2016/03/01 - 2017/06/23
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
〝第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~〟
沖縄県立第二高等女学校、沖縄戦に於いて動員された学徒隊のひとつである白梅学徒看護隊を結成し従軍した女学校生徒は校章から戦後〝白梅学徒〟と呼ばれ現在に至っています。
沖縄県立第二高等女学校は明治38(1905)年に〝女子技芸学校〟として久茂地に開校したことに歴史が始まり、大正10(1921)年に那覇市久米の松尾山(マチューヤマ)に新校舎が完成して那覇市立実科高等女学校に昇格します。その後大正13(1924)年に那覇市立高等女学校となり、昭和3(1928)年4月に沖縄県立第二高等女学校に昇格しました。しかし昭和11(1936)年4月には放火による火災で校舎の大半が焼失し、昭和15(1940)年2月に新校舎が落成しましたが、昭和19(1944)年10月10日の沖縄大空襲(十・十空襲)により校舎は完全に焼失する。それ以降生徒たちは付近の焼け残った県庁官舎を仮校舎として勉学に励むものの、沖縄守備第32軍の軍命により学徒看護隊員として昭和20(1945)年2月から四年生の看護教育が始まることになりました。
当時沖縄県は女子の動員に抵抗していましたが、結局第32軍に押し切られ、15~19歳の女子学徒は看護要員として野戦病院に送られることになりました。このうち沖縄県立第二高等女学校生徒から構成された〝白梅学徒看護隊〟は昭和20(1945)3月6日56名の四年生が従軍補助看護婦として、縄県立第二高等女学院の4年生56人が、1945年(昭和20年)3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、東風平(こちんだ)国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊(山3486部隊の内務班)に入隊し看護学を受講するもするものの、3月23日から沖縄本島南部に艦砲射撃が始まり、その日をもって看護学習は18日間で打ち切られ、翌3月24日には八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院(山3486部隊)に配属されることになります。そのうち3月25日と27日に引率教師を含む9名が諸々の理由で除隊となり、最終的に46名の生徒が入隊しました。
この第24師団第一野戦病院本部壕と手術壕が現在の八重瀬公園にあたる場所になります。
4月に入ると沖縄島中部戦線で日米両軍の戦闘が始まり、前線から多くの負傷兵が送られてくることとなります。そのため第24師団第一野戦病院が多くの負傷兵で手狭になったこともあり、4月下旬には新城分院として〝ヌヌマチガマ〟が使われることになり、軍医1名・看護婦1名・白梅学徒隊3名を派遣し開設されました。その後軍医1名と学徒隊2名が新たに新城分院へと移動し、最終的には軍医2名・看護婦1名・学徒隊5名体制で治療にあたったとされています。ヌヌマチガマでは閉鎖されるまでの1ヶ月余りの間に〝炊き出しなどの要員〟地元女性の動員が行われ、女子学徒らの不眠不休の勤務で、中部・首里戦線から送られてくる負傷兵の治療が行われたとされています。しかし負傷兵は最も多い時で1,000名を越えたと言われ、人員と薬品の不足で治療と呼ぶにはほど遠かったことが現実でした。
その後戦況は悪化の一歩を辿り、第32軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退するにあたり、野戦病院にも撤退命令が出されることになります。その際6月3日にはヌヌマチガマは閉鎖されることとなり、その際に自力で動けない重症患者500余名を処置したとの記録が残っています。しかし6月4日に第24師団第一野戦病院に到着した学徒達を待ち受けていたのは〝学徒隊解散命令〟でした。首里が制圧されて南部戦線へと移動の渦中にあったその時点での解散は、米軍の猛攻の中に学徒らを投げ出すことを意味するものにしかほかなりません。一説には既に戦況が決したと考える将兵が、先ある学徒を道連れにするに忍びなかったとする説もあるものの、やはり砲弾が飛び交う戦地で〝どうやって?〟〝逃げるか?〟と考えることそのものが不可能なことであり、結果として野戦病院を離れた学徒のうち8名が途中で戦死されています。
残った学徒隊の少女達が少数のグループに分かれ、どのようなコンタクトがあったのかは不明ですが、16名が現在の糸満市国吉にある〝白梅学徒自決之壕(白梅之塔下の壕)〟と〝白梅之塔上の壕〟へと辿り着きます。しかし司令官を殺害された米軍の執拗な攻撃は、抵抗する手段を持たない16歳の少女達にも向けられました。
昭和20(1945)6月21日、白梅下の壕が〝馬乗り攻撃〟を受け6名が戦死、翌22日には白梅上の壕にて2名が戦死。そして重度のやけどを負った1名がその後死亡し、46名の学徒隊のうち17名が戦死されました。
その後諸説はあるのですが学徒生存者は捕虜として確保されたということで話が終わっているものが多いようです。
戦後を迎え、同世代の男子高校生達ととひとりの石工さんの手によって作られた初代〝白梅之塔〟。自決之壕や上の壕から出土したご遺骨を納めた納骨堂が作られました。そして昭和22(1947)1月に自然石の小さな碑を建て第1回の慰霊祭が行われたことに慰霊祭が始まり今年平成28(2016)年で七十回目を迎えました。多くの学徒慰霊碑に纏わる問題として、参列者の高齢化が挙げられます。現代の科学をしても加齢を止めることはできないので、多くの学徒隊の慰霊碑では公式の慰霊祭としてはけじめをつけるために終わらせたものも多くあります。白梅同窓会長の中山キクさんも御年87歳になられ、挨拶の中にそのことを含む内容を語られてはいましたが、その一方でできる限りのことをして行きたいとの意気込みを語っておられました。
その心意気には同級生を失った悲しい気持ちを持たれていると思えるとともに、その学友が今でも後押しをしている…。その後押しがある以上止められないという〝覚悟〟に似たお気持ちを感じました。
学徒の話をするときにいつもいう言葉ではあるのですが、学徒隊はなにもひとつではなかったという事実。沖縄戦に於いて2,000名を超える学徒が従軍し、志半ばにして多くの少年少女が斃れました。それから71年が経過し、沖縄と言うと〝基地問題〟というレッテルが貼られてしまい、史実を見ることが少なくなってきているように思えてなりません。史実を知ることによって未来を語ることがなされないで本当の〝反戦問題〟は語れないのではないでしょうか。戦争という暗黒の時代を経て、沖縄は27年もの間戦時統治が行われていました。考え方によれば戦後71年と言うのは内地の人間のことであり、沖縄では44年という言い方もあるやも知れません。
解釈は色々とあるとは思います。しかし未来に渡る話は過去の教訓を生かせてすればぶれることはないようにも思うのですがそうでもないのが現実です。正直言うと個々の戦跡を取り上げて紹介するより、人の流れで書いた方がわかりやすいのかもと思って書き始めたものの、諸々の理由から訪れることができないところもあり、その理由を聞くと…というものが結構あることを知りました。きれいごとではありますが、戦跡保存とひとことで言えるのは私が普段の生活を沖縄でしていないからかも知れません。生活を快適にする手段として戦跡を崩さなければならないことを全て〝不許可〟にしていれば、結局のところ不便な生活を強いる原因になってしまうかも知れません。
慰霊祭に参列させて頂いてその生き残りの方々の想いを聞くことができました。しかしそれを取り上げているマスコミの表記に間違いがあったりと、せっかくのものを台無しにしているところもあります。記事になれば何でも良いのかも知れませんが、第24師団隷下の第一野戦病院と第二野戦病院をひとまとめに書かれたものが存在し、それによって学徒をひとまとめにして説明している輩もいた事実もあります。
今現状で私が訪れることができる場所で白梅学徒隊の足跡が辿れるのは以上です。今後史跡を取り巻く環境が変わって、新たな場所を訪れることができたならばそれを追加していくこともあるかと思います。
これにて〝第二十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。
≪訪問日≫
① 平成28(2016)年3月1日火曜日
② 平成28(2016)年4月16日土曜日
③ 平成28(2016)年6月22日水曜日
④ 平成28(2016)年6月23日木曜日
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
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沖縄県立第二高等女学校跡に建立された?白梅の乙女たち?の像。
(2016年6月22日撮影)松山公園 公園・植物園
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沖縄県立第二高等女学校跡に建立された?白梅の乙女たち?の像。
(2016年6月22日撮影)松山公園 公園・植物園
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沖縄県立第二高等女学校跡に建立された?白梅の乙女たち?の像。
(2016年6月22日撮影)松山公園 公園・植物園
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沖縄県立第二高等女学校、学舎。
松山公園 公園・植物園
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白梅学徒の軌跡。
(2016年6月22日撮影) -
第24師団第一野戦病院と白梅学徒隊。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)への道のり。倒木もあったりと…。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)への道のり。ほとんどけもの道です。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)入口。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)入口。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)内部の様子。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)内部の様子。
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院本部壕(のひとつ)内部の様子。
(2016年4月16日撮影) -
白梅学徒看護隊の足跡巡り
県立第二高等女学校白梅学徒隊軍属従軍の地
第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕と手術壕跡
八重瀬町教育委員会・白梅同窓会
(2016年4月16日撮影) -
陸軍第24師団第一野戦病院手術壕への入口。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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白梅学徒看護隊之壕という石碑はふたつあります。ひとつはここでもうひとつはヌヌマチガマ(第24師団第一野戦病院新城壕)にあります。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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ここで白梅学徒看護隊之壕とは、第24師団第一野戦病院手術壕のことを指します。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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第24師団第一野戦病院手術壕への通路。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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第24師団第一野戦病院手術壕への通路。この付近に患者がもたれかかっていたそうです。
学徒生き残りの方々がガイドをしてこちらに来られた際は、通路端を踏まないように注意されます。この場所には順番待ちをする多くの兵士がもたれ掛かり、血や汗、そして遺骨が土に染み込んでいるという配慮からです。個人で訪れる際も気を付けて下さい。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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第24師団第一野戦病院手術壕内部の様子。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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第24師団第一野戦病院手術壕内部の様子。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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第24師団第一野戦病院手術壕内部の様子。慰霊の木柱が見えます。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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第24師団第一野戦病院手術壕内部入口付近にて。巨岩が今にも落ちてきそうな鬱蒼とした場所でした。
(2016年4月16日撮影)白梅学徒看護隊の壕 名所・史跡
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ヌヌマチガマ(陸軍第24師団第一野戦病院新城分院)です。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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白梅学徒看護隊の足跡めぐり
ヌヌマチガマ
県立第二高等女学校 学徒看護隊軍属従軍の地
第24師団(山部隊)第一野戦病院新城分院の跡
白梅同窓会
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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沖縄県立第二高等女学校の校章。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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八重瀬町戦争遺跡公園
ヌヌマチガマ・ガラピガマ
世界恒久平和を祈念する
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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八重瀬町戦争遺跡公園 ヌヌマチガマ・ガラピガマ。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマ手術壕への入場について。しかしこちらの団体に頼んでも入壕することはできません。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマ手術壕の入口の痕跡。以前は立ち入りをご遠慮下さいとの標記だったそうですが、その指示を無視し継続して利用していたためにこのような措置になりました。
(2016年6月24日撮影) -
ヌヌマチガマ入口。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマへの通路。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマへの通路。残念ながら現在では個人で入壕することはできません。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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現在のヌヌマチガマの入口。
(2016年6月24日撮影)ヌヌマチガマ 名所・史跡
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白梅之塔上の壕(2016年4月16日撮影)。
八重瀬岳の第24師団第一野戦病院を後にした白梅学徒隊の数名がたどり着いた先でした。しかし昭和20(1945)年6月22日に米軍の馬乗り攻撃を受け学徒2名が戦死し、重度の火傷を負った1名がその後亡くなられました。 -
白梅之塔上の壕は落盤が激しく…。(2016年4月16日撮影)
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今では入壕することができません…。(2016年4月16日撮影)
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白梅之塔上の壕の碑がある場所から眺めて手を合わせます…。
白梅の塔 上の壕
左の竪穴は、沖縄戦当時 軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
昭和二十年六月二十三日 米軍の攻撃を受け、軍人、白梅隊員および一般住民が死傷した。
昭和六十三年六月 白梅同窓会
(2016年4月16日撮影) -
白梅之塔敷地内にある南禅広寺。その脇に白梅自決之壕へと続く階段があります。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕。
(2016年4月16日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕へと入ってみます。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕へ入るには、暗黙の決まりがあります。まず入壕時に女子は入口で立ち止まり手を合わせます。そして男子は階段を降り切る2・3段手前で立ち止まり手を合わせます。
宗教儀式のようですが16・7歳という多感期の少女が眠りについている場所ゆえ、女子は?今からお参りします?との意思表示を。そして男子はその少女の眠っている場所にいきなり入るのではなく、女子同様に?今からお参りします?との意思表示をするためとなっています。うら若き少女の部屋にいきなり入ることはやはり不躾だと感じるためそのようにされているとのこと。特に夫婦を含めたカップルには、戦死した学徒が妬むことも考えられると言われています。
直線的に降りる階段ゆえ、祭壇に映る影が見えています。勢いに任せて降りてしまいがちですが注意しましょう。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、祭壇。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、祭壇。1ヶ月半後に訪れた時のものですが、ひな祭りの人形が置かれています。
(2016年4月16日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、壕内部の様子。
(2016年4月16日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、壕内部の様子。黒くなっているところは火炎放射器によって焼かれたところになります。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、壕内部の様子。
(2016年4月16日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、壕内部の様子。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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白梅学徒看護隊自決之壕、壕内部の様子。白くなっている部分は金属が溶けた跡になります。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕、壕内部の様子。
(2016年3月1日撮影) -
白梅学徒看護隊自決之壕。壕内部の様子ですがこのコーラの缶はお供えなのかそれとも空き缶なのか…。。
(2016年3月1日撮影) -
自決之壕から見た外の様子。
この景色は70余年前に学徒の少女たちの目にはどのように映っていたのでしょうか…。知ることはできないし、また知る必要もないのかも知れない…。 -
白梅之塔。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
祭壇両端を護る優しいお顔の地蔵さま(左)。平成25(2013)年4月7日に窃盗被害にあったものの付近で発見されました。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
祭壇両端を護る優しいお顔の地蔵さま(右)。盗難時に中山きく白梅同窓会長が「わったー(私たち)が何をしたのか。こういうことは慎んでほしい」を語ったことが新聞記事に掲載されました。
しかし紛失という書き方はどう考えてもおかしいのではないでしょうか?たちの悪い悪戯でしかないのでは。重さが20kgあり、糊付けされているものがすぐに取り外せるかどうか普通に考えればわかるはず。こんな悲しくばかげた仕打ちは本当にやめてもらいたい…。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔、祭壇。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名、記銘碑。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔【碑文】
沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六名で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦として特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十二年一月に建立した。
毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
平成十年 六月二十三日
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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初代白梅之塔。(2016年4月16日撮影)
白梅の塔 名所・史跡
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初代白梅之塔、背面に刻まれている句碑。
散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
元教諭 金城宏吉
昭和二十二年一月建立
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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初代白梅之塔と納骨堂。
(2016年4月16日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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第七十回白梅之塔慰霊祭。
平成28(2016)年6月23日木曜日14:00〜。白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
第七十回白梅之塔慰霊祭パンフレット、表紙。
白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
第七十回白梅之塔慰霊祭パンフレット、式典プログラム。
白梅の塔 名所・史跡
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第七十回白梅之塔慰霊祭の様子。
(2016年6月23日撮影)
https://youtu.be/Or1DU4F__0Q白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
第七十回白梅之塔慰霊祭、慰霊祭協力会の活動。
白梅の塔 名所・史跡
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第七十回白梅之塔慰霊祭にて。白梅学徒の足跡に携わった沖縄尚学高校の生徒さんへの感謝状授与。
(2016年6月23日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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第七十回白梅之塔慰霊祭にて。白梅学徒の足跡に携わった各種団体の方々への感謝状授与。
(2016年6月23日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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第七十回白梅之塔慰霊祭にて、白梅同窓会長中山きくさんのご挨拶。
(2016年6月23日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
第七十回白梅之塔慰霊祭にて、白梅同窓会長中山きくさんのご挨拶。
健康に気を付けて本当に長生きして下さい。
(2016年6月23日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
第七十回白梅之塔慰霊祭パンフレット、県立二高女校歌。
白梅の塔 名所・史跡
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イチオシ
第七十回白梅之塔慰霊にて、白梅之塔。
安らかにお眠りください…。過ちは繰り返しませんので。
(2016年6月23日撮影)白梅の塔 名所・史跡
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第七十一回白梅之塔慰霊にて、白梅之塔。
今年も訪れることができました。
(2017年6月23日撮影) -
第七十一回白梅之塔慰霊にて、白梅之塔。
白梅同窓会中山きく会長と武村豊副会長。
(2017年6月23日撮影) -
第七十一回白梅之塔慰霊にて、白梅之塔。
白梅同窓会中山きく会長と武村豊副会長。
(2017年6月23日撮影) -
第七十一回白梅之塔慰霊にて、白梅之塔。
白梅同窓会中山きく会長から、同窓会主催の慰霊祭は今年で終わることが告げられました。
(2017年6月23日撮影)
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旅行記グループ あみんちゅ戦争を学ぶ旅
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