2017/09/28 - 2017/09/28
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
第三十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~浦上の聖人〝永井隆〟を訪ねて~
如己堂・永井隆記念館にやって来ました。永井隆博士は島根県の生まれで長崎大学医学部の前身である長崎医大にて学び、放射線科の医師になられます。短期軍医として二回出征された経験があり、放射線物理療法を研究されていました。戦時中は主として結核のX線診断に従事されており、フィルム不足の折透視による診断を続けておられたために被曝し、昭和20(1945)年6月には慢性骨髄性白血病と診断され余命3年の宣告を受けました。その後医大で診察を続けておられましたが、8月9日の原爆投下時には医大内の自室ラジウム室で被爆し、ガラス破片による右側頭動脈損傷という重傷を負いながらも、圧迫タンポンを詰めた三角巾を頭に巻くだけで被爆者の救護に当たられました。放射線科の医師として原爆投下の夜に米軍によってばら撒かれた『原子爆弾の使用について』のビラを見た永井博士の顔色が変わったことは、専門家ゆえの反応だったに違いありません。不眠不休で治療にあたり、8月11日になってやっと帰宅し、台所付近で骨片だけとなった妻の遺骸を発見して埋葬しています。しかし翌日からは市内三ツ山に於いて第11医療隊隊長として救護本部を設け、再び被爆者の救護・救援活動にあたりました。その救護活動の最中に爆心地公園付近を杖をついて歩きながら惨状を見ておられる博士の姿が残されたフィルムが後に発見されています。
9月になり一時危篤状態に陥るも奇跡的に回復し、翌年1月には長崎医大教授となるも7月に長崎駅前で倒れ、以後病床に伏すこととなりました。狭い布団の中で研究と精力的な執筆に励まれて、11月には長崎医学会に『原子病と原子医学』について研究発表を行われています。公に原爆治療に関する記録が残せない中、博士のこの研究論文は大変貴重な
ものであったようです。
昭和23(1948)年には荒野と化した浦上の地に花を咲かせようと、新聞社等から贈られたお金を元手に1200本の桜の苗木を浦上天主堂他各所に寄贈されました。永井千本桜と呼ばれたものですが、元々樹木としての寿命は長くはない桜の木は、代替わりこそしたものの二世の『永井千本桜』が植樹され、永井博士の想いを現在に伝えています。
昭和23(1948)年3月には永井博士の療養を行う場所としての庵が浦上の人々やカトリック教会の協力によって完成し、『己の如く人を愛せよ』という言葉から『如己堂(にょこどう)』と名付けられました。8月には大学を休職し、治療に専念することとなりました。同年10月には来日中のヘレン・ケラー女史がノンアポで見舞いに訪れ、翌年昭和24(1949)年には昭和天皇に謁見されています。そして同じ頃浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞いを受けています。これも全て如己堂にて行われることになっていたものを博士が辞退し、公民館まで出向かれています。そして9月に長崎医科大学教授を退官し、12月には長崎市名誉市民の称号を受けられました。
昭和26(1951)年には病状が悪化し危険な状態に陥るも精力的な執筆活動を続け、4月25日に慢性骨髄性白血病による右肩甲骨内出血により執筆不能になるまで続けられていたそうです。そして死の直前に自らの病状を『白血病の末期』として医学生に見せて知識を深めるようにとの博士の希望により長崎大学医学部付属病院に緊急入院します。暫くは小康状態を保っていたため家族は夕方の祈りの後に自宅に引き上げますが、夜になって容体が急変し、家族が見守り薄れゆく意識の中で長男から十字架を受け取り『祈って下さい』と叫んだ直後に亡くなったそうです。享年43歳でした。
遺言により翌日遺体解剖が行われ、白血病による各臓器の肥大や腹水の存在が確認され、最終的な死因は白血病による心不全であることが判明しました。
その翌日5月3日には浦上天主堂で山口愛次郎司教司式による死者ミサが捧げられました。そして同日に長崎市は市公葬を5月14日に行うことを決め、同日9時から浦上天主堂で市公葬が執り行われて2万人が参列しました。当時の田川務長崎市長が総理大臣の吉田茂等300通の弔電を1時間半にわたって読み上げ、正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると全市の寺院・工場・船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、身を呈して被爆者の救護に当たった長崎の聖人に市民は1分間の黙祷を捧げました。そして亡骸は長崎市坂本町にある国際外人墓地に緑夫人と共に葬られて永遠の眠りについています。
島根県の出身である永井博士は、当初は出雲教の信者だったと言われています。長崎に来て浦上の下宿先がカトリック信者の森山家であり、のちに妻となる一人娘の緑さんからの刺激も大きいものであったようで、その後の博士の『生き方』に影響しています。ただ意外にもカトリックの教えに対して理解を深めたのは、短期軍医として満州事変に従軍されている時に緑さんより贈られた『カテキズム』を読んでからでした。そして翌年帰還した時にカトリックの洗礼を受けた後、緑さんと結婚されています。その後日中戦争の勃発とともに再び軍医として従軍されており、約3年の大陸に於いて軍医としてだけではなく日本軍兵士は勿論のこと中国人への治療も行っていたそうです。また必要物資の調達も長崎の教会を通じて行ったりもしており、現地の知事からも感謝され掛け軸を贈られています。
永井博士は『聖人』と呼ばれることを嫌っていたと言われています。私自身も気やすく使いたくない言葉ではあるのですが、永井博士の場合は他に例える言葉がないのが実は理由となっています。博士は軍医として従軍されており、決して戦争反対を掲げ続けていた訳ではありません。むしろ軍国主義を当時の世相に合わせて取られており、大日本帝国の戦勝について論じておられるものも残っています。そしてカトリックの洗礼を受け、その教えによる『考えの変化』が随所に現れることになるものの、その考え全てが『反戦』に繋がっているとは到底思えないところがあります。しかし原爆が広島に続き長崎にも投下され、自身が勤める長崎医大をはじめとした建物や多くの人命が失われました。自身も重傷を負うものの応急処置にもなっていない状況で救護活動に当たられ、開始当時には失血によって意識を失い、担架で担がれたり救護所への移動も杖を突いたまま肩を借りて歩いて行ったこと等が救護記録にも書かれているのが事実です。医師としての自分ができることをしたとは述べられているものの、そんな義務感だけでできるものではないと思います。そして放射線科の専門家として原子力の平和利用のことは、既に将来を見据えて描かれている部分もあり、何でもかんでもだめだだめだ…とただ唱えられている訳ではありません。
21世紀を迎え見かけの平和が蔓延する時代に、永井博士の表現を批判する意見も出てきています。一番目に付くのが『政治的利用』というものですが、被爆死した多くの信者達に対し昭和20(1945)年11月23日の浦上カトリック信徒代表として読み上げた『原子爆弾死者合同葬弔辞』に於いて述べられている『原爆は神の摂理によって、この地点にもち来らされた』、『世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やされるべき子羊として選ばれた』、『戦乱の闇まさに終わり、平和の光りさし出づる八月九日、この天主堂の大前に焔を上げたる、ああ大いなる燔(はん)祭よ!悲しみの極みのうちにも、私らはそれを、あな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎ見た』、『浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します』との内容が、無謀な15年戦争を起こし戦争犯罪という後ろめたい気持ちを持つ政治家や軍人たちにとって、『過去を清算する上で都合のよい考えであった』ということと、大量虐殺と解される原爆を投下したアメリカにとっても『原爆の大義名分を与えてくれる上で都合がよかった』と解されることに起因しています。結果として『二重の免責』をすることに繋がっているとされる永井博士の弔辞の内容はは『浦上燔祭論』と呼ばれるようにもなりますが、それは一貫して原爆投下を否定し続けた者が多くいる中で、GHQの検閲によって『原爆』の表記が文献や慰霊碑上できなかった史実に基づいて言われることだと思うのですが、それに対し同じように原爆に対して書かれている永井博士の作品が、条件付きではあるものの出版され、ベストセラーになっていることを単純に比較しているに過ぎないのではと考えます。元々永井博士は戦争を語るのに『原爆や政治』とは切り離し、戦争を通しての自分の経験・観察・悲哀を語っており、それに国民が感動したものだという大きな違いがあります。
また怒りの広島・祈りの長崎と揶揄されることも少なくないことですが、広島では被爆死者祀る慰霊碑には『犠牲者・死没者・戦没者』という表記がなされていますが、長崎の慰霊碑ではという言葉を使っているが、長崎の原爆慰霊碑のほとんどは『殉難者』という表記が多く使われているという事実です。たまたまそこにいた不運である『殉難者』に対して憎むべき加害者の存在を示す『犠牲者』との表記、その捉え方の違いがその後のヒロシマとナガサキの違いに繋がっているようにも思います。
元々カトリック信者の多い街であった長崎。その中でも特に信者の割合が多かった浦上地区。歴史上の中で宗教弾圧によって多くの殉教者が出ている場所である歴史上の『曰くつきの街』だったこともあり、浦上という場所に敢えて原爆が投下されたことを『鎮守様のご加護』のない場所と差別されるような風潮もあったようです。どこまでが本当かはわからないものもあるのですが、この東洋一の聖地に於いて原爆が投下され、長崎市民の被爆犠牲者の割合を超える信者の犠牲者が出たことは間違いのない事実です。心の拠り所である天主堂は程原型をとどめていない程破壊され、挙句の果てには『信教の違い』で差別されている現状に対し、その信者を勇気づけることは生半可なことではできなかったのではないでしょうか。
永井博士が亡くなった理由を『被爆』によると書いているものも少なからずあるようです。確かに全く無関係ということではないのかも知れませんが、永井博士が『被爆』ではなく『被曝』したのは、放射線科医としてX線による直接透視を行って治療に当たられたことが直接の原因となっており、3年の余命宣告を受けられたのは、長崎の原爆投下より2か月前のことでした。確かにカトリックの考えは無神論なのか多神論なのかすらわからない私にとって理解しがたいことも多々あるのは事実です。しかしその活動は凡人には到底理解もできない代わりに真似もできないことでもあります。永井博士が言いたかったこと…、それは現実に打ちのめされるより、後に開けるであろう人生の『摂理』を解きたかったのではないでしょうか。不毛の土地となった長崎で、虫や花の活動を見て復興を確信した永井博士、その『先見の明』に多くの人々が触れてみんなが穏やかな気持ちになり、今の長崎を作りだしているのでは…っとふと思いました。
長崎市立永井隆記念館、入館料100円掛かりますが中に陳列されている博士所縁のものは数は決して多くはないものの、その温かい気持ちが伝わってくる物ばかりでした。そして敷地内には如己堂、永井博士の療養の場として無一文になった浦上の住民や教会が協力して建てた小さな庵ですが、その内部にはまた博士所縁の品々が多く陳列してありました。拝観用にガラス張りにはなっているものの中が暗くなっているため、天気があまりに良い時には光が反射して見辛いと思うこともありますが、一見する価値は大いにあると思える場所です。
また敷地内には『帳方屋敷跡』の碑も残っており、江戸時代に徳川家康によって出された禁教令によって250年ものの間潜伏した『隠れキリシタン』。その間教義を伝えるための組織がつくられ、指導者の頭を『帳方』と呼んでいました。初代の帳方を務めたのが孫右衛門であり、以後その子孫が帳方を継承し七代目吉蔵が(浦上三番崩れで入牢の後獄死殉教するまで続いた場所の屋敷跡となっています。永井博士の夫人となった緑さんは吉蔵の子孫にあたる方でした。
小さな施設ながら凄いインパクトのあった永井隆記念館を後にし、ここからは地図に載らない『史跡』へと向かいます。長崎市立山里小学校、明治7(1874)年創立の創立143年を迎えた歴史ある学校ですが、山里国民学校だった昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、爆心地から約700mの距離にあり至近距離で被爆しコの字型の鉄筋コンクリート3階建(一部は地階を含めて4階)の校舎が爆心地に面した南側から強烈な爆風を受け南および西側の3階の部分が崩壊します。その後すぐ2階と地階から発生した火災によって校舎北側の1・2階のみを残し内部を全焼し校舎は外郭を残すのみとなりました。
夏休みだったこともあり学校での被爆児童はいなかったものの、当日出勤していた学校職員の32名うち校長以下28名が被爆死しています。その他同校の北側2教室を分散疎開して利用していた三菱兵器製作所会計課の一部が事務所として使っており、そこに学徒動員していた県立長崎高等女学校等の動員学徒を含めて数十人いたとされていますが、人数こそ不明ではあるものの多くの死傷者が出たとされています。また屋上見張所および玄関近くの仮詰所に待機中の警防団員数人の中にも死傷者が出ており、さらに地階に保管していた非常米950俵が置かれていたものの一週間くすぶり続けて煤塵と化しました。しかし校区が爆心地から至近距離にあったことから学校での児童の死者はなかったものの在籍総数1,581人(昭和20年6月30日現在)のうち、およそ1,300人が自宅やその周辺で死亡したものと推定されています。
10月には残った児童を集め授業を開始し、その後長崎師範学校男子部の仮教室を経て翌年山里校舎に復帰。その後仮設校舎に移ったりしながら学制改革を経て、昭和22(1947)年4月1日に長崎市立山里小学校になりました。翌年には永井博士から『桜』の樹木50本が贈られました。そして昭和24(1949)年11月3日には児童の被爆体験記を収録し永井博士が編集した『原子雲の下に生きて』が出版された際に出版社からの謝礼金を基金として建設された『あの子らの碑』が建立されることとなります。翌年には山里国民学校を舞台にした映画『長崎の子』が完成します。昭和26(1951)年5月の永井博士の長崎市公葬が浦上天主堂で執行された折には6年生代表が参列し弔辞を捧げています。
木造校舎の取り壊しなどを経て昭和63(1988)年には新校舎が完成し、5代目新校舎に移って現在に至っています。構内にある原爆資料室は開設時期こそ書かれていないものの新校舎建設の際に作られたもののようです。中には永井博士所縁の品々の他、被爆した学校意向をはじめとした貴重な品々が並んでいます。その中で私がひとつ気にいった物がありました。学校周辺の慰霊碑・被爆遺構が記された地図。山里小学校・2006年とあったので、平和学習の一環として行われたものだと思われます。しかしこの地図は実は他に類を見ないものであって、平和公園一帯に散らばる被爆遺構と慰霊碑が地図上に描かれている唯一のマップです。ただ入館時にはちょうど小学校の修学旅行とかち合っていたため、ゆっくりとすることができなかったので、後で作り直そうと細かく地図の写真を撮ったまままだ手を付けていません…。復元には時間も掛かるかもしれませんが、ぜひ次の長崎行きまでには再現したく思っています。
そして校舎後方には防空壕が残っています。実際に使われていたものを補修しつつ残されているもので、中の掘り方や繋がり方は垣間見ることができるようになっています。ここもやはり修学旅行の立ち寄り地のひとつとなっており、その際に収めた千羽鶴が供えられています。その謂れ書きを読みながら、学校構内に残る貴重な戦跡に黙礼をすることにしました。
そして『あの子らの碑』。山里小にほど近い如己堂で療養を続けられていた永井博士が発起し、『原爆雲の下に生きて』の印税や永井博士からの寄付や全国から集まった浄財を元手に建立されたものです。『あの子らの碑』は決して敬礼をするとかそういうものではなくて、子供達の生活の中に溶け込んで、普段の遊び場のひとつとなればいいという永井博士の思いから、碑はずんぐりした丸いものとなっており子供達が上に乗っかってもけがをしないように作られています。その奥には折り鶴の碑が建立されており、修学旅行で賑わう『スポット』として多くの千羽鶴が掛けられていました。おかっぱ頭でモンペをはき、原爆の業火の中でひざまずき、天に向かって合掌している少女の姿が刻まれている『あの子らの碑』、たまたま子供達がいなくなったことを良いことにカメラに収め、手を合わせます。
永井隆博士は長崎だけでなく郷里の島根県雲南にも記念館が建立されており、山里小学校も姉妹提携を結んでいます。博士所縁の見学した場所についてにべているだけに過ぎませんが、これにて『第三十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~浦上の聖人〝永井隆〟を訪ねて~』は終わります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス スカイマーク JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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永井隆博士所縁の浦上天主堂。
浦上天主堂 寺・神社・教会
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そしてアンゼラスの鐘。
浦上天主堂旧鐘楼 (アンジェラスの鐘) 名所・史跡
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そして博士が亡くなるまで心待ちしていた平和の聖母像(万人塚)。
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永井隆記念館へとやって来ました。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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永井隆記念館のパンフレット表面と入館券。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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永井隆記念館のパンフレット裏面、その①。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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永井隆記念館のパンフレット裏面、その②。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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永井隆記念館のパンフレット裏面、その③。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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喪に服す永井隆博士。
原爆投下後半年間夫人を含む被爆犠牲者に対し喪に服すとして髪の毛・髭を伸ばされたそうです如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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市内三ツ山で第11医療隊隊長として被爆者救護にあたられました。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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浦上教会合同慰霊祭の時に読まれた弔辞が『浦上燔祭論』と揶揄されることになりました…。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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浦上天主堂の被爆遺構やその他の展示物。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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永井隆歌碑。
玉の緒の
命の限り
吾はゆく
寂かふる
真理探究の道
永井隆 -
永井隆博士が療養と執筆活動を行った如己堂。中を見ると本当に二畳の広さしかないことがわかります。
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手前方向から見た如己堂内部。マリア像が見て取れます。
奥には療養中の永井博士の姿があります。 -
横(手前)から見た如己堂内部。反射してわかり辛いですが…マリア像の後ろにも永井博士の写真がありました。
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横(奥)から見た如己堂内部。ここで3人が暮らしていたのは事実です…。
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帳方屋敷跡碑。
帳方屋敷について
慶長18(1614)徳川家康が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外追放、教会はすべて破壊されてしまった。
当時、長崎地方には約5万人のキリシタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗をせず、以後250年間潜伏した。この間、教義を伝えるための組織がつくられた。指導者の頭を「帳方」と呼び、四つの郷に「水方(洗礼を授ける役)」を一人ずつ、さらには、各字に「聞役(指令伝達役)」を一人ずつ配置した。
この組織をつくり、初代の帳方を務めたのが孫右衛門で、以後その子孫が帳方を継承し、7代目吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続いた。ここはその屋敷跡である。
永井隆博士の妻、緑さんは、吉蔵の子孫にあたる。 -
ガイドブックに載らない史跡、長崎市立山里小学校へとやって来ました。
旧山里小学校全体像と山里国民学校説明板。 -
山里小学校校舎一角にある『山里小学校原爆資料室』
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被爆した階段の手すり。
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被曝前後の浦上の様子。
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昭和63(1988)年に解体された被爆校舎の壁。
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山里小のプレート。
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鐘。
『原爆雲の下に生きて』を元に作成された『原爆の子』に於いて撮影されたもの。 -
平成18(2006)年に山里小学校児童による取材・制作された『山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑など』のマップ。
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他にここまで纏められているものは長崎にはありません。非常に参考になる遺構地図です!
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取り敢えずここではデータのアップだけしておきます。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里小学校周辺の被爆遺構・慰霊碑などのマップ。
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山里国民学校だった時代に被爆しており、構内に山里小学校被爆資料室が設けられています。
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山里小学校校内に残る遺構の地図。
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校内マップに従って…。
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校内を歩いて行くと…。
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戦時中に掘られた防空壕が現存しています。
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防空壕の中には入れませんが…。
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落盤しているものや…。
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今なお繋がっていることがわかるものも現存しています…。
学校内に残る貴重な戦争の遺構、いつまでも残して貰いたいと思います…。 -
小学校の修学旅行で訪れている子供達が大変多かったです…。
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『あの子らの碑』碑文。
山里小学校の平和のシンボル「あの子らの碑」です。この「あの子らの碑」は、山里小学校の子どもたち、先生方、そして永井隆博士の思いがひとつになってできた碑です。
昭和20(1945)年8月9日一発の原子爆弾によって長崎に住む多くの人々が犠牲になり、この山里小学校でも1,500人以上いた子どもたちのうち、1,300人が亡くなりました。また戦争に行かずに学校に残っていた先生方が32人いましたが、そのうちのほとんど28人が亡くなりました。
10月になって授業が再開されましたが、そこに集まった子どもはわずか100人余りしかいなく、着ていた服は汚れてみすぼらしく、栄養失調で顔は青白く、はだしの者もいました。『教科書も鉛筆も帳面も、みんな焼けてしもうた』と泣きながら訴える子どもたちに、先生たちもただもらい泣きをするしかなかったそうです。
原子爆弾の投下から4年がたった昭和24(1949)年、生き残った子どもたちや先生方の原爆体験記が『原子雲の下に生きて』という本になりました。その本を発行してくださったのが永井隆博士です。
この『原子雲の下に生きて』は親や兄弟を亡くした山里小学校の子どもたちの悲しみが切々と伝わってくる作文集でした。この本を購入した全国の多くの方々の涙を誘いました。
そしてこの本が売れたお金が、子どもたちにも配られました。みんな日々の生活にも困る毎日でしたが、配られたお金の一部をこの『あの子らの碑』を建てる資金のため喜んで差し出したそうです。そうして集まった金額は当時のお金で4万円でした。
この碑を建てるために必要なお金は11万円だったそうですが、残りの7万円は永井博士が寄付してくださいました。
私たちが毎日普通に目にしているこの『あの子らの碑』ですが、山里小学校の子どもたち・先生方、そして永井博士の思いが形になって表れたものだったのです。だからこそ、私たちはこの碑、およびこの碑にこめられた思いを大切にしなければなりません。
新校舎の完成と共に今の場所に移された平和のシンボルは、こうした歴史を刻みながら、ずっと山里小学校の子どもたちを見守ってきました。きっと今の子どもたちが大人になり、その子どもが山里小学校に通うようになったとしても、この『あの子らの碑』はずっと子どもたちを見守ってくれることでしょう。
なお、永井博士の言葉によれば、子どもたちがこの碑の上で遊んでもけがをしないように、低くずんぐりとした形にしたそうです。 -
とはいっても…。
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現実には子供達でいっぱいなので…。
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写真どころでは…。
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ないっていうのが本音です…。
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天主堂のような学校建物…。
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『あの子らの碑』の後方『折鶴の碑』に供えられた多くの『千羽鶴』。
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あの子らの碑。
おかっぱ頭でモンペをはき、原爆の業火の中でひざまずき、天に向かって合掌している少女の姿が刻まれています。
右横にある石柱の正面には永井博士の筆による『平和を』、裏には『あの子らの碑』と刻まれています。
ずんぐりむっくりとしたてっぺんが丸くなっているこの碑は、永井博士の子供達に対する『想い』が込められており、上に乗っかっても危なくないようにそうなったらしいです。 -
山里小学校平和に関する施設・碑~案内板~。
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旅行記グループ あみんちゅ戦争を学ぶ旅
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