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〝第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~〟<br /><br />沖縄県立第二高等女学校、沖縄戦に於いて動員された学徒隊のひとつである白梅学徒看護隊を結成し従軍した女学校生徒は校章から戦後〝白梅学徒〟と呼ばれ現在に至っています。<br /><br />沖縄県立第二高等女学校は明治38(1905)年に〝女子技芸学校〟として久茂地に開校したことに歴史が始まり、大正10(1921)年に那覇市久米の松尾山(マチューヤマ)に新校舎が完成して那覇市立実科高等女学校に昇格します。その後大正13(1924)年に那覇市立高等女学校となり、昭和3(1928)年4月に沖縄県立第二高等女学校に昇格しました。しかし昭和11(1936)年4月には放火による火災で校舎の大半が焼失し、昭和15(1940)年2月に新校舎が落成しましたが、昭和19(1944)年10月10日の沖縄大空襲(十・十空襲)により校舎は完全に焼失する。それ以降生徒たちは付近の焼け残った県庁官舎を仮校舎として勉学に励むものの、沖縄守備第32軍の軍命により学徒看護隊員として昭和20(1945)年2月から四年生の看護教育が始まることになりました。<br /><br />当時沖縄県は女子の動員に抵抗していましたが、結局第32軍に押し切られ、15~19歳の女子学徒は看護要員として野戦病院に送られることになりました。このうち沖縄県立第二高等女学校生徒から構成された〝白梅学徒看護隊〟は昭和20(1945)3月6日56名の四年生が従軍補助看護婦として、縄県立第二高等女学院の4年生56人が、1945年(昭和20年)3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、東風平(こちんだ)国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊(山3486部隊の内務班)に入隊し看護学を受講するもするものの、3月23日から沖縄本島南部に艦砲射撃が始まり、その日をもって看護学習は18日間で打ち切られ、翌3月24日には八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院(山3486部隊)に配属されることになります。そのうち3月25日と27日に引率教師を含む9名が諸々の理由で除隊となり、最終的に46名の生徒が入隊しました。<br /><br />この第24師団第一野戦病院本部壕と手術壕が現在の八重瀬公園にあたる場所になります。<br /><br />4月に入ると沖縄島中部戦線で日米両軍の戦闘が始まり、前線から多くの負傷兵が送られてくることとなります。そのため第24師団第一野戦病院が多くの負傷兵で手狭になったこともあり、4月下旬には新城分院として〝ヌヌマチガマ〟が使われることになり、軍医1名・看護婦1名・白梅学徒隊3名を派遣し開設されました。その後軍医1名と学徒隊2名が新たに新城分院へと移動し、最終的には軍医2名・看護婦1名・学徒隊5名体制で治療にあたったとされています。ヌヌマチガマでは閉鎖されるまでの1ヶ月余りの間に〝炊き出しなどの要員〟地元女性の動員が行われ、女子学徒らの不眠不休の勤務で、中部・首里戦線から送られてくる負傷兵の治療が行われたとされています。しかし負傷兵は最も多い時で1,000名を越えたと言われ、人員と薬品の不足で治療と呼ぶにはほど遠かったことが現実でした。<br /><br />その後戦況は悪化の一歩を辿り、第32軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退するにあたり、野戦病院にも撤退命令が出されることになります。その際6月3日にはヌヌマチガマは閉鎖されることとなり、その際に自力で動けない重症患者500余名を処置したとの記録が残っています。しかし6月4日に第24師団第一野戦病院に到着した学徒達を待ち受けていたのは〝学徒隊解散命令〟でした。首里が制圧されて南部戦線へと移動の渦中にあったその時点での解散は、米軍の猛攻の中に学徒らを投げ出すことを意味するものにしかほかなりません。一説には既に戦況が決したと考える将兵が、先ある学徒を道連れにするに忍びなかったとする説もあるものの、やはり砲弾が飛び交う戦地で〝どうやって?〟〝逃げるか?〟と考えることそのものが不可能なことであり、結果として野戦病院を離れた学徒のうち8名が途中で戦死されています。<br /><br />残った学徒隊の少女達が少数のグループに分かれ、どのようなコンタクトがあったのかは不明ですが、16名が現在の糸満市国吉にある〝白梅学徒自決之壕(白梅之塔下の壕)〟と〝白梅之塔上の壕〟へと辿り着きます。しかし司令官を殺害された米軍の執拗な攻撃は、抵抗する手段を持たない16歳の少女達にも向けられました。<br /><br />昭和20(1945)6月21日、白梅下の壕が〝馬乗り攻撃〟を受け6名が戦死、翌22日には白梅上の壕にて2名が戦死。そして重度のやけどを負った1名がその後死亡し、46名の学徒隊のうち17名が戦死されました。<br /><br />その後諸説はあるのですが学徒生存者は捕虜として確保されたということで話が終わっているものが多いようです。<br /><br />戦後を迎え、同世代の男子高校生達ととひとりの石工さんの手によって作られた初代〝白梅之塔〟。自決之壕や上の壕から出土したご遺骨を納めた納骨堂が作られました。そして昭和22(1947)1月に自然石の小さな碑を建て第1回の慰霊祭が行われたことに慰霊祭が始まり今年平成28(2016)年で七十回目を迎えました。多くの学徒慰霊碑に纏わる問題として、参列者の高齢化が挙げられます。現代の科学をしても加齢を止めることはできないので、多くの学徒隊の慰霊碑では公式の慰霊祭としてはけじめをつけるために終わらせたものも多くあります。白梅同窓会長の中山キクさんも御年87歳になられ、挨拶の中にそのことを含む内容を語られてはいましたが、その一方でできる限りのことをして行きたいとの意気込みを語っておられました。<br /><br />その心意気には同級生を失った悲しい気持ちを持たれていると思えるとともに、その学友が今でも後押しをしている…。その後押しがある以上止められないという〝覚悟〟に似たお気持ちを感じました。<br /><br />学徒の話をするときにいつもいう言葉ではあるのですが、学徒隊はなにもひとつではなかったという事実。沖縄戦に於いて2,000名を超える学徒が従軍し、志半ばにして多くの少年少女が斃れました。それから71年が経過し、沖縄と言うと〝基地問題〟というレッテルが貼られてしまい、史実を見ることが少なくなってきているように思えてなりません。史実を知ることによって未来を語ることがなされないで本当の〝反戦問題〟は語れないのではないでしょうか。戦争という暗黒の時代を経て、沖縄は27年もの間戦時統治が行われていました。考え方によれば戦後71年と言うのは内地の人間のことであり、沖縄では44年という言い方もあるやも知れません。<br /><br />解釈は色々とあるとは思います。しかし未来に渡る話は過去の教訓を生かせてすればぶれることはないようにも思うのですがそうでもないのが現実です。正直言うと個々の戦跡を取り上げて紹介するより、人の流れで書いた方がわかりやすいのかもと思って書き始めたものの、諸々の理由から訪れることができないところもあり、その理由を聞くと…というものが結構あることを知りました。きれいごとではありますが、戦跡保存とひとことで言えるのは私が普段の生活を沖縄でしていないからかも知れません。生活を快適にする手段として戦跡を崩さなければならないことを全て〝不許可〟にしていれば、結局のところ不便な生活を強いる原因になってしまうかも知れません。<br /><br />慰霊祭に参列させて頂いてその生き残りの方々の想いを聞くことができました。しかしそれを取り上げているマスコミの表記に間違いがあったりと、せっかくのものを台無しにしているところもあります。記事になれば何でも良いのかも知れませんが、第24師団隷下の第一野戦病院と第二野戦病院をひとまとめに書かれたものが存在し、それによって学徒をひとまとめにして説明している輩もいた事実もあります。<br /><br />今現状で私が訪れることができる場所で白梅学徒隊の足跡が辿れるのは以上です。今後史跡を取り巻く環境が変わって、新たな場所を訪れることができたならばそれを追加していくこともあるかと思います。<br /><br />これにて〝第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。<br /><br /><br />≪訪問日≫<br />① 平成28(2016)年3月1日火曜日<br />② 平成28(2016)年4月16日土曜日<br />③ 平成28(2016)年6月22日水曜日<br />④ 平成28(2016)年6月23日木曜日

第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~

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2016/03/01 - 2017/06/23

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〝第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~〟

沖縄県立第二高等女学校、沖縄戦に於いて動員された学徒隊のひとつである白梅学徒看護隊を結成し従軍した女学校生徒は校章から戦後〝白梅学徒〟と呼ばれ現在に至っています。

沖縄県立第二高等女学校は明治38(1905)年に〝女子技芸学校〟として久茂地に開校したことに歴史が始まり、大正10(1921)年に那覇市久米の松尾山(マチューヤマ)に新校舎が完成して那覇市立実科高等女学校に昇格します。その後大正13(1924)年に那覇市立高等女学校となり、昭和3(1928)年4月に沖縄県立第二高等女学校に昇格しました。しかし昭和11(1936)年4月には放火による火災で校舎の大半が焼失し、昭和15(1940)年2月に新校舎が落成しましたが、昭和19(1944)年10月10日の沖縄大空襲(十・十空襲)により校舎は完全に焼失する。それ以降生徒たちは付近の焼け残った県庁官舎を仮校舎として勉学に励むものの、沖縄守備第32軍の軍命により学徒看護隊員として昭和20(1945)年2月から四年生の看護教育が始まることになりました。

当時沖縄県は女子の動員に抵抗していましたが、結局第32軍に押し切られ、15~19歳の女子学徒は看護要員として野戦病院に送られることになりました。このうち沖縄県立第二高等女学校生徒から構成された〝白梅学徒看護隊〟は昭和20(1945)3月6日56名の四年生が従軍補助看護婦として、縄県立第二高等女学院の4年生56人が、1945年(昭和20年)3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、東風平(こちんだ)国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊(山3486部隊の内務班)に入隊し看護学を受講するもするものの、3月23日から沖縄本島南部に艦砲射撃が始まり、その日をもって看護学習は18日間で打ち切られ、翌3月24日には八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院(山3486部隊)に配属されることになります。そのうち3月25日と27日に引率教師を含む9名が諸々の理由で除隊となり、最終的に46名の生徒が入隊しました。

この第24師団第一野戦病院本部壕と手術壕が現在の八重瀬公園にあたる場所になります。

4月に入ると沖縄島中部戦線で日米両軍の戦闘が始まり、前線から多くの負傷兵が送られてくることとなります。そのため第24師団第一野戦病院が多くの負傷兵で手狭になったこともあり、4月下旬には新城分院として〝ヌヌマチガマ〟が使われることになり、軍医1名・看護婦1名・白梅学徒隊3名を派遣し開設されました。その後軍医1名と学徒隊2名が新たに新城分院へと移動し、最終的には軍医2名・看護婦1名・学徒隊5名体制で治療にあたったとされています。ヌヌマチガマでは閉鎖されるまでの1ヶ月余りの間に〝炊き出しなどの要員〟地元女性の動員が行われ、女子学徒らの不眠不休の勤務で、中部・首里戦線から送られてくる負傷兵の治療が行われたとされています。しかし負傷兵は最も多い時で1,000名を越えたと言われ、人員と薬品の不足で治療と呼ぶにはほど遠かったことが現実でした。

その後戦況は悪化の一歩を辿り、第32軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退するにあたり、野戦病院にも撤退命令が出されることになります。その際6月3日にはヌヌマチガマは閉鎖されることとなり、その際に自力で動けない重症患者500余名を処置したとの記録が残っています。しかし6月4日に第24師団第一野戦病院に到着した学徒達を待ち受けていたのは〝学徒隊解散命令〟でした。首里が制圧されて南部戦線へと移動の渦中にあったその時点での解散は、米軍の猛攻の中に学徒らを投げ出すことを意味するものにしかほかなりません。一説には既に戦況が決したと考える将兵が、先ある学徒を道連れにするに忍びなかったとする説もあるものの、やはり砲弾が飛び交う戦地で〝どうやって?〟〝逃げるか?〟と考えることそのものが不可能なことであり、結果として野戦病院を離れた学徒のうち8名が途中で戦死されています。

残った学徒隊の少女達が少数のグループに分かれ、どのようなコンタクトがあったのかは不明ですが、16名が現在の糸満市国吉にある〝白梅学徒自決之壕(白梅之塔下の壕)〟と〝白梅之塔上の壕〟へと辿り着きます。しかし司令官を殺害された米軍の執拗な攻撃は、抵抗する手段を持たない16歳の少女達にも向けられました。

昭和20(1945)6月21日、白梅下の壕が〝馬乗り攻撃〟を受け6名が戦死、翌22日には白梅上の壕にて2名が戦死。そして重度のやけどを負った1名がその後死亡し、46名の学徒隊のうち17名が戦死されました。

その後諸説はあるのですが学徒生存者は捕虜として確保されたということで話が終わっているものが多いようです。

戦後を迎え、同世代の男子高校生達ととひとりの石工さんの手によって作られた初代〝白梅之塔〟。自決之壕や上の壕から出土したご遺骨を納めた納骨堂が作られました。そして昭和22(1947)1月に自然石の小さな碑を建て第1回の慰霊祭が行われたことに慰霊祭が始まり今年平成28(2016)年で七十回目を迎えました。多くの学徒慰霊碑に纏わる問題として、参列者の高齢化が挙げられます。現代の科学をしても加齢を止めることはできないので、多くの学徒隊の慰霊碑では公式の慰霊祭としてはけじめをつけるために終わらせたものも多くあります。白梅同窓会長の中山キクさんも御年87歳になられ、挨拶の中にそのことを含む内容を語られてはいましたが、その一方でできる限りのことをして行きたいとの意気込みを語っておられました。

その心意気には同級生を失った悲しい気持ちを持たれていると思えるとともに、その学友が今でも後押しをしている…。その後押しがある以上止められないという〝覚悟〟に似たお気持ちを感じました。

学徒の話をするときにいつもいう言葉ではあるのですが、学徒隊はなにもひとつではなかったという事実。沖縄戦に於いて2,000名を超える学徒が従軍し、志半ばにして多くの少年少女が斃れました。それから71年が経過し、沖縄と言うと〝基地問題〟というレッテルが貼られてしまい、史実を見ることが少なくなってきているように思えてなりません。史実を知ることによって未来を語ることがなされないで本当の〝反戦問題〟は語れないのではないでしょうか。戦争という暗黒の時代を経て、沖縄は27年もの間戦時統治が行われていました。考え方によれば戦後71年と言うのは内地の人間のことであり、沖縄では44年という言い方もあるやも知れません。

解釈は色々とあるとは思います。しかし未来に渡る話は過去の教訓を生かせてすればぶれることはないようにも思うのですがそうでもないのが現実です。正直言うと個々の戦跡を取り上げて紹介するより、人の流れで書いた方がわかりやすいのかもと思って書き始めたものの、諸々の理由から訪れることができないところもあり、その理由を聞くと…というものが結構あることを知りました。きれいごとではありますが、戦跡保存とひとことで言えるのは私が普段の生活を沖縄でしていないからかも知れません。生活を快適にする手段として戦跡を崩さなければならないことを全て〝不許可〟にしていれば、結局のところ不便な生活を強いる原因になってしまうかも知れません。

慰霊祭に参列させて頂いてその生き残りの方々の想いを聞くことができました。しかしそれを取り上げているマスコミの表記に間違いがあったりと、せっかくのものを台無しにしているところもあります。記事になれば何でも良いのかも知れませんが、第24師団隷下の第一野戦病院と第二野戦病院をひとまとめに書かれたものが存在し、それによって学徒をひとまとめにして説明している輩もいた事実もあります。

今現状で私が訪れることができる場所で白梅学徒隊の足跡が辿れるのは以上です。今後史跡を取り巻く環境が変わって、新たな場所を訪れることができたならばそれを追加していくこともあるかと思います。

これにて〝第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。


≪訪問日≫
① 平成28(2016)年3月1日火曜日
② 平成28(2016)年4月16日土曜日
③ 平成28(2016)年6月22日水曜日
④ 平成28(2016)年6月23日木曜日

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター

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