西表島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~<br /><br />沖縄県の最南端・最西端、すなわち日本の最南端・最西端でもある八重山列島。その中心に位置する西表島は、日本第12位、沖縄県で2番目に大きな島になります。いにしえよりの歴史の中で、海の水位が上がったにも関わらず水没を免れ、独自の進化を遂げた〝固有の生態系〟を持つ場所として有名です。<br /><br />様々な自然の魅力に満ち溢れ、海・川・山を目的に訪れる観光客が絶えないここ西表島ですが、この島にかつて炭鉱があったことはあまり知られていません。西表炭鉱と呼ばれるものですが歴史は古く、18世紀末に書かれた八重山の産物の中に〝燃石〟という記述が残っています。そして江戸時代末期の嘉永6(1853)年、日本を開国させたペリーが沖縄に立ち寄った際に地質調査を命じ、西表島の石炭が公になります。当時沖縄は琉球王府の支配下にありました。しかし当然のごとく石炭の情報を外国に知られたくはない琉球王府は、翌年その付近に木を植えて石炭のありかを隠そうとします。<br /><br />次に歴史が動いたのは明治4(1871)年、鹿児島の商人が鉱石のサンプルを石垣島の住人に渡し、鉱脈の調査を依頼します。そして西表島の石炭を発見します。その情報はすぐさま鹿児島へと伝わり、翌年には県の役人が偵察に西表島へとやってきます。当時国を左右する大きな出来事に、情報を漏洩した住人に琉球王府は怒り狂い、翌年その住人を波照間島へと流罪に処します。<br /><br />そして時代は流れ琉球処分が行われた後の明治18(1885)年、政府の視察団が西表島を訪れます。翌年には内務大臣山縣有朋が三井物産の社長を伴って訪れ、囚人を使役し石炭の採掘を行うことを提案しています。そして西表島西部と内離島(うちぱなり)で囚人を含む約200名の坑夫により採掘作業が始まったものの風土病であったマラリアに罹患する者が続出し、僅か3年程で撤退を余儀無くされます。<br /><br />その後経営が変わりながら運営を開始するもすぐに撤退という悪循環を繰り返しますが、1906年(明治39年)に設立された沖縄炭礦や琉球炭礦は日露戦争から第一次世界大戦によっての好景気に便乗し、やっと成功を収めます。また産出した石炭は西表島北西部の白浜港や浦内港等から横浜・大阪・台湾・上海・香港などへと出荷されました。良質の西表炭坑の石炭は、発熱量も高く燃料用として重宝されたことも需要拡大に向かい風となった理由でもあったようです。<br /><br />月日は流れ大正時代には新規企業の参入や買収・合併などが繰り返され、めまぐるしく経営が変わる一方で、現場においては、いわゆる請負制度である個々の炭坑責任者が独自に経営する納屋制度が一般的となって行きます。昭和11~12(1936~1937)年の西表炭坑最盛期には、約1,400名の坑夫が集まり、年間12~13トンの石炭を産出していました。この当時多くの炭坑は、内離島(うちぱなり)と西表島北西部の仲良川河口部や浦内川流域に多く分布しており、採掘した石炭をそのまま船に積み込んでは目的地へと向かう合理的な輸送法が取られていました。<br /><br />元々西表島には人口が少なく、炭坑労働者のほとんどは島外から集められました。日本各地は勿論のこと台湾・中国大陸からうまい話に乗せられて内情を知らされぬまま島までの運賃や斡旋代などの借金を背負わされ、タコ部屋労働を強いられます。そして炭坑で働くことにより借金を返済することになる筈が、実質賃金を管理している〝納屋頭〟と呼ばれる炭坑責任者が管理しており、実際にはほとんど支払われることはなかったようです。また給料も〝炭坑切符〟と呼ばれる会社経営の売店だけで使える金券での支給だったようです。もっともある程度集めると現金化するようなことは言われていたものの、実際に行われたことはなく、むしろ責任者が変わるだけで紙切れになってしまうことの方が多かったようです。そのことは即ち一度炭坑へと足を踏み入れることは二度と元の生活に戻れないことを意味していました。<br /><br />また西表炭坑の炭層は大変薄く、坑道が狭かったため地を這うようにして作業をしなければなりませんでした。炭坑ゆえの落盤事故も度々あり、確かな記録はないものの年に数名の犠牲者が出ており、加えて衛生状態も悪く、寄生虫やマラリアでの死者も絶えなかったとされています。このように劣悪な環境で、坑夫達の楽しみといえば博打にケンカ。そのため治安の悪さは目を覆いたくなるものであったとされています。しかし逃亡したくてもする手段がない、また逃げたとしても捕まると痛い目にあわされる・・・。そんな究極の選択を強いられる環境でのことなので、いささか同情してしまう気持ちに気付かされます。<br /><br />昭和16(1941)年に太平洋戦争が勃発すると、多くの坑夫が招集され炭坑は人手不足に陥ります。さらに内離島に作られた船浮臨時要塞の設営協力や、炭坑所有船舶が戦時徴用されたことなどから、炭坑の業務そのものに影響が出た上食料供給もままならなくなってしまったため、昭和18(1943)年頃までに炭坑業務を休止せざるを得なくなります。<br /><br />終戦後はアメリカ軍に接収され、昭和24(1949)年にいくつかの炭坑は業務を再開しますが、運営が上手くいかなかったこともあり民間に払い下げられます。昭和28(1953)年に最後の運営企業となった琉球開発が事業を再開するものの、不採算制が露見し昭和35(1960)年に休止状態になります。<br /><br />昭和34(1959)年に提案された西表開発構想に基づき資源調査が行われましたが、薄い単層から採掘できる石炭の量では採算が期待できないことなどの理由により再開には至りませんでした。<br /><br />このうち浦内川支流の宇多良川付近にある宇多良炭坑は、この西表炭坑に於ける採掘業者でのひとつであった丸三(まるみつ)炭坑によって発見・開発されたものであり、昭和10(1935)年から昭和18(1943)年頃まで稼働していた炭坑になります。大正14(1924)年に設立されたこの会社ですが、当初は西表南西部の仲良川沿いの炭坑を経営していましたが、そのエリアの石炭枯渇に備え、昭和5(1930)年頃から浦内川流域の地質調査を進めていたところ、その過程で昭和10(1935)年に浦内川の支流である宇多良川付近で大規模な石炭層を発見するに至ります。そしてすぐに森林を切り開き炭坑団地の建設が始まり、翌年には宇多良鉱業所として操業を始めます。<br /><br />宇多良炭坑は本層60cm、上層40cmの二層から構成されており、埋蔵量は本層が100万トン、上層が50万トンと見積もられていました。坑道で掘られた石炭は宇多良川河岸の貯炭場まで運ばれたあと小船で浦内川河口に運ばれました。最盛期であった昭和13(1938)年には月間2,500トンもの石炭を産出していました。<br /><br />炭坑というと3K(きつい・危険・汚い)の極限といわれることが多いかと思います。しかしこの宇多良炭坑では会社の方針でその環境の改善を進めていたとされています。特に住居関連に力を入れており、上下水道や蚊帳装置、大浴場、診療室等が整備されており、西表炭坑の中でも群を抜いてマラリアの罹患率が低かったとされています。また石炭枯渇時の対策も考えられていたようで農地の開拓や漁船建造までも手掛け、学校も作られ将来的には自給自足ができる街づくりを目指していたという説もあります。しかしその目論見は戦争という背景によって突然幕を引くことになってしまいます。<br /><br />戦争により石炭の需要が高まると労働条件は過酷なものに戻ってしまい、坑夫の徴兵や石炭輸送手段の寸断なども追い打ちをかけ、昭和18(1943)年には他の炭坑同様休止状態となってしまいます。その上連合国の執拗な炭坑への戦略爆撃によって施設の大半は破壊される憂き目に逢ってしまいます。会社側も炭坑の再開を諦めたその後は…。残念ながら日の目を見ることもなく、歴史の波に飲み込まれることになります。<br /><br />平成19(2007)年、宇多良炭坑に長年の眠りから目覚める出来事が起こりました。日本の炭坑が自国の近代化に果たした役割を後世に伝えるためという理由で〝日本近代化産業遺産群〟のひとつに指定されることになりました。その時に浦内川河口付近から宇多良炭鉱跡地までの木道が作られ、約1kmの道程をハイキング感覚で訪れることができるようになりました。<br /><br />【2015年10月15日木曜日】<br />浦内川駐車場 13:13<br />宇多良炭坑跡 13:27<br />       13:37<br />浦内川駐車場 13:57<br /><br />これが当日の時間取りになりますが、少し起伏があるものの手負いの私でも行きが15分、帰りが20分で歩いています。スタート地点は浦内川河口の駐車場となり、川沿いに遡上すると間もなくカヤックやカヌーの乗り場の横を通り過ぎます。その先に車止めがありそこからがいよいよ散策路となります。木曜日の昼過ぎという時間なので行って帰ってくる途中の中間地点ですこし年配のご夫婦とすれ違っただけではありました。ただ先日の台風の影響なのか倒木があり、木登りをしないといけないのかも…とおめでたく考えてしまいましたが、小柄な私は木の下を潜り抜けて行くことができました(笑)。川沿いを歩くため、炭坑跡地とされている場所以外は日差しもあり、特に圧迫感もありませんでした。そして行きついた炭鉱跡地は、さながら〝天空の城ラピュタ〟に出てくる風景のようにも思える場所でした。レンガやコンクリート造りの建物は朽ち果てるに任せて、そこに木々が絡み合っている…。そこにある〝萬骨碑〟という碑がひとつ、炭坑と言えば様々な事故、それによって亡くなられた坑夫の霊を弔うために建立されたものでした。比較的新しい萬骨碑以外は既に70余年は経過したものになりますが、レンガやコンクリート製の建造物は朽ちながら絞殺しの木と呼ばれるアコウ(ガジュマル)の木が絡みつき、ものすごいスピードでジャングルへと戻っているように思えました。この風景が70余年の月日でこのようになりました。これからまた72年経った2087年にはどのような光景が見ることができるのか?無理で厚かましい願望だとはわかっていても、見てみたいという欲望を押さえることができません。<br /><br />悪天候を押して向かうならばいざ知らず、普通の散歩感覚で行くことができる近代遺産ではあるので、カヌーやカヤックが悪いとは言いませんが、ナチュラルアクティビティの後の小一時間の散歩ルートとして行って頂きたいように思います。なお危険なことはないかと思いますが、ひとつだけ現地でわかったことがありました。宇多良炭鉱跡地はdocomoとauは圏外でした(※SBはわかりません)。なので救助が必要なときは誰かが中間地点まで戻って電話をしなければいけませんので、それだけは注意して下さい。<br /><br />途中中間地点とされる場所に〝浦内川展望所〟とありましたが、なんてことはない景色が開けている地点にしか過ぎません。しかしこの場所から浦内川マングローブクルーズの模様や、悪戦苦闘しているカヤックやカヌーの姿がバッチリ見ることができます。そういう意味では確かに展望スペースですね♪<br /><br />この宇多良炭坑跡が戦跡になるかどうかは自分でもわからないところがあります。しかしエネルギーの変化による閉山ではなく、戦争により閉山を余儀なくされた理由から敢えて西表島の戦跡のひとつとしてご紹介しました。<br /><br /><br />ではこれにて〝第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~〟は終了です。

第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~

32いいね!

2015/10/13 - 2015/10/17

394位(同エリア2192件中)

旅行記グループ あみんちゅ戦争を学ぶ旅

1

48

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~

沖縄県の最南端・最西端、すなわち日本の最南端・最西端でもある八重山列島。その中心に位置する西表島は、日本第12位、沖縄県で2番目に大きな島になります。いにしえよりの歴史の中で、海の水位が上がったにも関わらず水没を免れ、独自の進化を遂げた〝固有の生態系〟を持つ場所として有名です。

様々な自然の魅力に満ち溢れ、海・川・山を目的に訪れる観光客が絶えないここ西表島ですが、この島にかつて炭鉱があったことはあまり知られていません。西表炭鉱と呼ばれるものですが歴史は古く、18世紀末に書かれた八重山の産物の中に〝燃石〟という記述が残っています。そして江戸時代末期の嘉永6(1853)年、日本を開国させたペリーが沖縄に立ち寄った際に地質調査を命じ、西表島の石炭が公になります。当時沖縄は琉球王府の支配下にありました。しかし当然のごとく石炭の情報を外国に知られたくはない琉球王府は、翌年その付近に木を植えて石炭のありかを隠そうとします。

次に歴史が動いたのは明治4(1871)年、鹿児島の商人が鉱石のサンプルを石垣島の住人に渡し、鉱脈の調査を依頼します。そして西表島の石炭を発見します。その情報はすぐさま鹿児島へと伝わり、翌年には県の役人が偵察に西表島へとやってきます。当時国を左右する大きな出来事に、情報を漏洩した住人に琉球王府は怒り狂い、翌年その住人を波照間島へと流罪に処します。

そして時代は流れ琉球処分が行われた後の明治18(1885)年、政府の視察団が西表島を訪れます。翌年には内務大臣山縣有朋が三井物産の社長を伴って訪れ、囚人を使役し石炭の採掘を行うことを提案しています。そして西表島西部と内離島(うちぱなり)で囚人を含む約200名の坑夫により採掘作業が始まったものの風土病であったマラリアに罹患する者が続出し、僅か3年程で撤退を余儀無くされます。

その後経営が変わりながら運営を開始するもすぐに撤退という悪循環を繰り返しますが、1906年(明治39年)に設立された沖縄炭礦や琉球炭礦は日露戦争から第一次世界大戦によっての好景気に便乗し、やっと成功を収めます。また産出した石炭は西表島北西部の白浜港や浦内港等から横浜・大阪・台湾・上海・香港などへと出荷されました。良質の西表炭坑の石炭は、発熱量も高く燃料用として重宝されたことも需要拡大に向かい風となった理由でもあったようです。

月日は流れ大正時代には新規企業の参入や買収・合併などが繰り返され、めまぐるしく経営が変わる一方で、現場においては、いわゆる請負制度である個々の炭坑責任者が独自に経営する納屋制度が一般的となって行きます。昭和11~12(1936~1937)年の西表炭坑最盛期には、約1,400名の坑夫が集まり、年間12~13トンの石炭を産出していました。この当時多くの炭坑は、内離島(うちぱなり)と西表島北西部の仲良川河口部や浦内川流域に多く分布しており、採掘した石炭をそのまま船に積み込んでは目的地へと向かう合理的な輸送法が取られていました。

元々西表島には人口が少なく、炭坑労働者のほとんどは島外から集められました。日本各地は勿論のこと台湾・中国大陸からうまい話に乗せられて内情を知らされぬまま島までの運賃や斡旋代などの借金を背負わされ、タコ部屋労働を強いられます。そして炭坑で働くことにより借金を返済することになる筈が、実質賃金を管理している〝納屋頭〟と呼ばれる炭坑責任者が管理しており、実際にはほとんど支払われることはなかったようです。また給料も〝炭坑切符〟と呼ばれる会社経営の売店だけで使える金券での支給だったようです。もっともある程度集めると現金化するようなことは言われていたものの、実際に行われたことはなく、むしろ責任者が変わるだけで紙切れになってしまうことの方が多かったようです。そのことは即ち一度炭坑へと足を踏み入れることは二度と元の生活に戻れないことを意味していました。

また西表炭坑の炭層は大変薄く、坑道が狭かったため地を這うようにして作業をしなければなりませんでした。炭坑ゆえの落盤事故も度々あり、確かな記録はないものの年に数名の犠牲者が出ており、加えて衛生状態も悪く、寄生虫やマラリアでの死者も絶えなかったとされています。このように劣悪な環境で、坑夫達の楽しみといえば博打にケンカ。そのため治安の悪さは目を覆いたくなるものであったとされています。しかし逃亡したくてもする手段がない、また逃げたとしても捕まると痛い目にあわされる・・・。そんな究極の選択を強いられる環境でのことなので、いささか同情してしまう気持ちに気付かされます。

昭和16(1941)年に太平洋戦争が勃発すると、多くの坑夫が招集され炭坑は人手不足に陥ります。さらに内離島に作られた船浮臨時要塞の設営協力や、炭坑所有船舶が戦時徴用されたことなどから、炭坑の業務そのものに影響が出た上食料供給もままならなくなってしまったため、昭和18(1943)年頃までに炭坑業務を休止せざるを得なくなります。

終戦後はアメリカ軍に接収され、昭和24(1949)年にいくつかの炭坑は業務を再開しますが、運営が上手くいかなかったこともあり民間に払い下げられます。昭和28(1953)年に最後の運営企業となった琉球開発が事業を再開するものの、不採算制が露見し昭和35(1960)年に休止状態になります。

昭和34(1959)年に提案された西表開発構想に基づき資源調査が行われましたが、薄い単層から採掘できる石炭の量では採算が期待できないことなどの理由により再開には至りませんでした。

このうち浦内川支流の宇多良川付近にある宇多良炭坑は、この西表炭坑に於ける採掘業者でのひとつであった丸三(まるみつ)炭坑によって発見・開発されたものであり、昭和10(1935)年から昭和18(1943)年頃まで稼働していた炭坑になります。大正14(1924)年に設立されたこの会社ですが、当初は西表南西部の仲良川沿いの炭坑を経営していましたが、そのエリアの石炭枯渇に備え、昭和5(1930)年頃から浦内川流域の地質調査を進めていたところ、その過程で昭和10(1935)年に浦内川の支流である宇多良川付近で大規模な石炭層を発見するに至ります。そしてすぐに森林を切り開き炭坑団地の建設が始まり、翌年には宇多良鉱業所として操業を始めます。

宇多良炭坑は本層60cm、上層40cmの二層から構成されており、埋蔵量は本層が100万トン、上層が50万トンと見積もられていました。坑道で掘られた石炭は宇多良川河岸の貯炭場まで運ばれたあと小船で浦内川河口に運ばれました。最盛期であった昭和13(1938)年には月間2,500トンもの石炭を産出していました。

炭坑というと3K(きつい・危険・汚い)の極限といわれることが多いかと思います。しかしこの宇多良炭坑では会社の方針でその環境の改善を進めていたとされています。特に住居関連に力を入れており、上下水道や蚊帳装置、大浴場、診療室等が整備されており、西表炭坑の中でも群を抜いてマラリアの罹患率が低かったとされています。また石炭枯渇時の対策も考えられていたようで農地の開拓や漁船建造までも手掛け、学校も作られ将来的には自給自足ができる街づくりを目指していたという説もあります。しかしその目論見は戦争という背景によって突然幕を引くことになってしまいます。

戦争により石炭の需要が高まると労働条件は過酷なものに戻ってしまい、坑夫の徴兵や石炭輸送手段の寸断なども追い打ちをかけ、昭和18(1943)年には他の炭坑同様休止状態となってしまいます。その上連合国の執拗な炭坑への戦略爆撃によって施設の大半は破壊される憂き目に逢ってしまいます。会社側も炭坑の再開を諦めたその後は…。残念ながら日の目を見ることもなく、歴史の波に飲み込まれることになります。

平成19(2007)年、宇多良炭坑に長年の眠りから目覚める出来事が起こりました。日本の炭坑が自国の近代化に果たした役割を後世に伝えるためという理由で〝日本近代化産業遺産群〟のひとつに指定されることになりました。その時に浦内川河口付近から宇多良炭鉱跡地までの木道が作られ、約1kmの道程をハイキング感覚で訪れることができるようになりました。

【2015年10月15日木曜日】
浦内川駐車場 13:13
宇多良炭坑跡 13:27
       13:37
浦内川駐車場 13:57

これが当日の時間取りになりますが、少し起伏があるものの手負いの私でも行きが15分、帰りが20分で歩いています。スタート地点は浦内川河口の駐車場となり、川沿いに遡上すると間もなくカヤックやカヌーの乗り場の横を通り過ぎます。その先に車止めがありそこからがいよいよ散策路となります。木曜日の昼過ぎという時間なので行って帰ってくる途中の中間地点ですこし年配のご夫婦とすれ違っただけではありました。ただ先日の台風の影響なのか倒木があり、木登りをしないといけないのかも…とおめでたく考えてしまいましたが、小柄な私は木の下を潜り抜けて行くことができました(笑)。川沿いを歩くため、炭坑跡地とされている場所以外は日差しもあり、特に圧迫感もありませんでした。そして行きついた炭鉱跡地は、さながら〝天空の城ラピュタ〟に出てくる風景のようにも思える場所でした。レンガやコンクリート造りの建物は朽ち果てるに任せて、そこに木々が絡み合っている…。そこにある〝萬骨碑〟という碑がひとつ、炭坑と言えば様々な事故、それによって亡くなられた坑夫の霊を弔うために建立されたものでした。比較的新しい萬骨碑以外は既に70余年は経過したものになりますが、レンガやコンクリート製の建造物は朽ちながら絞殺しの木と呼ばれるアコウ(ガジュマル)の木が絡みつき、ものすごいスピードでジャングルへと戻っているように思えました。この風景が70余年の月日でこのようになりました。これからまた72年経った2087年にはどのような光景が見ることができるのか?無理で厚かましい願望だとはわかっていても、見てみたいという欲望を押さえることができません。

悪天候を押して向かうならばいざ知らず、普通の散歩感覚で行くことができる近代遺産ではあるので、カヌーやカヤックが悪いとは言いませんが、ナチュラルアクティビティの後の小一時間の散歩ルートとして行って頂きたいように思います。なお危険なことはないかと思いますが、ひとつだけ現地でわかったことがありました。宇多良炭鉱跡地はdocomoとauは圏外でした(※SBはわかりません)。なので救助が必要なときは誰かが中間地点まで戻って電話をしなければいけませんので、それだけは注意して下さい。

途中中間地点とされる場所に〝浦内川展望所〟とありましたが、なんてことはない景色が開けている地点にしか過ぎません。しかしこの場所から浦内川マングローブクルーズの模様や、悪戦苦闘しているカヤックやカヌーの姿がバッチリ見ることができます。そういう意味では確かに展望スペースですね♪

この宇多良炭坑跡が戦跡になるかどうかは自分でもわからないところがあります。しかしエネルギーの変化による閉山ではなく、戦争により閉山を余儀なくされた理由から敢えて西表島の戦跡のひとつとしてご紹介しました。


ではこれにて〝第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~〟は終了です。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach

この旅行記のタグ

32いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

あみんちゅ戦争を学ぶ旅

この旅行記へのコメント (1)

開く

閉じる

  • Decoさん 2024/03/04 11:35:12
    宇多良炭鉱
    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん 、はじめまして。

    宇多良炭鉱炭鉱についての旅行記、大変興味深く読ませていただきました。
    また、その歴史や経緯なども琉球王朝時代に遡って書いてくださっているので、よくわかりました。
    私も三池炭鉱の史跡などを歩くたり調べたりしていますが、その中で宇多良炭鉱でも囚人労働が行われたことを知り、興味を持っていました(三池では明治時代には大規模な囚人労働が行われています)。ちなみに三池でも囚人労働に舵を切ったのは山縣有朋だたそうです。

    納屋制度も長崎・筑豊・三池でも行われていましたが、私が読んだ本では「社会の恥部」と表現されていて、それは過酷だったようです。その中でも特に酷かったのは長崎の高島炭鉱らしくて、まさしくタコ部屋だったそうです。他の土地から離れ、世間の目が届かない島で納屋制度が酷くなっていったことは想像に難くないのですが、西表島でもきっと過酷だったのだろうと思います。

    丸三炭坑宇多良鉱業所の、環境を整えて福利厚生も充実させ、採炭事業以外も考えるというのは、画期的だったと思います。しかしそれも戦争で消えてしまった。そのまま続けばどうなっていたのか。でも石炭の埋蔵量も限界に来ていたようですし、後のエネルギー革命で終焉を迎えていたかも知れませんね。

    最近訪れた方の口コミを拝見すると、今は近づくことも難しいらしい宇多良炭鉱跡ですが、こちらの旅行記では貴重な遺構なども拝見することができました。保存するのが難しい場所だとは思いますが、残してもらいたい史跡です。 
    ありがとうございました。
                                  Deco

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP