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第十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~南城:糸数アブチラガマ~<br /><br />レンタカーを借りて那覇から約1時間・約18km走り、沖縄県南城市玉城糸数667-1にある南部観光総合案内センターへと到着しました。今回の早春の沖縄旅はガマ・戦跡巡り。その第一の目的地は沖縄県南城市にある〝糸数アブチラガマ〟に決め、珍しく事前に必要な手続きを取って〝入壕〟と〝専任ガイド〟の予約を済ませています。<br /><br />糸数アブチラガマとは、元々第9師団隷下の部隊により、陣地壕として整備されました。昭和 19(1944)年10月10日の十・十の那覇空襲の後、第9師団は台湾へ配置換えとなり、そして代わりに第32軍直轄の独立混成第44旅団隷下の部隊であった独立混成第15連隊(連隊長:美田千賀蔵大佐)が整備を続け、付近の製糖所から持ってきた発電機や約1 m程の空気孔をあける等して比較的快適な陣地壕として構築されました。その後昭和20(1945)年3月に連隊は糸数城付近にあった戦闘指揮所壕へと移り、時を同じくして浦添の港川沖より始まった米軍の艦砲射撃により、糸数集落民約200名程が割り当てられたこのアブチラガマに避難して来ました。<br /><br />そして昭和20(1945)年4月1日に沖縄島北谷・読谷の海岸に米軍海兵隊が無血上陸し、沖縄での地上戦が始まります。嘉数の戦いが始まった頃玉城村(たまぐすくそん)志堅原(しけんばる)基地に駐屯していた海上挺進基地第28大隊がアブチラガマに移動し、軍民一体のガマ(壕)となります。当時の証言では軍需物資と食料がガマ内には多く積まれ、また電気も通っていたそうです。<br /><br />昭和20(1945)年4月27日独立混成第44旅団独立混成第15連隊は首里戦線へと移動、海上挺進基地第28大隊も壕を出て行きました。代わって翌4月28日南風原陸軍病院より大城幸雄軍医(見習士官)を長とし、このアブチラガマを南風原陸軍病院糸数分室としての運用が始まります。そのとき既に移動した部隊が発電機なども持ち去ったとされており、数日後大城知善(おおしろちぜん)先生に引率されて南風原よりやって来たひめゆり学徒隊14名はその電燈の灯りを見てはいないようです。砲弾を避けるように未明に到着した学徒隊は休む間もなく増え続ける重症患者の看護にあたることになります。<br /><br />その後2週間程で増援の西平守正軍医中尉、薬剤少尉と衛生兵8・9名、地元で開業されていた屋冨祖徳次郎医師とその家族、ひめゆり学徒 2 名が到着し、患者の治療にあたります。しかし水はあってもろくな薬品もない状態で重症患者の傷は悪化し、膿とウジだらけになってしまいます。その状況で傷口からの感染症が原因で脳症や破傷風患者が増加をしていくことになります。<br /> <br />しかし5月25日には第32軍司令部からの南部への撤退命令が出て、重症患者やひめゆり学徒隊はアブチラガマを後にし、糸満市伊原の伊原糸数分室壕 (第一外科壕) へ移動します。その際に自立歩行ができない患者百数十名が残されます。その後取り残された重症患者はアブチラガマを出て、南部へと這いつくばって向かうものもいたそうですが、砲弾の嵐の中泥まみれになってこと切れた兵士も多くいたとされています。<br /> <br />ここまでの流れで避難している筈の住人の動きが書かれていません。というのも避難した住人にはそれ以上の行動を取る余裕すらなかったことは容易に想像がつきます。この糸数アブチラガマ、軍民一体の避難壕ではあれど居住区が分かれていたことが理由に挙げられます。最初軍が避難壕としていたところに住人が避難、その後病院壕の時期を経て歩けない患者を残して行った…。この昭和20(1945)年5月25日とされる糸数分院の南部撤退の期日を境に一時は約600名程の重症患者を収容していた〝病院壕〟としてのアブチラガマの役目は終わるものの、自分の意思とは関係なく〝放置〟された兵士と、糧秣倉庫の監視の兵士、そして住人は残ったままとなります。そして間もなく玉城村にも米軍が進入し、村内のガマや壕では避難民が村内百名の収容所に入ることになります。そして6月6日には投降を呼び掛けた米兵(一説には収容されていた民間人の説あり)を銃撃したことにより、一旦は米兵の進入を阻止したもののすぐにガマ出口より黄燐弾を投げ込まれ、結果ケガ人を出してしまいます。そして馬乗り戦法のひとつとしてガマ内にガソリンを流し込まれましたが、幸いなことに引火はしなかったもののこの揮発性の臭いでもって重症患者や住人に死者が出ました。<br /> <br />その後も馬乗り戦法は続き、入口に大砲を仕掛けられるも失敗に終わります。しかしこの使えなくなった大砲を利用し、米軍は壕入口を埋める手段に出ます。病院壕に入っていた重症患者や軍医、看護婦や16名のひめゆり学徒隊が南部に撤退した後、取り残された重症の兵士と、糧秣倉庫の監視の兵士、そして住人がアブチラガマに残り、その中でも入口付近にある敵の攻撃を受けやすい危険な場所に住人は避難していました。<br /> <br />昭和20(1945)年6月23日牛島司令官の自決により沖縄の日本軍組織的戦闘は終了します。しかし情報網が途絶している中その日=戦争の終結とはなりません。米軍の掃討作戦の終了は7月2日とされており、その後も壕に籠ってゲリラ戦を展開していた部隊が最終的に投降したのは8月下旬のことでした。その時期とほぼ同時期である8月22日にアブチラガマに避難していた住人とともに重症兵士7名が投降し、米軍に収容されます。そして正式に沖縄戦が終了した9月7日頃までに最後まで壕に立て籠もっていた住人2名と兵士1名が投降し、アブチラガマに避難、若しくは収容されていた住人や重症患者の生存者が収容されることになります。ただこの最後までガマ内部に居残った住人というものも、ひとり居残った兵士の命令だったとの説が正しいようです。<br /> <br />戦後となり米軍の統治下で昭和23(1948)年頃から糸数集落やアブチラガマ内部の遺骨収集が開始され、取り集められた遺骨はガマ内部の〝戦没者之墓〟に埋葬されました。その後その遺骨はカマス(藁で編んだ袋)に詰められ、糸満の魂魄之塔に埋葬されたとされています。<br /> <br />現在糸数アブチラガマの入場は管理されており、原則事前申し込みが必要となっています。シーズンオフには飛び込みで入場もできる場合があり、私が訪れた時もそのようにされた方もいらっしゃったようです。しかし平和学習等で団体入場が入っている場合は、ガマに一度に立ち入れる入場者数が決められており、不可能な場合も多々あります。必要なものは管理をされている南部観光総合案内センターでお借りすることができるものの、安全の観点からサンダルやヒールでは入壕はできません。事前に専属ガイドの申し込みを済ましており、 G さんという 50代半ばの女性に案内をして頂きました。どうしても軍民一体の避難壕の場合、住人が軍に受けた〝仕打ち〟を強調され過ぎてしまい、本当はどうなのか?と思うことが多々あるものの、それに徹しない説明にはやはり住人は勿論取り残された重症患者の兵士も被害者であったという史実の追体験を〝心から感じること〟ができたように思えます。<br /> <br />約270mの長さのある糸数アブチラガマ、その中で見学可能な部分は限られてはいます。弾薬庫跡など落盤のため入壕できない場所も事実として存在しています。しかし犠牲者も出た反面、ガマに避難していたからこそ〝助かった〟という事実もあるという話は、南風原陸軍病院糸数分院が南部撤退をするにあたり、同行したひめゆり学徒 16 名の内犠牲者は糸数分院では〝出ていない〟事実からも伺えます。意識のある破傷風患者が、脳症患者を〝羨ましい〟と言った記録があるそうですが、それは亡くなるまで意識のある破傷風患者が、意識混濁を惹き起こし、現実かどうかがわからなくなっている脳症患者を例えたものだったようです。このあたりの記述に関してはあまり専門的に書かれているものが少なく、状況から判断するにウィルス性の脳浮腫を伴ったものだろうと推測するのであれば、治らないものではなかったため、ひとことで現状把握ができていないかどうかを断定することもできないように思えます。しかし治療薬もない状況では壊疽を起こした四肢を麻酔なしで〝切断〟するしかなかった。それを外に捨てに行く余裕も時の流れとともに不可能になって行き、ガマの中に遺体や切断部位が放置されていた。それらが腐臭を発しガマの中を漂っていた。また食事の世話や排泄物の処理はひめゆり学徒隊の仕事となっており、住人女性の助けはあったとされているものの排泄物を大鍋に入れてガマから出て捨てに行くことは大変な重労働であり、その際につまずいて中身をかぶってしまったというような苦労話も残っています。<br /> <br />意識混濁を起こしている重症患者も生理的欲求は普通にあり、空腹によるひもじさゆえ、〝切断された四肢を食べさせろ〟と言ったような発言もあったとされているものの、それが戦争の悲劇という訳ではないように思えます。現実に独力で出来るものではないため、〝脳症〟という病状を鼓舞した〝作為的〟なものにしか聞こえないところがあります。その部分だけを興味本位で知ろうとすることは、犠牲者は勿論のこと生還された避難民や兵士までをも冒涜することになるのではないでしょうか。そのような気持ちで入る場所ではないと思えてなりません。<br /> <br />最後にひとつ心に残った巷に流れている〝間違い〟を紹介します。壕内でライトを消し暗闇の追体験をするというものですが、実は本来の意味は違うところにあるようです。暗闇の追体験は、正直ガマに入った瞬間に体験できるものでしょう。団体で入りガマ内部を昼間のように照らすことができる〝サーチライト〟を携行するならともかく、懐中電灯程度ではほとんど全体を見渡すことはできません。しかしガマを歩き、出口付近にて懐中電灯を消すことは、出口から入ってくる〝外の明るさ〟がガマ内で生活することを余儀なくされた人々の目にどのように映っていたのか…、それを追体験するためのものになるそうです。勿論天候や時間によって左右されるものではあれど、蝋燭などの燈火以外には光源のない世界で両目の瞳孔が開いた状況で目に入る光は、眩しい以上のものであったに違いありません。<br /> <br />ガマの入壕が有料化され、ガイドを付けなければ許可されないという現実には賛否論があることは事実です。しかし足元の悪いガマの中を歩くのに安全を確保せずして行うことは非常に危険を伴うことには違いありません。ガマ内部の管理や安全性の確保というハード面、そして注意喚起を行いながら説明者としての役割も担うガイドの同行には、必要不可欠な要素があるのではないでしょうか。なんでもかんでも〝金儲け〟だと十把一絡げに言う無知な方も残念ながら多くいらっしゃいます。しかし70年経った〝戦跡〟に於いて、自然のままだからゆえに起こりうる怖さを、普段の性格に於いて慣れていない観光客に〝安全に体験させる〟ことは、思っている以上にリスクが伴っていることも忘れてはならないことのように思えてなりません。<br /><br />南部への撤退命令が出たことによって戦場の真っ只中を歩まなければならなかったひめゆり学徒のその後の足跡は、それをビジュアルで表現できるときに記述して行きたいと思います。<br /><br />ガマの体験時間は約30分とされてはいますが、色々と質問を投げ掛けてガイドさんに答えて貰った結果、時間をオーバーしてゆっくり見学ができました。迷惑な輩だと反省する一方で、丁寧にご案内頂いたガイドのGさんに感謝をして締め括りとします。

第十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~南城:糸数アブチラガマ~

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2016/02/28 - 2016/02/28

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~南城:糸数アブチラガマ~

レンタカーを借りて那覇から約1時間・約18km走り、沖縄県南城市玉城糸数667-1にある南部観光総合案内センターへと到着しました。今回の早春の沖縄旅はガマ・戦跡巡り。その第一の目的地は沖縄県南城市にある〝糸数アブチラガマ〟に決め、珍しく事前に必要な手続きを取って〝入壕〟と〝専任ガイド〟の予約を済ませています。

糸数アブチラガマとは、元々第9師団隷下の部隊により、陣地壕として整備されました。昭和 19(1944)年10月10日の十・十の那覇空襲の後、第9師団は台湾へ配置換えとなり、そして代わりに第32軍直轄の独立混成第44旅団隷下の部隊であった独立混成第15連隊(連隊長:美田千賀蔵大佐)が整備を続け、付近の製糖所から持ってきた発電機や約1 m程の空気孔をあける等して比較的快適な陣地壕として構築されました。その後昭和20(1945)年3月に連隊は糸数城付近にあった戦闘指揮所壕へと移り、時を同じくして浦添の港川沖より始まった米軍の艦砲射撃により、糸数集落民約200名程が割り当てられたこのアブチラガマに避難して来ました。

そして昭和20(1945)年4月1日に沖縄島北谷・読谷の海岸に米軍海兵隊が無血上陸し、沖縄での地上戦が始まります。嘉数の戦いが始まった頃玉城村(たまぐすくそん)志堅原(しけんばる)基地に駐屯していた海上挺進基地第28大隊がアブチラガマに移動し、軍民一体のガマ(壕)となります。当時の証言では軍需物資と食料がガマ内には多く積まれ、また電気も通っていたそうです。

昭和20(1945)年4月27日独立混成第44旅団独立混成第15連隊は首里戦線へと移動、海上挺進基地第28大隊も壕を出て行きました。代わって翌4月28日南風原陸軍病院より大城幸雄軍医(見習士官)を長とし、このアブチラガマを南風原陸軍病院糸数分室としての運用が始まります。そのとき既に移動した部隊が発電機なども持ち去ったとされており、数日後大城知善(おおしろちぜん)先生に引率されて南風原よりやって来たひめゆり学徒隊14名はその電燈の灯りを見てはいないようです。砲弾を避けるように未明に到着した学徒隊は休む間もなく増え続ける重症患者の看護にあたることになります。

その後2週間程で増援の西平守正軍医中尉、薬剤少尉と衛生兵8・9名、地元で開業されていた屋冨祖徳次郎医師とその家族、ひめゆり学徒 2 名が到着し、患者の治療にあたります。しかし水はあってもろくな薬品もない状態で重症患者の傷は悪化し、膿とウジだらけになってしまいます。その状況で傷口からの感染症が原因で脳症や破傷風患者が増加をしていくことになります。

しかし5月25日には第32軍司令部からの南部への撤退命令が出て、重症患者やひめゆり学徒隊はアブチラガマを後にし、糸満市伊原の伊原糸数分室壕 (第一外科壕) へ移動します。その際に自立歩行ができない患者百数十名が残されます。その後取り残された重症患者はアブチラガマを出て、南部へと這いつくばって向かうものもいたそうですが、砲弾の嵐の中泥まみれになってこと切れた兵士も多くいたとされています。

ここまでの流れで避難している筈の住人の動きが書かれていません。というのも避難した住人にはそれ以上の行動を取る余裕すらなかったことは容易に想像がつきます。この糸数アブチラガマ、軍民一体の避難壕ではあれど居住区が分かれていたことが理由に挙げられます。最初軍が避難壕としていたところに住人が避難、その後病院壕の時期を経て歩けない患者を残して行った…。この昭和20(1945)年5月25日とされる糸数分院の南部撤退の期日を境に一時は約600名程の重症患者を収容していた〝病院壕〟としてのアブチラガマの役目は終わるものの、自分の意思とは関係なく〝放置〟された兵士と、糧秣倉庫の監視の兵士、そして住人は残ったままとなります。そして間もなく玉城村にも米軍が進入し、村内のガマや壕では避難民が村内百名の収容所に入ることになります。そして6月6日には投降を呼び掛けた米兵(一説には収容されていた民間人の説あり)を銃撃したことにより、一旦は米兵の進入を阻止したもののすぐにガマ出口より黄燐弾を投げ込まれ、結果ケガ人を出してしまいます。そして馬乗り戦法のひとつとしてガマ内にガソリンを流し込まれましたが、幸いなことに引火はしなかったもののこの揮発性の臭いでもって重症患者や住人に死者が出ました。

その後も馬乗り戦法は続き、入口に大砲を仕掛けられるも失敗に終わります。しかしこの使えなくなった大砲を利用し、米軍は壕入口を埋める手段に出ます。病院壕に入っていた重症患者や軍医、看護婦や16名のひめゆり学徒隊が南部に撤退した後、取り残された重症の兵士と、糧秣倉庫の監視の兵士、そして住人がアブチラガマに残り、その中でも入口付近にある敵の攻撃を受けやすい危険な場所に住人は避難していました。

昭和20(1945)年6月23日牛島司令官の自決により沖縄の日本軍組織的戦闘は終了します。しかし情報網が途絶している中その日=戦争の終結とはなりません。米軍の掃討作戦の終了は7月2日とされており、その後も壕に籠ってゲリラ戦を展開していた部隊が最終的に投降したのは8月下旬のことでした。その時期とほぼ同時期である8月22日にアブチラガマに避難していた住人とともに重症兵士7名が投降し、米軍に収容されます。そして正式に沖縄戦が終了した9月7日頃までに最後まで壕に立て籠もっていた住人2名と兵士1名が投降し、アブチラガマに避難、若しくは収容されていた住人や重症患者の生存者が収容されることになります。ただこの最後までガマ内部に居残った住人というものも、ひとり居残った兵士の命令だったとの説が正しいようです。

戦後となり米軍の統治下で昭和23(1948)年頃から糸数集落やアブチラガマ内部の遺骨収集が開始され、取り集められた遺骨はガマ内部の〝戦没者之墓〟に埋葬されました。その後その遺骨はカマス(藁で編んだ袋)に詰められ、糸満の魂魄之塔に埋葬されたとされています。

現在糸数アブチラガマの入場は管理されており、原則事前申し込みが必要となっています。シーズンオフには飛び込みで入場もできる場合があり、私が訪れた時もそのようにされた方もいらっしゃったようです。しかし平和学習等で団体入場が入っている場合は、ガマに一度に立ち入れる入場者数が決められており、不可能な場合も多々あります。必要なものは管理をされている南部観光総合案内センターでお借りすることができるものの、安全の観点からサンダルやヒールでは入壕はできません。事前に専属ガイドの申し込みを済ましており、 G さんという 50代半ばの女性に案内をして頂きました。どうしても軍民一体の避難壕の場合、住人が軍に受けた〝仕打ち〟を強調され過ぎてしまい、本当はどうなのか?と思うことが多々あるものの、それに徹しない説明にはやはり住人は勿論取り残された重症患者の兵士も被害者であったという史実の追体験を〝心から感じること〟ができたように思えます。

約270mの長さのある糸数アブチラガマ、その中で見学可能な部分は限られてはいます。弾薬庫跡など落盤のため入壕できない場所も事実として存在しています。しかし犠牲者も出た反面、ガマに避難していたからこそ〝助かった〟という事実もあるという話は、南風原陸軍病院糸数分院が南部撤退をするにあたり、同行したひめゆり学徒 16 名の内犠牲者は糸数分院では〝出ていない〟事実からも伺えます。意識のある破傷風患者が、脳症患者を〝羨ましい〟と言った記録があるそうですが、それは亡くなるまで意識のある破傷風患者が、意識混濁を惹き起こし、現実かどうかがわからなくなっている脳症患者を例えたものだったようです。このあたりの記述に関してはあまり専門的に書かれているものが少なく、状況から判断するにウィルス性の脳浮腫を伴ったものだろうと推測するのであれば、治らないものではなかったため、ひとことで現状把握ができていないかどうかを断定することもできないように思えます。しかし治療薬もない状況では壊疽を起こした四肢を麻酔なしで〝切断〟するしかなかった。それを外に捨てに行く余裕も時の流れとともに不可能になって行き、ガマの中に遺体や切断部位が放置されていた。それらが腐臭を発しガマの中を漂っていた。また食事の世話や排泄物の処理はひめゆり学徒隊の仕事となっており、住人女性の助けはあったとされているものの排泄物を大鍋に入れてガマから出て捨てに行くことは大変な重労働であり、その際につまずいて中身をかぶってしまったというような苦労話も残っています。

意識混濁を起こしている重症患者も生理的欲求は普通にあり、空腹によるひもじさゆえ、〝切断された四肢を食べさせろ〟と言ったような発言もあったとされているものの、それが戦争の悲劇という訳ではないように思えます。現実に独力で出来るものではないため、〝脳症〟という病状を鼓舞した〝作為的〟なものにしか聞こえないところがあります。その部分だけを興味本位で知ろうとすることは、犠牲者は勿論のこと生還された避難民や兵士までをも冒涜することになるのではないでしょうか。そのような気持ちで入る場所ではないと思えてなりません。

最後にひとつ心に残った巷に流れている〝間違い〟を紹介します。壕内でライトを消し暗闇の追体験をするというものですが、実は本来の意味は違うところにあるようです。暗闇の追体験は、正直ガマに入った瞬間に体験できるものでしょう。団体で入りガマ内部を昼間のように照らすことができる〝サーチライト〟を携行するならともかく、懐中電灯程度ではほとんど全体を見渡すことはできません。しかしガマを歩き、出口付近にて懐中電灯を消すことは、出口から入ってくる〝外の明るさ〟がガマ内で生活することを余儀なくされた人々の目にどのように映っていたのか…、それを追体験するためのものになるそうです。勿論天候や時間によって左右されるものではあれど、蝋燭などの燈火以外には光源のない世界で両目の瞳孔が開いた状況で目に入る光は、眩しい以上のものであったに違いありません。

ガマの入壕が有料化され、ガイドを付けなければ許可されないという現実には賛否論があることは事実です。しかし足元の悪いガマの中を歩くのに安全を確保せずして行うことは非常に危険を伴うことには違いありません。ガマ内部の管理や安全性の確保というハード面、そして注意喚起を行いながら説明者としての役割も担うガイドの同行には、必要不可欠な要素があるのではないでしょうか。なんでもかんでも〝金儲け〟だと十把一絡げに言う無知な方も残念ながら多くいらっしゃいます。しかし70年経った〝戦跡〟に於いて、自然のままだからゆえに起こりうる怖さを、普段の性格に於いて慣れていない観光客に〝安全に体験させる〟ことは、思っている以上にリスクが伴っていることも忘れてはならないことのように思えてなりません。

南部への撤退命令が出たことによって戦場の真っ只中を歩まなければならなかったひめゆり学徒のその後の足跡は、それをビジュアルで表現できるときに記述して行きたいと思います。

ガマの体験時間は約30分とされてはいますが、色々と質問を投げ掛けてガイドさんに答えて貰った結果、時間をオーバーしてゆっくり見学ができました。迷惑な輩だと反省する一方で、丁寧にご案内頂いたガイドのGさんに感謝をして締め括りとします。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター

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  • 琉球熱さん 2016/03/12 21:54:10
    糸数壕
    たかティムさん、こんにちは

    糸数壕は、私が知っているものとだいぶ変わってしまったようです。
    入場者が制限されていたり、ガイド付きだったり、、、
    私が訪問した頃は、人数制限の話は聞いたことがなく、入場料もありませんでした。ただ、案内所で入場料を払うと懐中電灯を貸してくれ、後はご自由にという感じでした。

    平日だったために、ほかに入場者はおらず、文字通り「たった一人」で入り、漆黒の闇を体験しました。
    懐中電灯の先に浮かび上がるリアルな痕跡に、当時は恐怖よりも哀悼の念を持ったものです。今は一人で入る勇気はありませんが…

    それはそれでよい体験でしたが、やはりこのような史跡は専門のガイドが付いた方が良いですね。より深い知識が得られますから。

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