大隅半島(鹿屋・垂水・志布志・肝属)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~<br /><br />さんふらわあで志布志に入り、そこからレンタカーを利用して鹿児島の特攻戦跡を巡る旅としてまとめるつもりでいましたが、史跡や資料館等戦跡を回ったことをひとつにまとめきれないことを感じました。なので番外編として万世・知覧と鹿屋で見て聞いたことを書いてみます。一部自分の拙い言葉で考えを述べるところがありますので、なにか思われることがありましたらご指摘下さい。<br /><br />こちらでは海軍特別攻撃隊基地跡と慰霊碑として、笠之原・串良・鹿屋のことを書いています。<br /><br />①笠之原海軍航空基地跡地<br />②串良平和公園(串良海軍航空基地跡慰霊塔)<br />③串良海軍航空基地地下壕電信指令室<br />④小塚公園(鹿屋海軍航空基地慰霊塔)<br />⑤桜花の碑<br />⑥海上自衛隊鹿屋基地資料館 <br /><br /><br />10:00にチェックアウトします。自宅で組んだ、ホテル→笠之原基地跡→串良平和公園→串良基地地下壕通信指令室→小塚公園→桜花の碑→海上自衛隊鹿屋航空基地資料館→佐多岬→志布志というルートですが、この笠之原基地跡をナビで探しても出てきません。Googleマップのナビ機能を使っても座標からだと道がないと出てしまいます。なので最後の手段、大まかな場所と行先設定しあとはひたすら探すことにします。笠之原基地跡は笠之原小学校近くなので、そこまで行って探します。目的地まではすぐでしたがどうも場所の特定が難しい…、田畑の真ん中にぽつんと基地跡だけがあってすぐわかるとたかをくくっていましたが、現実は笠之原小学校自体が住宅地の隣にあり、周辺が区画整理されているため道が違うような気がします。小学校と公園の位置関係などを見ながら住宅地の中をぐるぐる回ること数十分、ホントに田畑の中にぽつんとあった旧海軍笠之原基地地下壕跡を発見しました。<br /><br />鹿屋近郊の特攻史跡を調べるうちにわかったことですが、実は特攻基地は3つありました。鹿屋・串良、そしてここ笠之原と。もっと調べるとなにか他の史跡が出てくるのかも知れませんが、笠之原はこの地下壕跡だけが残っているみたいです。中に入ることはもちろんできませんでしたが、前に立っていた説明書きの看板と地下壕跡で当時を推測するしかありません。建物のまわりを一周し、教科書通りなにかで目にしたもの、地下道入口・地下道入口の背面(看板が立っている部分)・建物に残る弾痕と写真に収めて次の目的地である串良平和公園へと向かいます。<br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br /><br />旧笠之原海軍航空基地跡地<br />沿革<br />現在地は旧笠之原飛行場として大正十一年八月から昭和二十年八月十五日まで二十四年間に亙り、旧陸海軍の飛行場基地として使用されていた。太平洋戦争末期の昭和十九年一月十五日には海軍航空基地が設置され、田中隊一個中隊が常駐することにとなった。また、昭和二十年一月には第二百三航空隊零式戦闘機七十二機が配備され、特別攻撃隊として南海の戦場に散っていった。その後昭和二十年三月八日の連合軍の集中爆撃のため、格納庫を始めとする基地施設は全滅し、当時を物語る唯一の異物として、このコンクリート入口が、東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道入口並びに地下通路司令室として現存しているものである。当地は民有地を買収して飛行場がつくられた関係上、終戦により地元地区民に農地として無償で払い下げられ、現在に至っている。<br />鹿屋市観光協会<br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br /><br />串良平和公園、距離的にはそれほどありませんが、平和公園でナビ検索すると道を挟んで隣の野球場に着きます。それからはまた目視だよりです。見つけました、小高い丘にある白い慰霊塔を。車を近くの駐車場に回して歩いて行きますが、この場所なんかしっくりこないものを感じます。昨日の万世・知覧ともすごく厳かな雰囲気の中にありました。しかしこの串良平和公園はなにか違います。色々なスポーツ施設の中の一セクションとして慰霊塔があるような感じを受けました。むしろその特攻基地の過去を隠すかのように…。後述しますが実はこの考えは間違いです。知覧特攻平和祈念公園の敷地内にも野球場はありましたが、別の施設という感じを受けました。<br />慰霊塔の前で黙礼し、まず全体を見てみます。慰霊塔に登っていく階段の両脇にツツジの木を刈り込んだ緑の”平和”の文字、素人が撮った写真でも慰霊塔がなにかに乗っているような感じを受けます。階段を昇っていくと祭壇があります。そして慰霊塔の周りには鹿屋近郊の特攻飛行場から南へと飛び立って征った隊員の方々のお名前が刻銘されています。改めて犠牲になられた方の数の多さに虚無感を覚えます。当時はゆっくりとできる状態ではなかったと思いますので、この風景を望む場所で安らかにお眠り下さい。実はこの慰霊橋の上で慰霊塔に向かって柏手を打つと慰霊塔の上のハトがクックッと鳴くそうです。串良平和公園串良海軍航空基地跡慰霊塔由来文に書いてありました。先程この場所が特攻基地の過去を隠すようなイメージを受けたことが間違いであったと書きました。それはこの由来文に答えがあります。忠魂碑があることは今まで見てきた特攻戦跡にもあった話ですが、実はこの慰霊塔の脇に桜並木があります。公園と言うと桜並木でありまたその関係に特に違和感を感じませんでした。関西桜通りと書いてありますが、このまっすぐな桜並木、実は旧海軍串良航空基地の1,200mの滑走路です。この事実を知った瞬間私の心は凍りつきました。アスファルト舗装はされているとて、69年前この滑走路を爆弾を抱え、ヨタヨタと走りながら飛び立って征った多くの特攻機とその隊員の方々がいらっしゃったことをストレートに今に伝えていること、無学とは言えあんちょこに考えてしまった私の浅はかさに嫌気がさします。そしてその道を車で走ってみました。当時は急造の滑走路だったので凸凹もあったと思います。歩くとスピード感がないのであえて車で走りました。今は上手く表現することができませんが、桜の時期に一度来てみたいと心から思います。<br /><br />公園の入口に鹿屋近郊の特攻戦跡が紹介されています。出発前に行くつもりをしていた場所で、旧海軍串良基地地下壕通信指令室が近くにあります。地図で見ると近いようですが、こちらもやはりナビ検索ができないので地図を頼りに走ります。地図で見る限りでは野球場を回り込んで行くと裏側あたりにあるはずですが、やはりすぐには見つかりません。個人の敷地内にあると書いてはありますがすっと通り過ぎてしまったのかと思い、Uターンして元に戻ろうとすると、ありました。地下壕通信指令室跡駐車場の看板が。しかし駐車場の入口はちょうど工事中、どうやって入るのかわからず2回程目の前を通過しました。大回りすればなんとかなりそうだと思いつき対向車がないのを確認し、右折でやっと入ります。見た感じ入口が見あたらず、強引に蜘蛛の巣が張っている薮に踏み入り明らかに人工的に作られたコンクリートの塊のような建物に行き着きます。入口には鍵のかかった鉄格子があり、中には入ることはできません。実はこちら個人の方の敷地内にあり、鍵等を管理されているとのこと。事前に調べた時に気付いていたことなんですが、すっかり時間におされていたのでその時は完全に忘れていました。写真に収め、陽があたる方向に出て行くと普通に出られました。しかし不法侵入と言われても仕方がない状況になってしまいました。すいませんでした。旧海軍串良航空基地地下通信壕通信司令室跡、69年前にはこちらで特攻隊員として飛び立って征かれた方が、多分最後の命令を聞いただろう場所であるところに今居ることはなにか不思議な感じがします。近年近隣諸国との間でギクシャクした関係が続いていますが、観光客としてこの場所を訪れていることに平和の有難味を感じずにはいられませんでした。<br /><br />工事に気を取られてしまっての壕の見学を終え、次の目的地へと向かいます。鹿屋を知っておられる方はなにかおかしいことに気付かれたかも知れません。回り方が中心部ではなく周辺からなぜ回るんだろうと。実はこれ、最初は海上自衛隊鹿屋航空基地資料館を最後に佐多岬へと向かう予定でいたためそういうルートを取っています。朝出発する際に時間的にそのルートは不可能と思っていたため変更すれば良かったんですが、既に余裕はありませんでした。おまけに次の目的地小塚公園へ向かうのに、ナビ検索で入らなかったため最寄の場所の”西原台小学校”を”西原小学校”と勘違いしてしまい住宅地で迷ってしまいました。知らないことは怖いこと、鹿屋にお住まいの方だと誰もが”小塚公園”と言うとわかってもらえるとの先入観、地元の方に聞いても”知らない・・・”って答えが返ってきます。ようは”慰塔”と言えばわかってもらえたみたいなのですが、私自身そんなことは木っ端微塵も考えませんでした。公園で改めてスマホを開いてわかったことが”西原台小学校”の近く・・・。結構な時間をロスってしまいましたが、無事目的地の小塚公園に到着しました。ちなみに国道269号線から右折する交差点には、間違えようもなく”慰霊塔前交差点”と書かれてありました。<br /><br />この小塚公園ですが駐車場がかなり狭いです。多分他に行かれる方もおられるのは日本全国共通みたいなところがありますが、とにかく停めて歩きます。パッと見た感じは串良平和公園の慰霊塔と似たような感じを受けます。上手く説明ができませんが、旧海軍関係の特攻慰霊碑と言うことで同じような感じにされているように感じを受けました。<br /><br />写真で見て頂くとわかりますが、結構急な階段がまっすぐ慰霊塔へと向かってあります。その姿は結構インパクトがあり、その姿を確認したときに写真に収めました。そして慰霊塔へと向かう階段の下で黙礼をしてから上って行きます。途中にも慰霊碑がありましたが先に頂上へと向かいます。白と金色の慰霊塔の前には祭壇があり、その隣には旧海軍鹿屋特攻基地より南方へ出撃され帰らぬ人となった908名の特攻隊員のお名前が刻印されています。時代背景があるにしても避けられなかったのか・・・と言う気持ちは他の特攻慰霊碑を訪れた時と同じように思います。改めて平和のありがたみを再確認し、亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思います、合掌。<br /><br />参道と言う言い方は適切ではないのかも知れませんが、階段を降りていきます。そして途中にあった慰霊碑にも寄りながら降りてきました。最後にこの慰霊碑の由来を確認します。勿論ヒトコトでいうには適切な言葉はありませんが、その海軍特攻隊員として征かれた方の慰霊塔であることには間違いありません。ただその由来文を見てひとつふと思うことがありました。それは慰霊塔から見た景色を特攻機で出撃された際にこの風景を見て征かれ、現在にその想いを込めてこの場所に慰霊塔を建立したと言う一文をみつけ、すぐさま今降りてきた階段を昇り直します。そして慰霊塔の前まで来て黙礼をした後、新たな気持ちで風景を見させて頂きました。改めてこの風光明媚な風景は犠牲のもとに成り立っていると言う気持ちを新たにし、再び階段を下りて行きます。<br /><br />1時間ほどで見て回ってきました。次の目的地は桜花の碑、朝日神社の隣と下調べした予定表には書いていました。そのままナビに入力するとすぐに着きそうです。とは言えナビに振り回されまくっている今回の弥次喜多道中、一筋縄ではいきません。住宅地を走り同じ道を行ったり来たりした末なんとか到着しました。ただこちらは駐車場がありません。あまり車が通らない道ゆえ、路肩に駐車して足早に回ります。「桜花の碑」は、言うまでもなく終戦間近の日本海軍の開発した人間爆弾”桜花”に由来しています。勿論桜花隊員だけではなく、旧海軍鹿屋基地から出撃されて征かれた隊員の方全ての慰霊の目的で作られているものですが、元桜花隊員の方が私財を投じて建立されたものなので”桜花の碑”と命名されたようです。碑の前で黙礼をしてから碑文を読み、写真でカットしていきます。慰霊祭の時に使われるのでしょうか?ポールが立っていました。ただこちらに関してはあまり謂れについて書いてあるものがありませんでしたので、触れないことに致します。最後にまた黙礼をして次の目的地”海上自衛隊鹿屋基地資料館”へと向かいます。<br /><br />海上自衛隊鹿屋航空基地資料館、文字通り海上自衛隊鹿屋基地の中にある資料館ですが、建物の中の一階は海上自衛隊の航空基地としてのものが主体に、二階に旧海軍鹿屋基地、つまり特別攻撃隊の資料を展示しています。だいぶ時間がおしており、時間的な余裕がないため今回は外に展示してある自衛隊関係のものは割愛し、資料館の見学に重点を置きます。一階にも特別攻撃隊に関係する展示物はありますが、写真撮影は可能になっています。ただやはり目に付くものは、エントランスにある平山郁夫画伯の「夕映桜島」の原画を元に作成されたステンドグラスかと思います。鹿屋という場所柄特攻隊員として南の空へと飛び立って征かれた多くの若き隊員の方々が敬意を払って見て征かれただろう桜島の風景がモチーフになったものです。入館するとすぐ目に入るものなので写真等でご存知の方も多いかと思いますが、ただ素晴らしいだけではなく、その作品の中に秘められた忠魂の意味を忘れることはできません。また二階部分には日露戦争に始まる海軍の歴史に始まり、第二次世界大戦終戦間近の特別攻撃隊に至るまでをビジュアルで見ることができます。人の考えなので解釈は色々あると思いますが、有名な場所でありかつ入場料もかからないため、昨日の知覧特攻平和会館と同じように見学者がいるのであまりゆっくりはできないかも知れません。今回は行程すべてにおいて時間の都合で振り回されたこともあり、駆け足を余儀なくされたところが多かったのも確かです。この海上自衛隊鹿屋航空基地資料館も改めてゆっくり来たいと思いました。<br /><br />最後に館外の展示物で見ておきたいものを探します。「二式大艇」、戦後米軍が接収しノーフォーク海軍基地で保管されていたものですが、1978年6月に米国内での保管終了に伴い「日本で引き取る」か「スクラップ」の選択となった際、「船の科学館」で引き取られたものだそうです。2004年4月からこの「海上自衛隊鹿屋基地」にて野外展示物として現在に至ります。<br /><br />その他所狭しと並んでいる海上自衛隊の飛行機の合間を縫って車へと戻って来ました。時間は15:00、あとは志布志に戻ることしかありません。約30kmの道のりなので1時間みとけば大丈夫だろうと思いつつ、2日間で駆け足でまわった特別攻撃隊の史跡のことを思い返しながら走ります。<br /><br />簡単に用語説明をしておきます。<br /><br />海軍の階級について<br />①【兵・兵卒】二等水兵→一等水兵→上等水兵→水兵長、【下士官】二等兵曹→一等兵層→上等兵曹、【准士官】兵曹長、【特務士官】少尉→中尉→大尉(注)。<br /><br />②【海軍兵学校学生】少尉候補生、【士官】少尉→中尉→大尉→少佐→中佐→大佐→少将→中将→大将→元帥大将<br />(注)陸軍とは違って海軍兵学校学生は、下士官(兵曹長)の上、少尉の下という身分が保証されていました。<br /><br />上記2通り記載しましたが海軍士官は兵学校卒でないと原則なれないため、兵卒からの叩き上げだと特務士官止まりでした。1942年11月1日に階級の呼称変更が行われ「特務士官」はなくなりましたが、学歴重視の海軍においてはその旧特務士官の階級について差別意識がかなりあったようです。また「選修学生」の制度で優秀な兵曹長・一等兵曹から選ばれるケースもありますが、これでも「特務士官」の扱いにしかならなかったようです。また飛行科においての下士官・准士官階級呼称について「三等飛行兵曹(三飛曹)(三等兵曹・伍長)」「二等飛行兵曹(二飛曹)(二等兵曹・軍曹)」「一等飛行兵曹(一飛曹)(一等兵曹・曹長)」「飛行兵曹長(飛曹長)(兵曹長・准尉)」があります。<br /><br />雷撃機(らいげきき)<br />軍用機の一種で雷撃(航空魚雷による対水上艦攻撃)に特化した飛行機。通常、水平爆撃を兼務することができる。<br /><br />攻撃機(こうげきき)<br />日本海軍では、急降下爆撃を行える機体を爆撃機、水平爆撃および雷撃のみを行える機体を攻撃機(艦上攻撃機および陸上攻撃機)と呼んだ。これは日本海軍独特の機種であった。太平洋戦争末期の銀河は、機体強度を増して急降下爆撃が可能だったので、陸上爆撃機に分類されているものの、同様に急降下爆撃機を兼用する流星は攻撃機に分類されている。<br /><br />爆撃機(ばくげきき)<br />大量の爆弾類を搭載し強力な破壊力を持たせた軍用機。戦略爆撃や戦術爆撃に使用される。<br /><br />※攻撃機と爆撃機の違いは積載できる兵器の量で区分するという説が一般的のようです。<br /><br />海軍の特攻機として使用されたもの<br />《戦闘機》<br />零式艦上戦闘機(単座)<br />二式水上戦闘機(単座)<br />局地戦闘機「紫電」(単座)<br />局地戦闘機「雷電」(単座)<br />夜間戦闘機「月光」(複座)<br />艦上爆撃機「彗星」(複座)<br />艦上攻撃機「流星」(複座)<br />艦上攻撃機「天山」(複座)<br />陸上爆撃機「銀河」(三座)<br />九六式陸上攻撃機(5~7)<br />九七式艦上攻撃機(三座)<br />九九式艦上爆撃機(複座)<br /><br />《練習機・その他》<br />九〇式机上作業練習機「白菊」(5)<br />九三式陸上中間練習機(複座)<br />零式水上偵察機(三座)<br />零式水上観測機(複座)<br />九四式水上偵察機(三座)<br /><br />《特攻兵器》<br />桜花<br />回天<br />震洋<br />海龍<br />蛟龍<br />など<br /><br />用語説明のところに”特攻機として使用されたもの”の一覧を載せました。正直これは、この旅行記の目的から外れているように思います。しかしあえて載せたことには意味があります。機種のあとに記載した”単座・複座・三座・数字”はそれぞれの機の定員になります。単座とは一人乗りですが、海軍特攻には”複数名定員”の機が多く使われています。特攻と言うと&quot;ひとり&quot;で征くものだと勝手に思っていましたが、現実には定員搭乗での特攻が行われていたので、必然的に一度の特攻によって複数の犠牲者が出ることになります。勿論単座で出撃されたこともあるようですが、特に海軍では飛行機の運航に必要な技術を分担して行うことにより戦果を上げることが当たり前になっていたと考えられます。確かに正論ではあるとは思いますが、それが大戦末期に行われた許されない攻撃手法”特攻”を行う際に”あたりまえ”を変えられなかったことが、陸軍の特攻戦没者に比べて格段に多いという悲劇を生んでしまったように思います。<br /><br />航空特攻戦没者内訳(wiki)<br />(陸軍)1,417名<br />(海軍)2,531名<br />(合計)3,913名<br />特攻作戦戦没者内訳(航空特攻戦死者含む)(wiki)<br />(陸軍)1,689名<br />(海軍)4,156名<br />(合計)5,845名<br /><br />第二次世界大戦のおける日本の戦没者(厚生省発表数)<br />(軍属)約230万人(国外約210万人・国内約20万人)<br />(民間人他)約80万人(国外約30万人・国内約50万人)<br />(合計)約310万人<br /><br />この戦没者数は諸説ありどれが正しいかはわかりません。出所がわかるものを列挙しました。今回の特攻戦跡の話題からは外れますが、戦争中に相手国民の士気喪失を狙って都市爆撃を行う「戦略爆撃」というものがエスカレートしていきました。極めつけは広島と長崎における原爆投下だと言っても過言ではないと思います。<br /><br />私はこの場で思想論を述べるつもりはありません。文献にて調べたものもありますが、内容を詰めたとしても、今回の訪問でビジュアル的に得たものの説明にはならないように思いました。それゆえwikipediaからの引用で用語説明をしてあるだけに過ぎません。アウトラインだけで済まそうと思えばそれで済んだのかも知れませんが、調べているうちに”裏話”が多く存在することを知りました。有名な話も多いのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、それを背景として戦争が行われ、かつ大戦末期には許されない”特攻”と言うものが当たり前とされた時代がありました。私は特攻隊員の方々は、残される家族やこの愛する国の未来のため、ひとつしかない命を捧げるべく飛んで征かれたのだと思います、いや思いたいのかも知れません・・・ご自分の意思であったと・・・。しかし「知ろうとすればするほど」両極端の意見を目にします。内容はさておきその「肯定派」と「否定派」の意見を目にしつつ、どちらの意見の「良いとこ取り」をしようとしたのですが、どうしても矛盾点が生じてしまいます。コピペの応酬でも知り得てしまう事実、陸軍史跡の項でも述べましたが「知るも知らぬも闇の中」と言うのがこの記を書き終えた正直今の私の気持ちです。<br /><br />旅行記というカテゴリーの中で、少しでも”戦争”に関心を持って頂き、そしてその戦争を今に伝える場所に行って頂きたいと思う気持ちで書いております。また今後も機会を見付けて「戦争史跡」を巡りたく思います。たとえ答えは見つからなくても・・・。<br /><br />これでさんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~を終わります。<br /><br /><br />もし戦跡巡りに少しでも関心を持って頂けたならご覧下さい。<br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br />【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933877<br /><br />【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10963283<br /><br />【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10981023<br /><br />【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10974454<br /><br />【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990537<br /><br />【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990699<br /><br />【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990539<br /><br />【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/11015120<br /><br />※未完成<br />【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10964521<br />

第二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~鹿児島海軍特攻戦跡:笠之原・串良・鹿屋編~

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2014/09/15 - 2014/09/18

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~

さんふらわあで志布志に入り、そこからレンタカーを利用して鹿児島の特攻戦跡を巡る旅としてまとめるつもりでいましたが、史跡や資料館等戦跡を回ったことをひとつにまとめきれないことを感じました。なので番外編として万世・知覧と鹿屋で見て聞いたことを書いてみます。一部自分の拙い言葉で考えを述べるところがありますので、なにか思われることがありましたらご指摘下さい。

こちらでは海軍特別攻撃隊基地跡と慰霊碑として、笠之原・串良・鹿屋のことを書いています。

①笠之原海軍航空基地跡地
②串良平和公園(串良海軍航空基地跡慰霊塔)
③串良海軍航空基地地下壕電信指令室
④小塚公園(鹿屋海軍航空基地慰霊塔)
⑤桜花の碑
⑥海上自衛隊鹿屋基地資料館 


10:00にチェックアウトします。自宅で組んだ、ホテル→笠之原基地跡→串良平和公園→串良基地地下壕通信指令室→小塚公園→桜花の碑→海上自衛隊鹿屋航空基地資料館→佐多岬→志布志というルートですが、この笠之原基地跡をナビで探しても出てきません。Googleマップのナビ機能を使っても座標からだと道がないと出てしまいます。なので最後の手段、大まかな場所と行先設定しあとはひたすら探すことにします。笠之原基地跡は笠之原小学校近くなので、そこまで行って探します。目的地まではすぐでしたがどうも場所の特定が難しい…、田畑の真ん中にぽつんと基地跡だけがあってすぐわかるとたかをくくっていましたが、現実は笠之原小学校自体が住宅地の隣にあり、周辺が区画整理されているため道が違うような気がします。小学校と公園の位置関係などを見ながら住宅地の中をぐるぐる回ること数十分、ホントに田畑の中にぽつんとあった旧海軍笠之原基地地下壕跡を発見しました。

鹿屋近郊の特攻史跡を調べるうちにわかったことですが、実は特攻基地は3つありました。鹿屋・串良、そしてここ笠之原と。もっと調べるとなにか他の史跡が出てくるのかも知れませんが、笠之原はこの地下壕跡だけが残っているみたいです。中に入ることはもちろんできませんでしたが、前に立っていた説明書きの看板と地下壕跡で当時を推測するしかありません。建物のまわりを一周し、教科書通りなにかで目にしたもの、地下道入口・地下道入口の背面(看板が立っている部分)・建物に残る弾痕と写真に収めて次の目的地である串良平和公園へと向かいます。

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旧笠之原海軍航空基地跡地
沿革
現在地は旧笠之原飛行場として大正十一年八月から昭和二十年八月十五日まで二十四年間に亙り、旧陸海軍の飛行場基地として使用されていた。太平洋戦争末期の昭和十九年一月十五日には海軍航空基地が設置され、田中隊一個中隊が常駐することにとなった。また、昭和二十年一月には第二百三航空隊零式戦闘機七十二機が配備され、特別攻撃隊として南海の戦場に散っていった。その後昭和二十年三月八日の連合軍の集中爆撃のため、格納庫を始めとする基地施設は全滅し、当時を物語る唯一の異物として、このコンクリート入口が、東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道入口並びに地下通路司令室として現存しているものである。当地は民有地を買収して飛行場がつくられた関係上、終戦により地元地区民に農地として無償で払い下げられ、現在に至っている。
鹿屋市観光協会

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串良平和公園、距離的にはそれほどありませんが、平和公園でナビ検索すると道を挟んで隣の野球場に着きます。それからはまた目視だよりです。見つけました、小高い丘にある白い慰霊塔を。車を近くの駐車場に回して歩いて行きますが、この場所なんかしっくりこないものを感じます。昨日の万世・知覧ともすごく厳かな雰囲気の中にありました。しかしこの串良平和公園はなにか違います。色々なスポーツ施設の中の一セクションとして慰霊塔があるような感じを受けました。むしろその特攻基地の過去を隠すかのように…。後述しますが実はこの考えは間違いです。知覧特攻平和祈念公園の敷地内にも野球場はありましたが、別の施設という感じを受けました。
慰霊塔の前で黙礼し、まず全体を見てみます。慰霊塔に登っていく階段の両脇にツツジの木を刈り込んだ緑の”平和”の文字、素人が撮った写真でも慰霊塔がなにかに乗っているような感じを受けます。階段を昇っていくと祭壇があります。そして慰霊塔の周りには鹿屋近郊の特攻飛行場から南へと飛び立って征った隊員の方々のお名前が刻銘されています。改めて犠牲になられた方の数の多さに虚無感を覚えます。当時はゆっくりとできる状態ではなかったと思いますので、この風景を望む場所で安らかにお眠り下さい。実はこの慰霊橋の上で慰霊塔に向かって柏手を打つと慰霊塔の上のハトがクックッと鳴くそうです。串良平和公園串良海軍航空基地跡慰霊塔由来文に書いてありました。先程この場所が特攻基地の過去を隠すようなイメージを受けたことが間違いであったと書きました。それはこの由来文に答えがあります。忠魂碑があることは今まで見てきた特攻戦跡にもあった話ですが、実はこの慰霊塔の脇に桜並木があります。公園と言うと桜並木でありまたその関係に特に違和感を感じませんでした。関西桜通りと書いてありますが、このまっすぐな桜並木、実は旧海軍串良航空基地の1,200mの滑走路です。この事実を知った瞬間私の心は凍りつきました。アスファルト舗装はされているとて、69年前この滑走路を爆弾を抱え、ヨタヨタと走りながら飛び立って征った多くの特攻機とその隊員の方々がいらっしゃったことをストレートに今に伝えていること、無学とは言えあんちょこに考えてしまった私の浅はかさに嫌気がさします。そしてその道を車で走ってみました。当時は急造の滑走路だったので凸凹もあったと思います。歩くとスピード感がないのであえて車で走りました。今は上手く表現することができませんが、桜の時期に一度来てみたいと心から思います。

公園の入口に鹿屋近郊の特攻戦跡が紹介されています。出発前に行くつもりをしていた場所で、旧海軍串良基地地下壕通信指令室が近くにあります。地図で見ると近いようですが、こちらもやはりナビ検索ができないので地図を頼りに走ります。地図で見る限りでは野球場を回り込んで行くと裏側あたりにあるはずですが、やはりすぐには見つかりません。個人の敷地内にあると書いてはありますがすっと通り過ぎてしまったのかと思い、Uターンして元に戻ろうとすると、ありました。地下壕通信指令室跡駐車場の看板が。しかし駐車場の入口はちょうど工事中、どうやって入るのかわからず2回程目の前を通過しました。大回りすればなんとかなりそうだと思いつき対向車がないのを確認し、右折でやっと入ります。見た感じ入口が見あたらず、強引に蜘蛛の巣が張っている薮に踏み入り明らかに人工的に作られたコンクリートの塊のような建物に行き着きます。入口には鍵のかかった鉄格子があり、中には入ることはできません。実はこちら個人の方の敷地内にあり、鍵等を管理されているとのこと。事前に調べた時に気付いていたことなんですが、すっかり時間におされていたのでその時は完全に忘れていました。写真に収め、陽があたる方向に出て行くと普通に出られました。しかし不法侵入と言われても仕方がない状況になってしまいました。すいませんでした。旧海軍串良航空基地地下通信壕通信司令室跡、69年前にはこちらで特攻隊員として飛び立って征かれた方が、多分最後の命令を聞いただろう場所であるところに今居ることはなにか不思議な感じがします。近年近隣諸国との間でギクシャクした関係が続いていますが、観光客としてこの場所を訪れていることに平和の有難味を感じずにはいられませんでした。

工事に気を取られてしまっての壕の見学を終え、次の目的地へと向かいます。鹿屋を知っておられる方はなにかおかしいことに気付かれたかも知れません。回り方が中心部ではなく周辺からなぜ回るんだろうと。実はこれ、最初は海上自衛隊鹿屋航空基地資料館を最後に佐多岬へと向かう予定でいたためそういうルートを取っています。朝出発する際に時間的にそのルートは不可能と思っていたため変更すれば良かったんですが、既に余裕はありませんでした。おまけに次の目的地小塚公園へ向かうのに、ナビ検索で入らなかったため最寄の場所の”西原台小学校”を”西原小学校”と勘違いしてしまい住宅地で迷ってしまいました。知らないことは怖いこと、鹿屋にお住まいの方だと誰もが”小塚公園”と言うとわかってもらえるとの先入観、地元の方に聞いても”知らない・・・”って答えが返ってきます。ようは”慰塔”と言えばわかってもらえたみたいなのですが、私自身そんなことは木っ端微塵も考えませんでした。公園で改めてスマホを開いてわかったことが”西原台小学校”の近く・・・。結構な時間をロスってしまいましたが、無事目的地の小塚公園に到着しました。ちなみに国道269号線から右折する交差点には、間違えようもなく”慰霊塔前交差点”と書かれてありました。

この小塚公園ですが駐車場がかなり狭いです。多分他に行かれる方もおられるのは日本全国共通みたいなところがありますが、とにかく停めて歩きます。パッと見た感じは串良平和公園の慰霊塔と似たような感じを受けます。上手く説明ができませんが、旧海軍関係の特攻慰霊碑と言うことで同じような感じにされているように感じを受けました。

写真で見て頂くとわかりますが、結構急な階段がまっすぐ慰霊塔へと向かってあります。その姿は結構インパクトがあり、その姿を確認したときに写真に収めました。そして慰霊塔へと向かう階段の下で黙礼をしてから上って行きます。途中にも慰霊碑がありましたが先に頂上へと向かいます。白と金色の慰霊塔の前には祭壇があり、その隣には旧海軍鹿屋特攻基地より南方へ出撃され帰らぬ人となった908名の特攻隊員のお名前が刻印されています。時代背景があるにしても避けられなかったのか・・・と言う気持ちは他の特攻慰霊碑を訪れた時と同じように思います。改めて平和のありがたみを再確認し、亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思います、合掌。

参道と言う言い方は適切ではないのかも知れませんが、階段を降りていきます。そして途中にあった慰霊碑にも寄りながら降りてきました。最後にこの慰霊碑の由来を確認します。勿論ヒトコトでいうには適切な言葉はありませんが、その海軍特攻隊員として征かれた方の慰霊塔であることには間違いありません。ただその由来文を見てひとつふと思うことがありました。それは慰霊塔から見た景色を特攻機で出撃された際にこの風景を見て征かれ、現在にその想いを込めてこの場所に慰霊塔を建立したと言う一文をみつけ、すぐさま今降りてきた階段を昇り直します。そして慰霊塔の前まで来て黙礼をした後、新たな気持ちで風景を見させて頂きました。改めてこの風光明媚な風景は犠牲のもとに成り立っていると言う気持ちを新たにし、再び階段を下りて行きます。

1時間ほどで見て回ってきました。次の目的地は桜花の碑、朝日神社の隣と下調べした予定表には書いていました。そのままナビに入力するとすぐに着きそうです。とは言えナビに振り回されまくっている今回の弥次喜多道中、一筋縄ではいきません。住宅地を走り同じ道を行ったり来たりした末なんとか到着しました。ただこちらは駐車場がありません。あまり車が通らない道ゆえ、路肩に駐車して足早に回ります。「桜花の碑」は、言うまでもなく終戦間近の日本海軍の開発した人間爆弾”桜花”に由来しています。勿論桜花隊員だけではなく、旧海軍鹿屋基地から出撃されて征かれた隊員の方全ての慰霊の目的で作られているものですが、元桜花隊員の方が私財を投じて建立されたものなので”桜花の碑”と命名されたようです。碑の前で黙礼をしてから碑文を読み、写真でカットしていきます。慰霊祭の時に使われるのでしょうか?ポールが立っていました。ただこちらに関してはあまり謂れについて書いてあるものがありませんでしたので、触れないことに致します。最後にまた黙礼をして次の目的地”海上自衛隊鹿屋基地資料館”へと向かいます。

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館、文字通り海上自衛隊鹿屋基地の中にある資料館ですが、建物の中の一階は海上自衛隊の航空基地としてのものが主体に、二階に旧海軍鹿屋基地、つまり特別攻撃隊の資料を展示しています。だいぶ時間がおしており、時間的な余裕がないため今回は外に展示してある自衛隊関係のものは割愛し、資料館の見学に重点を置きます。一階にも特別攻撃隊に関係する展示物はありますが、写真撮影は可能になっています。ただやはり目に付くものは、エントランスにある平山郁夫画伯の「夕映桜島」の原画を元に作成されたステンドグラスかと思います。鹿屋という場所柄特攻隊員として南の空へと飛び立って征かれた多くの若き隊員の方々が敬意を払って見て征かれただろう桜島の風景がモチーフになったものです。入館するとすぐ目に入るものなので写真等でご存知の方も多いかと思いますが、ただ素晴らしいだけではなく、その作品の中に秘められた忠魂の意味を忘れることはできません。また二階部分には日露戦争に始まる海軍の歴史に始まり、第二次世界大戦終戦間近の特別攻撃隊に至るまでをビジュアルで見ることができます。人の考えなので解釈は色々あると思いますが、有名な場所でありかつ入場料もかからないため、昨日の知覧特攻平和会館と同じように見学者がいるのであまりゆっくりはできないかも知れません。今回は行程すべてにおいて時間の都合で振り回されたこともあり、駆け足を余儀なくされたところが多かったのも確かです。この海上自衛隊鹿屋航空基地資料館も改めてゆっくり来たいと思いました。

最後に館外の展示物で見ておきたいものを探します。「二式大艇」、戦後米軍が接収しノーフォーク海軍基地で保管されていたものですが、1978年6月に米国内での保管終了に伴い「日本で引き取る」か「スクラップ」の選択となった際、「船の科学館」で引き取られたものだそうです。2004年4月からこの「海上自衛隊鹿屋基地」にて野外展示物として現在に至ります。

その他所狭しと並んでいる海上自衛隊の飛行機の合間を縫って車へと戻って来ました。時間は15:00、あとは志布志に戻ることしかありません。約30kmの道のりなので1時間みとけば大丈夫だろうと思いつつ、2日間で駆け足でまわった特別攻撃隊の史跡のことを思い返しながら走ります。

簡単に用語説明をしておきます。

海軍の階級について
①【兵・兵卒】二等水兵→一等水兵→上等水兵→水兵長、【下士官】二等兵曹→一等兵層→上等兵曹、【准士官】兵曹長、【特務士官】少尉→中尉→大尉(注)。

②【海軍兵学校学生】少尉候補生、【士官】少尉→中尉→大尉→少佐→中佐→大佐→少将→中将→大将→元帥大将
(注)陸軍とは違って海軍兵学校学生は、下士官(兵曹長)の上、少尉の下という身分が保証されていました。

上記2通り記載しましたが海軍士官は兵学校卒でないと原則なれないため、兵卒からの叩き上げだと特務士官止まりでした。1942年11月1日に階級の呼称変更が行われ「特務士官」はなくなりましたが、学歴重視の海軍においてはその旧特務士官の階級について差別意識がかなりあったようです。また「選修学生」の制度で優秀な兵曹長・一等兵曹から選ばれるケースもありますが、これでも「特務士官」の扱いにしかならなかったようです。また飛行科においての下士官・准士官階級呼称について「三等飛行兵曹(三飛曹)(三等兵曹・伍長)」「二等飛行兵曹(二飛曹)(二等兵曹・軍曹)」「一等飛行兵曹(一飛曹)(一等兵曹・曹長)」「飛行兵曹長(飛曹長)(兵曹長・准尉)」があります。

雷撃機(らいげきき)
軍用機の一種で雷撃(航空魚雷による対水上艦攻撃)に特化した飛行機。通常、水平爆撃を兼務することができる。

攻撃機(こうげきき)
日本海軍では、急降下爆撃を行える機体を爆撃機、水平爆撃および雷撃のみを行える機体を攻撃機(艦上攻撃機および陸上攻撃機)と呼んだ。これは日本海軍独特の機種であった。太平洋戦争末期の銀河は、機体強度を増して急降下爆撃が可能だったので、陸上爆撃機に分類されているものの、同様に急降下爆撃機を兼用する流星は攻撃機に分類されている。

爆撃機(ばくげきき)
大量の爆弾類を搭載し強力な破壊力を持たせた軍用機。戦略爆撃や戦術爆撃に使用される。

※攻撃機と爆撃機の違いは積載できる兵器の量で区分するという説が一般的のようです。

海軍の特攻機として使用されたもの
《戦闘機》
零式艦上戦闘機(単座)
二式水上戦闘機(単座)
局地戦闘機「紫電」(単座)
局地戦闘機「雷電」(単座)
夜間戦闘機「月光」(複座)
艦上爆撃機「彗星」(複座)
艦上攻撃機「流星」(複座)
艦上攻撃機「天山」(複座)
陸上爆撃機「銀河」(三座)
九六式陸上攻撃機(5~7)
九七式艦上攻撃機(三座)
九九式艦上爆撃機(複座)

《練習機・その他》
九〇式机上作業練習機「白菊」(5)
九三式陸上中間練習機(複座)
零式水上偵察機(三座)
零式水上観測機(複座)
九四式水上偵察機(三座)

《特攻兵器》
桜花
回天
震洋
海龍
蛟龍
など

用語説明のところに”特攻機として使用されたもの”の一覧を載せました。正直これは、この旅行記の目的から外れているように思います。しかしあえて載せたことには意味があります。機種のあとに記載した”単座・複座・三座・数字”はそれぞれの機の定員になります。単座とは一人乗りですが、海軍特攻には”複数名定員”の機が多く使われています。特攻と言うと"ひとり"で征くものだと勝手に思っていましたが、現実には定員搭乗での特攻が行われていたので、必然的に一度の特攻によって複数の犠牲者が出ることになります。勿論単座で出撃されたこともあるようですが、特に海軍では飛行機の運航に必要な技術を分担して行うことにより戦果を上げることが当たり前になっていたと考えられます。確かに正論ではあるとは思いますが、それが大戦末期に行われた許されない攻撃手法”特攻”を行う際に”あたりまえ”を変えられなかったことが、陸軍の特攻戦没者に比べて格段に多いという悲劇を生んでしまったように思います。

航空特攻戦没者内訳(wiki)
(陸軍)1,417名
(海軍)2,531名
(合計)3,913名
特攻作戦戦没者内訳(航空特攻戦死者含む)(wiki)
(陸軍)1,689名
(海軍)4,156名
(合計)5,845名

第二次世界大戦のおける日本の戦没者(厚生省発表数)
(軍属)約230万人(国外約210万人・国内約20万人)
(民間人他)約80万人(国外約30万人・国内約50万人)
(合計)約310万人

この戦没者数は諸説ありどれが正しいかはわかりません。出所がわかるものを列挙しました。今回の特攻戦跡の話題からは外れますが、戦争中に相手国民の士気喪失を狙って都市爆撃を行う「戦略爆撃」というものがエスカレートしていきました。極めつけは広島と長崎における原爆投下だと言っても過言ではないと思います。

私はこの場で思想論を述べるつもりはありません。文献にて調べたものもありますが、内容を詰めたとしても、今回の訪問でビジュアル的に得たものの説明にはならないように思いました。それゆえwikipediaからの引用で用語説明をしてあるだけに過ぎません。アウトラインだけで済まそうと思えばそれで済んだのかも知れませんが、調べているうちに”裏話”が多く存在することを知りました。有名な話も多いのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、それを背景として戦争が行われ、かつ大戦末期には許されない”特攻”と言うものが当たり前とされた時代がありました。私は特攻隊員の方々は、残される家族やこの愛する国の未来のため、ひとつしかない命を捧げるべく飛んで征かれたのだと思います、いや思いたいのかも知れません・・・ご自分の意思であったと・・・。しかし「知ろうとすればするほど」両極端の意見を目にします。内容はさておきその「肯定派」と「否定派」の意見を目にしつつ、どちらの意見の「良いとこ取り」をしようとしたのですが、どうしても矛盾点が生じてしまいます。コピペの応酬でも知り得てしまう事実、陸軍史跡の項でも述べましたが「知るも知らぬも闇の中」と言うのがこの記を書き終えた正直今の私の気持ちです。

旅行記というカテゴリーの中で、少しでも”戦争”に関心を持って頂き、そしてその戦争を今に伝える場所に行って頂きたいと思う気持ちで書いております。また今後も機会を見付けて「戦争史跡」を巡りたく思います。たとえ答えは見つからなくても・・・。

これでさんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~を終わります。


もし戦跡巡りに少しでも関心を持って頂けたならご覧下さい。
以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~

以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~
【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877

【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283

【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023

【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454

【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537

【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699

【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539

【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120

※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
レンタカー JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)

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  • 旧笠之原海軍航空基地跡地に唯一現存する地下道入口の建物。

    旧笠之原海軍航空基地跡地に唯一現存する地下道入口の建物。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 旧笠之原海軍航空基地跡地に唯一現存する地下道入口。<br />ちなみに中は入ることができません。

    旧笠之原海軍航空基地跡地に唯一現存する地下道入口。
    ちなみに中は入ることができません。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 旧笠之原海軍航空基地跡地に唯一現存する地下道入口の建物に残る弾痕。

    旧笠之原海軍航空基地跡地に唯一現存する地下道入口の建物に残る弾痕。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 旧笠之原海軍航空基地跡地<br /><br />沿革<br /><br />現在地は旧笠之原飛行場として大正十一年八月から昭和二十年八月十五日まで二十四年間に亙り、旧陸海軍の飛行場基地として使用されていた。太平洋戦争末期の昭和十九年一月十五日には海軍航空基地が設置され、田中隊一個中隊がじょうちゅうすることにとなった。また、昭和二十年一月には第二百三航空隊零式戦闘機七十二機がが配備され、特別攻撃隊として南海の戦場に散っていった。その後昭和二十年三月八日の連合軍の集中爆撃のため、格納庫を始めとする基地施設は全滅し、当時を物語る唯一の異物として、このコンクリート入口が、東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道入口並びに地下通路司令室として現存しているものである。当地は民有地を買収して飛行場がつくられた関係上、終戦により地元地区民に農地として無償で払い下げられ、現在に至っている。<br /><br />鹿屋市観光協会

    旧笠之原海軍航空基地跡地

    沿革

    現在地は旧笠之原飛行場として大正十一年八月から昭和二十年八月十五日まで二十四年間に亙り、旧陸海軍の飛行場基地として使用されていた。太平洋戦争末期の昭和十九年一月十五日には海軍航空基地が設置され、田中隊一個中隊がじょうちゅうすることにとなった。また、昭和二十年一月には第二百三航空隊零式戦闘機七十二機がが配備され、特別攻撃隊として南海の戦場に散っていった。その後昭和二十年三月八日の連合軍の集中爆撃のため、格納庫を始めとする基地施設は全滅し、当時を物語る唯一の異物として、このコンクリート入口が、東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道入口並びに地下通路司令室として現存しているものである。当地は民有地を買収して飛行場がつくられた関係上、終戦により地元地区民に農地として無償で払い下げられ、現在に至っている。

    鹿屋市観光協会

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良平和公園内にそびえたつ、串良海軍航空基地跡慰霊塔。<br />両脇にはつつじで平和の文字があります。時期になるとさぞかし素晴らしいでしょうね・・・。

    イチオシ

    地図を見る

    串良平和公園内にそびえたつ、串良海軍航空基地跡慰霊塔。
    両脇にはつつじで平和の文字があります。時期になるとさぞかし素晴らしいでしょうね・・・。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔向かって歩いて行きます。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔向かって歩いて行きます。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔に少しづつ近付いて行きます。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔に少しづつ近付いて行きます。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔に通ずる階段を上ります。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔に通ずる階段を上ります。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔に通ずる階段を半分くらい上ってきました。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔に通ずる階段を半分くらい上ってきました。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔の全容です。<br /><br />この慰霊塔に書かれている“慰霊”の文字は、ノーベル平和賞を受賞した総理大臣“佐藤栄作”氏によるものだそうです。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔の全容です。

    この慰霊塔に書かれている“慰霊”の文字は、ノーベル平和賞を受賞した総理大臣“佐藤栄作”氏によるものだそうです。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔の正面部分にある慰霊の祭壇です。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔の正面部分にある慰霊の祭壇です。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔の側方には、この串良海軍航空基地より飛び立って征かれた363名の特攻隊員を含む565名の方々の氏名が刻まれています。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔の側方には、この串良海軍航空基地より飛び立って征かれた363名の特攻隊員を含む565名の方々の氏名が刻まれています。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地跡慰霊塔の後方にも、この串良海軍航空基地より飛び立って征った363名の特攻隊員を含む565名の方々の氏名が刻まれています。

    串良海軍航空基地跡慰霊塔の後方にも、この串良海軍航空基地より飛び立って征った363名の特攻隊員を含む565名の方々の氏名が刻まれています。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 今出撃せんとす  何も思い残すことなし  父母兄姉よ幸福であれ<br /><br />心爽やかにして大空の如し  こうしているのもあとしばらくです さようなら<br /><br />太平洋戦争末期斯くして串良  航空基地より飛立ち肉弾となりて<br /><br />帰らざりし三百有余の御霊よ 安らかれ  必ずや平和のいしずえとならん <br /><br />昭和四十四年十月十一日 <br /><br />旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会々長 串良町長  佐枝  潔<br /><br />串良海軍航空基地跡慰霊塔の設立のいわれです。

    イチオシ

    地図を見る

    今出撃せんとす  何も思い残すことなし  父母兄姉よ幸福であれ

    心爽やかにして大空の如し  こうしているのもあとしばらくです さようなら

    太平洋戦争末期斯くして串良  航空基地より飛立ち肉弾となりて

    帰らざりし三百有余の御霊よ 安らかれ  必ずや平和のいしずえとならん

    昭和四十四年十月十一日

    旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会々長 串良町長 佐枝 潔

    串良海軍航空基地跡慰霊塔の設立のいわれです。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 平和公園(由来文)<br /><br /> この平和公園一帯は、旧海軍の航空隊があったところです。<br /><br /> 第二次世界大戦の末期、教育航空隊として開隊され、約五千人の飛行予科練習生が、航空機の整備、搭乗、通信等の猛訓練を、受けたところです。<br /><br /> 昭和十九年四月には、実戦部隊に編入され、さらに、昭和二十年三月一日からは、特別攻撃隊の基地となり、終戦までの半年間に、祖国の安泰を祈り、身をすてて南の大空へと勇躍飛びたち、散っていった若き精鋭たち特別攻撃隊三百六十三名、一般攻撃隊二百二名、合計五百六十五名の最後の地となったところであります。<br /><br /> 昭和四十四年十月一日、串良町(現鹿屋市)及び旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会が中心となり、平和の礎石となられた英霊の慰霊碑を建立し、戦争の悲惨さを後世に伝えるとともに、人類の恒久平和を願い「平和公園」と命名され、以来毎年十月十五日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われております。<br /><br /> 慰霊橋のうえで、慰霊塔に向かって柏手を打つと、塔の上の白鳩が「クックッ」と泣きます。<br /><br /> 東西千三百m南北千二百mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まります。公園内二千本余りの桜は、春にはその花で公園を埋めつくす程になり、大隅半島の桜の名所となっており、毎年四月初旬には、桜まつりがにぎやかに開催されるところです。<br /><br />昭和六十年一月 串良町(平成十年十月更新)<br />

    平和公園(由来文)

     この平和公園一帯は、旧海軍の航空隊があったところです。

     第二次世界大戦の末期、教育航空隊として開隊され、約五千人の飛行予科練習生が、航空機の整備、搭乗、通信等の猛訓練を、受けたところです。

     昭和十九年四月には、実戦部隊に編入され、さらに、昭和二十年三月一日からは、特別攻撃隊の基地となり、終戦までの半年間に、祖国の安泰を祈り、身をすてて南の大空へと勇躍飛びたち、散っていった若き精鋭たち特別攻撃隊三百六十三名、一般攻撃隊二百二名、合計五百六十五名の最後の地となったところであります。

     昭和四十四年十月一日、串良町(現鹿屋市)及び旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会が中心となり、平和の礎石となられた英霊の慰霊碑を建立し、戦争の悲惨さを後世に伝えるとともに、人類の恒久平和を願い「平和公園」と命名され、以来毎年十月十五日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われております。

     慰霊橋のうえで、慰霊塔に向かって柏手を打つと、塔の上の白鳩が「クックッ」と泣きます。

     東西千三百m南北千二百mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まります。公園内二千本余りの桜は、春にはその花で公園を埋めつくす程になり、大隅半島の桜の名所となっており、毎年四月初旬には、桜まつりがにぎやかに開催されるところです。

    昭和六十年一月 串良町(平成十年十月更新)

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良航空隊の歌の歌碑<br /><br />一、若い瞳が 伝統守る<br />  襟に錦糸の 桜と翼<br />  高隈山に 獅子吼する<br />  青史に薫る 串良航空隊<br /><br />二、基地に気流 揚翼に気力<br />  翔び立て荒鷲 見送る朝は<br />  後に続くは 俺たちと<br />  勇姿に誓う 串良航空隊<br /><br />三、空に真白き 落下のマフラー<br />  風に靡くは 菊水の<br />  物量持む 敵を呑む<br />  意気天を衝く 串良航空隊<br />四、天を駈けるは 降○の翼か<br />  雲を掴むは龍神の<br />  左通の花と 空に散る<br />  特攻の基地 串良航空隊<br /><br />予科練串良空八期会<br /><br />追魂の歌と思われますが、一部読めなかった部分があります。<br />

    串良航空隊の歌の歌碑

    一、若い瞳が 伝統守る
      襟に錦糸の 桜と翼
      高隈山に 獅子吼する
      青史に薫る 串良航空隊

    二、基地に気流 揚翼に気力
      翔び立て荒鷲 見送る朝は
      後に続くは 俺たちと
      勇姿に誓う 串良航空隊

    三、空に真白き 落下のマフラー
      風に靡くは 菊水の
      物量持む 敵を呑む
      意気天を衝く 串良航空隊
    四、天を駈けるは 降○の翼か
      雲を掴むは龍神の
      左通の花と 空に散る
      特攻の基地 串良航空隊

    予科練串良空八期会

    追魂の歌と思われますが、一部読めなかった部分があります。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 海軍攻撃第二五四飛行隊 串良基地派遣隊<br /><br />碑文(表)<br />殉忠の若鷲に捧ぐ<br />大空に散りし桜の花片を 手に揉みあげて 君が名を呼ぶ<br /> <br />碑文(側面)<br />海軍攻撃第二五四飛行隊は 新鋭機天山艦攻で編成された 日本海軍航空母艦部隊最後の艦上攻撃機隊であり 太平洋戦争劈頭におけるハワイ攻撃以来の栄光と伝統に輝く精鋭部隊である<br />太平洋戦争中の昭和二十年三月、ここ串良海軍航空基地に派遣隊を設置し 数次にわたり進出夜間雷撃隊として沖縄周辺の敵艦隊群に対し果敢なる攻撃を敢行した<br />多大な戦果を挙げたが その大部は大空に散華した。<br /><br />終戦四十年を記念し 派遣隊員総員の功績と栄誉を称えるため 海軍攻撃第二五四飛行隊生存者有志一同 ここに記念碑を建立したものである。<br />

    海軍攻撃第二五四飛行隊 串良基地派遣隊

    碑文(表)
    殉忠の若鷲に捧ぐ
    大空に散りし桜の花片を 手に揉みあげて 君が名を呼ぶ
     
    碑文(側面)
    海軍攻撃第二五四飛行隊は 新鋭機天山艦攻で編成された 日本海軍航空母艦部隊最後の艦上攻撃機隊であり 太平洋戦争劈頭におけるハワイ攻撃以来の栄光と伝統に輝く精鋭部隊である
    太平洋戦争中の昭和二十年三月、ここ串良海軍航空基地に派遣隊を設置し 数次にわたり進出夜間雷撃隊として沖縄周辺の敵艦隊群に対し果敢なる攻撃を敢行した
    多大な戦果を挙げたが その大部は大空に散華した。

    終戦四十年を記念し 派遣隊員総員の功績と栄誉を称えるため 海軍攻撃第二五四飛行隊生存者有志一同 ここに記念碑を建立したものである。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 並んだ慰霊碑。<br />手前より、<br />①予科練串良空八期会 翔空<br />②第一岡空若桜会 慰霊の碑<br />③串良海軍航空隊飛行予科練習生三期生 蒼空和親<br />④百里原海軍航空隊 神風特別攻撃隊 常磐忠華隊・皇花隊・正気隊<br /><br />

    並んだ慰霊碑。
    手前より、
    ①予科練串良空八期会 翔空
    ②第一岡空若桜会 慰霊の碑
    ③串良海軍航空隊飛行予科練習生三期生 蒼空和親
    ④百里原海軍航空隊 神風特別攻撃隊 常磐忠華隊・皇花隊・正気隊

    串良平和公園 公園・植物園

  • 第一岡空若桜会 慰霊の碑<br /><br />碑文<br /><br />恵みあらば 永遠に平和の続くよう 国鎮め 南無逝きし 御霊よ<br /><br />憂国の志に燃えて昭和十九年六月 海軍甲種飛行予科練習生・二期生として七五〇名(十五才〜十八才)愛知県岡崎航空隊に入隊<br /><br />同年十二月 遠くは上海(中国)元山(朝鮮)等各基地に配属 我等はマニラ・クラーク基地なる<br /><br />も戦火激しくここに留まる 特攻隊員との送別 その感動いまだ消えず 戦い敗れて甦る平和 <br /><br />万感胸に逼りて弔詞に詰まる 今ここに串良同志と共に各基地配属の二期生集いて御霊を慰めんとす 唯一向に合掌あるのみ<br /><br />平成三年九月吉日 第一岡空若桜会 串良基地在隊者一同

    第一岡空若桜会 慰霊の碑

    碑文

    恵みあらば 永遠に平和の続くよう 国鎮め 南無逝きし 御霊よ

    憂国の志に燃えて昭和十九年六月 海軍甲種飛行予科練習生・二期生として七五〇名(十五才〜十八才)愛知県岡崎航空隊に入隊

    同年十二月 遠くは上海(中国)元山(朝鮮)等各基地に配属 我等はマニラ・クラーク基地なる

    も戦火激しくここに留まる 特攻隊員との送別 その感動いまだ消えず 戦い敗れて甦る平和 

    万感胸に逼りて弔詞に詰まる 今ここに串良同志と共に各基地配属の二期生集いて御霊を慰めんとす 唯一向に合掌あるのみ

    平成三年九月吉日 第一岡空若桜会 串良基地在隊者一同

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空隊飛行予科練習生三期生 蒼空和親<br /><br />碑文<br /><br />起死回生を念じ太平洋戦争の真っ只中に集いし若人の霊を慰めん<br /><br />祖国日本の上空に暗雲漂い始めし昭和十九年七月十五日 憂国の志に燃え ここ串良原頭に集いし十四才から十八才までの若人八百名 串良海軍航空隊予科練習生第三期生として入隊せり<br /><br />灼熱の太陽の下 また寒風肌刺す高隈おろしに身をさらし 若鷲として国難に殉ぜんと 七つ釦は桜に錨 不橈不屈の予科練魂の養成はもとより 体育 整備学 航空力学 通信 手旗信号等 月月火水木金金の日なりき<br /><br />昭和二十年一月十五日 教程終了と共に国内はもとより 遠くは釜山 上海 台湾等各実施部隊へ配属 一部は飛練空へと進めるも 戦況日々悪化し台湾方面にて二十九名の戦死者を出し 八月十五日を以って終戦となる<br /><br />陽光うららかな串良の地に 今は亡き友の御霊を弔慰し 人類永遠の平和と繁栄を願い ここに碑を建立す<br /><br />平成五年十月吉日 串良海軍航空隊三期生 有志一同

    串良海軍航空隊飛行予科練習生三期生 蒼空和親

    碑文

    起死回生を念じ太平洋戦争の真っ只中に集いし若人の霊を慰めん

    祖国日本の上空に暗雲漂い始めし昭和十九年七月十五日 憂国の志に燃え ここ串良原頭に集いし十四才から十八才までの若人八百名 串良海軍航空隊予科練習生第三期生として入隊せり

    灼熱の太陽の下 また寒風肌刺す高隈おろしに身をさらし 若鷲として国難に殉ぜんと 七つ釦は桜に錨 不橈不屈の予科練魂の養成はもとより 体育 整備学 航空力学 通信 手旗信号等 月月火水木金金の日なりき

    昭和二十年一月十五日 教程終了と共に国内はもとより 遠くは釜山 上海 台湾等各実施部隊へ配属 一部は飛練空へと進めるも 戦況日々悪化し台湾方面にて二十九名の戦死者を出し 八月十五日を以って終戦となる

    陽光うららかな串良の地に 今は亡き友の御霊を弔慰し 人類永遠の平和と繁栄を願い ここに碑を建立す

    平成五年十月吉日 串良海軍航空隊三期生 有志一同

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  • 百里原海軍航空隊 神風特別攻撃隊 常磐忠華隊・皇花隊・正気隊慰霊碑<br /><br />(碑文)<br />鎮魂を 願いしままに 年過ぎて 漸くに建つ 朋の墓標 この地はや 発進の地ぞ 平和の礎となり給いたる 四十五柱のみたまよ 南風にのり還り鎮まりませと 祈りつつここに碑を捧ぐ<br /><br />平成十七年四月

    百里原海軍航空隊 神風特別攻撃隊 常磐忠華隊・皇花隊・正気隊慰霊碑

    (碑文)
    鎮魂を 願いしままに 年過ぎて 漸くに建つ 朋の墓標 この地はや 発進の地ぞ 平和の礎となり給いたる 四十五柱のみたまよ 南風にのり還り鎮まりませと 祈りつつここに碑を捧ぐ

    平成十七年四月

    串良平和公園 公園・植物園

  • 関西桜通りとありますが…。

    関西桜通りとありますが…。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 今から69年前には、特別攻撃隊の飛行機の滑走路でした。<br />1,200mの滑走路はにわか作りのものゆえ、ばんばん跳ねながら飛んで征かれたことだろうと想像します。旧式の車輪が収まらない機を使う理由のひとつに、その振動に耐えられることと書かれていることは、なんとも言えない気分にさせられます。特攻機として使われた九〇式練習機「白菊」。この速度も出ない機でヨタヨタと滑走路を走り戦地に向かわれることをどのように隊員の方が感じておられたのかはもう知る術もありません。

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    今から69年前には、特別攻撃隊の飛行機の滑走路でした。
    1,200mの滑走路はにわか作りのものゆえ、ばんばん跳ねながら飛んで征かれたことだろうと想像します。旧式の車輪が収まらない機を使う理由のひとつに、その振動に耐えられることと書かれていることは、なんとも言えない気分にさせられます。特攻機として使われた九〇式練習機「白菊」。この速度も出ない機でヨタヨタと滑走路を走り戦地に向かわれることをどのように隊員の方が感じておられたのかはもう知る術もありません。

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  • 鹿屋地区の戦争史跡の案内図。<br /><br />串良平和公園にて。<br /><br />ただこの案内板は最近作られた、もしくは加筆されたもののようです。「永遠の0」に書かれていると記載がありますので。書籍としては2006年が初版ですが、やはりあの映画の迫力こそが特攻史跡に足を運ぶ方が増える理由だと思いました。

    鹿屋地区の戦争史跡の案内図。

    串良平和公園にて。

    ただこの案内板は最近作られた、もしくは加筆されたもののようです。「永遠の0」に書かれていると記載がありますので。書籍としては2006年が初版ですが、やはりあの映画の迫力こそが特攻史跡に足を運ぶ方が増える理由だと思いました。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 鹿屋地区の戦争史跡の案内図。<br /><br />串良平和公園にて。<br /><br />最初に行った笠之原航空基地跡地下入口、そしてここ串良平和公園と、次の予定地串良基地通信壕跡の位置関係を確かめます。

    鹿屋地区の戦争史跡の案内図。

    串良平和公園にて。

    最初に行った笠之原航空基地跡地下入口、そしてここ串良平和公園と、次の予定地串良基地通信壕跡の位置関係を確かめます。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 後半の行先、旧鹿屋基地特別攻撃隊戦没者慰霊碑(小塚公園)、桜花の碑、鹿屋航空基地資料館の紹介。(※訪れる順番に変えています。)

    後半の行先、旧鹿屋基地特別攻撃隊戦没者慰霊碑(小塚公園)、桜花の碑、鹿屋航空基地資料館の紹介。(※訪れる順番に変えています。)

    串良平和公園 公園・植物園

  • 前半の行先、笠之原海軍航空基地跡・掩体壕、串良平和公園、串良海軍航空基地地下壕電信指令室跡の紹介。

    前半の行先、笠之原海軍航空基地跡・掩体壕、串良平和公園、串良海軍航空基地地下壕電信指令室跡の紹介。

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  • この地図の真ん中にある「串良海軍航空基地地下壕電信指令室跡」を目指します。

    この地図の真ん中にある「串良海軍航空基地地下壕電信指令室跡」を目指します。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良平和公園より串良海軍航空基地地下壕電信指令室までの地図。

    串良平和公園より串良海軍航空基地地下壕電信指令室までの地図。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地地下壕電信指令室の説明書きの看板。

    串良海軍航空基地地下壕電信指令室の説明書きの看板。

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  • 串良海軍航空基地地下壕電信司令室とは…。<br /><br />串良海軍航空隊は、第二次世界大戦末期に教育航空隊として開隊され、約五〇〇〇人の飛行予科練習生が、航空機の整備・搭乗・通信等の猛訓練を受けたところである。<br /> 昭和十九年四月一日には、実戦部隊に編入され、本土決戦に備え串良海軍航空基地の整備が進められた。<br /> 昭和二十年三月一日からは、特別攻撃隊の基地となり、終戦までの半年間に串良海軍航空隊からは第一・第二・第三勤皇白鷺隊・徳島第一・徳島第二・徳島第三・徳島第四・徳島第五白菊隊などの特別攻撃隊員三六三名が出撃している。<br /> この外内宅の地下壕は、当時串良海軍航空基地の電信司令室として、特別攻撃隊員との連絡をとっていた場所であり、この串良基地から出撃して散っていった人たちを偲ぶとともに、平和学習を進める上でも貴重な近代化遺産である。<br /><br />(原文のまま)

    串良海軍航空基地地下壕電信司令室とは…。

    串良海軍航空隊は、第二次世界大戦末期に教育航空隊として開隊され、約五〇〇〇人の飛行予科練習生が、航空機の整備・搭乗・通信等の猛訓練を受けたところである。
     昭和十九年四月一日には、実戦部隊に編入され、本土決戦に備え串良海軍航空基地の整備が進められた。
     昭和二十年三月一日からは、特別攻撃隊の基地となり、終戦までの半年間に串良海軍航空隊からは第一・第二・第三勤皇白鷺隊・徳島第一・徳島第二・徳島第三・徳島第四・徳島第五白菊隊などの特別攻撃隊員三六三名が出撃している。
     この外内宅の地下壕は、当時串良海軍航空基地の電信司令室として、特別攻撃隊員との連絡をとっていた場所であり、この串良基地から出撃して散っていった人たちを偲ぶとともに、平和学習を進める上でも貴重な近代化遺産である。

    (原文のまま)

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地地下壕電信司令室の入口の様子。<br /><br />管理されておられる方に断れば、中に入ることはできたのですが、そのことを忘れていました。

    串良海軍航空基地地下壕電信司令室の入口の様子。

    管理されておられる方に断れば、中に入ることはできたのですが、そのことを忘れていました。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地地下壕電信司令室(入口部)の全容。69年前にこちらで、特攻出撃の命令を聞かれた隊員の方々の心中はどのようなものだったのでしょうか。

    串良海軍航空基地地下壕電信司令室(入口部)の全容。69年前にこちらで、特攻出撃の命令を聞かれた隊員の方々の心中はどのようなものだったのでしょうか。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 串良海軍航空基地地下壕電信司令室の駐車場看板です。ちょうど訪れたときは前の道の拡張工事をしていた関係で、“入り方”を考えるのに苦労しました。<br /><br />※ちなみに大回りすれば普通に入れます。

    串良海軍航空基地地下壕電信司令室の駐車場看板です。ちょうど訪れたときは前の道の拡張工事をしていた関係で、“入り方”を考えるのに苦労しました。

    ※ちなみに大回りすれば普通に入れます。

    串良平和公園 公園・植物園

  • 旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来。<br /><br />第2次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例にないほど熾烈なものであった。ときに戦場は、ようやく我軍に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。<br /><br /> 即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して企てた。“特攻攻撃”である。<br /><br /> ときまさに昭和20年春であった。<br /><br /> そして、この壮烈なる特攻攻撃発進の地こそ、当鹿屋であって、以来82日間の戦闘は苛烈を極め、日々若人達は黒潮おどる沖縄へと飛び立った。<br /><br /> 惜しくも青春に富む尊い生命を、祖国のために敢然と捧げた若人達・・・世上ともすれば敗戦のかげにこのような尊い犠牲を忘れがちである。<br /><br /> 今日、ことの結果がどうであったとしても、これら身を挺して祖国の難に殉じた人々の祖国愛は称賛されるべきであり、これら若人の「至情」「至純」の精神は、その御霊とともにとこしえに祭られ史実とともに後世に誤りなく伝えられなければならない。<br /><br /> その最もゆかりの深い地として、また本土最南端海軍航空基地として、多くの特攻隊員(908名)が飛び立って再び帰ることがなかった最後の地この「鹿屋」に、その御霊を祭る慰霊塔を建立すべく、昭和32年10月鹿屋市長を会長とする「旧鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会」が結成され、全国に協力を呼びかけたところ、市内はもとより、ひろく各方面から多くの浄財が寄せられた。<br /><br /> これに基づき、航空隊を眼前に眺望する小塚丘に、その神霊をとこしえに平和の礎として祭る慰霊の碑を、昭和33年3月20日に建立したものである。<br /><br />鹿屋市<br /><br />(原文のまま)

    特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来。

    第2次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例にないほど熾烈なものであった。ときに戦場は、ようやく我軍に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。

     即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して企てた。“特攻攻撃”である。

     ときまさに昭和20年春であった。

     そして、この壮烈なる特攻攻撃発進の地こそ、当鹿屋であって、以来82日間の戦闘は苛烈を極め、日々若人達は黒潮おどる沖縄へと飛び立った。

     惜しくも青春に富む尊い生命を、祖国のために敢然と捧げた若人達・・・世上ともすれば敗戦のかげにこのような尊い犠牲を忘れがちである。

     今日、ことの結果がどうであったとしても、これら身を挺して祖国の難に殉じた人々の祖国愛は称賛されるべきであり、これら若人の「至情」「至純」の精神は、その御霊とともにとこしえに祭られ史実とともに後世に誤りなく伝えられなければならない。

     その最もゆかりの深い地として、また本土最南端海軍航空基地として、多くの特攻隊員(908名)が飛び立って再び帰ることがなかった最後の地この「鹿屋」に、その御霊を祭る慰霊塔を建立すべく、昭和32年10月鹿屋市長を会長とする「旧鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会」が結成され、全国に協力を呼びかけたところ、市内はもとより、ひろく各方面から多くの浄財が寄せられた。

     これに基づき、航空隊を眼前に眺望する小塚丘に、その神霊をとこしえに平和の礎として祭る慰霊の碑を、昭和33年3月20日に建立したものである。

    鹿屋市

    (原文のまま)

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 小塚公園内にそびえ立つ慰霊塔。こちらは旧海軍鹿屋基地より出撃された特別攻撃隊隊員の方の慰霊を目的に設立されたそうです。

    小塚公園内にそびえ立つ慰霊塔。こちらは旧海軍鹿屋基地より出撃された特別攻撃隊隊員の方の慰霊を目的に設立されたそうです。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 石灯籠を参道脇に抱えてそびえ立つ慰霊塔。<br /><br />小塚公園にて。

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    石灯籠を参道脇に抱えてそびえ立つ慰霊塔。

    小塚公園にて。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 参道をゆっくり上り、慰霊塔へと近づいて行きます。<br /><br />歴史に興味のある方、「永遠の0」を見られた方、軍隊(特に海軍)に関心のある方は、この慰霊塔の色が「海軍の高級将校」の軍服カラーだと気づかれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?これが今まで目にしてきた海軍特攻慰霊碑の統一感だと思います。

    参道をゆっくり上り、慰霊塔へと近づいて行きます。

    歴史に興味のある方、「永遠の0」を見られた方、軍隊(特に海軍)に関心のある方は、この慰霊塔の色が「海軍の高級将校」の軍服カラーだと気づかれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?これが今まで目にしてきた海軍特攻慰霊碑の統一感だと思います。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 旧海軍鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔の碑文<br /><br />今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず<br /><br />太平洋戦中鹿屋航空基地より 飛びたち肉弾となって散った 千有余の特攻隊員<br /><br />御霊よ安かれ 必ずや平和の礎たらん<br /><br />昭和三十三年三月二十日 鹿屋市

    旧海軍鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔の碑文

    今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず

    太平洋戦中鹿屋航空基地より 飛びたち肉弾となって散った 千有余の特攻隊員

    御霊よ安かれ 必ずや平和の礎たらん

    昭和三十三年三月二十日 鹿屋市

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 旧海軍鹿屋航空基地より特攻出撃されて亡くなった908名の方のお名前が刻んであります。

    旧海軍鹿屋航空基地より特攻出撃されて亡くなった908名の方のお名前が刻んであります。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 慰霊塔に続く階段の下にあった、慰霊塔の設立の由来文の碑ですが、ひとつ&quot;ハッ&quot;と思ったことがあり慌てて今下りてきた階段を上って行きます。<br /><br />それは、この小塚からの風景を今生の別れに見て征かれただろうとの一節を見つけたからです。

    慰霊塔に続く階段の下にあった、慰霊塔の設立の由来文の碑ですが、ひとつ"ハッ"と思ったことがあり慌てて今下りてきた階段を上って行きます。

    それは、この小塚からの風景を今生の別れに見て征かれただろうとの一節を見つけたからです。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 一旦慰霊塔まで駆け上り、慰霊碑に黙礼をした後に風景を眺めました。<br />風光明媚な景色を見るのに、なにか思うことがあって見たことは今までになかったことのように思います。

    イチオシ

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    一旦慰霊塔まで駆け上り、慰霊碑に黙礼をした後に風景を眺めました。
    風光明媚な景色を見るのに、なにか思うことがあって見たことは今までになかったことのように思います。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 串良平和公園にもあった「鹿屋近郊の特別攻撃隊」戦跡マップ。<br /><br />次の目的地「桜花の碑」の場所を確認します。

    串良平和公園にもあった「鹿屋近郊の特別攻撃隊」戦跡マップ。

    次の目的地「桜花の碑」の場所を確認します。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 朝日神社横にある「桜花の碑」。

    朝日神社横にある「桜花の碑」。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 「桜花の碑」碑文。<br /><br />神之池基地及びその他の基地より志願して来た特別攻撃隊員は、日本最南端の九州鹿屋の野里村小学校に結集、昭和20年3月21日より同年6月22日まで出撃を継続し散華していった。<br /><br />神雷部隊の後続は竜巻部隊と呼称、その中には櫻花隊、攻撃隊、爆戦隊があった。<br /><br />私もこの時海軍報道班員として野里村の百姓屋に住み、隣家にあられた特攻隊育ての親岡村基春司令の謦咳に接し、戦況の推移を具にこの眼に焼きつけたが、連日、紅顔の還ること無き出撃隊員を、血涙で見送った辛い思い出がある。<br /><br />この若き戦士達の鎮魂を希い全日本人の感激を籠めて撰文と為す。<br /><br />於世田谷空中庵茶経室 山岡荘八<br /><br />昭和53年3月吉日  建立者元櫻花隊員 小城久作 妻泰子

    「桜花の碑」碑文。

    神之池基地及びその他の基地より志願して来た特別攻撃隊員は、日本最南端の九州鹿屋の野里村小学校に結集、昭和20年3月21日より同年6月22日まで出撃を継続し散華していった。

    神雷部隊の後続は竜巻部隊と呼称、その中には櫻花隊、攻撃隊、爆戦隊があった。

    私もこの時海軍報道班員として野里村の百姓屋に住み、隣家にあられた特攻隊育ての親岡村基春司令の謦咳に接し、戦況の推移を具にこの眼に焼きつけたが、連日、紅顔の還ること無き出撃隊員を、血涙で見送った辛い思い出がある。

    この若き戦士達の鎮魂を希い全日本人の感激を籠めて撰文と為す。

    於世田谷空中庵茶経室 山岡荘八

    昭和53年3月吉日  建立者元櫻花隊員 小城久作 妻泰子

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • この場所に&quot;日の丸掲揚&quot;のポールを建てたときの記念碑のようです。<br />

    この場所に"日の丸掲揚"のポールを建てたときの記念碑のようです。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 山岡荘八氏による建碑由来の碑文。<br /><br />&quot;建碑由来&quot;<br /><br />建碑者小城久作君は此の鹿屋で特攻隊員として祖国の危機に参加した同志の霊を葬い、今後このような戦争の無い平和国家日本への祈願を籠めて、戦後33年目に漸く私財を投げうって私との約束を果たして呉れた。<br /><br />この野里村の宿舎は私が海軍報道班員として岡村(基晴)司令と寝食を共にし度々の空襲にも逢って具に隊員たちの生活を見聞きして来た、思えば切なく懐しい土地である。<br /><br />本来自分の名前は出さないという小城君の希望であったが彼の純一無雑な心情から発した建碑であるだけに敢えて私は記名するように助言した。<br /><br />特攻隊訓練の地茨城県の神之池にも建碑する。<br /><br />くだくだしいことは言わないがこの碑を見て改めて今後の若い人達の何かの心の支となり尊い散華の跡を末長く見守って行って頂けたら小城君としても此の上ない喜びであろう。<br /><br />山岡荘八<br /><br /><br />戦時中山岡荘八氏は、この鹿屋の地で海軍報道班員として従軍されたいたそうです。

    山岡荘八氏による建碑由来の碑文。

    "建碑由来"

    建碑者小城久作君は此の鹿屋で特攻隊員として祖国の危機に参加した同志の霊を葬い、今後このような戦争の無い平和国家日本への祈願を籠めて、戦後33年目に漸く私財を投げうって私との約束を果たして呉れた。

    この野里村の宿舎は私が海軍報道班員として岡村(基晴)司令と寝食を共にし度々の空襲にも逢って具に隊員たちの生活を見聞きして来た、思えば切なく懐しい土地である。

    本来自分の名前は出さないという小城君の希望であったが彼の純一無雑な心情から発した建碑であるだけに敢えて私は記名するように助言した。

    特攻隊訓練の地茨城県の神之池にも建碑する。

    くだくだしいことは言わないがこの碑を見て改めて今後の若い人達の何かの心の支となり尊い散華の跡を末長く見守って行って頂けたら小城君としても此の上ない喜びであろう。

    山岡荘八


    戦時中山岡荘八氏は、この鹿屋の地で海軍報道班員として従軍されたいたそうです。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 戦時中このあたりにあった集落の跡の顕彰碑だそうです。

    戦時中このあたりにあった集落の跡の顕彰碑だそうです。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 特攻隊員をはじめとした隊員の方々の兵舎となった野里小学校創建の碑。

    特攻隊員をはじめとした隊員の方々の兵舎となった野里小学校創建の碑。

    旧海軍鹿屋基地特攻隊戦没者慰霊塔 名所・史跡

  • 海上自衛隊鹿屋基地内にある、「海上自衛隊鹿屋基地航空資料館」。

    海上自衛隊鹿屋基地内にある、「海上自衛隊鹿屋基地航空資料館」。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 鹿屋航空基地資料館の碑。<br /><br />碑文は、鹿児島というか大隅が誇る元自民党代議士二階堂進先生揮毫。鹿屋体育大学を作った先生だそうです。

    鹿屋航空基地資料館の碑。

    碑文は、鹿児島というか大隅が誇る元自民党代議士二階堂進先生揮毫。鹿屋体育大学を作った先生だそうです。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 「夕映桜島」のステンドグラス。<br /><br />これも画像が独り歩きをしている感がありますが、日本画家の巨匠「平山郁夫」画伯の原画を元に作成されたステンドグラスです。<br /><br />これは、この鹿屋の地より南方へ飛んで征かれた隊員の方々が最後に眺められただろう風景「桜島」をモチーフに特攻隊員たちの心を想い、鎮魂と平和の願いを込めて描かれたそうです。

    イチオシ

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    「夕映桜島」のステンドグラス。

    これも画像が独り歩きをしている感がありますが、日本画家の巨匠「平山郁夫」画伯の原画を元に作成されたステンドグラスです。

    これは、この鹿屋の地より南方へ飛んで征かれた隊員の方々が最後に眺められただろう風景「桜島」をモチーフに特攻隊員たちの心を想い、鎮魂と平和の願いを込めて描かれたそうです。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • エントランスで入場者に敬礼をする特攻隊員像。<br /><br />この像は、重症心身障害者の福島氏という方が、戦争中祖国に殉じて亡くなられた特攻隊員の方を尊び、不自由な手足を使って作成されたものだそうです。<br />

    エントランスで入場者に敬礼をする特攻隊員像。

    この像は、重症心身障害者の福島氏という方が、戦争中祖国に殉じて亡くなられた特攻隊員の方を尊び、不自由な手足を使って作成されたものだそうです。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 海軍航空兵力の興亡<br /><br />海軍航空が発足し、第一次大戦、上海事変、支那事変、大東亜戦争において活躍した様子及び衰退していった過程を航空用兵思想の観点から考証している。<br /><br /> また、作戦の一環として神風特別攻撃隊が誕生し、必死の作戦が敢行されるに至った経緯、特攻隊の出撃の概況、特攻に使用された機種、各方面別の特攻作戦、その他神風特別攻撃隊の全容をそれぞれのジャンルに整理して説明し、愛する者のために身を犠牲にした特攻隊員の至高至純な心を偲び、理解しやすいように展示している。<br /><br /> 特別攻撃隊の中心的な出撃基地として使用された鹿屋基地について、駐屯した部隊(陸軍98戦隊)や基地周辺住民との触れ合いを折り混ぜて紹介している。<br /><br />鹿屋航空基地資料館資料より転記。

    海軍航空兵力の興亡

    海軍航空が発足し、第一次大戦、上海事変、支那事変、大東亜戦争において活躍した様子及び衰退していった過程を航空用兵思想の観点から考証している。

     また、作戦の一環として神風特別攻撃隊が誕生し、必死の作戦が敢行されるに至った経緯、特攻隊の出撃の概況、特攻に使用された機種、各方面別の特攻作戦、その他神風特別攻撃隊の全容をそれぞれのジャンルに整理して説明し、愛する者のために身を犠牲にした特攻隊員の至高至純な心を偲び、理解しやすいように展示している。

    特別攻撃隊の中心的な出撃基地として使用された鹿屋基地について、駐屯した部隊(陸軍98戦隊)や基地周辺住民との触れ合いを折り混ぜて紹介している。

    鹿屋航空基地資料館資料より転記。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 鹿屋航空基地資料館の&quot;零式艦上戦闘機五二型&quot;復元。<br /><br />資料館パンフレットより。

    鹿屋航空基地資料館の"零式艦上戦闘機五二型"復元。

    資料館パンフレットより。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 米軍が認めた&quot;二式大艇&quot;レストア。<br /><br />二式大艇(にしきだいてい)<br />旧日本海軍が第二次世界大戦中に九七式飛行艇の後継機として実用化した4発大型飛行艇。二式飛行艇(にしきひこうてい)とも言う。初飛行は1941年(昭和16年)。略符号は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。通称は二式大艇(にしきたいてい、にしきだいてい)。二式大型飛行艇とも言う。なお、輸送型は「晴空」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily」。性能は、最高速度240ノット(444km/h)以上。当時の主力戦闘機九六式艦上戦闘機と同等。同時期の英国4発飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上。いずれも一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増。B-29爆撃機と比べても、30%近く長い。20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。1t爆弾または800kg魚雷2発搭載可能。<br />

    米軍が認めた"二式大艇"レストア。

    二式大艇(にしきだいてい)
    旧日本海軍が第二次世界大戦中に九七式飛行艇の後継機として実用化した4発大型飛行艇。二式飛行艇(にしきひこうてい)とも言う。初飛行は1941年(昭和16年)。略符号は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。通称は二式大艇(にしきたいてい、にしきだいてい)。二式大型飛行艇とも言う。なお、輸送型は「晴空」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily」。性能は、最高速度240ノット(444km/h)以上。当時の主力戦闘機九六式艦上戦闘機と同等。同時期の英国4発飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上。いずれも一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増。B-29爆撃機と比べても、30%近く長い。20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。1t爆弾または800kg魚雷2発搭載可能。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 同じく鹿屋航空基地資料館に展示してある&quot;二式大艇一二型&quot;レストア。<br /><br />詫間31号機、426号機(1943年3月製造)。

    同じく鹿屋航空基地資料館に展示してある"二式大艇一二型"レストア。

    詫間31号機、426号機(1943年3月製造)。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 2日間お世話になったマーチ君、490kmの長き道のりよくぞ走ってくれました!

    2日間お世話になったマーチ君、490kmの長き道のりよくぞ走ってくれました!

    志布志駅

  • 【資料用】<br />一式陸攻に懸架される桜花。

    【資料用】
    一式陸攻に懸架される桜花。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br />母機より切り離された桜花。

    【資料用】
    母機より切り離された桜花。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br />米軍に捕獲された桜花。

    【資料用】
    米軍に捕獲された桜花。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br />桜花(模型)。<br /><br />桜花(おうか)は日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機である。特攻兵器として1944年より開発され、1945年(昭和20年)から実戦に投入された。

    【資料用】
    桜花(模型)。

    桜花(おうか)は日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機である。特攻兵器として1944年より開発され、1945年(昭和20年)から実戦に投入された。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)<br /><br />第二次世界大戦期における海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。試作名称は十二試艦上戦闘機。連合軍側のコードネームは『ZEKE(ジーク)』。<br /><br />支那事変から太平洋戦争初期にかけて、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして、米英の戦闘機と優勢に戦い、米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。太平洋戦争中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となったが、後継機の開発の遅れによって、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用された。また、用途も拡大して、戦闘爆撃機や特攻機としても使われた。<br /><br />開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の約10000機。

    【資料用】

    零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)

    第二次世界大戦期における海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。試作名称は十二試艦上戦闘機。連合軍側のコードネームは『ZEKE(ジーク)』。

    支那事変から太平洋戦争初期にかけて、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして、米英の戦闘機と優勢に戦い、米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。太平洋戦争中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となったが、後継機の開発の遅れによって、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用された。また、用途も拡大して、戦闘爆撃機や特攻機としても使われた。

    開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の約10000機。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />二式水上戦闘機(にしきすいじょうせんとうき)<br /><br />海軍が第二次世界大戦中に使用した水上戦闘機。略して二式水戦とも呼ばれる。開発・製造は中島飛行機。制式番号はA6M2-N。連合国コードネームは、「Rufe(ルーフェ)」。<br /><br />日中戦争で九五式水上偵察機等の水上観測機が搭載機銃で敵機を撃墜するなどの意外な活躍をしたことから、1939年(昭和14年)に日本海軍は本格的な水上戦闘機の開発を決定し、15試水上戦闘機(後の「強風」)が試作されることになった。<br />しかし開発が難航したため、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦による南方侵攻作戦に新型水上戦闘機は間に合わないことが明白になってきた。そこで、短期間で高性能の水上戦闘機を製作するために、当時高性能が話題となっていた零式艦上戦闘機11型をベースに水上戦闘機化することを計画し、1941年(昭和16年)に中島に対して試作を命じた。零戦を開発した三菱重工業に対して改造を命じなかったのは、三菱が零戦や一式陸上攻撃機などの生産に手一杯だったことと、中島の方が小型水上機の生産に関して経験豊富だったためであった。<br />中島では緊急試作を開始し、約11ヶ月後の同年12月8日(奇しくも太平洋戦争勃発の日と同じになった)には試作1号機を初飛行させた。テストの結果は良好で、1942年(昭和17年)7月6日に二式水上戦闘機として制式採用された。

    【資料用】

    二式水上戦闘機(にしきすいじょうせんとうき)

    海軍が第二次世界大戦中に使用した水上戦闘機。略して二式水戦とも呼ばれる。開発・製造は中島飛行機。制式番号はA6M2-N。連合国コードネームは、「Rufe(ルーフェ)」。

    日中戦争で九五式水上偵察機等の水上観測機が搭載機銃で敵機を撃墜するなどの意外な活躍をしたことから、1939年(昭和14年)に日本海軍は本格的な水上戦闘機の開発を決定し、15試水上戦闘機(後の「強風」)が試作されることになった。
    しかし開発が難航したため、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦による南方侵攻作戦に新型水上戦闘機は間に合わないことが明白になってきた。そこで、短期間で高性能の水上戦闘機を製作するために、当時高性能が話題となっていた零式艦上戦闘機11型をベースに水上戦闘機化することを計画し、1941年(昭和16年)に中島に対して試作を命じた。零戦を開発した三菱重工業に対して改造を命じなかったのは、三菱が零戦や一式陸上攻撃機などの生産に手一杯だったことと、中島の方が小型水上機の生産に関して経験豊富だったためであった。
    中島では緊急試作を開始し、約11ヶ月後の同年12月8日(奇しくも太平洋戦争勃発の日と同じになった)には試作1号機を初飛行させた。テストの結果は良好で、1942年(昭和17年)7月6日に二式水上戦闘機として制式採用された。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />「紫電」(しでん)、「紫電改」(しでんかい)<br /><br />第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の戦闘機である。紫電の二一型以降が紫電改と呼称される。連合国側のコードネームは「George」。<br /><br />局地戦闘機紫電は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、紫電二一型は従来の紫電を低翼に再設計した機体であり、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴であった。<br /><br />昭和19年4月7日内令兵第27号「航空機の名称」では「試製紫電改」は「試製紫電の機体改造及兵装強化せるもの」として定義づけられており、昭和20年4月11日海軍航空本部「海軍飛行機略符号一覧表」における二一型以降(紫電改)は、「試製紫電改(二一型)」「試製紫電改甲(二一型甲)」「試製紫電改一(三一型)」「試製紫電改二」「試製紫電改三(三一型)」「試製紫電改四」「試製紫電改五(二五型)」が該当する。

    【資料用】

    「紫電」(しでん)、「紫電改」(しでんかい)

    第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の戦闘機である。紫電の二一型以降が紫電改と呼称される。連合国側のコードネームは「George」。

    局地戦闘機紫電は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、紫電二一型は従来の紫電を低翼に再設計した機体であり、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴であった。

    昭和19年4月7日内令兵第27号「航空機の名称」では「試製紫電改」は「試製紫電の機体改造及兵装強化せるもの」として定義づけられており、昭和20年4月11日海軍航空本部「海軍飛行機略符号一覧表」における二一型以降(紫電改)は、「試製紫電改(二一型)」「試製紫電改甲(二一型甲)」「試製紫電改一(三一型)」「試製紫電改二」「試製紫電改三(三一型)」「試製紫電改四」「試製紫電改五(二五型)」が該当する。

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  • 【資料用】<br /><br />雷電(らいでん)<br /><br />太平洋戦争末期に日本海軍が運用した局地戦闘機(乙戦)。略符号はJ2M1〜7。連合軍のコードネームはJack(ジャック)。<br />局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは、主に航空母艦から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を、また乙戦とは対爆撃機戦闘・迎撃戦闘(インタ−セプト)を行う戦闘機を指す日本海軍独自の用語である。「雷電」という名称は愛称ではなく正式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。

    【資料用】

    雷電(らいでん)

    太平洋戦争末期に日本海軍が運用した局地戦闘機(乙戦)。略符号はJ2M1〜7。連合軍のコードネームはJack(ジャック)。
    局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは、主に航空母艦から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を、また乙戦とは対爆撃機戦闘・迎撃戦闘(インタ−セプト)を行う戦闘機を指す日本海軍独自の用語である。「雷電」という名称は愛称ではなく正式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />月光(げっこう)<br /><br />日本海軍が、太平洋戦争中期から運用した夜間戦闘機。ちなみに従来の海軍の戦闘機は「○式○○戦闘機」という風に制式名称がつけられていたが、本機以降は命名基準が変わり、「月光」は愛称ではなく正式名称である(ちなみに夜間戦闘機・丙戦は「光」の字を含むように定められていた)。連合軍が本機に与えたコードネームはIrving(アーヴィング)。

    【資料用】

    月光(げっこう)

    日本海軍が、太平洋戦争中期から運用した夜間戦闘機。ちなみに従来の海軍の戦闘機は「○式○○戦闘機」という風に制式名称がつけられていたが、本機以降は命名基準が変わり、「月光」は愛称ではなく正式名称である(ちなみに夜間戦闘機・丙戦は「光」の字を含むように定められていた)。連合軍が本機に与えたコードネームはIrving(アーヴィング)。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />彗星(すいせい)<br /><br />海軍の艦上爆撃機。略符号はD4Y1〜Y4。連合国軍のコードネームは「Judy」。太平洋戦争後半の日本海軍主力機となり、特攻機としても投入された。<br /><br />単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は零式艦上戦闘機とほぼ同サイズとなる艦上爆撃機としてはかなりの小型機である。機体下部の爆弾倉と中翼配置、空力を重視した平滑な機体外形を採用しており、特に水冷エンジン独特の先細りの機首を持つ一一型・一二型は、空冷エンジンがほとんどだった日本の軍用機の中では特徴的な外見を持っている。<br />海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、当時の最新技術を多数盛り込んだ性能優先の設計とされた。本機で採用された機構は彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、後に開発される彩雲、晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。反面で複雑な構造や水冷エンジンの採用は日本の生産・運用事情を鑑みたものではなかったため、生産面や整備面で様々な不具合を惹起し稼働率の低下を招いた。特に水冷エンジンの生産が機体の生産数に追いつかず、生産性・信頼性の高い空冷エンジンへの換装に至り、この空冷エンジン搭載機が後半戦の主力となった。<br />開発は空技廠だが、生産は民間の愛知航空機で行われた(後に第十一航空廠でも水冷型を転換生産)。

    【資料用】

    彗星(すいせい)

    海軍の艦上爆撃機。略符号はD4Y1〜Y4。連合国軍のコードネームは「Judy」。太平洋戦争後半の日本海軍主力機となり、特攻機としても投入された。

    単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は零式艦上戦闘機とほぼ同サイズとなる艦上爆撃機としてはかなりの小型機である。機体下部の爆弾倉と中翼配置、空力を重視した平滑な機体外形を採用しており、特に水冷エンジン独特の先細りの機首を持つ一一型・一二型は、空冷エンジンがほとんどだった日本の軍用機の中では特徴的な外見を持っている。
    海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、当時の最新技術を多数盛り込んだ性能優先の設計とされた。本機で採用された機構は彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、後に開発される彩雲、晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。反面で複雑な構造や水冷エンジンの採用は日本の生産・運用事情を鑑みたものではなかったため、生産面や整備面で様々な不具合を惹起し稼働率の低下を招いた。特に水冷エンジンの生産が機体の生産数に追いつかず、生産性・信頼性の高い空冷エンジンへの換装に至り、この空冷エンジン搭載機が後半戦の主力となった。
    開発は空技廠だが、生産は民間の愛知航空機で行われた(後に第十一航空廠でも水冷型を転換生産)。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />艦上攻撃機「流星」<br /><br />太平洋戦争末期に登場した大日本帝国海軍の艦上攻撃機である。設計・開発は愛知航空機。略符号はB7A。連合国によるコードネームはGrace。敗戦当日、木更津海軍航空基地から房総半島沖の空母ヨークタウンに特別攻撃を行い、海軍公式記録上「最後の特攻」となった。<br /><br />多任務艦上攻撃機で急降下爆撃・水平爆撃・雷撃、すなわち艦上爆撃機と艦上雷撃機の両機種の役割を兼ねる。<br />単発レシプロ機。2人乗りで全金属製、応力外皮(モノコック)構造で作られている。主脚は内側引き込み式で尾輪をもつ。主翼は逆ガル型中翼単葉で外見上の大きな特徴となっている。<br />日本海軍の定義では急降下爆撃の可能な機体は「爆撃機」、雷撃の可能な機体は「攻撃機」に分類されるが(水平爆撃は両機種とも可能)、本機は「爆撃機」に準じた名称を持つ(「星」が付く名称は単発爆撃機用と定められていた。攻撃機は「山」が付く名称)が、「B7A」の略符号が示す(愛知航空機製(A)、7番目の艦上攻撃機(B7))様に機体分類は「攻撃機」になっている。因みに同様に急降下爆撃と雷撃を兼用する陸上機である銀河は、「爆撃機」に分類されている。<br />他の単発艦攻や艦爆と比較して傑出した性能をもっていたが、本機が完成した終戦間際には日本軍には作戦行動可能な航空母艦が残っておらず、艦上機としての性能を発揮する機会に恵まれなかった。<br />戦後、進駐したアメリカ軍によって4機が接収され、そのうちの1機はスミソニアン航空博物館にて分解状態で保管されている。<br />2014年2月23日に、「流星」の風防の一部が熊本県八代市で見つかっていたことが発表された。「流星」の機体を製造していた第21海軍航空廠(長崎県大村市)へ部品を納入していた三陽航機八代工場の関係者が、機体の一部を戦後も保存しており、これが他者に譲渡されたものを調査したところ「流星」の風防であることが確認された。日本国内に現存する唯一の「流星」の機体の一部だと考えられている。

    【資料用】

    艦上攻撃機「流星」

    太平洋戦争末期に登場した大日本帝国海軍の艦上攻撃機である。設計・開発は愛知航空機。略符号はB7A。連合国によるコードネームはGrace。敗戦当日、木更津海軍航空基地から房総半島沖の空母ヨークタウンに特別攻撃を行い、海軍公式記録上「最後の特攻」となった。

    多任務艦上攻撃機で急降下爆撃・水平爆撃・雷撃、すなわち艦上爆撃機と艦上雷撃機の両機種の役割を兼ねる。
    単発レシプロ機。2人乗りで全金属製、応力外皮(モノコック)構造で作られている。主脚は内側引き込み式で尾輪をもつ。主翼は逆ガル型中翼単葉で外見上の大きな特徴となっている。
    日本海軍の定義では急降下爆撃の可能な機体は「爆撃機」、雷撃の可能な機体は「攻撃機」に分類されるが(水平爆撃は両機種とも可能)、本機は「爆撃機」に準じた名称を持つ(「星」が付く名称は単発爆撃機用と定められていた。攻撃機は「山」が付く名称)が、「B7A」の略符号が示す(愛知航空機製(A)、7番目の艦上攻撃機(B7))様に機体分類は「攻撃機」になっている。因みに同様に急降下爆撃と雷撃を兼用する陸上機である銀河は、「爆撃機」に分類されている。
    他の単発艦攻や艦爆と比較して傑出した性能をもっていたが、本機が完成した終戦間際には日本軍には作戦行動可能な航空母艦が残っておらず、艦上機としての性能を発揮する機会に恵まれなかった。
    戦後、進駐したアメリカ軍によって4機が接収され、そのうちの1機はスミソニアン航空博物館にて分解状態で保管されている。
    2014年2月23日に、「流星」の風防の一部が熊本県八代市で見つかっていたことが発表された。「流星」の機体を製造していた第21海軍航空廠(長崎県大村市)へ部品を納入していた三陽航機八代工場の関係者が、機体の一部を戦後も保存しており、これが他者に譲渡されたものを調査したところ「流星」の風防であることが確認された。日本国内に現存する唯一の「流星」の機体の一部だと考えられている。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />天山(てんざん)<br /><br />日本海軍が九七式艦上攻撃機(以下、九七式艦攻)の後継機として開発・実戦配備した艦上攻撃機。機体略号はB6N。設計・生産は中島飛行機。連合国軍のコードネームは「Jill」。

    【資料用】

    天山(てんざん)

    日本海軍が九七式艦上攻撃機(以下、九七式艦攻)の後継機として開発・実戦配備した艦上攻撃機。機体略号はB6N。設計・生産は中島飛行機。連合国軍のコードネームは「Jill」。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />銀河(ぎんが)<br /><br />海軍が開発・実用化した双発爆撃機。海軍の航空機関連技術開発を統括する航空技術廠(以下、空技廠)が大型急降下爆撃機として開発した機体だが、一式陸上攻撃機(以下、一式陸攻)の後継機として太平洋戦争後半の戦いに投入された。連合国軍によるコードネームは「Frances」。連合軍は当初本機を戦闘機と誤認して「Francis」という男性名を付けたが、爆撃機と判明した後に女性名である「Frances」に変更したという。

    【資料用】

    銀河(ぎんが)

    海軍が開発・実用化した双発爆撃機。海軍の航空機関連技術開発を統括する航空技術廠(以下、空技廠)が大型急降下爆撃機として開発した機体だが、一式陸上攻撃機(以下、一式陸攻)の後継機として太平洋戦争後半の戦いに投入された。連合国軍によるコードネームは「Frances」。連合軍は当初本機を戦闘機と誤認して「Francis」という男性名を付けたが、爆撃機と判明した後に女性名である「Frances」に変更したという。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />九六式陸上攻撃機(きゅうろくしきりくじょうこうげきき)<br />海軍の陸上攻撃機で、九六式艦上戦闘機と並んで日本の航空技術が欧米と同等のレベルまで進んだことを示した最初の機体である。当時としては高い航続性能を有し、支那事変から太平洋戦争の初期まで第一線で活躍した。なお海軍の命名法によって急降下爆撃ができない本機は爆撃機ではなく攻撃機とされた。後継機の一式陸上攻撃機とともに通称「中攻」と呼ばれた。連合国軍のコードネームは「Nell」。

    【資料用】

    九六式陸上攻撃機(きゅうろくしきりくじょうこうげきき)
    海軍の陸上攻撃機で、九六式艦上戦闘機と並んで日本の航空技術が欧米と同等のレベルまで進んだことを示した最初の機体である。当時としては高い航続性能を有し、支那事変から太平洋戦争の初期まで第一線で活躍した。なお海軍の命名法によって急降下爆撃ができない本機は爆撃機ではなく攻撃機とされた。後継機の一式陸上攻撃機とともに通称「中攻」と呼ばれた。連合国軍のコードネームは「Nell」。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />九七式艦上攻撃機(きゅうななしきかんじょうこうげきき)<br /><br />海軍の艦上攻撃機。競争試作された2機種が両方とも採用されたため、この名を持つ飛行機には全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5M)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。<br />昭和10年(1935年)に海軍が中島飛行機、三菱重工業に十試艦上攻撃機としての競争試作を命じ、昭和12年(1937年)に中島案を九七式一号艦上攻撃機、三菱案を九七式二号艦上攻撃機として、共に採用した。競争試作であるにもかかわらずどちらも採用された理由は、両者の間に決定的な性能差がなかったためである。<br />日本海軍としては、初の全金属製の低翼単葉機であり、一号型は国産単発機初の引込脚を採用。それまでの九六式艦上攻撃機に比べ、最高速度は約100km/hも向上した。乗員は3名。「九七式艦攻」または、「九七艦攻」と省略して表記されることがある。アメリカ側のコードネームは中島製の一号/三号がKate(ケイト)、三菱製の二号がMabel(メイベル)。<br />

    【資料用】

    九七式艦上攻撃機(きゅうななしきかんじょうこうげきき)

    海軍の艦上攻撃機。競争試作された2機種が両方とも採用されたため、この名を持つ飛行機には全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5M)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。
    昭和10年(1935年)に海軍が中島飛行機、三菱重工業に十試艦上攻撃機としての競争試作を命じ、昭和12年(1937年)に中島案を九七式一号艦上攻撃機、三菱案を九七式二号艦上攻撃機として、共に採用した。競争試作であるにもかかわらずどちらも採用された理由は、両者の間に決定的な性能差がなかったためである。
    日本海軍としては、初の全金属製の低翼単葉機であり、一号型は国産単発機初の引込脚を採用。それまでの九六式艦上攻撃機に比べ、最高速度は約100km/hも向上した。乗員は3名。「九七式艦攻」または、「九七艦攻」と省略して表記されることがある。アメリカ側のコードネームは中島製の一号/三号がKate(ケイト)、三菱製の二号がMabel(メイベル)。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />九九式艦上爆撃機(きゅうきゅうしきかんじょうばくげきき)<br /><br />昭和11年(1936年)「十一試艦上爆撃機」として試作が始まり、愛知航空機(1943年愛知時計電機から独立)が受注・生産を行い、太平洋戦争初期に活躍した、日本海軍の艦上急降下爆撃機。通称「九九式艦爆」、もしくは「九九艦爆」。記号はD3A。アメリカ側コードネームはVal(ヴァル)。

    【資料用】

    九九式艦上爆撃機(きゅうきゅうしきかんじょうばくげきき)

    昭和11年(1936年)「十一試艦上爆撃機」として試作が始まり、愛知航空機(1943年愛知時計電機から独立)が受注・生産を行い、太平洋戦争初期に活躍した、日本海軍の艦上急降下爆撃機。通称「九九式艦爆」、もしくは「九九艦爆」。記号はD3A。アメリカ側コードネームはVal(ヴァル)。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />機上作業練習機白菊(しらぎく)<br /><br />第二次世界大戦中期から日本海軍で使用された練習機である。開発・製造は九州飛行機で、機体略番はK11W。九〇式機上作業練習機の後継機として昭和17年に制式採用され終戦まで使用された。大戦末期には特攻機として使用された機体もあった。<br /><br />機上作業練習機とは、艦上攻撃機や艦上爆撃機のような操縦士以外の乗員の任務である航法・通信・射撃・爆撃・偵察等の訓練を行うための機体である。海軍初の機上作業練習機である九〇式機上作業練習機は昭和6年から使用され続けていたが、太平洋戦争突入の頃になると流石に性能的に不満が出てきた。そこで海軍は昭和16年に後継機の開発を渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に指示した。<br />渡辺では昭和16年6月から設計を開始し、昭和17年11月に試作第1号機を完成させた。全金属製モノコック構造の胴体に木製骨組み合板張りの主翼を有した中翼単葉機で、主脚は固定式、エンジンは515hpの日立天風を1基搭載していた。角型断面のやや幅広の胴体には、操縦員1名の他、教官と3名の練習生を搭乗させることが可能で、座席の配置は訓練の内容によって変更可能であった。テストの結果若干の安定性不良が指摘されたが改修可能で、昭和18年試製白菊(K11W1)として量産が開始された。<br />その後、教官席を廃止し代わりに練習生の搭乗人数を増加させた試製白菊改(K11W2)が試作され、昭和19年3月に試製白菊共々制式採用された。その際、試製白菊は「白菊11型」、試製白菊改は「白菊21型」と呼ばれるようになった。

    【資料用】

    機上作業練習機白菊(しらぎく)

    第二次世界大戦中期から日本海軍で使用された練習機である。開発・製造は九州飛行機で、機体略番はK11W。九〇式機上作業練習機の後継機として昭和17年に制式採用され終戦まで使用された。大戦末期には特攻機として使用された機体もあった。

    機上作業練習機とは、艦上攻撃機や艦上爆撃機のような操縦士以外の乗員の任務である航法・通信・射撃・爆撃・偵察等の訓練を行うための機体である。海軍初の機上作業練習機である九〇式機上作業練習機は昭和6年から使用され続けていたが、太平洋戦争突入の頃になると流石に性能的に不満が出てきた。そこで海軍は昭和16年に後継機の開発を渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に指示した。
    渡辺では昭和16年6月から設計を開始し、昭和17年11月に試作第1号機を完成させた。全金属製モノコック構造の胴体に木製骨組み合板張りの主翼を有した中翼単葉機で、主脚は固定式、エンジンは515hpの日立天風を1基搭載していた。角型断面のやや幅広の胴体には、操縦員1名の他、教官と3名の練習生を搭乗させることが可能で、座席の配置は訓練の内容によって変更可能であった。テストの結果若干の安定性不良が指摘されたが改修可能で、昭和18年試製白菊(K11W1)として量産が開始された。
    その後、教官席を廃止し代わりに練習生の搭乗人数を増加させた試製白菊改(K11W2)が試作され、昭和19年3月に試製白菊共々制式採用された。その際、試製白菊は「白菊11型」、試製白菊改は「白菊21型」と呼ばれるようになった。

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  • 【資料用】<br /><br />九三式中間練習機赤とんぼ(きゅうさんしきちゅうかんれんしゅうき)<br />(K5Y、連合軍コードネームはWillow)は第二次世界大戦中の日本海軍の飛行機で、練習機である。日本軍の練習機は目立つようにオレンジ色に塗られたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていたが、本機はその内の代表的な機体のひとつである。<br /><br />制式採用後、川西で60機が作られたのを皮切りに、九州飛行機や日本飛行機、日立航空機、中島飛行機、三菱重工業などの海軍と関係を持った航空機製造会社のほぼ全てによって大量生産が行なわれた。これは軍が主力企業以外の民間工場にも航空機制作の習熟を行なわせる施策をとっていたための持ち回り当番とされている。九三式中間練習機は海軍のあらゆる練習航空隊に配備され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結まで用いられた。安定性・信頼性が非常に高く扱い易いながらも、同時に高等曲技飛行も可能なほどの操縦性を持ち合わせ、多くの練習生がこの機体から巣立っていった。水上機型 (K5Y2) も相当数生産され、水上機の搭乗員養成に一役買った。一部の機体は民間でも使われ、訓練飛行や空中写真撮影などに広く用いられた。<br />第二次世界大戦の中期以降は、実用機の性能向上から本機は初歩練習機として使用されることも多くなってきた。931空所属機は対潜哨戒任務の空母艦載機として運用された。戦争末期には目立つことから機体上面は濃緑色に塗られ、さらに実用機不足と当機がアルコール燃料でも稼動可能なことから、機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し、機体の限界に近い250kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出され、駆逐艦1隻(キャラハン)を撃沈している。<br />陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製であった。製造機数の多さと練習機という任務から、終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かった。<br />戦後、インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機はインドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われた。だが、ほとんどはオランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)年までにはほぼ破壊されてしまった。

    【資料用】

    九三式中間練習機赤とんぼ(きゅうさんしきちゅうかんれんしゅうき)
    (K5Y、連合軍コードネームはWillow)は第二次世界大戦中の日本海軍の飛行機で、練習機である。日本軍の練習機は目立つようにオレンジ色に塗られたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていたが、本機はその内の代表的な機体のひとつである。

    制式採用後、川西で60機が作られたのを皮切りに、九州飛行機や日本飛行機、日立航空機、中島飛行機、三菱重工業などの海軍と関係を持った航空機製造会社のほぼ全てによって大量生産が行なわれた。これは軍が主力企業以外の民間工場にも航空機制作の習熟を行なわせる施策をとっていたための持ち回り当番とされている。九三式中間練習機は海軍のあらゆる練習航空隊に配備され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結まで用いられた。安定性・信頼性が非常に高く扱い易いながらも、同時に高等曲技飛行も可能なほどの操縦性を持ち合わせ、多くの練習生がこの機体から巣立っていった。水上機型 (K5Y2) も相当数生産され、水上機の搭乗員養成に一役買った。一部の機体は民間でも使われ、訓練飛行や空中写真撮影などに広く用いられた。
    第二次世界大戦の中期以降は、実用機の性能向上から本機は初歩練習機として使用されることも多くなってきた。931空所属機は対潜哨戒任務の空母艦載機として運用された。戦争末期には目立つことから機体上面は濃緑色に塗られ、さらに実用機不足と当機がアルコール燃料でも稼動可能なことから、機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し、機体の限界に近い250kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出され、駆逐艦1隻(キャラハン)を撃沈している。
    陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製であった。製造機数の多さと練習機という任務から、終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かった。
    戦後、インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機はインドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われた。だが、ほとんどはオランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)年までにはほぼ破壊されてしまった。

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  • 【資料用】<br /><br />零式水上偵察機(ぜろしき すいじょう ていさつき)<br />十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、昭和15年(1940年)12月日本海軍に兵器採用された水上偵察機。 略称として零式水偵、零水とも呼ばれ、零式小型水上偵察機との違いを明確にする場合には零式三座水上偵察機とも表記される。略符号はE13A。アメリカ軍が名づけたコードネームは&quot;Jake&quot;。

    【資料用】

    零式水上偵察機(ぜろしき すいじょう ていさつき)
    十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、昭和15年(1940年)12月日本海軍に兵器採用された水上偵察機。 略称として零式水偵、零水とも呼ばれ、零式小型水上偵察機との違いを明確にする場合には零式三座水上偵察機とも表記される。略符号はE13A。アメリカ軍が名づけたコードネームは"Jake"。

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  • 【資料用】<br /><br />零式観測機(ぜろしきかんそくき)<br /><br />零式水上観測機と通称されることもある。太平洋戦争中に運用された海軍の水上観測機・偵察機。略符号はF1M1〜M2、略称は零観(ゼロカン)、または「観測機」。連合国コードネームはPete。日本海軍で採用された最後の複葉機である。

    【資料用】

    零式観測機(ぜろしきかんそくき)

    零式水上観測機と通称されることもある。太平洋戦争中に運用された海軍の水上観測機・偵察機。略符号はF1M1〜M2、略称は零観(ゼロカン)、または「観測機」。連合国コードネームはPete。日本海軍で採用された最後の複葉機である。

    鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館

  • 【資料用】<br /><br />九四式水上偵察機(きゅうよんしき すいじょう ていさつき)<br /><br />川西航空機が開発し、昭和9年に制式採用された日本海軍の水上機である。機体略番は「E7K」。当時の同種の機体と比べて航続力、安定性、操縦性に優れており、昭和10年から太平洋戦争末期までの長期間運用された。連合軍でのコードネームは“Alf”。

    【資料用】

    九四式水上偵察機(きゅうよんしき すいじょう ていさつき)

    川西航空機が開発し、昭和9年に制式採用された日本海軍の水上機である。機体略番は「E7K」。当時の同種の機体と比べて航続力、安定性、操縦性に優れており、昭和10年から太平洋戦争末期までの長期間運用された。連合軍でのコードネームは“Alf”。

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  • 【資料用】<br /><br />回天(かいてん)<br /><br />太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、最初の特攻兵器。

    【資料用】

    回天(かいてん)

    太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、最初の特攻兵器。

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  • 【資料用】<br /><br />震洋(しんよう)<br /><br />太平洋戦争で海軍が開発・使用した特攻兵器。1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に本特攻兵器の開発は始まっていた。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。<br /><br />「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。

    【資料用】

    震洋(しんよう)

    太平洋戦争で海軍が開発・使用した特攻兵器。1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に本特攻兵器の開発は始まっていた。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。

    「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。

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  • 【資料用】<br /><br />海龍(かいりゅう、海竜)<br /><br />海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器である。海軍工作学校教官、浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された。SS金物とも呼ばれた。<br />本土決戦用の特攻兵器として開発され、飛行機の部品などを使って横須賀の海軍工廠などで、1945年(昭和20年)に全部で200隻が建造された。通常の潜水艦と異なり、翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うため、構造が単純で建造を短期間に行うことができた。終戦により、本土決戦が回避されたため実戦に投入されることはなかったが、海龍が攻撃された例はある。

    【資料用】

    海龍(かいりゅう、海竜)

    海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器である。海軍工作学校教官、浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された。SS金物とも呼ばれた。
    本土決戦用の特攻兵器として開発され、飛行機の部品などを使って横須賀の海軍工廠などで、1945年(昭和20年)に全部で200隻が建造された。通常の潜水艦と異なり、翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うため、構造が単純で建造を短期間に行うことができた。終戦により、本土決戦が回避されたため実戦に投入されることはなかったが、海龍が攻撃された例はある。

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  • 【資料用】<br /><br />蛟竜(こうりゅう、蛟龍) <br />海軍の特殊潜航艇の一種。甲標的丁型が正式名称であるが、一般にはこの名で知られる。

    【資料用】

    蛟竜(こうりゅう、蛟龍)
    海軍の特殊潜航艇の一種。甲標的丁型が正式名称であるが、一般にはこの名で知られる。

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  • 横浜臨海公園さん 2014/10/28 17:43:11
    戦跡旅行記を拝見して
    たかちゃんティムちゃん はるおちゃん・ついでにおまけのまゆみさんさま、こんにちは。


    旅行記を篤と拝見させて頂きました。

    私事ながら、横浜臨海公園の父は大東亜戦争中は旧制高等学校から旧制帝大で学んでいる最中に学徒出陣で海軍短期現役将校に志願し、海軍少尉として沖縄攻撃に向かった戦艦大和に随伴した軽巡洋艦矢作に乗艦し、連合軍航空機総攻撃を受け、沈没直前に総員退艦命令を耳にすると同時に爆風の為に海面に投げ出され、味方駆逐艦に救助されるまで、約5時間を東シナ海で泳いでいた体験を有しております。
    また、呉鎮守府に戻った後は新兵に対する一般教養教育を担当していたそうですが、同年8月6日に広島に異常事態発生感知と共に、部下を率い広島市内に救援行動を行っております。

    その為に、旧制中学校、旧制高等学校、帝大の同級生友人相当数が戦死しており、戦後は無事に帰還した事に対し戦死した友人たちの分も働くのだと、高度経済成長時代を生き抜いたと、かねがね横浜臨海公園に事実関係を話し出したのは此の15年です。

    やはり、あの時代の事を思い出すのも辛かった様子が表情から感じ取れました。

    昨今では戦跡を何か反戦運動と連携させ、履違え、寧ろ蔑ろにする風潮を感じますが、事実は事実として伝承していかなければならないと思っております。




    横浜臨海公園

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

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