付近の石垣のズームアップ光景です。表面が平らに揃えられ、隙間に小石が詰められた、打込み接ぎの石垣でした。石垣には、すべて地元算出の石材が使われているようでした。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2017暮、大阪湾の名城巡り(下巻)
-
前の旅行記
2017暮、大阪湾の名城(25/42):12月6日(10):徳島城(2/4):心字池、蜂須賀家政銅像
2017/12/05~
徳島市
-
次の旅行記
2017暮、大阪湾の名城(27/42):12月6日(12):徳島城(4/4):城山、大手門、紫雲石
2017/12/05~
徳島市
-
2017暮、大阪湾の名城(21/42):12月6日(5):勝瑞城(1/3):勝瑞城所縁の見性寺、本堂
2017/12/05~
板野・松茂
-
2017暮、大阪湾の名城(22/42):12月6日(6):勝瑞城(2/3):見性寺、本堂、墓所、堀
2017/12/05~
板野・松茂
-
2017暮、大阪湾の名城(23/42):12月6日(7):勝瑞城(3/3):発掘調査現場、出土品
2017/12/05~
板野・松茂
-
2017暮、大阪湾の名城(24/42):12月6日(9):徳島城(1/4):徳島城博物館、千秋閣庭園
2017/12/05~
徳島市
-
2017暮、大阪湾の名城(25/42):12月6日(10):徳島城(2/4):心字池、蜂須賀家政銅像
2017/12/05~
徳島市
-
2017暮、大阪湾の名城(26/42):12月6日(11):徳島城(3/4):城山、本丸、弓櫓
2017/12/05~
徳島市
-
2017暮、大阪湾の名城(27/42):12月6日(12):徳島城(4/4):城山、大手門、紫雲石
2017/12/05~
徳島市
-
2017暮、大阪湾の名城(28/42):12月7日(1):和歌山城(1/7):和歌山のホテル、散策
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(29/42):12月7日(2):和歌山城(2/7):和歌山城、お堀、一の門
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(30/42):12月7日(3):和歌山城(3/7):一中門、伏虎像、表坂
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(31/42):12月7日(4):和歌山城(4/7):天守、天守郭、埋門
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(32/42):12月7日(5):和歌山城(5/7):大天守、御台所展示品
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(33/42):12月7日(6):和歌山城(6/7):多門展示品、銀名水
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(34/42):12月7日(7):和歌山城(7/7):御橋廊下、二の丸
2017/12/05~
和歌山市
-
2017暮、大阪湾の名城(35/42):12月7日(8):岸和田城(1/3):二の丸、心技館、堀
2017/12/05~
岸和田・貝塚
-
2017暮、大阪湾の名城(36/42):12月7日(9):岸和田城(2/3):歴史パネル、八陣の庭園
2017/12/05~
岸和田・貝塚
-
2017暮、大阪湾の名城(37/42):12月7日(10):岸和田城(3/3):天守、八陣の庭、石庭
2017/12/05~
岸和田・貝塚
-
2017暮、大阪湾の名城(38/42):12月7日(11):大阪城(1/5):大阪城、大手門、桜門
2017/12/05~
大阪城・京橋
-
2017暮、大阪湾の名城(39/42):12月7日(12):大阪城(2/5):太鼓櫓、枡形の巨石、桜門
2017/12/05~
大阪城・京橋
-
2017暮、大阪湾の名城(40/42):12月7日(13):大阪城(3/5):西と南からの天守光景
2017/12/05~
大阪城・京橋
-
2017暮、大阪湾の名城(41/42):12月7日(14):大阪城(4/5):山里口出枡形、刻印石広場
2017/12/05~
大阪城・京橋
-
2017暮、大阪湾の名城(42/42):12月7日(15):大阪城(5/5):秀頼自刃の碑、極楽橋
2017/12/05~
大阪城・京橋
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
徳島市(徳島) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2017暮、大阪湾の名城巡り(下巻)
0
30