徳山・周南旅行記(ブログ) 一覧に戻る
回天とは太平洋戦争に於いて大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍最初の特攻兵器である。回天という名称は海軍特攻部長大森仙太郎が幕末期の軍艦〝回天丸〟から取って命名したとされ、また開発に携わった黒木博司海軍機関中尉(後に大尉・殉死により少佐)は、〝天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)〟という意味で〝回天〟という言葉を使っていたと言われています。<br /><br />太平洋戦争末期に劣勢の続いていた日本海軍が武器として余剰となっていた『九三式酸素魚雷』を転用し、搭乗員が乗れるようにして自走することができるように改造された『特攻兵器』になります。それ以前にも真珠湾攻撃にも投入された小型特殊潜航艇『甲標的』という蓄電池式の潜航艇が昭和初期に発案・開発されました。しかし開発に携ったのが魚雷開発畑の人間だったこともあり、潜水艇というよりも〝操縦者付魚雷〟としての要素が強いものとなっています。<br /><br />ただ当時の海軍としては〝必死兵器〟を取り入れない伝統があったとされており、魚雷肉攻案とはいえ、小型の潜航艇から発射する魚雷攻撃を行うものとして開発が進められて行きました。開発中にも色々と難点はあったものの日米開戦が時間の問題となる中で、甲標的の量産化に向けて改良が加えられて行く中では、やはり体当たり兵器ではないと言うことが開発の必須条件だったとは言われていたようです。つまり潜水艦に比べレーダーに感知されることの少ない小型潜航艇である甲標的からの魚雷攻撃を仕掛け、攻撃が終わると甲標的を母艦が回収するとの考えに基づいての戦法を取るというものだったようですが、どうやらここで大きな錯誤があり、日露戦争型の戦場を想定していたためにこのような考えがなされていたに過ぎませんでした。戦争の形態が艦隊主体ではなく既に航空戦力が主体となれいつつある時代を迎えており、艦隊決戦に於いて敗北を期したときに於ける甲標的の回収が不可能となることをほとんど考慮してはいなかったようです。<br /><br />航空戦力が主体となる戦いに於いて甲標的による洋上攻撃が難しいとの考えが出る中で、泊地に於ける潜入攻撃を目的とする案が提出されることとなります。それは開発途上の甲標的に長い航続距離が望めないため、作戦地点までは伊号潜水艦の後部甲板に載せて輸送し港外にて甲標的を発進させて攻撃終了後に母艦と合流し、搭乗員のみ収容した後に装備の爆薬を用いるなどして自沈処分するというものでした。<br /><br />昭和15(1940)年には試製甲標的が各種陸上試験と性能の調査に加えて潜水艦母艦からの発進試験が行われますが、一定の攻撃評価はされたものの洋上での基礎的な攻撃能力には疑念が持たれたままとなっていました。一説によると主な投入(予定)方法となる港湾襲撃に関しても性能の不足が懸念されており、実戦への投入が意をなさないものだといった意見もあったようです。実際に試験搭乗員の中には甲標的が実用に耐えられないと具申した者もいたようです。しかしそのような意見は結局のところ上層部が取り上げることはなく、意見した者が試験後に転出させられたという記録も残っています。そのような背景の中で甲標的は量産化されることとなりますが、結果として太平洋戦争の開戦までは僅か1年しかない中で兵器としての熟成や欠点の洗い出し、そして戦術の確立などといった戦力化するにあたっての問題解決を行うには到底十分な研究や改善・実験が行われることはなかったのが事実でした。それにも関わらず結局年内には兵器として『甲標的』は正式採用されることとなっています。<br /><br />日本時間の昭和16(1941)年12月8日、日本海軍の機動部隊がハワイオワフ島の真珠湾を奇襲します。そこに投入された甲標的5隻でしたが、湾内には全て侵入できた説を信じるとしてそのうち1隻から発射された魚雷が戦艦 ウエストバージニア(West Virginia)とオクラホマ(Oklahoma)に命中し、戦艦オクラホマ撃沈の致命傷を与えたとされています。しかし甲標的が母艦に帰還することはなく、3隻が撃沈され雷撃を加えた1隻は自沈し1隻は座礁した結果5隻全てが未帰還となっています。<br /><br />そして昭和17(1942)年5月30日のシドニー港攻撃では3隻が投入されるも2隻が自沈、1隻は魚雷攻撃を受け沈没しています。また同時期のマダガスカルの戦いでは2隻が投入され、戦艦1隻大破・油槽船1隻撃沈の成果を得るも1隻は座礁した後に搭乗員2名は地上戦で戦死し1隻は撃沈されて2隻とも未帰還となっています。つまり真珠湾奇襲に始まり、日本軍の勝利が巷に流されていた時期に投入された小型特殊潜航艇甲標的は全て未帰還となっている事実は〝知らされてはいなかった〟ということになります。<br /><br />また実戦投入されて判明した水中に於ける〝運動性能の悪さ〟は、低速でも大型艦並みの約400mの旋回範囲を要するため小回りは効かず、水中での最高速度は19kt(約35km/h)とは言うものの1時間はもたないレベルであり、現実的な実行速度としては10kt(約18km/h)程度だったとされています。特に初期の甲標的甲型の航続距離は6kt(約11km/h)で80海里(約150km)程しかありませんでした。それも蓄電池しか搭載されていない甲標的甲型に於いては〝フル充電〟されていてはじめて上記の性能が発揮できるというものであったがため、なんらかの理由で電力の供給が遮断された場合には、ただの〝鉄の塊〟となってしまうものでした。搭乗員自ら解決できないことがシドニー港攻撃に投入された甲標的の1隻に起こってしまった事実があり、その解決策を講じることは不可欠となりながらも結局放置されたまま量産されることとなります。<br /><br />その解決策を考案して実践したのが、後に人間魚雷回天を特攻兵器として具申をした黒木博司機関大尉(殉死後:少佐(以下同))と仁科関男中尉(戦死後:少佐(以下同))でした。黒木大尉は甲標的の機能改善にあたり自らの得意とする機関部に目を付けて、ディーゼルエンジンの発電機を搭載し自家充電を可能とします。これによって改良された甲標的丙型は航続距離が3.5倍になり、それが実戦投入されることにより帰還率も向上するという結果をもたらしました。しかし良いことばかりでもなく、限られた空間に設置されることにより元々劣悪だった艇内環境が更に悪くなり、内燃機関を発動することによって発する二酸化炭素や排ガスの増加・酸素の欠乏・艇内温度の上昇などによって搭乗員の疲労が増すこととなり、結果として潜航では12時間が限界だったとされています。<br /><br />また小型潜航艇は敵艦にレーダーに捕まらないメリットはあったものの逆にデメリットも少なからずありました。荒天時の攻撃力は良好だとは言われていたものの現実には小型潜航艇の安定度は低いものであったと考えて間違いないでしょう。搭載された魚雷は普段発射管に収められておりそこへ空気を注入して射出することとなります。魚雷を撃ち出した際に1t近い浮力が生じるためそれによって艦首が跳ね上がり海面へ飛び出すなどしていた記録も残っています。加えてこの不安定な挙動のために魚雷もあらぬ方向に撃ち出されてしまい、結局狙った方向へ進まないという事態も頻発しています。<br /><br />この不安定な挙動が収まるまでには30秒程度の時間を要しており、加えて不安定な状態で再発射しても正確な方向に魚雷は向かわないことから、雷撃の基本とも言える複数の魚雷を連続発射し、その魚雷散布の中に敵艦を入れるといった公算射法は行えずに単発発射を行うしかありませんでした。このような理由から敵艦に対する最適発射距離は約800mとされていたようです。<br /><br />また甲標的は攻撃の前提となる外界に於ける索敵装備が長さ約3mの特眼鏡が一本しかありませんでした。電探・ソナーとも搭載されてはおらず、常に揺れる狭い視界に於いて目視で索敵を行うのは非常に困難だったと言われています。また3mという短い特眼鏡では必然的に浮上して敵艦艇を探さねばなりませんが、特に外洋の波の高い場所ではトリム(海中に於ける甲標的の位置的バランス)を維持するのは至難の技であり、一定の深度を保てないまま特眼鏡を使用できる露頂深度まで浮上してしまうと司令塔を露出してしまって敵に発見され、結果として目的を果たせず撃沈された甲標的も少なくはなかったと言われています。<br /><br />また敵艦を発見し攻撃を加えるにあたっては、目標の進行方向や速度などから魚雷発射の方位やタイミングを算定するのが艇長の暗算のみに頼るといったものであり、加えて劣悪な艇内環境だったことも踏まえると集中力にかけた状態での命中率はたかが知れたものだったというのが事実だったようです。<br /><br />その後改善は研究され続けたものの日本軍の拠点がどんどん失われる中で、フィリピンセブ島に置かれた第33特別根拠地隊では内海という地の利を生かせることも手伝って、戦果はともかく安定して攻撃と生還を続けることができたとの記録は残っています。しかし甲標的搭乗員は既に装備している雷装による攻撃や設備上の欠陥、そしてそれに基づく作戦遂行の難しさを理解しており、これで戦果を出すことそのものに疑問を抱くと同時に不満が噴出していたようです。既に制空・制海権が連合国に奪われていたご時世に於いて、元々は装備の雷装による攻撃を加える艦艇であり、その船体は搭乗員回収後に機密保持のために自爆させるための爆装を備えるという発案で開発されたもののはずが、魚雷という兵器に操縦席を設けて自走魚雷とする特攻兵器回天の開発につながって行くことになります。<br /><br />周南市大津島。徳山港からフェリーで約40分の場所にあり瀬戸内海にぽっかり浮かんでいる小さな島です。高齢者の数が多く〝限界集落〟としても知られていますが、その分自然に溢れた場所となっています。<br /><br />そんな大津島に終戦間近の昭和19(1944)年、人間魚雷回天の基地が作られました。元々海軍呉工廠で作られ〝余剰〟となっていた〝93式酸素魚雷〟を転用し、人間の手によって操縦できるような仕様にして敵艦艇に体当たりをして破壊する〝究極の特攻兵器〟として開発されたものが〝人間魚雷回天〟になります。昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北以降劣勢の続いていた日本海軍の起死回生のために開発が始まったものですが、当初海軍上層部には〝生きては帰れない兵器〟の採用には強い憂いを持っていました。しかし時代の流れはそれすら変えてしまい、脱出装置をつけることが〝兵器採用〟の条件とされていたにも関わらず、開発の難しさから断念しそのまま兵器として採用されることとなります。そして海軍兵学校や予科練出身の400名もの若者が〝志願〟して搭乗員となるべく全国から集まりました。<br /><br />回天のベースとなった93式酸素魚雷の搭載炸薬量が最大780kgでしたが、回天は1,550kgの炸薬を装備しておりその破壊力は大型艦船でも一発で撃沈できるとされていたようです。それに加え操縦席には〝自爆装置〟が備え付けられていたことから、搭乗員の意思に関わらず最終的には〝自爆〟するものとなっていました。ハッチは艇内から開けられるものの外部からも工具で開ける必要があり、一般的に誤解されている脱出不可能ではなかったものの、決して現実的な方法ではなく、また一旦発射すれば〝回収〟を行うことは不可能であったことから文字通り〝片道切符の特攻兵器〟だったことは疑う余地がありません。<br /><br />昭和19(1944)年11月20日、米軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地(現ミクロネシア連邦ヤップ州)に於いて、伊号第36潜水艦(搭載4基のうち1基)と伊号第47潜水艦(4基)搭載の回天一型〝菊水隊〟計5基が環礁内北部泊地に停泊中の米軍艦艇を攻撃し、戦果として米海軍給油艦Mississinewa(ミシシネワ)の左舷に一基の回天が命中し轟沈させました。しかしこの情報は戦後に確認されたものであり、一説には回天生みの親のひとりである仁科関夫中尉だと書かれているものもあるものの、実際には誰が乗り組んでいた回天が命中したものなのかは現在でも判明していないのが事実です。当時は〝戦艦〟を轟沈したとの戦況報告がなされたものの、実際には〝大型給油艦〟を轟沈させたものであり、その理由として〝形が似ていた〟給油艦に向かって行ったこと〝だろう〟との説が濃厚となっています。この菊水隊の戦況報告として残りの3基の回天が何らかの艦艇に命中し大打撃を与えたとされてはいるものの、その海域を取り巻く環境や時系列から判断すると、日の出より1時間20分も早い時刻に於ける最初の大爆発は闇の中の出来事であり、暗闇の中果たして搭乗員が〝目標〟を捉えることが可能であったか?との説によるものです。奇襲攻撃の〝秘匿〟という観点から早期の自爆は敵に警報を出すことになり、そのため攻撃開始時刻前の自爆は命令上〝してはならない〟とされていました。しかしその反面〝兵器の秘匿〟も今後の作戦への障害を考慮されていることから、浅瀬で座礁してしまった回天の搭乗員は〝艇内への浸水〟若しくはその他の理由により、戦術を含めて選択の余地がなかったのではないかと考えられており、その結果として〝早すぎる自爆〟が必然的に選択されたとされています。<br /><br />その後正午近くになって大爆発があったことが記録されています。発射後7時間を経過した回天はやはり浅瀬のサンゴ礁に於いて座礁したものの、機会を見つけて敵艦艇もろとも爆発させようと考えていたようです。しかし体力的な限界を迎えてしまい最後は自爆したのではと考えられています。この7時間という時間は訓練中の事故によって殉死した発案者のひとりである黒木博司大尉がその遺書に認めたものと合致しています。遺書には2人搭乗の場合と書かれてはいるものの、訓練時とは違い実戦に於いて座礁したのであれば艇内が浸水したことも含めれば酸素が予想以上に減ることは容易に想像できることだと考えます。<br /><br />また他の一基の回天はウルシー泊地東のムガイ水道に於いて、東北東へと浮上航走しているところを警戒中の掃海艇に発見されています。その後島影を見つけ反転し真南へと進む〝潜望鏡〟が駆逐艦Case(ケース)に発見されるものの米第五巡洋艦戦隊旗艦である重巡洋艦Chester(チェスター)を攻撃しよう目論見ます。魚雷発射のために占位運動中と判断したケースは潜望鏡が(ケース側ではなく)チェスターを向いたままであるのを見て〝体当たり〟しての駆逐を決定し、浮上航走中の潜航艇に艦首を向けてその左側から乗り切って中央部を切断し、続いて旋回しつつ機雷を投下しました。<br /><br />この回天のその後は不明となったままになりますが、この艇のとった攻撃パターンは元々の用途としては考えられていないものでした。つまり泊地に於いて停泊中の敵艦を奇襲攻撃する構想のもとに回天自体が作られたものであって、航行中の艦艇の攻撃を意図してはいませんでした。それゆえに搭乗員は〝最高の目標〟を〝一方的に選んで突撃〟すればよいと確信していたところもあり、目標艦以外の警戒とか敵弾回避や爆雷攻撃に配慮することなどは搭乗員も考えておらずまた注意も受けていなかったことが挙げられます。また体当たりをする筈が逆に体当たりをされてしまったことも想定外の出来事であり、加えて発射後2時間を経過していたことから座礁せずに航行することを続けていた搭乗員自身かなり疲れていたことも考えられています。<br /><br />直径1m程の回天操縦席に於いて一人暗闇の世界にジャイロコンパスひとつで潜行し、目標艦を見つけるも命中と同時に自動的に爆発させる慣性信管・手動電気スイッチ・安全装置すべてがこの回天に於いては解除されていなかったことが確認されており、搭乗員にはその余裕すらなかったのではと考えます。その一方で回天に体当たりを仕掛けた駆逐艦ケースからすると、九死に一生を得たことには違いありません。当然のことながらまだ〝回天〟というものが知られておらず、1時間程前に起こった大爆発の原因にまさか体当たりを仕掛けることは、〝知らない〟からできたことに他ならないと考えることが答えではないでしょうか。<br /><br />そして一基の回天はMississinewa(ミシシネワ)を捉えて沈没させています。同様にもう一基泊地内に侵入した回天は軽巡洋艦Mobile(モービル)に向けて突進しているところを発見され、モービル艦載の5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を受けました。機銃弾の命中と5インチ砲弾の至近弾を被弾したことにより潜航艇は潜入して行き、その後水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が同艦左舷正横に近付くも50m程で見えなくなったと記録されています。勿論この際にはまだ〝回天〟の存在は知られておらず、魚雷なのか潜水艇なのかわからない状態に於いて、モービルからは〝魚雷が艦首の下を通り抜けた〟との通報がなされたようです。そのため出動可能な護衛駆逐艦群が出航し警戒に当たりますが、間もなく南側に錨泊中の軽巡洋艦Biloxi(ビロクシ)との間の海面に直径7~8m程の〝滑らかな水面をした変わった渦〟を発見します。渦の中心部分で海水が旋回運動をしているように見えたとされる渦は、モービルの真横から全速突撃に入った回天が前部に受けた40mm機銃弾の炸裂によって出来た破孔から浸水し前が重くなっていたためか、或いは横舵系統を破壊されたかによってそのまま水深42mの海底に真っ逆様に突入した後、燃料の続く限り全速回転を続ける〝スクリュー〟が海水を攪拌して海面まで渦が届いていたものではないかと考えられています。その渦を横切るようにして航行した複数の駆逐艦(艦艇不明)から爆雷攻撃が加えられ、小一時間後には完全破壊されたと記録されています。その際に連続投下された爆雷の衝撃によって回天のハッチが開き、艇内に残っていた空気とともに搭乗員と日本文字の書かれた〝某(座布団説)〟が海面に上がってきたことが〝魚雷ではないもの〟であったとされている理由になっているようです。一説には浮き上がった搭乗員は〝泳いでいた〟とする記述も見受けられるもののそれを確定する根拠もなく、戦死した搭乗員も誰なのかはわかっていません。<br /><br />この戦闘に於いて母艦から5基の回天が発射され、艦艇に命中したのは僅か1基に過ぎません。しかも戦果は戦艦と形の似ている〝給油艦〟でした。その戦果も戦後の話であり〝どのようにして戦艦轟沈〟に仕立て挙げたのかは、戦時中なので…の理由になってしまうのでしょうか。<br /><br />通常回天はハッチを閉めると、操縦席は電球一つの暗い空間しかありませんでした。身動きの取れない密室で回天を操るのは困難を極め、かつ攻撃時には水深5mで航行して目標に接近し一度浮上して目標物の位置を確認しなければなりません。勿論この際に敵から発見されないようにわずかな時間で確認することが求められており、その後は何も見えない中でコンパスと時計だけを頼りに突き進んで行くこととなります。実際に訓練では海底に突入する或いはエンジンが止まるなどの事故が続出しており、実戦投入を前に黒木博司大尉他15名の殉死者を出しています。そのような状況下でほとんど改善策を取られることもなく実戦に投入された回天でしたが、当然出撃を繰り返すも犠牲者ばかりを増やし大きな戦功を得られることもなかったようです。<br /><br />そして沖縄戦も事実上終結し日本の敗戦が決定していた昭和20(1945)年7月24日午後、フィリピンルソン島沖で回天特攻隊〝多聞隊〟の回天6基を搭載した伊号第53潜水艦が米軍輸送船団を発見しますが、戦闘準備が整った時には既に船団は通り過ぎた後であったため魚雷や回天で攻撃するにはあまりにも無理な体制となっていました。そのような理由から艦長大場佐一少佐は魚雷発射・回天発進ともに諦めようと考えますが、回天搭乗員たちが発進を強く希望したこともあり、回天多聞隊隊長勝山淳中尉(戦死後:少佐(以下同))艇の発進を決定します。船団がどんどん離れて行く中で大場艦長は急いで「艦は今敵船舶の後方東側にいる。攻撃目標は輸送船攻撃船」と命令し進出針路・航走時間などを勝山淳中尉に指示しています。指示を受け勝山艇は母艦を発進し敵船団へと突進して行きました。<br /><br />後続の回天の発進は大場艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めます。そして勝山艇の発進約40分後に目標の方向で重厚な爆発音を聴取したため大場艦長は潜望鏡を上げて敵艦が燃えているのを確認しています。その様子は航海長も確認しており、視野一杯に大量の黒煙が立ち上っていたことから回天が命中した相手は油槽船であろうと推定し、一旦現場を離脱したのちに〝大型輸送船一隻轟沈〟と第六艦隊に打電報告しています。実際にはこれが護衛駆逐艦〝Underhill(アンダーヒル)であったのですが、勝山艇が左舷に突入した際の衝撃によって、先ず艦橋右舷で爆発が起きた数秒後に前部弾薬庫が誘爆し、爆発の衝撃によって艦橋は吹っ飛んでいます。船団の中の一艦艇を狙うには情報が少なかったこともあり、旗艦であるアンダーヒルとは認識していなかったことが伺えます。<br /><br />このとき伊53号潜水艇が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦7隻と冷蔵輸送艦〝Adria(アドリア)〟、そして護衛駆逐艦〝Underhill(アンダーヒル)〟他9隻の護衛艦が付いているという大規模なものでした。沖縄に於ける日本軍の組織的抵抗が昭和20(1945)年6月23日に終結し、戦いに参加していた第96師団の兵員と戦車揚陸艦を休養と補給のためにフィリピンに送り届ける任務に就いていた途中でした。船団の隊形は護衛を受ける8隻が2隻ずつ4列の編隊を組みながらその中央の前方3,000mに指揮艦〝アンダーヒル〟が位置して先導し、他の駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながら速力9~10ktで航行していたとされています。<br /><br />回天発射の約20分後大型駆潜艇から旗艦アンダーヒルへ〝潜水艦の情報〟が伝えられます。駆潜艇の周りを行ったり来たりした潜水艦こそ勝山淳中尉の回天であり、約20分浮上と潜行を繰り返した後駆逐艦アンダーヒルへと再突入します。この衝突の瞬間は記述がないものの〝回天の突入〟とともに護衛駆逐艦アンダーヒルが〝体当たり〟を敢行したと思われるような記述も散見します。<br /><br />ウルシーでの駆逐艦ケースによる〝体当たり〟によってその〝魚雷のようなもの〟を撃沈させた教訓から行われた攻撃ではないかとも考えられますが、何れにせよ〝突入モード〟に入った回天に対しては自爆行為に過ぎず、結果アンダーヒルは大爆発を起こします。これが人間魚雷回天の戦績に於いて〝誰〟が挙げたかを特定できる〝唯一の戦果〟となっています。<br /><br />アンダーヒル船上では〝魚雷が突っ込んで来る!〟との叫び声が出た直後に艦橋の右舷で物凄い大爆発が起りました。火柱が300mの高さまで奔騰し、煙は高さ5,000mにまで及んだと記録されています。この爆発により〝アンダーヒル〟は真っ二つに折れ、艦橋は消し飛んだとの記録が残っています。<br /><br />旗艦の爆発を受けて駆潜艇がソナー等で浮かんでいるアンダーヒル後部の艦体の周囲を旋回し、針路をジグザグに絶えず変えつつ潜水艦探索を続けながら短艇を下ろし、海面を泳ぐ生存乗員17名を救助するも再び潜望鏡を発見してことによりエンジン全開で現場を脱出します。そしてしばらく時間を置いた後今度は船体後部に横付けして乗員を収容しようとしましたが、その最中に再びにソナー探知と潜望鏡を確認したために急遽中断して離れています。そのような状況がもう一度あったようですが他艇の援護や周囲警戒の元にアンダーヒルへの横付けをやり直し生存乗員の収容を終えています。<br /><br />回天の攻撃を受けたアンダーヒルは、真っ二つに折れながらも浮かんでいたようです。しかし残った残骸は曳航可能とは判断されたものの、周辺海域に潜む日本軍の〝小型潜航艇〟がソナーで感知され続けたことが要因となり、その海域に留まることが危険と判断されたことにより砲撃処分が決定します。駆潜艇群が全砲火を使って処分を開始し始め、まず傾斜していた艦の前部を、そのあと後部に取りかかったものの時間を要し結果すべて沈め終わるのに2時間を要しています。<br /><br />その後同海域に潜伏し続けた伊53号は、再び船団を捕捉し後方へ離脱した後に戦闘態勢を整えますが、やはり距離と角度の点で魚雷戦や回天戦には不利と判断するも、やはり回天搭乗員からの出撃要請を受けて、川尻勉一飛曹の2号艇のみを発射させます。記録では1時間後に黒煙確認とはなっているものの、該当する艦船の被害記録はないようです。その後元の配備海域に戻る際に米駆逐艦に捕捉されて爆雷攻撃を受けることとなります。休みなく続けられた爆雷攻撃によって主蓄電池が破損したため一切の動力が停止し電灯も消えてしまいます。その際に再び回天搭乗員からの出撃要請を受け、大場艦長もいつまで母艦が持つかとの考えもあり、残存艇による〝回天戦用意〟を命令します。訓練もしていなかった深度40mからの発進となったものの、関豊興少尉(戦死後大尉)の5号艇に次いで荒川正弘一飛曹(戦死後少尉)の3号艇が発射され、それぞれ発射後30分程で目的方向での大音響を感知し、探知の結果周囲の対潜艦艇数が1隻減、推進器音は2隻となった後聞こえなくなったと記録されてはいるものの、漆黒の海の中に於いて爆雷攻撃によってソナーや電探が作動していない中、目視で確認できるものなのかという疑問が残ります。事実爆雷の衝撃によって2隻の回天は機器が故障し発射不能となり、艇内で意識を失っているところを収容されて生還されています。状況的に判断するならばこの3回の回天の発射に続いて起こったのは艇内に設けられている〝自爆装置〟によって起こったものと言うのが正論だと思われます。<br /><br />そして何かと比較論に出される昭和20(1945)年7月30日未明の回天多聞隊を乗せた〝伊58号潜水艦〟による重巡洋艦Indianapolis(インディアナポリス)の撃沈。これも回天の戦果とするものが散在するものの、これは回天搭載の潜水母艦による〝雷撃〟による戦果だということが判明しています。潜望鏡で敵艦艇を戦艦クラスと確認した艦長橋本以行中佐は、取り敢えず回天搭乗員に出撃命令を下すと共に魚雷戦用意の命令を下しています。最初こそは回天による特攻攻撃も考えたものの敵艦を完全に捕捉していることもあり、魚雷による攻撃でも充分と判断し回天での攻撃は取り止めています。回天の特徴を知る橋本艦長は回天の特眼鏡は性能が悪いため夜間の攻撃に向いてはいないと判断します。もっとも回天搭乗員は橋本艦長に対し何度も出撃の催促を行う場面もあったが〝通常魚雷で沈められるときは通常魚雷で攻撃する〟と自身の意見を述べて却下しました。その日の天候は月が出ていて潜水艦の夜間用潜望鏡では視認可能であったものの、雲が多く天候自体はよくなかったと記録されており、加えて橋本艦長の回顧録にも〝これ以上無駄な特攻による戦死者をこれ以上出したくなかった〟との一文が書かれています。<br /><br />伊58号潜水艦による雷撃が加えられたインディアナポリスは6本発射された魚雷のうち3本を受け、僅か15分程で沈没したとされています。日本海軍に於ける最後の大戦果と言われる重巡インディアナポリスの撃沈ですが、橋本艦長が撃沈したものがインディアナポリスだったということと、この艦艇が広島と長崎に落とされた原子爆弾をテニアン島まで運搬した後にレイテ島に移動する途中だったことを知ったのは戦後のことであったそうです。<br /><br />結局のところ回天関係に於ける戦績を列挙すると、下記のように撃沈3・大破1・小破4となっています。<br />昭和19(1944)年11月20日:給油艦Mississinewa(ミシシネワ)撃沈<br />昭和20(1945)年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破<br />昭和20(1945)年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈<br />昭和20(1945)年1月12日:弾薬輸送艦Mazama(マザマ)大破<br />昭和20(1945)年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破<br />昭和20(1945)年7月24日:駆逐艦Underhill(アンダーヒル)撃沈<br />昭和20(1945)年7月24日:駆逐艦Earl V. Johnson(アール・V・ジョンソン)小破<br />昭和20(1945)年7月28日:駆逐艦Lowry(ロウリー)小破<br /><br />そして母艦である潜水艇の雷撃による戦績は、撃沈1・大破1となっています。<br />昭和20(1945)年6月24日:工作艦Endymion(エンディミオン)撃破<br />昭和20(1945)年7月29日:重巡洋艦Indianapolis(インディアナポリス)撃沈<br /><br />終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は海軍兵学校・海軍機関学校・予科練・予備学生など、1,375人と言われていますが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名、その他整備員等を含めると回天による戦没者は145人に上ります。また訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多いものとなっており、紛れもなく志願した時からの必死兵器だったことが伺えます。<br /><br />日本軍が悪化する戦局を変えるために起死回生を図る兵器として考え出した特攻兵器。各種航空機を改良して作られた〝航空特攻兵器〟。その中には〝桜花〟のように自走することができず、母機である一式陸上攻撃機に吊るされて戦場まで運ばれたものもありました。そして海の中では酸素魚雷を改造して作られた〝回天〟の他に、〝震洋〟や四式肉薄攻撃艇〝マルレ〟等ベニヤ板で作られたモーターボートに爆雷装備をし、最後は起爆装置を押して自爆する〝人間魚雷・人間爆弾〟と言われるものが多く作られました。当初軍上層部も〝必死兵器〟に対する抵抗はかなり強いものがあったことが知られており、回天の生みの親となる黒木博司大尉と仁科関夫中尉の案も、脱出装置がないことを理由に却下されています。しかし戦況の悪化とともに資源に乏しい日本では、〝有る物〟を利用して作る〝必死兵器〟を望む声が高まります。最初は部隊レベルで言われ始めたことが軍令部や特攻部の〝何某〟やらに取り入れられ、神風を吹き込む必死兵器の開発が進みます。そして出来上がってきたものが各種の特攻兵器となりました。<br /><br />しかし航空機を含めた〝特別攻撃〟の戦果は、思っていたようには上がりませんでした。燃料もなく兵器を作る資材もない状態に既に日本は陥っていました。その中に於いて〝特攻兵器〟は『精神論』を掲げて、搭乗員の募集から訓練をしていたように思います。事実少ない戦果の中で敵兵に与えた〝恐怖感〟は想像を絶するものだったようで、〝戦争神経症〟と呼ばれる特攻を受ける姿を目の当たりにした敵兵に精神の変調をきたしたものが多発したとされる報告からも想像がつくものだと思われます。しかし逆に特攻兵器に搭乗して敵艦に突っ込んでいく若いが技術も未熟な兵士たちにも同様のことが考えられるようにも思います。搭乗前に書いた遺書では力強く書くことができても、実際に敵艦から攻撃を受ける中に於いてその敵艦に突っ込んでいくときにどのような思いがあったのか…今では知ることもできないことでしょう。<br /><br />また多くの武器や戦闘機の装備を変えることによって〝特攻兵器〟が作られるようになりました。先述した〝特別攻撃隊員〟には〝精神論〟を掲げることによって、死出の旅へと向かわせることを行いました。では特別攻撃へと向かう〝必死兵器〟と化した乗り物に爆装をして敵艦へと体当たりをするにあたり、通常の攻撃よりどれ位の戦果が期待されていたのかという素朴な疑問も残ります。航跡の残らない酸素魚雷を転用した回天であれば、自走式魚雷と考えて爆装を倍以上にしたものだとすると、破壊力を含め戦果は得られるとされたとしても不思議ではありません。しかしあくまで操縦するのは人間である時代故、搭乗員がベストな状態を保ち続ければという但し書きも入るに違いありません。しかし直径1mという狭い空間に加えて、目標に辿り着くには艇長の位置感覚と暗算によってであり、現在地の確認は短い潜望鏡のみであったという事実。それに加えて航走距離を伸ばすために改良した動力部分から排出される二酸化炭素や有毒ガスによる酸欠や中毒になり失神する危険性もあった。そのリスクも露見していたにも関わらず、根本的な解決策を取らないまま兵器として認め、戦局打開に向けて名付けられた回天という流れを見ると…運が良ければ戦果が〝上がるかも〟と思われていたのではと勘繰りたくなっても仕方がないのではないでしょうか。開発に携わった黒木博司大尉も訓練中の事故により、酸欠によって殉死されており、訓練中の事故で15名もの若者が命を落としています。また単独で長距離の航行ができない回天に於いて、作戦参加は潜水艦を母艦として戦場まで向かう必要がありました。回天の耐圧深度は80mとされており、それ以上の航行深度を潜水艦が取ることによって回天を〝破損〟させてしまう危険性がありました。制海権が奪われている戦況下で潜水艦の意味を果たさない航行をした結果、回天に纏わる作戦に於いて回天搭乗員80名に加え、潜水艦乗組員812名の戦死者を出しています。<br /><br />空の世界でも同様のことは起こっていました、『桜花』。機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器であり、母機に吊るされて目標付近で分離し発射された後、搭乗員が誘導して目標に体当たりさせるというものは、まさしく回天と潜水艦の関係と同じです。母機となる一式陸上攻撃機に吊るされて目標付近で切り離され、固体燃料ロケットでの推進が終われば『グライダー』の要領で滑空し、敵艦に突っ込むというものでした。連合国のコードネームとして〝Baka Bomb〟と言わせしめたものは、1200kgの徹甲爆弾を搭載してはいるものの、自重2.2tもあることから母機となる一式陸上攻撃機の速度・運動性ともに低下させることとなり、加えて航続距離の短い桜花を切り離すために十分な護衛機無しで敵艦の近距離まで到達することは必須であり、結果として母機である一式陸攻は〝愚鈍な爆撃機〟として敵戦闘機網を突破しなければならなかったため、結果として桜花を用いた特別攻撃が成功する確率は低く、母機もろとも撃墜されて未帰還になったものが大変多かったことが記録に残されています。もっとも最後はグライダーのように滑空しなければならないため、搭乗員のスキルによる大きな戦績の差というものもなかったようです。ただ〝自然の力〟を利用しているために、落下してくる速度によって加わる〝重力〟に押された〝爆弾〟が落下してくることが、脅威として連合国側では捉えられており、それ故に〝愚鈍な母機〟を狙えと命令されていたことも記録に残っています。しかし母機搭乗員も含め〝世界唯一の航空特攻兵器〟である桜花には脱出装置もなく、〝当たれば大きい〟と言われた蕾のままで多くの若者が逝ったこともまた事実です。<br /><br />ジュラルミン製の航空機が対空射撃の網を潜って目標を捉えられたとして、鋼鉄製の軍艦に体当たりをすると、余程狙いすませた場所に突っ込まない限り〝航空機特攻〟による戦績としては大したものではなかったとするのが一般的だと考えます。戦闘機が満身創痍の状態で敵艦に辿り着いたとしても、抱えてきた爆弾には衝撃と力学的なエネルギーを与え爆破に至らしめることはできるにしても、軽金属の航空機本体は鋼鉄の戦艦本体にぶつかったとしても潰れてしまうリスクが大変高かったことも記録に残っている事実です。その航空機の操縦員の命はありません。また敵艦に辿り着くまでに直掩機共々撃ち落されてしまうものが多かったこと。それが特別攻撃による戦死者の数に他なりません。<br /><br />先の大戦で行われた特別攻撃というものを私自身美化するつもりも、批判するつもりもありません。戦争の是非論に至ってもそうだと思うのですが、戦争を起こすことによって得をするのは、ほんの一部の権力者と武器を作っている会社、そしてその情報を流している者位ではないかと思います。確かに一部の軍上層部の中では〝自己の成績〟とばかりに特攻を推進したとされている者もおり、それを否定するつもりもありませんが、やはりそれが〝国策〟として流され、現状を打破するには考え方の変えなければならないというものが蔓延したことから出てきた案の行きついた先のひとつが特攻兵器だったように思えてなりません。<br /><br />それ故特攻兵器を考えたのは軍人であり、それを使ったのは軍であることには間違いないものの、現在平和教育として言われている十把一絡げに〝軍や軍人が悪い〟とする考え方もおかしいのではと思います。現在だからそのようなことが言える時代だということであって戦時中は〝非国民〟扱いされてしまっただろう発言を70余年前にできたかと言うと、多くの方は口を噤みます。考え方によっては〝教育〟によってそのような考え方をいたと語る方も居られるように、多数意見が少数意見を呑んでしまい、結果として当たり前のごとく多数意見が正しいものだと言われるのが今日ではないでしょうか。<br /><br />戦時中には〝お国のため〟として多くの前途ある若者がその崇高な理念を抱いて特攻を志願し、大海に散って行きました。そんな史実の中で考えられなければならないことのひとつである〝人間魚雷回天〟について。その足跡を辿るべく今回山口県大津(おおづ)島の回天記念館とその遺構、平生町の阿多田交流館と平生回天碑を訪れてきました。どちらも決して交通の便が良くない場所ではありますが、回天の訓練施設や基地があった街でもあり、気軽な気持ちで行ける場所ではないかも知れません。しかし70余年前に行われた戦争も、昨今の胡散臭い出来事に気を取られ、過去から学ばなければいけないことが蔑ろにされているように思ったことが、今回このふたつの場所を訪れる気持ちに私をさせました。<br /><br />史実を確認しながら書いていますが、表現によって誤解をかうこともあるかとは思います。誤記は指摘して頂き、事実が確認できた場合追記いたします。また今後新たな資料を見つけることができた時には追記を入れるかも知れません。

第二十七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~人間魚雷回天~

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2018/05/18 - 2018/06/05

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

回天とは太平洋戦争に於いて大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍最初の特攻兵器である。回天という名称は海軍特攻部長大森仙太郎が幕末期の軍艦〝回天丸〟から取って命名したとされ、また開発に携わった黒木博司海軍機関中尉(後に大尉・殉死により少佐)は、〝天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)〟という意味で〝回天〟という言葉を使っていたと言われています。

太平洋戦争末期に劣勢の続いていた日本海軍が武器として余剰となっていた『九三式酸素魚雷』を転用し、搭乗員が乗れるようにして自走することができるように改造された『特攻兵器』になります。それ以前にも真珠湾攻撃にも投入された小型特殊潜航艇『甲標的』という蓄電池式の潜航艇が昭和初期に発案・開発されました。しかし開発に携ったのが魚雷開発畑の人間だったこともあり、潜水艇というよりも〝操縦者付魚雷〟としての要素が強いものとなっています。

ただ当時の海軍としては〝必死兵器〟を取り入れない伝統があったとされており、魚雷肉攻案とはいえ、小型の潜航艇から発射する魚雷攻撃を行うものとして開発が進められて行きました。開発中にも色々と難点はあったものの日米開戦が時間の問題となる中で、甲標的の量産化に向けて改良が加えられて行く中では、やはり体当たり兵器ではないと言うことが開発の必須条件だったとは言われていたようです。つまり潜水艦に比べレーダーに感知されることの少ない小型潜航艇である甲標的からの魚雷攻撃を仕掛け、攻撃が終わると甲標的を母艦が回収するとの考えに基づいての戦法を取るというものだったようですが、どうやらここで大きな錯誤があり、日露戦争型の戦場を想定していたためにこのような考えがなされていたに過ぎませんでした。戦争の形態が艦隊主体ではなく既に航空戦力が主体となれいつつある時代を迎えており、艦隊決戦に於いて敗北を期したときに於ける甲標的の回収が不可能となることをほとんど考慮してはいなかったようです。

航空戦力が主体となる戦いに於いて甲標的による洋上攻撃が難しいとの考えが出る中で、泊地に於ける潜入攻撃を目的とする案が提出されることとなります。それは開発途上の甲標的に長い航続距離が望めないため、作戦地点までは伊号潜水艦の後部甲板に載せて輸送し港外にて甲標的を発進させて攻撃終了後に母艦と合流し、搭乗員のみ収容した後に装備の爆薬を用いるなどして自沈処分するというものでした。

昭和15(1940)年には試製甲標的が各種陸上試験と性能の調査に加えて潜水艦母艦からの発進試験が行われますが、一定の攻撃評価はされたものの洋上での基礎的な攻撃能力には疑念が持たれたままとなっていました。一説によると主な投入(予定)方法となる港湾襲撃に関しても性能の不足が懸念されており、実戦への投入が意をなさないものだといった意見もあったようです。実際に試験搭乗員の中には甲標的が実用に耐えられないと具申した者もいたようです。しかしそのような意見は結局のところ上層部が取り上げることはなく、意見した者が試験後に転出させられたという記録も残っています。そのような背景の中で甲標的は量産化されることとなりますが、結果として太平洋戦争の開戦までは僅か1年しかない中で兵器としての熟成や欠点の洗い出し、そして戦術の確立などといった戦力化するにあたっての問題解決を行うには到底十分な研究や改善・実験が行われることはなかったのが事実でした。それにも関わらず結局年内には兵器として『甲標的』は正式採用されることとなっています。

日本時間の昭和16(1941)年12月8日、日本海軍の機動部隊がハワイオワフ島の真珠湾を奇襲します。そこに投入された甲標的5隻でしたが、湾内には全て侵入できた説を信じるとしてそのうち1隻から発射された魚雷が戦艦 ウエストバージニア(West Virginia)とオクラホマ(Oklahoma)に命中し、戦艦オクラホマ撃沈の致命傷を与えたとされています。しかし甲標的が母艦に帰還することはなく、3隻が撃沈され雷撃を加えた1隻は自沈し1隻は座礁した結果5隻全てが未帰還となっています。

そして昭和17(1942)年5月30日のシドニー港攻撃では3隻が投入されるも2隻が自沈、1隻は魚雷攻撃を受け沈没しています。また同時期のマダガスカルの戦いでは2隻が投入され、戦艦1隻大破・油槽船1隻撃沈の成果を得るも1隻は座礁した後に搭乗員2名は地上戦で戦死し1隻は撃沈されて2隻とも未帰還となっています。つまり真珠湾奇襲に始まり、日本軍の勝利が巷に流されていた時期に投入された小型特殊潜航艇甲標的は全て未帰還となっている事実は〝知らされてはいなかった〟ということになります。

また実戦投入されて判明した水中に於ける〝運動性能の悪さ〟は、低速でも大型艦並みの約400mの旋回範囲を要するため小回りは効かず、水中での最高速度は19kt(約35km/h)とは言うものの1時間はもたないレベルであり、現実的な実行速度としては10kt(約18km/h)程度だったとされています。特に初期の甲標的甲型の航続距離は6kt(約11km/h)で80海里(約150km)程しかありませんでした。それも蓄電池しか搭載されていない甲標的甲型に於いては〝フル充電〟されていてはじめて上記の性能が発揮できるというものであったがため、なんらかの理由で電力の供給が遮断された場合には、ただの〝鉄の塊〟となってしまうものでした。搭乗員自ら解決できないことがシドニー港攻撃に投入された甲標的の1隻に起こってしまった事実があり、その解決策を講じることは不可欠となりながらも結局放置されたまま量産されることとなります。

その解決策を考案して実践したのが、後に人間魚雷回天を特攻兵器として具申をした黒木博司機関大尉(殉死後:少佐(以下同))と仁科関男中尉(戦死後:少佐(以下同))でした。黒木大尉は甲標的の機能改善にあたり自らの得意とする機関部に目を付けて、ディーゼルエンジンの発電機を搭載し自家充電を可能とします。これによって改良された甲標的丙型は航続距離が3.5倍になり、それが実戦投入されることにより帰還率も向上するという結果をもたらしました。しかし良いことばかりでもなく、限られた空間に設置されることにより元々劣悪だった艇内環境が更に悪くなり、内燃機関を発動することによって発する二酸化炭素や排ガスの増加・酸素の欠乏・艇内温度の上昇などによって搭乗員の疲労が増すこととなり、結果として潜航では12時間が限界だったとされています。

また小型潜航艇は敵艦にレーダーに捕まらないメリットはあったものの逆にデメリットも少なからずありました。荒天時の攻撃力は良好だとは言われていたものの現実には小型潜航艇の安定度は低いものであったと考えて間違いないでしょう。搭載された魚雷は普段発射管に収められておりそこへ空気を注入して射出することとなります。魚雷を撃ち出した際に1t近い浮力が生じるためそれによって艦首が跳ね上がり海面へ飛び出すなどしていた記録も残っています。加えてこの不安定な挙動のために魚雷もあらぬ方向に撃ち出されてしまい、結局狙った方向へ進まないという事態も頻発しています。

この不安定な挙動が収まるまでには30秒程度の時間を要しており、加えて不安定な状態で再発射しても正確な方向に魚雷は向かわないことから、雷撃の基本とも言える複数の魚雷を連続発射し、その魚雷散布の中に敵艦を入れるといった公算射法は行えずに単発発射を行うしかありませんでした。このような理由から敵艦に対する最適発射距離は約800mとされていたようです。

また甲標的は攻撃の前提となる外界に於ける索敵装備が長さ約3mの特眼鏡が一本しかありませんでした。電探・ソナーとも搭載されてはおらず、常に揺れる狭い視界に於いて目視で索敵を行うのは非常に困難だったと言われています。また3mという短い特眼鏡では必然的に浮上して敵艦艇を探さねばなりませんが、特に外洋の波の高い場所ではトリム(海中に於ける甲標的の位置的バランス)を維持するのは至難の技であり、一定の深度を保てないまま特眼鏡を使用できる露頂深度まで浮上してしまうと司令塔を露出してしまって敵に発見され、結果として目的を果たせず撃沈された甲標的も少なくはなかったと言われています。

また敵艦を発見し攻撃を加えるにあたっては、目標の進行方向や速度などから魚雷発射の方位やタイミングを算定するのが艇長の暗算のみに頼るといったものであり、加えて劣悪な艇内環境だったことも踏まえると集中力にかけた状態での命中率はたかが知れたものだったというのが事実だったようです。

その後改善は研究され続けたものの日本軍の拠点がどんどん失われる中で、フィリピンセブ島に置かれた第33特別根拠地隊では内海という地の利を生かせることも手伝って、戦果はともかく安定して攻撃と生還を続けることができたとの記録は残っています。しかし甲標的搭乗員は既に装備している雷装による攻撃や設備上の欠陥、そしてそれに基づく作戦遂行の難しさを理解しており、これで戦果を出すことそのものに疑問を抱くと同時に不満が噴出していたようです。既に制空・制海権が連合国に奪われていたご時世に於いて、元々は装備の雷装による攻撃を加える艦艇であり、その船体は搭乗員回収後に機密保持のために自爆させるための爆装を備えるという発案で開発されたもののはずが、魚雷という兵器に操縦席を設けて自走魚雷とする特攻兵器回天の開発につながって行くことになります。

周南市大津島。徳山港からフェリーで約40分の場所にあり瀬戸内海にぽっかり浮かんでいる小さな島です。高齢者の数が多く〝限界集落〟としても知られていますが、その分自然に溢れた場所となっています。

そんな大津島に終戦間近の昭和19(1944)年、人間魚雷回天の基地が作られました。元々海軍呉工廠で作られ〝余剰〟となっていた〝93式酸素魚雷〟を転用し、人間の手によって操縦できるような仕様にして敵艦艇に体当たりをして破壊する〝究極の特攻兵器〟として開発されたものが〝人間魚雷回天〟になります。昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北以降劣勢の続いていた日本海軍の起死回生のために開発が始まったものですが、当初海軍上層部には〝生きては帰れない兵器〟の採用には強い憂いを持っていました。しかし時代の流れはそれすら変えてしまい、脱出装置をつけることが〝兵器採用〟の条件とされていたにも関わらず、開発の難しさから断念しそのまま兵器として採用されることとなります。そして海軍兵学校や予科練出身の400名もの若者が〝志願〟して搭乗員となるべく全国から集まりました。

回天のベースとなった93式酸素魚雷の搭載炸薬量が最大780kgでしたが、回天は1,550kgの炸薬を装備しておりその破壊力は大型艦船でも一発で撃沈できるとされていたようです。それに加え操縦席には〝自爆装置〟が備え付けられていたことから、搭乗員の意思に関わらず最終的には〝自爆〟するものとなっていました。ハッチは艇内から開けられるものの外部からも工具で開ける必要があり、一般的に誤解されている脱出不可能ではなかったものの、決して現実的な方法ではなく、また一旦発射すれば〝回収〟を行うことは不可能であったことから文字通り〝片道切符の特攻兵器〟だったことは疑う余地がありません。

昭和19(1944)年11月20日、米軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地(現ミクロネシア連邦ヤップ州)に於いて、伊号第36潜水艦(搭載4基のうち1基)と伊号第47潜水艦(4基)搭載の回天一型〝菊水隊〟計5基が環礁内北部泊地に停泊中の米軍艦艇を攻撃し、戦果として米海軍給油艦Mississinewa(ミシシネワ)の左舷に一基の回天が命中し轟沈させました。しかしこの情報は戦後に確認されたものであり、一説には回天生みの親のひとりである仁科関夫中尉だと書かれているものもあるものの、実際には誰が乗り組んでいた回天が命中したものなのかは現在でも判明していないのが事実です。当時は〝戦艦〟を轟沈したとの戦況報告がなされたものの、実際には〝大型給油艦〟を轟沈させたものであり、その理由として〝形が似ていた〟給油艦に向かって行ったこと〝だろう〟との説が濃厚となっています。この菊水隊の戦況報告として残りの3基の回天が何らかの艦艇に命中し大打撃を与えたとされてはいるものの、その海域を取り巻く環境や時系列から判断すると、日の出より1時間20分も早い時刻に於ける最初の大爆発は闇の中の出来事であり、暗闇の中果たして搭乗員が〝目標〟を捉えることが可能であったか?との説によるものです。奇襲攻撃の〝秘匿〟という観点から早期の自爆は敵に警報を出すことになり、そのため攻撃開始時刻前の自爆は命令上〝してはならない〟とされていました。しかしその反面〝兵器の秘匿〟も今後の作戦への障害を考慮されていることから、浅瀬で座礁してしまった回天の搭乗員は〝艇内への浸水〟若しくはその他の理由により、戦術を含めて選択の余地がなかったのではないかと考えられており、その結果として〝早すぎる自爆〟が必然的に選択されたとされています。

その後正午近くになって大爆発があったことが記録されています。発射後7時間を経過した回天はやはり浅瀬のサンゴ礁に於いて座礁したものの、機会を見つけて敵艦艇もろとも爆発させようと考えていたようです。しかし体力的な限界を迎えてしまい最後は自爆したのではと考えられています。この7時間という時間は訓練中の事故によって殉死した発案者のひとりである黒木博司大尉がその遺書に認めたものと合致しています。遺書には2人搭乗の場合と書かれてはいるものの、訓練時とは違い実戦に於いて座礁したのであれば艇内が浸水したことも含めれば酸素が予想以上に減ることは容易に想像できることだと考えます。

また他の一基の回天はウルシー泊地東のムガイ水道に於いて、東北東へと浮上航走しているところを警戒中の掃海艇に発見されています。その後島影を見つけ反転し真南へと進む〝潜望鏡〟が駆逐艦Case(ケース)に発見されるものの米第五巡洋艦戦隊旗艦である重巡洋艦Chester(チェスター)を攻撃しよう目論見ます。魚雷発射のために占位運動中と判断したケースは潜望鏡が(ケース側ではなく)チェスターを向いたままであるのを見て〝体当たり〟しての駆逐を決定し、浮上航走中の潜航艇に艦首を向けてその左側から乗り切って中央部を切断し、続いて旋回しつつ機雷を投下しました。

この回天のその後は不明となったままになりますが、この艇のとった攻撃パターンは元々の用途としては考えられていないものでした。つまり泊地に於いて停泊中の敵艦を奇襲攻撃する構想のもとに回天自体が作られたものであって、航行中の艦艇の攻撃を意図してはいませんでした。それゆえに搭乗員は〝最高の目標〟を〝一方的に選んで突撃〟すればよいと確信していたところもあり、目標艦以外の警戒とか敵弾回避や爆雷攻撃に配慮することなどは搭乗員も考えておらずまた注意も受けていなかったことが挙げられます。また体当たりをする筈が逆に体当たりをされてしまったことも想定外の出来事であり、加えて発射後2時間を経過していたことから座礁せずに航行することを続けていた搭乗員自身かなり疲れていたことも考えられています。

直径1m程の回天操縦席に於いて一人暗闇の世界にジャイロコンパスひとつで潜行し、目標艦を見つけるも命中と同時に自動的に爆発させる慣性信管・手動電気スイッチ・安全装置すべてがこの回天に於いては解除されていなかったことが確認されており、搭乗員にはその余裕すらなかったのではと考えます。その一方で回天に体当たりを仕掛けた駆逐艦ケースからすると、九死に一生を得たことには違いありません。当然のことながらまだ〝回天〟というものが知られておらず、1時間程前に起こった大爆発の原因にまさか体当たりを仕掛けることは、〝知らない〟からできたことに他ならないと考えることが答えではないでしょうか。

そして一基の回天はMississinewa(ミシシネワ)を捉えて沈没させています。同様にもう一基泊地内に侵入した回天は軽巡洋艦Mobile(モービル)に向けて突進しているところを発見され、モービル艦載の5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を受けました。機銃弾の命中と5インチ砲弾の至近弾を被弾したことにより潜航艇は潜入して行き、その後水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が同艦左舷正横に近付くも50m程で見えなくなったと記録されています。勿論この際にはまだ〝回天〟の存在は知られておらず、魚雷なのか潜水艇なのかわからない状態に於いて、モービルからは〝魚雷が艦首の下を通り抜けた〟との通報がなされたようです。そのため出動可能な護衛駆逐艦群が出航し警戒に当たりますが、間もなく南側に錨泊中の軽巡洋艦Biloxi(ビロクシ)との間の海面に直径7~8m程の〝滑らかな水面をした変わった渦〟を発見します。渦の中心部分で海水が旋回運動をしているように見えたとされる渦は、モービルの真横から全速突撃に入った回天が前部に受けた40mm機銃弾の炸裂によって出来た破孔から浸水し前が重くなっていたためか、或いは横舵系統を破壊されたかによってそのまま水深42mの海底に真っ逆様に突入した後、燃料の続く限り全速回転を続ける〝スクリュー〟が海水を攪拌して海面まで渦が届いていたものではないかと考えられています。その渦を横切るようにして航行した複数の駆逐艦(艦艇不明)から爆雷攻撃が加えられ、小一時間後には完全破壊されたと記録されています。その際に連続投下された爆雷の衝撃によって回天のハッチが開き、艇内に残っていた空気とともに搭乗員と日本文字の書かれた〝某(座布団説)〟が海面に上がってきたことが〝魚雷ではないもの〟であったとされている理由になっているようです。一説には浮き上がった搭乗員は〝泳いでいた〟とする記述も見受けられるもののそれを確定する根拠もなく、戦死した搭乗員も誰なのかはわかっていません。

この戦闘に於いて母艦から5基の回天が発射され、艦艇に命中したのは僅か1基に過ぎません。しかも戦果は戦艦と形の似ている〝給油艦〟でした。その戦果も戦後の話であり〝どのようにして戦艦轟沈〟に仕立て挙げたのかは、戦時中なので…の理由になってしまうのでしょうか。

通常回天はハッチを閉めると、操縦席は電球一つの暗い空間しかありませんでした。身動きの取れない密室で回天を操るのは困難を極め、かつ攻撃時には水深5mで航行して目標に接近し一度浮上して目標物の位置を確認しなければなりません。勿論この際に敵から発見されないようにわずかな時間で確認することが求められており、その後は何も見えない中でコンパスと時計だけを頼りに突き進んで行くこととなります。実際に訓練では海底に突入する或いはエンジンが止まるなどの事故が続出しており、実戦投入を前に黒木博司大尉他15名の殉死者を出しています。そのような状況下でほとんど改善策を取られることもなく実戦に投入された回天でしたが、当然出撃を繰り返すも犠牲者ばかりを増やし大きな戦功を得られることもなかったようです。

そして沖縄戦も事実上終結し日本の敗戦が決定していた昭和20(1945)年7月24日午後、フィリピンルソン島沖で回天特攻隊〝多聞隊〟の回天6基を搭載した伊号第53潜水艦が米軍輸送船団を発見しますが、戦闘準備が整った時には既に船団は通り過ぎた後であったため魚雷や回天で攻撃するにはあまりにも無理な体制となっていました。そのような理由から艦長大場佐一少佐は魚雷発射・回天発進ともに諦めようと考えますが、回天搭乗員たちが発進を強く希望したこともあり、回天多聞隊隊長勝山淳中尉(戦死後:少佐(以下同))艇の発進を決定します。船団がどんどん離れて行く中で大場艦長は急いで「艦は今敵船舶の後方東側にいる。攻撃目標は輸送船攻撃船」と命令し進出針路・航走時間などを勝山淳中尉に指示しています。指示を受け勝山艇は母艦を発進し敵船団へと突進して行きました。

後続の回天の発進は大場艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めます。そして勝山艇の発進約40分後に目標の方向で重厚な爆発音を聴取したため大場艦長は潜望鏡を上げて敵艦が燃えているのを確認しています。その様子は航海長も確認しており、視野一杯に大量の黒煙が立ち上っていたことから回天が命中した相手は油槽船であろうと推定し、一旦現場を離脱したのちに〝大型輸送船一隻轟沈〟と第六艦隊に打電報告しています。実際にはこれが護衛駆逐艦〝Underhill(アンダーヒル)であったのですが、勝山艇が左舷に突入した際の衝撃によって、先ず艦橋右舷で爆発が起きた数秒後に前部弾薬庫が誘爆し、爆発の衝撃によって艦橋は吹っ飛んでいます。船団の中の一艦艇を狙うには情報が少なかったこともあり、旗艦であるアンダーヒルとは認識していなかったことが伺えます。

このとき伊53号潜水艇が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦7隻と冷蔵輸送艦〝Adria(アドリア)〟、そして護衛駆逐艦〝Underhill(アンダーヒル)〟他9隻の護衛艦が付いているという大規模なものでした。沖縄に於ける日本軍の組織的抵抗が昭和20(1945)年6月23日に終結し、戦いに参加していた第96師団の兵員と戦車揚陸艦を休養と補給のためにフィリピンに送り届ける任務に就いていた途中でした。船団の隊形は護衛を受ける8隻が2隻ずつ4列の編隊を組みながらその中央の前方3,000mに指揮艦〝アンダーヒル〟が位置して先導し、他の駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながら速力9~10ktで航行していたとされています。

回天発射の約20分後大型駆潜艇から旗艦アンダーヒルへ〝潜水艦の情報〟が伝えられます。駆潜艇の周りを行ったり来たりした潜水艦こそ勝山淳中尉の回天であり、約20分浮上と潜行を繰り返した後駆逐艦アンダーヒルへと再突入します。この衝突の瞬間は記述がないものの〝回天の突入〟とともに護衛駆逐艦アンダーヒルが〝体当たり〟を敢行したと思われるような記述も散見します。

ウルシーでの駆逐艦ケースによる〝体当たり〟によってその〝魚雷のようなもの〟を撃沈させた教訓から行われた攻撃ではないかとも考えられますが、何れにせよ〝突入モード〟に入った回天に対しては自爆行為に過ぎず、結果アンダーヒルは大爆発を起こします。これが人間魚雷回天の戦績に於いて〝誰〟が挙げたかを特定できる〝唯一の戦果〟となっています。

アンダーヒル船上では〝魚雷が突っ込んで来る!〟との叫び声が出た直後に艦橋の右舷で物凄い大爆発が起りました。火柱が300mの高さまで奔騰し、煙は高さ5,000mにまで及んだと記録されています。この爆発により〝アンダーヒル〟は真っ二つに折れ、艦橋は消し飛んだとの記録が残っています。

旗艦の爆発を受けて駆潜艇がソナー等で浮かんでいるアンダーヒル後部の艦体の周囲を旋回し、針路をジグザグに絶えず変えつつ潜水艦探索を続けながら短艇を下ろし、海面を泳ぐ生存乗員17名を救助するも再び潜望鏡を発見してことによりエンジン全開で現場を脱出します。そしてしばらく時間を置いた後今度は船体後部に横付けして乗員を収容しようとしましたが、その最中に再びにソナー探知と潜望鏡を確認したために急遽中断して離れています。そのような状況がもう一度あったようですが他艇の援護や周囲警戒の元にアンダーヒルへの横付けをやり直し生存乗員の収容を終えています。

回天の攻撃を受けたアンダーヒルは、真っ二つに折れながらも浮かんでいたようです。しかし残った残骸は曳航可能とは判断されたものの、周辺海域に潜む日本軍の〝小型潜航艇〟がソナーで感知され続けたことが要因となり、その海域に留まることが危険と判断されたことにより砲撃処分が決定します。駆潜艇群が全砲火を使って処分を開始し始め、まず傾斜していた艦の前部を、そのあと後部に取りかかったものの時間を要し結果すべて沈め終わるのに2時間を要しています。

その後同海域に潜伏し続けた伊53号は、再び船団を捕捉し後方へ離脱した後に戦闘態勢を整えますが、やはり距離と角度の点で魚雷戦や回天戦には不利と判断するも、やはり回天搭乗員からの出撃要請を受けて、川尻勉一飛曹の2号艇のみを発射させます。記録では1時間後に黒煙確認とはなっているものの、該当する艦船の被害記録はないようです。その後元の配備海域に戻る際に米駆逐艦に捕捉されて爆雷攻撃を受けることとなります。休みなく続けられた爆雷攻撃によって主蓄電池が破損したため一切の動力が停止し電灯も消えてしまいます。その際に再び回天搭乗員からの出撃要請を受け、大場艦長もいつまで母艦が持つかとの考えもあり、残存艇による〝回天戦用意〟を命令します。訓練もしていなかった深度40mからの発進となったものの、関豊興少尉(戦死後大尉)の5号艇に次いで荒川正弘一飛曹(戦死後少尉)の3号艇が発射され、それぞれ発射後30分程で目的方向での大音響を感知し、探知の結果周囲の対潜艦艇数が1隻減、推進器音は2隻となった後聞こえなくなったと記録されてはいるものの、漆黒の海の中に於いて爆雷攻撃によってソナーや電探が作動していない中、目視で確認できるものなのかという疑問が残ります。事実爆雷の衝撃によって2隻の回天は機器が故障し発射不能となり、艇内で意識を失っているところを収容されて生還されています。状況的に判断するならばこの3回の回天の発射に続いて起こったのは艇内に設けられている〝自爆装置〟によって起こったものと言うのが正論だと思われます。

そして何かと比較論に出される昭和20(1945)年7月30日未明の回天多聞隊を乗せた〝伊58号潜水艦〟による重巡洋艦Indianapolis(インディアナポリス)の撃沈。これも回天の戦果とするものが散在するものの、これは回天搭載の潜水母艦による〝雷撃〟による戦果だということが判明しています。潜望鏡で敵艦艇を戦艦クラスと確認した艦長橋本以行中佐は、取り敢えず回天搭乗員に出撃命令を下すと共に魚雷戦用意の命令を下しています。最初こそは回天による特攻攻撃も考えたものの敵艦を完全に捕捉していることもあり、魚雷による攻撃でも充分と判断し回天での攻撃は取り止めています。回天の特徴を知る橋本艦長は回天の特眼鏡は性能が悪いため夜間の攻撃に向いてはいないと判断します。もっとも回天搭乗員は橋本艦長に対し何度も出撃の催促を行う場面もあったが〝通常魚雷で沈められるときは通常魚雷で攻撃する〟と自身の意見を述べて却下しました。その日の天候は月が出ていて潜水艦の夜間用潜望鏡では視認可能であったものの、雲が多く天候自体はよくなかったと記録されており、加えて橋本艦長の回顧録にも〝これ以上無駄な特攻による戦死者をこれ以上出したくなかった〟との一文が書かれています。

伊58号潜水艦による雷撃が加えられたインディアナポリスは6本発射された魚雷のうち3本を受け、僅か15分程で沈没したとされています。日本海軍に於ける最後の大戦果と言われる重巡インディアナポリスの撃沈ですが、橋本艦長が撃沈したものがインディアナポリスだったということと、この艦艇が広島と長崎に落とされた原子爆弾をテニアン島まで運搬した後にレイテ島に移動する途中だったことを知ったのは戦後のことであったそうです。

結局のところ回天関係に於ける戦績を列挙すると、下記のように撃沈3・大破1・小破4となっています。
昭和19(1944)年11月20日:給油艦Mississinewa(ミシシネワ)撃沈
昭和20(1945)年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
昭和20(1945)年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
昭和20(1945)年1月12日:弾薬輸送艦Mazama(マザマ)大破
昭和20(1945)年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破
昭和20(1945)年7月24日:駆逐艦Underhill(アンダーヒル)撃沈
昭和20(1945)年7月24日:駆逐艦Earl V. Johnson(アール・V・ジョンソン)小破
昭和20(1945)年7月28日:駆逐艦Lowry(ロウリー)小破

そして母艦である潜水艇の雷撃による戦績は、撃沈1・大破1となっています。
昭和20(1945)年6月24日:工作艦Endymion(エンディミオン)撃破
昭和20(1945)年7月29日:重巡洋艦Indianapolis(インディアナポリス)撃沈

終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は海軍兵学校・海軍機関学校・予科練・予備学生など、1,375人と言われていますが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名、その他整備員等を含めると回天による戦没者は145人に上ります。また訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多いものとなっており、紛れもなく志願した時からの必死兵器だったことが伺えます。

日本軍が悪化する戦局を変えるために起死回生を図る兵器として考え出した特攻兵器。各種航空機を改良して作られた〝航空特攻兵器〟。その中には〝桜花〟のように自走することができず、母機である一式陸上攻撃機に吊るされて戦場まで運ばれたものもありました。そして海の中では酸素魚雷を改造して作られた〝回天〟の他に、〝震洋〟や四式肉薄攻撃艇〝マルレ〟等ベニヤ板で作られたモーターボートに爆雷装備をし、最後は起爆装置を押して自爆する〝人間魚雷・人間爆弾〟と言われるものが多く作られました。当初軍上層部も〝必死兵器〟に対する抵抗はかなり強いものがあったことが知られており、回天の生みの親となる黒木博司大尉と仁科関夫中尉の案も、脱出装置がないことを理由に却下されています。しかし戦況の悪化とともに資源に乏しい日本では、〝有る物〟を利用して作る〝必死兵器〟を望む声が高まります。最初は部隊レベルで言われ始めたことが軍令部や特攻部の〝何某〟やらに取り入れられ、神風を吹き込む必死兵器の開発が進みます。そして出来上がってきたものが各種の特攻兵器となりました。

しかし航空機を含めた〝特別攻撃〟の戦果は、思っていたようには上がりませんでした。燃料もなく兵器を作る資材もない状態に既に日本は陥っていました。その中に於いて〝特攻兵器〟は『精神論』を掲げて、搭乗員の募集から訓練をしていたように思います。事実少ない戦果の中で敵兵に与えた〝恐怖感〟は想像を絶するものだったようで、〝戦争神経症〟と呼ばれる特攻を受ける姿を目の当たりにした敵兵に精神の変調をきたしたものが多発したとされる報告からも想像がつくものだと思われます。しかし逆に特攻兵器に搭乗して敵艦に突っ込んでいく若いが技術も未熟な兵士たちにも同様のことが考えられるようにも思います。搭乗前に書いた遺書では力強く書くことができても、実際に敵艦から攻撃を受ける中に於いてその敵艦に突っ込んでいくときにどのような思いがあったのか…今では知ることもできないことでしょう。

また多くの武器や戦闘機の装備を変えることによって〝特攻兵器〟が作られるようになりました。先述した〝特別攻撃隊員〟には〝精神論〟を掲げることによって、死出の旅へと向かわせることを行いました。では特別攻撃へと向かう〝必死兵器〟と化した乗り物に爆装をして敵艦へと体当たりをするにあたり、通常の攻撃よりどれ位の戦果が期待されていたのかという素朴な疑問も残ります。航跡の残らない酸素魚雷を転用した回天であれば、自走式魚雷と考えて爆装を倍以上にしたものだとすると、破壊力を含め戦果は得られるとされたとしても不思議ではありません。しかしあくまで操縦するのは人間である時代故、搭乗員がベストな状態を保ち続ければという但し書きも入るに違いありません。しかし直径1mという狭い空間に加えて、目標に辿り着くには艇長の位置感覚と暗算によってであり、現在地の確認は短い潜望鏡のみであったという事実。それに加えて航走距離を伸ばすために改良した動力部分から排出される二酸化炭素や有毒ガスによる酸欠や中毒になり失神する危険性もあった。そのリスクも露見していたにも関わらず、根本的な解決策を取らないまま兵器として認め、戦局打開に向けて名付けられた回天という流れを見ると…運が良ければ戦果が〝上がるかも〟と思われていたのではと勘繰りたくなっても仕方がないのではないでしょうか。開発に携わった黒木博司大尉も訓練中の事故により、酸欠によって殉死されており、訓練中の事故で15名もの若者が命を落としています。また単独で長距離の航行ができない回天に於いて、作戦参加は潜水艦を母艦として戦場まで向かう必要がありました。回天の耐圧深度は80mとされており、それ以上の航行深度を潜水艦が取ることによって回天を〝破損〟させてしまう危険性がありました。制海権が奪われている戦況下で潜水艦の意味を果たさない航行をした結果、回天に纏わる作戦に於いて回天搭乗員80名に加え、潜水艦乗組員812名の戦死者を出しています。

空の世界でも同様のことは起こっていました、『桜花』。機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器であり、母機に吊るされて目標付近で分離し発射された後、搭乗員が誘導して目標に体当たりさせるというものは、まさしく回天と潜水艦の関係と同じです。母機となる一式陸上攻撃機に吊るされて目標付近で切り離され、固体燃料ロケットでの推進が終われば『グライダー』の要領で滑空し、敵艦に突っ込むというものでした。連合国のコードネームとして〝Baka Bomb〟と言わせしめたものは、1200kgの徹甲爆弾を搭載してはいるものの、自重2.2tもあることから母機となる一式陸上攻撃機の速度・運動性ともに低下させることとなり、加えて航続距離の短い桜花を切り離すために十分な護衛機無しで敵艦の近距離まで到達することは必須であり、結果として母機である一式陸攻は〝愚鈍な爆撃機〟として敵戦闘機網を突破しなければならなかったため、結果として桜花を用いた特別攻撃が成功する確率は低く、母機もろとも撃墜されて未帰還になったものが大変多かったことが記録に残されています。もっとも最後はグライダーのように滑空しなければならないため、搭乗員のスキルによる大きな戦績の差というものもなかったようです。ただ〝自然の力〟を利用しているために、落下してくる速度によって加わる〝重力〟に押された〝爆弾〟が落下してくることが、脅威として連合国側では捉えられており、それ故に〝愚鈍な母機〟を狙えと命令されていたことも記録に残っています。しかし母機搭乗員も含め〝世界唯一の航空特攻兵器〟である桜花には脱出装置もなく、〝当たれば大きい〟と言われた蕾のままで多くの若者が逝ったこともまた事実です。

ジュラルミン製の航空機が対空射撃の網を潜って目標を捉えられたとして、鋼鉄製の軍艦に体当たりをすると、余程狙いすませた場所に突っ込まない限り〝航空機特攻〟による戦績としては大したものではなかったとするのが一般的だと考えます。戦闘機が満身創痍の状態で敵艦に辿り着いたとしても、抱えてきた爆弾には衝撃と力学的なエネルギーを与え爆破に至らしめることはできるにしても、軽金属の航空機本体は鋼鉄の戦艦本体にぶつかったとしても潰れてしまうリスクが大変高かったことも記録に残っている事実です。その航空機の操縦員の命はありません。また敵艦に辿り着くまでに直掩機共々撃ち落されてしまうものが多かったこと。それが特別攻撃による戦死者の数に他なりません。

先の大戦で行われた特別攻撃というものを私自身美化するつもりも、批判するつもりもありません。戦争の是非論に至ってもそうだと思うのですが、戦争を起こすことによって得をするのは、ほんの一部の権力者と武器を作っている会社、そしてその情報を流している者位ではないかと思います。確かに一部の軍上層部の中では〝自己の成績〟とばかりに特攻を推進したとされている者もおり、それを否定するつもりもありませんが、やはりそれが〝国策〟として流され、現状を打破するには考え方の変えなければならないというものが蔓延したことから出てきた案の行きついた先のひとつが特攻兵器だったように思えてなりません。

それ故特攻兵器を考えたのは軍人であり、それを使ったのは軍であることには間違いないものの、現在平和教育として言われている十把一絡げに〝軍や軍人が悪い〟とする考え方もおかしいのではと思います。現在だからそのようなことが言える時代だということであって戦時中は〝非国民〟扱いされてしまっただろう発言を70余年前にできたかと言うと、多くの方は口を噤みます。考え方によっては〝教育〟によってそのような考え方をいたと語る方も居られるように、多数意見が少数意見を呑んでしまい、結果として当たり前のごとく多数意見が正しいものだと言われるのが今日ではないでしょうか。

戦時中には〝お国のため〟として多くの前途ある若者がその崇高な理念を抱いて特攻を志願し、大海に散って行きました。そんな史実の中で考えられなければならないことのひとつである〝人間魚雷回天〟について。その足跡を辿るべく今回山口県大津(おおづ)島の回天記念館とその遺構、平生町の阿多田交流館と平生回天碑を訪れてきました。どちらも決して交通の便が良くない場所ではありますが、回天の訓練施設や基地があった街でもあり、気軽な気持ちで行ける場所ではないかも知れません。しかし70余年前に行われた戦争も、昨今の胡散臭い出来事に気を取られ、過去から学ばなければいけないことが蔑ろにされているように思ったことが、今回このふたつの場所を訪れる気持ちに私をさせました。

史実を確認しながら書いていますが、表現によって誤解をかうこともあるかとは思います。誤記は指摘して頂き、事実が確認できた場合追記いたします。また今後新たな資料を見つけることができた時には追記を入れるかも知れません。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 徒歩
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あみんちゅ戦争を学ぶ旅

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