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第三十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄読谷村:生と死とのはざま~シムクガマ・チビチリガマ編~<br /><br />自身5回目となる慰霊の日前後の来沖にあたり、既訪ではあるもののその後大きな変化があった場所として読谷村のチビチリガマを、そして場所が分からなかった場所として未訪問だったシムクガマを訪れる行程を組んでみた。<br /><br />昭和20(1945)年4月1日、北谷・読谷の沖縄西海岸に上陸した米軍部隊。その地から僅か600mの位置にあるチビチリガマには、十・十空襲以降集落民が爆撃を受ける度にここへと逃げ込んでいた。また米軍が上陸する前1週間には、上陸を容易くさせようとする砲撃が昼夜通しで行われており、チビチリガマから出られずに籠る状態だったとされている。<br /><br />4月1日に上陸を開始した米軍部隊は当日午前中にはチビチリガマに到着しており、ガマに籠る避難民に出て来るように呼び掛けている。しかし皇民化主義の影響を受けた者が言い放った「アメリカーを恐れることはない、竹槍で戦おう。」との意見に触発された避難民数人が竹槍を持ったままガマの外へと出て行き、武装した米兵に対し威嚇するような行動を取ったと言われている。<br /><br />米兵は数人だったと言われているが、竹槍を持った3名の避難民と相対しても結果は明白であった。降伏する様子を見せない避難民に対し、米兵は機関銃や手榴弾で応酬し3人のうち2人が重傷を負い後に死亡する。パニックになった避難民の中には積まれた布団に火をかけて窒息死を図ろうとするも、別の避難民がそれを消し止めて難を逃れている、<br /><br />またチビチリガマから600m程内陸に入った場所にあるシムクガマにもやはり同様の理由から付近集落から避難民が逃げ込んでおり、その数はチビチリガマの凡そ10倍とも言われる約1,000名が逃げ込んでいた。砲撃によって遮るものがほとんどなかったであろうチビチリガマとシムクガマ。チビチリガマでの小競り合いがあった2時間後には既に米兵がシムクガマへと到着している。警防団の本部も置かれていたシムクガマ。元日本軍兵士が団長となっており、避難民のリーダー的役割を担っていたのは同じではあれど、避難民の数の違いから〝鶴の一声〟で動かせるものではなかったと言われている。そんな中やはり「デテコイ」と呼びかける米兵に応じるものはなく、警防団長の命令によって数人の団員の少年達がやはり竹槍を片手に出て行こうとするがそれを止めたおじぃがいた。比嘉平治・比嘉平三氏2名は元ハワイ移民一世。ハワイ王国の滅亡によりアメリカ合衆国準州となり、米兵が日常生活に於いて動いている様を自らの目で確認して来ている。〝アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)〟との言葉を避難民に掛け、二人はガマから外へと向かい米兵と直談判を行った。この際〝英語での流暢なやり取り〟と記されている物も散見するが、当時のハワイでの生活に於いてどの程度の〝English〟が話せたかは疑問ではある。しかし肌でアメリカを知る彼らにとって米兵が言っていることを理解できれば後は〝body language〟を交えての拙い英語でもやり取りが可能であるということは知っていた。ハワイでの生活の中から経験的に得られた知識と行動力、それが結果として交渉を成功に導き、1,000名もの避難民の命を助けたことは紛れもない事実である。<br /><br />そんなことがシムクガマで起こっている中でチビチリガマへと走った者がいなかったとされているのは少し疑問が残る。使者はなかったとされてはいるもののやはり〝聞き入れなかった〟というのが正しいように思う。翌2日には再び米兵が投降を呼びかけるためにチビチリガマを訪れるが、前日の銃撃によって死者が出ていることしかわからない状態では冷静な判断も下せないというのが事実であろう。撃って出ることもしない代わりに降参する素振りも見せない。そんな中では人間の精神状態が平静を保つことなどできる訳などなく、窮地に立たされた少女の叫び声をきっかけにして阿鼻叫喚の図が繰り広げられることに繋がった。結果としてチビチリガマでの犠牲者85名(うち2名は米兵の狙撃による犠牲者)が〝集団自決〟によるものとされているが、その自決が連鎖する中で積んでいた布団にも火がかけられたことで窒息に耐え切れずに外へと出たことによって九死に一生を得た生存者が、長きに渡りその惨劇を口外することはなかった。これは家族同然の生活をしていた集落民に於いて、殺し殺された者は家族同然の者だったことは容易に想像がつくであろう。凄惨な出来事である上に家族が手をかけ・かけられた〝史実〟を語ることは〝死人の恥を曝け出す〟ことに繋がると考えるのは、現在以上に家族のつながりが強かった時代であったことを考えるとなおさらである。<br /><br />しかし読谷村をはじめとする調査が始まった戦後40年を迎えようとする頃になってやっと生存者の重い口が開かれることになった。凄惨な地獄絵図さながらの光景であったことに加え、風評によって〝殺人鬼〟との汚名を着せられたまま、事実を明かすことができず集落を去った者等の二次的被害者の存在までが明らかにされるようになった。体験者を含めた賛同者達が、それぞれの思いを込めて集団制作をした〝平和の像〟が集団自決後42年を迎える昭和62(1987)年4月2日に除幕され、チビチリガマ入口に置かれることとなった。しかし完成から僅か7か月後の動燃11月8日に平和の像は原型を留めないまでに破壊された。右翼構成員2名の仕業であったこの事件には、壊された平和の像傍らに残された〝国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス〟との声明文が残されていた。これには同年10月6日に読谷村で行われた〝海邦国体〟のソフトボール競技の会場に於いて、掲揚されていた日章旗を知花昌一が焼き捨てる事件に対する報復であったとしている。知花はこの〝日の丸焼き捨て事件〟の実行犯として起訴され、8年間に渡る裁判の末〝器物損壊罪〟で有罪となり、懲役一年執行猶予三年の刑が確定している。また平和の像を破壊した右翼構成員は〝暴力行為等処罰法(集団的器物損壊)〟違反の罪に問われ、やはり有罪となっている。<br /><br />この時期には法律上の〝国旗〟というものが制定されておらず(日の丸が国旗と制定されたのは平成11(1999)年)、日の丸の旗代金3,000円の器物損壊罪とされている。そして右翼構成員に課された〝暴力行為等処罰法違反(集団的器物損壊)〟は個人ではなく複数人での器物損壊を行ったとするものであり、刑としては後者の方がより重いものとされてはいるが、内容として重なっている〝器物損壊〟に対する罪という点では同じものだと判断されている。史上稀にみる地上戦の行われた沖縄に於いて〝日の丸〟に対する感情はそれぞれあるとは思うものの、結局は物を壊して有罪判決を受けたことには変わりはない。しかしそこに見えてくるものは〝思想〟ではないかと思えてしまうのである。知花は昭和47(1972)年5月15日の沖縄返還後も米軍基地が残ったままであり、米国人という支配者階級と沖縄人(ウチナー)という被支配者階級が存在する様は、返還前となんら変わらないことに対し、掲げられた日の丸に対し「感情的になってしまった」と答えている。事実返還を待ち望む琉球政府下では〝日の丸〟を振っていたことを述べている。日本国政府の沖縄に対する対応への失望が〝日の丸憎し〟に繋がっていると言っても過言ではないだろう。しかしそう考えた知花がいるように、日の丸を敬う考えを持つ者もいるのである。心の拠りどころを汚すようなことをされては、喧嘩になっても仕方がないと思うのは私だけであろうか。<br /><br />結局のところそれぞれが犯した罪を償って裁判は終わった。しかしチビチリガマで亡くなった身内を持つ者にとって、慰霊のために作られた〝平和の像〟が壊される事実だけが残り、その怒りの矛先を向けるものもなかったのが事実である。遺族が発した「犠牲者は二度殺された」とのコメントには、このまま静かにしておいて欲しいとも取れるニュアンスが感じられる。事実破壊された平和の像が修復されるまでに8年の月日を要しており、遺族達の複雑な心境が伺える。そして平和の像は修復されても遺族の受けたダメージは計り知れないものがあったことを示すように、聖域チビチリガマとの境を示す「立入禁止」の札が立てられ、ガマ入口で外界との関わりを一切拒むような存在感を呈して今日に至っている。<br /><br />終戦間近に起こったチビチリガマでの惨劇。その様子を目の当たりにした生き残りの方々が重い口を開いて詳細が広く一般に知られることとなった。そして犠牲者の慰霊碑として建立された平和の像が、日の丸の焼き捨てに対する報復として破壊された。ただただ身内の御霊を慰めたいだけの遺族からすればそっとしていて貰いたいだけであり、敢えて破壊の標的にされる平和の像を修復したくはない気持ちを持つことは容易に想像出来ることである。それ故に平和の像の修復迄に8年もの月日を要したことからも感じ取ることができよう。<br /><br />二度とこのようなことが起こらないとの願いを込めて修復された平和の像ではあったが、数年前に皆の願いをぶち壊す出来事が起こった。地元の少年達によるチビチリガマそのものの破壊行為である。平成29(2017)年9月のことである。事件の様子を聞いた関係者達は残念だという気持ちと同時に怒りを露わにした。当初〝沖縄ヘイト〟だとする意見が噴出したが、防犯カメラの映像から県内中部に住む10代の少年3人の犯行とわかり逮捕に至った。容疑は礼拝所不敬罪ではなく器物損壊罪。より重い罪に問われた理由として犠牲者達の眠る墓を意図的に壊すなど悪質さが高いことを挙げている。当初少年達は〝肝試し〟のために訪れたと話したとされているが、公開されたガマの内壁や遺物の損壊状況から見ても〝ついでに〟という言い訳は通じないものと判断するのが妥当である。沖縄県警普天間署での取り調べを経て那覇家裁沖縄支部が保護観察処分を言い渡しているが、その狙いがわからないのが私の本音である。沖縄での平和教育を揶揄することを〝沖縄ヘイト〟と表現をする。沖縄ヘイトはナイチャーや外国人の持つ〝差別意識〟だとシュプレヒコールを上げる。そうすることにより被害者意識を高揚させるのであろうが、今回の事件は犯人はまさかのウチナーの少年達だった。<br /><br />七十余年前に居住する沖縄の地で史上稀に見る地上戦が行われたという史実。沖縄県内の学校では欠かすことのできない授業として〝平和教育〟を行なっていると自負する教育者。しかし今回の事件により至らない部分が浮き彫りになったのも事実である。沖縄ヘイトを逆手に取りウチナーの潔白を訴えた学者やマスコミの責任も大きいはずである。また一貫性のない少年達の発言にもなにやら胡散臭い大人の入れ知恵を疑わずにはいられない。破壊が露見してすぐに部外者を疑うことに余念はなかったはず。しかし真犯人が分かると途端にトーンダウンしたのも事実である。少年達に課せられたものは①遺族への謝罪、②ガマの修復や清掃、③ガマでの集団自決に関するレポートの作成となっているが実際にはどこまで行われたか不明瞭となっている。遺族への謝罪声明は発表されたがガマの修復・清掃に携わったという記録は見当たらない。そして気になるレポートだが学生を経験した者ならば誰でも分かることとして、読む者が満足するように書くのが鉄則であり、手直しを加えられるのはほぼ間違いないと言えるのではないだろうか。結果として〝軽はずみな行動を取ってしまい、多くの方々に不快な思いをさせてしまったことを申し訳なく思い心から反省をする〟旨のものとなるのは疑う余地がないのではなかろうか。<br /><br />今回事件後のチビチリガマを訪れて、聖地独特の厳か感を感じるものの、前回には感じなかった違和感を覚えるに至った。すぐにはそれがなになのかわからなかったこともあり、その際にガマ一帯をカメラに収めて後から確認したが、どうやら前回にはなかった数多くの手作りの地蔵像があることがわかった。後で調べたことだがこの少年達の手によって作られたものである。壕やガマと呼ばれるものの中で戦時中に多くの犠牲者を出したところでは少なからず地蔵像が置かれていることが多い。しかし穏やかな顔つきの地蔵像には慰霊の気持ちがひしひしと伝わって来て、一体感を感じるものであるがチビチリガマに於ける地蔵像からはそういったものが感じられない。偏見かも知れないが本当に謝罪と慰霊の気持ちを込めて作られたものであればそんな風には感じることはまずないと思う。そこに地蔵像作成の意図に対し疑問を持ったのがその理由である。真実はどうなのかはわからないが、浮いてしまうものならばただの偶像と取られても仕方がないのではというのが私の意見である。<br /><br />昔とは違って今はSNSでちやほやされるために手段を厭わないと言った〝自己満足〟のためにネタになることをしている者が多いという事実。それがエスカレートした結果がチビチリガマの破壊に繋がったような気がしてならない。つまりそう言った流行りは衝動的というよりもむしろ用意周到にして行われているのが事実である。既に時代は受け身の教育をするだけで目的を達成できるものではなくなっているようにしか見えないと考えている。<br /><br />沖縄ヘイトと言われれば仕方がないが、今回チビチリガマを訪れた際に学生を引率しているガイドが唱える都合の良い内容を長時間に渡り喋り続ける姿を目の当たりにした。私自身相手にする気は毛頭ないが、既に話に飽きた若者が明後日の方向を見ているにもかかわらず話を続け、史実を視覚で感じ取れる貴重は史跡であるチビチリガマをガイドという〝金儲け〟の材料としていることには閉口した。またガイド団体間で調整されて複数の団体が同じ場所を占領しないようにするのは当たり前の筈だが、そんな配慮もされてはおらず、ふたつの30名程の団体がガマ正面に陣取り一般の観光客が手を合わせることすら出来ない状況を作り出している様に対し、得意げな話し方をし続けている方達にどの様なポリシーを持って引率をしているのか?どういった言い訳をするのが問い詰めたいと改めて思うシチュエーションでもあった。どうやら天候不順の影響で足下の悪いシムクガマへは行かず、その時間もチビチリガマに費やす計算だったようで、足下の汚れのない若者をまた別の場所に案内をしている様子であった。<br /><br />落ち着いて手も合わせられない状態で長居をする気も起こらず一旦チビチリガマを離れ、シムクガマへと向かう。チビチリガマのように通路が整備されておらず、雨が降り続ける中では赤土粘土質の通路は宛らスキー場のゲレンデを彷彿させるものと化していた。ひっくり返らないように気をつけても普通のスニーカー履きで慣れない足場を歩くのは所詮無茶なことだった。横に歩いていた谷足が滑った。その瞬間反射的に手がまわりの草を掴んで転ぶことは避けられた。反射神経は衰えていない!と思ったのもつかの間、左手に握っていた〝車のキー〟を手放してしまった。しかし地面に落ちたような音はしなかった。焦って探しても見つからない。落ち着け~と深呼吸を何回もしつつ、景色に同化したキーを探す。あった!投げることもしなかったため、ギリギリ手が届く場所に落ちていた。なんとか鍵を回収してポケットに入れなおし、おっかなびっくりガマへの道を歩んで行く。大きな口を開いたガマの中にあるひとつの碑。これが写真でしか見たことのない〝救命洞窟之碑〟であることを認識するのにに時間はかからなかった。<br /><br />訪れたくても場所がわからなかったために今日になってしまったが、意外にも救命洞窟之碑が建立されたのは平成7(1995)年のことである。チビチリガマの平和の像に遅れること8年ということに違和感を感じてしまう。チビチリガマの惨劇が表面化し、平和の像が建立されるも破壊されてしまった現実。幾多の変遷を経て復活を遂げた時期と重なっていることに違和感を感じるのは私だけなのであろうか。シムクガマは人命が助かった場所でもある。碑が建立された以外は当時からそのままであり、容易く行くことが出来るようになっているチビチリガマとはえらい違いである。<br /><br />地下水脈の流れがガマの奥に流れて行く水の音。雨天の中ではそれがまた反響して聞こえるために、その規模と変わらないガマを取り巻く環境を改めて認識することが出来た。人の手が加わらない様は、多くの沖縄戦跡が凄まじい勢いで自然に帰ろうとする現実を彷彿させる。開発を伴った戦跡の破壊は、勝ち目があることを前提にしてやむを得ないように思うところがある。沖縄の前途を開くものとして。過去を残すことにより合理的な生活の質の向上を妨げることを強いることはできないと考えるからである。とはいえ無計画なリゾート開発を進めることには反対である。眉唾物の箱物を内地資本で作り上げたとしても、儲けるだけ儲けて陰りが見えると途端に手を引く。そんな建物を引き継いでも息を吹き返すことなど不可能であり、結局は廃墟と化すだけだと過去の例から見ても明らかであるからである。<br /><br />シムクガマ界隈に急な開発が入るとは思えないが、手入れをマメにする訳でもなく自然の流れに流されるままのシムクガマ。600mの距離が生死を分けたとは表現しても、やはりガイド的にはネタがないのだろう。チビチリガマの中に入ったことは勿論無いが、シムクガマの中に入って外から差し込む光を見るとガマの入口の大きさから、ガマ内部から見えた光量も避難民の方々の生き方を左右したのでは、そんな気持ちになった。ぬかるんだ道に大勢の歩いた形跡が見られなかったことから、やはりガイドに連れられた団体はここヘは来ていないだろうと思いつつ、自らが帰れなくなる心配もあり帰路につくことにした。行きの教訓は生かされたようで足は滑るもののバランスは崩さずに車に戻ることができ、改めてチビチリガマを訪れることにした。<br /><br />改めてチビチリガマの一帯を見回すと、以前滋賀県の中学校が修学旅行で作成したと思われる陶板製の碑も無くなっていた。それが事件に関連があるのかはわからないが、必要以上に飾ることが聖地を聖地と思わせなくしているとも考えられる、必要最小限の史実を知らせるものだけを置くことにより、派手さはなくとも多くの避難民の魂が宿る聖なるガマとして犠牲者を再び殺すようなことだけはしない・させないようにするのが良いのでは?そう改めて感じた。<br /><br />どんな史実があっても捉え方によっては興味本位で行動する者がいるという現実が起こってしまった。今後の対策として「もう無いだろう」という過信は禁物である。思想信教の自由から考えられないような出来事が起こりうる可能性があることを考えておかなければ、安住の地とはなりうらないとふと感じた今回の生と死の狭間となったふたつのガマの訪問であった。<br />

第三十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄読谷村:生と死とのはざま~シムクガマ・チビチリガマ編~

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2019/06/22 - 2019/06/22

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第三十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄読谷村:生と死とのはざま~シムクガマ・チビチリガマ編~

自身5回目となる慰霊の日前後の来沖にあたり、既訪ではあるもののその後大きな変化があった場所として読谷村のチビチリガマを、そして場所が分からなかった場所として未訪問だったシムクガマを訪れる行程を組んでみた。

昭和20(1945)年4月1日、北谷・読谷の沖縄西海岸に上陸した米軍部隊。その地から僅か600mの位置にあるチビチリガマには、十・十空襲以降集落民が爆撃を受ける度にここへと逃げ込んでいた。また米軍が上陸する前1週間には、上陸を容易くさせようとする砲撃が昼夜通しで行われており、チビチリガマから出られずに籠る状態だったとされている。

4月1日に上陸を開始した米軍部隊は当日午前中にはチビチリガマに到着しており、ガマに籠る避難民に出て来るように呼び掛けている。しかし皇民化主義の影響を受けた者が言い放った「アメリカーを恐れることはない、竹槍で戦おう。」との意見に触発された避難民数人が竹槍を持ったままガマの外へと出て行き、武装した米兵に対し威嚇するような行動を取ったと言われている。

米兵は数人だったと言われているが、竹槍を持った3名の避難民と相対しても結果は明白であった。降伏する様子を見せない避難民に対し、米兵は機関銃や手榴弾で応酬し3人のうち2人が重傷を負い後に死亡する。パニックになった避難民の中には積まれた布団に火をかけて窒息死を図ろうとするも、別の避難民がそれを消し止めて難を逃れている、

またチビチリガマから600m程内陸に入った場所にあるシムクガマにもやはり同様の理由から付近集落から避難民が逃げ込んでおり、その数はチビチリガマの凡そ10倍とも言われる約1,000名が逃げ込んでいた。砲撃によって遮るものがほとんどなかったであろうチビチリガマとシムクガマ。チビチリガマでの小競り合いがあった2時間後には既に米兵がシムクガマへと到着している。警防団の本部も置かれていたシムクガマ。元日本軍兵士が団長となっており、避難民のリーダー的役割を担っていたのは同じではあれど、避難民の数の違いから〝鶴の一声〟で動かせるものではなかったと言われている。そんな中やはり「デテコイ」と呼びかける米兵に応じるものはなく、警防団長の命令によって数人の団員の少年達がやはり竹槍を片手に出て行こうとするがそれを止めたおじぃがいた。比嘉平治・比嘉平三氏2名は元ハワイ移民一世。ハワイ王国の滅亡によりアメリカ合衆国準州となり、米兵が日常生活に於いて動いている様を自らの目で確認して来ている。〝アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)〟との言葉を避難民に掛け、二人はガマから外へと向かい米兵と直談判を行った。この際〝英語での流暢なやり取り〟と記されている物も散見するが、当時のハワイでの生活に於いてどの程度の〝English〟が話せたかは疑問ではある。しかし肌でアメリカを知る彼らにとって米兵が言っていることを理解できれば後は〝body language〟を交えての拙い英語でもやり取りが可能であるということは知っていた。ハワイでの生活の中から経験的に得られた知識と行動力、それが結果として交渉を成功に導き、1,000名もの避難民の命を助けたことは紛れもない事実である。

そんなことがシムクガマで起こっている中でチビチリガマへと走った者がいなかったとされているのは少し疑問が残る。使者はなかったとされてはいるもののやはり〝聞き入れなかった〟というのが正しいように思う。翌2日には再び米兵が投降を呼びかけるためにチビチリガマを訪れるが、前日の銃撃によって死者が出ていることしかわからない状態では冷静な判断も下せないというのが事実であろう。撃って出ることもしない代わりに降参する素振りも見せない。そんな中では人間の精神状態が平静を保つことなどできる訳などなく、窮地に立たされた少女の叫び声をきっかけにして阿鼻叫喚の図が繰り広げられることに繋がった。結果としてチビチリガマでの犠牲者85名(うち2名は米兵の狙撃による犠牲者)が〝集団自決〟によるものとされているが、その自決が連鎖する中で積んでいた布団にも火がかけられたことで窒息に耐え切れずに外へと出たことによって九死に一生を得た生存者が、長きに渡りその惨劇を口外することはなかった。これは家族同然の生活をしていた集落民に於いて、殺し殺された者は家族同然の者だったことは容易に想像がつくであろう。凄惨な出来事である上に家族が手をかけ・かけられた〝史実〟を語ることは〝死人の恥を曝け出す〟ことに繋がると考えるのは、現在以上に家族のつながりが強かった時代であったことを考えるとなおさらである。

しかし読谷村をはじめとする調査が始まった戦後40年を迎えようとする頃になってやっと生存者の重い口が開かれることになった。凄惨な地獄絵図さながらの光景であったことに加え、風評によって〝殺人鬼〟との汚名を着せられたまま、事実を明かすことができず集落を去った者等の二次的被害者の存在までが明らかにされるようになった。体験者を含めた賛同者達が、それぞれの思いを込めて集団制作をした〝平和の像〟が集団自決後42年を迎える昭和62(1987)年4月2日に除幕され、チビチリガマ入口に置かれることとなった。しかし完成から僅か7か月後の動燃11月8日に平和の像は原型を留めないまでに破壊された。右翼構成員2名の仕業であったこの事件には、壊された平和の像傍らに残された〝国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス〟との声明文が残されていた。これには同年10月6日に読谷村で行われた〝海邦国体〟のソフトボール競技の会場に於いて、掲揚されていた日章旗を知花昌一が焼き捨てる事件に対する報復であったとしている。知花はこの〝日の丸焼き捨て事件〟の実行犯として起訴され、8年間に渡る裁判の末〝器物損壊罪〟で有罪となり、懲役一年執行猶予三年の刑が確定している。また平和の像を破壊した右翼構成員は〝暴力行為等処罰法(集団的器物損壊)〟違反の罪に問われ、やはり有罪となっている。

この時期には法律上の〝国旗〟というものが制定されておらず(日の丸が国旗と制定されたのは平成11(1999)年)、日の丸の旗代金3,000円の器物損壊罪とされている。そして右翼構成員に課された〝暴力行為等処罰法違反(集団的器物損壊)〟は個人ではなく複数人での器物損壊を行ったとするものであり、刑としては後者の方がより重いものとされてはいるが、内容として重なっている〝器物損壊〟に対する罪という点では同じものだと判断されている。史上稀にみる地上戦の行われた沖縄に於いて〝日の丸〟に対する感情はそれぞれあるとは思うものの、結局は物を壊して有罪判決を受けたことには変わりはない。しかしそこに見えてくるものは〝思想〟ではないかと思えてしまうのである。知花は昭和47(1972)年5月15日の沖縄返還後も米軍基地が残ったままであり、米国人という支配者階級と沖縄人(ウチナー)という被支配者階級が存在する様は、返還前となんら変わらないことに対し、掲げられた日の丸に対し「感情的になってしまった」と答えている。事実返還を待ち望む琉球政府下では〝日の丸〟を振っていたことを述べている。日本国政府の沖縄に対する対応への失望が〝日の丸憎し〟に繋がっていると言っても過言ではないだろう。しかしそう考えた知花がいるように、日の丸を敬う考えを持つ者もいるのである。心の拠りどころを汚すようなことをされては、喧嘩になっても仕方がないと思うのは私だけであろうか。

結局のところそれぞれが犯した罪を償って裁判は終わった。しかしチビチリガマで亡くなった身内を持つ者にとって、慰霊のために作られた〝平和の像〟が壊される事実だけが残り、その怒りの矛先を向けるものもなかったのが事実である。遺族が発した「犠牲者は二度殺された」とのコメントには、このまま静かにしておいて欲しいとも取れるニュアンスが感じられる。事実破壊された平和の像が修復されるまでに8年の月日を要しており、遺族達の複雑な心境が伺える。そして平和の像は修復されても遺族の受けたダメージは計り知れないものがあったことを示すように、聖域チビチリガマとの境を示す「立入禁止」の札が立てられ、ガマ入口で外界との関わりを一切拒むような存在感を呈して今日に至っている。

終戦間近に起こったチビチリガマでの惨劇。その様子を目の当たりにした生き残りの方々が重い口を開いて詳細が広く一般に知られることとなった。そして犠牲者の慰霊碑として建立された平和の像が、日の丸の焼き捨てに対する報復として破壊された。ただただ身内の御霊を慰めたいだけの遺族からすればそっとしていて貰いたいだけであり、敢えて破壊の標的にされる平和の像を修復したくはない気持ちを持つことは容易に想像出来ることである。それ故に平和の像の修復迄に8年もの月日を要したことからも感じ取ることができよう。

二度とこのようなことが起こらないとの願いを込めて修復された平和の像ではあったが、数年前に皆の願いをぶち壊す出来事が起こった。地元の少年達によるチビチリガマそのものの破壊行為である。平成29(2017)年9月のことである。事件の様子を聞いた関係者達は残念だという気持ちと同時に怒りを露わにした。当初〝沖縄ヘイト〟だとする意見が噴出したが、防犯カメラの映像から県内中部に住む10代の少年3人の犯行とわかり逮捕に至った。容疑は礼拝所不敬罪ではなく器物損壊罪。より重い罪に問われた理由として犠牲者達の眠る墓を意図的に壊すなど悪質さが高いことを挙げている。当初少年達は〝肝試し〟のために訪れたと話したとされているが、公開されたガマの内壁や遺物の損壊状況から見ても〝ついでに〟という言い訳は通じないものと判断するのが妥当である。沖縄県警普天間署での取り調べを経て那覇家裁沖縄支部が保護観察処分を言い渡しているが、その狙いがわからないのが私の本音である。沖縄での平和教育を揶揄することを〝沖縄ヘイト〟と表現をする。沖縄ヘイトはナイチャーや外国人の持つ〝差別意識〟だとシュプレヒコールを上げる。そうすることにより被害者意識を高揚させるのであろうが、今回の事件は犯人はまさかのウチナーの少年達だった。

七十余年前に居住する沖縄の地で史上稀に見る地上戦が行われたという史実。沖縄県内の学校では欠かすことのできない授業として〝平和教育〟を行なっていると自負する教育者。しかし今回の事件により至らない部分が浮き彫りになったのも事実である。沖縄ヘイトを逆手に取りウチナーの潔白を訴えた学者やマスコミの責任も大きいはずである。また一貫性のない少年達の発言にもなにやら胡散臭い大人の入れ知恵を疑わずにはいられない。破壊が露見してすぐに部外者を疑うことに余念はなかったはず。しかし真犯人が分かると途端にトーンダウンしたのも事実である。少年達に課せられたものは①遺族への謝罪、②ガマの修復や清掃、③ガマでの集団自決に関するレポートの作成となっているが実際にはどこまで行われたか不明瞭となっている。遺族への謝罪声明は発表されたがガマの修復・清掃に携わったという記録は見当たらない。そして気になるレポートだが学生を経験した者ならば誰でも分かることとして、読む者が満足するように書くのが鉄則であり、手直しを加えられるのはほぼ間違いないと言えるのではないだろうか。結果として〝軽はずみな行動を取ってしまい、多くの方々に不快な思いをさせてしまったことを申し訳なく思い心から反省をする〟旨のものとなるのは疑う余地がないのではなかろうか。

今回事件後のチビチリガマを訪れて、聖地独特の厳か感を感じるものの、前回には感じなかった違和感を覚えるに至った。すぐにはそれがなになのかわからなかったこともあり、その際にガマ一帯をカメラに収めて後から確認したが、どうやら前回にはなかった数多くの手作りの地蔵像があることがわかった。後で調べたことだがこの少年達の手によって作られたものである。壕やガマと呼ばれるものの中で戦時中に多くの犠牲者を出したところでは少なからず地蔵像が置かれていることが多い。しかし穏やかな顔つきの地蔵像には慰霊の気持ちがひしひしと伝わって来て、一体感を感じるものであるがチビチリガマに於ける地蔵像からはそういったものが感じられない。偏見かも知れないが本当に謝罪と慰霊の気持ちを込めて作られたものであればそんな風には感じることはまずないと思う。そこに地蔵像作成の意図に対し疑問を持ったのがその理由である。真実はどうなのかはわからないが、浮いてしまうものならばただの偶像と取られても仕方がないのではというのが私の意見である。

昔とは違って今はSNSでちやほやされるために手段を厭わないと言った〝自己満足〟のためにネタになることをしている者が多いという事実。それがエスカレートした結果がチビチリガマの破壊に繋がったような気がしてならない。つまりそう言った流行りは衝動的というよりもむしろ用意周到にして行われているのが事実である。既に時代は受け身の教育をするだけで目的を達成できるものではなくなっているようにしか見えないと考えている。

沖縄ヘイトと言われれば仕方がないが、今回チビチリガマを訪れた際に学生を引率しているガイドが唱える都合の良い内容を長時間に渡り喋り続ける姿を目の当たりにした。私自身相手にする気は毛頭ないが、既に話に飽きた若者が明後日の方向を見ているにもかかわらず話を続け、史実を視覚で感じ取れる貴重は史跡であるチビチリガマをガイドという〝金儲け〟の材料としていることには閉口した。またガイド団体間で調整されて複数の団体が同じ場所を占領しないようにするのは当たり前の筈だが、そんな配慮もされてはおらず、ふたつの30名程の団体がガマ正面に陣取り一般の観光客が手を合わせることすら出来ない状況を作り出している様に対し、得意げな話し方をし続けている方達にどの様なポリシーを持って引率をしているのか?どういった言い訳をするのが問い詰めたいと改めて思うシチュエーションでもあった。どうやら天候不順の影響で足下の悪いシムクガマへは行かず、その時間もチビチリガマに費やす計算だったようで、足下の汚れのない若者をまた別の場所に案内をしている様子であった。

落ち着いて手も合わせられない状態で長居をする気も起こらず一旦チビチリガマを離れ、シムクガマへと向かう。チビチリガマのように通路が整備されておらず、雨が降り続ける中では赤土粘土質の通路は宛らスキー場のゲレンデを彷彿させるものと化していた。ひっくり返らないように気をつけても普通のスニーカー履きで慣れない足場を歩くのは所詮無茶なことだった。横に歩いていた谷足が滑った。その瞬間反射的に手がまわりの草を掴んで転ぶことは避けられた。反射神経は衰えていない!と思ったのもつかの間、左手に握っていた〝車のキー〟を手放してしまった。しかし地面に落ちたような音はしなかった。焦って探しても見つからない。落ち着け~と深呼吸を何回もしつつ、景色に同化したキーを探す。あった!投げることもしなかったため、ギリギリ手が届く場所に落ちていた。なんとか鍵を回収してポケットに入れなおし、おっかなびっくりガマへの道を歩んで行く。大きな口を開いたガマの中にあるひとつの碑。これが写真でしか見たことのない〝救命洞窟之碑〟であることを認識するのにに時間はかからなかった。

訪れたくても場所がわからなかったために今日になってしまったが、意外にも救命洞窟之碑が建立されたのは平成7(1995)年のことである。チビチリガマの平和の像に遅れること8年ということに違和感を感じてしまう。チビチリガマの惨劇が表面化し、平和の像が建立されるも破壊されてしまった現実。幾多の変遷を経て復活を遂げた時期と重なっていることに違和感を感じるのは私だけなのであろうか。シムクガマは人命が助かった場所でもある。碑が建立された以外は当時からそのままであり、容易く行くことが出来るようになっているチビチリガマとはえらい違いである。

地下水脈の流れがガマの奥に流れて行く水の音。雨天の中ではそれがまた反響して聞こえるために、その規模と変わらないガマを取り巻く環境を改めて認識することが出来た。人の手が加わらない様は、多くの沖縄戦跡が凄まじい勢いで自然に帰ろうとする現実を彷彿させる。開発を伴った戦跡の破壊は、勝ち目があることを前提にしてやむを得ないように思うところがある。沖縄の前途を開くものとして。過去を残すことにより合理的な生活の質の向上を妨げることを強いることはできないと考えるからである。とはいえ無計画なリゾート開発を進めることには反対である。眉唾物の箱物を内地資本で作り上げたとしても、儲けるだけ儲けて陰りが見えると途端に手を引く。そんな建物を引き継いでも息を吹き返すことなど不可能であり、結局は廃墟と化すだけだと過去の例から見ても明らかであるからである。

シムクガマ界隈に急な開発が入るとは思えないが、手入れをマメにする訳でもなく自然の流れに流されるままのシムクガマ。600mの距離が生死を分けたとは表現しても、やはりガイド的にはネタがないのだろう。チビチリガマの中に入ったことは勿論無いが、シムクガマの中に入って外から差し込む光を見るとガマの入口の大きさから、ガマ内部から見えた光量も避難民の方々の生き方を左右したのでは、そんな気持ちになった。ぬかるんだ道に大勢の歩いた形跡が見られなかったことから、やはりガイドに連れられた団体はここヘは来ていないだろうと思いつつ、自らが帰れなくなる心配もあり帰路につくことにした。行きの教訓は生かされたようで足は滑るもののバランスは崩さずに車に戻ることができ、改めてチビチリガマを訪れることにした。

改めてチビチリガマの一帯を見回すと、以前滋賀県の中学校が修学旅行で作成したと思われる陶板製の碑も無くなっていた。それが事件に関連があるのかはわからないが、必要以上に飾ることが聖地を聖地と思わせなくしているとも考えられる、必要最小限の史実を知らせるものだけを置くことにより、派手さはなくとも多くの避難民の魂が宿る聖なるガマとして犠牲者を再び殺すようなことだけはしない・させないようにするのが良いのでは?そう改めて感じた。

どんな史実があっても捉え方によっては興味本位で行動する者がいるという現実が起こってしまった。今後の対策として「もう無いだろう」という過信は禁物である。思想信教の自由から考えられないような出来事が起こりうる可能性があることを考えておかなければ、安住の地とはなりうらないとふと感じた今回の生と死の狭間となったふたつのガマの訪問であった。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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