2017/04/19 - 2017/05/17
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
第二十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~呉・旧海軍墓地を訪ねて~
滞在:平成29(2017)年4月19日水曜日《16:07~17:00》
時間:平成29(2017)年5月17日水曜日《11:13~14:17》
広島県呉市長迫町にある長迫公園。昭和61(1986)年に旧軍港市転換法に基づき国から呉市に無償譲与されたことを受け呉市が公園として再整備し、名称も長迫公園と変更されたものになります。
今では(かっこ)書きとなっている〝旧海軍墓地〟、元々は明治23(1890)年に大日本帝国海軍墓地が開設されたことに歴史が始まります。以降海軍軍人の戦没者や殉職者等の埋葬地として利用されていました。
開設以降呉鎮守府が管理し毎年慰霊祭が行われていました。しかし昭和20(1945)年の呉軍港空襲と枕崎台風被害によりこの地は荒廃し、さらに終戦により慰霊行事自体も廃止されました。戦後は国有地となった海軍墓地でしたが、GHQによって海軍が解体された後は、有志による手入れが細々と続いていました。
その後昭和40(1965)年頃から艦艇や所属部隊別の慰霊碑が建立されるようになり、昭和46(1971)年有志が集まって設立された呉海軍墓地保存会が、毎年秋分の日を式日と定めて〝合同追悼式〟を盛大に行うことを決定し、海軍墓地に眠る英霊の遺徳を顕彰すると共に、清掃と墓地の維持管理に努めてきました。
その後国から呉市に無償譲渡されて再整備され、名称も〝長迫公園〟と変わった後の平成7(1995)年10月に海軍関係者を中心に募金活動の結果得られた1億円余を基金に〝財団法人呉海軍墓地顕彰保存会〟が設立され業務を継承します。そして平成22(2010)年8月23日付けで公益財団法人として認定されて今日に至っています。
敷地面積2.9haの現長迫公園の所有は呉市、管理は公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会が行っており、現在合祀碑92基と個人碑157基が建立されています。以前〝男たちの大和/YAMATO〟のロケ地のひとつとしても知られています。
戦争の遺構のひとつである旧海軍墓地ですが、取り巻く環境はかなり複雑な様相を呈しています。まずは公園地下部に当たる〝休山トンネル〟。平成14(2002)年に開通した新しいものではあります。休山トンネルがない頃は〝呉峠越〟という急な峠道しかありませんでした。呉市電も走っていたルートは幹線道路であれど急坂が続く難所であり、市電が急坂を登れずに乗客が押したこともあったそうです。モーターリゼーションの波によって、交通量の増加が著しい中で、峠越えのルートは四車線化されていましたが、なんせ急峻な峠道ゆえ事故と渋滞が当たり前の道だったそうです。その〝呉越峠〟のバイパス化が〝休山新道〟になるのですが、この構想は実は戦前からあったものでした。海軍呉鎮守府のお膝元としても人口40万人を数えた〝軍港呉〟。元々陸の孤島の要素はあった場所ゆえ、近隣地区への陸上ルートの確保は必須でした。当時の内務省によって昭和17(1942)年に国道特27号として事業着手し、阿賀側から150m程掘り進むも戦況の悪化により昭和19(1944)年に事業は凍結され、戦後を迎えてもしばらくは事業再開の声が出ずに放置されていました。
昭和60(1985)年に工事再開を求める運動が起こり、翌昭和61(1986)年に当時の建設省が事業採択し、昭和62(1987)年に都市計画と事業着手、用地取得を経て平成6(1994)年に長迫側からの取付道路の着工と続きました。そして休山新道最大の構造物である延長 1.7 km の休山トンネルは平成8(1996)年10月に工事着手し長迫・阿賀の両側から掘削して行ったものの都市部の山として周囲に密集する住宅地の住環境への配慮や水道管をはじめとしたライフラインの存在による慎重な作業が求められたため工事は難航しました。また両坑口周辺の住宅の空気環境を考慮して換気用の立坑を設置するなどの配慮がなされていました。トンネルは平成12(2000)年9月に貫通し幾多の難工事も工期は平成13(2001)年度の当初予定から遅れずに平成14(2002)年3月21日に暫定供用の運びとなっています。
道はできたからという理由は長くは通用せず、休山新道の想定を超えた交通量は新たな交通集中による渋滞の発生源となってしまいました。そこで平成21(2009)年11月に開催された中国地方整備局事業評価監視委員会では事業継続が妥当と判断されて4車線化されることが決定します。呉市議会議員や呉市民からも完成4車線の早期着工を求める声が寄せられており平成27(2015)年1月10日には4車線化工事の起工式が行われています。
実はこの四車線化がクセもので、戦前に休山新道の設計をした際に道路幅の見積もりを過小評価したことに起因しているそうです。戦況の悪化により工事は凍結され、その後約40年もの間放置されていました。そして工事が再開されるにあたり既に呉越峠が四車線化されていたにも関わらず、戦前の規格を基準とした二車線化の工事をして完成させるも、数年で本来の役目を果たし切れないことが判明し、13年後には拡張工事がはじまりました。二度手間の工事はお役所仕事の特徴ですが、戦前の海軍省と内務省との〝休山新道〟建設にあたりまさか〝海軍墓地〟真下にトンネルを掘ることなど認める訳もなかったでしょう。 結局は海軍が必要として求めた〝トンネル〟の〝道路幅〟が狭かった。そして工事が凍結されている間に〝大型の慰霊碑〟が建立された。その後トンネルの拡張工事が始まると、振動によって慰霊碑が倒壊するリスクが出てしまったというあまりにもお粗末な〝現実〟に直面しています。一基あたりの補修工事は100万を超えるそうです。一体どれだけの慰霊碑が倒壊の危険性があるのかはわかりませんが、その補修工事にかかる費用は厚生労働省に嘆願をして捻出するしか方法がないようなことも言われています。しかし既にいくつかの慰霊碑に関しては、ズレが生じており応急処置が施されています。軍艦伊勢・軍艦天龍の慰霊碑がベルトと鎖によって引っ張られている姿は見ていて痛々しい限りです。トンネル掘削時に周辺住民や住宅地に対して万全の配慮がされていました。現実に人が住んでいる場所と墓地では次元が違い過ぎるのかも知れません。しかし多くの方々を祀る墓地で石碑が倒れる危険性があるというのも、理由とするにはあまりにもお粗末なように思えてなりません。といったトンネル工事に纏わる問題がひとつと、もうひとつは〝軍関係の墓地の取り扱いについて〟ということになります。
歴史ある海軍墓地ではあるものの、敗戦によって海軍は解体され、事実上管理者がいなくなりました。所縁の人々の手によって細々と手入れがされていた期間を経て呉市へと返還されましたが、そこで〝呼称変更〟をした事実があります。行政側からすると、平和都市宣言をしているにも関わらず〝海軍墓地〟という名称を残すことは体裁が悪かったのかも知れません。そこで住所地の名前を被せ〝長迫公園〟としました。しかしこれに関しては必要なことなのかどうなのかは正直疑問があります。勿論戦争や軍隊を肯定するつもりは毛頭ありませんが、ただうわっ面の付け焼き刃的な〝呼称〟を付けたとて、史実を隠そうとしているようにしか思えてなりません。元々は漁業と農業で生活をしてした呉が、鎮守府が置かれたことにより〝軍都〟となり、人も集まり、造船をはじめとした〝重工業〟の街となった。それゆえ空爆の対象となり多くの犠牲者も出しましたが、その時の造船をはじめとした〝先進技術〟は、戦後復興の立役者となった〝事実〟がある以上、軍都であった〝史実〟は伝えなければならないのではないでしょうか?
戦前には陸海軍の管理下に於いて作られ、戦争によって亡くなられた兵士の御霊を祀るために〝陸海軍墓地〟というものがたくさん作られました。しかし敗戦をきっかけとして管理していた軍は解体され、結果として管理者不在のまま荒れ放題となっていました。その有様を見た遺族や元同僚の気持ちといえば〝残念〟を通り越した〝失望感〟だけだったと多くの方々が口を揃えて言われます。最終的な良い悪いは個人の判断に委ねるにしても、その判断基準となるものに手が加えられることは、作為的でしかないと私は思います。
戦争の遺構という訳ではありませんが、明治期に開設されて呉鎮守府が管理をし、戦いや殉職(職務中の事故)によって亡くなった兵士を祀りながら慰霊祭を開いていた。それが敗戦によって軍部が解体されることにより管理者がいなくなり、有志の手によるものだけとなった時期を経て、呉市の管理にはなったもののその呼称が変更されてしまい、表面上は海軍墓地という名称が〝上塗り〟されて現在に至っている事実は、根本的なものの解決にはなっておらずただ表面上のメッキをしているだけに過ぎないように思えます。実際に軍の墓地に眠っている親族がおられる方々は、墓地の荒廃に対し言葉を失ったということをお聞きしました。名称を残すことで未来に直接影響するものであればともかく、過去の〝史実〟を知ることこそ未来に繋がる〝平和論〟を展開できるとするならば、隠す必要もないし、また隠してはいけないことのように思えてなりません。
公的機関の安易な取り組みが余計に物事を複雑にしている…そんな風に思えた長迫公園・旧海軍墓地でした。
これで〝第二十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~呉・旧海軍墓地を訪ねて~〟は終わります。
第零章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~INDEX編~
http://4travel.jp/travelogue/11041482
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 自家用車 徒歩
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長迫公園(旧海軍墓地)へとやってきました。
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呉海軍墓地の沿革
呉海軍墓地は、明治23年(1890)に海軍軍人の戦没者、殉職者等の埋葬地として広島県呉市長迫町(旧和庄町)に設置されました。
以来、海軍呉鎮守府の管理のもと、毎年慰霊祭が丁重に行われてきましたが、昭和20年(1945)大東亜戦争の敗戦により慰霊行事等は総て廃止されました。
また敗戦の年,呉地方は空襲による戦争災害と大水害に襲われ、海軍墓地全体が廃墟と化してしまいました。
そのため、当時の呉地方復員局は、地元有志の協力を得て復旧し「大東亜戦争戦没者の碑」を建立しました。
その後は、「自分だけが生き残って申し訳ない」との思いにかられる生存者を始め、心暖かい有志の奉仕活動により、清掃と供養が続けられてきました。
敗戦後の混乱期を過ぎ、日本経済が安定してきた昭和40年(1965)頃より、先の大戦で、祖国と日本民族の安泰を願って悠久の大義に殉じた戦没者の御霊を、呉海軍墓地にお迎えし、その功績を碑に託してご冥福をお祈りしたいとの願いから、生存者やご遺族の手によって、鎮魂の碑が相次いで建立されるようになりました。
呉海軍墓地には現在、開設以来120年、各艦船、部隊毎の慰霊碑91基、個人碑157基、英国水兵の墓1基が建立されております。
その意味から呉海軍墓地は13万余柱の御霊が安らかに眠る聖地であり、また、日本帝国海軍の歴史を刻んだ貴重な史跡遺産でもあります。 -
武夫(もののふ)の勲は永遠に霊碑(いしぶみ)が文字に刻んで伝え護らん
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旧海軍墓地(長迫公園)園内マップ。
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呉海軍墓地案内図。
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呉市観光案内図。
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長迫公園の場所。
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呉海軍墓地のリーフレット、表紙。
旧海軍墓地 長迫公園 公園・植物園
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呉海軍墓地のリーフレット、中面の地図。
これが一番詳しく書かれています。管理棟で頂けるので、訪れたらまず入手した方が良いでしょう。旧海軍墓地 長迫公園 公園・植物園
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(15)戦艦大和戦死者之碑。
昭和54(1979)年4月7日建立。 -
(15)戦艦大和戦死者之碑。
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(15)戦艦大和戦死者之碑。
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(15)戦艦大和戦死者之碑。
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(15)戦艦大和戦死者之碑。
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(1)重巡最上戦没者慰霊碑。
昭和49(1974)年4月7日建立。 -
(2)第八十二海防艦戦没者慰霊碑。
昭和47(1972)年8月10日建立。 -
(3)戦艦扶桑戦没者慰霊碑。
昭和55(1980)年9月22日建立。 -
(3)戦艦扶桑戦没者慰霊碑。
経歴
此のピット(繋船柱)は旧海軍工廠繋船渠(通称繋船堀)に明治四十四年に設置されたものです。尓後戦艦扶桑はこれに繋留し、二百屯の大起重機に依り 凡ゆる兵器、機関の搭載並に大改装等を行った由緒あるものです。よってこの地に移設保存す
昭和五十七年十月二十五日 戦艦扶桑会 -
(4)第五三一海軍航空隊慰霊碑。
昭和47(1972)年6月17日建立。 -
(5)軍艦伊勢慰霊碑。
昭和45(1970)年10月25日建立。 -
(6)軍艦鈴谷戦没者慰霊碑。
昭和52(1977)年10月23日建立。 -
(7)特務艦間宮戦没者慰霊碑。
昭和58(1983)年11月20日建立。 -
(8)軍艦鹿島有終之碑。
平成元(1989)年9月22日建立。 -
(9)軍艦廣丙遭難哀悼碑。
明治29(1896)年5月建立。 -
(10)軍艦天龍遭難死者祈念碑。
明治31(1898)年7月23日建立。木造巡洋艦である初代天龍は、初期の国産軍艦として明治18(1885)年3月に横須賀海軍工廠で竣工し、1,547t・12節の巡洋艦で、日清・日露戦争に参加し、明治39(1906)年に除籍された。
日清戦争後に台湾方面警備に従事していたが、明治30(1897)年11月26日に船艙から火災を発生し、猛煙をついて消火作業に従事中、木曾川次郎船匠(工作兵曹)以下222名が殉職している。 -
(17-2)大東亜戦争戦没者慰霊碑。
昭和62(1987)年8月10日建立
平成20(2008)年9月23日再建立
合祀者83柱 -
(11)第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑。
昭和56(1981)年6月6日建立。 -
(12)第十戦隊旗艦巡洋艦阿賀野慰霊碑。
昭和49(1974)年10月12日建立。 -
(13)駆逐艦陽炎之碑。
昭和55(1980)年5月11日建立。 -
(14)ショートランド島戦没者慰霊碑。
昭和46(1971)年9月4日建立。 -
(16)昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑。
昭和60(1985)年9月20日建立。 -
(17)第二十四特根付特設駆潜艇第十八日東丸戦没者慰霊碑。
昭和63(1988)年10月吉日建立。 -
(18)呉鎮守府潜水艦戦没者慰霊碑。
平成3(1991)年4月23日建立。 -
(19)第六三四海軍航空隊慰霊碑。
平成元(1989)年12月19日建立。 -
(20)駆逐隊初風慰霊碑。
平成元(1989)年9月22日建立。 -
(21)駆逐隊白雲慰霊碑。
昭和62(1987)年3月16日建立。 -
(22)第十六防空隊戦没者慰霊碑。
昭和60(1985)年5月8日建立。 -
(23)駆逐艦浦波慰霊碑。
昭和60(1985)年10月26日建立。 -
(24)軍艦衣笠慰霊碑。
昭和57(1982)年11月14日建立。 -
(25)第百十三号輸送艦慰霊碑。
昭和61(1986)年10月19日建立。 -
(26)駆逐艦磯波戦没者慰霊碑。
昭和61(1986)年10月19日建立。 -
(27)駆逐艦呉竹慰霊碑。
昭和62(1987)年9月22日建立。 -
(28)駆逐艦敷波慰霊碑。
昭和47(1972)年9月11日建立。 -
(29)第参号輸送艦戦没者慰霊之碑。
昭和46(1971)年11月23日建立。 -
(30)軍艦信濃戦没者之墓。
昭和41(1966)年11月29日建立。 -
(31)軍艦雲鷹戦没者之碑。
昭和57(1982)年9月15日建立。 -
(32)軍艦日向慰霊碑。
昭和44(1969)年7月24日建立。 -
(33)駆逐艦綾波戦没者之碑。
昭和45(1970)年5月14日建立。 -
(34)第十一掃海隊13・14・15・16・17・18慰霊碑。
平成4(1992)年9月23日建立。 -
(35)軍艦高砂戦死下士卒墓。
明治38(1902)年1月15日建立。 -
(36)第十一駆逐隊吹雪・白雪・初雪・深雪慰霊碑。
平成4(1992)年9月23日建立。 -
(37)軍艦吉野戦没者之碑。
昭和13(1938)年5月15日建立。
巡洋艦吉野は、日本海軍の巡洋艦(二等巡洋艦)で吉野型防護巡洋艦の1番艦である。設計はフィリップ・ワッツが手掛けました。 艦名は奈良県の吉野山に由来しています。日清戦争で活躍し日露戦争に従事中の明治37(1904)5月15日に味方艦春日と衝突して沈没しました。 -
(38)呉海軍看護合葬碑。
大正3(1914)年4月30日建立。 -
(38-2)駆逐艦東雲慰霊碑。
平成14(2002)年5月17日建立
合祀者237柱 -
(39)駆逐艦早蕨殉職者之碑。
昭和8(1933)年10月16日建立 -
(40)第一五駆逐隊夏潮・早潮・親潮・黒潮・陽炎慰霊碑。
昭和61(1986)年9月22日建立。 -
(40-B)英国海軍水兵の墓標。
香港駐在の英国中国駐屯軍司令長官アーサー・ウィリアム・ムーア海軍中将座乗の英国海軍軍艦「アクラリティー」が、1907年4月15日の戦艦「安芸」進水式に参列のため呉に回航の際、同艦乗組員ジョージ・ティビンス2等水兵が広島県宮島沖にて海中転落した。
彼の誕生日2日前であった。遺体は同年5月2日広島県佐伯郡五日市沖にて発見され、葬儀は日本海軍礼式に準じて呉海軍墓地において執り行われた。
英国海軍軍艦「アクラリティー」は5月24日呉を再度訪問、乗組員仲間による寄付による墓石を翌25日呉海軍墓地に建立した。戦後墓石台上の十字架が折られる事案が発生したが、海上自衛隊呉地方総監部及び呉グリーン・ライオンズクラブにより修復された。 -
(41)駆逐艦深雪殉職者之碑。
昭和10(1935)年6月2日建立。 -
(42)軍艦青葉戦没者慰霊碑。
昭和45(1970)年10月吉日建立。 -
(43)呉鎮守府第六特別陸戦隊歩兵第二二九連隊第七中隊レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑。
昭和45(1970)年6月30日建立。 -
(44)伊三六三潜殉職者之碑。
昭和41(1966)年10月29日建立。 -
(45)不朽伊二九潜戦没者慰霊碑。
昭和42(1967)年5月27日建立。 -
(46)駆逐艦椿戦没者慰霊碑。
昭和58(1983)年7月23日建立。 -
(47)軍艦神通戦没者慰霊碑。
昭和62(1987)年9月22日建立。 -
(48)第三十四号駆潜艇戦没者慰霊碑。
昭和42(1967)年3月26日建立。 -
(49)軍艦矢矧殉職者之碑。
大正9(1920)年1月19日建立 -
(50)第四艦隊遭難殉職者之碑。
昭和11(1936)年11月14日建立。 -
(51)軍駆逐艦島風戦没者之碑。
昭和40(1965)年11月11日建立。 -
(52)伊号第八潜水艦之碑。
昭和56(1976)年3月31日建立。 -
(53)伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑。
昭和45(1970)年6月10日建立。 -
(54)第三十三警備隊戦没者慰霊碑。
昭和43(1968)年11月23日建立。 -
(55)呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑。
昭和47(1972)年5月8日建立。 -
(56)軍艦加古戦没者慰霊碑。
昭和42(1967)年11月25日建立。 -
(57)駆逐艦浜風戦没者慰霊碑。
昭和52(1977)年4月7日建立。 -
(58)第十七駆逐隊谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜之碑。
昭和57(1982)年3月21日建立。 -
(58-2)航空母艦飛鷹之碑。
昭和58(1983)年8月9日建立
合祀者約880柱
本碑は昭和58(1983)年8月9日京都嵐山美術館に建立。
平成7(1995)年6月20日、同館の閉館により白浜御苑に移設建立。
平成14(2002)年4月17日、同苑の閉鎖に伴い長迫公園に移設。 -
(59)軍艦鬼怒慰霊碑。
昭和55(1980)年5月25日建立。 -
(60)軍艦古鷹戦没者慰霊碑。
昭和49(1974)年10月10日建立。 -
(61)呉海軍設営隊顕彰慰霊碑。
昭和51(1976)年4月11日建立。 -
展望台。
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展望台から見た景色、その①。
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展望台から見た景色、その②。
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展望台から見た景色、その③。
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展望台から見た景色、その④。
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(62)軍艦厳島乗組員之碑。
明治28(1895)年9月建立。
軍艦厳島は昭和初期に就役した日本海軍の2,000t級機雷敷設艦で、主機にはディーゼルエンジンを搭載していました。 竣工後は支那事変(日中戦争)に参加、昭和16(1941)年12月の太平洋戦争開戦時は第十七戦隊に所属しており、南方作戦にともなうフィリピン攻略戦や蘭印作戦に参戦しています。その後は東南アジア方面で機雷敷設や船団護衛任務に従事し、昭和19(1944)年8月下旬にセレベス島方面で空襲を受け損傷します。インドネシアのスラバヤへ向け曳航中の同年10月7日、オランダ潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。 -
(63)軍艦比叡戦没者之碑。
明治28(1895)年8月建立。
金剛型戦艦の2番艦である軍艦比叡は、計画時は装甲巡洋艦であったがイギリスに発注され同地で建造された金剛型巡洋戦艦1番艦金剛の技術を導入して日本で建造された。巡洋戦艦として竣工したが、改造により戦艦へ艦種変更された。第一次世界大戦後の海軍休日にともなう軍縮条約(ロンドン海軍軍縮会議)により武装や装甲を撤去し、練習艦として運用されていました。一方で昭和天皇の御召艦として周知され、親しまれることになった艦艇でもあります。軍縮条約失効後の改装時に大和型戦艦のテスト艦として新技術が導入され、太平洋戦争においては南雲機動部隊の一艦として行動しています。昭和17(1942)年11月12日に第三次ソロモン海戦第1夜戦で損害を受けて後に翌日中の空襲により放棄・沈没しました。その後練習戦艦のまま除籍されています。 -
(64)駆逐艦秋風慰霊碑。
昭和40(1965)年11月11日建立。 -
(65)軍艦隼鷹慰霊碑。
昭和58(1983)年6月19日建立。 -
(66)軍艦熊野慰霊碑。
昭和53(1978)年11月19日建立。 -
(67)呂号百四潜水艦之碑。
昭和56(1981)年10月30日建立。 -
(68)伊号十一潜水艦之碑。
昭和56(1981)年10月30日建立。 -
(69)善本野戦高射砲中隊戦没者慰霊碑。
昭和55(1980)年10月10日建立。 -
(70)海防艦稲木戦没者慰霊碑。
昭和55(1980)年11月23日建立。
昭和19(1944)年12月16日竣工(三井玉野造船所)。1945年(昭和20年)8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没した。 -
(71)工作艦明石慰霊碑。
昭和56(1981)年3月30日建立。 -
(72)第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑。
昭和57(1982)年10月10日建立。 -
(73)駆逐艦天津風之碑。
昭和60(1985)年4月5日建立。 -
(74)駆逐艦叢雲慰霊碑。
昭和60(1985)年4月5日建立。 -
(75)ソロモン方面第十二防空隊慰霊碑。
昭和58(1983)年2月12日建立。 -
(76)工作艦朝日・山彦丸・山霜丸合同慰霊碑。
昭和60(1985)年5月21日建立。 -
(77)第一〇三海軍工作部戦没者之碑。
昭和59(1984)年5月27日建立。 -
(78)軍艦初鷹慰霊碑。
昭和58(1983)年4月2日建立。
軍艦「初鷹」は1939年(昭和14年)10月に竣工した日本海軍の敷設艦(急設網艦)[23]。艦名は鷹狩りにもちいる秋の鷹に依る[24]。 潜水艦に対する港湾防御の一つとして防潜網(機雷が付いた網)が開発され、これを短時間で敷設する艦艇が求められた[25]。初鷹型は「白鷹」や燕型敷設艇に続いて完成した急設網艦である[25]。初鷹型は小型軽快で対潜能力も有し、船団護衛任務にも投入された[4][25]。
太平洋戦争開戦時の「初鷹」は南遣艦隊・第九根拠地隊に所属しており、マレー作戦(南方作戦)に従事[23]。水路啓開や船団護衛任務に従事した[23]。1942年(昭和17年)9月からラバウル方面に進出して、護衛任務・哨戒任務に従事した[23]。1944年(昭和19年)中旬以降、再び東南アジア方面での船団護衛・哨戒・機雷敷設任務に従事[23]。1945年(昭和20年)5月16日、米潜水艦の雷撃で沈没した[23]。 -
(79)軍艦三隈戦没者慰霊碑。
昭和59(1984)年6月3日建立。 -
(80)軍艦球磨慰霊碑。
昭和61(1986)年1月11日建立。 -
旧海軍墓地の奥深くに無縁仏さまがありました。石碑には
〝呉海軍建築部揮発油庫裏より発掘したもの管理者不明のためこの地に埋葬する。
昭和10年4月23日〟と刻まれていました…。 -
(81)大東亜戦争戦没者之碑。
昭和22(1947)年1月25日建立されたもので、揮毫は戦艦大和第五代艦長で、大和沈没時に第二艦隊参謀長として乗り組んでおられた森下信衛氏によるものです。 -
(82)潜水母艦長鯨戦没者慰霊碑。
昭和60(1985)年9月7日建立。 -
(83)呉六突バラレ島戦没者慰霊碑。
昭和60(1985)年9月22日建立。 -
(84)駆逐艦桑戦没者之碑。
昭和57(1982)年12月2日建立。 -
(85)六三四海軍航空隊・第九三四海軍航空隊慰霊碑。
昭和57(1982)年10月24日建立。 -
(86)軍艦大井戦没者慰霊碑。
平成元(1989)年9月22日建立。 -
(87)大東亜戦争海軍戦没社柔道部員之碑。
昭和42(1967)年5月27日建立。 -
(88)上海満州事変戦没者之碑。
昭和8(1902)年10月23日建立。 -
鎮魂歌〝長迫の丘〟。
潮路はるかに昇る陽に 旭日の旗なびかせて 祖国を護りし勇士が
静かに眠る長迫の 丘に平和の鐘が鳴る
ゆるぎなき世の礎は 七つの洋に散った華 勲讃ええる石碑に
またたく星は長迫の 空に平和の鐘が鳴る
精気あふれる日本の 未来を拓く同胞の 御霊安けと祈りつつ
友人集う長迫の 森に平和の鐘が鳴る -
長迫公園管理棟(事務所)。旧海軍墓地に建立された慰霊碑の〝艦艇〟をはじめとした写真が展示されています。
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戦死した兵士の〝町葬〟に贈られた弔辞と葬儀の模様の写真。
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開戦前連合艦隊作戦打ち合わせ会議後の記念写真。
昭和16(1941)年11月14日岩国海軍航空隊に於いて。 -
長迫公園管理棟(事務所)の展示資料。
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長迫公園管理棟(事務所)の展示資料。
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長迫公園管理棟(事務所)の展示資料。
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戦艦三笠の模型。
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艦艇の紹介。
大東亜戦争以前の部。 -
艦艇の紹介。
駆潜艦・掃海艇。 -
艦艇の紹介。
敷設艦・潜水母艦・工作艦。 -
艦艇の紹介。
潜水艦。 -
呉海軍墓地慰霊碑命日一覧表。
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呉海軍墓地慰霊碑命日一覧表、その②。
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艦艇の紹介。
特務艦・輸送艦・海防艦。 -
艦艇の紹介。
駆逐艦。 -
艦艇の紹介。
駆逐艦。 -
艦艇の紹介。
巡洋艦。 -
艦艇の紹介。
最後に航空母艦と戦艦。 -
住宅地横に広がる旧海軍墓地…。
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この風景が永遠に続くことを願いたい…。
第零章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~INDEX編~
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