2015/10/13 - 2015/10/17
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~
沖縄県の最南端・最西端、すなわち日本の最南端・最西端でもある八重山列島。その中心に位置する西表島は、日本第12位、沖縄県で2番目に大きな島になります。いにしえよりの歴史の中で、海の水位が上がったにも関わらず水没を免れ、独自の進化を遂げた〝固有の生態系〟を持つ場所として有名です。
様々な自然の魅力に満ち溢れ、海・川・山を目的に訪れる観光客が絶えないここ西表島ですが、この島にかつて炭鉱があったことはあまり知られていません。西表炭鉱と呼ばれるものですが歴史は古く、18世紀末に書かれた八重山の産物の中に〝燃石〟という記述が残っています。そして江戸時代末期の嘉永6(1853)年、日本を開国させたペリーが沖縄に立ち寄った際に地質調査を命じ、西表島の石炭が公になります。当時沖縄は琉球王府の支配下にありました。しかし当然のごとく石炭の情報を外国に知られたくはない琉球王府は、翌年その付近に木を植えて石炭のありかを隠そうとします。
次に歴史が動いたのは明治4(1871)年、鹿児島の商人が鉱石のサンプルを石垣島の住人に渡し、鉱脈の調査を依頼します。そして西表島の石炭を発見します。その情報はすぐさま鹿児島へと伝わり、翌年には県の役人が偵察に西表島へとやってきます。当時国を左右する大きな出来事に、情報を漏洩した住人に琉球王府は怒り狂い、翌年その住人を波照間島へと流罪に処します。
そして時代は流れ琉球処分が行われた後の明治18(1885)年、政府の視察団が西表島を訪れます。翌年には内務大臣山縣有朋が三井物産の社長を伴って訪れ、囚人を使役し石炭の採掘を行うことを提案しています。そして西表島西部と内離島(うちぱなり)で囚人を含む約200名の坑夫により採掘作業が始まったものの風土病であったマラリアに罹患する者が続出し、僅か3年程で撤退を余儀無くされます。
その後経営が変わりながら運営を開始するもすぐに撤退という悪循環を繰り返しますが、1906年(明治39年)に設立された沖縄炭礦や琉球炭礦は日露戦争から第一次世界大戦によっての好景気に便乗し、やっと成功を収めます。また産出した石炭は西表島北西部の白浜港や浦内港等から横浜・大阪・台湾・上海・香港などへと出荷されました。良質の西表炭坑の石炭は、発熱量も高く燃料用として重宝されたことも需要拡大に向かい風となった理由でもあったようです。
月日は流れ大正時代には新規企業の参入や買収・合併などが繰り返され、めまぐるしく経営が変わる一方で、現場においては、いわゆる請負制度である個々の炭坑責任者が独自に経営する納屋制度が一般的となって行きます。昭和11~12(1936~1937)年の西表炭坑最盛期には、約1,400名の坑夫が集まり、年間12~13トンの石炭を産出していました。この当時多くの炭坑は、内離島(うちぱなり)と西表島北西部の仲良川河口部や浦内川流域に多く分布しており、採掘した石炭をそのまま船に積み込んでは目的地へと向かう合理的な輸送法が取られていました。
元々西表島には人口が少なく、炭坑労働者のほとんどは島外から集められました。日本各地は勿論のこと台湾・中国大陸からうまい話に乗せられて内情を知らされぬまま島までの運賃や斡旋代などの借金を背負わされ、タコ部屋労働を強いられます。そして炭坑で働くことにより借金を返済することになる筈が、実質賃金を管理している〝納屋頭〟と呼ばれる炭坑責任者が管理しており、実際にはほとんど支払われることはなかったようです。また給料も〝炭坑切符〟と呼ばれる会社経営の売店だけで使える金券での支給だったようです。もっともある程度集めると現金化するようなことは言われていたものの、実際に行われたことはなく、むしろ責任者が変わるだけで紙切れになってしまうことの方が多かったようです。そのことは即ち一度炭坑へと足を踏み入れることは二度と元の生活に戻れないことを意味していました。
また西表炭坑の炭層は大変薄く、坑道が狭かったため地を這うようにして作業をしなければなりませんでした。炭坑ゆえの落盤事故も度々あり、確かな記録はないものの年に数名の犠牲者が出ており、加えて衛生状態も悪く、寄生虫やマラリアでの死者も絶えなかったとされています。このように劣悪な環境で、坑夫達の楽しみといえば博打にケンカ。そのため治安の悪さは目を覆いたくなるものであったとされています。しかし逃亡したくてもする手段がない、また逃げたとしても捕まると痛い目にあわされる・・・。そんな究極の選択を強いられる環境でのことなので、いささか同情してしまう気持ちに気付かされます。
昭和16(1941)年に太平洋戦争が勃発すると、多くの坑夫が招集され炭坑は人手不足に陥ります。さらに内離島に作られた船浮臨時要塞の設営協力や、炭坑所有船舶が戦時徴用されたことなどから、炭坑の業務そのものに影響が出た上食料供給もままならなくなってしまったため、昭和18(1943)年頃までに炭坑業務を休止せざるを得なくなります。
終戦後はアメリカ軍に接収され、昭和24(1949)年にいくつかの炭坑は業務を再開しますが、運営が上手くいかなかったこともあり民間に払い下げられます。昭和28(1953)年に最後の運営企業となった琉球開発が事業を再開するものの、不採算制が露見し昭和35(1960)年に休止状態になります。
昭和34(1959)年に提案された西表開発構想に基づき資源調査が行われましたが、薄い単層から採掘できる石炭の量では採算が期待できないことなどの理由により再開には至りませんでした。
このうち浦内川支流の宇多良川付近にある宇多良炭坑は、この西表炭坑に於ける採掘業者でのひとつであった丸三(まるみつ)炭坑によって発見・開発されたものであり、昭和10(1935)年から昭和18(1943)年頃まで稼働していた炭坑になります。大正14(1924)年に設立されたこの会社ですが、当初は西表南西部の仲良川沿いの炭坑を経営していましたが、そのエリアの石炭枯渇に備え、昭和5(1930)年頃から浦内川流域の地質調査を進めていたところ、その過程で昭和10(1935)年に浦内川の支流である宇多良川付近で大規模な石炭層を発見するに至ります。そしてすぐに森林を切り開き炭坑団地の建設が始まり、翌年には宇多良鉱業所として操業を始めます。
宇多良炭坑は本層60cm、上層40cmの二層から構成されており、埋蔵量は本層が100万トン、上層が50万トンと見積もられていました。坑道で掘られた石炭は宇多良川河岸の貯炭場まで運ばれたあと小船で浦内川河口に運ばれました。最盛期であった昭和13(1938)年には月間2,500トンもの石炭を産出していました。
炭坑というと3K(きつい・危険・汚い)の極限といわれることが多いかと思います。しかしこの宇多良炭坑では会社の方針でその環境の改善を進めていたとされています。特に住居関連に力を入れており、上下水道や蚊帳装置、大浴場、診療室等が整備されており、西表炭坑の中でも群を抜いてマラリアの罹患率が低かったとされています。また石炭枯渇時の対策も考えられていたようで農地の開拓や漁船建造までも手掛け、学校も作られ将来的には自給自足ができる街づくりを目指していたという説もあります。しかしその目論見は戦争という背景によって突然幕を引くことになってしまいます。
戦争により石炭の需要が高まると労働条件は過酷なものに戻ってしまい、坑夫の徴兵や石炭輸送手段の寸断なども追い打ちをかけ、昭和18(1943)年には他の炭坑同様休止状態となってしまいます。その上連合国の執拗な炭坑への戦略爆撃によって施設の大半は破壊される憂き目に逢ってしまいます。会社側も炭坑の再開を諦めたその後は…。残念ながら日の目を見ることもなく、歴史の波に飲み込まれることになります。
平成19(2007)年、宇多良炭坑に長年の眠りから目覚める出来事が起こりました。日本の炭坑が自国の近代化に果たした役割を後世に伝えるためという理由で〝日本近代化産業遺産群〟のひとつに指定されることになりました。その時に浦内川河口付近から宇多良炭鉱跡地までの木道が作られ、約1kmの道程をハイキング感覚で訪れることができるようになりました。
【2015年10月15日木曜日】
浦内川駐車場 13:13
宇多良炭坑跡 13:27
13:37
浦内川駐車場 13:57
これが当日の時間取りになりますが、少し起伏があるものの手負いの私でも行きが15分、帰りが20分で歩いています。スタート地点は浦内川河口の駐車場となり、川沿いに遡上すると間もなくカヤックやカヌーの乗り場の横を通り過ぎます。その先に車止めがありそこからがいよいよ散策路となります。木曜日の昼過ぎという時間なので行って帰ってくる途中の中間地点ですこし年配のご夫婦とすれ違っただけではありました。ただ先日の台風の影響なのか倒木があり、木登りをしないといけないのかも…とおめでたく考えてしまいましたが、小柄な私は木の下を潜り抜けて行くことができました(笑)。川沿いを歩くため、炭坑跡地とされている場所以外は日差しもあり、特に圧迫感もありませんでした。そして行きついた炭鉱跡地は、さながら〝天空の城ラピュタ〟に出てくる風景のようにも思える場所でした。レンガやコンクリート造りの建物は朽ち果てるに任せて、そこに木々が絡み合っている…。そこにある〝萬骨碑〟という碑がひとつ、炭坑と言えば様々な事故、それによって亡くなられた坑夫の霊を弔うために建立されたものでした。比較的新しい萬骨碑以外は既に70余年は経過したものになりますが、レンガやコンクリート製の建造物は朽ちながら絞殺しの木と呼ばれるアコウ(ガジュマル)の木が絡みつき、ものすごいスピードでジャングルへと戻っているように思えました。この風景が70余年の月日でこのようになりました。これからまた72年経った2087年にはどのような光景が見ることができるのか?無理で厚かましい願望だとはわかっていても、見てみたいという欲望を押さえることができません。
悪天候を押して向かうならばいざ知らず、普通の散歩感覚で行くことができる近代遺産ではあるので、カヌーやカヤックが悪いとは言いませんが、ナチュラルアクティビティの後の小一時間の散歩ルートとして行って頂きたいように思います。なお危険なことはないかと思いますが、ひとつだけ現地でわかったことがありました。宇多良炭鉱跡地はdocomoとauは圏外でした(※SBはわかりません)。なので救助が必要なときは誰かが中間地点まで戻って電話をしなければいけませんので、それだけは注意して下さい。
途中中間地点とされる場所に〝浦内川展望所〟とありましたが、なんてことはない景色が開けている地点にしか過ぎません。しかしこの場所から浦内川マングローブクルーズの模様や、悪戦苦闘しているカヤックやカヌーの姿がバッチリ見ることができます。そういう意味では確かに展望スペースですね♪
この宇多良炭坑跡が戦跡になるかどうかは自分でもわからないところがあります。しかしエネルギーの変化による閉山ではなく、戦争により閉山を余儀なくされた理由から敢えて西表島の戦跡のひとつとしてご紹介しました。
ではこれにて〝第十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:宇多良(うたら)炭坑編~〟は終了です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach
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浦内川河口の駐車場です。
各種アクティビティの参加時の駐車場にもなるので混んでいると車を停めることができません。第2駐車場は浦内橋を渡って左側にあります。 -
浦内川遊覧船着場の表示。
県道215号線から見える看板。 -
浦内川と浦内橋。
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浦内橋。
浦内川 自然・景勝地
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西表自然休養林の看板。
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ウタラ炭坑跡はこちら。
徒歩20分とあります。浦内川観光 乗り物
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さあウタラ炭坑への山登り(?)が始まります♪
1000Mなんてちょろいもの(笑)。浦内川観光 乗り物
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西表自然休養林(宇多良遊歩道)案内図。
宇多良炭坑の概要
西表炭坑は1886年(明治19年)かあ西表島西部を中心に採掘がはじまり、第二次大戦終了後も米軍統治下で、数年採掘された長い歴史を持つ沖縄県内で唯一の炭坑である。宇多良は、明治・大正期の成屋(なりや)や内離島(うちぱなりじま)の跡、1936年(昭和11年)に丸三炭坑(まるみつたんこう)宇多良鉱業所として開坑された昭和期の西表における代表的な炭坑である。炭坑ではジャングルを切り開き工夫の宿舎や集会所、食堂、売店などが設置され、工夫など数百人が昼夜分かたず働いていた。しかし、太平洋戦争がはじまり、1943年(昭和18年)ごろから石炭の輸送が困難となって、事業停止に追い込まれた。炭坑が日本の近代化に果たした功績を記念し、宇多良炭坑遺構も2007年(平成19年)に貴重な「日本近代化産業遺跡群」の一つとして認定された。
林野庁 沖縄森林管理署(資料提供:三木健氏・竹富町役場)浦内川観光 乗り物
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車止めがあり、ここから1kmの道程を歩きます。
浦内川観光 乗り物
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200m歩いてきました。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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だんだんと遊歩道は鬱蒼としてきます。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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400m進んできました。それ程アップダウンはないので余裕です。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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遊歩道の中間地点には?浦内川展望所?と書かれていました。
でも単なる川の景色が楽しめるだけだったような…。日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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西表島の地形と石炭層について書かれていました。
西表島は面積289.27平方キロメートル、周囲129.99kmと沖縄県下では沖縄本島に次ぐ大きな島である。
亜熱帯海洋性気候に属しており、黒潮の影響で一年を通して気温の変化は小さく、湿度は年平均78%と高い。
年平均2,200mmを超える降水量は、島のいたるところに大小の河川と多くの滝を形成し、沖縄県内最長の浦内川をはじめ、亜熱帯の森と水量豊かな河川を支えている。
西表島は約1,500万年前に海中から隆起した大陸の一部であり、第三紀中新世に堆積した八重山層群と呼ばれる砂岩や頁岩の地層から成っている。
この地層の間に厚さ20cmから100cmの石炭層が3枚程挟まれており、特に内離島夾炭部層(うちぱなりじまきょうたんぶそう)と呼ばれ、仲良湾周辺及び浦内川周辺に多い。
石炭の地層としては比較的浅い場所にあることや、遠く大陸から海流に運ばれ海底に堆積した植物が元となったため、層が薄いのが特徴である。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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浦内川を下ってきたマングローブクルーズの船舶は、支流の宇多良川へと進むようです。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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あっという間に視界から船舶が消え去りました。
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だいぶと山道らしくなってきました。
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600m歩いてきたので残りは400mになりました。
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木もれびがいい感じ♪
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800m歩いて、残りは200m♪
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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と思ったら倒木がありました。
ワイルドに乗り越えようと思いましたが、これ以上手負いになる訳にもいきません。小柄なことをいいことに潜って行くことに成功します♪ -
写真ではよくわかりませんが、やや起伏があります。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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だんだんと木々が競り寄ってきます。
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残り100mの辺りから炭坑跡のものであろう遺構を見ながら進みます。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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建物の基礎。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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これも建物の基礎。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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見辛いですが中心にあるのも建物の基礎。
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足場の悪い炭坑遺跡群を見学するために歩道があります。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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そこそこの長さがあります。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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歩道の下には遺構も見ることができます。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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歩道途中にあった?丸三炭坑宇多良鉱業所の全景?。
丸三炭坑宇多良鉱業所の全景
1935年(昭和10年)に宇多良炭坑が発見され、翌年に丸三炭坑(まるみつたんこう)によって宇多良鉱業所がジャングルを切り開いて建設された。2階建の工夫独身寮、一戸建ての夫婦宿舎、300人収容の集会所兼芝居小屋、医務室や売店など、忽然と一つの炭坑村が出現した。当時の全景写真が残っているが、今では想像もつかない光景である。
しかしこれらの施設は今では姿を消し、わずかにトロッコのレールを引き込んだレンガ柱の遺構などが残っているだけである。目の前のレンガの遺構を、当時の写真に照らし合わせ、宇多良炭坑の全景を想像してほしい。
林野庁 沖縄森林管理署(資料提供:三木健氏・竹富町役場)日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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貯炭場跡。
宇多良坑の石炭埋蔵量は、480万トンと言われ、1938年(昭和13年)には月産2,500トンを産出していた。
採掘された石炭は、坑口から引かれたトロッコに積まれ、ここの貯炭場まで運ばれた。
山積みされた石炭は、宇多良川に横付けされたダルマ船に積まれ、浦内川河口の本船まで運ばれた。
積み込み作業は、川岸に突き出したコンクリートの突堤から下のダルマ船に落とされたが、当時の突堤の跡には、石炭屑やボタが、戦後しばらくまで見られたが、今ではほとんど姿を消した。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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炭坑での生活。
炭坑での生活は、ほとんど炭坑村の中で営まれた。
坑夫たちの多くは斡旋人の口車にのせられ、九州などの産炭地から来ていた。
台湾北部の産炭地から台湾人坑夫も来ていた。
中には沖縄(本島)や宮古島から来た人もいた。
坑夫たちは朝の5時に起床、6時に坑内に入って採掘し、夕方6時に上がった。
給料は炭坑独特の「炭坑切符」と呼ばれた金券で支払われ、炭坑直営の売店から米、酒、しょう油などの日常物資を購入した。
野菜などは地元の村人から購入していた。
一帯はマラリアの有病地のため、常にマラリアとの戦いを余儀なくされた。
林野庁 沖縄森林管理署 (資料提供:三木健氏・竹富町役場)日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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炭坑労働の歴史
西表炭坑の坑夫の労働は、明治期に導入された納屋制度を基本としていた。同制度は坑主から請け負った納屋頭が、坑夫の労働や生活を管理するというもので、時に暴力を伴う強制労働で「圧制炭坑」として坑夫たちから恐れられ、逃亡が企てられた。しかし捕えられると、厳しい拷問が待っていた。宇多良鉱業所では。こうした汚名を払拭すべく、近代的経営を目指したこともあったが、戦時下の増産体制の中で労働は強化され、再び元の「圧制炭坑」に戻った。犠牲となった坑夫たちの遺体が、墓石もなく周辺に埋められた。また山中を逃げて道に迷い、白骨となった坑夫もいた。
林野庁 沖縄森林管理署(資料提供:三木健氏・竹富町役場)日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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歩道から見た炭坑遺構。
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採炭トロッコ用レールの支柱(レンガ製)、貯炭場付近だけはレンガ造りであったようです。
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採炭トロッコ用レールの支柱(レンガ製)と慰霊碑。
茶化すつもりはありませんが、?天空の城ラピュタ?そのものに見えて仕方がありません。日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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炭鉱関係者の慰霊碑である?萬骨碑?。
西表炭坑は一八八六(明治十九)年に開坑 以来元成屋や内離島を中心に九州沖縄台湾から多くの坑夫が採炭に従事 炭坑独特の納屋制度のもと強制労働が行われた 宇多良炭坑は一九三六(昭和十一)年に丸三炭坑が開坑 当時としては近代的設備を備えていた しかし太平洋戦争勃発後増産による過酷な労働とマラリアのため幾多の犠牲者を出した 二〇〇七年宇多良炭坑跡は近代化産業遺産群に認定された ここに坑夫の功を讃え犠牲者の霊を弔う碑を建立する
二〇一〇年四月一日
萬骨碑建立期成会日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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採炭トロッコ用レールの支柱(コンクリート製)。貯炭場以外はコンクリート製だったようです。
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採炭トロッコ用レールの支柱(コンクリート製)。
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採炭トロッコ用レールの支柱(コンクリート製)。
茶化す場所でないのはわかっていても、?バルス?の呪文が頭から離れません。 -
暫く宇多良炭坑遺構群を眺めた後、帰路につきます。
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当然のことながら距離は1000mあります。
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倒木を潜り抜け…。
日本近代化産業群のひとつです~宇多良炭坑~。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん宇多良炭鉱跡 名所・史跡
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浦内川展望所で佇み…。
浦内川観光 乗り物
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花を眺めながら…。
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浦内川河口の駐車場へと戻ってきました。
浦内川 自然・景勝地
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浦内川河口ではカヌーの乗り方指導がされていました。
小一時間で回ってこられます♪浦内川 自然・景勝地
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この旅行記へのコメント (1)
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- Decoさん 2024/03/04 11:35:12
- 宇多良炭鉱
- たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん 、はじめまして。
宇多良炭鉱炭鉱についての旅行記、大変興味深く読ませていただきました。
また、その歴史や経緯なども琉球王朝時代に遡って書いてくださっているので、よくわかりました。
私も三池炭鉱の史跡などを歩くたり調べたりしていますが、その中で宇多良炭鉱でも囚人労働が行われたことを知り、興味を持っていました(三池では明治時代には大規模な囚人労働が行われています)。ちなみに三池でも囚人労働に舵を切ったのは山縣有朋だたそうです。
納屋制度も長崎・筑豊・三池でも行われていましたが、私が読んだ本では「社会の恥部」と表現されていて、それは過酷だったようです。その中でも特に酷かったのは長崎の高島炭鉱らしくて、まさしくタコ部屋だったそうです。他の土地から離れ、世間の目が届かない島で納屋制度が酷くなっていったことは想像に難くないのですが、西表島でもきっと過酷だったのだろうと思います。
丸三炭坑宇多良鉱業所の、環境を整えて福利厚生も充実させ、採炭事業以外も考えるというのは、画期的だったと思います。しかしそれも戦争で消えてしまった。そのまま続けばどうなっていたのか。でも石炭の埋蔵量も限界に来ていたようですし、後のエネルギー革命で終焉を迎えていたかも知れませんね。
最近訪れた方の口コミを拝見すると、今は近づくことも難しいらしい宇多良炭鉱跡ですが、こちらの旅行記では貴重な遺構なども拝見することができました。保存するのが難しい場所だとは思いますが、残してもらいたい史跡です。
ありがとうございました。
Deco
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