2014/12/14 - 2014/12/17
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園編~
2014年7月に訪れた沖縄戦跡国定公園の”黎明之塔”に端を発した戦争史跡巡りですが、沖縄県豊見城市の旧海軍司令部壕に続いて、宜野湾市の嘉数(かかず)高台公園にやってきました。
現在この場所は、公園と言う名の通り老若男女問わず市民の憩いの場となっていますが、今から70年前の昭和20(1945)年4月8日(4月7日の説もあります)から16日間、沖縄本島に上陸した米軍を、陸軍第62師団を中心とした第32沖縄守備軍が迎え撃った嘉数の戦い(かかずのたたかい)の戦場となった場所です。
昭和20(1945)年4月1日に北谷・読谷村の沖縄島西海岸に上陸した米軍は、日本軍が主力部隊を南部に配置していたこともあり、さしたる抵抗を受けることなく北飛行場(後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)を占領します。当時米軍は対日本戦において航空機支援の必要性を第一に考えており、そのため飛行場の確保と復旧は最優先課題とされていました。
そして4月3日には、東岸の中城湾に到達し、本島は南北に分断されてしまいます。また日本軍の主力部隊は南部に集中していたため、米軍はさほどの損害も出さずに3週間程で沖縄島北部を制圧することになります。米軍の資料によると沖縄島北部制圧のために出た戦死傷者数は1,300人程度とされています。
沖縄島上陸を果たした米軍主力部隊は、首里にある第32沖縄守備軍司令部を攻略すべく南下します。水際から進行を阻まれていた陸軍第62師団歩兵63旅団独立歩兵第12大隊(大隊長:賀谷興吉大佐)の遅滞戦闘を振り切り、遂に4月5日嘉数の北隣に位置する八五高地で陸軍第62師団歩兵63旅団独立歩兵第13大隊(大隊長:原宗辰大佐)とアメリカ陸軍第24軍団第96師団歩兵383連隊(連隊長:エドウィン・T・メイ大佐)との戦いが始まります。これが皮切りとなり、沖縄戦で最も熾烈を極めた「嘉数の戦い」の幕が切って落とされることになります。
加えて4月6日、沖縄近海の米軍艦隊に対する「菊水一号作戦」・「第一次航空総攻撃」 (4月6日~11日)が発令され、海軍機391機(うち特攻機215機)、陸軍133機(うち特攻機82機)が九州・台湾の航空基地を飛び立ちます。菊水一号作戦での特攻機の未帰還機は海軍162機、陸軍50機に及び、341名が特攻により戦死したとされています。この航空特攻によりアメリカ軍艦艇の被害は、損傷27・沈没2・海没処分2とあり、少なくはない数であったことが米軍資料に残されています。
当時の第32沖縄守備軍司令部は、首里を防衛する北の第一防御ラインとして、標高70mの西嘉数と標高90mの東嘉数を結ぶ約900mの稜線を嘉数高地(七〇高地)として、首里を防衛する最後の砦と考えていました。また嘉数は沖縄島中部に位置する宜野湾に位置しており、高地が多く陣地が作りやすかったこともあり、日本軍はその地形を利用して陣地を作りました。また日本軍は低地に洞窟陣地やトーチカを築いて斜面の反対側から米軍兵士や戦車を狙撃しました。この地の利を生かせて構築された「反斜面陣地」からの攻撃(反斜面攻撃と呼ばれるもの)により米軍戦車に死角を発生させ、圧倒的に劣る兵力・火力をカバーして頑強に抵抗したため、嘉数では日米双方とも多数の犠牲者を出すことになります。特に米軍の戦死傷者は24,000人(12,000人の説もあります)にのぼり、そのため嘉数のことを「死の罠」「忌々しい丘」などと呼んでいたそうです。ちなみに米軍の参戦兵力は180,000人で、うち沖縄戦における戦死傷者が84,000人となっていることから如何に嘉数が激戦だったかは想像がつくと思います。もっとも日本軍とて同様で、参戦兵力60,000人に対し死傷者は64,000人にのぼります。この日米双方死力を尽くした嘉数の戦いは、沖縄戦における最大級のものであることに違いありません。また日本軍の戦死傷者が参戦兵力を上回っていると言うことは、大多数の地域住民も戦闘に巻き込まれて犠牲になったことをはっきり表しています。
当初戦闘が始まった頃は歩兵と砲兵戦闘が主流でしたが、軍備に勝る米軍は中盤には戦車を続々と導入します。中盤までは両軍とも一進一退の攻防が続き、日本軍は部隊の配置換え・陣地再構築・部隊兵員増強・武器弾薬増強などを行い防備を整えます。一方米軍も師団再編成や攻略に適当と思われる工兵などの部隊・連隊の配備・歩兵戦力・戦車戦力の増強や作戦変更などを行って再攻撃に備えていました。
そして昭和20(1945)年4月19日からとされる終盤戦では、両軍の周到な準備を整えて望んだことから、前半戦にはなかったような熾烈さを極め、両軍に多くの死傷者を出すことになります。兵力火器共に上回る米軍でしたが、日本軍の地形を利用して構築された洞窟陣地や、反斜面攻撃を用いた極めて組織的な戦闘により、進路を阻まれさらに苦しめられることとなります。特に4月19日の「嘉数の対戦車戦」として知られている向かうところ敵なしの米軍M4シャーマン戦車部隊30両に対し、地雷により3両、速射砲で4両、高射砲で9両、爆雷を抱え突入する特攻日本兵による肉薄攻撃で6両の計22両を破壊する結果を残します。
しかしその後は劣勢が続き、大勢が決する23日までの間、終日嘉数の各戦線で熾烈な白兵戦、対戦車戦が繰り広げられ、嘉数戦のほとんどの死傷者、負傷者がこの終盤戦から出ることになります。物理的に米軍が勝つことは明らかではあったものの、この嘉数台地を含む第一防衛ラインでの日本軍は、軍備はもとより約10倍もの兵力に対し15日もの間持ちこたえて善戦し、大損害を与えました。その抵抗の凄まじさから一日で100mしか進めない日もあったことが米軍の記録に残っています。
しかしこの戦いで米軍は塹壕(ざんごう)や洞窟陣地からの攻撃で懲りたため、その陣地を無力化し内部の将兵や民間人を殺害する悪名高き「馬乗り戦法」を行うようになります。馬乗り戦法とは、壕の入口を攻撃で塞ぎ、壕の位置を特定してその上の場所に穴を掘りそこからガソリンを流し込んで火をつけて壕内の人間を焼死させる、若しくは爆薬と火炎放射器、手榴弾を用い壕内を焼き立て、壕から出てきたところを手榴弾や機銃で打ちまくるという徹底的な「皆殺し戦術」です。砲爆撃を避けて壕内に入り、敵の接近に気付かずに出入口を制圧されてしまうと、壕内の兵は完全に戦闘能力を失ってしまいます。勿論複数の陣地が互いに連結して防御戦線を形成している場合や、反撃口を備えた壕であれば、丘の上で呑気に穴を掘っていると、別の陣地もしくは壕の銃眼から射撃を受けるのでそんな余裕はありません。しかしいとも簡単に崩すことができる簡易壕や、孤立した陣地の場合には、何の抵抗を受けることも無く攻略することが可能です。その上米軍からすると味方の人的損害も出さない戦法だったことも沖縄戦末期に甚大な悲劇を生む要因になったと考えられます。
昭和20(1945)年5月6日、嘉数を退いて再編された日本軍部隊が戦闘を繰り返していた第二防衛ラインの中核である前田高地も陥落し、それにより第32沖縄守備軍司令部本隊は、首里を捨て南下して行くことになります。司令部が喜屋武(きゃん)半島の摩文仁に拠点を置いたことにより、沖縄戦末期の南部における甚大な数の民間人犠牲者を出す悲劇が起こることになります。
現在嘉数戦跡地は嘉数高台公園として整備され、頂上には地球儀をモチーフとした三階建ての展望台が、広場には遊具施設等があり老若男女問わず楽しめる場所になっています。しかし公園入口には弾痕の残る壁(移設保存)、かつて日本軍が立てこもった地下壕入口や前面が砲弾で破壊されたコンクリート製のトーチカ(以前は中に立ち入ることができたようですが、今は出来ないようです)などが残されています。そして頂上付近には沖縄戦での戦没者慰霊塔として「京都の塔」、「嘉数の塔」、「青丘の塔」等が建立されています。そのことがここ嘉数の戦いの悲惨さを静かに語り継いでいるように思います。また奇しくもこの展望台からは、間近にオスプレイの離発着が見られる米軍嘉手納基地を望むことができ、沖縄の複雑な立場を終戦後70年たった今でも実感させられます。
ここで嘉数高台公園頂上部の慰霊碑を紹介します。
「京都の塔」は、嘉数に投入された第62師団独立混成旅団に京都出身の将兵が2,536名含まれており、そのほとんどが故郷を離れたこの嘉数の地で戦死されています。その戦没者の慰霊のため昭和39(1964)年4月29日に建立されました。その際に当時の園部町長(現南丹市)だった野中広務氏が建立に尽力されたそうです。先の大戦において沖縄では日本全国から将兵が集まって戦いました。そのため沖縄戦の慰霊碑は、沖縄県を除く46都道府県で建立されています。沖縄戦では軍人よりも民間人の戦死者が多かったにもかかわらず、碑文において住民のことに触れているのはこの「京都の塔」と「群馬之塔」だけだそうです。この「京都の塔」の碑文には、京都出身の将兵とともに戦闘に巻き込まれて亡くなった沖縄の民間人についても同様に哀悼の意を表して冥福を祈っており、碑文の内容も○○柱(ちゅう:犠牲者の数を表すもの)、英霊(えいれい)、玉砕(ぎょくさい)、御霊(みたま)など戦争をイメージする言葉が見当らないという特徴があります。そこには戦争そのものが理由はどうあれ殺し合いであり、多くの民間人も犠牲になっていることを忘れてはならないという意味が込められているそうです。
【京都ゆかりの部隊】
第62師団独立混成旅団
【師団長】藤岡武雄中将
第62師団歩兵第63旅団
【旅団長】中島徳太郎少将
第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第13大隊
【大隊長】原宗辰大佐
(嘉数高台を守備した主力部隊)
第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第14大隊
【大隊長】内山幸雄大尉
第62師団歩兵第64旅団
【旅団長】有川主一少将
第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第15大隊
【大隊長】飯塚豊三郎少佐
「嘉数の塔」は、沖縄京都の塔奉賛会が建てた碑であり、「京都の塔」と同じ敷地内にあります。碑文にもある通り嘉数集落には日本軍が駐留しており、住民の過半数を超える犠牲者を出しました。この地で米軍を迎え撃つ日本軍は肉薄攻撃をし玉砕しました。その多くが京都出身の将兵であり、この際嘉数の人々は京都部隊を援助、輸送等の任務につき、外地に出征した人もあわせ343人の犠牲者を出しました。これは区民の過半数を占めます。そのことは本土防衛の使命感に殉じた区民の誠意によるものであり、永久に英勲を讃え芳名を塔下に埋蔵すると言う慰霊の意味を込め、昭和50(1975)年6月10日に建立されました。
「青丘之塔」 とは、先の大戦で亡くなった韓民族(韓国・朝鮮人)を祀った碑になります。「青丘(せいきゅう)」とは朝鮮半島のことを指し、昔中国大陸から半島を大陸側から見た様子からそう呼ばれます。沖縄戦では386人の韓民族出身の軍人軍属が戦死されています。それを昭和46(1971)年5月にこの嘉数の地に祀り建立した慰霊塔が「青丘之塔」になります。現在の板門店のある北緯38度線上の小石38個を写経と共に碑礎に鎮められているそうです。
ここまで嘉数の戦いの場所・戦況・現状を書いてみました。ひとつ誤解のないように言うと、私は別に軍事マニアではありませんので、時系列における戦況や戦術に関するものは、素人目線の辻褄合わせの部分が結構あるように思います。
嘉数の戦いを含む沖縄戦で、意外と「確定論」が曖昧にされていることのひとつである「沖縄戦をいつからいつまでとするか」を仮定論を交えて書くことにします。沖縄島における戦闘に限って言うと、昭和20(1945)年4月1日のアメリカ軍の上陸作戦に始まり、6月23日の第32沖縄軍司令官牛島満大将の自決で幕を閉じることになります。しかし牛島司令官の自決も6月22日と言う説もあり、組織的戦闘は6月21日に終わっているとも言われています。しかし沖縄にアメリカ軍が攻めてきたという観点からだと、慶良間諸島上陸の3月26日が沖縄戦の始まりというのが正しいように思います。これらが日本軍側から見た説です。
戦闘開始は1週間程の違いですが、終了に関してはかなりのばらつきがあります。一般的には牛島司令官が自決された6月23日で、これが現在の沖縄全戦没者追悼式典の日、つまり沖縄「慰霊の日」になっていますが、こちらも以前は6月22日に行われていた時期もあります。しかしアメリカ軍は6月23日以降「掃討作戦」と称し戦闘を続け、「作戦終了宣言」を出したのは7月2日となっています。そして8月15日、昭和天皇の玉音放送のもと、無条件降伏をした敗戦の日になりますが、牛島司令官の自決後司令官不在状態で混乱していたこともあり、奄美・先島群島の三人の陸海軍司令官(代行)がアメリカ軍と降伏文章に調印したのは9月7日でした。しかしここでおかしな話になっています。8月15日に太平洋戦争は終わっているはずなのに沖縄戦は終わっていないことになります。
また日本軍の組織的戦闘が終わり(6月23日とします)、アメリカ軍の掃討作戦も終わった(7月2日とします)にも拘らず、住民や一部の日本兵は掃討戦から免れた壕やガマの中で「戦闘状態」の生活が続いていました。また周辺離島でも戦闘こそなかったものの音信不通の状態で、いつ空襲があるのか不安な中で過ごしている状態も続いていました。結果終戦も武装解除も知らずそのまま臨戦態勢を崩さず、年が明けてから投降をした事実も残っています。
諸説はありますが、敗戦色濃厚だった6月18日(とされる)「ひめゆり学徒隊」「鉄血勤皇隊(健児隊)」への解散命令時期も時期的に被るところがあります。沖縄島南部の摩文仁一帯という極めて限られた地区での戦闘中でのこの命令、「死出の旅」に同行させなかったという擁護論はありますが、やはり砲弾の飛び交う戦地に放置されたと捉える意見が多いのも確かです。
一つの仮説として「一億総玉砕」の命令を出したまま、牛島司令官が自決したこともあります。勿論日本軍は「軍隊」なので、司令官が倒れても代理が出て指揮を執るのが当たり前だと思うのですが、しかし上位組織の第10方面軍(台湾)は動かず、海軍沖縄根拠地隊司令官大田實中将は既に6月13日に、隷下の第62師団長藤岡武雄中将は6月22日はそれぞれ自決されています。唯一第24師団長雨宮巽中将が、糸満国吉台地の壕に籠って徹底抗戦をしていましたが、結局6月30日に自決されます。各部隊間が既に孤立状態であったこの時期、既に軍としての指揮系統は完全に崩壊していると考えるのが正しいように思います。摩文仁司令部の混乱に加え、当時の劣悪な通信事情によって、司令官自決の事実や大本営発表が沖縄本島全域に伝わらなかったことも戦闘終結を長引かせた理由であり、その指揮系統無き戦闘継続により民間人を含めた犠牲者を増やしてしまったことは容易に想像がつきます。
それに対し、時期を同じくして6月18日、アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)のサイモン・B・バックナー中将が前線視察中に砲撃を受け戦死されます。しかし即座に司令官代行をたて、6月23日には後任の司令官が着任します。結果その後10日間、沖縄戦は継続されることになります。
日本軍が混乱している中、アメリカ軍の掃討作戦による犠牲者は増えてゆきます。6月23日を組織的抵抗の終了とするなら、なぜこの7月2日の作戦終了まで10日間の期間があったのでしょうか。
摩文仁の日本軍司令部は、牛島司令官他の自決により事実上陥落しています。しかし隷下の第24師団は、糸満市の宇江城集落のクラガー(自然の洞窟)に移動し、日本軍最後の抵抗拠点としています。その凄まじさ故に掃討作戦が強化されることになり、この宇江城集落では、住民の戦没者比率94.0%と沖縄戦で最も民間人が巻き込まれた集落として知られることとなります。そして6月28日にはクラガー入口が爆破され、6月30日雨宮中将以下幕僚の自決により、日本軍としての戦闘は終了します。そしてこのクラガー内部を米軍が立入り、雨宮師団長以下幕僚の遺体を確認したことにより7月2日、掃討作戦を終了させたとされています。これが10日のタイムラグとされる根拠です。
これも仮説の域の話になりますが、組織的抵抗は軍という「序列ある集団組織」としての話であり、司令官無き部隊将兵は一兵卒にしかならないという考えです。防衛隊の応召兵を含め、圧倒的不利な状況で戦わざるを得なかった将兵は、今までの戦いで経験的にゲリラ戦を知っていたに違いありません。その戦法はどんなに卑怯と言われようとも、負けると殺される状況だったならやらざるを得なかったでしょう。しかし今までのゲリラ戦は「隊長」の命令、つまり「指示」があるものでした。勿論玉砕覚悟の戦闘はあったにしろ、それはあくまでも命令であって、師団大隊中隊小隊の一歩兵隊員がそれを熟慮することはなかったでしょう。それがこの司令官無き状態になると、「どうしたらいいのか?」という「極地の選択」を常に自分で判断しなければいけない状況に晒されてしまうことになります。同じ時期の「学徒隊」にも言えることですが、「命令」も与えられない状況で、散乱・累積する屍を踏み越えて、追いかけられる砲爆撃・戦車・火焔放射器から逃げ惑わないといけない中、沈着冷静でいられる訳もありません。
その後の扱いはともかくこの時期に「捕虜」として将兵を含む約7,000名が収容されることとなります。ただこれも「怪我を負っていた」「気を失っていた」等自分の意思とは無関係だったことが多くの理由であり、武器もない学徒隊を含む民間人のほとんどが取った行動とは…。それが結果として十数万人と言われる民間の犠牲者を出した悲劇そのものだと思います。
「軍隊が南部に来たから犠牲者が増えた」ことは事実ですが、その一方「米兵はなにをするかわからない」的な考えも少なからずあり、そのため「兵隊さん」が集落に居ると守って貰えるという「安心感」もあったようです。事実将兵と民間人が仲睦まじく暮らしていたという話は生存者の方の話にも出てきます。しかしその「兵隊さん」と「地元の方」の姿がどのようなものであったかは今となっては知る由もありませんが、その「親密さ」故、米軍の「掃討作戦」の標的にされてしまったところはあるようで、特に一家全滅の悲劇があった集落などでは、少なからず語られている話だと聞いています。勿論このような内容には必ず逆説論が付いており、軍の命令で沖縄人の「フリ」をして溶け込んで米兵を欺くといった作戦だったという解釈もあります。裏をかいた戦術だったとしても情報が米軍には筒抜けでした。その結果無差別な掃討作戦が行われたことこそ、この時期に沖縄戦における相当数の死傷者数を出した理由だとは容易に考えられます。
その一方で上官がいたからこその話もあります。昭和20(1945)年8月15日正午、日本国敗戦。ほとんどの日本軍部隊が沖縄本島で玉砕した中で、唯一連隊クラスで終戦を迎えたところがあります。第24師団独立歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、山形で召集された部隊であり、その連隊本部と第1大隊(大隊長:伊藤孝一大尉)は、摩文仁の司令部壊滅後それぞれ連絡が取れぬまま糸満の国吉台地の壕に隠れながら終戦以降もゲリラ戦を戦い続けられました。8月22日、米軍の捕虜となった下士官を連れた米軍の将校が大隊陣地を訪れます。武装解除の要求ですが、勿論最初は信じられなかったことだったそうです。そして軍使として米軍司令部へと通う際、先に捕虜になっていた第32沖縄守備軍高級参謀八原博通大佐に逢うことで、やっと敗戦を知り武装解除を聞き入れるように連隊長に進言します。その後米軍との交渉を一任された伊藤大隊長は、米軍との間で8月29日に第32連隊(正しくは第2大隊は除く)は武装解除することを約束します。そして武装解除前日の8月28日の夜、明治31年以来の伝統と栄光を持つ、第32連隊の軍旗が奉焼(ほうしょう:丁寧に焼くこと。また敵の手に渡らないようにするという意味もあります)されます。連隊長は最後まで「降伏」の言葉は出さず、「これより、天皇陛下の命により、米軍の方へ赴くが、よろしく頼む」と部下将校に残し投降します。この時の人数は諸説あるので定かではありませんが、一説では約300人近い数の命が投降によって救われたとされています。またこの時には連絡が取れていなかった第32連隊第2大隊(大隊長:志村常雄大尉)の約200名も敗戦を一足早く知った伊藤隊長の訪問を受け、9月4日に武装解除、そして投降しています。個々の人の器はともかく、これだけの命が助かったことから「的確な判断」だったとは思います。
昭和20(1945)年9月2日、日本政府が降伏文書調印。同年9月7日、沖縄嘉手納基地において南西諸島の全日本軍を代表して先島群島日本軍司令官(陸軍第28師団長)納見敏郎中将が奄美群島日本陸軍司令官(陸軍独立混成第64旅団長)高田利貞少将と奄美群島日本海軍司令官(沖縄方面根拠地隊参謀長)加藤唯雄海軍少将と共に降伏文章に署名し、第10軍司令官ジョセフ・W・スティルウェル陸軍大将が受託しました。この降伏調印により沖縄戦は正式に終結します。
諸説あるのを踏まえても、やはり沖縄本島が攻める側守る側双方に於いて戦略上の要の場所であり、またそこで行われた地上戦こそが、軍属はもとより民間人をも巻き込んで大多数の犠牲者を出してしまったことに疑う余地はありません。まして軍司令官の自決により学徒隊に対する解散命令、現地召集された防衛隊員の方々が隊長不在の状況で銃弾が飛び交う南部の戦地に取り残されてしまったことが、筆舌に尽くしがたい状況に晒されたことは、生還された方の手記からもわかる話です。
では沖縄戦を回避する手段はあったのかというと、私には思い当たりません。これが即ち沖縄が「捨て石」にされたという意見の根拠かも知れませんが、元々決まっていたものではなく、なるべくしてなった「結果論」というのが正しいように思います。
本土決戦の前哨戦が台湾ではなく沖縄だとわかったときに、在台湾の総勢10万とも20万とも言われる第10方面軍本隊が沖縄に回ったとすれば、将兵数がいる状況では現地召集の数は減った、若しくは時期が遅くなったことは考えられます。しかしあの小さな沖縄の地に日米軍合わせて数十万の兵が犇めき合うなか、やはり結果として熾烈な戦場になったことは想像できます。
また連合国の最終的な目的が本土攻略ならば、主流となる航空戦隊の飛行距離を延ばす台湾を拠点にするかというと、素人が考えてもありえないと思います。戦略上の要の地であるがために戦場にならざるを得なかった沖縄の地の宿命をどのように表現するか、適当な言葉を見つけることができませんでした。
しかし「捨て石」論の軍関与の根拠とされる昭和20年1月19日大本営発表の「帝国陸海軍作戦計画大綱」との相関関係には、いささか疑問点が残ります。「帝国陸海軍作戦計画大綱」に記載がある「皇土特ニ帝国本土ノ確保”、”縦深作戦遂行上ノ前縁」、「極力敵ノ出血消耗ヲ図ル」という言葉から「沖縄の地」が本土決戦のための「遅滞作戦」を行う場所として捉えられていたとされています。しかし元々「大綱」とは概略を示す言葉であり、記述の中に「場所」を特定する文言は入っていません。当時の戦況から推測すれば、台湾、朝鮮半島、沖縄のうちどれかだとは想像することはできますが、それは日本軍「”前線基地」となりうる要素を持つ場所だということはわかっても、そのなかで「沖縄」に限定してしまうには無理があると思います。
つまり米軍が台湾でなく沖縄へやってきたことによって、沖縄が「国内最大の地上戦」の舞台になってしまったという結論になります。そして圧倒的に数で勝る米軍兵力に対し、日本軍は現地召兵や学徒隊等様々な形で民間人を軍へと徴用します。武器も経験もない絶望的な状況にあっても熾烈な戦いを繰り広げて抵抗しました。そのため「帝国陸海軍作戦計画大綱」における「遅滞作戦」としてはそれなりの結果を出しました。しかしそれに纏わる被害は甚大なもので、沖縄県の一般住人約95,000人、沖縄出身軍人・軍属(学徒隊・防衛隊・義勇隊等)約30,000人、県外出身日本兵(=正規軍)68,000人の計193,000人の尊い命が失われています。
沖縄の地が戦場になってしまったことは紛れもない事実です。しかしそれ「結果論」であって、事前の戦略としては決まっていたものではないということです。結果論として出てくる「捨て石」論ならば解釈は同じだと思われがちですが、過程論を蔑にしての結果論ならば、それは「誰かが言っている」から、「そう聞いた」からなどの「言葉の受け売り」にしかなりません。過程論があるから生きてくる結果論が意味を成すのであって、過程論を熟慮せずした結果論の導き方では、あまりにも悲しい「無関心」の無限連鎖による「事なかれ主義」を尚更助長することに他ならないように思います。
また「言葉」の捕らえ方にも思うことがあります。有名なところでは「ひめゆり部隊」という標記、勤労女子学生は半強制的な徴用に似たものではありましたが、軍の指揮の下にある軍人ではないため「部隊」とは異なります。女子学生の「勤労奉仕」であれば「部隊」ではなく、「学生勤労奉仕隊」を意味する「ひめゆり学徒隊」にするのが正しいとされています。もっとも現在では「通称」として「ひめゆり部隊」の呼称も使われているようですが、やはりそこは定義付けを明確にした方が良いようには思います。
「沖縄捨て石」説も然りで、「捨て石」となったという文言で片付けてしまうことは、その「捨て石」の戦争で亡くなった方々の命は「それだけの価値」しかないと決めつけることにならないでしょうか?戦没者の方々すべてが、希望して亡くなった訳ではありません。崇高な目的(内容は割愛します)のため、ひとつしかないご自分の命を捧げられたに違いありません。しかしその理由が「捨て石作戦」でとなると、亡くなられた方を冒涜しているようにも聞こえます。やもするとそれが差別発言と捉えられてしまうかも知れません。このように「言葉」ひとつの使い方で、解釈がひっくり返ってしまうこともあります。知らず知らずに使っている言葉が、使い方や「裏打ちがされているか」などを適宜検証していかないと、知らないうちに自分の意図とは全く正反対のことを述べてしまうことにもなりかねないことを危惧します。
このあたりの話になると必ず「右翼」「左翼」的思想として扱われることが多いように思います。それに加えてどっちつかずの「中途半端な思想主義」のこじつけと言われてしまうもの知れません。しかしどちらかに偏って論ずることは公平に語ることを阻害し、結論「軍」か「民」をいたずらに誇張する以外なにものでもありません。「戦争」というものが思想論を用いて簡単に語れるものでもなく、また語ろうともしたくないのが私の想いです。
例え今後どのような立派な答えが出たとしても、残念ながら沖縄戦の悲劇が消える訳でもありません。また犠牲となった方々が70年の時を超えて生き返るわけでもありません。ベタな言い方ですが、今を生きる私達ができることは、犠牲者の方々の慰霊とあの熾烈極まりない沖縄戦の悲劇を繰り返さないようひとりひとりが他人事ではなく自分のこととして再認識することこそが必要なことではないでしょうか?それには個々それぞれが過程論に基づく答えを持ちながら次世代へと語り継ぐこと、それが沖縄戦の悲劇を二度と繰り返さないことではないかと思います。
折しも戦後70年を迎える2015年、沖縄はもとより日本全国各所で慰霊祭や戦争を風化させないためのシンポジウムが開催されると聞いています。
押しつけの大義名分だけの平和教育はもうたくさんです。それより身近な人々が、なにげに「平和」について語り合うことの方がよっぽど価値があるように考えます。
最後に新聞記事より抜粋した記事について述べてみます。
新聞記事からひとつ興味深いものを見つけましたので紹介します。
≪あす「慰霊の日」 5大学1,129人、3割「由来知らない」≫
2009年6月22日琉球新報より一部抜粋
23日の「慰霊の日」を前に琉球新報社は16日から4日間、県内4年制総合5大学の学生(1,129人)を対象に沖縄戦について知識や意識を問うアンケートを実施した。その結果、沖縄戦を学ぶことは99.4%が「大切」と答えた。その内訳は「とても大切」88.1%、「ある程度大切」11.2%とほとんどが「大切」と回答。沖縄戦について小中高校の授業で学んだことがある学生は91.9%、戦跡や平和資料館に行ったことがある人も95.2%と多かった。
※「沖縄戦を学ぶ」ことは大切に違いありませんが、正しくは「沖縄戦を正しく学ぶ」ではないでしょうか?
6年前であれば、「戦争体験者」の方の生の声を聴くチャンスも今よりも多かったと思います。年々それが少なくなることは目に見えていることですし、そうなると「机上の創造論」が増えることも予測できたはずです。「問題提起」をするのであれば「解決策」も講じて頂きたかったと思います。
「大切」の判断が「とても大切」と「ある程度大切」を合わせたものであるとすれば、戦後70年たった2015年にはその考えもが「風化」してしまい、割合が減るとは考えなかったのでしょうか…。
牛島満司令官が自決した日として定められた「慰霊の日」の由来を「知らない」と答えた学生が29.4%に上ったほか、今年は沖縄戦終結から何年かとの質問で「64年」と正しく回答できたのは61.6%にとどまった。
沖縄戦の体験継承に関心や意欲が強い一方で基礎的知識に課題があることが浮き彫りになった。
※「慰霊の日」=牛島司令官自決の日=6月23日とするには無理があります。
1961年に当時の琉球政府が「慰霊の日」を制定したときは6月22日でした。現在は諸説のもと、1965年より6月23日に替わっています。そして1972年の日本返還の際に、日本国憲法適用により「慰霊の日」の法的根拠はなくなります。その後1974年に「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、6月23日が「慰霊の日」と定まりました。また休日扱いも1961年から1971年までは確かにそうですが、1972年5月15日に日本に返還されると、「国民の祝日に関する法律」に基づき平日扱いになります。1991年沖縄県の自治体が休日条例で「慰霊の日」を休日としたことにより、改めて休日となりました。
※戦後○○年というのは「昭和」生まれなら足し算引き算が解ればまず答えられた問いだと思います。昭和60年だと「40年」というように。つまり「元号年数-20年」だとわかりやすいですが、この昭和末期から平成初期生まれの場合はその計算ができないことがほとんどです。1989年=平成1年まで考えないといけないことになるとまず無理でしょう。2009年-1945年=64年という答え方を期待するのかも知れませんが、それは今の平成生まれをターゲットにするともっとシビアな答えが出てくるように思います。
「沖縄戦の激戦地跡 開発で取り壊し 前田高地後方陣地」(平成26(2014)年6月2日琉球新報)
沖縄の地に於ける開発には是非論があります。昨年6月に新聞も取り上げられたことですが、嘉数高地同様沖縄戦の中でも熾烈な戦場だった前田高地の後方陣地跡が市の区画整理によって壊されてしまうとのことでした。戦跡の保存は、戦後の平和しか知らない世代に「負の遺産」として語り続けなければならないものであるとは思います。しかしその一方沖縄の地すべてで戦闘があった歴史的事実を踏まえれば、ひとことで戦跡保全と言ってしまうと、すべての開発事業を抑制してしまい、結果沖縄の発展を妨げてしまうことにならないかと危惧します。その点は十分考慮し、地場産業等沖縄に住む方々に本当に必要とされるものに関しては、遺跡と同様十分な調査をした上で認めるべきだと思います。しかし一般的にリゾート開発等「博打的」なものに関しては、様々な立場の方々によって慎重に審議する必要性を感じます。確かに一見生活面で便利になることは良いことのように思われがちですが、実際沖縄に限らず歴史のある街などで安易にリゾート開発をさせてしまった挙句破綻を招き、結果その後の再開発もできずに「ゴーストタウン化」してしまった例は山ほどあります。「都市化伝説」と銘を打った乱開発は、結果としてなにも生みません。「部外者が無責任に言うな」と言われるかも知れませんが、今なお大地に眠っている多くの戦没者の方々が、「大義名分」に翻弄される沖縄の姿を見て喜ぶ訳はないと思い、この場で生意気を承知で言わせて頂きます。
戦争そのものにはイデオロギーと呼ばれる「統一的世界観」もなければ、「道徳観」もありません。あるのは冷酷な勝利の計算式だけであり、その過程は殺し合いでしかなく、導き出す答えは「破壊と憎しみの無限連鎖」であることには永久に変わることはありません。
これで"あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園編~"を終わります。
以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~
以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~
【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877
【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914
【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023
【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454
【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537
【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699
【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539
【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120
≪2015.Jun≫あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄その弐之①~嘉数高台公園再検証編~
http://4travel.jp/travelogue/11031433
※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー Peach
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
沖縄島中部宜野湾市にある、"嘉数高台公園"へとやってきました。
時刻は既にPM7:24、あたりはさすがに真っ暗です。嘉数高台公園 公園・植物園
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迷いに迷って辿り着いた、嘉数高台公園。
地図上だとわかり辛いのでナビの画面を。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、入口の地点案内看板。
光源がないのでこんな感じでしか撮れませんでした(泣)。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園の地図。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園の地図。
嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)
住所:沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5番地
座標:北緯26度15分31.5秒
東経127度44分13.5秒
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E127.44.20.463N26.15.17.010&ZM=9嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園園内マップ。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、頂上に向かう階段。
右側には"弾痕の残る塀"があります。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、入口の案内板と弾痕の残る塀。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、入口看板横にあった"弾痕の残る塀"。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、弾痕の塀の説明文。
戦前の嘉数は家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、日本軍が駐屯し陣地構築を始めると、軍靴の音が響くようになりました。
米軍上陸後の嘉数は日米両軍の主力が激しい攻防戦繰り広げた場所となり、住民はもとより、住みなれた家屋敷なども大きな被害を受けました。
戦場となった嘉数では、日米両軍の銃弾・砲弾が雨あられのごとく降り注ぎました。
この弾痕の塀は、それを物語るものです。
宜野湾市嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、中腹部の"陣地壕"案内看板。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園の頂上にある慰霊碑群のひとつ島根の塔。
【訂正】
嘉数高台公園の頂上にある?島根の兵奮戦之地?の塔。都道府県別の慰霊碑である?島根之塔?は糸満市の米須霊域にあります。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、陣地壕跡。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上付近にそびえる数々の慰霊碑と慰霊塔。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にそびえる、京都の塔。
沖縄戦の慰霊碑は沖縄県を除く46都道府県で建てられています。沖縄戦では軍人よりも民間人の戦死者が多かったにもかかわらず、住民被害に触れているのは京都の塔を含め2基しかありません(もう一つは群馬県のもの)。また文面におい ても特徴的で○○柱、英霊、玉砕、御霊などの様な語句がありません。
1 所 在 地 沖縄県宜野湾市嘉数(嘉数高台公園内)
2 建立年月日 昭和39年4月29日
3 敷地面積 331 ?
4 合祀者数 2,536柱 (沖縄戦戦没者)
5 管理団体 社団法人 沖縄京都の塔奉賛会嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にそびえる、京都の塔と脇の千羽鶴。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にそびえる、京都の塔の説明文。
【碑文】
昭和二十年春沖縄島の戦いに際して京都府下出身の将兵二千五百三十有余の人びとが遠く郷土に想いをはせひたすら祖国の興隆を念じつつ、ついに砲煙褌雨の中に倒れた。また多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶えない。とくにこの高台付近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈をきわめた。
星霜十九年を経ていまこの悲しみの地にそれらの人びとの御冥福を祈るため京都府市民によって「京都の塔」が建立されるにいたった。
再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないよう、またあわせて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるよう、この塔に切なる願いをよせるものである。
昭和三十九年四月二十九日嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にそびえる、京都の塔(修復記念のもの)。
【碑文】
第二次世界大戦が終了した当時、この付近一帯は戦火のため樹木も無く焦土と化し、トーチカの残骸のみが寂しくあったそうです。
私たちの先輩が昭和三十九年、石垣を築いて慰霊塔「沖縄京都の塔」が建立されたのであります。それから三十余年の間、樹木も茂り付近一帯も公園として美しくなりました。しかし乍ら、風雨と植生のため、石垣の崩落と基壇の崩壊が危惧されてまいりました。
平成九年、私たちはその修復工事にとりかかり、浄財の募金を始めましたところ、多くの方々のご協力を賜わり、平成九年十二月に修復工事は完了しました。
これからも、この慰霊塔が、私たちの平和への願いをかなえる礎となりますことを、また此処沖縄との絆の証にともなりますことを祈り、且つ、誓うものであります。
平成十年二月九日
社団法人 沖縄京都の塔奉賛会嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にそびえる、京都の塔・その碑文・石灯籠。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、嘉数の塔。
これは嘉数の住民が建てた碑であり、京都の塔と同じ敷地内にあります。碑文にもあるとおり嘉数部落には日本軍が駐留しており過半数を超える死亡率となった。
「嘉数の塔」碑文
昭和二十年四月一日 物量を誇るアメリカの大軍宜野湾に上陸す 迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣性にしてただ日夜肉弾また肉弾ここ嘉数の丘に玉砕す これ京都府出身の兵士 この時嘉数の人々は京都部隊を援助し時に乏しき食糧をさき また傷痍兵を助け 或いは輸送の任につき ついに軍務に服する者もあり戦死者出す 加うるに遠く異郷に征き戦歿して帰らざる者九十二名と併せて三百四十三名の犠牲者を出だせり 村民の過半数なり 同時に家屋百六十戸殆ど灰燼に帰す これひとえに本土防衛の使命観に殉じたる嘉数区民の至誠によるものなり いま万感の涙をのんで戦歿者の芳名を記し石棺に納め永久に英勲を称えこの塔下に埋蔵す われ等は戦争なき平和の波動を全世界に及ぼさんため最大の努力を傾注する誓をたてここに嘉数の塔を建立す
みたまのご冥福を祈ること切なり
昭和五十年六月十日嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、嘉数の塔。両隣の千羽鶴とともに。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、頂上付近にあるトーチカ。
先程の"陣地壕"とはつながっているようです。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、頂上付近にあるトーチカ。
トーチカとは、ロシア語で「点」や「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。このトーチカは鉄筋コンクリート製で厚さは最大1メートルあり、内部は2メートル四方で大人が3名ほど入れる広さです。北側の比屋良川(ひやらがわ)に向けて射撃するための銃眼(じゅうがん)が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して米軍を攻撃しました。
トーチカには弾痕が無数にあり、鉄筋がむき出しになるほど破壊され、激しい戦闘を物語っています。裏側の開口部は、日本兵が出入りするためのものです。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にて、観光名所宜野湾嘉数高台の碑。
なぜか後ろにトイレがあります。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、頂上部にある展望台。
嘉数高台公園 公園・植物園
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【資料用】
嘉数高台公園頂上にある展望台。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にて、"弔魂の碑"。
嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園頂上にて、"青丘之塔"。
嘉数高台にある"青丘之塔"とは、先の大戦で亡くなった韓国人・朝鮮人を祀った碑です。"青丘"とは朝鮮半島のことで、昔中国では 半島を中国側から見た様子からそう呼んだそうです。戦場で彼らはもっとも弱い立場であり、もっとも危険にさらされたようですが、この碑のように韓国人・朝鮮人の事にふれた碑は珍しいようです。
【銘・碑文】
嗚呼 ここ沖縄の地に太平洋戦争の末期、かつて日本軍たりし韓民族出身の軍人、軍属386柱が散華(さんげ)し侘(わび)しく眠っておられます。
ここに思いをいたし日本民主同志会は38度線板門店の小石38ヶを写経と共に碑礎に鎮め、イデオロギーと国境と民族を超越し人道主義を遵奉し、哀(かな)しき歴史を秘めたこれらの御霊(みたま)を慰霊顕彰するために、最も激烈なる戦闘を展開した戦跡嘉数の高地に志を同じくする諸賢、あわせて関係機関並びに地元嘉数地区の御協力を得て、韓民族出身沖縄戦没者慰霊碑「青丘之塔」を建立し永久に英勲を讃えます
昭和46年5月吉日嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、頂上から見た夜景。
那覇方向なので右方向が普天間基地(だと思います)。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園にて、頂上から見た夜景。
普天間基地の方向(だと思います)。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数高台公園 公園・植物園
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この旅行記へのコメント (1)
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- まむーとさん 2015/03/11 16:07:49
- なるほど!
- こんにちは!
難しくて自分の中に全て取り込めない私の頭脳がもどかしいです。
【過程論があるから生きてくる結果論が意味を成すのであって、過程論を熟慮せずした結果論の導き方では、あまりにも悲しい「無関心」の無限連鎖による「事なかれ主義」を尚更助長することに他ならないように思います。】
捨石捨石と聞いていたので、最初から捨石の印象があり、こちらとしては(ヤマト)何とも言えない気持ちになっていましたが、なるほど、過程があってこの結果になったと考えると納得です。
どんな人でも人間の心を無くしてしまう残酷な戦争は悲惨の連鎖です。
日本の見かけは平和だけれど、怪しげな平和を感じます。
無関心にならずアンテナをはっていきたいと思います。
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