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第二十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~梯梧(でいご)学徒隊(私立沖縄昭和高等女学校)の足跡を訪ねて~<br /><br />私立沖縄昭和高等女学校は、昭和5(1930)年に山梨県出身の八巻太一校長によって那覇市崇元寺町(現泊)の西南に設立された戦前の沖縄で一番若い私立女学校でした。そろばん・簿記・英文・和文タイプなどが主要科目の商業校であり、将来の商店・会社・銀行の事務員養成を主目的としていました。<br /><br />昭和19(1944)年の十・十空襲前のまだ平穏な頃に、12期生31名が崇元寺の学舎で石部隊野戦病院の軍医や下士官数名から内科や外科に関する救急措置の理論を学んだとされていますが実際には実習の全課程を終えないうちに予定が早まり、昭和20(1945)年3月5日には民家に宿泊しながら首里赤田町の石部隊病院へ入隊し、ほとんど包帯の巻き方や注射の打ち方等?現実的?なことだけを教えられただけだったようです。そして3月15日頃、生徒たちは(南風原村)新川のナゲーラ壕の第62師団野戦病院に瑞泉学徒(沖縄県立首里高等女学校学徒)とともに配属になります。第62師団野戦病院に配属となった八班のうち第一?六班までが瑞泉学徒、第七・八班が梯梧学徒によって構成されていました。<br /><br />4月1日に米軍が上陸し、宜野湾-浦添戦線が激化し、負傷兵の激増に伴い、4月17日ごろに昭和高女生の八班9名は識名分室(現那覇市)へ配属されました。しかし4月29日夜にナゲーラ壕が初めての迫撃砲の集中攻撃を受け、勤務を終えた梯梧学徒隊のうち壕入口にいた1名が胸部に砲弾の破片を受けてほぼ即死。その際瑞泉学徒からも1名の戦死者が出ています。<br /><br />5月に入るとナゲーラ壕では運び込まれる負傷兵の数が多過ぎてただ寝かせるだけの状態となっており、重症患者の治療は主に識名壕で行われていたようです。そして5月13日には識名分室壕での勤務を終えた生徒たちが一眠りしていたところ、壕入口に爆弾が落ち、その破片によって壕内にあった手榴弾が誘爆を起こし入口部分が無茶苦茶になりました。この爆発により1名が即死、1名が重傷を負うも間もなく死亡。2名の犠牲者を出す結果となります。この際に生存者の判断により埋葬した二人の遺体が戦後になって掘り出されました。深夜の作業だったためどちらがどちらで…ということはすぐにはわからなかったものの、貸し借りしたモンペの切れ端によってそれぞれが判別された逸話が残っています。<br /><br />5月下旬米軍が(沖縄)守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、第62師団野戦病院も5月27日に南部へと撤退することになりました。先に識名壕へと移動を済ませていた第八班が先発隊となり、それにナゲーラ壕残った残りの学徒達は兼城村武富壕を経て米須の第62師団野戦病院本部壕にて再会を果たします。集団で移動すると標的になるため、班単位での行動だったと記録には残されています。その南部への撤退の際、歩ける患者は一人で歩き、歩けない患者は肩を貸し、あるいは担架で担ぎながら向かったそうです。<br /><br />6月上旬米須の壕に到着したものの既に満杯の状態で全員入れず、生徒は伊原の岩陰に入りました。伊原の壕と記述されているものが多いのですが、琉球石灰岩の岩陰を加工したものであり、ここでは混同を防ぐため〝伊原の岩陰〟としています。<br /><br />戦況の悪化に伴い既に野戦病院としての機能を失っていた6月8日に、野戦病院の将兵より看護婦や生徒達に対し解散命令が伝えられます。一旦は第62師団野戦病院本部壕を出て阿波根の壕までたどり着いたものの、米軍が接近しているとのことで、今来た道を伊原に向けて戻るしかなかったようです。そのため伊原へと戻ってきたものの、そこへ6月9日に迫撃砲の至近弾が着弾し壕が落盤するほどの被害を受けここで1名が戦死し、1名が重傷(そのとき瑞泉学徒1名戦死)を負います。その後は阿波根と伊原そして米須を行ったり来たりすること数回。そして6月19日に二度目の解散命令が出されることになります。<br /><br />ここでふたつの学徒隊に於けるその後の大きな差が起きることがあったようです。梯梧学徒隊の生存者10名は取り敢えず壕を後にし、米須一帯を彷徨っているうち、6月21日に米軍に収容されました。この彷徨った際にはぐれてしまった2名が戦死していますが、残り8名は捕虜となり九死に一生を得ました。また壕の落盤で重傷を負い奇跡的に一命をとりとめた1名も後に生存していることが判明します。17名の学徒のうち9名が戦死し、戦死率53.0%は決して少なくはない数字ではあります。しかし同じ場所にありながら壕から動けなかった瑞泉学徒は、梯梧学徒が収容された2日後の〝馬乗り攻撃〟を受けた結果25名が戦死することにつながっています。<br /><br />このあたりの話は異説も多く確定した理由が戦後の時の流れとともにわからなくなっている事実もあるようです。確かに既に引率をする教師等リーダー的な役割をするものはおらず、その中で学徒隊に於いては比較的年齢が高かった梯梧学徒のグループ行動が結果をもたらしたのかも知れません。また壕から離れられなかった瑞泉学徒の中には、壕を後にした梯梧学徒の重傷者を診ていた者もいたかも知れません。<br /><br />人の生死を確率論で述べるのは如何かと思いますが、もし瑞泉学徒も梯梧学徒のように大きくないグループでの行動によって彷徨っていれば、生存者数は変わってきたのではないか…そのような仮説も頭を過るもの確かです。この2~4日の間の出来事でその後を大きく左右してしまったその理由…知ることは不可能だろうとは思うものの人の命をここまで変えてしまった史実には変わりないことは、やはり知りたいという気持ちもあります。<br /><br />私立沖縄昭和高等女学校学徒看護隊(戦後名称:梯梧学徒看護隊)の足跡ですが、崇元寺の学舎から南風原町新川の石部隊野戦病院壕(通称:ナゲーラ壕)を経て、識名分院壕と分かれて学徒看護隊として従軍され、南部への撤退路を歩まれています。途中豊見城武富壕や阿波根の壕を経て、第62師団米須壕(フシゾーアブ)へと向かわれました。しかし70余年経った現在では、整地や安全のための埋め戻し等が行われており、加えて入壕に対して厳しい条件を付けているところが多く存在します。<br /><br />私立沖縄昭和高等女学校跡地の碑はあるようです(※平成21(2009)年2月琉球新報記事より)。ナゲーラ壕も場所はとりあえず把握しました。識名壕は中へと入ることもできましたが、その後足跡である武富壕もマンション建設時に埋め戻しされました。第62師団米須壕(フシゾーアブ)の個人見学はほぼ不可能ということがわかりました。残念ではありますが現在の個人の能力ではここまでが限界のように思えます。<br /><br />沖縄戦時に従軍を余儀なくされた学徒隊は20ありました。構成された学校は21にものぼり、ふたつの学校で構成されたものが沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校による〝ひめゆり学徒〟になります。本来であれば〝女子学徒隊〟というもの自体兵役方や陸軍の規則によって、戦場動員は男子に限られており女子学徒の動員は法律にはなかったこともあり沖縄県当局は女子学徒隊に抵抗したものの、軍の〝超法規的解釈〟により強制したことに起因します。そして沖縄戦に於ける女子学徒の動員数動員467名、戦死者数378名、実に死亡率81%という数値が出ています。しかしこの数字には疑わしいところもあり、学徒ではなく学校関係者を含む犠牲者を表しているのではないかという説があります。実際に沖縄県が出している〝沖縄戦に動員された21校の学徒隊〟によると、女子学徒隊動員数479名、うち戦死者数188名。となれば39.3%となる訳ですがこの数値の差はどこから出るのでしょうか。約2倍となる戦死者の数、このどちらを信じるのかは〝人によりけり〟ということなのでしょうか。<br /><br />沖縄戦を数字の上の問題として取り上げられる者などいるわけがないことはわかっていてもこの開きはあまりにも大きな違いだと言って間違いはないでしょう。しかし少ない方のデータで見ても戦死率が高い梯梧学徒看護隊を追いかけても追いかけきれない壁を感じたように思えてなりません。埋め戻された壕が公開されることはありませんが、もし何らかの理由により立ち入りが制限されている壕が入れるようになったなら、その足跡を求めて訪ね歩きたいとも思います。<br /><br />戦後を迎え昭和23(1948)6月に他の女子学徒隊に先がけて羽地国民学校で同窓生・遺族、そして八巻太一校長・職員らが参加して慰霊祭が行われています。その際に学校復興の話も出たものの時代背景がそれを許さず、私立沖縄昭和高等女学校は戦後再興されることもなく、僅か13年で時代の波に消えて行きました。そして慰霊祭はその後も数回行われたものの、その存在はあまり知られていないまま現在に至っているようです。<br /><br />元々梯梧之塔は崇元寺の学舎跡地に建立されたものを学友や遺族の強い要望によって、昭和46(1971)年に現在の場所に移築されています。ひめゆりの塔から直線距離にして100m足らずしか離れていないものの、今までの訪問時には参拝者とお会いしたことがありませんでした。今回平成28(2016)年6月23日沖縄慰霊の日の当日、慰霊祭が行われていたこともあり多くの花が手向けられていました。その上いつもお世話になっているみん宿ヤポネシアの福永ファミリーとも出会ったりと多くの人がこの場所を訪れていました。訪れる方が多いから…という意見は持ってはいないものの、知らないから来ないという寂しい意見は聞きたくないのが本音です。今ですら情報が乏しく、検証されているものかどうかも不明なものが多い中、このまま風化することだけは絶対に避けねばならないと思います。時の流れは止めることができないことを今更語っても仕方がないものかとも思いますが、どのような形でも残せるものは残して行く…そんな時代に差し掛かっているようにも思えます。<br /><br />今回知ることがすべてとなった〝第二十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~梯梧(でいご)学徒隊(私立沖縄昭和高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。<br /><br />≪追記≫戦後78年の沖縄戦追悼式に参列した後の令和5(2023)年6月24日に私立沖縄昭和高等女学校跡地を訪問することが出来ました。那覇市崇元寺町(現泊)に残るものはひとつの石碑だけ。写真の通り碑の前にはチェーンが掛けられている状況でした。理由は様々あるのでしょうが、資料写真で見た昭和高女の校舎の写真が掲げられていることから、この地に昭和高女があったことを今に伝えています。細い道沿いのマンション敷地角に建立されている碑を見るには、車で訪ねると短時間で済ませなければならない場所に位置していました。学徒隊の足跡を辿ることは決して容易なことではないと改めて感じながら、この目で学校跡地の石碑を確認できたことは私的にはひとつ大きなものを得たように思えました。<br /><br />【訪ね歩いた日】<br />① 平成28(2016)年3月1日火曜日<br />② 平成28(2016)年4月15日金曜日<br />③ 平成28(2016)年4月16日土曜日<br />④ 平成28(2016)年6月23日木曜日<br />⑤ 令和5(2023)年6月24日土曜日

第二十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~梯梧学徒隊(私立沖縄昭和高等女学校)の足跡を訪ねて~

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2016/03/01 - 2023/06/24

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第二十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~梯梧(でいご)学徒隊(私立沖縄昭和高等女学校)の足跡を訪ねて~

私立沖縄昭和高等女学校は、昭和5(1930)年に山梨県出身の八巻太一校長によって那覇市崇元寺町(現泊)の西南に設立された戦前の沖縄で一番若い私立女学校でした。そろばん・簿記・英文・和文タイプなどが主要科目の商業校であり、将来の商店・会社・銀行の事務員養成を主目的としていました。

昭和19(1944)年の十・十空襲前のまだ平穏な頃に、12期生31名が崇元寺の学舎で石部隊野戦病院の軍医や下士官数名から内科や外科に関する救急措置の理論を学んだとされていますが実際には実習の全課程を終えないうちに予定が早まり、昭和20(1945)年3月5日には民家に宿泊しながら首里赤田町の石部隊病院へ入隊し、ほとんど包帯の巻き方や注射の打ち方等?現実的?なことだけを教えられただけだったようです。そして3月15日頃、生徒たちは(南風原村)新川のナゲーラ壕の第62師団野戦病院に瑞泉学徒(沖縄県立首里高等女学校学徒)とともに配属になります。第62師団野戦病院に配属となった八班のうち第一?六班までが瑞泉学徒、第七・八班が梯梧学徒によって構成されていました。

4月1日に米軍が上陸し、宜野湾-浦添戦線が激化し、負傷兵の激増に伴い、4月17日ごろに昭和高女生の八班9名は識名分室(現那覇市)へ配属されました。しかし4月29日夜にナゲーラ壕が初めての迫撃砲の集中攻撃を受け、勤務を終えた梯梧学徒隊のうち壕入口にいた1名が胸部に砲弾の破片を受けてほぼ即死。その際瑞泉学徒からも1名の戦死者が出ています。

5月に入るとナゲーラ壕では運び込まれる負傷兵の数が多過ぎてただ寝かせるだけの状態となっており、重症患者の治療は主に識名壕で行われていたようです。そして5月13日には識名分室壕での勤務を終えた生徒たちが一眠りしていたところ、壕入口に爆弾が落ち、その破片によって壕内にあった手榴弾が誘爆を起こし入口部分が無茶苦茶になりました。この爆発により1名が即死、1名が重傷を負うも間もなく死亡。2名の犠牲者を出す結果となります。この際に生存者の判断により埋葬した二人の遺体が戦後になって掘り出されました。深夜の作業だったためどちらがどちらで…ということはすぐにはわからなかったものの、貸し借りしたモンペの切れ端によってそれぞれが判別された逸話が残っています。

5月下旬米軍が(沖縄)守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、第62師団野戦病院も5月27日に南部へと撤退することになりました。先に識名壕へと移動を済ませていた第八班が先発隊となり、それにナゲーラ壕残った残りの学徒達は兼城村武富壕を経て米須の第62師団野戦病院本部壕にて再会を果たします。集団で移動すると標的になるため、班単位での行動だったと記録には残されています。その南部への撤退の際、歩ける患者は一人で歩き、歩けない患者は肩を貸し、あるいは担架で担ぎながら向かったそうです。

6月上旬米須の壕に到着したものの既に満杯の状態で全員入れず、生徒は伊原の岩陰に入りました。伊原の壕と記述されているものが多いのですが、琉球石灰岩の岩陰を加工したものであり、ここでは混同を防ぐため〝伊原の岩陰〟としています。

戦況の悪化に伴い既に野戦病院としての機能を失っていた6月8日に、野戦病院の将兵より看護婦や生徒達に対し解散命令が伝えられます。一旦は第62師団野戦病院本部壕を出て阿波根の壕までたどり着いたものの、米軍が接近しているとのことで、今来た道を伊原に向けて戻るしかなかったようです。そのため伊原へと戻ってきたものの、そこへ6月9日に迫撃砲の至近弾が着弾し壕が落盤するほどの被害を受けここで1名が戦死し、1名が重傷(そのとき瑞泉学徒1名戦死)を負います。その後は阿波根と伊原そして米須を行ったり来たりすること数回。そして6月19日に二度目の解散命令が出されることになります。

ここでふたつの学徒隊に於けるその後の大きな差が起きることがあったようです。梯梧学徒隊の生存者10名は取り敢えず壕を後にし、米須一帯を彷徨っているうち、6月21日に米軍に収容されました。この彷徨った際にはぐれてしまった2名が戦死していますが、残り8名は捕虜となり九死に一生を得ました。また壕の落盤で重傷を負い奇跡的に一命をとりとめた1名も後に生存していることが判明します。17名の学徒のうち9名が戦死し、戦死率53.0%は決して少なくはない数字ではあります。しかし同じ場所にありながら壕から動けなかった瑞泉学徒は、梯梧学徒が収容された2日後の〝馬乗り攻撃〟を受けた結果25名が戦死することにつながっています。

このあたりの話は異説も多く確定した理由が戦後の時の流れとともにわからなくなっている事実もあるようです。確かに既に引率をする教師等リーダー的な役割をするものはおらず、その中で学徒隊に於いては比較的年齢が高かった梯梧学徒のグループ行動が結果をもたらしたのかも知れません。また壕から離れられなかった瑞泉学徒の中には、壕を後にした梯梧学徒の重傷者を診ていた者もいたかも知れません。

人の生死を確率論で述べるのは如何かと思いますが、もし瑞泉学徒も梯梧学徒のように大きくないグループでの行動によって彷徨っていれば、生存者数は変わってきたのではないか…そのような仮説も頭を過るもの確かです。この2~4日の間の出来事でその後を大きく左右してしまったその理由…知ることは不可能だろうとは思うものの人の命をここまで変えてしまった史実には変わりないことは、やはり知りたいという気持ちもあります。

私立沖縄昭和高等女学校学徒看護隊(戦後名称:梯梧学徒看護隊)の足跡ですが、崇元寺の学舎から南風原町新川の石部隊野戦病院壕(通称:ナゲーラ壕)を経て、識名分院壕と分かれて学徒看護隊として従軍され、南部への撤退路を歩まれています。途中豊見城武富壕や阿波根の壕を経て、第62師団米須壕(フシゾーアブ)へと向かわれました。しかし70余年経った現在では、整地や安全のための埋め戻し等が行われており、加えて入壕に対して厳しい条件を付けているところが多く存在します。

私立沖縄昭和高等女学校跡地の碑はあるようです(※平成21(2009)年2月琉球新報記事より)。ナゲーラ壕も場所はとりあえず把握しました。識名壕は中へと入ることもできましたが、その後足跡である武富壕もマンション建設時に埋め戻しされました。第62師団米須壕(フシゾーアブ)の個人見学はほぼ不可能ということがわかりました。残念ではありますが現在の個人の能力ではここまでが限界のように思えます。

沖縄戦時に従軍を余儀なくされた学徒隊は20ありました。構成された学校は21にものぼり、ふたつの学校で構成されたものが沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校による〝ひめゆり学徒〟になります。本来であれば〝女子学徒隊〟というもの自体兵役方や陸軍の規則によって、戦場動員は男子に限られており女子学徒の動員は法律にはなかったこともあり沖縄県当局は女子学徒隊に抵抗したものの、軍の〝超法規的解釈〟により強制したことに起因します。そして沖縄戦に於ける女子学徒の動員数動員467名、戦死者数378名、実に死亡率81%という数値が出ています。しかしこの数字には疑わしいところもあり、学徒ではなく学校関係者を含む犠牲者を表しているのではないかという説があります。実際に沖縄県が出している〝沖縄戦に動員された21校の学徒隊〟によると、女子学徒隊動員数479名、うち戦死者数188名。となれば39.3%となる訳ですがこの数値の差はどこから出るのでしょうか。約2倍となる戦死者の数、このどちらを信じるのかは〝人によりけり〟ということなのでしょうか。

沖縄戦を数字の上の問題として取り上げられる者などいるわけがないことはわかっていてもこの開きはあまりにも大きな違いだと言って間違いはないでしょう。しかし少ない方のデータで見ても戦死率が高い梯梧学徒看護隊を追いかけても追いかけきれない壁を感じたように思えてなりません。埋め戻された壕が公開されることはありませんが、もし何らかの理由により立ち入りが制限されている壕が入れるようになったなら、その足跡を求めて訪ね歩きたいとも思います。

戦後を迎え昭和23(1948)6月に他の女子学徒隊に先がけて羽地国民学校で同窓生・遺族、そして八巻太一校長・職員らが参加して慰霊祭が行われています。その際に学校復興の話も出たものの時代背景がそれを許さず、私立沖縄昭和高等女学校は戦後再興されることもなく、僅か13年で時代の波に消えて行きました。そして慰霊祭はその後も数回行われたものの、その存在はあまり知られていないまま現在に至っているようです。

元々梯梧之塔は崇元寺の学舎跡地に建立されたものを学友や遺族の強い要望によって、昭和46(1971)年に現在の場所に移築されています。ひめゆりの塔から直線距離にして100m足らずしか離れていないものの、今までの訪問時には参拝者とお会いしたことがありませんでした。今回平成28(2016)年6月23日沖縄慰霊の日の当日、慰霊祭が行われていたこともあり多くの花が手向けられていました。その上いつもお世話になっているみん宿ヤポネシアの福永ファミリーとも出会ったりと多くの人がこの場所を訪れていました。訪れる方が多いから…という意見は持ってはいないものの、知らないから来ないという寂しい意見は聞きたくないのが本音です。今ですら情報が乏しく、検証されているものかどうかも不明なものが多い中、このまま風化することだけは絶対に避けねばならないと思います。時の流れは止めることができないことを今更語っても仕方がないものかとも思いますが、どのような形でも残せるものは残して行く…そんな時代に差し掛かっているようにも思えます。

今回知ることがすべてとなった〝第二十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~梯梧(でいご)学徒隊(私立沖縄昭和高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。

≪追記≫戦後78年の沖縄戦追悼式に参列した後の令和5(2023)年6月24日に私立沖縄昭和高等女学校跡地を訪問することが出来ました。那覇市崇元寺町(現泊)に残るものはひとつの石碑だけ。写真の通り碑の前にはチェーンが掛けられている状況でした。理由は様々あるのでしょうが、資料写真で見た昭和高女の校舎の写真が掲げられていることから、この地に昭和高女があったことを今に伝えています。細い道沿いのマンション敷地角に建立されている碑を見るには、車で訪ねると短時間で済ませなければならない場所に位置していました。学徒隊の足跡を辿ることは決して容易なことではないと改めて感じながら、この目で学校跡地の石碑を確認できたことは私的にはひとつ大きなものを得たように思えました。

【訪ね歩いた日】
① 平成28(2016)年3月1日火曜日
② 平成28(2016)年4月15日金曜日
③ 平成28(2016)年4月16日土曜日
④ 平成28(2016)年6月23日木曜日
⑤ 令和5(2023)年6月24日土曜日

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
レンタカー JR特急 JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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