2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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大阪湾の周りの名城巡りです。日本三大名城には諸説ありますが、江戸城を別格とすれば、姫路城、名古屋城と大阪城が挙げられることが多いようです。これに別格の江戸城と熊本城を加えて五大名城とすれば、いずれも遜色がないように思えます。
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正面出入口の前から眺めた、大阪城天守の光景です。何度か見学したことがあるお城ですから、今回の入城は、百名城巡りのスタンプ押しだけにしました。大阪城は日本百名城の第54番に選ばれています。
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今日は祭日ではないですが、入口横に国旗が掲げられていました。外国人観光客を意識しての掲揚かも知れません。大阪城の別称は、『錦城(きんじょう』です。『金城』とも表記されます。天守閣は国の名勝、城跡は、国の特別史跡に指定されています。
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イチオシ
二段に並んだ千鳥破風のズームアップ光景です。金箔でしょうか、ふんだんに金色が使われていました。上の段の『五七桐紋』、下の段の『菊紋』も金色でした。豊臣秀吉の家紋が『五七桐』紋であることはよく知られていますが、元々は天王家の紋です。木下藤吉郎時代に使っていたのは、『立ち沢瀉』紋、信長から拝領したのが『丸に瓢箪』紋と『五三桐』紋でした。
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正面から見上げた天守の光景です。豊臣秀吉の家紋の話題の続きです。『五三桐』紋は、後醍醐天皇→足利将軍家→織田信長→羽柴(豊臣)秀吉と下賜され、『五七桐』紋は、後陽成天皇から豊臣秀吉に下賜されています。秀吉は、家臣に桐紋を下賜しましたが、それは天皇から下賜された桐紋ではなく、アレンジされた『太閤桐』紋でした。
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城の守りの設備の一つ、『石落し』です。壁と同じように、白漆喰で固めたような外観でした。昭和初期頃の再建ですから、塗装で白く仕上げられているようです。
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天守閣の軒先のズームアップ光景です。屋根瓦は銅葺仕上げでしたが、軒丸瓦と軒平瓦は、焼物の素地が見えていました。軒先の要所には、金箔飾りがありました。
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時間を知らせるために撃たれた空砲で、『午砲(ごほう)』と呼ばれています。説明看板には『号砲(ごうほう)』と紹介されていました。幕府の命令により、天和3年(1683年)美作津山藩で鋳造された大砲です。内径20センチ、外径40センチ、長さ348センチの先込め式の旧砲です。はじめ大坂天保山砲台に据付けられ、明治維新後に大阪城内に移されたようです。
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国の重要文化財の『金蔵(きんぞう)』です。大阪城内に現存する唯一の土蔵の宝物倉庫とされます。三代将軍の徳川家光公の時代の寛永3年(1626年)に築造されました。
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国の重要文化財の『金蔵』のナマコ壁のズームアップ光景です。防火、防水などの目的を持ちます。寛永3年(1626年)に築造された後、天保8年(1837年)に改修され、今日に至っています。
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既に紹介した、本丸跡に建つ、旧・第四師団司令部の建物光景です。建設費は天守閣よりも高くかかった建物です。当時、流行していたスクラッチタイルを用いた外装とされます。改修され、『MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)』が2017年10月にオープンしました。一時期は、大阪市の博物館としても使用された建物です。
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大阪城の城内に生えた、木々の間から眺めた天守の光景です。『豊臣期大坂図屏風』の描写によれば、『その壁面は軍神の八幡神の神紋で埋め尽くされ、いにしえの神功皇后の三韓征伐伝説を想起させるもの』とされます。この屏風は、オーストリアのグラーツ市にあるエッゲンベルク城に所蔵されています。元は八曲一隻の屏風だったと考えられていますが、今は分解され、壁面にはめ込まれています。
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イチオシ
天守閣の正面に造られた庭園越しに眺めた天守閣の光景です。徳川時代の天守台の上に築かれた、豊臣時代の天守閣の再建とされます。外観は豊臣時代ですが、規模が一回り大きな徳川時代とされる天守閣です。入母屋造りの屋根を90度違いで、交互に重ねた構造です。建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法を用いて建てられました。天守台と鯱を含む高さは54.8メートル、5層8階で、現在の復興天守の中は博物館です。また、入口のある1階部分は地下部分です。
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西南側から眺めた大阪城天守の光景です。1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけておこなわれた平成の大改修で設けられた、エレベーターが見えています。この場所は、小天守台西側の御殿二階廊下跡となります。
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明治31年(1899年)3月、陸軍中将・小川又次男爵の落款があった古い石碑の光景です。『杼樟之記」の題字がありました。『天正十一年豊公大坂城ヲ築クノ日杼樟樹ヲ此ニ手栽シテ繁茂シ二百八十余載ヲ経テ明治戊辰ノ兵火ニ罹リ今唯々枯株ヲ餘セリ 予其跡ノ終ニ湮滅ニ帰センコトヲ惜ミ更ニ同樹ヲ植ヘ以テ公ノ遺愛ヲ存ス 後人幸ニ之ヲ保護セヨ』の文字が刻まれています。当時の大坂衛戍司令官で、福岡県出身、歩兵出身の陸軍草創期の将軍でした。最終階位は、子爵で陸軍大将です。
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本丸西側の石垣光景です。防御性を高めるためでしょうか、横矢を通し易いように、石垣に出入りが多く設けられているようでした。
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本丸西側の内堀の光景です。内堀の西側の北側部分は水が湛えられていますが、南側部分は空堀です。現存する石垣は、多くが徳川時代の遺構とされます。
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本丸西側の石垣の上から眺めた大阪市街の光景です。林立する高層ビルの姿がありました。お堀の周りの木々は、紅葉の時期も過ぎてしまったようです。その間から広場や常緑の姿が見えました。
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同じく、本丸西側の石垣の上から眺めた大阪市街の光景です。手前は木々の姿が多い、『大阪城西の丸庭園』のエリアです。右手に見える建物は、京都の二条城白書院がモデルとされる、大阪迎賓館のようです。
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本丸西側の石垣の上から眺めた大阪市街の光景が続きます。先程よりは、少し北側の光景になります。左端に日本経済新聞社の茶色の建物がありました。
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西側から眺めた天守閣の光景です。発掘調査で見付かった豊臣時代の遺跡の紹介です。昭和中期の大坂城総合調査により、徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかりました。現在は一般には開放されていない、蓋付きの穴の底に保存されているようです。
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西南側から見上げた天守閣光景です。発掘調査で見付かった豊臣時代の遺跡の紹介の続きです。2003年(平成15年)には、大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかりました。また、この発掘調査によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されています。
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西北側から見上げた天守の光景です。天守台の西北角付近から西に向かって伸びた石垣がありました。この後紹介するする、『天守下仕切門跡』の一部のようでした。
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大阪城本丸付近にあった樹木の紅葉光景です。写真を拡大して確認した葉の付き方は、ウルシやハゼと似ているようでした。どちらもウルシ科ウルシ属の落葉小高木です。紅葉が綺麗なことから、秋の季語に『櫨紅葉(はぜもみじ)」があります。
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本丸の北側にあった石段の光景です。この後紹介する、『天守下仕切門跡』の一部のようでした。京都の二条城の本丸でも目にした石段です。
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『天守下仕切門跡』のタイトルがあった案内看板の光景です。『天守台の西側は石垣によって南北が仕切られていて、通路となった箇所の紋を仕切り門と呼んだ』と解説されていました。直進できないよう、両脇の石垣を行き違いにし、門は東を向いていた』と解説されていました。その門は、明治維新時に塀とともに焼失したことも紹介されていました。
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イチオシ
南側から眺めた、『天守下仕切門跡』の光景です。徳川時代の縄張り図を参照しますと、行き違い積まれた石垣は、東西から伸びた石垣だったようです。その間の門が東向きに造られたようです。
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北側から眺めた、天守閣の上階のズームアップ光景です。中央付近に『石落し』が見えましたが、その下に見える多くの四角い穴がありました。写真を拡大しましたら、小さな格子窓のような狭間でした。弓狭間のように見えましたが、昭和に再建された時の独自のデザインかも知れません。
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北側から眺めた、天守閣の全景です。近過ぎて最上階付近は隠れてしまいましたが、南面と同じように、黒漆に金箔を使った絵が描かれていました。これは、別の場所からの眺めで確認できました。
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大阪城天守台の北側の石垣のズームアップ光景です。『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』と呼ばれる積み方でした。表面に出る石の角や面を叩き、平たくして石同士の接合面の隙間を減らして積み上げる方法です。関ヶ原の戦い以後、この手法が盛んに用いられた理由は、従来の野面積みより見栄えが良く、高く、急な勾配が可能になるためです。
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大阪城天守台の東北角の光景です。大石が使用された算木積が、綺麗な弧を描いていました。算木積(さんぎつみ)は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増す積み方です。
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