
2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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大阪湾の周りの九名城巡りの締め括りの大阪城です。現在の大阪城は、天下普請で家康が築いたお城です。秀吉が築いた豊臣氏大坂城の遺構は、土地の嵩上げで、現在全て地中に埋没しています。
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大阪城と和歌山城の中間にある岸和田城の見学のあとやってきた大坂城です。今回の大阪湾の周りの九名城巡りの締め括りのお城です。西外堀近くにあった、『大阪城公園』の案内図です。大手門からの入城見学の予定です。
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西濠に面して建つ、『千貫櫓』の光景です。国の重要文化財に指定されている、大阪城遺構の建造物の一つです。元和6年(1620年)に建造されました。
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同じく、左側の建物は、西堀に面して、西の丸庭園の西南隅に位置する千貫櫓、その右に見える、松の木に半ば隠れた建物が、大手門の北側に隣接する多門櫓です。嘉永元年(1848年)に建造された多門櫓も、国の重要文化財に指定されています。
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場所を移動して撮影した、国の重要文化財の『千貫櫓』の光景です。破風がほぼ正面に見える方角での撮影です。この松並木は、桜見学に訪れた時にも歩いた道です。
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イチオシ
家康が築いた大阪城の大手門の光景です。1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城のため、豊臣氏大阪城に対し、徳川氏大坂城とも呼ばれます。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏の江戸幕府によるものであることが確認されました。
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この後は、『徳川氏大阪城』に関する紹介は、『大阪城』と呼ぶこととします。大阪城大手門のズームアップ光景です。その門の脇にも綺麗、綺麗に揃えられた巨石が使われていました。
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刻印が記されていた石材のズームアップ光景です。円形の文様だけは分かりましたが、それ以外は判別できませんでした。丸い文様だけの刻印だったかもしれません。
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巨石が使われた、『大手口桝形』の光景です。その枡形の一部だけになります。全体としては、綺麗な切込み接ぎの石積で、その上に白塀がありました。『枡形(ますがた)』は枡形虎口とも呼ばれ、前面に方形の空間を設け、そこに門や口を二重に構えることで、攻撃側は枡形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、枡形内部で守備側からの攻撃を浴びることとなる仕組みのことです。
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巨石が使われた、『大手口桝形』のズームアップ光景です。現地加工で分割された巨石もあり、その確認は石に残った文様の共通性が決め手となるようです。
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『大手口桝形』に用いられた巨石の表面のズームアップ光景です。『大手口桝形』に使われた巨石は、熊本藩の加藤忠広が讃岐国小豆島から運ばせたものです。加藤忠弘(1601~1653年)は、清正の三男で、肥後熊本藩の第2代藩主です。。兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となりました。寛永9年(1632年)5月、江戸参府途上の品川宿で入府を止められ、池上本門寺で上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなりました。その後、出羽国丸岡に1代限りの1万石を与えられ、丸岡で22年間の余生を過ごしました。歌を詠み、源氏を繙き、音曲を奏で、酒に酔っては花鳥を慈しみ風月を愛でるといった、地味ながらも充実した余生を過ごしたようです。熊本藩の加藤家は断絶し、代わって同年豊前国小倉藩から細川忠利が54万石で入部し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続しました。
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『大手口桝形の巨石」のタイトルがあった説明パネルの光景です。正面に位置する城内4番目の大石の『大手見付石』、5番目の大きさの『大手二番石』、8番目の大きさの『大手三番石』などが紹介されていました。『大手見付石』の大きさが29畳敷、あとの石は、23畳敷と22畳敷の大きさです。
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城門の柱の修復状況です。精密な加工がされた柱の門柱の下部の光景です。柱を組み合わせる時の方向なども、綿密に計算されているようです。
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イチオシ
内側から眺めた、大手門の光景です。開いた門を仕舞うことができる小屋根が付いた高麗門様式の紋でした。 写真を撮影している空間が虎口になるようです。
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次に紹介するのは『多門櫓(たもんやぐら)』です。京橋口、玉造口、桜門、極楽橋などにあった多聞櫓が全て焼失しているため、現在の大阪城内の多聞櫓は、大手門だけです。頭上に槍落としの装置があり、出窓を構え、矩折に続櫓が附設されている櫓です。
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同じく、二階建て構造の櫓門の『多門櫓』の光景です。多聞櫓の名称の始まりは、大和国多聞城において、松永久秀(1508~1577年)が城門を固める石塁の上にこの様式の櫓を創始したことによるとされます。大和・多聞山城は、永禄3年(1560年)松永久秀によって築かれました。この櫓の鉄(くろがね)門は、『大手の大門』と呼ばれ、上部は渡櫓、南に折れ曲がった部分は続櫓または続多聞と呼ばれています。
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多門櫓の周りの石垣と白塀の光景です。各地の城に多聞櫓は見られますが、その規模では、大阪城に現存する総高14.7メートルのこの多聞櫓が随一とされます。寛永5年(1628年)の創建ですが、天明3年(1783年)に落雷で焼失し、その後、嘉永元年(1848年)に再建されました。昭和31年に解体修理されました。
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多門櫓の内部光景です。万が一ここまで攻め込まれても、階上から槍で敵方を攻撃できる設備が備わっているようです。頑丈そうな桟木が密に渡されていました。開かれた扉の外面は鉄(くろがね)で覆われ、このことで『鉄門(くろがねもん)』とも呼ばれたようです。
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同じく、多門櫓の内部光景です。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下の他に9畳、12畳、15畳の部屋が合計6室あります。多数の兵や武器を備えて、真上から攻撃できる施設となっています。
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『重要文化財・千貫櫓』のタイトルがあった説明看板の光景です。大手口を守る重要な隅櫓であり、1620年(元和6年)の創建時の工事責任者は、茶人や作庭家としても高名な大名の小堀遠州(1579~1647年)であることが紹介されていました。
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説明看板があった近くから眺めた、国の重要文化財の『千貫櫓(せんがんやぐら)』の建物光景です。千貫櫓は、西の丸庭園の西南隅に位置し、大手門を北側面から防御する重要な櫓です。名前の由来は織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢が効果的に飛んでくる隅櫓がこの近辺にあって難儀し、『あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない』と話したことに由来するとする説があります。豊臣時代、この辺りの隅櫓も同じ名前で呼ばれました。
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巨石を縦横に組み合わせた『切込み接ぎ』の石垣光景です。芸術作品を見るような奇麗な仕上がりでした。『切込み接ぎ(きりこみはぎ)』は、整形した石材の側面をを密着させて積み上げる方法です。慶長5年(1600年)以降、隅石の加工から徐々に平石にまでわたるようになり、江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようにな利ました。石材同士が密着していますから、高石垣などでは排水施設が必要です。
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通路途中の脇にあった煉瓦造りのクラシックな塀と門の光景です。『大阪城公園園内詰所』の表札がありました。多分、戦時中の軍施設を転用したものでしょう。ネット検索では、『明治初期から第2次大戦中にかけて、大阪城周辺地域は連隊兵舎や軍需工場が集中する一大軍事拠点だった』とする情報や、この場所は『大阪陸軍兵器支廠時代のもの』との情報がありました。
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二の丸付近の高石垣などの紹介です。石垣の下は空堀になっていました。本丸を囲う内堀は、西側方面の南側半分と南面が空堀になっています。これは、豊臣氏大阪城時代からのことのようです。
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先程の写真と同じ場所の石垣光景です。大きな石が使われ、綺麗なカーブを描いた算木積のコーナー部分の光景です。下の空堀から這い上がった蔦が紅葉し、所々で彩りを添えていました。
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徳川時代の高石垣を眺めながら、豊臣時代の大阪城の概要の紹介です。天正11年(1583年)、豊臣秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始しました。大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城です。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、それを凌駕することを目指しました。秀吉創建の大天守は、外観5層、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いたとされます。秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻不落の巨城に仕上げられました。また、城づくりと同時に町づくりが行われ、秀吉時代の大坂は近世城下町の先駆けともなりました。その堅城さは、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で証明されましたが、和解の条件として、惣構、三の丸の破却に続いて、二の丸の堀まで埋め立てられ、本丸ばかりの裸城にされてしまいました。
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同じ場所の石垣光景が続きます。大坂方は、埋められた堀の掘り起こし等の復旧工事を手掛けましたが、これを再軍備とみなされ、冬の陣から約5か月後の慶長20年(1615年)の夏の陣が始まりました。大坂城は落城し、山里曲輪に潜んでいた豊臣秀頼、淀殿らは自刃し、豊臣家は滅亡しました。廃墟同然となった大坂(阪)城は、家康の孫である松平忠明に与えられました。
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次は徳川時代の大阪城の紹介です。元和5年(1619年)、大坂は幕府直轄領となり、翌6年(1620年)、2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が始まり、3期に亘る工事を経て3代将軍家光の時に完成しました。秀忠は普請総奉行に選ばれた藤堂高虎に、『石垣を旧城の2倍に、堀の深さも2倍に』と強調したとされます。築城工事のうち、堀の掘削や石垣の構築は西国と北陸の諸大名64家が幕府の命を受けて担当し、建物の建設は幕府の直営で行われました。築城工事への参加を命ぜられた大名は、石高に応じて分担する石垣の長さを割り当てられました。各大名は組分けされて連帯責任と個別責任を負い、決められた工事担当区域ごとに出来栄えを競い合わざるを得なかったようです。それが、今日目にする大阪城の石垣です。
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イチオシ
石垣の上から顔を覗かせた大阪城天守の最上階の光景です。大坂(石山)本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大坂と定め、天正11年(1583年)、雄大極まりない大坂城の建築に着手しました。完成に約15年を要したその規模は、面積が現在の4~5倍という広大なものとされます。その本丸中央には金色に輝く天守が聳えていたとされます。
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『南仕切門跡・太鼓櫓跡』の標識の近くにあった巨石を配した石垣の光景です。西の丸エリアの南北を仕切った石垣の遺跡のようでした。見事な切込み接ぎでした。
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『南仕切門跡・太鼓櫓跡』の題字があった説明パネルの光景です。太鼓櫓は、大阪城内で最も規模が小さく、太鼓が収め圧れていたと紹介されていました。太鼓坊主と呼ばれる商業の役人が交代で詰め、香を焚いて時間を計って定時や、その他の緊急時に太鼓を鳴らしたことも紹介されていました。
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